したがって、「いそ(勤)ふ」ことが「流されることに逆らう」ように働くことを表現 するとすれば、「いそ(急)ぐ」=「沃(い/yi)≒"pouring (down)"+す≒"let"+ぐ」 ことは、五月雨を集めた最上川が「急流」となるように「流される流れに乗る」こと をイメージさせる表現となるだろう。 0307考える名無しさん2021/01/17(日) 11:58:16.520https://www.youtube.com/watch?v=SgdByk9A0j00308考える名無しさん2021/01/18(月) 04:56:50.640 つい先日の共通テストの倫理でベンヤミンの 『歴史の概念について』が出たようだな。 0309考える名無しさん2021/01/18(月) 10:35:38.300 Erloesungを解放と訳すか救済と訳すかで議論になるわけだが 出題者は野村修訳に依拠したみたいね 0310考える名無しさん2021/01/18(月) 12:09:25.640 野村修訳は岩波文庫で出ていて、鹿島徹訳は未来社から出ているが、 鹿島徹は岩波書店から歴史をテーマにした単行本を出しているのが何とも言えない所。 0311考える名無しさん2021/01/20(水) 09:51:28.610 「いそ(急)ぐ」が、「流される流れに乗る」ことをイメージさせる表現である と考えられることを見たが、「はや(速/早)い」の「はや」も、しばしば、 流れに関連してイメージされることは、「流行(はや)る」と表記されること からも分かる。ただし、「はや」という表現を、それを構成する要素から 解釈する場合、「は」は、「葉(は)」や「羽(は)」などの場合と同じく 「広がり」を想起させ、「や」は、「勢いのある方向性」を想起させる ものと理解することができる。さらに、この場合の「は」が想起させるのは、 抽象化された空間、つまり、時間から切り離された空間ではなく、方向性 のある動きが及ぶ範囲であり、より分かりやすく言い換えるなら、 「ひと『は(掃)き』(a sweep)」の範囲であり、この「は」が「運(はこ)ぶ」 の「は」でもあることは、「運(はこ)ぶ」が「は(掃)く+ふ」という 「は(掃)く」の再帰表現であることからも分かる(例えば、「あしはこ(足運)び」 という表現が何を表しているか考えてみるといい)。 0312考える名無しさん2021/01/20(水) 09:58:23.270 ここで、当てられる漢字の中国語の発音は、日本語の表現とは無関係であるものの、 「は(馳)せる」という表現の「は」に当てられた「馳(Middle Chinese: /ɖˠiᴇ/)」 という漢字のWikitionaryにおける英訳が、日本語の「はや」という表現を理解する 助けになるだろう。 https://en.wiktionary.org/wiki/馳 馳 to speed; to gallop to spread afar 馳名 / 驰名 ― chímíng ― famous; well-known (literary) to long for; to be eager for (literary) to chase 0313考える名無しさん2021/01/20(水) 10:16:02.260 「はや」の「や」については、「勢いのある方向性」を想起させるものとして 説明しているが、万葉仮名で「や」に「野」や「射」や「矢」が当てられること からも明らかなとおり、この「や」は、中国語の「野(Middle Chinese: /jiaX/)」や 「射(Middle Chinese: /jiaH/)」(Wiktionaryには、"to hit with bow and arrow" を表現していたものと説明される)の発音とそれが想起させるイメージをそのまま 流用したものと考えることができる。「はや」に、引用した「馳」の英訳を そのまま当てはめてみるなら、「to spread(≒「は」) afar(≒「や」)」となるが、 以前に説明したとおり、「や」を、やはり英語の"away/way"やドイツ語の "weg"に当てはめて解釈してみると好都合な、「や」を用いた日本語の表現も 多い。しかし、さらに発音もそれが想起させるイメージも類似しているのが、 英語の"inject"、"project"、"reject"に見られる語根の"-ject"であり、 こちらは、再構築される印欧祖語において"*ye-"(*yē-, Proto-Indo-European root meaning "to throw, impel.")という語根として解釈されている。 https://www.etymonline.com/word/*ye- ちなみに、現代の中国語の「野」の発音も「ピンイン yě」である。 0314考える名無しさん2021/01/20(水) 10:34:00.190 ところで、「長谷(はせ)川」の「長谷」がなぜ「はせ」と読まれるのか検索 してみると、本来は、「泊瀬(はつせ)」や「初瀬(はつせ)」であったものが、 「つ」が落とされて「はせ」と発音されるようになり、それに地形から 「長谷」という漢字が当てられた、というような説明をするサイトが数多く ヒットする。しかし、私には、この説明は、極めて疑わしく思える。 確かに、「「長谷(はせ)川」」の「はせ」という発音には、「長谷」という 表記よりも先に「泊瀬」や「初瀬」という表記が当てられていたのだろう。 しかし、これらが、本来、「はつせ」と発音されて、後に「つ」が理由もなく 落とされたと考えるのは奇妙であり(日本語の発音にそのような一般的な 規則性は見られないだろう)、最初から「はせ」と発音されて、「は」の 発音に「泊」や「初」が当てられたと考える方が自然であると思われる (実際、万葉仮名で「泊」は、「は」を表記するのに用いられる)。
では、「はせ」は何を表現しているのか。それを「長谷」という表記が はっきりと示唆しているのではないか。谷が長ければ、そこは峡谷となり、 そこを流れる水は、雨が降ると勢いよく「は(馳)せ」、急流となる。 まさしく、「長谷川」≒"a precipitous river"だろう。 03153102021/01/21(木) 04:34:38.750 鹿島徹訳を今しがた読んだけど、「解き放たれた」となっているな。 0316考える名無しさん2021/01/21(木) 13:57:20.230 へえ? そりゃまた妙な訳だな それだとentladenとかentlassenのニュアンスに聞こえる 0317考える名無しさん2021/01/21(木) 14:06:01.870 解脱(げだつ) 0318考える名無しさん2021/01/21(木) 14:08:18.680 >Seele sich so lange wiederverkörpert, bis alle ihre Karma-Eindrücke aufgelöst sind und Moksha, die Erlösung, erlangt wird.< 0319月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也2021/01/21(木) 14:31:26.000 >801考える名無しさん2021/01/21(木) 14:02:06.680 >人(ひと)が時(とき)の権現(ごんげん)に過ぎないのです。
日本では、西洋の哲学のように「存在」について深く考察することはなかった と言われることがあるが、これは奇妙な主張である。もし、「存在」について 日本語で考えられてこなかったとするなら、西洋では、「ある」とはどのような ことであるのかについて考えることは、私的な試みとしての思索と見なされて、 哲学としての存在論と考えられることはなく、せいぜい、キリスト教的な 神学に回収されてきたと言わざるを得ないだろう。 0320考える名無しさん2021/01/21(木) 15:10:01.960 中国語の表現を利用したピジン言語としての日本語において、「ある」は、 英語にするなら、"be around"に相当するような表現となっている。 このことは、「ある」から派生したと見なすことができる「歩(ある)く」の 古語である「あり・く」が"wandering"に相当し、「歩(ありき)き神」が "a wandering divinity"であることからも確かめられる。また、 「在(あ)りし日」は、過去の時(とき)≒"days of the past"、つまり、 「往(い)にし辺(へ) /古(いにしへ)」の時(とき)ではなく、生きて残した跡、 すなわち、遍歴("Walz"とも言い換えられるドイツ語の"Wanderjahre"という 表現が想起される)である。https://de.wikipedia.org/wiki/Wanderjahre
「ある」の「あ」が、不特定に離れている様態を表すように用いられる要素 であり、英語の"lofty"に相当するようなイメージを伴う中国語で「岸」と となった表現の流用であると考えられることは、既に繰り返し指摘してきた。 「〜る」という形で動詞を形成する役割しかしていないように見える 「ある」の「る」は、そうであることが疑われることを以前に指摘したとおり、 中国語で「履」となった表現(万葉仮名において「履」は「り」を表記する) の流用であると私は考える。 https://en.wiktionary.org/wiki/履 to fulfil; to implement; to carry out to carry out personally 0321考える名無しさん2021/01/21(木) 15:25:33.780 さらに、「あらは(現)る」という表現は、「あら(顕)は」に「〜る」を付加して、 再び動詞として用いたものであるが、「あら(顕)は」自体、「ある+ふ」、 つまり、"be around"を再帰表現にして活用したものであると理解できる。 「あら(顕)は」に対応するように「あら(顕)ふ」という表現が存在しないのは、 「荒/粗(あら)」から派生させられた「あら(洗)ふ」と発音が重なってしまい、 意図を伝えるのに混乱が生じるので、「あら(顕)は+る」という表現を用いる ことが選択されたためだろう(ちなみに、岩波古語辞典では、「あら(顕)は」 について、件の如く、「アラは朝鮮語のal(卵)と関係があろう」という、 根拠のまったく不明で奇異な朝鮮語−日本語同源説を記載している)。 0322月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也2021/01/21(木) 16:08:46.930 このように日本語の「ある」から「存在」について考えるなら、人(ひと)は、 本来的に、遍歴を残して去ってゆくひと時の漂泊者であるに過ぎず、西洋の 哲学や思想が、しばしばそうしてきたように、定在を前提として、 ノマド(漂泊/放浪者)が、否定的にであれ、肯定的にであれ、夢想される わけではないのである。
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人」であるなら、この世に ひと時、滞留している人(ひと)は、旅人としての時(とき)をもてなす 主(あるじ)であるとしても、それは今を時めいているに過ぎない。 ひと時の客が旅立てば、人も、もはや主(あるじ)ではなくなる。 したがって、日本語で「存在」について哲学しようとするなら、 自らを漂泊者と見なして人の存在について深く思索したニーチェの 存在論をハイデガーの存在論によって捉え直そう(整理しよう)とする ような取り組みは、哲学からキリスト教神学への退行にしかならない のではないか。 0323主客から考える2021/01/23(土) 09:01:45.530 人(ひと)としてあるとは、ひとときのもてなしにおいて客(きゃく)/主(あるじ)としてふるまふことである。 One's being in the world is to be a guest/host in an entertainment for a while. 0324考える名無しさん2021/01/26(火) 11:45:06.120 あと17ページくらいで三木清の歴史哲学を読み終えられそうだ。 長かった。 0325考える名無しさん2021/01/26(火) 19:08:38.620 やっと読み終わった。 客観的な存在と主体的な事実の相克を何とかしようとする感じだった。 事実がマルクスの言う所の下部構造で、存在が上部構造かな。 0326考える名無しさん2021/01/27(水) 08:00:51.850 165ニューノーマルの名無しさん2021/01/27(水) 07:59:11.68ID:oCeYpPpM0 朝鮮半島の側の歴史も徹底的に浄化されているから、よく分からないことだらけ。 例えば、済州島で話されていたのは「朝鮮語」ではないだろう。 では、どのような言葉が話されていたのか。朝鮮語を話すようになった後も、 半島からの人々とは意志の疎通に困難が生じるほど、大きな方言差が残ったのだから、 済州島固有の語彙や地名などが残らないはずがない。 それでも、「歴史上」残っているのは、「朝鮮語の方言」だけで、 どのような系統の言葉が使われていたのかすら不明。 いかに歴史の浄化が徹底しているかをはっきりと示している。 0327考える名無しさん2021/01/28(木) 12:22:04.410>>320 英語の"lofty"に相当するようなイメージを伴う中国語で「岸」ととなった 表現の流用であると考えられる「あ」がどのように、「不特定に離れている 様態を表す」ことになるのかは、英語の"there(そこ)"と"over there(そっちの方 /あそこ)"、"here(ここ)"と"over here(こっちの方)"における"over"の用法を 考えてみると分かりやすいだろう。 0328考える名無しさん2021/01/30(土) 10:39:02.180 日本語を形成する基礎となった言語が、中国語の流用にほぼ全面的に依存して、 その形成が日本列島における統治の統一よりも時代的に前に遡るとするなら、 その言語が、日本列島に限定されて使用されたと考えることには無理があり、 中国大陸、朝鮮半島、日本列島にわたる広い範囲の海域で交易のための言語 として用いられ、水路を中心に普及したものと考える方が自然であることは、 既に指摘した。無論、そのように考えることは、実効力による支配とそれを 承認させる権威とに基づき、したがって、歴史的に見れば大きく変化し つづけてきた地理的な統治上の領有権の主張とは無関係である。 そのような時代錯誤的な領有権の主張の権威付けから解き放たれるなら、 地名の解釈にもさまざまな可能性が開かれるとともに、表現のより綿密な 理解も進むはずである。 0329考える名無しさん2021/01/30(土) 10:51:02.910 先日、韓国TVドラマを観ていたら、セリフのなかに「汝矣島/Yeouido (Hangul: 여의도)」というのが出てきた。韓国のことについて私はほぼ 何も知らないが、その「汝矣島」という表記と"Yeouido(カタカナに 移せば、「ヨウィド」になるだろう)"という発音がなんとなく気にかかって、 少し検索してみた。Wikipediaの「汝矣島」の項目には、以下のように 記載されている。
かくして、「波(なみ)」のイメージが、機(はた)織りの作業の脈絡に置かれること になるが、機(はた)を織る作業を表現する英語の動詞は、"weave"であるので、 今度は、"weave"の発音から、英語で「波(なみ)」を意味する"wave"が直ちに 連想される。しかし、そのような「自由連想の長い連鎖」に、どのような妥当性が 認められると言うのか、という疑問が当然、湧いてくるだろう。そこで、 英語の"weave"および"wave"という表現の語源について検索してみると、 以下のとおりである。 0342考える名無しさん2021/02/02(火) 12:21:52.420https://www.etymonline.com/search?q=weave weave (v.1) Old English wefan "to weave, form by interlacing yarn," figuratively "devise, contrive, arrange" (class V strong verb; past tense wæf, past participle wefen), from Proto-Germanic *weban [...] The form of the past tense altered in Middle English from wave to wove.[...]
https://www.etymonline.com/search?q=wave wave (v.) "move back and forth," Old English wafian "to wave, fluctuate" (related to wæfre "wavering, restless, unstable"), from Proto-Germanic *wab- (source also of Old Norse vafra "to hover about," Middle High German waben "to wave, undulate"), possibly from PIE root *(h)uebh- "to move to and fro; to weave" (see weave (v.)).
》De temps à autre comme pour en chasser la poussière, il donnait un coup d’ongle sur la soie des écharpes, dépliées, dans toute leur longueur ; et elles frémissaient avec un bruit léger, en faisant, à la lumière verdâtre du crépuscule, scintiller, comme de petites étoiles, les paillettes d’or de leur tissu.《 Flaubert, 《Madam Bovary》, p.191 0358考える名無しさん2021/02/06(土) 10:13:25.720 誤:からに次に一節 正:からの次に一節 0359考える名無しさん2021/02/06(土) 10:16:29.260 誤:からの次に一節 正:からの次の一節 0360考える名無しさん2021/02/06(土) 13:50:06.280http://www.kangin.or.jp/learning/text/chinese/kanshi_A25_3.html
さて、万葉仮名で「どろい」と読むことができ、漢字として読めば 「あとるい」と読むことができる「跡呂井」と「阿弖流為(あてるい)」は、 どちらが先になのだろうか。 0375考える名無しさん2021/02/08(月) 12:14:35.930 「阿弖流為(あてるい)」を戦いに敗れたマイノリティの悲劇として語り継ごう とする「リベラルな歴史観」に、ニーチェが批判するような意味での ニヒリズムを感じてしまうのは私だけだろうか。 0376考える名無しさん2021/02/08(月) 12:24:28.060 勝つべきものが敗れたのはおかしいとなると、歴史修正主義やナチズムの匂いが漂ってくるw 0377考える名無しさん2021/02/08(月) 13:19:12.240 振る舞ひに伴って生じる"accountability"に人々を納得させられる ような形で都合よく応える物語("storytelling")が歴史である。 0378考える名無しさん2021/02/08(月) 18:49:29.260 N’eus-je pas une fois une jeunesse aimable, héroïque, fabuleuse, à écrire sur des feuilles d’or, — trop de chance ! Par quel crime, par quelle erreur, ai-je mérité ma faiblesse actuelle ? Vous qui prétendez que des bêtes poussent des sanglots de chagrin, que des malades désespèrent, que des morts rêvent mal, tâchez de raconter ma chute et mon sommeil. Moi, je ne puis pas plus m’expliquer que le mendiant avec ses continuels Pater et Ave Maria. Je ne sais plus parler !
RIMBAUD : Matin (1873) Une saison en enfer 0379考える名無しさん2021/02/09(火) 10:25:35.090 >「茂井羅(もいら)」という呼び名の解釈について即断する必要はない