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歴史とは何か?【歴史を哲学する】【歴史哲学】
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0001考える名無しさん
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2020/11/11(水) 18:54:43.870
マルクス、三木清、渡邊二郎、ヴィンデンバルト、E. H. カー、野家啓一らを意識しつつ、
色々みんなで考えて行こう。
0289考える名無しさん
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2021/01/02(土) 00:24:56.740
桃(もも)太(た)郎(ろう)と百済(くだら)は似ている。
「百」を「もも」と読むが、「郎」を万葉仮名として読むと「ら」になる。
桃(もも)太(た)郎(ろう)⇒百(もも)太(た)郎(ら)となり、
百(もも)を九(く)で置き換えると、九(く)太(た)郎(ら)⇒くだら(百済)になる。
0290考える名無しさん
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2021/01/02(土) 00:43:24.240
「魏石鬼(ぎしき)」も文字通り読むと、いかにもいはくありげな呼び名だな。
0291考える名無しさん
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2021/01/02(土) 01:00:26.770
「石(いし)」を「沃(い)沚(し)」と見るなら、「水に運ばれて残されたもの」であり、
「鬼(き)」を「怨(おに)」と見るなら、「魏石鬼(ぎしき)」は、
「魏(ぎ)が残した怨(おに)」であるように読める。それが「八面(はちめん)大王」で、
「八面」を「やめ」と読むなら、
>福岡県八女の古代豪族磐井との繋がりも考えられている<
https://ja.wikipedia.org/wiki/魏石鬼八面大王
ということらしい。歴史については知らないので、どういう解釈が成り立つのか分からないが。
0292考える名無しさん
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2021/01/02(土) 10:48:24.450
伝承によると桃太郎は必ずしも桃から生まれるわけではなく、桃を食べた老夫婦が
若返って(つまり、勢力を増して)子作りに成功して生まれたのが桃太郎だとか、
いろいろバージョンがあるみたいだが、いずれにしても「桃(もも)/百?)太郎」は、
川の「水に運ばれてくる」、またはそのように流れてくるものに関連付けられて
いるようだね。お供するのも、必ずしも、イヌ、サル、キジではないようだが、
きび(黍/吉備?)団子とか、とう(唐?)団子とか携えていることも、いかにも
思わせぶりだ。
0293考える名無しさん
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2021/01/02(土) 10:55:06.060
巧みな掛詞を駆使することが文芸の才の見せ所であったのだから、
この物語を語るのに何もアレゴリーを意識しなかったということはないだろうと思う。
0294考える名無しさん
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2021/01/02(土) 12:00:46.840
桃/百(もも)太(た)郎(ら)が「怨(おに)」に対する怨恨を晴らすのだろうか
どのような集団が「怨(おに)」の対象として想定されたのだろう
0295考える名無しさん
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2021/01/02(土) 13:15:59.540
ところで、「百済(くだら)」という表記を見ると、「百」は日本語の古語で
「く」ではなく、「もも」と読まれるが、「済」が「たら」と読まれること
はない。そこで「済」の旧漢字である「濟」についての記載をWiktionaryで
参照すると、この漢字は、"to cross a river; to ferry"を意味するように
用いられるとされる。"ferry"とは、言うまでもなく、「フェリー・ボート」
のフェリーであり、「濟」は、「水上を運んで渡す」ことを意味するように
用いられたことが分かる。すると、「百済」は「『もも』+『水上を運んで渡す』」
を表しているかのように読めることになる。川の水に運ばれてきた「もも」から
生まれる「桃太郎」と似ていないだろうか。
0296考える名無しさん
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2021/01/02(土) 13:38:52.100
「鬼ヶ島(おにがしま)」という名称から、現代の日本語ではすぐに海に浮かぶ
孤島を連想してしまうが、「しま」が表現しているのは、「注連縄(しめなは)」
の「しめ」からも分かるとおり、「縄張り」である。船で渡っていくから
といって、その縄張りが水に浮かぶ孤島であると想定する必要はないだろう。
0297考える名無しさん
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2021/01/03(日) 12:29:30.840
日本語の尊称の「きみ」には、「君」という漢字が当てられるが、
「君」という漢字は、中国語の中古音において"/kɨun/"と発音されたものと
想定され、日本語には「くん」という発音で取り込まれたものと考えられる
ので、この発音を「きみ」の語源とすることには無理があるだろう。
そこで、想定されているのが、同じ「君」が「/kɨun/」が「新羅語」に
おいて王を意味するように用いられ、それに「今 (kum)」の漢字が当てられて、
そこから日本語に取り込まれたのではないか、という想定のようである。
> Possibly a borrowing from the Sillan word for king, written with the character 今 (kum).
https://en.wiktionary.org/wiki/

しかし、これは、いかにも持って回った、とってつけたような理屈付けだ。
第一、「新羅語」について詳しいことが分かっていないのに、そこからより古い日本語を
説明しようとするアプローチ自体に無理があり過ぎると言わざるをえないだろう。
日本語の「きみ」は、その発音と用法から見て、むしろ、「錦/金(Middle Chinese: /kˠiɪmX/)」
の流用であると考える方が自然ではないのか。そう考えることは、
英語の"Your Majesty"という表現や、ドイツ語の伴侶に対する呼びかけとして
用いらる"Schatz"という表現、スペイン語で同様に用いられる"tesoro"という
表現を参照するなら、妥当であるように思われる。さらに、「新羅語」で
王を表すように用いられたとされる「今」という漢字字体、中国語の
想定される中古音において"Middle Chinese: /kˠiɪm/"とされ、「君(/kɨun/)」よりも、
「錦/金(/kˠiɪmX/)」の方にはるかに近い。
0298考える名無しさん
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2021/01/03(日) 12:37:21.710
誤:漢字字体
正:漢字自体
0299考える名無しさん
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2021/01/03(日) 15:59:57.750
中本?
0300考える名無しさん
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2021/01/05(火) 22:18:23.170
中盆
0301考える名無しさん
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2021/01/10(日) 01:10:01.030
渡邊二郎の『ニヒリズム』と三木清の『歴史哲学』の後半を併せ読むと、
やはり、哲学する、歴史的見地に立って行為する際の鍵概念は主体性だとわかる。
当たり前と言えば当たり前なのだが、そういうことを深く考えて記述すると、
哲学書が出来上がるということだな。
0302考える名無しさん
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2021/01/10(日) 13:39:47.710
>>258
>日本語では、閉音節は一般的ではないので、"i"の発音が付け加えられた

このように考えるなら、「かに(蟹)」も" a shield"を意味するように用いられる
場合の「干(Middle Chinese: /kɑn/)」の語末に"i"を付け加えたものではないか
という考えが浮かぶ。この考えは、ドイツ語では、「かめ(亀)」のことを
"Schildkröte"と表現することからも妥当であるように思える。その一方で、
私は、以前、「かに(蟹)」が表現しているのは、英語にするなら、
"stretching over 〜"に相当するような脚を伸ばす歩き方の様態だろうと
指摘した。では、「かに(蟹)」が「干(Middle Chinese: /kɑn/)」+"i"に
由来すると考えることが妥当であるとするなら、以前の私の考えは全面的に
放棄しなければならないのだろうか。

私は、それほど物分かりも、諦めもよくないので、そうは思わない。
ここで私に思い浮かぶ新たな仮説は、"to stretch over 〜"に相当する
ように用いられる「か(兼)ねる」の「か(兼)ね」という表現自体が、
「かに(蟹)」に由来するのではないか、ということである。
「かに(蟹)」がその語源において「干(Middle Chinese: /kɑn/)」に
直接に対応するとしても、「かに」と呼ばれるようになるとともに、
それが「歩き方の様態」、つまり、「かに歩きの脚運び」も表現する
ようになり、「蟹のように脚を伸ばして離れた別々の場所に着地点
を置いた状態」が「かね」と呼ばれ、それに漢字の「兼」が
当てられて、「か(兼)ね」という表現が生じたのではないかということである。
0303五月雨をあつめて早し最上川
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2021/01/17(日) 09:43:05.410
類似による連想は、どのように働き、どのように有用となり得るのか。

「『いそ(急)ぐ』様子」をフランス語では《précipitamment》と表現する。
この表現を派生させる動詞の《précipiter》は、「(高い所から)落とす、
投下する」(クラウン仏和辞典)ことを原義とするが、そのことから、
「早める」(同上)ことを意味するようにも用いられるようになり、
再帰用法の《se précipiter》において「急ぐ」ことや「速くなる」ことを
意味するようにも用いられる(同上)。

《précipiter》の名詞化が《précipitation》であることは言うまでもなく、
《précipitation》は、「いそ(急)ぐこと」を意味すると同時に、この動詞が
「(高い所から)落とす、投下する」ことを原義とすることから、
「降水(雨・雪など)」(同上)を意味するようにも用いられる。

何をそんな当たり前のことを今さら、と思うかもしれない。では、ここで、
当たり前ではない問ひを発しよう。《précipitation》が「いそ(急)ぐこと」
に対応するなら、《précipitation》によって表現される「降水(雨・雪など)」
は、「いそ(急)ぎ」に対応するのか。「いそ(急)ぎ」とはどのような表現なのか。
0304五月雨をあつめて早し最上川
垢版 |
2021/01/17(日) 10:43:38.910
「いそ(急)ぎ」を岩波古語辞典で引くと、それに関連して「いそひ」という
項目があり、次のように説明されている。

>いそひ【勤ひ・競ひ】 《イソシ(勤)・イソギ(急)と同根》
@一心にする。つとめはげむ。「筏に作り 泝(のぼ)すらむ [人民の]いそはく見れば 」〈万50〉
A先を争う。「頬の上に花開きて、春をいそふに似たり」〈遊仙窟(醍醐寺本)鎌倉期点〉<

「いそひ【勤ひ・競ひ】」は、明らかに「いそ・ふ」という再帰表現の動詞であるものと
理解することができるが、一方で、現代語で表現するなら、「いそ(勤)しむ(≒忙しくする)」に
相当するように用いられ、他方で「きそ(競)い(合)う」ように用いられるとともに、
それに対応するように「いそ」には、それぞれ、「勤」と「競」の漢字が当てられている。
このことから、「いそ(勤)ふ」は、「(自らが)忙しくする」ことを表現しているので、
「いそ(急)・ふ」と解釈されて用いられ、他方、「いそ(競)ふ」は、「きそ(競)ふ」に
なぞらへて、「い・そ(添)ふ」(「そ(添)ふ」は、さらに「そ・ふ」と理解される)と
解釈されて用いられているように思われる。ただし、「いそ(急)・ふ」は、
「い・す+ふ」であると理解することができるので、結局のところ、「いそ(急)・ふ」
であれ、「い・そ(添)ふ」であれ、「い」は、「いそ(急)ぐ」の「い」として共通して
いると解釈され得る。
0305五月雨をあつめて早し最上川
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2021/01/17(日) 11:37:09.560
では、その共通していると考えられる「いそ(急)ぐ」の「い」とはどのような
表現なのか。ここで、先に発した問ひが、「類似による連想」の効果を
発揮することになる。《précipitation》が「いそ(急)ぐこと」に対応し、
《précipitation》が「降水(雨・雪など)」を表現するように用いられるなら、
「いそ(急)ぐ」の「い」は、"pouring (down)"に、つまり、「沃(い/yi)」
に対応するのではないか。

そのように想定すると、「いそふ(勤ふ/競ふ)」は、「勤(いそ)ふ」=「沃(い/yi)す+ふ」
または「競(いそ)ふ」=「沃(い/yi)添(そ)ふ」と解釈されることになるだろう。
ここで、「競(いそ)ふ」=「沃(い/yi)添(そ)ふ」の方は、私にはイメージ的に合う
ように感じられ、特にそれ以上の解釈を必要としないように思われる。
では、「勤(いそ)ふ」=「沃(い/yi)す+ふ」の方はどうかと言えば、まだ
適合性がはっきりしないように感じられるかもしれない。そこで、解釈をさらに
進めてみよう。

「沃(い/yi)す」が表現しているのは、「沃(い/yi)≒"pouring (down)"+す≒"let"」
である。では、この場合、「いそ(勤)・ふ」の「〜ふ」は何を表現しているだろうか。
これまで私は、日本語において再起表現を形成するのに用いられる「〜ふ」は、
極めて特徴的なこととして、「〜」によって表される作用/動作/様態を反転させる
ように用いられる場合がとても多くみられることを繰り返し指摘してきた。
私には、そのことが、この「いそ・ふ」の場合にもそのまま当てはまるように
思える。つまり、「いそ(勤)・ふ」は、「沃(い/yi)す≒"let pouring (dow)"」働きを
反転させ、「流されることに逆らう」のである。岩波古語辞典に引用される
例文を再び見てみよう。
0306五月雨をあつめて早し最上川
垢版 |
2021/01/17(日) 11:37:43.670
>「筏に作り泝(のぼ)すらむ [人民の]いそはく見れば 」〈万50〉
現代語訳の参考:https://manyoshu-japan.com/13528/

「泝(のぼ)す」の「泝」は、見慣れない漢字だが、現代の日本語で一般に用いられる
漢字では、「遡及」の「遡(そ)」、要するに、「さかのぼ(遡)る」に対応するように
用いられた漢字である。

したがって、「いそ(勤)ふ」ことが「流されることに逆らう」ように働くことを表現
するとすれば、「いそ(急)ぐ」=「沃(い/yi)≒"pouring (down)"+す≒"let"+ぐ」
ことは、五月雨を集めた最上川が「急流」となるように「流される流れに乗る」こと
をイメージさせる表現となるだろう。
0308考える名無しさん
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2021/01/18(月) 04:56:50.640
つい先日の共通テストの倫理でベンヤミンの
『歴史の概念について』が出たようだな。
0309考える名無しさん
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2021/01/18(月) 10:35:38.300
Erloesungを解放と訳すか救済と訳すかで議論になるわけだが
出題者は野村修訳に依拠したみたいね
0310考える名無しさん
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2021/01/18(月) 12:09:25.640
野村修訳は岩波文庫で出ていて、鹿島徹訳は未来社から出ているが、
鹿島徹は岩波書店から歴史をテーマにした単行本を出しているのが何とも言えない所。
0311考える名無しさん
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2021/01/20(水) 09:51:28.610
「いそ(急)ぐ」が、「流される流れに乗る」ことをイメージさせる表現である
と考えられることを見たが、「はや(速/早)い」の「はや」も、しばしば、
流れに関連してイメージされることは、「流行(はや)る」と表記されること
からも分かる。ただし、「はや」という表現を、それを構成する要素から
解釈する場合、「は」は、「葉(は)」や「羽(は)」などの場合と同じく
「広がり」を想起させ、「や」は、「勢いのある方向性」を想起させる
ものと理解することができる。さらに、この場合の「は」が想起させるのは、
抽象化された空間、つまり、時間から切り離された空間ではなく、方向性
のある動きが及ぶ範囲であり、より分かりやすく言い換えるなら、
「ひと『は(掃)き』(a sweep)」の範囲であり、この「は」が「運(はこ)ぶ」
の「は」でもあることは、「運(はこ)ぶ」が「は(掃)く+ふ」という
「は(掃)く」の再帰表現であることからも分かる(例えば、「あしはこ(足運)び」
という表現が何を表しているか考えてみるといい)。
0312考える名無しさん
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2021/01/20(水) 09:58:23.270
ここで、当てられる漢字の中国語の発音は、日本語の表現とは無関係であるものの、
「は(馳)せる」という表現の「は」に当てられた「馳(Middle Chinese: /ɖˠiᴇ/)」
という漢字のWikitionaryにおける英訳が、日本語の「はや」という表現を理解する
助けになるだろう。
https://en.wiktionary.org/wiki/

to speed; to gallop
to spread afar
馳名 / 驰名 ― chímíng ― famous; well-known
(literary) to long for; to be eager for
(literary) to chase
0313考える名無しさん
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2021/01/20(水) 10:16:02.260
「はや」の「や」については、「勢いのある方向性」を想起させるものとして
説明しているが、万葉仮名で「や」に「野」や「射」や「矢」が当てられること
からも明らかなとおり、この「や」は、中国語の「野(Middle Chinese: /jiaX/)」や
「射(Middle Chinese: /jiaH/)」(Wiktionaryには、"to hit with bow and arrow"
を表現していたものと説明される)の発音とそれが想起させるイメージをそのまま
流用したものと考えることができる。「はや」に、引用した「馳」の英訳を
そのまま当てはめてみるなら、「to spread(≒「は」) afar(≒「や」)」となるが、
以前に説明したとおり、「や」を、やはり英語の"away/way"やドイツ語の
"weg"に当てはめて解釈してみると好都合な、「や」を用いた日本語の表現も
多い。しかし、さらに発音もそれが想起させるイメージも類似しているのが、
英語の"inject"、"project"、"reject"に見られる語根の"-ject"であり、
こちらは、再構築される印欧祖語において"*ye-"(*yē-, Proto-Indo-European
root meaning "to throw, impel.")という語根として解釈されている。
https://www.etymonline.com/word/*ye-
ちなみに、現代の中国語の「野」の発音も「ピンイン yě」である。
0314考える名無しさん
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2021/01/20(水) 10:34:00.190
ところで、「長谷(はせ)川」の「長谷」がなぜ「はせ」と読まれるのか検索
してみると、本来は、「泊瀬(はつせ)」や「初瀬(はつせ)」であったものが、
「つ」が落とされて「はせ」と発音されるようになり、それに地形から
「長谷」という漢字が当てられた、というような説明をするサイトが数多く
ヒットする。しかし、私には、この説明は、極めて疑わしく思える。
確かに、「「長谷(はせ)川」」の「はせ」という発音には、「長谷」という
表記よりも先に「泊瀬」や「初瀬」という表記が当てられていたのだろう。
しかし、これらが、本来、「はつせ」と発音されて、後に「つ」が理由もなく
落とされたと考えるのは奇妙であり(日本語の発音にそのような一般的な
規則性は見られないだろう)、最初から「はせ」と発音されて、「は」の
発音に「泊」や「初」が当てられたと考える方が自然であると思われる
(実際、万葉仮名で「泊」は、「は」を表記するのに用いられる)。

では、「はせ」は何を表現しているのか。それを「長谷」という表記が
はっきりと示唆しているのではないか。谷が長ければ、そこは峡谷となり、
そこを流れる水は、雨が降ると勢いよく「は(馳)せ」、急流となる。
まさしく、「長谷川」≒"a precipitous river"だろう。
0315310
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2021/01/21(木) 04:34:38.750
鹿島徹訳を今しがた読んだけど、「解き放たれた」となっているな。
0316考える名無しさん
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2021/01/21(木) 13:57:20.230
へえ? そりゃまた妙な訳だな
それだとentladenとかentlassenのニュアンスに聞こえる
0318考える名無しさん
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2021/01/21(木) 14:08:18.680
>Seele sich so lange wiederverkörpert, bis alle ihre Karma-Eindrücke
aufgelöst sind und Moksha, die Erlösung, erlangt wird.<
0319月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
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2021/01/21(木) 14:31:26.000
>801考える名無しさん2021/01/21(木) 14:02:06.680
>人(ひと)が時(とき)の権現(ごんげん)に過ぎないのです。

日本では、西洋の哲学のように「存在」について深く考察することはなかった
と言われることがあるが、これは奇妙な主張である。もし、「存在」について
日本語で考えられてこなかったとするなら、西洋では、「ある」とはどのような
ことであるのかについて考えることは、私的な試みとしての思索と見なされて、
哲学としての存在論と考えられることはなく、せいぜい、キリスト教的な
神学に回収されてきたと言わざるを得ないだろう。
0320考える名無しさん
垢版 |
2021/01/21(木) 15:10:01.960
中国語の表現を利用したピジン言語としての日本語において、「ある」は、
英語にするなら、"be around"に相当するような表現となっている。
このことは、「ある」から派生したと見なすことができる「歩(ある)く」の
古語である「あり・く」が"wandering"に相当し、「歩(ありき)き神」が
"a wandering divinity"であることからも確かめられる。また、
「在(あ)りし日」は、過去の時(とき)≒"days of the past"、つまり、
「往(い)にし辺(へ) /古(いにしへ)」の時(とき)ではなく、生きて残した跡、
すなわち、遍歴("Walz"とも言い換えられるドイツ語の"Wanderjahre"という
表現が想起される)である。https://de.wikipedia.org/wiki/Wanderjahre

「ある」の「あ」が、不特定に離れている様態を表すように用いられる要素
であり、英語の"lofty"に相当するようなイメージを伴う中国語で「岸」と
となった表現の流用であると考えられることは、既に繰り返し指摘してきた。
「〜る」という形で動詞を形成する役割しかしていないように見える
「ある」の「る」は、そうであることが疑われることを以前に指摘したとおり、
中国語で「履」となった表現(万葉仮名において「履」は「り」を表記する)
の流用であると私は考える。
https://en.wiktionary.org/wiki/
to fulfil; to implement; to carry out
to carry out personally
0321考える名無しさん
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2021/01/21(木) 15:25:33.780
さらに、「あらは(現)る」という表現は、「あら(顕)は」に「〜る」を付加して、
再び動詞として用いたものであるが、「あら(顕)は」自体、「ある+ふ」、
つまり、"be around"を再帰表現にして活用したものであると理解できる。
「あら(顕)は」に対応するように「あら(顕)ふ」という表現が存在しないのは、
「荒/粗(あら)」から派生させられた「あら(洗)ふ」と発音が重なってしまい、
意図を伝えるのに混乱が生じるので、「あら(顕)は+る」という表現を用いる
ことが選択されたためだろう(ちなみに、岩波古語辞典では、「あら(顕)は」
について、件の如く、「アラは朝鮮語のal(卵)と関係があろう」という、
根拠のまったく不明で奇異な朝鮮語−日本語同源説を記載している)。
0322月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
垢版 |
2021/01/21(木) 16:08:46.930
このように日本語の「ある」から「存在」について考えるなら、人(ひと)は、
本来的に、遍歴を残して去ってゆくひと時の漂泊者であるに過ぎず、西洋の
哲学や思想が、しばしばそうしてきたように、定在を前提として、
ノマド(漂泊/放浪者)が、否定的にであれ、肯定的にであれ、夢想される
わけではないのである。

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人」であるなら、この世に
ひと時、滞留している人(ひと)は、旅人としての時(とき)をもてなす
主(あるじ)であるとしても、それは今を時めいているに過ぎない。
ひと時の客が旅立てば、人も、もはや主(あるじ)ではなくなる。
したがって、日本語で「存在」について哲学しようとするなら、
自らを漂泊者と見なして人の存在について深く思索したニーチェの
存在論をハイデガーの存在論によって捉え直そう(整理しよう)とする
ような取り組みは、哲学からキリスト教神学への退行にしかならない
のではないか。
0323主客から考える
垢版 |
2021/01/23(土) 09:01:45.530
人(ひと)としてあるとは、ひとときのもてなしにおいて客(きゃく)/主(あるじ)としてふるまふことである。
One's being in the world is to be a guest/host in an entertainment for a while.
0324考える名無しさん
垢版 |
2021/01/26(火) 11:45:06.120
あと17ページくらいで三木清の歴史哲学を読み終えられそうだ。
長かった。
0325考える名無しさん
垢版 |
2021/01/26(火) 19:08:38.620
やっと読み終わった。
客観的な存在と主体的な事実の相克を何とかしようとする感じだった。
事実がマルクスの言う所の下部構造で、存在が上部構造かな。
0326考える名無しさん
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2021/01/27(水) 08:00:51.850
165ニューノーマルの名無しさん2021/01/27(水) 07:59:11.68ID:oCeYpPpM0
朝鮮半島の側の歴史も徹底的に浄化されているから、よく分からないことだらけ。
例えば、済州島で話されていたのは「朝鮮語」ではないだろう。
では、どのような言葉が話されていたのか。朝鮮語を話すようになった後も、
半島からの人々とは意志の疎通に困難が生じるほど、大きな方言差が残ったのだから、
済州島固有の語彙や地名などが残らないはずがない。
それでも、「歴史上」残っているのは、「朝鮮語の方言」だけで、
どのような系統の言葉が使われていたのかすら不明。
いかに歴史の浄化が徹底しているかをはっきりと示している。
0327考える名無しさん
垢版 |
2021/01/28(木) 12:22:04.410
>>320
英語の"lofty"に相当するようなイメージを伴う中国語で「岸」ととなった
表現の流用であると考えられる「あ」がどのように、「不特定に離れている
様態を表す」ことになるのかは、英語の"there(そこ)"と"over there(そっちの方
/あそこ)"、"here(ここ)"と"over here(こっちの方)"における"over"の用法を
考えてみると分かりやすいだろう。
0328考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 10:39:02.180
日本語を形成する基礎となった言語が、中国語の流用にほぼ全面的に依存して、
その形成が日本列島における統治の統一よりも時代的に前に遡るとするなら、
その言語が、日本列島に限定されて使用されたと考えることには無理があり、
中国大陸、朝鮮半島、日本列島にわたる広い範囲の海域で交易のための言語
として用いられ、水路を中心に普及したものと考える方が自然であることは、
既に指摘した。無論、そのように考えることは、実効力による支配とそれを
承認させる権威とに基づき、したがって、歴史的に見れば大きく変化し
つづけてきた地理的な統治上の領有権の主張とは無関係である。
そのような時代錯誤的な領有権の主張の権威付けから解き放たれるなら、
地名の解釈にもさまざまな可能性が開かれるとともに、表現のより綿密な
理解も進むはずである。
0329考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 10:51:02.910
先日、韓国TVドラマを観ていたら、セリフのなかに「汝矣島/Yeouido
(Hangul: 여의도)」というのが出てきた。韓国のことについて私はほぼ
何も知らないが、その「汝矣島」という表記と"Yeouido(カタカナに
移せば、「ヨウィド」になるだろう)"という発音がなんとなく気にかかって、
少し検索してみた。Wikipediaの「汝矣島」の項目には、以下のように
記載されている。

>漢江に面した縦3km、横1kmほどの広さの島で韓国の国会議事堂や政府機関が
置かれているほか、大手金融機関やメディアの本社が多数立地しており
超高層ビル街を形成している。<

さらに、関連項目として、「ヤンマル山 - かつて汝矣島にあった山」と
記載されており、リンクをたどると、以下のように説明されている。

>ヤンマル山(ヤンマルさん、朝鮮語: 양말산)は、大韓民国ソウル特別市
永登浦区汝矣島の、現在の国会議事堂の場所に、かつて存在していた山。

>かつてはこの山に牧場を設けて羊や馬を育てていたため、ヤンマ山(養馬山、羊馬山、양마산)
と呼ばれ、後にヤンマル山(「マル」とは馬の朝鮮語の固有語である)と称されるようになった。<
0330考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 11:03:01.920
>現在は、この山を削った場所に、国会議事堂が建設されている
とのことだが、「養馬」の「養」は、日本語で漢語としては「ヨウ」と
読まれるが、「養(やしな)ふ」に当てられている漢字であり、
中国語の中古音は、"Middle Chinese: /jɨɐŋX/"であったと想定されている。
さらに、「馬」の中国語の中古音は、"Middle Chinese: /mˠaX/"であると
想定されているので、「養馬」を万葉仮名風に読むなら、「やま」と
読める。普通の日本語の使用者なら、この山が、やはり「やま」と読める
名前で呼ばれていたことに興味を惹かれるはずである。
0331考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 11:15:23.130
そこで、脚注をさらに見ると、以下のように記載される。

>영등포동, 여의도동, 양화동,신길동, 대림동 - 영등포구]”. 서울특별시 (2014年2月28日).
2015年11月22日閲覧。 “여의도동:여의도동은 잉화도(仍火島), 나의도(羅衣島),
나의주(羅衣洲) 라고도 불렸던 동으로, ... <

断っておくが、私は朝鮮語はまったく読めないので、コピペしたまでた。だが、
Google翻訳にかければ、何が記載されているのかは理解でき、「汝矣島/Yeouido(Hangul:
여의도)」が今は、漢字でそのように表記され、「ヨウィド」のように発音されるが、
かつては、「汝矣島」は、「仍火島」とも、「羅衣島」とも表記され、「汝矣」が
「ヨウィド」のように読まれるのに対して、「仍火」は、「インファ(잉화)」、
「羅衣」は、「ナウィ(나의)」のように読まれるので、漢字の表記法とともに、
呼び名も変化していることくらいは、私にも分かる。
0332考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 11:48:01.970
ここで、「仍火」の「仍」は、漢語としては「にょう」または「じょう」と
いう発音で日本語に取り入れられている漢字であるが、この場合は、「잉/ing」
という発音に当てられており、「仍」が意味的には、英語にすれば、
"to follow"や"to do the same as"を表現するものとされ、日本語にすれば、
「よ-って」や「よる」などを表現するものとされるので、「依(よ)る」という
日本語の表現が想起される。すると、別名の「羅衣」の方は、「ナウィ(나의)」
のように発音されるものの、「仍(잉/ing)」と「衣(의/ui)」は、この場合、
もともとは同一の表現の要素を担っていたのではないかと私には思えてくる。
その場合、「仍/衣」を万葉仮名風に読めば、「い/yi」となり、私には
面白く思える想定が浮かぶ。それは、「火」が「ファ(화)」のような発音に
当てられたものとするなら、「仍火」は、「イファ/イハ」と万葉仮名風に
読むことができ、すると、「仍火(イファ/イハ)」は、沖縄の苗字や地名に
見られる「伊波(イファ/イハ)」とそのまま重なることだ。

「伊波(イファ/イハ)」が、中国語ピジンとしての日本語において「沃(い)ふ」
の活用形であり、「水の流れによって運ばれてきた土砂の堆積した場所」を指す
表現であると見られることは、既に以前に説明した。ところで、「仍火島」とも、
「羅衣島」とも表記される「汝矣島」は、まさしくそのように形成されている
場所なのである。さらに、「羅衣」は、朝鮮語の読みでは「ナウィ」であるが、
「仍」と「衣」が共通であるものと仮定して、順序を「仍火」の方に合せて
「衣羅」として万葉仮名風に読み、かつ、順序を変えても、「羅(ナ/나)」を
「羅(ラ/라)」と読みかえることなく、そのまま「ナ」と発音するなら、
「衣羅」は、日本の地名の「伊那」と同様に「イナ」と読めることになる。
0333考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 12:20:05.950
それだけではない。「羅」は、朝鮮語の場合、語頭に来る場合は、「ラ/라」
ではなく、「ナ/나」と発音されるが、日本語においても古語では、語頭が
「ラ」行の発音となることはなく、中国語において語頭で「ラ」行となる
表現の発音は、日本語の古語としては「ナ」行として取り入れられている
と考えられる(例えば、「漏(ろう)」⇒「『ぬ』ける」)ことも以前から指摘
している。ここで、「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」の中国語としての用法に
注目すると、それが、「[動詞] 1. (網状のものを)かぶせる。 2. からむ。
巻きつける。」などの作用/動作/様態を想起させるように用いられる表現
であることが分かる。参考:https://zh.hatsuon.info/word/luó;

ところで、例えば、「なは(縄)をな(綯)ふ」のような日本語における「な」の
発音を用いた表現について、私は、この「な」は、フランス語で表現する
なら、《se serrer》に対応するような作用/動作/様態を想起させるように
用いられていることを指摘した。「な(成)る」の「な」もそのような
イメージを想起させるものと理解できる。とすると、この「な」の用法
と、中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」の用法は、互いによく似ている
のではないか、日本語のそのように用いられる「な」は、中国語の「羅」
を「ナ」の発音に移し替えて流用したものではないか、と私には思えてくる。
網にかかった鳥を、その網をすぼめることによって収穫する様子は、
《se serrer》として理解される「な」の作用/動作/様態にうまく対応して
いるように、少なくとも私には感じられる。

ここで、「衣羅」は、日本の地名の「伊那」と同様に「イナ」と読める
ことになるとした、「イナ」に戻ると、「イ」は、「水の流れによって
運ばれる土砂」を想起させる「沃(い)」に対応すると仮定しているので、
「ナ」は、「な(成)る」の「な」のように形成を表現していると考える
ことができることになる。つまり、「羅衣」⇒「衣羅(いな)」≒
「水の流れによって運ばれる土砂の形成地」という解釈である。
0334考える名無しさん
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2021/01/30(土) 23:30:27.220
くまよもあ
0335考える名無しさん
垢版 |
2021/01/30(土) 23:59:12.410
あずしらか
0336考える名無しさん
垢版 |
2021/02/01(月) 11:27:22.340
>>333
>「なは(縄)をな(綯)ふ」のような日本語における「な」...
は、フランス語で表現するなら、《se serrer》に対応するような
作用/動作/様態を想起させ<
>この「な」の用法と、中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」の用法は、
互いによく似ているのではないか<

以上のように指摘したが、現代の中国語における「罗(羅)」の用法は、
以下の通りである。
https://cjjc.weblio.jp/content/
1 鳥を捕まえる網,鳥網.⇒网罗 wǎngluó 2,天罗地网 tiān luó dì wǎng .
2 網を張って捕まえる.⇒门可罗雀 mén kě luó què .
3 招請する,集める,収集する.⇒搜罗 sōuluó ,网罗 wǎngluó 1.
4 陳列する,並べる.⇒星罗棋布 xīng luó qí bù .
5 きめの細かい)ふるい.
6 紗・絽・薄絹など)目の粗い(糸の細い)絹織物.⇒绫罗绸缎 líng luó chóu duàn .
7 ふるいにかける.

日本語の「な」と中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」がそれぞれ想起させる
作用/動作/様態が互いに似ていることは、フランス語の《se serrer》という表現
だけでなく、中国語の「羅」が、日本語の「網(あみ)」や「網(あみ)で捕らえる」動作、
ならびに「編(あ)まれた物」を表現していることから、やはりフランス語の《tresser》
という表現を(日本語の「な」と中国語の「羅」の)間に挟んでみると、さらに明確となる。
0337考える名無しさん
垢版 |
2021/02/01(月) 11:44:43.170
例えば、中地義和編、『対訳 ランボー詩集』(p.66-67)を読むと、
「LES ASSIS(座った奴ら)」と題された詩に下記の表現:
>Ces vieillards ont toujours fait tresse avec leurs sièges
が見られ、これは、次のように訳されている:
>この老人たちはいつも椅子と絡み合って離れたことがない
ここで「絡み合って」と訳されているのが、《fait tresse》であるが、
クラウン仏和辞典で《tresse》および《tresser》を引くと、以下のように説明される。
>tresse @編物、網ひも、A編毛...髪を編んで長く垂らしている女の子[例文和訳]
>tresser 編む、束にする
さらに、《tresse》をWiktionaryで参照すると、《tresse》の英訳には、
"braid"が記載され、リンクをたどると、次の画像が表示される。
https://en.wiktionary.org/wiki/tresse
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Flechten_2.jpg

この画像が「なは(縄)をな(綯)ふ」場合の「な」の作用/動作/様態を想起させる
ことは指摘するまでもないだろう。一見したところ、互いに何の関係もない
ように思われる中国語の「羅」と日本語の「な」は、それが想起させるイメージ
として解釈する場合、互いによく似ていることが理解できるはずである。
0338考える名無しさん
垢版 |
2021/02/01(月) 11:58:21.780
人文学においては、その都度、適切なメタ言語の表現を見出すことこそが、
事象の妥当な解釈を実現することであり、それを目指すなら、
あらかじめ決められた定義などによって表現の追求を縛り付けてはならないのだ。
0339考える名無しさん
垢版 |
2021/02/01(月) 14:41:20.260
>>336-337
ちなみに、「羅」についてのWiktionaryの仏語サイトを参照すると、
以下の画像が表示される。
https://fr.wiktionary.org/羅#/media/Fichier:BarradaLagoa_canal_fishersman.png

この画像を見て「羅」は「網(あみ)」を意味していると考えるのは、
誤った理解ではない。しかし、それは、「羅」が表現する、より広い
作用/動作/様態を「物象化」した捉え方であり、その物象化によって、
本来、互いに関連しているはずの様々な表現の間で分断が生じる
(「名詞化」とは、まさに、そのように好都合に分断を生じさせる行為である)。
そして、そのように分断が生じた後には、「羅」=「網(あみ)/"net"」として
理解されることになり、例えば、「新羅」や「耽羅」などの国名や「羅州」
などの地名において、発音の表記以外にどのような意図で「羅」という漢字が
用いられたのか推測することが難しくなり、さらには、その発音の表記の
ために後に別の漢字が当てられた場合には、完全に関連が見失われてしまう
ことになる(例えば、「那覇(なは)」という地名の「那(な)」は、「羅」と
同じ意味合いで使われた可能性があるのではないか)。これに対して、
既に名詞化された表現でも、それを動詞的に、つまり、作用/動作として
捉え直した場合、今は派生して分かれている様々な相互関連は、メタ言語
として別言語の表現の助けも借りることができ、はるかに推測しやすく
なるのである。例えば、「羅」≒「網(あみ)」という捉え方であれば、
英語の"net"などの他の言語における名詞が想起されるだけであるが、
「羅」≒「編(あ)み」と捉えたなら、名詞化されていても、例えば、
ドイツ語の"Verflechtung"という表現が想起され、「羅」の解釈の仕方の
可能性は、はるかに大きく開けるだろう。
0340考える名無しさん
垢版 |
2021/02/02(火) 11:26:35.510
>>336-339
メタ言語を利用したこのような捉え方の有用性は、それを応用してみることにより、
すぐに検証してみることができる。

例えば、以前、「な」をフランス語の《se serrer contre qn》という表現に関連付けて
説明したとき、それを「波(なみ)」という表現の解釈に応用して、以下のように説明した。

431考える名無しさん2020/06/05(金) 18:16:23.180
>「寄る年波には勝てぬ」と言われるが、ここで、「なみ」は、
「寄せてくるもの」として、また「累加するもの」としてイメージされている。
「うみ(海)」の場合と同様に、「なみ」の場合も、累加するイメージを
表現しているのは、「み」の発音であり...<

今回は、その「な」を、中国語の「羅(Middle Chinese: /lɑ/)」の発音を変化を
「な」に移したうえで流用したものと想定して、それにより、単に《se serrer》
だけではなく、さらに、同じくフランス語の《tresse》および《tresser》、
さらにはドイツ語の"Verflechtung"にまで関連付けたわけだが、すると、
この関連付けの拡大を、「波(なみ)」という表現の解釈にも応用してみることが
できる。
0341考える名無しさん
垢版 |
2021/02/02(火) 12:11:17.130
「なみ」は、「な」+「み」という複合的な表現であり、「寄せてくるもの」として、
また「累加するもの」としてイメージされている、としたが、ここで、「な」は、
中国語の「羅」の流用として、フランス語の《tresser》およびドイツ語の
"verflechten"に対応する作用/動作/様態を表現するものと解釈が拡張されることに
なり、これらをフランス語の表現としてまとめるなら、《entrelacer》と言い換える
ことが適切だろう。すると、「波(なみ)」の「み」の解釈には何ら変更がないので、
「波(なみ)」は、「累加的な《entrelacement》」を表現していることになる。
そこで、フランス語で「波(なみ)」を意味する《vagues》と《entrelacement》
で画像検索を試みると、想定するイメージにうまく合う画像がすぐに見つかる。
「波(なみ)」を意味する《vagues》で検索しているのだから、当たり前のことだが、
そのように《vagues》と《entrelacement》が関連付けられると、直ちに
想起されることになるのが、機(はた)織りに用いられる小さい舟形の道具である
《navette(杼/梭(ひ)》(英語の"shuttle")だろう。

かくして、「波(なみ)」のイメージが、機(はた)織りの作業の脈絡に置かれること
になるが、機(はた)を織る作業を表現する英語の動詞は、"weave"であるので、
今度は、"weave"の発音から、英語で「波(なみ)」を意味する"wave"が直ちに
連想される。しかし、そのような「自由連想の長い連鎖」に、どのような妥当性が
認められると言うのか、という疑問が当然、湧いてくるだろう。そこで、
英語の"weave"および"wave"という表現の語源について検索してみると、
以下のとおりである。
0342考える名無しさん
垢版 |
2021/02/02(火) 12:21:52.420
https://www.etymonline.com/search?q=weave
weave (v.1)
Old English wefan "to weave, form by interlacing yarn," figuratively "devise,
contrive, arrange" (class V strong verb; past tense wæf, past participle wefen),
from Proto-Germanic *weban [...]
The form of the past tense altered in Middle English from wave to wove.[...]

https://www.etymonline.com/search?q=wave
wave (v.)
"move back and forth," Old English wafian "to wave, fluctuate" (related to
wæfre "wavering, restless, unstable"), from Proto-Germanic *wab- (source
also of Old Norse vafra "to hover about," Middle High German waben "to wave, undulate"),
possibly from PIE root *(h)uebh- "to move to and fro; to weave" (see weave (v.)).

ここから見て取ることができるのは、自由連想の連鎖も、一般にそう信じられているほど
「無節操」なものではないこと、あるいは言語を使用すること自体にそのような自由連想の
連鎖が常に働いていることではないだろうか。むしろ、無節操なのは、不明となった表現を、
自由に連想を働かせることによってではなく、力任せに理屈により説明しようとする
民間語源説(「専門の学者」によるものも含む)の方ではないだろうか。
0343考える名無しさん
垢版 |
2021/02/02(火) 18:02:14.260
全方位恵方巻で病魔退散@ミラクルじゃよ
0344考える名無しさん
垢版 |
2021/02/03(水) 08:40:06.290
>「波(なみ)」は、「累加的な《entrelacement》」を表現していることになる。

>直ちに想起されることになるのが、機(はた)織りに用いられる小さい舟形の道具
>である《navette(杼/梭(ひ)》(英語の"shuttle")だろう。

>"weave"の発音から、英語で「波(なみ)」を意味する"wave"が直ちに連想される。

ここまで指摘されてもまだイメージが湧かないという人々は、説明が分からない
というより、むしろ、機(はた)織りの作業をイメージできないのだろうと思う。
《navette(杼/梭(ひ)》をその表現どおり小舟を見立てたとき、
「累加的な《entrelacement》」の作用/動作/様態がどのように見えるか、
ちょうどいい動画があったのでそのリンクを貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=ogxViV8FEf0
0345考える名無しさん
垢版 |
2021/02/03(水) 09:08:37.290
このような例を見れば、名詞化は、より広い作用/動作/様態を「物象化」した
捉え方であり、本来、互いに関連しているはずの表現の間で分断を生じさせる
と指摘したことの意味もよりよく理解できるはずである。名詞化して表現する
ことは、まさしくその分断を生じさせる作用において、好都合に利用される
のである。
0346考える名無しさん
垢版 |
2021/02/04(木) 09:52:12.560
>>345
例えば、「ゑびす」は、名詞化される場合、以下のとおり、様々な対象を指すことになり、
いくら詳しい説明を調べても、それらが互いにどのように関係しているのか不明となる。
https://kotobank.jp/えびす-37175
https://ja.wikipedia.org/wiki/えびす
https://ja.wiktionary.org/wiki/えびす

それに対して、「ゑびす」が「どのようである」ことを表現しているのかを省察する
なら、それらの様々な対象がなぜ「ゑびす」と呼ばれるのか、ほとんどの場合、
さらなる説明の必要もないほど明白となる。

日本語において「ゑ」という発音が、「抑えようとしながらも外に出る様態」を
想起するように用いられ、英語の"well up(こみ上げる)"という表現における
「well(ひらがなに書き換えれば「『ゑ』る」)」の発音のイメージと互いに
類似していることを以前にしてきした。「ゑ・び・す」の「び」は、再帰表現
を形成する「ふ」の活用であり、「す」は、「させる」≒"let"に相当するので、
全体として「ゑ・び・す」≒"let oneself surge"と理解することができる。
すると、「ゑびす」が、(上から抑えつけようとしても立ち上がる)反乱者=
"insurgents"、それ自体に重い重量がありながらも、すなわち、上から抑える
重量が働きながらも上がってくる海の幸(こみ上げてくる「『ゑ』み」を浮かべる
太った、つまり、体重の重い「恵比須様」によって象徴される)、上から抑え
つけても浮いてくる漁網の浮きなどのすべてに「ゑびす」という表現を適用する
ことが妥当であることになる。
0347多那婆多とは何か、織女とは誰か
垢版 |
2021/02/05(金) 12:05:42.060
「多那婆多(たなばた)」の「那(な)」も、もともとは中国語の「羅」の流用でしょう。
>>344
https://ja.wikipedia.org//wiki/七夕
>「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を
織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。
嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うこと
を許す」<

>七夕は、旧暦の七月七日に行われた。その日は、月齢およそ6の、船のような形の月が南西の夜空に浮かんだ。
0348考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 12:16:42.560
結婚前は少しは美容に気を配ることも許されるけれど、結婚した後、
女性もきちんと働かないと、天罰が下って、夫婦離れ離れにされるのですね。
で、機織りの《navette(杼/梭(ひ)》のような月が空に浮かんだときだけ、
川を渡って合うことができる。
0349考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 12:19:43.900
誤:合う
正:会う
0350考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 13:37:02.060
面白いことに、このような「な」の用法から推測されるのは、
「な(成)る」や「な(綯)ふ」に表れる、フランス語の《entrelacer》に
対応する「な」の用法(「羅」の流用)の方が本来的であって、
「なが(流)れ」、「なが(長)し」、「な(投)げ」、「な(凪)ぐ」は、
いずれも、「な・か(離)」(「か(離)る」や「かろ(軽)し」に見られる
「か」の用法)と解釈されるような派生によるものだろう、ということである。
ちなみに、岩波古語辞典では、「ナガ」を「主に平面上を、線条的に伸びて
行くさま」と説明している。
0352考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 16:49:32.180
>>329-333
>「汝矣島」は、「仍火島」とも、「羅衣島」とも表記され

>ここで、「衣羅」は、日本の地名の「伊那」と同様に「イナ」と読めることになる

>つまり、「羅衣」⇒「衣羅(いな)」≒「水の流れによって運ばれる土砂の形成地」という解釈である。

http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/52419602.html
日本における最初の二十八宿図は、7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神の図と共に見つかっており、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことを伺わせる。」
《牛宿の例》
 牛宿には11の星官がある。
内訳: 牛(牛の鼻を牽く縄)、天田(天子の田)、九坎(九つの灌漑用井戸)、
河鼓(天軍の鼓)、織女(天帝の孫。また民間で織布に精通した仙女)、
左旗(軍旗)、右旗(軍旗)、天桴(河鼓の鼓槌)、
羅堰(土を堆積して作った灌漑系統)、...
0353考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 16:52:48.460
エビデンス?
性根が座っているから、ネバー・ギブアップなんですよ
0354考える名無しさん
垢版 |
2021/02/05(金) 16:57:45.490
成果を出すことが、自らの評価を高めることにつながり、
社会的成功につながると思い込んでいるうちは、人生についてまだなにも分かっていない。
そのことにはっきりと気付くまでには、やはり長い時間と多くの経験を必要とする。
いくらニーチェやゲーテの著作を若い頃から読んだとしてもね。
0357考える名無しさん
垢版 |
2021/02/06(土) 10:12:41.570
>>341
「なみ(波)」という表現と「羅」の関係をイメージしたときに最初に思い浮かべた
のは、一見、「なみ(波)」とは無関係の『Madame Bovary』からに次に一節だ。
そのような想起をしたのは、そこに直接に「なみ(波)」に対応する表現が含まれる
わけではないものの、そこに記述される一連の作用/動作/様態が「漣(さざなみ)」
を感じさせるものだったからだろう。

》De temps à autre comme pour en chasser la poussière, il donnait un coup
d’ongle sur la soie des écharpes, dépliées, dans toute leur longueur ;
et elles frémissaient avec un bruit léger, en faisant, à la lumière verdâtre du
crépuscule, scintiller, comme de petites étoiles, les paillettes d’or de leur tissu.《
Flaubert, 《Madam Bovary》, p.191
0360考える名無しさん
垢版 |
2021/02/06(土) 13:50:06.280
http://www.kangin.or.jp/learning/text/chinese/kanshi_A25_3.html

秋夕<杜牧>
銀燭秋光 畫屏冷ややかなり
輕羅小扇 流螢を撲つ
天階の夜色 涼水の如し
臥して看る牽牛 織女の星

意解
白銀色の秋の夜のともしびの光が、彩(いろど)り豊かな絵屏風に冷たく照り映え、
宮女がひとりうすい絹の団扇(うちわ)で小さくうちながら、飛び交う螢とたわむれている。
天上の夜空のようすは、水のように涼しくみえて、その宮女は寝ながら牽牛(けんぎゅう)星と
織女(しょくじょ)星をみつめつづけてばかりいる。
0363考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 10:27:22.700
>>356
「歴史とは何か」と問うとき、何が歴史とされ、何が伝説とされるのか
その違いを考えてみることは有効だろう。

岩手県の胆沢郡に「茂井羅(しげいら/もいら)」の名で知られる堰が存在する
ということである。「茂井羅(もいら)」の「茂(も)」は、私には、英語に
における"mounting(他動詞としての「マウンティング」ではなく、
自動詞としての「増加していく」、「高まっていく」)"を表現しているよう
に見えるが、「茂井羅(もいら)」という呼び名の解釈について即断する
必要はない。それでも、「茂井羅(もいら)」は、この堰を造った女性の
名前に由来するとする、以下の地元の「言伝え」を「歴史」であると
考える人はそう多くはないだろう。
https://www.thr.mlit.go.jp/isawa/sasala/vol_49/vol49_5.htm
>茂井羅堰の開鑿者は「北郷茂井羅」という女性であるという説がある。
その初出は先の『胆沢風土聞誌』。...(以下省略)
0364考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 10:55:15.670
「茂井羅(もいら)」という堰の呼び名をどのように解釈するにせよ、
この「言伝え」は、常識的に考えるなら、なぜこの堰がそのように呼ばれる
ことになったのか不明となったため、説明をつけるために後から創作された
「伝説」であり、史実を記録する「歴史」ではないとされるだろう。
というのも、「茂井羅(もいら)」という呼び名は、人名としても他に
類例の見られない奇妙なものであり、なにより、一人の女性が単独で
そのような大規模な土木事業に着手してそれを成功させることは、
常識的に考えられないからだ。

では、同じ地域についての「記録」、すなわち、「言伝え」としてではなく、
複数の文書に書き記されて残されている「巣伏の戦い」についてはどうだろうか。
「巣伏の戦い」についての「記録」は、「歴史」なのだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/巣伏の戦い
>朝廷軍の敗北
>朝廷軍は巣伏の戦いで1061人もの戦死者を出した[5]。その内訳は、
戦闘による死者25人、矢疵を負った負傷者245人、溺死者1036人、
裸で泳ぎ生還した者1257人と驚異的な惨敗であった。<

このような問ひを発すれば、大多数の一般の人々だけでなく、歴史学の専門家さえ、
その大多数が、「『歴史』であるに決まっているではないか。なぜ、そんな
奇妙なことを尋ねるのか」と思うだろう。無論、私も、この「記録」が「歴史」
であることを否定するつもりはまったくない。というのも、この「記録」は、
「歴史」として伝えられることを明確に意図して残されたものだからである。
であるならば、詳細な史実の解釈には様々な異論があり得るにしても、
「『歴史』なのだろうか」と問ふのは、そもそも、ナンセンスであることに
なる、と結論付けられそうだが、私は、そのようには考えない。それは、
私が問題にしてるのが、この「記録」が「歴史」であるか否かではなく、
それが「どのように『歴史』として成立しているか」であり、さらには、
「『歴史』として成立するとは、どのようなことか」であるからである。
0365考える名無しさん
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2021/02/07(日) 11:26:56.500
そう言い換えても、私が何を問題にしているのか、多くの人々には、
隔靴掻痒に感じられるだろうから、私の勝手な推論の結論から先に述べよう。
それは、この「朝廷軍の敗北」を記録した「巣伏の戦い」は、それが
史実を伝えるという形式をとっている、つまり、そのことにより、
残された記録を歴史として成立させているにもかかわらず、その実、
記録しているのは、胆沢(いさわ)扇状地を農業用ににする大規模な
水利事業を「征夷の記録」として創作により書き換えた「伝記」だろう、
ということである。

「茂井羅(もいら)」という呼び名は、人名としても他に類例の見られない
奇妙なものであることを先に指摘したが、では、通例、「アテルイ」と
読まれることになっている「阿弖流爲」はどうなのか。「茂井羅(もいら)」
という一人の女性が単独で大規模な土木事業に着手することは、常識では
考えられないと述べたが、では、胆沢(いさわ)が水利事業によって、
それなりに大きな規模の農業に適する土地になる以前、「阿弖流爲」と
呼ばれる「蝦夷の族長」は、どのような生活基盤により、大規模な
朝廷軍を惨敗させるほどの勢力をその地に保っていたのか。

無論、私は、大規模な水利事業が行われる前には胆沢(いさわ)が無人の地
であったと考えているわけでも、そこで武力による勢力争いなしに
朝廷に属する勢力による支配権が確立されたと主張しているわけでもない。
0366考える名無しさん
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2021/02/07(日) 11:40:50.430
>胆沢(いさわ)扇状地を農業用ににする大規模な水利事業を「征夷の記録」として
>創作により書き換えた「伝記」だろう、ということである。

なぜ、詳細な戦いの記録を創作してまでそのような書き換えをしたと私が想定する
のかと言えば、それこそが、「『歴史』として成立するとは、どのようなことか」
という問ひにかかわっている。当時、「歴史」に「史実」として残すことはなぜ
重要だったのかと言えば、それは、統治の正統性を確立するために他ならず、
その統治に関係のない後世の歴史学者が第三者としてそれを研究するためにで
はない。統治のために水利事業は極めて重要であるが、地域でそれを実現する
ことが、その地域を統治する正統性を確立するわけではない。統治支配を
確立するのに何よりも重要なのは、「蝦夷」を「おもぶける」ことであり、
さもなければ、力により征圧することであり、統治支配の権限に正統性を
付与するのは、それを実現したことの記録なのである。
0367考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 11:48:31.350
「巣伏の戦い」が、その実、戦いではなく、水利事業ではないかと疑われる
「状況証拠」は、いくつもある。まず、目につくのが、「1061人もの戦死者」
の内訳である「溺死者1036人」、および「裸で泳ぎ生還した者1257人」
と伝えられる「史実」だろう。続きは、またあとで書き込む。
0368考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 12:48:02.750
水利事業でそれに動員された人々の命がいっぺんに驚くほど多数失われた
としたなら、そのことがそのまま史実として伝えられるはずではないか、
と考えるなら、それこそ「歴史性」を無視していることになるだろう。

なぜなら、その事業は、統治者によって行われているのだから、それが
現代の人々から見れば、そのような事業を成し遂げるのに当然、その
リスクが伴う自然の力によってもたらされたものであれ、偶発的な
災害によって多くの人命が失われる事態は、天の意に背くなんらかの
振舞ひが罰せられたこと、あるいは統治者が天から見放されたことと
理解されて、そのこと自体が統治の正統性を疑わしいものとしてしまう
からだ。現代の日本では、コロナ感染がいくら猛威を振るったところで、
それを今の天皇がどうであるかということに結び付ける人はまずいない
が、古代のまつりごとにおいては、日蝕であれ、干ばつであれ、洪水
であれ、地震であれ、火山の噴火であれ、その事象を統治者と結び付け
て考えることはごく自然なのである。それに対して、戦いで人命が
失われることは、無論、統治者の資質と結び付けられるとしても、
あらかじめ予期されている。
0369考える名無しさん
垢版 |
2021/02/07(日) 13:58:28.550
胆沢(いさわ)は、なぜ「いさは」と呼ばれるのか、その理由は明白である。
「蝦夷(ゑぞ)」が住んでいたとされることから、「蝦夷(ゑぞ)」=「アイヌ」
と理解して、アイヌ語からこの地域の地名を説明しようとする人々が
少なからずいるが、胆沢(いさは)は地形とその名称が日本語としてそのまま
一致しており、特別な解釈を必要としない。「沃(い)」、すなわち、水が
注ぐこと/それによって運ばれる土砂(ただし、「沃」は、当て字であり、
既に見たとおり、「衣」、「依」などが当てられる場合もある)の「沢(さは)」
である(岩波古語辞典では、「沢(さは)」について、「谷の口に近い、
山かげの地をいったらしい」と説明している)。

http://www.thr.mlit.go.jp/sasala/vol_7/vol7_2f.htm
>日本最大級の扇状地として全国的にも知られている「胆沢扇状地」。
急峻な山あいから土砂を運んできた川が平野部で一気に開けると、
そこに土砂などが扇状に堆積します。<

では、なぜ「胆嚢(たんのう)」の「胆(たん)」が「沃(い)」に当てられて
「胆(い)」とされるのかと言えば、これも、例えば、「熊の胆(くまのい)」
や「胆嚢」を見れば、すぐに分かる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/熊胆#/media/ファイル:Medv_jelch.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/胆嚢#/media/ファイル:Gray1095-gall_bladder.png

胆嚢は、解剖学的にその機能を見れば、胆汁を放出する器官であるが、
形だけから見ると、流れからの土砂を貯めている場所のように見える。

私が、流れに運ばれる土砂に好んで「沃(い)」を当てるのは、この表現が
中国語の「沃」の発音を流用しているからではなく、日本語としてイメージする
のに最も好都合だからである。しかし、ではなぜ実際には「沃」が日本語の「い」に
当てられることがほとんどないのかと言えば、この漢字が「沃野」のような
ポジティブなイメージばかりではなく、むしろ、土砂災害を直接的に
イメージさせ、そのことにより、忌避されるからだろう。
0370考える名無しさん
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2021/02/07(日) 14:21:00.860
堰の呼び名である「茂井羅(もいら)」が、人名に由来するとする伝承が、
いかにも後付けの説明であり、擬人化であるように思われるのと同様に、
「阿弖流爲(あてるい)」も、いかに詳細な「史実」としての記録が
「歴史」として残されているにしても、私には、擬人化を基にした
創作であるように私には思われる。というのも、「阿弖流爲(あてるい)」は、
「胆沢(いさわ)」の地と密接に結びつけられていることがはっきりして
いるからだ。「阿弖流爲(あてるい)」はまbク、人名として滑�ュであり、
それが「蝦夷(ゑぞ)」の名前だからだと言ってみたところで、アイヌとして
明白に解釈できるわけでもない。他方、「阿弖流爲(あてるい)」の
「阿(あ)」は、「あた(辺)り」のように不特定に離れた場所を指すのに
用いられる発音であり、「弖(て)」は、その用法が不明だが、万葉仮名で
同様に「て」に当てられる漢字には「底(て)」がある。「流(る)」は、
漢語としては「る」として、そのまま流れを表すのに用いられる。
「爲(い)」は、漢語としては「い」として、動作を表すのに用いられる
が、「胆沢(いさわ)」と関連付けるなら、「沃(い)」である可能性も
排除できないだろうと私には思われる。そこで、「あてるい」を
「阿低流沃」と書き換えてみると、ちょうど胆沢扇状地のように
谷から低い方に向かって不特定に土砂が広がって流れるイメージとなる。
0373考える名無しさん
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2021/02/08(月) 11:48:48.930
>朝廷軍は巣伏の戦いで1061人もの戦死者を出した。

逆方向で考えてみるといい。胆沢の治水ために大規模な労働力を動員して、
胆沢扇状地を農業に適する土地に変え、胆沢城を完成させる事業を実現する
ことができたとして、そのために、「1061人もの戦死者」に相当する
ような人々の命が失われたとしたら、それをそのまま統治者が実行した
ことの「史実の記録」、すなわち、「歴史」として書きとどめて残す
だろうか。どうせ労働力として使われた人々の命など、いくら数多く
失われたところで「ものの数に入らない」、無視すればいいというわけに
はいかない。というのも、多数の人々の命が犠牲になったことは、
事実として覆い隠しようもなく、それが水利事業を進めている最中に
「自然の力」によって失われたとして語り継がれたなら、その事業を
直接に指揮した統治管理者はもとより、その事業によって完成された
場所そのものが「天に呪われている」ということになりかねない。
大勢の人々の命が失われたなら、やはりそれを、人々が受け入れることの
できる形で説明する語りの必要性、すなわち、英語で表現するなら、
"accountability"が生じるのであり、その"accountability"に応えるのが
歴史語りである。
0374考える名無しさん
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2021/02/08(月) 12:08:32.780
https://kotobank.jp/word/阿弖流為-425786
朝日日本歴史人物事典の解説
>8世紀後半,陸奥国胆沢地方(岩手県)を本拠とした蝦夷の首領。
大墓公(「たいぼのきみ」とも)を称し,阿弖利為とも書く。跡呂井(水沢市)の地名を
今に残す。延暦8(789)年3月,いわゆる巣伏村の戦で征東大使紀古佐美の率いる征討軍
を大敗させたが,同21年,坂上田村麻呂が胆沢城を造営し始めると,これと戦うことなく,
盤具母礼と共に一族五百余人を率いて投降した。<

土地の呼び名が、当てられる漢字の読みによって変化することは常識である。
ところで、「跡呂井(水沢市)の地名を今に残す」と言われる、「跡呂井」を
万葉仮名として読む、つまり、1つの漢字に1つの発音を当てて読むと、
「とろい」もしくは「どろい」となる("o"の発音はいずれも乙類である)。
その一方で、「阿弖流為」の「弖」は、万葉仮名では、「て」もしくは「で」
の発音を表すように用いられ、同じく「て」もしくは「で」を表すのに
用いられた万葉仮名の漢字には、漢字としては「泥(でい)」と読まれる
「泥(て/で)」がある。

さて、万葉仮名で「どろい」と読むことができ、漢字として読めば
「あとるい」と読むことができる「跡呂井」と「阿弖流為(あてるい)」は、
どちらが先になのだろうか。
0375考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 12:14:35.930
「阿弖流為(あてるい)」を戦いに敗れたマイノリティの悲劇として語り継ごう
とする「リベラルな歴史観」に、ニーチェが批判するような意味での
ニヒリズムを感じてしまうのは私だけだろうか。
0376考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 12:24:28.060
勝つべきものが敗れたのはおかしいとなると、歴史修正主義やナチズムの匂いが漂ってくるw
0377考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 13:19:12.240
振る舞ひに伴って生じる"accountability"に人々を納得させられる
ような形で都合よく応える物語("storytelling")が歴史である。
0378考える名無しさん
垢版 |
2021/02/08(月) 18:49:29.260
N’eus-je pas une fois une jeunesse aimable, héroïque, fabuleuse, à écrire sur des feuilles d’or, — trop de chance ! Par quel crime, par quelle erreur, ai-je mérité ma faiblesse actuelle ? Vous qui prétendez que des bêtes poussent des sanglots de chagrin, que des malades désespèrent, que des morts rêvent mal, tâchez de raconter ma chute et mon sommeil. Moi, je ne puis pas plus m’expliquer que le mendiant avec ses continuels Pater et Ave Maria. Je ne sais plus parler !

RIMBAUD : Matin (1873) Une saison en enfer
0379考える名無しさん
垢版 |
2021/02/09(火) 10:25:35.090
>「茂井羅(もいら)」という呼び名の解釈について即断する必要はない

このように保留したが、私は、「茂井羅(もいら)」にせよ、「阿弖流為(あてるい)」
にせよ、「跡呂井(あとろい/*どろい)」にせよ、「胆沢(いさわ)」の「胆(い)」が
日本語の古語の「沃(い)」として適切に解釈されることから、すべて同様に
「沃(い)」に対応していると断定しているわけではない。というのも、これらの
いずれの漢字の読みも、現代語では「い」として区別されないが、古語の発音
においては、以前に指摘したとおり、「泉/出水(いずみ)」の「い」と
「井戸(ゐど)」の「ゐ」は、それぞれ、「い」:外に出ていく様態、
「ゐ」:外に出るようとする動きを抑える様態を表すものとして区別されていた
と考えられるからだ。すると、少なくとも「茂井羅(もいら)」と
「跡呂井(あとろい/*どろい)」の「井(い)」は、その漢字によって表される
とおり、「井(ゐ)」として、外に出るようとする動きを抑える様態を表して
いた可能性が考えられることになる。
0380考える名無しさん
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2021/02/09(火) 10:42:32.270
とこどで、日本語において「い」と「ゐ」の区別はどのようにして失われた
のだろうか。「泉/出水(いずみ)」の「い」が「沃(い)」に関連付けられて
イメージされるとすれば、川沿いの地域などの地名としての「い」の発音は、
当然、水や土砂が流れ出ることを想起させることになり、それがその地域
に生活する人々にとって望ましくない事態であると考えられるなら、「い」
の発音にもともと当てられた漢字は忌避され、「外に出るようとする動きを
抑える様態」をイメージさせる「ゐ」の発音に当てられた「井」などの
漢字が代用されることになったことは十分に考えられる。すると、
もともとの表現に用いられていたのが「い」であるのか、「ゐ」であるのか
混乱が生じ、区別することが面倒になったのが、「い」と「ゐ」の区別
が消滅したことの一因ではないか、と私には思える。
0382考える名無しさん
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2021/02/10(水) 08:17:47.100
>>380
東京で人気がある町として知られる吉祥寺の近くには井の頭公園があり、
そこには井の頭池がある。古地図を見ると、その池は、井頭池
(ゐのかしらのいけ)と表記されているようである。
https://kotobank.jp/word/井の頭公園-435424
井の頭公園(読み)イノカシラコウエン
いのかしらこうえん〔ゐのかしらコウヱン〕
その一方で、かつて、大泉村(おおいずみむら)と呼ばれる村が存在し、その名称は、
>村内を流れる小井戸川(現在の白子川)と、その源流の泉(井頭池)とに
ちなみ、当初は「小泉(おいずみ)村」として提案されたものが転じたものである<
とのことである。https://ja.wikipedia.org/wiki/大泉村_(東京府)

さて、井頭池の本来の呼び名の発音は、「ゐのかしら」だろうか、それとも
「いのかしら」だろうか。
0383考える名無しさん
垢版 |
2021/02/10(水) 09:45:35.620
>>379
「阿弖流為(あてるい)」は、「悪路王」とも呼ばれたと考えられるわけだから、
「跡呂井(あとろい/*どろい)」という地名と考え併せると、
「阿弖流為(あてるい)」≒「あ(悪)く・で/ど(泥)・ろ(流)・為(ため≒"reservoir")」
として、文字通り、牛馬も人も通れないほどの沃土の「泥溜め」であったという
解釈も可能なわけだ。
0384考える名無しさん
垢版 |
2021/02/10(水) 10:12:38.360
「胆沢(いさわ)」の「胆(い)」も、日本語の古語の「沃(い)」として
解釈したわけだが、「沃(い)」は、流れ注ぐ作用から見れば「い」と
発音することが適切だが、その作用によって運ばれる土砂が溜まる
ことから見れば、「為(ゐ)」と発音される方が合っているだろう。
「胆/膽」の中国語の想定される中古音は、「Middle Chinese: /tɑmX/」
であり、中国語の表現としては、"inner containe"を意味するようにも
用いられるとされるのだから、日本語の「ため(為/溜/貯)」は、
「胆/膽」の中古音の"/tɑmX/"が日本語として開音節に移されて
"tɑme(ため)"となったのではないかという可能性も検討に値するように
思える。ちなみに、中国語でウニは「海膽」と呼ばれ、画像を検索する
と、ドロドロしたイメージのウニの画像が沢山出てくる。
0385考える名無しさん
垢版 |
2021/02/10(水) 10:32:33.340
>体系/規則は、内部に備わっているのでも、外部から与えられるのでもなく、
模倣によって類推され、見出され、応用されることによって、絶えず生成され、
変形され、維持されている、常に暫定的に折り合いがつけられているもの
に他ならないのだ。<

このため、言葉の表現を解釈するのに、用いられる様々な発音とそれによって
想起されるイメージの関係を固定的な定義の積み重ねによって構築しようと
するなら、表現がどのような暫定的な折り合いによって可能となっている
のかが見失われ、全体としてカオスがもたらされる結果となるだろう。
逆に、もし仮にそのような固定的な定義の積み重ねによって、言葉の表現が
全体的な体系として明確化され得るとしたなら、世界には一つの固定された
共通の言語が存在すれば済むことになる。私は、言葉をそのようなもの
であるとは考えていない。
0386考える名無しさん
垢版 |
2021/02/10(水) 12:21:30.090
どないだ?
0387考える名無しさん
垢版 |
2021/02/10(水) 16:02:09.260
ウンタンウンタン♩
0389考える名無しさん
垢版 |
2021/02/12(金) 11:01:47.990
「『沃(い)』(ただし、「沃」は日本語における当て字)、すなわち、
水が注ぐこと/それによって運ばれる土砂」に関連して、例えば、
「い(言)ふ」は、「い+ふ」という再帰表現であり、「い(言)ふ」とは、
自らの思ひを「吐露」する行為なので、「沃(い)」≒"pour out/吐露する"
ことの再帰表現であるとそのまま理解することができる。その一方で、
古語において「い(食)ふ」は、逆に食べ物を「口に入れる」行為なので、
"pour out/吐露する"とは逆方向の作用と解釈されることになるだろう。
このように、ひらがなで表記すれば「いふ」として同じとなる表現が、
まったく逆方向の作用を表すことになることに、既に何度も指摘してきた
とおり、日本語において再起表現を形成する「〜ふ」の用法の多機能性が
反映されている。「い(食)ふ」の名詞化である「いひ(飯)」は、
岩波古語辞典では、「〈イヒ(言)と同根。口にするものの意〉」として、
その代表例として「米などを蒸したもの」を挙げ、さらに「かゆ」の
項目を参照するように示しているが、「い(言)ひ」が、英語にするなら
"pouring out (of one's own thoughts/feelings)"に対応するのに
対して、「い(食)ひ」は、"pouring in"に対応し、さらに「いひ(飯)」は、
"(something) to be poured in "に対応すると考えられるので、
「いひ(飯)」そのものが、もともとは、かなり現代の「かゆ」に近い
流動状に調理された食物であったのではないかと思われる。ちなみに、
岩波古語辞典で「かゆ」の項目を参照すると、現在の飯に相当する
ものは、古語では、「堅粥(かたかゆ)」と表現され、「米を甑(こしき)
で蒸したものは強飯(こはめし)といった」と記載されている。
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