以下、スピノザ神学・政治論下光文社文庫20:06より

しつこいようだが、国とは人間を理性的存在から野獣や自動人形におとしめるためにあるので
はない。むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼
らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒りや騙し合いのために
争ったり、敵意をつのらせ合ったりしないためにある。だとすると、《国というものは、実は
自由のためにあるのである。》

《》内をマルクスが抜き書き(鷲田小彌太『スピノザの方へ』161頁参照)

マルクスの『神学・政治論』研究の理論射程
http://chikyuza.net/archives/59516
参照:
内田弘「スピノザの大衆像とマルクス」『専修経済学論集』第34巻第3号、2000年3月

マルクスはつぎの文に注目し抜粋する(MEGA,IV/1,S.240)。
「人間は、安全にかつ立派に生活するために、必然的に一者に(necessario in unum)結合しなけれ
ばならなかった。しかもその結合によって人間たちは、各人が万物にたいして自然から与えられ
た権利を共同して所有する(collectives habeo)ようになった。またその権利がもはや各人の
能力と欲望によってではなく、万人の力と意志によって決定されるようになったのである」…

マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた

「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、
彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
(ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)

しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。

エチカ4:73
 定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に
従って生活する国家においていっそう自由である。