倫理哲学
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現在では認識論や存在論に比べて軽視されがちだが、古来から「倫理」こそ哲学の最重要テーマ 倫理学あるいは道徳哲学とは、一般に行動の規範となる物事の道徳的な評価を理解しようとする哲学の研究領域の一つである。 法哲学・政治哲学も規範や価値をその研究の対象として持つが、こちらは国家的な行為についての規範(法や正義)を論ずることとなる。
ただしこれら二つの学問分野が全く違う分野として扱われるようになったのは比較的最近である。 古代人や中世人にとっては、たとえば「人を殺すのは悪いことか?」というのが難問だった
今なら「悪い」でファイナルアンサーだが、昔はそうでもなかった 倫理の基準を確立するのは、見た目ほど簡単なことではなかった 昔は、法律と倫理は切り離せないテーマだった
どちらも哲学のメインテーマ 善悪の基準に絶対的なものは無い。
だから倫理は無意味 スピノザは啓蒙思想に感化された合理主義者
彼の哲学の特質からして前提を見誤ると誤解を生みやすい この世は仮想現実
仮想現実なのに、なぜ人を殺してはいけないのか?
これが哲学の倫理問題 >>14 ないよ。何故なら千葉の海まで到達してるから 人殺しているのは伊豆血が繋がない方の伯父さんだ。血が繋がっているのが伯母さん 伯母さんは三人
伯父さんは二人。
親父が三男で末っ子。明宏くんが独り身でいる。英が結婚して奥さんが身籠っている。明宏君のお姉さんが一人いる。 俺は何も無いし、していない。
いとこはみんなことごとく乗り越えている。 俺は伊豆大島に長い期間アルバイトしに行ったことがある 伊豆大島の島民が夏祭りで全員がうまいパラパラを踊っていた。 誰かどこか傷つく。
そして無傷でいる人間は一人だけ。それが「星降る星空の守り人」だったというわけだ 横浜連中に言っといて「最後まで会わなかったけど楽しかったよ」 俺の一生のうち会うことがあるのは一人だけだな。さようなら、みんな。ロング・グッバイ。 最上義守
最上氏は源氏斯波氏流で初代出羽山形藩、最上義光の父にあたる。 松前 慶広(まつまえ よしひろ)
松前慶広は、戦国時代から江戸時代初期にかけての戦国大名。 蝦夷地松前藩の初代藩主。 官位は従五位下民部大輔、志摩守、伊豆守。 旧字での表記は慶廣。 三浦義明の弟為清が所持している蘆名の地にちなんで蘆名姓を名乗ったことに始まる。
桓武平氏良文流
これって三浦氏だね。 ざっくり言えば「人の道」なんだろうけど、
「道」がまた難しいから・・ 「最近の連中は、倫理観が薄れておるな?」
昔の哲学者はたいてい、これを動機にして哲学をやっていた 現代人はそれを忘れて、哲学を知的な遊戯のように考えている 今とは違って、戦争で人がバタバタ死ぬのが当たり前だった時代
「なぜ、人を殺してはいけないのか?」を説明するのは難しかった 近代ヨーロッパでは、無神論が流行した
デカルトやパスカルは、「これではいけない。神の存在を証明しなければ」と危機感に駆られた
近代哲学は、そこから始まった 倫理なんていらないよ
人間の作り出す幻想だよ
何をやっても法で裁かれるのみ
自然法などない 倫理の悪しき正体は体制擁護にある
戦争では平気で人をころすくせに
犯罪を紙切れ(法律)で規定するのは
社会を防衛するためであり
悪だからではない
そんなものはない すべて脳の問題だろ
「責任」は仮想の観念である
人間に自由意志などというものはない 人間ごときに証明できる神は
超越とは言えないから
崇拝に値しない >>52
無法者(と呼ばれる勢力)が武力によって体制を覆すことは多々ありますが、
そんな体制を覆すような人間でも結局は自然と決まりごとを作ります
なぜか「誰もが自由にしても良い」とはなりません
>>53
「守るのは何か」
「守られるのは何か」
を考えた場合、倫理は決して体制擁護のためにあるわけではないと思います
法よりももっと普遍的なものです
仮に人間の生理的欲求を尊重し、倫理は捨てるべきものである、とするならば、
人間は怒りに任せて人を殺し、性欲に任せて性交し、欲しいものは強奪する世界に生きなければなりません
そういった世界では人を怒らせれば殺され、レイプされ、財産は強奪される世界でもあります
>>54
動物よりは(自由意志は)あるはずです
「責任」という観念はすぐ現実に具現化されてしまう未来であり、
それを理解できるのは人間だけでしょう
その責任を果たす果たさないを決められるのは人間だけです
>>55
人間が人間を崇拝できないから神が崇拝されていたと思います
とはいえ、それが理由で人間が神を演じていたわけでもないでしょう
そういう人間もいたでしょうが、そんな人は崇拝に値しなかったと思いますね 脳が物質的に反応してるだけなのが
我々が自由意志だと思いこんでいる当のそれである >>58
人間の「意識」が起こす反応が不確実性を生みます
その前段階の「脳が物質的に反応しているだけ」の状態では不確実性は生まれません
沸き起こる情動(怒りや恐怖)を感じられること、これが自意識をもつ動物だけが得られる感覚です
そうではない動物はその情動に逆らうことができません
怒りを堪える・恐怖に打ち勝つ、などの行動ができる動物は、なぜそのような行動ができるのでしょうか?
たとえば「言語による思考能力を持つ」ということは自意識を持つ人間なら誰にでも備わっている能力です
しかし、たとえ人間でも環境に「言語」というものがなければ野生の動物とほぼ変わらない行動をするでしょう
生まれつき自意識を持った人間がいないように、生まれつき言語による思考をしている人間もいません
だから「思考」という人間なら極当たり前にしていることでも、
動物界のなかではもの凄く特別なことである、という認識が必要です
「言語」が果たす役割はものごとの抽象化です(他にもいろいろありますが)
その言語を用いて思考し、人間は行動するわけです
その行動が他の動物と違うところは、
人間の場合「未来予測をしている」という点です
つまり、未来を予測できるから人間は情動に逆らって行動できる、といえると思います
もちろんすべての情動に逆らえるわけではありませんので「動物よりは(自由意志は)あるはずです」としました
予想された未来とは違うことをする、このことについては良し悪しはあるでしょう
倫理というのはその行動に対するひとつの基準です それはただの高次脳機能なのではないか
確かに動物よりは優れている
思考も意識も精神も、すべて脳という物に還元されるのだ >>61
たしかに人間の脳はとても高性能ではありますし、
脳という物がなければ思考も意識も精神も生み出せないのかもしれません
ただわたしはどんなに高性能な脳機能があったとしても、
ただそれだけでは自我に目覚めることはなかったと思っています
自意識については意識のハードプロブレムになりますのでここではやりませんが、
もしかすると人間の意識(自意識)が錯覚に過ぎない実体のないものである、という可能性はあると思いますし、
自由意志だと思っていた行動は環境に左右された必然的なものである、ということもあり得るでしょう
とはいえ「倫理哲学」スレです
「わたし」というものが錯覚で実体のないものだとしても、
なぜその錯覚が倫理をこの人間社会に要請してしまうのか、ということについて議論するスレです
それがこのスレの前提です
世界のどこへ行っても、
自意識を持つ人間の社会があれば「倫理」というものが(程度の違いこそあっても)存在しています
絶対に「何をしても自由である」、とはならないのは面白いと思いますね そうですね。倫理はどこの文化でもいつの時代でもありますね。 心理学者のバラス・スキナーさんは自著で、
「言語コミュニティの助けがなければ、あらゆる行動は無意識となる。
意識は社会の産物だ。意識は自律的な人間の独壇場ではないだけでなく、
孤立した人間には手の届かないものなのだ。」
と述べています。
野生児を研究した哲学者も似たような感想を言っていました。
ただ、前後の文脈を無視していきなり「意識は社会の産物だ」と言われても納得する人は少ないと思います
少ないとは思いますが、しかし少なくともこの掲示板を見ている人の中で、
言語コミュニティの社会から外れて生きてきた人はいないと思います
これは間違いなくいえることでしょう
仮に、自分が自分自身であることに気づく条件として、
言語コミュニティによる「社会性」が必要なのだとしたら、
自我を維持するために「倫理」を社会に要求することもあり得る、と思いました
そう考えて「倫理」を声高に唱えている人はいないと思いますが、
もしかしたら「倫理」というものはそういう性質なものかも知れないですね 倫理的に年上女性にコミットすること。若い世代にも救済もれなく。いろんな意味で。 数の多さが使えないからだめさ。大漢和辞典じゃないと男子は。 いろんな要素をいろんな棚に入れる意識モデルのほうがいい。 野生児の研究ですか。私も昨日倫理のことを考えるときに
その研究のことを考えたんです。奇遇ですね。 世界は「万人の万人に対する闘争」にはなりませんね
不思議です 人を殺してはいけないのは社会の防衛の為だとか
ルールだから法律で決まってるからとのみ答える人が居たら恐ろしい >>77
野生児の本を買って読んだ理由としては、
「言葉」という環境がなければ人間は自動(無意識)で行動するのではないか、と思ったからです
たとえば酔っぱらって記憶がないのにもかかわらず無意識的に行動してしまうことは人間でもあると思うんですが、
そもそも言語がない環境で生まれ育ってなければ、言葉による思考ができないので感情を抑制できない、
つまりその場その場の状況に対して反射反応で行動してしまうこともあるのではと思いました
日本人はなんでも擬人化するので動物でもなにか思考して行動しているだろうと(自分がそうだから)思っている人もいると思いますが、
わたしとしては人間以外の動物はほぼ自我がないだろう、と思っています
ということは野生児もそうなのだろう、と思ったわけです
>>79
しかしほとんどの人は「倫理」に関しては受け売りで言いますよ
「倫理」の本質を実感しているような人は、
一度や二度は人の道に外れたことをしているのではないでしょうか?
わたしは一度精神を病んだことがありますが、
そのときの経験から「倫理」の本質を実感したわけではありません
むしろ>>79のように思っていた側の人間ですね
精神を病んだとき学んだ(発見した)ことは、
どんなに何度も頭の中で「死んでも良いんだ」と思っても体は死から遠ざかろうとする、死を回避しようとする、ということでした
そこは人間の意識と肉体の本能は違うものなのかな、と考えさせられました ナチスの時代は多くの人たちがナチズムに染まってしまった
あのような時にもっと倫理に力があればと思う >>81
倫理に力を持たせられるのは、倫理のために死ぬことができるような人だけです
しかし、第一次世界大戦後のドイツで倫理のために死んでみせても意味はなかったと思います
あの頃のドイツに必要だったのは「未来への希望」です 確かにあの状況では倫理のために死ねる人だけかもしれない
ごく一部だが居たようですが 有名なのはゾフィー・ショルでしょうね
あの頃のドイツ人の中で彼女がいたことは、
ドイツ人にとって救いになった、といえる見方もあると思います
とはいえ
「あのような時にもっと倫理に力があればと思う 」
という感想にはなにかを考えずにはいられません
「あの頃のドイツ人に高い倫理観があれば、ナチズムに染まらずに済んだのに」
ということなのでしょうか
あの頃のドイツ人と現代ドイツ人の倫理観にはさほど違いはないでしょう
今のドイツ人がナチズムに染まらないのはナチズムがああいった結果を出したからといえます
「失敗」「世界的大惨事」という結果が、今のドイツ人の前提としてあるわけです ナチスによる惨劇は、周りの大勢が同調・追随したからこそ起きた――。
第2次大戦末期の実話をもとに、独裁者がいかに作られてゆくかについて問題提起した独・仏・ポーランド映画
『ちいさな独裁者』(原題: Der Hauptmann/英題: The Captain)(2017年)が8日公開される。
「ナチスはこれまでドイツで加害者視点で語られてこなかった」と話すロベルト・シュヴェンケ監督(50)に、インタビューした。
「ナチスは加害者視点では語られてこなかった。
ドイツは1950年代から過去に取り組む映画を作ってきたが、
いずれも本当の意味で戦争に向き合ったものではなく、ほとんどはヒーローのような人物の視点から語られる。
『悪いナチス』がいる一方で『良いナチス』もいた、というものだ」
「常軌を逸した一人の人物=ヒトラーだけが恐るべき破滅を招いたという描き方だ。
秘書という『良いナチス』が登場することにも、とても憤りを感じる。
実際はほとんどの人たちは当時、立ち上がったり抗ったりせず、ただどっちつかずの形で生きただけだ。
立ち上がった人の多くは亡くなったし、彼らの映画を作るのは何も悪いことではないが、
人はそうしたヒーロー的人物になりたがり、倫理的な視点を持った人物と自分を重ね合わせて見る方が楽だと感じる。
そんな風に安心して見られる映画など作りたくなかった。
歴史はそうはなっていないのだから」
「もし私たちが血にまみれた歴史を忘れ、
なりたい人間像に自分自身を当てはめて安らぎを得たら、非常にもろい状態になる。
あやまちを防げるのは自分自身に正直な場合だけで、忘却を決して許してはいけない。
奈落の底を覗き込み、どれだけ身近に起きたことなのか知る必要がある。
ある意味、この映画は予防薬だ」
https://globe.asahi.com/article/12122433 映画『白バラの祈り』と社会階層
http://hatanaka.txt-nifty.com/ronda/2006/02/post_0228.html
同居人に連れられて映画を観ただけなので、史実について詳しいわけではないし、ドイツ史に明るいわけではない。
だが、なんだかズキーンと胸に刺さるフレーズがあった。
わたしが引っかかって仕方がないのは、ゲシュタポの取調役モーアが、主人公のゾフィー・ショルに向かって述べる一連のセリフだ。
モーア 君は特権階級なのだ。君と君の一味は、恥知らずに特権を濫用している。
君たちは、われわれの金によって戦争のまっただなかで大学で勉強することを許されている。
私は糞みたいな民主主義の時代には、仕立屋の修行しかできなかった。…なぜ警察官になれたか、話してやろうか?
私をいまの地位につけてくれたのは、プファルツを占領したフランス人たちであって、民主主義ではない。
ナチズムの運動がなかったら、私はいまもピルマゼンスで田舎警察をしていただろう。
ヴェルサイユ不平等条約、インフレ、経済的困窮、失業、そういったすべてをわれらが総統アードルフ・ヒトラーが解決してくれたのだ
ゾフィー 反論(略)
モーア 英雄的な戦いへと導いたのだ!君たちは、君たちが軽蔑し、闘っている相手の人間とまったく同じ配給券を受けとっている。
早い話が、君たちはわれわれよりもましな生活をしているのだ。そんな必要などまったくないのに…いったいどうして反抗などできるんだ?
総統とドイツ国民に守られているくせに…
ゾフィー 反論(略)
モーア …(大声で)われらがドイツ兵士は帝国と同胞を金権政治やボルシェヴィズムから守り、偉大なる自由なドイツのために戦っている。
二度とドイツの国土を占領されてはならん!それだけはいっておくぞ!
この時代、まだ少年だったかのユルゲン・ハーバーマス先生も高射砲部隊の補助隊員に動員され、
ヒトラー・ユーゲントにも所属していた(中岡成文、2003:22)し、「沈黙の螺旋仮説」エリザベト・ノエレ=ノイマン先生もナチの新聞に寄稿していたとされる。
ルーマン先生は何をされていたのかしらないが、幼いながらも複雑性を縮減していたかもしれない。
いずれにせよ、国を挙げてのヒステリックな昂揚の中で、民主主義時代には「良心的」だった政治家、法律家、言論人、文化人、起業家、役人といった人々が、
みんなナチに協力せざるを得なくなった。無理もない。だれだって特権階級のレッテルを貼られて、吊し上げられたくない。
不安の時代にあって多数者がみずからを「弱者」「負け組」と感じ、特権階級への怒りを鬱積させ、アジテーターが国民を乗せてしまえば、
こういう社会はやってくるのだろうと思う。ゾフィーたちは破壊活動や武装闘争をしていたわけではない。
反戦ビラを配布するという、人々の理性に訴えかける言論活動をしただけだ。
ゾフィーたちを殺したのは、ナチが提示した社会システムに「希望」を与えられた圧倒的多数の国民かもしれない。
いまのわたしたちが暮らす世界は、
みずからの所属する組織(国家でも企業でも労組でもなんでもかまわない)の批判者や少数者を寄ってたかってイジメぬくルールに支配されていないだろうか。 「あのような時にもっと倫理に力があればと思う 」
「倫理に力があったなら」という願望は他人に高い倫理観を要求することになります
ナチスによって断頭台へ送られた修道女、シスター・マリア・レスティトゥータという方がいたそうですが、
彼女の高い倫理観の根拠は信仰心です
もし彼女に神への信仰心というものがなかったら、
自身の命を懸けてまで高い倫理観を貫き通すことは不可能だったと思います
個人的には、
「倫理に力があったなら」と「神に力があったなら」はほとんど同じ意味になると思っています
また、神(宗教)を根拠にしない、他人への高い倫理観の要求は危険だと思います
神を根拠にするのも危険ですけどね 倫理に詳しそうな方々に伺いたいんだけど
何を重んじるかによって倫理の基準は変わっちゃうのかな
例えば、平和を重んじる人にとっては戦争から遠ざかろうとするのが倫理的で、規律を重んじる人にとっては体制の維持が倫理的、みたいな感じで
それとも、倫理学では「この倫理が絶対正しい」みたいなのが定まってるものなのかね? >>89
進化するとかじゃなくて
無数に存在しえるよねって感じ
AさんとBさんが違うものを重んじてたら
AさんのBさんの倫理基準は異なって来るし
どちらが正しいというのは決まってない
(どちらが正しいと判断する人が何も重んじるかによる)
で合ってるのかどうか知りたくて
倫理学ではどう決まってるのかな >>90
ほんの1つか2つだけだけどはっきりしてる倫理もある
「個に対する罪よりも全体に対する罪の方が重い」とか
「大人が犠牲になることよりも子供が犠牲になることの方が由々しい」とか >>91
> 「個に対する罪よりも全体に対する罪の方が重い」とか
→「罪レベル10x被害者1人」より「罪レベル10x被害者10人」の方が重い罪みたいな意味?
> 「大人が犠牲になることよりも子供が犠牲になることの方が由々しい」とか
→コレは理由が分からないな
「何が罪」、「どの罪がどれだけ重い」はやっぱり決まってないのかな? >>92
例えば日本国の法律では内乱罪と外患誘致罪が一番罪が重い
通貨偽造なんかも重めの刑罰が設定されてる
子供は準全体、みたいな感じかな >>93
多分法律は(法律作った人が「皆の共通認識はこうだろう」と思った)倫理基準が元になってると思うから、「全体への罪は個への罪より重い」が反映されてるんだね
ところでその「全体への罪は個への罪より重い」の理由はやっぱり「罪500g x 10個」みたいな文字通り重さみたく計る考えなのかな??
それと
「子供の犠牲」の「犠牲」は「死」の意味かな?
その場合は上と同じ理由で残り寿命から考えて罪が重くなる?? >>94
回答になってるかどうかわからないけど
子供はまだなんにでもなれる可能性があるから犠牲になっちゃ駄目
刑法学は一般的に法学の中でも一番哲学に近い分野とされている
俺の知識じゃこれくらいが限界 もし他にも>>88について
教えてくれる人がいたらヨロシコ >>88
【倫理】
人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道(の立て方)。
倫理とは、辞書では上記の意味になるそうです
その前提を踏まえたうえで、たとえばの話をします
たとえば、社会的に孤立している人がいるとしましょう
人間は誰も信用できない、という考えの持ち主です
その人に対し、「あなたに権力を与え、人間社会について自由にルールを作っても良い」と伝えたとき、
その人は人間の倫理観を高める努力をするでしょうか?
実際は、その人にとって都合の良いルールや法律を作るのではないでしょうか
誰かにとって都合の良すぎる法は多数の人間によって覆される運命にあると思いますが、
それはそれとして、
倫理とは、ある程度の人間同士の信頼関係を前提としなければ成立しないものである、ということになるかと思います >>98
それは当然そうなんだけども
俺の疑問点は、要するに
倫理の基準の置き方なんていくらでもあって
その中で「大半の人が支持しているだろう」と
各自が思っているもの(共通認識だと思われているもの)が
一般的に言われる倫理、という理解で良いのかって事
だから「論理的にこの倫理しかあり得ない」
という倫理は存在しなくて、
「多くの人が支持する倫理」が
その人達にとっての倫理になる
という事で合ってるのかな?という疑問
倫理学では何かしら答えが出てるのかな?? >>99
求められる倫理は環境によって変わるでしょう
人間の個々の倫理観でいえば絶対的な倫理というものはないです
「倫理を遵守している自分」という姿が他人にとって価値があるかどうかなので >>100
集団で言ったら絶対的倫理があるんですか?
A国とB国で倫理基準が違うとか
あると思います
A国内でも倫理基準を
人間の幸福に置く人、
神様に従う事に置く人
と分かれてておかしく無いと思うんですね
それで、それの内、
どこ派閥が正しいかは論理では決まらなくて、
どれが正しいとは言えないのではないかな?
と疑問に思うんです 参考になるかどうか、例えば精神医学は精神病を、
「本人か社会のいずれかが悩む場合に精神医療が介入する」
と定義しています。それを類型的に分けて処理しているだけで、
精神病の定義としてはそれ一つしかありません >>102
それは個人や社会が他の倫理基準とか価値観とかと合わなくて衝突がある場合に精神医療が役に立つ、という意味になる?? >>102
103の補足だけど
言いたかったのは
「精神医学は解決ツールっぽい感じで倫理基準そのものではないんじゃないか?」って事と
「精神医学が倫理基準だったとしても、それが論理的に導き出される唯一絶対の倫理基準とはならないのではないか?」
みたいな事です。 >>103
ある文化圏で精神病とされるものが別の文化圏ではそうでなかったり
その逆だったりというケースは普通にありうること、とされているはずです >>105
やはりゼロから論理で導き出せる倫理基準はなくて、
「社会福祉」とか「神」とかの基準を
任意に置いたりしないと倫理基準は決まらない
という事なのでしょうか? 1+1=2が倫理で女+男=母、父、子
で1+1=3にするべきとか言い出すときりはないから、例外はあっても規律を守るのが倫理ですかね >>108
数学で公理が設定される様に
前提がないと論理は成り立たないと思うのね
例えば
「人間や社会の利益になるのが倫理的」と置くか
「神が御喜びになるのが倫理的」と置くのとでは
前提が異なると思う訳
「神が御喜びになる」事と
「人間や社会の利益になる」事が
対立する事があると思うの
自爆テロはテロリストからすれば
神の為に命を差し出す超倫理的な行動だけど、
側からみたら自殺だし殺人だしで超非倫理的だと思う
でも論理でどちらが正の基準とは
決まらないと思うんだ 「規律を守る」もアナーキストとか
だったら多分否定的に見るんじゃないか? >>110
倫理観というぐらいなので規模が拡がると規律となる基準がなんなのかで違って当然でしょうね。 >>112
俺すでに頭おかしい奴の扱いなの??
>>113
つまり倫理学でも
絶対これって倫理基準は存在しないって
論調なのかな 悪いことではなく良いことを検討してみるのはどうだろう
個よりも全体、大人より子供なんだとして
科学で何かを発見することは全体への貢献であり相当な功徳なんだろうか、とか、
ユニセフマンスリーサポートとか >>114
まぁ、国によって法律ですら色々違う中、倫理を問うべき問題に対して倫理学の学が問われるわけで、チャネラーは辞書通りの意味を基準にしておけば倫理を問われるような場面に遭遇しないでしょうし。 >>115
倫理の尺度みたいなものを決めたら
善も悪も決まって来ると思う
>>116
ちょっと文意が分からなかったが
倫理の基準が何か自覚してなくても
普段の生活に困る事はほぼないと思う
(一般的にはこうだよね、
っというフワッとした倫理があるから)
でも倫理的にどうすべきかって迷う場面では
やっぱり基準を自覚してる必要があると思うんだよね
それで基準は当人が勝手選ぶ事はできるけども
社会の倫理と衝突する内容なら社会が
それを許さないってだけなのかなと 基本的に、人間の死を引換えにした倫理は成立しないと思います
つまり、倫理を守っていると死んでしまう場合です
どんなに貧しくとも倫理を(周りの人間が)守らせるような環境では、
その人間社会は(その貧しい人間に対して)最低限の生きる保証をしていることが前提となるでしょう
また、死後を保証している場合は、命と引換えに倫理を守ることを良しとする環境もあり得ます
人間ではなかなか難しいのでこの場合は神ということになるでしょう
信仰心による倫理は、信仰心が強いほど周りの環境とは関係なく守られる傾向にあると思います
対人間ではなく、神という絶対的な存在に対する倫理なので、倫理も絶対的になります
宗教から離れるのなら、その人間社会がどの程度の「生」を保証するのかで、
個人が守るべき倫理が相対的に決まってくるでしょう
しかし人間の死は人間の手に余るので、
そういう際の場面では宗教から無関係に倫理を決めることは難しいと思います >>118
同じ社会のメンバーの命を守るのは
多くの場合で倫理的だと思う
ただ、死を代償にすると
倫理が成り立たないとは
言えないんじゃないかな?
例えば死刑判決を受けて死ぬのは
死刑囚にとって倫理的という考え方もできるし、
死刑囚を社会から排除するのは
社会側にとっても倫理的という考え方もできる
(そもそも死刑になる様な罪を犯すのは
全くもって倫理的ではないが、
やっちゃった後の話として)
社会はメンバーの生命や安全を守ってくれるけども
メンバーとして受け入れるには
メンバーにルールを守ってもらう必要があるし、
更生させられないレベルであれば
社会にとって敵になるから殺してでも
他のメンバーを守る
死刑囚側は死ぬ事で社会への危険を減らせるし、
当然、「最悪死刑もある」という事は
他の犯罪への大きな抑止力になるので
抵抗しない事は倫理的
死刑を廃してる国が増えたのは
殺さなくても対処できる(社会の平穏を保てる)と
判断する国が増えたからだと思う 119だけど
死刑の場合、死刑になる程の罪を犯す人は
そもそもその社会で採用されている倫理基準とは
違う倫理基準で生きてる可能性高いかな
死刑囚はその世間とズレた倫理基準のまま死ぬなら
倫理的というよりただ単にしくじって死ぬ人かも >>120
今現在の日本では法で定められていない限り、「倫理的に人を殺す」ということを許容しないと思います
もし死刑制度がなかった状態で、非倫理的な所業で死に値する人間がいて、
それでいて殺されても誰も悲しまない人間だったとしても、
その「死に値する人」を殺した人は他の人間から倫理観を問われることになるでしょう
もちろんそうした場合、社会の要請から死刑制度復活を期待されるかもしれません
「倫理的に人を殺せないから法律で対応してくれ」ということです
そもそも体制維持のために「死刑」という法があって、
それが年代が下っていくにつれ誰もが納得する「死刑」要件まで限定されてきたと思います
(それまでは「倫理」レベルでは考えられないような「死刑」要件があったはずです)
その誰もが納得する「死刑」でさえ倫理的にどうなのか、ということで廃止論や実際廃止にする国があるわけで、
人間の死を引換えにした倫理は成立する、とハッキリ言い切れるものではないと思います >>121
俺もその通り(ハッキリ言い切れない)だと思ってて
「論理的に絶対コレ」という倫理基準は存在しなくて
無数に存在すると思うの
さっきの死刑の例でいうと
121みたいに「人の命」が倫理の基準という人もいるし
119で例としてあげたみたいに
「人間と社会の利益」が基準という事もある
死刑でいうと
各自の判断で殺されたら困るから
ルールに沿って殺すけどこれは別に
「死刑制度が法で定まっていなければ
必ず非倫理な行動と判断される」
という話でななくて
例え原始の時代であっても、
社会を破壊する者を殺して集団を守れる場合、
「人と集団の利益が倫理基準の人達」にとっては
倫理的行動になると思う
同じ理由で戦争についても
「無条件で非倫理的」とはならず
「何を尺度に判断するかによって変わる」と
言えると思う 戦死したら死刑にならない。戦死したいのに死刑とはどういうことだ。 死刑は軍の足かせになる。極東軍事裁判でもそうだ。東条英機が生きていたら
後何百万は殺せた。相手がそれを恐れたチキンだから連合国は弱者。
悪の枢軸よみがえる。 キリストが死んでローマが滅びただろう。復讐は何千年以上続く。
東条にしてもだ。 性犯罪者戦争性犯罪者は死刑でしょうがないが、覗きたかり性暴力、度重なる干渉、殺した戦犯などは英雄扱いでいい。ホシが多いほどいい。 軍事的な死刑制度など国の弱点だよ。敵来ない移民も来ない。過疎だな。 ずっと交戦中なら出ていけるし、英雄扱い。国が平和なのがよくない。
平和は平和弱小下位政府でやってくれ。そこだけ死刑残るだろう。 平和な時は治安面で人員が余るから民の恐怖度が高い。
そういう政府があっちゃいけない。 最初に干渉した男性を死刑にすればいい。度重なれば連帯責任で死刑。 すごいな123から135まで全部同じ人か?
ちょっと文意が分からないものも多いが
多分言いたい事は
「倫理基準は何でもあり得るとするなら、
こんなおかしな言い分も全て通るのか?」
という事だな?
俺が思うに全て通る
例えば「俺のその時の気分次第」という
倫理基準だとすれば本当に何でもあり
でもそんなの誰も納得しないよな?
だからそんなメチャクチャな倫理基準は
一般に浸透しない
俺達が倫理と呼ぶものは
(なんでもあり得るかその中から)
「皆もこう考えているであろう」と
各自が勝手に考えているもの、
つまり各自が「コレが共通認識」と
考えているものか倫理だと思う
ゼロから論理で導き出される事はなくて
普遍的な倫理は存在せず
人によっても国によっても時代によっても
変わるものだと思う 同じルールを守るのかそうでないのか。どんな倫理もそれ以上でない、
ということならほぼ賛成ですね >>137
ルールというか倫理の尺度が、
という意味でだけどそんな感じ
「お前の倫理基準は論理的に間違っている」
という事はあり得なくて
「お前の倫理基準は俺の倫理基準では許容できない」
となるよね、という話
今の日本の社会の倫理は
「人間中心主義+寛容主義」って感じの
倫理基準だと思うけど
これは絶対の倫理基準ではないだろうと 群衆自らの抑圧と気晴らしにお墨付きを与えてくれるもの? >>139
社会の統制と個の自由のバランスを調整するもの、
の方がしっくり来ない >>141
統制の比重が高いとそうなるという意味かな? まったく違う。個は、全体からしか個として規定され得ない。
全体に属さないものは個ではない。
したがって、個は最初から全体を管理すると自認する側に規定される。 >>143
ちょっと言葉が難しくて分かり辛いな
同じイデオロギーを持っている人だけが
そのイデオロギーに従うべき、みたいな意味?? で、個に「個人の死体」とかは入るの?
脳死が人の死なら、脳死した人の体は「死体」なの?
遺骨に「個」はあるの?
「個」がないなら、遺骨をそのままゴミ処理しても構わないよね。
ネアンデルタール人に個はあるの?
ネアンデルタール人の遺体に個はあるの? >>145
逆に俺に聞いてるの??
日本の一般的な倫理というさっきの話題でいえば
個は生きてる現代人の事だよね
遺体は今生きてる人にとって
ぞんざいに扱うのはマイナスだから
丁寧に扱うでしょ
ネアンデルタール人も
ネアンデルタール人なりに
社会とか個の概念はあっただろうと推測するよ >個は生きてる現代人の事だよね
脳死の人は、生きている現代人ではないわけですね
では、脳死の人の体は、「死体」なのですか? >>148
俺はさっきから
「考え方は人それぞれだよね」という
話しかしてないんだけど何か気に触ったのかな?
148的には「絶対コレしかない」という
倫理基準があるの?
「俺は」脳死の人は死体ではないと思うけど
生かしとくのが難しいから
医師とか家族の判断で延命打ち切るんだと思うよ
148の言う絶対的倫理基準だと
脳死の人は死体なのかな?
>>150
じゃあ特に俺と主張の異なる所ないじゃん
結局、「考え方は人それぞれ」で
ただ単に「常識的にこう」っていう基準の倫理を
皆で守ってるだけだろ 138のこの部分に反応してるのは明々白々
>今の日本の社会の倫理は
>「人間中心主義+寛容主義」って感じの
>倫理基準だと思うけど
>これは絶対の倫理基準ではないだろうと
>>153
そこは俺がそう思っただけだから
「日本の今の倫理基準はそんなんじゃない」
という意見は当然あると思う >>154
俺は日本の今の倫理が「人間中心主義+寛容主義」というのは当たってると思うの
早い話、人間は既に失敗しているかもしれない
>>155
「人間中心主義+寛容主義」が失敗って事?
なんでそう思うの? >>156
「人間は既に失敗しているかもしれない」という課題を
キリスト教圏は論理的に反省したりしてるのかなーって想像するわけ
>>157
キリスト教徒の立場で言えば
「人間中心主義+寛容主義」が
間違っているという意味?
キリスト教には詳しく無いけど
「人間中心」の部分が
キリスト教の教義に反するとか? >>158
だいたいそんな感じ
人間が悔い改めるべき課題を、人間以外に対する寛容で胡麻化してる、みたいな
ただの主観だけどね
>>159
確かに原罪みたいなのを
背負って生きてる実感はないよね
自然を愛してるとか言いながら
メッチャ環境も破壊するし
そう言う考え方もあると思う
でも人間にとって良い暮らしが出来たり
人間同士なら多少の主義主張の違いは
寛容さで許されたりして
良い面も結構あると思う
倫理基準は人や国によるっていう前提でいうと
倫理の尺度が本質的に異なる人達って
共存できないと思うんだ
寛容主義だって
「お互いに寛容になりましょう」ってだけで
「私が一方的に寛容になります」って事では
ないじゃない?
まぁ「一方的に寛容になります」
って考えもあっていいけど
すぐに非寛容な主義に潰されると思うの
だから、ある主義に立って
「あ、コイツと共存無理だな」ってなったら
両陣営に寛容主義の考えが乗ってない限り
絶対衝突すると思うんだ
どちらが正しいかは論理では判断出来ないから
という事で、
非寛容な集団は社会から排斥されるべき
だと思う
>>116の補足だけど
これは「人間中心主義+寛容主義」の立場での
考えね >>122
たしかに「人間の死を引換えにした倫理は成立する」とはハッキリ言い切れるものではない、とわたしは書き込みました
しかし基本的に「人間の死を引換えにした倫理は成立しない」とわたしは考えています
基本的に、としたのは例外があって、それは
神が決めたことであれば「人間の死を引換えにした倫理は成立する」と考えているからです
「人間の死を引換えにした倫理は成立しない」という考えの人が、
「人間の死を引換えにした倫理は成立する」とはハッキリ言い切れるものではない、というのは少し立場が曖昧にみえたかもしれません
要は、「人間の死を引換えにした倫理は成立しない」、と言っているようなものです
死刑判決を受けた死刑囚が死を受け入れるのは強制力があるからです
倫理的に死を受け入れるわけではありません
死刑判決を受けても実行するのが自分自身なら、自ら刑を執行する人は皆無といって良いでしょう
死ぬしかないから、自らの行いを悔い刑死を受け入れるのであって、
それを倫理的というのは違うと思います 社会人の下取りが丁寧でない礼儀とか。それでエラーで死刑さ。
そんなことしたら帝国もほろんだしなあ。 >>163
確かに倫理基準にまず「神」を置いて、
神の指示がない部分は別の基準を使うという場合、
「神の意識が有れば例外」は成り立つと思います
(倫理基準を変えれば何でも成り立つ)
死刑囚の例にしても
「人の命」を重視する度合いを強めれば
死刑を執行する側を非倫理的と言う事も出来ますし、
「納得して行動する事」を重視する度合いを強めれば
死刑囚側が死刑を受ける事を
非倫理的とする事もおかしくないと思います
私が言いたいのは
倫理の基準を変えれば何でも成り立つという事で、
どの様な倫理基準も論理で否定されるものではない
という事です
神を基準にしても人を基準にしても良いですが
どれが正しいとは論理では決まらなくて
受け取る人が納得できる倫理基準が
より強く浸透して行くだけだと思うのです
何をもって人々が納得できると感じるかというのは
まだ私もハッキリとは考えが固まってませんが 俺が「考え方は人それぞれ(前提を変えれば何でも成り立つ)」という点をしつこく強調するのは、物事の善悪を倫理で判断する時に、特にその判断で他人と相違した時に、その尺度が何かを意識する必要かあると思うから
例えば、「自然は大切にしなければならない」という割と一般的な考えがあるが、これを「人間の為の資源だから」という理由で捉えるか、アニミズムの様に「自然が偉大だから」と捉えるかで、人間の利益の為にどれだけ自然を害して良いかの倫理判断も変わると思し、前提が違う者同士で話し合っても、前提の違いを無視しては話が出来ないと思う 人間ができないことを倫理基準にすることはできません
モラルを守るために死ぬべきだ、とは言えないでしょう
こういった匿名掲示板やSNSでは言ってしまう人もいるかもしれませんが、
倫理を守るのは人間である、という前提は変えようがありません
ある程度の守るべき基準、というのは長い年月を経て構築されてきました
しかし、さらにより良い世の中にするために、人間の意識を改めるべきだという論も出てきます
ニーチェのいう「超人」とか、共産主義、反出生主義のような意見です
とはいえ人間は生まれたばかりの頃は未熟で成熟するころには死んでしまう生き物です
良い世界を求めるがあまり、人間に高すぎる倫理基準を求めるのは間違っている、とわたしは思います
ナチス政権下、殉教したカトリック教徒の話には感動しましたが、
かといってそれがカトリック教徒すべてに通用する倫理基準にはなり得ません
イスラム原理主義者のすべての人が死を厭わないわけがありません
倫理を考える上で「人間」という前提があることを忘れるべきではないです
前提を変えれば何でも成り立つというほど何でもありなわけではないと思います >>167
当然、倫理基準は守れるものであるべき、
というより守れもしない倫理基準は
守る人がいなくなるので自然淘汰される
ただし、「モラルを守る為に死ぬべきだ」が
成立し得ないとは言えないと思う
例えば、「国を守る為に死ぬ」を倫理だと思う人はある程度いると思う
無理に徴兵されて死ぬという場合、国の為にと納得して死ぬ人は少ないだろうが
これが志願した愛国心の強い人であれば成立する事はあると思う
「それはカルト的思想だ」と切り捨てるのは簡単ではあるが、カルトとそうでない思想はどこで切り分けるだろうか
反社会的思想がカルトだろうか?
むしろ国防は社会体制維持にとても重要だと思われる
一つでも死を認めればカルトだろうか?
国を守る事でむしろ多くの人の命を救っているのではないだろうか
これが国でなくて人類全体の為の死でも判断は変わらないだろうか
俺が思うに、単に「自分達と倫理基準が異なる思想」がカルトなのであって、何がカルトかはどの基準に立ってモノを言うかで変わると思う
どの様なトンデモナイ倫理もトンデモナイ倫理基準なら成り立つ
少なくとも俺の知っている様な社会(今の日本の社会)では倫理の尺度は間違いなく「人間の利益」だと思う
「人間の利益」を押し上げる目的で
広く人類全体に「平等」を求めているし、
人間とそれ以外は確実に区別されて人間が尊重される
人間として生まれれば
人種や貧富の差を問わず人権を持ち
人権の侵害は倫理上は許されていない
社会全体の利益と個人の自由は相反する部分があるが
そこはどちらか一方という事ではなく
バランスを取る様な対処がされている
(国によって死刑の有無が違うのは
ココのバランスの取り方が違う事が理由だと思う)
でも国や時代が違えば倫理基準もまた違うし
どれが一番という事も論理では決まらないと思う >>168
自分の身を犠牲にしても守ろうとするに値するのは「倫理」ではなく具体的な「人間」です
結果的に「倫理」を守ったようにみえても命を捧げている対象は「倫理」ではあり得ません
「倫理」を守っていれば戦争など起こるはずがありませんが、実際は起こっています
「倫理」を守っていても暮らしていけないのなら、人間はどうしたらいいんですか?
その状況下で行動を起こした人間は、その行為を正当化しようとしますよ
その言い訳をいちいち新しい倫理基準が生まれたなどと納得できますか?
ナチス政権下での「倫理観」というものは当然存在していたでしょう
しかし、今となってはあの時のドイツは倫理観に欠けていたと自他ともに認めています(認めない人もいるでしょうけど)
キリストについては今でも一般に十分通用する「倫理基準」といえます
そうとは認めない人も当然いるでしょうが、
あんなのは「倫理基準」とは呼べない、というほどの「倫理」としての異端性はないと思います >>169
人の死に関する行動を一律に非倫理的だとする
倫理基準も当然あり得る
俺は戦争そのものが非倫理的とは考えていないが、
広く一般に浸透している考え方として
「戦争は非倫理的」という考えも当然あり得る
「ナチス時代のドイツは倫理に欠けていた」という
考え方も当然あり得るが
「当時のナチスの倫理観は現代の倫理観と違った」
という考え方もあり得る
これら貴方には「言い訳」と映るだろう
しかし、これらを「異端」や「詭弁」と言うには
やはり現代の我々の一般的な倫理観が
如何に「正当」であるかの理由付けが
必要ではないだろうか
理由なく「あの考えは異端」、「あれは詭弁」と
受け付けないのは非寛容と言えないだろうか
(因みに俺の考えでは
「寛容主義」も「非寛容主義」とは衝突するので
相違が大きい思想の者同士は共存できない) >>170
わたしの言葉の選択が良くないせいか、意図していることと違って受け止められているかもしれません
「倫理」は主義主張というものではないですし、思想でもありません
「倫理」は法に影響を与えますが、「法」そのものではありません
「倫理」は不文律です
自己犠牲は倫理的と呼ばれます
自分にとって利益にならないのに、他人のために行動することを倫理的な行動としてみなされます
特に自分の命を犠牲にしてまで、社会に何か貢献した人を倫理観の強い人だと称賛されるでしょうし、
そのような人に対して「倫理的ではない」と貶す人はまずいないと思います
しかし、自分の大事な人のためにこの身を犠牲にする行為は戦争でもあり得ます
この場合はその戦争自体が(自分の所属する国にとって)利己的であったかどうかが倫理性を問われる点になると思います
基本的に、利己的な行為は倫理的ではありません
例外は、その利己的行為が社会全体の利益になる場合です
倫理は人間にとって最大公約数的なものです
対象を日本だけに絞るか、世界まで広げるかで行為の倫理性が変わってしまうことはあるでしょう
しかしどの国の人にとっても「生きていく」ということに倫理性を問いています
人間の生き死にに倫理は無関係ではいられません
わたしがあなたの意見に非寛容でも、あなたがこの先問題なく生きていけるのなら、
わたしの倫理性は問われることはないです
ただ、仮にわたしがあなたに対して生殺与奪の権利があったとしたら、
あなたの意見に対して非寛容な姿勢は倫理性を問われることになると思います
>>171
俺も倫理は不文律だとは思うけど、「倫理」は主義主張でも思想でもないという点は違うと思う
正確には「倫理はひとつ」という思想も当然ある訳だが、それはあくまでその思想の人達にとってだけ(「神は絶対」という人が他の神を認めない様に)
例えばイスラームの戦士達はイスラームの神の為に行動して犠牲者を出すけども、「彼らの倫理が間違っている」とは論理的には言えない(「私達の倫理では許されない行為だ」とは言える)
自己犠牲を倫理的と捉えない人も当然いる
「倫理は人間にとって最大公約数的なもの」というのは単に「共通認識と思われている倫理」でしかないと言えるし、それこそ世界標準といえるとのは少なくとも今は無い様に見える
「我々の倫理」と思っている者は「自由民主主義圏のキリスト教寄りの思想圏の倫理」でしかない「論理では決まらないから各々の倫理を採用する人達の力関係で決まる」と言える
「相手の生死に無関係なら非寛容でも良い」について、これは相手にどれくらい影響を与えるかで変わってくるはず
ある人にとっては問題ない行為が別の人にとっては大変な悪行の場合があるから、清く生きているつもりの人が、別の人から悪人と糾弾される事がある
文句を言われるくらい良いという人もいるが、これがデモなどの大規模な行動で批判されても答えが同じとは限らない
例えば、倫理で保護されるべき対象が人間までか、動物までか、植物までか、果ては無機物も含む自然全てか、これは論理では決まらない訳だが、木こりが悪人とされる思想、牛飼いが悪人とされる思想、奴隷商人が悪人とされる思想、どれもあり得る
俺も貴方も、悪いのは奴隷商人だけだと思うだろうが、牛飼いを悪と呼ぶ人も私は知っている(木こりを悪と呼ぶ人は見たことはない) >>172
わたしが非寛容というのは例え話です
とはいえ人間が一律に寛容であるべき、というのは理想論だと思います
人間の自己というのは個々で違います
必ず同じにはなりません
主義主張、思想が違うなんてことはあってしかるべきだという前提でものごとを考えるべきです
だいたい、寛容主義の人は非寛容主義の人を寛容するべきだと思います
字面だけ見ればなぜ衝突すると思うのか不思議ですが、
どんなに寛容主義の人でも非寛容な局面はあるということでしょう
理性と本能は相容れないものですが、人間である以上切っては切れない関係です
いろんな主義主張はあります
しかしその主義主張通りに行動できるとは限りません
倫理もそうです
人間がいつも倫理的に行動できるとは限りません
ただ倫理はもっと普遍的なものです
明確な主義主張、思想などなくとも倫理というものは生まれるのではないかと思います
>>173
俺は寛容主義とは「互いに寛容になろう」という主義であって、「一方的に寛容になろう」という主義だとは思っていないが、どちらにしろ、「一方的に寛容にしていると非寛容主義の人達によって潰されてしまう」というのはその通りだと思う
「主義主張や思想に基づかない倫理」という考えは非常に面白いと思うけども、何にも基づかない倫理とはどの様な倫理となるのだろうか?
如何なる主義、思想の人であらうと全ての人が納得する倫理があるのだろうか? >>174
1日に20人の女性を死に追いやる“結婚持参金”、禁止した村に起きた「劇的な変化」
https://news.yahoo.co.jp/articles/70972194b92647f78fa06da62758a32a5fd6b4f6
こういった揺り戻しは人間の生死を基準にして起こるものだと思います
どんなに慣れ親しんだ風習であっても、それで生きていけないのなら廃れてしまうものでしょう >>175
この記事の内容について言えば「倫理的と取るかは人による」という事になると思う
この村ではそういう意見で固まったとしか言えない
伝統を変える事を非倫理的と見る人がいる
これで死人が出るのも「伝統に従えないなら殺すしか無い」という倫理観の人がいるからとも言える
その人達は私達にとっては非倫理的だが、その人達の倫理では伝統通りに生きる事こそ倫理的なのだと思う
人間の命を重視する人はの割合は多いだろうが
そうでない人も少なからずいる 現代の人々の「自然」に対する倫理観は、基本的に人の自己都合の投影でしかない。
庭でなにか人が食べられる実のなる植物を栽培していると、カメムシなどの
「害虫」の個体が寄ってきて、放置しておくとそれらの「害虫」はさらに他の
個体を呼び寄せて、盛んに生殖活動を開始して、卵を産み付けるので、
さらに「害虫」はコロニーとして増殖しつづける。だから、普通は、
「害虫」の個体を見つけ次第、殺処分にし、個体の数が多ければ殺虫剤を
散布して「害虫」を駆除する。でなければ、人が自分で食べることのできる
植物の実は収穫できない。 >>177
現代人の倫理基準は間違いなく
「人間の利益」だと俺も思う
でもそれが絶対に正しいかと問われれば
そんな事はない
アニミズムの人とかが来て
「自然を敬愛せよ」と解かれれば
くそ邪魔だと俺は感じるが
アニミズムが間違っているとか
劣っているという事は論理的には言えない
ただ「我々の倫理と合わない」だけ ここまでは誰でも素直に認めるだろう。でなければ、人が栽培植物からの
収穫に頼って食料を確保して暮らす生活は成立しない。だから、
「害虫」の個体を殺処分にするのも、殺虫剤を散布して「害虫」を
まとめて殺すのも、「生き物を殺すのはよくない」という思いがあった
としても「倫理的にも仕方がないこと」として受け入れ、そのように
受け入れられたことは、もはや考えるまでもなく当たり前のこととなる。 >>179
俺が思うに現代では虫も動物も倫理的な考慮の対象に入って無い
「殺すの嫌だな」という人間の不快感には倫理的配慮がなされる
ただし、倫理の考え方は人それぞれ ところが、ここからが「人の倫理が自己都合でしかない」ことの本当の問題だ。
「害虫」の個体を殺処分にすることも、「害虫」の集団をまとめて殺すことも、
人の倫理において「仕方のない当たり前のこと」として受け入れられる。
だが、人に実際に与えられている選択肢はそれだけではない。なぜなら、
「害虫」の個体を殺処分にしなくても、栽培植物に被害が及ばないように
無害化することは可能だからだ。例えば、カメムシであれば、最も手っ取り
早いのは、枝葉にとまっている個体の触覚や脚をハサミで切断してしまう
ことである。すると、カメムシはもはや活動できなくなるが、その後も
何日間も生存しつづける。そうなったところで、カメムシが自殺を望む
ことなどあり得ない。つまり、活動できなくなっても、カメムシにとって
は即時に殺処分されるよりは、当面、生命が維持されることの方が
望ましい「比較的良いこと」であることになる。ところが、人はそのような
対応こそを、他の生き物に対する「猟奇的な残虐行為」として最も嫌がる
のである。しかし、それは自分をカメムシの立場に置き換えて、自分が
そのようなことをされたら嫌だ、そのような状況に追い込まれるより、
即死させてもらった方がマシだ、という人としての自分の思いをカメムシに
投影しているだけである。それだけならまだ問題はない。それだけでなく、
人は、そのような思いを同じくする他の人々とまとまって、その思いを
相互に強化し合い、他の生き物に対してそのような「猟奇的な残虐行為」
をする他人を、「倫理観が狂っている」として非難するのである。 >>181
これは単に人間が加害を行う事で生じる不快感が加害対象への共感によるものというだけではないか?
時間をかけて殺すより短時間で殺す方が加害を行う側の不快感が少ない訳だから当然だと思うが 例えば、カメムシは、踏みつぶせば嫌な匂いがする。だから、ビニール袋に
でも入れて、ゴミに出すのが直接に自分で殺す必要もなく、「倫理的に」
もっとも人に受け入れられやすい対応となる。例えば、枝葉にとまっている
個体を地面に落として着火ライターで殺すと書いただけでも、そんな
「猟奇的な殺し方をするのはやめろ」と非難する人が出てきて、そのよう
なことをいう本人は、自分が本当に倫理的な発言をしていると信じているのだ。
だが、そのような非難をする人を含めて、大多数の人は、「害虫」に対して
殺虫剤を散布することになんのためらいもない。殺虫剤は、ターゲットとする
「害虫」以外の昆虫まで広範囲に無差別に殺してしまうにもかかわらず
である。 >時間をかけて殺すより
殺すことは「目的」としていない。栽培植物への被害をなくために無害化する
ための対応により、生存期間が短くなるだけであり、それは目的ではなく、
とられる手段に必然的に伴うことが分かっている「結果」である。 >>184
手段でも結果でもどちらでも良いが
カメムシを殺す事は別に非倫理的では無いし、
殺すのに楽しみを感じている様な殺し方については
他人にとって不快だから他人は止めたがる
というだけではないか? さっき>>185で
断定的な書き方をしてしまったが
俺の考えなので他の意見も当然あると思う
基本的に
「考え方は人それぞれ」
だから 自分が他人を自殺に追いやることになっても何の良心の呵責も感じない
ような感性でありながら、虫を殺すことさえ殺生になると恐れて忌避する
ような人はいる。そのような人は、他人から見れば、恐ろしいまでに
自然に自己中心的なのだ。 >>187
正にその人は「一般的ではない倫理観」を持っている
その人の倫理を論理で否定する事は出来ないが
社会は「一般的な倫理」を共通認識だと思って
運営されているのでその人は「社会から許されない」
逆に、その「一般的ではない倫理の人」の方が
社会の中で数を増して力を持つと
その異常な倫理観は「一般的な倫理観」と認識される
やはり「普遍的な倫理観」なるものは
存在しないのではないか?? >>176
倫理の価値観は環境に左右されるとはいえ、
あなた自身は(その環境で起こる)倫理観に対して答えを出すことはできます
日本にいる時はこう、カシミールで暮らしていればこう思うだろう、くらいのことは言えるはずです
「そんな感想は主観的な一意見に過ぎない」
と答えられるかも知れません
しかし、その環境下で起こった「倫理観」はそういった答えの集合体です
その環境で生きている人の答えです
「自分は他人ではない」
これは当たり前です
しかし、「自己」は他人を基準にして起こるものだとしたら、
「自分は他人と全くの無関係ではない」
といえます
ただでさえ肉親はただの他人ではありませんし、
「そんな人間はわたしにはいない」と言うような人でさえも、
自身が生まれたきっかけは他人によるものであることは否定できない事実です
あなたが出す個人的な一意見は他人にも影響を及ぼします
それと同時に他人の一意見もあなたに影響を与えるものです
「倫理的と取るかは人による」という答えは他人事です
しかしその環境での倫理観は、その環境下で暮らす人にとっては他人事ではありません
そもそも独りで生きていけるのなら、倫理は必要ないものです
倫理が他人事だと思える人は、他人の影響下で生きていたくはない人だということでしょう
そして、そう思っている人はたくさんいます
それでもだいたいの人は独りで生きていくことはできないでいるわけです
自身が生きていくうえで他人という存在が必要であるなら、倫理も必要になってきます
倫理とはそういう性質のものなのだ、と思っています
>>190
「あらゆる環境に共通する普遍的な倫理観は存在しないが、それぞれの環境毎に適切な倫理観はひとつしか存在しえない」という理解で良い?
「あらゆる環境に共通する普遍的な倫理観は存在しない」は確かにその通りだと思う
でも「それぞれの環境に適切な倫理観はひとつしか存在しえない」というのはつまり、「その環境下の人達にとって一番都合の良い倫理観が共通認識として一つ形成されて、それ以外の倫理観は排斥される」という事なのでは?
結局の所、「論理的にこうあるべき」という倫理観は存在しなくて、例えば食文化とか生活習慣の様に「その人達に都合の良い様に洗練されて残った」というのがその人達の倫理なのではないだろうか?
和食と洋食のどちらが正しいという事がない様に、倫理観もどれが正しいという事はないのではないだろうか? 結局、環境で区切っても、普遍的な倫理観は存在しないという事ではないか? 倫理観は例えるなら「常識」と同じではないか?
「これが常識」と皆が思っていて、しかも実際に大体の人の常識は概ね一致しているが、人によっては違ったりし、多数派の常識もそれが絶対とは言えず、フワッとしている
倫理観もコレと同じなのではないかと 俺としてはかろうじて刑法学を挙げるのが精いっぱいで… >>195
有難うな
「考え方は人それぞれ」と「唯一絶対なる倫理観」はどっちが納得感ある? >>196
あるがままの不完全な人類、という点では
否応なしに「考え方は人それぞれ」を受け入れざるを得ません
そして、なればこそまずは(個ではなく)全体がなんらかの形で
存続することが至上命題、という発想が出てくる
子供を大事にする発想も根は同じです >>197
そうなんすよ
この世は元々はルール無用のファッキンワールドだったけど、それじゃ社会を維持出来ないぜベイベー的な状況から、人類ちゃんが必死こいて情勢して行ったものが倫理観!
無い所に勝手に作られたモノなんすよ!
だから「人それぞれ」なんだけど、「社会が許さない」とかの理由でかなり絞られてくんすよ!! それで社会の共通認識みたいなモノもある様で無い様な感じだし、解釈すら異なる
そして社会も一つじゃなく、分け方次第でいくつもあるし、何が普遍的とは言えない
その社会で「普通」といえるか?
みたいなフワッとした基準しかないんすよ! 考え方は人それぞれではあるものの、「大量殺戮主義」とか「窃盗万歳主義」とか論理では否定されなくとも周囲から速攻で否定されますね
そういう意味で、その社会の9割方の人々が納得する倫理観みたいのを考えたり、何故納得が得られるのか考えたりするのは倫理哲学としてかなり意味があると思うんすよ
それとさっきのナチスの例で出てた「当時の自分達の倫理観は間違っていた」という懺悔について自分の意見を述べますと、その人達の倫理観はナチス社会に一旦染まってしまったけども、ナチス包囲後にまた普通の倫理観に染まって、「(今の倫理観から考えると)当時の倫理観は間違っていた」という事かと思いますです 「倫理的に良い」って割と感覚で捉えてる所ない?
窃盗が良い悪いって「こういう理由でダメ」とかの前にもう感覚が答え発してる感じ
>>203
有難う!
こんなんあるとは知らなかった
でも直観だけに頼ったら共通認識としての倫理はかなーり曖昧な感じになりそうだね
やはり何か基準がないといかん 「バイオデジタル論 (ばいおでじたるろん 英:Biodigital Theory) とはスペキュレイティブ・リアリズムとニューロ・キャピタリズムの理論を思想的基盤に様々に細分化された非物質的本性としてのモナドの生成と相互主観性論の内在性を考察するデジタル以降の社会における概念である。」
「ポストデジタルの解釈を起点としクリティカル・ポストヒューマニズム、トランスヒューマン、非平衡科学の自己組織化 (Self-organization) にもとずくアクターネットワーク論 (ANT) の概念をも視野にいれたマルチレイヤーの理論として展開される。バイオデジタルはデジタル以降の様々な内観的 (Introspektion) な現象学の概念、バイオ・コンピュテーション、インタラクティブ・ネットワーク、生命体の形成過程における複雑系、生成の偶発性をデジタルメディアにとりいれた根源的再考に準拠している。 」
「テネシー州立大学教授のサラ・ヘイズ (Sarah Hayes) とプリマス大学トランスアート・インスティチュートのディレクターの松本良多 (Ryota Matsumoto) がアンソロポセン (Anthropocene) の階層的体系におけるデジタル以降のディスクールとしての思想としてディファインした。松本良多 (Ryota Matsumoto) はバイオテクノロジー、トランスヒューマン、分子生物学、生命体のみならず総合的なアクタントの有機合成の過程との類似性を視野に生命と流動性とその潜在的対象からバイオデジタルを生命の受動的自我のメタ科学として解釈している。」
引用元 https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E8%AB%96
>>205
読んでもよく分からないな
3行でお願いします 松本良多 (Ryota Matsumoto)は欧米と日本を代表するポストデジタル理論、加速主義の社会学者でありアーティストである。
ロンドンAAスクール、グラスゴー・スクール・オブ・アート、マイアミ大学にて90年代に建築と哲学を学び、2007年ペンシルベニア大学大学院芸術学部建築学科修了する。ニュー・マテリアリズムの思想家、マヌエル・デランダに師事する。
2015年にテネリフェ市立美術館にて加速主義、ポストヒューマニズムについて講演している。2017年にはレバーヒューム・トラスト国際学会の招聘によりコーネル大学とプラット・インシュテチュートにて「ポストヒューマニズムと未来都市」について講演。
社会学者、評論家としては2018年にカリフォルニア大学アーバイン校でエドワード・カック、ロージ・ブライドッティとともにワークショップをオーガナイズしている。
プリマス大学トランスアート・インスティチュート、国立オスロ美術アカデミーの客員講師をへてニュー・センター・オブ・リサーチ・アンド・プラクティスのシアトル校、パーソンズ美術大学の客員教授を務めている。 例えば森林をブルドーザーでガーーーってぶっ壊してたら多分、「あぁコレはやったらアカンやつ」って直感は訴ると思うのね
でもそれが人間にとってもの凄く有用な工事だったら特に倫理的に問題ないと思うんだよね
そういう事を考えると直感に頼り過ぎるのは良くないなと思う
我々が「倫理的に悪い」と感じるのは
「権利の侵害」、「価値の減損or喪失」とかかな
他にはどんな事があるだろう?
>>210
確かに良くない事ではあるよね
でもリスクを放置するのは
遠回しな「価値の減損」とも言えそう >>211
これを挙げたのは「臭い物に蓋」が、アンチ弁証法、アンチヘーゲルだと思うからです
臭い物に蓋をするとそこからなにかがどんどん使い物にならなくなっていく
>>212
なにそれ専門的な話??
詳しく聞きたい >>213
俺もあんまり詳しくないですけどヘーゲルは近代哲学の完成者です
それ以降の哲学はその完成した形而上学からの脱出の試みです
ソフィーの世界にも書いてありますが弁証法はかなり「使える」ものです
普通にネットで調べてわかる知識でいいと思いますよ
>>214
ググってみる有難う
>>216
ソフィーの世界は開始30ページくらいで投げた
他は無いかな多分 >>217
倫理は功利主義と直観主義に大別出来る
人間には両方の性質が備わっているからどちらが正しいかという議論は無意味だろう >>218
でも功利主義の利益を計る尺度には色々あるのんじゃないの?
前にもいくつか例を出したと思うけど神、人間、動物、植物、その他の自然、とか色々ある訳でしょ? >>191
人間の行動は「人間以外の動物」とはかなり違ったものです
動物の行動も「環境」が変われば相応に対応した行動を取りますが、
その対応は条件反射的なものに留まります
人間の特徴として「思考」をすることが挙げられます
「考える」ということが、他の動物とは違った人間の特徴なわけです
その「考える」ために使う言語というのは、
自意識が芽生える以前から人間には自然と身についてしまっています
「言語」を自然と身につける環境とは、
「言語」を使った人間社会のことです
つまり、「言語を使った人間社会」がなければ、
人間は考えることもできず自我も生まれない、ということになります
思考ができず自意識もない人間の行動は、野生の動物と変わりません
弱肉強食です
普通、野生の動物に「倫理」を説くことはしません
したがって「倫理」は弱肉強食ではありえない、ということになります
「倫理は弱肉強食という観点は含まない」
つまり弱肉強食という倫理は存在しないということです
「倫理観もどれが正しいという事はない」という意見は如何なものかと思います
強者側の都合の良い論理は倫理的ではないからです
「倫理観もどれが正しいという事はない」ということは、
強者側の都合の良い論理も「倫理」に含まれてしまいます >>220
ちょっと俺いつも一人称とかバラバラだし一応名前付けとくわ。
倫理を気にするのが人間だけというのは俺も同意。動物が倫理を気にしてても人間には分からないしね。
弱肉強食が論理的に間違った倫理とは言えないと思うよ。賛同する人が圧倒的に少なくて不人気な倫理観というだけ。今の我々の一般的な倫理観で見れば非倫理的だろうけど、戦国時代なら賛同する人も結構いるんじゃないかな。
「強者の倫理観」が論理的に間違ってると言える道理もないでしょ。我々の様な一般的な弱者には都合が悪いだけだよ。「我々の倫理観とは合わない」というもの。
だから、「こういう倫理は論理で否定するされます」という事はなくて、「私はこういう立場なのでその倫理観は認められません」までしか言えないと思う。
だって論理でゼロから導ける倫理が無いんだから。
論理だってゼロからは何も導けないでしょ?
公理を決めて、その公理からしか答えは出せない。
倫理も同じで、どういう倫理観かの立場を決めて、そこから倫理判断を下す。厄介な事に「倫理観の立場はこれが一番正しい」という事は論理は教えてくれない。 >>221
立ち位置的に強者側に立った観点でも、
弱者を思いやる理論であればそれが倫理になり得ると思います
とはいえ強者側が強者に都合の良くなるような理論は倫理ではありませんし、
弱者側が弱者に都合の良くなるような要求はただの我儘です
人間はありとあらゆるものを基準として生きています
人間も例外ではありません
人間は他人の存在をも意識的にも無意識的にも基準として生きています
しかし人間は生きている限り変化し続けていて常に絶対的な基準とはなりません
そういったことが、倫理観に絶対的な正解はないと思われる原因のひとつといえます
人間は生きている限り絶対的な基準にならない、とするならば、
人間が死んでしまったのならどうでしょう?
人間の倫理観というのは、人間の死にも影響を受けているはずです
人間の死に影響を受けていない倫理観というものは倫理の中でも枝葉な部分といえます
そういった部分は倫理の基幹を成す問題ではない、とわたしは思います
われわれが培ってきた倫理というものは、
先立たれた人間によって確実に影響を与えられています
中には宗教的な存在となってしまう人間もいたでしょう
死んでしまって絶対的な存在になったから、絶対的な基準として扱われるわけです
えー…神とか宗教とかを別にして、信じられる人間とはどういった人なのかを考えてみてください
嘘つくとか裏切る、寝返るというような、自身の存在を変節するような人は信用できないと思います
倫理はそういったことまでを許容するとは思えません
倫理は人の心を疑心暗鬼にさせるものではない、
あるいはさせないようにするものである、といえると思います >>222
大体今までと同じ返しになって悪いけど、「そういう倫理観も当然あるが絶対ではない」かな
強者に都合の良い倫理観は統制とも取れるし、弱者に都合のよい我儘も自由とか慈悲とか飾り立てる言葉はいくつもある
「正しい倫理観」というのがもしあるなら是非聞きたいし、それが正しいという論拠も聞きたいが、俺はそんな倫理観は無いと思う ちょっと中断しちゃったけど、
我々が「倫理的に悪い」と感じるのは
「権利の侵害」、「価値の減損or喪失」とかかな
他にはどんな事があるだろう?
話は変わるが、死刑が非倫理的であるかについて皆の意見を聞きたい
もちろん、考え方は人それぞれであるので、どのような立場を取るかによって判断は変わる
俺は人間中心主義の立場から言わせてもらう
死刑は非倫理的ではない
動物を殺して食って良くて人間を殺して食って良くない理由は人権の有無だと思う
人権の要件は「人間として生まれる事」と一般的に言わるが、実際には「人間として生まれ、且つ、人類社会の構成員である事」だと俺は思う
人間は生まれながらにして人類社会の構成員と見なされるが、人類社会に著しい損害を与える行為(大量殺人など)を行うと、人類社会は「この人間を人類社会の構成員とし続ける事を許容できるか」を問われる
本来は人類社会全体で結論すべき事かも知らないが、少なくとも現在では人類社会全体で個人を裁く事は現実的ではない為、その個人の属する社会(国や地域)等の制度に従って処理される
なので、裁判によって死刑判決が下ると、その個人の人権の内、少なくとも生存権の停止が予定される
死刑執行の決定によって生存権の停止は確定するので、人権の無い死刑囚を殺す事は非倫理的ではない
同じ様な考えで、犯罪者を刑務所に入れる事も非倫理的ではない
個人の犯罪をどこまで許容して、犯罪者に人類社会への復帰を期待するかはその国や地域の判断による
ただし、「国や地域の判断基準が人類社会の判断基準と著しく異なる」という事態は当然起こり得るので、人類社会(現実的には人権尊重を掲げる国と地域による国際社会)は、それぞれの国や地域の動きを観察して置く必要がある 報道は犯罪が起こるたび、必ず「○○罪の疑いで云々」と伝えます
それを知識として身についておけばそうそう法治の沙汰が
「不意打ち」となることも滅多にはあるまい、とは思います
要するに法治や刑法学に何のモノを申すつもりもないってことです
悪いことしたこともありますけど前科は残ってませんよ
>>226
法に従う事が既に倫理的というのは確かにあるよね
独裁的恐怖政治とかの体制で無い限りは
人権を蹂躙する様な法律はまず敷かないだろうから 倫理の基礎は儒教的なものが生まれてから一切変わってないと思うんだけど
良い事、悪い事の分別については時代で変わるからな >>228
儒教ってそんなにインパクトあったの?
どこら辺?? 現代の倫理観って結局「人類にとって何が都合が良いか」だよね多分 このスレってここまで過疎ってたっけ?
前まではもうちょっと人がいたと思うんだけど >>225
「人権」が有るか無いか…
あなたが本当の意味で、人間に「人権」があるかどうかなど真剣に考えたことがあるのでしょうか?
仮にわたしがあなたの家に転がり込んで、人権を盾に「飯を食わせろ」と要求するとしましょう
きっとあなたはそれだけでわたしに「人権」などないと思ってしまいますよ
「人権」までないと思わないにしろ、
このわたしに対して「この人間を人類社会の構成員とし続ける事を許容できるか」を問うことになるでしょう
わたしがあなたにタダ飯を要求すること、
このことがあなたにとって「人類社会に著しい損害を与える行為」になり得ます
今の世の中は、わたしの面倒をあなたが見なくて済むシステムがすでに確立されているから、
あなたは「人間として生まれ、且つ、人類社会の構成員である事」が人権の要件だなどと言えるわけですよ
人権なんて「人間には人権がある」と言っている人がいるだけです
そういう前提があれば世の中上手く回るのではないか、という試行錯誤中だといえます
「人類社会の構成員である事」は、(環境によっては)
「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」という世界人権宣言 第1条に反することかもしれません
「人類社会の構成員である事」を義務付けられる人間は、自由ではなく、尊厳と権利とについて不平等かもしれない、ということです
たいていの世の中は「自由ではなく、尊厳と権利とについて不平等」ですけどね >>232
233のレスは書き直したものです
一回目はもっとひどい物でした
人に何かを伝えるのはなかなか難しいものですよ
じゃあ結局、死刑は非倫理的なのか、といわれても簡単には言えないものです 死刑執行まで一秒も猶予がないほうがしかも死刑が特大ダメージのほうが。 >>233
そうそう
人権なんて「人間には人権がある」と言っている人がいるだけだよ
人間が作るまで権利なんてないからね
統治されてて大多数が共通認識として持たないと機能しない
自然状態で権利がどうのなんて具の骨頂 多くの人は望みをかなえて幸せになりたいと思っているが、
おそらく、望みがかなうことと幸せになることは、
好きなものを好きなだけ飲み食いすることと、
健康な体を維持することが別のことであるのと同様に、
相異なる。 >>225
死刑は刑法だから倫理的にも免れ得ない
どんな立場の人間でも同じだと思う。
ただ法に定められた死刑囚の生存権も、
死刑が執行されるまではありますよ。
死刑が確定することで人権がなくなる
わけじゃないので。 >>238
死刑確定によって生存権の停止が予定される、って事ですね。 >>239
細くなりますが、法的な死刑確定で
予定されるのは、あくまでも刑の執行
だと思うのです。
生存権停止を予定するための
判決ではない為、刑の執行を予定している
と考えるのが正しいのではないか
と思いますがいかがでしょう。
>>240
生存権ある人を殺せないと思いますが如何でしょうか? 死刑囚の生存権は死刑執行により失効しますが
生存権を理由に刑の執行を免れることは不可能なだけです。
>>242
死刑確定によって生存権の停止が予定される、って事ですね。 死刑罰には死刑確定によって生存権の停止が予定されるという法規はないです
>>244
でも死刑執行時に生存権が失われるんですよね? >>245
死刑執行時ではなく、死刑執行して死亡したらですよ。
>>246
死亡したらそりゃ生存権はないでしょう
少なくとも死刑執行時点で
もう生存権認められてないですよね >>247
ですから、死刑執行時点で生存権を認めないなどという法律はありません
>>248
法律に生存権をどうのはそもそも書かれてないでしょ 少なくとも死刑執行時点で
もう生存権認められてない
とも書かれていません
>>250
そら書かれないでしょ当然だから >>247
死刑の執行方法や日時は決まってます。
もし執行して死ななかった場合でも死刑執行は
その時点で終了しています。
生き残った元死刑囚が死刑執行時点で
生存権を失ってませんので、誰かに殺されたら
殺した人は生存権を侵害した殺人罪で罰せられます。
なので、>)243のように
死刑確定によって生存権の停止が予定される
などということは当然ありません。
いい加減しつこいですw >>252
しつこさはお互い様だろw
死刑執行で生存権止まるんなら
死刑予定したら生存権停止予定だよw 「誰にとっても絶対に非倫理的」って事なにかないかなぁ >>254
死を予言されること、はどうでしょう?
もちろん必ず当たる予言です
非現実的ですが、技術的特異点の到来によってはあり得る話かもしれません
人間にとっては特に知りたくない情報だと思います
個人的には人間の機能として、死を意識しないでいられる状態がノーマルであると考えています >>255
うーん
これは普通に「死期が決まってるなら予め知っておきたかった」っていう人いそうじゃない?
死ぬ前に整理しときたい事とかあるだろうし >>256
死刑執行の直前告知めぐり死刑囚2人が提訴
https://www.bbc.com/japanese/59173891
・共同通信によると、原告弁護団は死刑執行が直前に死刑囚に告げられることについて、「極めて非人間的だ」と主張している。
・ロイター通信によると、原告弁護団の植田豊弁護士は、「死刑確定者は、毎朝死ぬかもしれないとおびえている」と説明。
上記の例に対して、死刑囚が精神的苦痛を味わっても自業自得だろう、という意見はあると思います
そういうこととは別に、
例えば人間を高性能なロボットに見立てるとして、人間は自動的に死を回避するシステムを搭載していると考えてみるとどうでしょう?
恐怖心や不安という情動は動物が死を回避するためのものであるという考えです
人間は他の動物とは違って言語で思考ができます
言語で思考ができるということは未来予測ができるということです
死刑確定者は事前情報として、死刑執行が直前に告げられること、
そしてそれが早朝に行われることを知ります
そのことを知った人間は本能的に注意を朝に集中させます
そしてそのうち、毎朝看守の足音が自分の部屋の前で止まるか止まらないか、がすべてになります
これは、通常の「いつ死ぬかわからない状態」とは異なります
死刑確定者は常に「死」を意識させられていて、生命の危機を毎朝感じて過ごさないといけません
逃れられない現実的な「死」というのは人間にとって苦痛でしかないものです
人間はいつか死ぬといっても、いつ死ぬかは知らないで生きています
「○○年後の○月○日に死にます」と宣告されるとしたら、それがたとえ60年後でもわたしはイヤですね
今は良くても、結局、死期が近づけば苦痛を味わうことになるからです
認知症はその苦痛から逃れるためにあるのだろう、と個人的には思っています
死を回避する本能が認知を歪めるのだろう、ということですね
わたしは「いつ死ぬかわからない」精神状態に陥り、精神病院に入院したことがあります
幻覚も見ましたし、看護師の巡回に対する過剰反応も体験しました
そういった経験も踏まえて、こうだろうなという書き込みをしています >>257
「近い内に死ぬけどいつかは分からない」って状態か
非倫理的かどうかは
考え方や状況にもよるだろうけど
やられてる側からすると辛い状況だよね
「特に意味はないけどやります」って言ったら
非倫理的だと感じる人の割合は多そう 小学校の道徳にあたるのが高校での倫理、
社会だと政治や宗教になる気がする
私は苦手
逆が理数、文学
専修知識
スポーツ
その他 倫理もルールも全て
人間の創作物なんだよな
結局の所 AmazonのKindle本だけど、間何歩先生の脳神経倫理学の試論がすごくいいよ。
初心者に倫理の考え方とか道徳の考え方とか書いてあるから。
値段もいいから、1冊持っておいていいかもしれない。 >>261
4/9発売って凄くタイムリーだね
序章
1 出会い
2 オウム真理教の脳科学実験
3 本書の狙い
大丈夫かこの本?
ttps://ameblo.jp/shouzou1/entry-12736775303.html >>262
読んだら、かなりすごい。
脳科学の倫理と言いながら、どれも医学や遺伝子工学の事例しか掲載してないよね。
今、社会でこういうことが起こってるんだって驚いた。
>>263
「毒電波があなたの脳を破壊する!」
みたいな内容なの? >>264
全然、違う。教科書みたいだった。
基礎的な科学的知識から始まって先入観で考えられなかった問題に踏み込んでた。
認識の発展みたいなの。 >>265
買って読んだけど
控えめに言って金返して欲しいレベだったw
本屋さんなら陰謀論の棚に収まる感じやね
あと校閲されてないのか
誤字が多過ぎて気になる >>266
陰謀論?どういう所が陰謀だった?科学的な基礎知識ばっかりじゃない?
人に知られずって、君が理解しないだけじゃないの?
無知だと、そこまで迷惑行為なのか。 >>267
要約すると
「毒電波があなたを操る!」
じゃねーか >>268
嘘、偏差値低い?これ、結構良くない?
第二章 倫理学とは何か
1 倫理学とは何か
2 道徳との違い
3 脳神経倫理学の陥りがちなこと
4 脳科学に倫理は無い問題 >>269
改めて読んでも
「糖質っぽい文章だな」って感想
そして第3章から毒電波論全開w >>270
どこから了解できないのかって話しがあったけど、考えさせられた。
人工内耳や人工網膜の電気信号で感覚しないと思う?
イルカとか犬とかの知能が高い動物の実験例を入れて欲しいよね。共感できるだろうから。 >>271
倫理的か否かは
客観的な判断ができるだろうって
部分が気に入ったの?
そう信じるのは自由だしいいと思うよ
考え方は人それぞれだよ >>272
自由、何言ってるの?これ基本的人権の話しでしょ? >>273
第二章の倫理の話じゃなくて
毒電波の話してるの?
ごめんな俺、
頭にアルミホイルとか巻いてないから
お前の言ってる事分からないよw >>274
お前は実に文盲だ。指摘してるそばから、尊重を欠くよな。
じゃあ、俺の言うことに納得したら、アルミホイルを頭に巻いてくれるって約束できるって意味か?
そういう話ししたいんだろ? >>275
そんな話したくねーよw
倫理哲学スレなんだから
倫理の話をしたいに決まってるだろw >>276
毒電波やアルミホイルの話しをするような倫理なのか? >>277
ちがうわ
お前が毒電波本をスレで紹介
↓
俺が買って読んで感想述べる
↓
お前が俺に頭にアルミホイルを巻けと要求←今ここ
正直その毒電波本の話はどうでも良いわw >>278
俺は本を読んでダスキギー梅毒実験の脳科学版のように思えたけど
黒人には梅毒菌を人工的に植え付けて経過観察するのはだ
黒人は被差別民だから、倫理的にどうでもいいと思う? >>279
毒電波から身を守る事は重要だよね!
安心して頭にアルミホイルを巻きたまえよw >>280
>>278
お前が俺に頭にアルミホイルを巻けと要求←今ここ
お前はこの話題から一歩も前に進めない。弱点でもないのに突っつくからボコボコにされるだろ。
性格が愚劣という以前に精神が遅滞してるんじゃないか。
偏差値いくつだよ? >>281
偏差値とか知性にコンプレックスがあるのか?
例え偏差値が低くても君には価値があるよ
大丈夫だ! >>282
土民はジャッカルの牙とかで病気になるとか騒ぐからさあ
当然、君は違うんだろうけど >>283
まぁ病気の話は置いといて
倫理の話でもしようぜ! >>284
土民の倫理はいっつも神様だからさあ
法律行為ができないのって障害じゃなかったけ? >>285
まぁ法律は置いといて
倫理の話でもしようぜ! >>288
団体の決まりなら、法律違反してもいいのか。
法律違反なんでしょ。それ、犯罪やってるって言いません? >>289
お前の中では団体の決まりが倫理という意味?
団体の決まりってそもそもそれ法律の事じゃね? >>290
なあ、言ってることオカシイだろ。
何で、お前の中のものが倫理なんだよ。お前の中のものじゃないから、倫理なんだろ?
それに、団体の決まりが法律って何だよ。
分った。君は倫理の前に教科書を読みなさい。 >>291
それは単にお前が実在主義なだけだろ
倫理が人の中にあるか外にあるかは
結論出てないし出るはずないじゃねーかw >>292
おい、倫理の話をしていて、何で実在主義なんだよ。
お前の部屋は整理整頓されてない汚部屋なんだろうな。 >>293
お前、倫理哲学スレにいてそのレベルかよ
まぁいいけどよ お前の部屋でどこに何があるか分からないのは分類したり決まった場所に収納してないからだ。
これを実在主義と言いたいのか? >>295
いやね、倫理哲学スレだからさ
お決まりの議論をしようと思ったんだけど
どうもそうならなそうだからもういいかな
お前の信仰心は否定しないよ >>296
君は倫理は答えられるんだな?
じゃあ、単細胞が分裂したら、前と後のどっちに倫理があるんだ。 >>297
そもそも倫理が実在するかという話であって
その質問は倫理の実在を前提にしているから
俺は答えられない >>298
お前は本当に自分の意見を主張できないダメなやつだ
あの倫理本を理解できないのは何にも答えが出せないお前が原因だと理解したろ? >>299
俺の感想を言うとすれば
スマンがあの本はクソだ >>300
また、妄想を並べるの?本当に読んでしょうね。本文のどの部分がクソだった? >>302
ふうん。毒電波なんだ。じゃあ、倫理のほうはどうだった?毒だから薬事法でも掲載されてた? >>303
何度も言ったと思うが
俺はこの本に興味がない >>304
興味が無いということは読んでないんだよね。
無知なやつがクソだとか毒だとか暴言吐いてたってことなの?
絶対に許さん! >>305
買って読んだから
金返して欲しいレベルだと言ったんだよ >>306
情報コンテンツの返品で興味が無いから返金しろって理由は無理だろ
お前はそうやって読書から逃げるようなやつなのな >>307
読んだから逃げてはいないし
俺にとっては内容がクソだったと言っただけだ
君がこの毒電波本を信仰する事について
俺は一切の異論がない >>298
>>308
お前は話の腰を折ってるだけなんだ
だから、お前は答えが出せない
便所の場所が分からないから、ダダをこねてクソを漏らしてるのはお前が原因だと何故、理解しない >>309
このクソ電波本の話をしたいなら
毒電波倫理学スレを新たに立てればよい
医療倫理などとならぶ
応用倫理学の一大分野として
人気を博すだろう >>310
脳神経倫理学って書いてあるよね。
どうして、迷惑を防止されるようなことばかり言うんだ。精神病か? >>311
毒電波倫理学の方が
内容を良く表しているだろう
名前は分かりやすい方が良い
クソ電波倫理学の方が好みか? >>312
分かり易いほうがいいんだ。おまんじゅうを半分にしたら、二個に増えて得した気分ですかあ? >>313
分かりやすい方が良いよ
排泄物はどう解釈しても排泄物だ
でもお前がこの毒電波本を
愛する事は否定しない
スカトロは悪い事じゃないよ >>314
このウジ虫はクソばかり食いたがるな。
じゃあ、脳みそをチェックしてみよう。科学には倫理が必要ない、〇か×か。 >>316
ウジ虫にも分かるように教えような。
ウンコは人に必要だ。だから、家の庭で肥溜め作った。
だが、近所からクレームが来た。臭いから止めてくれと。
ウンコは人に必要だから善いじゃないか、でも、臭いから悪いじゃないか。
これをどっちか分からないって人がいるんだ。
公衆衛生ってものがあるな。人前で行って迷惑があるものは無くそうって考え方だ。
公衆衛生からしたら、肥溜めを庭に作るのは悪い。
どうしても、肥溜めを作りたいなら、田んぼとか山の中にしなさい。
公衆衛生から、ウンコを考えるというのが倫理だ。
ウンコという物質でも倫理があるだろ? >>317
それはウンコをどう扱うかが
人間から観て倫理的かという話で
ウンコに倫理がある訳じゃないな? 倫理は法律じゃないというウジ虫の為に。
庭に肥溜めを作った場合だ。
自分はウンコを食料にしたいぐらい愛好してる、善いじゃないですか。
汚いから止めてくれ、すぐに撤去しろ。
これはどっちにしたらいいか分からないとしような。
地域の顔役の肥料会社に相談しよう。肥料会社さんの言うことは誰でも言うことを聞いてくれるから。
肥料会社さんに庭に肥溜めを作っていいか聞きました。
ところが、肥料会社の社長は自分で肥料を作ったら、会社の肥料が売れなくなるからダメと言いました。
肥料会社の社長さんの言う事には、庭に肥溜めを作ったら悪いです。
こういうのが倫理なんだ。 >>319
そういう細かいのは応用理倫として
個別にやりゃいいだろ
倫理哲学スレなんだから
規範倫理とかメタ倫理の話をするんじゃねーの? >>320
個別にやればいいものにクソや毒電波と暴言を吐いたんですか?
暴言について謝罪しろ。 >>321
ごめんごめん
思った事が口に出ちゃった >>322
ふふん、謝罪しましたね。謝罪すればいいんですよ。 >>324
そうそう、追記ですが、謝罪したから、許しを与えるには今後、やって頂きたいことがあります。
電磁波の脳神経倫理学を毒電波やクソと呼ばないでください。
携帯電話の生体への影響や潜水艦のレーダーや高圧線の付近での白血病の発症などもありますので。 みんな、【どんな倫理的問題について議論したい?】
一度原点に立ち帰ろう。たった一つの本の話をするのが倫理哲学なのか?違うじゃん。
あと、>>327さん、あなたはその本を読んでどういう倫理的問題についてどうすべきだと考えるようになりましたか?
本を読むだけじゃなくてそこから自分なりの考えが得られないと意味ないと思うけど。何が得られたのかは聞いておきたい。 >>328
超びっくりw
俺と327以外にまだ人が居たんだ
俺も他の人が望む議題を
是非是非聞きたいよ >>328
電磁波の問題は公害の類なんじゃないかなって思った。
足尾銅山鉱毒事件の例があるね。
足尾銅山鉱毒事件は精錬の時に重金属汚染された汚水を川に捨てていた。
汚水を飲んだ住民が銅汚染で病気になった。
村名主の田中正造が国会に直訴しに行ったのが事件解決になった。
だが、当時、財閥優遇で川に鉱山の汚水を捨てたらいけないって決まりはなく、社会は公害はある訳ないと言ったね。
被害者の訴えがあるということを見ないといけない。
明治時代は工業だったけど、現代はITが主役だよね。ITには電磁波が必要な訳で、癌だとか脳科学の実験とか
、最早、兵器の域に達していると訴えてる。これは公害と見て間違いないよね。
高圧線の下で癌になるとか、潜水艦のレーダーの電磁波で地域住民が苦しんでる例とかも産業を優先させてるでしょ。
で、電磁波は熱の効果で有害さを検査してるんだけど、熱は白内障とかになる証明だ。
高周波は癌にならない。
これは証明が難しくて処罰されてないだけなんじゃないか。
でも、工業と違って脳科学の公害は認められずらいんだなって思った。
Society 5.0 で脳波をインターネット空間に流す計画がある訳で、放置しておくと死傷者が増える恐れがある。
科学の発展の為だから、善いという意見もある。でも、科学は発展の為に人類を犠牲にしてはならないだろ。
効率化だけを追った社会は人類に善くはならない。
つまり、電磁波の公害は産業の発展を優先する為に、わざと、効果の無い方面の検査をして何も無かったと言っているようだ。
研究者が気付かないはずないからね。 >>328
328自身は気になってる議題はないの? >>261の人は、せめてこういうスレ↓でその本の紹介をするべきだったのではないでしょうか?
倫理哲学に興味あるんやけどどんな本がおすすめ?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1644739622/
しかも261さんとその本の著者は同一人物ではないのでしょう?
このスレでその本の著作者ではない人が、
そこまで本の内容を読ませる前提の議論をしようとする理由がわかりません
その本を理解できる・できないがこのスレ的に特に重要なことではないでしょう
重要なのはこの「倫理哲学」スレで第三者が>>261の本を紹介したことです
その動機が純粋であればあるほど本を買わせるよりやることはあるはずです
「大多数の人が真実を知らないまま被害を被っている」と知ってしまった人が、
なぜその事実を世に知らしめるのにもっと良い方法を採らないのか理解に苦しみます
「間何歩 倫理」で検索したら
↓
人工知能の倫理:何が問題なのか - 総務省
https://www.soumu.go.jp/main_content/000520384.pdf
こういうのがありました
久木田水生という方は検索すれば経歴とかもよくわかるのですが、
間何歩先生についてはなにもわかりませんでしたね 間何歩先生はググっても
本人のアメブロくらいしか出てこないね
脳神経倫理学っていうのが
そもそもマイナーなんじゃない? 正直に言いますと、その本を買ってみても良いかなと当時は思ったのですが、やっぱりやめました
買うのをやめた理由は「なんでもアリ」さんが酷評していたから、だけではないです
>>319の書き込みは大きいですね
地域の顔役の肥料会社の社長は
「自分で肥料を作ったら、会社の肥料が売れなくなるからダメ」とは絶対言わないだろうと思ってしまいました
そんな競争力のない肥料しか作れない会社は地域の顔役にすらなれないだろ、と言いたくなってしまいます
もちろん即興で作った例え話にそんなことをつつくのは野暮かもしれませんが、
赤の他人の本の酷評を許さない姿勢とこの件は似たような印象を受けます
「なんでもアリ」さんと比べて、
より倫理観のある書き込み(第三者から見て)をしていればまた違った印象を受けたかもしれません >>335
まぁウンコの例えはイマイチだったね
でも彼がウンコを引き合いに出してまで
言いたかった事があるんだよ
多分>>291が彼の言いたい事の根幹だ
「倫理は我々の外側にある」
つまり「倫理は実在する」と言いたいのだ彼は
「我々の中にあって勝手に弄れるもの」
つまり「なんでもアリ」な倫理を彼は認めない
彼は「なんでもはナシ」の考えなんだね多分
目に見えず手にも取れないが
幾何学の様に理性で正しく導ける
真の倫理がある(実在する)とするという立場なのだ
たぶん >>333
何だ、読んでないのか。重要なポーズが頭が良さそうなんですけど、
それって知った風に語ってるだけって言いません?
間南歩さんの主張は簡単だった
PCの場合が例に出されてたんだけど
PCは不正アクセス防止法や個人情報保護法があるでしょ?
普通、勝手に他人のPCに接続したらダメって考えるじゃない
単なる電子計算機が違法なのに、人間は違法じゃないの?ってこと
PCのHDDに情報を入力する根源的なプライバシーな訳で
人はPC以下の扱いなんですか? >>336
そんなのじゃないね。>>336が峻別してるとしたら、脳神経倫理学の試論は遥かに本質的だった。 >>338
ふむ
とりあえずその本質とやらを
お前さんが要約して説明すればよいのではないか?
間何歩先生の本は
誰もが読んでいて当然という程の
知名度ではなかろう
間何歩先生のスレじゃないのだから >>339
要約が欲しいの?脳科学には倫理が無い、こういうことで脳科学を安全に使えない?って話し。
筆者は社会問題として捉えているんだけど、どうやら、脳科学の合意なき被検者と思われる被害者団体があった。
被害者はストーカー被害と申し立てているが、そういう問題ではないようだね。
恐らく、組織犯罪だろう。ダスキギー梅毒実験に比類する脳科学の大規模実験が行われているようだ。
マインドコントロールと訴えているが本当なの?ってこと
ネガティブな態度や暴力で政治的な好みや心情を変えるというのがマインドコントロールだが、
好みの政党が変わるような被害なの?とか
そもそも、人に通信を接続すること自体が誤りなのではないか。それを規制する法律ってどこかにある?とか
色々と考察が加えられているのだが、
世界15か国で大規模な脳科学実験が行われてるという取材記録が倫理の証拠として提出されているという本だった >>340
ストーカー被害を受けていると主張する人達が
そのストーカー被害を立証できなかったから
情状酌量されなかったという話だったね
加害の方法が
電波だろうが毒物だろうが刃物だろうが
同じじゃないのか?
立証できなければ考慮されないのは >>341
それって大丈夫なの?
殺人してボートで太平洋に捨てちゃえば立証できないでしょ
考えなくていいってこと?
立証はどんな種類があると思う?
先ず、物証だね。物の次元で、これなら当然、事件が起こるって物質を出す。
他にも、証人っているでしょ?私は事件が起こったのを見ましたってやつ。
証人は自白だけを証拠にしないんだけど、3人の他者が証言したら、国際的に証拠として扱うってやつ。
親告罪だとかあるよね。あれは犯罪をやってるって言うだけで済むやつ。痴漢とか横領罪とか言うだけでいい。
現行犯逮捕とかあるよね。現場で目撃しましたってやつ。これは法律知らなくても一般人が捕まえていい。
物証を集めるのは通常、鑑識だよね。被害者に証明しろってあり得ないでしょ。
証人だけど、日本に5千人証言できる被害者団体がいる。
親告罪だけど新しい犯罪だから、親告しただけで良くない?って思ったんだけど。 >>342
現に人を殺しても立証されなければ
処罰はされないだろ
君は刑事罰の有無と善悪を同一視しているのか? >>343
それはあるんだけどさ。処罰されないのは立証されてないからだってことだね。
でも、その前段階として問題がない?
見なかったことにしたら、立証はされない。要するに、無かったことにしたら、何でも処罰はないってことだよね。
まあ、殺人して太平洋に死体を捨てたんだけど、マグロ漁船が死体を引き上げたけど、
面倒だからもう一回海に捨てちゃえば、何も起こらなかったことにできる訳よ。
被害者に気付いたら、証明するものじゃないの? >>344
そりゃ殺人に気付いたら警察に届けるだろ
警察官が容疑者を見付けて
その容疑者が犯人だと立証されたら逮捕されるぞ >>345
>そりゃ殺人に気付いたら警察に届けるだろ
通報するのか、証明するのか、議論があるんだろうけど。
科学捜査研究所とかにはバイオ、ケミカル、フィジカルはあるけどブレインは無いみたい。
大学や企業の研究者から捜査官を任命しないと警察官は誰も知らないでしょ。警察は立証できないみたいだね。
警察も立証しないみたいなので、ああいう先生が謎解きするのは有りだよね。 >>346
先生が電波と犯罪の因果関係を証明するのはアリだ
明らかな因果関係が認められれば
裁判でも考慮されるはず >>347
因果関係が証明されるでしょ。確かに、人体に影響がありますねって答えてくれると思う。
事実なんだね、それで何が言いたいの?ってこと
でも、脳科学は倫理から除外されてるから、何が悪いのか弁護士も裁判所も分からないって答えると思うよ
何が悪いのかなって考えさせるのが倫理なんじゃないか 追記だが、証明の問題は倫理なの?ってことじゃない?
科学で研究すれば、実際、やれることは分り切ってる訳だ。通じるのか通じないのか、それって物理とかの問題だ。
通じると仮定した話でもいい。将来、脳科学が発展したら、機械と生体の往来が自由自在になるのは明かな訳で
これから必ず起こることには何で、やったらダメなんだって考えておくほうが良くない? >>348
「単に人体に影響する」という事と
「その犯罪と因果関係がある」は別だな
正常な判断能力を失わせる度合いがあるはずだ
アルコールは人体に影響するが
ビール1杯で心神喪失とはならない
>>349
機械と生体の行き来はすれば良いと思う
やってはダメという理由が思い付かないな
君はやってはダメだと考えているのか? >>350
>アルコールは人体に影響するがビール1杯で心神喪失とはならない
体に傷を付けるとは別の問題がありそうだ。
生体への情報通信のアクセス自体が侵害だということだね。
誰に許可をもらって私の体にアクセスしてるんだということが中心的な話題になる。
公務員が許可したから、生体にアクセスしていいですよとか。
勝手に指紋とか声紋と同じように脳波も記録してしまっていいのかとか。
人は他人に秘密にしてることがあるんだけど、秘密まで取ってしまっていいのとか。
脳科学と通信が融合すると情報系の侵害がキツイんじゃない?ってことだよね。
例えばね、お嬢ちゃん、おじさんは体を傷付けないからさ、全然、痛くないから、
体をビデオ撮影させてもらえないかということに何か問題を感じない?
体に有害とか問題になるの?ってことだよね。 それとも、こういう話しをしたい訳?
人には貴賤がある。
橋本環奈ちゃんや浜辺美波ちゃんの個性的な脳波を調べちゃうのはダメだけど、
精神病者や身体障害者はバイオマスのように消費してよい。
黒人の子供は生体実験に使用しちゃってもいい。
人品賎しい人には刑務所に入れてもいいし、実験に使っても見なかったことにします。
これにやってよい理由を見つけられない訳なの? >>351
>>352
肖像権やプライバシーの
侵害がダメなのは今も同じだろ
侵害が立証されれば罪に問えるぞ
橋本環奈じゃなくてもな >>353
橋本環奈ちゃんの裸体のラインを撮影しただけで、痛くしなかった。
これは肖像権やプライバシーの侵害だよね。
じゃあ、橋本環奈ちゃんの脳波や体液の情報をセンサーで集めたい。これはどこが問題なんでしょう。 >>354
環奈ちゃんの知られたくない情報を
取得するのに使うからだろ
情報の目的を説明して
環奈ちゃんが同意してれば問題ないが >>337
ついさっき買って読みましたよ(ななめ読みです)
読んだ印象としては自分よりよく勉強をしてきた人なんだなあ、と思いました
さすが法政大卒ですね
当時の自分はその大学を受験できるレベルの学力ではなかったです(今もかもしれません)
物を書くというものは難しいものだと思います
自分も何か書いて本を出せと言われたらこの本よりマシなものを書ける自信はないです
これは自分と比べて、という話です
あなたがどこでこの本の存在を知ったのかは分かりませんが、
この本の著者以外の人がこの本を他人に薦めることは非現実的だと思います
それくらいの本です
あなたがたとえこの本の著者でもわたしにはそれを立証する術はありません
だからそういうやり取りは不毛だと思って触れていなかったのですが、
倫理的な問題としてやっぱり触れさせてもらいます
立証できないからといって、なんでもやっていいわけがない
というメッセージがこの本にあるような気がしたので 間何歩先生は文章を打った後に
一度は読み返す習慣を付けた方がよい
流石に自分でも気付くだろっていうミスが多い
消し忘れとか >>356
間何歩さんの本の言う事には、証明は既に済んでるみたい。もう、お亡くなりになってる方だけど、
雨宮先生が電子情報通信学会にいた。雨宮先生はELF電流密度が10μA/cmを越えると神経が
興奮するとある。ELFって何?って言うと、0.03~30Hzの電磁波を分類したもの。
興奮するということは誘導電流が流れるし、信号が伝わるということを意味してる。
公式も書いてあるけど、100Hzから500Hzぐらいではないかと言われてるようだ。
大きな周波数とか高電界では誘導電流はそんなに勢いが増さないみたい。
30Hzぐらいで電界で刺激が生じるってことが明かになってる。
この事件は神経に電磁波で信号を伝える事件なので、100Hz前後の電磁波が考えられるそうだ。
・ELF電磁界の健康影響と防護指針
https://www.ieice.org/jpn/books/kaishikiji/200104/20010401-1.html >>359
なんか全然話が噛み合ってなくね?
電波で脳に刺激を与える事ができますはわかるよ
でもある犯罪の裁判で
「電波の影響で犯罪したから情状酌量しろ」ってんなら
その犯罪との因果関係を立証しないと意味ないだろ >>360
その周波数の範囲で誘導電流が起こります。環境でその周波数が検出されます。
どの環境から来てるのは書いてない。つまり、犯人は逃走中だが人に情報伝達する電磁波なのは明かだ。
で、神経の信号はパルス波形で伝達してる。パルス波形って何ですか?って言うと、デジタル波形の仲間。
パルス波形もデジタル波形で送信すれば、情報は伝達できる。環境にデジタル波形が検出されるってこと。
情状酌量って殺人事件で書いてあったやつ?通報があったのに放置してたんだから、情状酌量の余地はあるよね。 >>361
情状酌量を要求してる側に
立証責任があるぞ
立証できてないから情状酌量ないぞ
その「電波は脳に影響を与える事ができます」
ってだけの話まだ続くの? >>361
プーチンは倫理観を揺るがせている?
報復感情は倫理かと問う際、事が起こった後の正当化という層のズレた目的的な構造がある。
デジタルな脳波ではどうなって( -_・)?の 倫理哲学スレ
改め
電波とウンコの話しかしないスレ この本の「法律・生命倫理の部門」は
なかなか面白かったぞ
論理パラドクス 論証力を磨く99問 (二見文庫)
「1人を犠牲にし臓器移植で5人を救う医師」と
「トロッコ問題で1人を犠牲にし5人救う運転士」では
何処に倫理的な差異があるか、とか >>365
本質的に違いがある。
臓器の問題は一見、善いように思い込んでるけど、誰か一人を犠牲にする社会は強烈に悪い。
トロッコ問題は最悪の事態を回避するということがある。どちらに行っても悪いのだが、一人のほうが衰退の傾向が弱い。 >>366
ごめんこれ俺の書き方が悪かった
端折り過ぎた
この本の設問にあった医者は
「健康な患者を騙して麻酔かけて
臓器をすっぽり取って末期の患者5人に
移植してしまう医者」だ
誰かに言われて作業してるだけの医者ではない >>367
倫理にするには人物像が足りない。
在日韓国人を一ダマして麻酔をかけ、臓器を摘出して日本人五人を救った。
これをやって何か悪いんですか?ってことを問題にしたら、どうする?
敗戦国の血縁者なので尊厳はなくない?朝鮮系の人は臓器のバイオマスにしてもよくないか。
だが、個人の感情の中では日本人が助かるならいいんじゃないかと考える人もいる。
いいや、誰もそういう扱いしたら良くないよと答える人もいる。
個人の信条を変えるのは難しい。
しかし、国際的には人種差別撤廃条約がある。
条約から考えたら、韓国人を食料人間にするのはよくないよ。それは僕も条約があるから、いけないって納得できるよ。
こういう話し合いが倫理だ。 臓器移植を待ってる娘がいるとしますよ。
韓国系の日本人の青年は体が大きく膨れてて健康そうだ。
きっと、活きのイイ臓器を持ってます。
これを移植したら、長生きしますよ。
いいじゃないですか!
この青年の臓器をくださいよ。
娘を助ける為なら、良い行いだと考える人はいるかもしれませんね。 臓器移植は一人を犠牲にして、五人を助けたいということを支持したいとするね。
個人には事情だとか国籍とか色々ある訳だ。これはお互いに変えるのはほぼ不可能だ。
その人には必要だから、一人を犠牲にしたいと言ってる訳で。
大体、こういうのは麻薬と一緒だ。多くの人々が幸福になるけど、長い目で見ると悪化する。
でも、どうしても一人を犠牲にしたい。これに許可を与えてくれる所はどこなのか。
貧乏な人はどうかな。母子家庭の母親の肝臓を100万円ぐらいで買い取ってあげればいいじゃないか。
日本ならオウム真理教の医者ぐらいなら、人を殺しても平気ですよね。アソコに行けば、やらせてくれるでしょ。
犯罪者はどうかな。殺人犯はどうせ、死刑になるから、臓器の半分ぐらい取ってもよくないか。
アメリカとかはどうかな?黒人の臓器を取ってもいいって人がいるかもしれないね。
こういう根拠を示さないと、一人を犠牲にして日本人を五人助けたいという意見にはならない。 >>368-370
差別主義を前提にすれば
話は簡単だな
でもこの本の設問にそんな設定はない
さらにこの本では
悪医者問題とトロッコ問題の設定を
近付けて見ても違いがないか考えたりする訳
それによって
「トロッコ問題の方は一瞬の判断だから」とか
「トロッコ問題の方は事故だから」とか
ありがちな回答はどこが間違ってるか
解説されたりする
結構面白いよ >>370
倫理は明文化されなければ良し悪しがわからない、
という方は極めて自分本位的ななものの考え方をする人だなと思わざるを得ません
無法地帯なら、倫理は育たないとお考えなのでしょうか?
法がなくとも人間関係がある限り、われわれは倫理について考えざるを得なくなるでしょう
明文化された法律がない状況でも、
あなたが自分で手に入れたもの(たとえば食料とか)を他人に盗まれようものなら激怒するに決まってます
そこで相手が「窃盗を禁ずる規定がない」と言ってもあなたは納得できますか?
もちろん、そういったやり取りの果てに「法」というものが生まれたのでしょう
でもここは法哲学スレではなく倫理哲学スレです
>>369-370の意見と
https://jp.wsj.com/articles/SB10075375995560903775804585107102300596376
【寄稿】悪夢:中国の臓器売買の実態
ウイグル族やチベットの仏教徒など「良心の囚人」の臓器が強制的に摘出されている
↑の記事とで何か違いがあるのでしょうか?
つまり>>369-370の意見に則って中国で臓器移植が行われている、といっても大きく違いはないということです
「臓器移植を待ってる娘がいるとしますよ。
ウイグルの青年は体が大きく膨れてて健康そうだ。
きっと、活きのイイ臓器を持ってます。
これを移植したら、長生きしますよ。
いいじゃないですか!
この青年の臓器をくださいよ。
娘を助ける為なら、良い行いだと考える人はいるかもしれませんね。 」
「中国ならイスラム教徒のウイグル族ぐらいなら、人を殺しても平気ですよね。アソコに行けば、やらせてくれるでしょ。
犯罪者はどうかな。殺人犯はどうせ、死刑になるから、臓器の半分ぐらい取ってもよくないか。 」 >>372の前半は、
>>370ではなく>>368宛てです
訂正します >>372
「法がなくとも人間関係がある限り、
われわれは倫理について
考えざるを得なくなるでしょう」
これは本当にその通りだよね
逆に、この世に人間がただ一人しかいないなら
倫理は必要ない
遊びで兎の皮を剥ごうが
崖から飛び降りようが
誰に迷惑をかける事もないのだから
やりたい様にやればよい
元々この世に倫理などないのだから 倫理について考えざるを得ないのは当然なんだけど、問題は「どのように」考えていくのかだよね
その人間関係のあり方や、その人間関係を持っている人達が置かれている状況によって倫理の在り方も変わってくるから
どのような人間関係、どのような状況にあるときに、どのような倫理の在り方が要請されるのかを基にして「倫理が形成される仕組みや原理」というものを探っていかなければならない
「論理」には形式論理や記号論理など、いくつかの体系的な方法論が確立されているけど「倫理」にはしっかりした方法論がまだない
倫理というものはけっこう流動的で曖昧なところがあるから明確な原理を見つけるのは難しいんだろうけどね >>375
確かにその通り
倫理には前提条件がないので
論理的に正しい倫理観がどうだとは決まらない
論理には前提が要る
数学ですら公理がある
ではなぜ
「人類滅亡主義」とか
「人種差別大好き主義」みたいな
突飛な倫理観は一般的になっていないのか
今の我々にとっての常識的な倫理観の
成立過程を考えるのは面白い >>372
私は可哀そうだと思うとか、自分は悪いことだと思うというのは道徳の問題である。これこれの仮定が
あって臓器を取られることになったという物語は道徳の範囲を出ない。
倫理とは、自発性を持った根拠を背景とした主張のことです。ソクラテスであったり、哲学者であったり、
神や法律であったりします。法律の問題にしたいなら、強制力を持った根拠なんですが、
法律でも人のいない森とか山なら、破っても規制はないでしょ?破ろうと思えば、破れる訳です。
神様は人間ではないでしょ?人は誰もいないんですが、神様の心を考えたら、そんなことはできないと思うでしょ。
神様は法律じゃない訳で、人が強制的に罰するとかじゃない。だから、自発的に守ってるようなものなんですよ。
朝鮮系の若者は不良になったり、ヤクザになったりする。詐欺、殺人、臓器ブローカーをやってるんだから、
日本人がやって悪い?と思う人がいるかもしれない。それも分からない話しじゃないんですよ。
韓国系の若者を一人解体すると、五人どころか50人ぐらい搾り取れる。日本人が50人も助かっちゃう。
数学とか量のレベルだと利益がでると考えてしまうかもしれない。個人的な心情で誰か一人を犠牲にして、
他の人が楽したいんですか? 倫理は自発性を持った根拠を背景とする主張だということです。
あなたがアイドルの追っかけだとしましょう。猫はカワイイから猫はイジメないでくれと言ったとしましょう。
別にアイドルは見てないし、猫を虐待しても誰も罰しないけど、猫に迷惑かけるのは止めようかなって思うでしょ?
悪人でも倫理はある。親分が麻薬を売るなと命令したら、止めておこうかなと考える。
別にバレても罰則なんてないに等しい。でも、あの人が嫌がってるから、止めておこかなとなる。
でも、この世に他人の臓器を取り上げたくなるなあって根拠があったら、どうします?
逆に、そんなものが世の中にあったの?って知りたいですね。
討伐されるんでしょうけど、どういうメカニズムなのか聞いてみたい気もしますよ。 >>377
すごい
間何歩先生の文体を完全に再現しているな >>379
こういう考え方が常識なんだなって。先生の本は目が開けるよね。 >>380
間何歩先生の本は
マジで糖質だなぁって文体で
目が覚めるよね確かに >>381
間南歩先生は脳神経倫理学の試論の中でアフリカの土人の宗教説話が興味深いんだけど。
やっぱり、シャーマニズムの声を聞けるんですかね。
シャーマニズムにはバキリってジャッカルの牙を最悪の呪術品だって言ってるんですけど、
被告者に投げつけると病気になるってやつ。
あれって本当に信じてるんですかねえ。 >>377
>>378
我々自身の行動を倫理が
制限したり推したりするのは
疑う余地がない所だよね
そして倫理観は気まぐれではなく
原則や基準がある様だ
その原理や基準はどの様に形成されたか
っていうのを>>375が問うているね
さてどう形成されたかな? >>383
人は観念があるんだけど、社会が精神の外側に影響を与えている。
日本人は永遠、韓国は判断、イギリスは量、ドイツは無駄なものをそぎ落とすのように国家の主権者が
原理を決めている。だが、国が決めたからと言って何でも従うことは難しいよね。
もっと深い所には大事なことがある。 >>378
うーん
「倫理は自発性を持った根拠を背景とする主張」であるといわれても、
例に挙げている根拠は受動的ではないかと思ってしまいます
他人が言っているから止めておく、という感じです
もちろん倫理をそういった形で受け止める人もいるとは思います
難しいところですが…
人間は生まれつき倫理観を備わっているわけではないので、
他人が言っているからそれが倫理なのだ、と解釈する人は当然いるでしょう
子供が大人に成長を遂げる過程でその意味を実感する人もいるでしょうし、
死ぬまで本当の意味を知らずに生きている人もいるかもしれません
殺人は違法行為ですが、そういう法律がなくとも人間の集団生活では余程のことがない限り許されない行為です
かといってなぜダメなのかを実際にやってみて実感するわけにはいきませんし、
殺されてみるわけにもいきません
>でも、この世に他人の臓器を取り上げたくなるなあって根拠があったら、どうします?
それは自分が臓器を取り上げられる身になっても通用する根拠があったら、ということですか?
そういった(倫理的)根拠が世の中にあるとはわたしには思えません >>384
国家の主権者が決めているとなると
平等の精神は民主主義から
生まれた事になるのかな?
因果関係が逆に思えるが
平等が良いと思ってもいなかった人達は
なんで民主主義にしたんだろうね >>385
臓器を奪い取る根拠はありますよ。一つはお金です。ベトナム人は技能実習生などで日本に来るんですが、
肝臓を半分、摘出しても元に戻るし死なないから売ってくれないかと言われます。
50万円もらえるから売るケースがあります。大体、ダマされて全摘出されて介護生活になるというものです。
臓器の売買は法律で禁止されてるけど、守りません。
自分でお金が欲しいと思って、臓器摘出に合意した。
>>386
何故、平等にしたのか。アメリカが宗主国だからです。
アメリカは平民だけがアメリカ大陸に移住したでしょ。彼らは庶民だけの国なんです。
人権は江戸時代には無かったでしょ。侍がルールを決めたら、その場で切り殺しも許された。
庶民は上司に機嫌よくしてもらわないといけない。
日本は百姓が戦争をしたことがあるんですが、一回も政府になったことが無い国なんです。
源氏や平氏など天皇家の末裔が政権を取ってました。
でも、維新で地方の国王が政権を取った。
維新の影響で明治にも大正にも人権は無かった。貴族が中心であり、財産の多い庶民の男子に優遇がされた。
日本に人権が現れたのは昭和が初めてですよね。
フランスは王権を倒して、庶民が戦争に勝った国ですよね。主権者は国民です。
でも、ロシアには個人の人権は無い。国家の仕事のほうが大事だと考えられています。
障害者にも人権はなく、障害者保険はもらえず、絶えず生活苦です。
アメリカが庶民の国なので日本との戦争に勝ったから、日本は民主主義にしてるだけですね。 >>387
支配者によって倫理がもたらされるなら
アメリカに渡った庶民も
フランスで王権を倒した人達も
そもそもなぜ支配を打倒したのだろうか?
非倫理的な事だと思いながら
そうしたのだろうか?
やはり因果が逆である >>383
基準は人間そのものではないですか
決して倫理を知るには「~すべき」という言葉だけではなかったはずです
人間には生まれつき倫理というものを備わっていなくとも、
倫理を備えている人間のことは判断できるのではないでしょうか
それは絶対的な倫理というものではなく、
Aという人間がいたら、Bという人間と比較してAの方が良いとか悪いとかという具合にです
神という概念は絶対的なものですけど、
とりあえずそういうことは横に置いておきましょう
ただ、いつまでも変化しない人間というものも存在しません
信じていたら裏切られた、ということも人間に対しては起こり得ることです
そう考えると神という概念も便利なものですね
上の文は>>378さんの
>あなたがアイドルの追っかけだとしましょう。猫はカワイイから猫はイジメないでくれと言ったとしましょう。
>別にアイドルは見てないし、猫を虐待しても誰も罰しないけど、猫に迷惑かけるのは止めようかなって思うでしょ?
>悪人でも倫理はある。親分が麻薬を売るなと命令したら、止めておこうかなと考える。
>別にバレても罰則なんてないに等しい。でも、あの人が嫌がってるから、止めておこかなとなる。
これを読んだときに、
「倫理というのは人に流されるものなのか」と反発しそうになったんですが、
実際、人に流される(影響される)ものなのかもしれない、と考え直したところから発想したものです >>389
生れ付き倫理は何か明確に知らないんでしょ?
あなたの道徳的な考えも無いみたいだし
比較はどうでもいい考えの代表格ですけど、何故、良いと考えるのかへの答えが倫理的である可能性がある
自分でもよく知らないみたいだし、相手次第で倫理を考えてよくないですか?
それが悪く言えば、人に流されるって状況ですよね >>389
AさんよりBさんの方が倫理的だと
判定するには
倫理の指標がいるのではないか?
テロリストが平和主義者より
倫理的に劣るというのは
平和主義者の理屈であって
誰にでも通じるものではないぞ >>391
倫理が形成される過程において、先に指標があったわけではないと思います
人類は実際により多くの人の面倒を見てくれる方を選んできたと思われます
口だけではない、かつ
排他的ではない方を >>392
王政でも官僚を増やせば
統治できる国民の数は増やせるので
面倒を見られる数に制限はないと思う
そもそも倫理は誰かが
「こちらの方がより多く人の面倒を見られる」
と判定してその人が広めたのだろうか? >>393
王政だったり、民主主義や共産主義であっても、
システムを作るのは人間ですし、そのシステムを運用するのも人間です
そしてそのシステムを受け入れるのも人間になります
末端の一般市民が飯を喰えなくなったら不満がたまります
飯が食えなくなった一般市民の不満は、官僚を増やすだけで解決はできません
仮に暴力で一時的に押さえつけることは可能かもしれません
しかしその時の「倫理」は形成されるどころか崩壊に向かっていくはずです トロッコのジレンマでも死刑制度でもプラグマティクスな要があって、倫理の「否定的な実践」の形で現れる。それは「悪法も法」或いは「不服従」の態度として、法の根底を問う倫理のプロセスにある問題だが、三島が論じたのは、法の中の否定ではなく、法を否定するならば「いつも手段が目的に優越する」、その過程で手段はあらゆる不道徳を犯し、ついにはモラルは完全に崩壊するという、観念を実践により超越する倫理の「実相」で、彼は殉じたわけだが、、
ご存知、家族はめちゃめちゃ世間に謝罪した。 社会と言うなら、2030年にSociety 5.0 の社会が支配的になると位置付けられています。
社会の進歩で倫理も様変わりすると思われます。後、8年後ですね。
民主主義から転換を見せる可能性があります。
Society 5.0 って何?歴史的に人類を支えた中心的な仕事の発展を社会指標で表したものです。
狩猟社会(Society 1.0)、農耕社会(Society 2.0)、工業社会(Society 3.0)、情報社会(Society 4.0)
、その次にサイバー空間とフィジカル空間を結合させた社会にしようと考えています。
フィジカル空間って何ですか?今の暮らしてる街や郊外です。
サイバー空間って何ですか?サイバー空間は通信工学を使うんですが、それだけだとどんなに発展しても
高速通信網です。高速通信網と何が違うのかというと、人工知能で情報通信網に加えて通信を制御したもの。
通信工学+人工知能をサイバー空間と言います。
サイバー空間とフィジカル空間を密接に連携させ、人類の代わりに機械を働かせる社会になります。
機械で管理されることについて、どう思いますか?どうして、そんなことを許して良かったのか。 機械が人間の代わりに働く世の中になると、どうなるのか。
2030年から2050年の間に、建築業や農業は100%、人工知能を搭載した機械で自動化になるとされています。
会議や仕事は在宅勤務になり、代わりにアバターが出席するサイバネティックアバター社会になります。
安い機械のウェイトレスやキャッシュレジスターが登場し、安い労働力で利益が上げられるようになります。
機械に労働を負担させ、人類が裕福になるという社会を目指している。
労働者が財産の共有に悩むことがなくなる。
自由主義で個人の秘密は人工知能を通じて、人工知能を管理してる技術者の管理下になります。
人工知能の管理下になるとは、どういうことなのかというと、個人情報を機械が見てもいい、
効率的な情報を機械が与える、人間の生活のマネージメント、生体の改造も予定されています。
労働も管理者も機械が中心になり、人間の苦労は低下します。
このように、機械が支配する社会がやって来るのは明白なんですが、機械主義ということが考えられないか。
その時、人類は機械とどのように付き合えば良かったでしょうか。 >>394
この論だと
「体制の維持」が「倫理」なのかな?
確かに
奴隷制を持つ社会体制では
奴隷制の維持が倫理的だとも言える
体制維持の為にはより一層強く
奴隷を抑圧すべきとも言えるね? >>395
三島の家族が社会に謝罪したのは
三島の家族が三島と
倫理観が違ったというだけだよね
三島は悪い事をしたなんて
微塵も思ってないと思うよ
倫理規範は人それぞれだからね
例えばテロリストも悪い事だと思いながら
テロはしてないと思う >>396
>>397
人類にプラスなら問題ないし
個人情報は取得に同意がいるから問題ないよ
間何歩先生のぶっ飛び話はもういいから >>400
個人情報は人間が閲覧するのには同意が必要だが
個人情報を人工知能が閲覧するのには同意は要らない
人工知能のデータを人間が閲覧するのにも同意は要らない
これは何を意味してると思う? >>403
安心しろ
手段がAIだろうが詐欺だろうが
同意なく個人情報を取っちゃダメだし
同意の範囲を超えて利用したゃダメだぞ >>394
互恵性といえば簡単だし、春秋時代、また漢籍に普遍的にみられる飯の問題は倫理の形成を促すみたい。
現代では清貧といわれるが、金の問題と結ばれる。フォイエルバッハも富は倫理の必然性だという。
この論理はシンプルで、他者の幸を望むなら己も幸を知らねばならぬという「互恵性」なんだね。
「暴力」だけでの倫理は望めないのだろう。 >>404
人に同意を規定してることはそんなに多くない。
人工知能に同意は必要ですか?2030年、後8年後にやって来ることですよ? >>406
AIを使おうが詐欺に賭けようが
個人情報の取得には同意が必要だな >>398
人間はそれぞれ自分で何かしらの答えを出します
あなたはあなたの倫理観があるわけです
それは他人には決められません
でも他人からの視点でのあなたに対する評価は、
個々の人間が持つ倫理観の答えほどにはバラつかないはずです
他人から見られる自分の倫理観=自分の倫理観では必ずもないでしょう
その中で他人は(選べるのなら)より倫理観の高い人の行動を支持する、という意味です
「飯を喰わせてほしいのなら~しろ」
という人間が多数いるなかで、人は(相対的に)倫理的な人間のいうことを聞くのではないかと >>408
単純に、それだと「〜すべき」はどこで出てくるのだろうか? >>408
> でも他人からの視点でのあなたに対する評価は、
>個々の人間が持つ倫理観の答えほどにはバラつかないはずです
倫理観が人それぞれなら
私への評価もそれぞれになるはずだ
なぜ倫理観は全くのバラバラに
ならないのだろうか?
倫理観はどの様に生まれて
何に左右されているのだろうか? >>409
原始の時代から親子関係というのはあったでしょう
生まれながらに自分のことを自分でこなす人はいません
だから親は子供に「ああしなさい、こうしなさい」と言うはずです
不幸なことに生まれながら親がいなかった人もいるかもしれません
それでも誰かに育てられたのなら、大体の人は言っているはずですよ
「~しなさい」と
生まれてこのかた自分を育てた人以外の人間を知らなければ、
だいたいその人の言う事を鵜呑みにしてます
比較対象が他にいないからです
(それでも父と母がいれば差異は生まれますけど)
外界に出て新しい価値観に触れるたびに親の言ったことは比較されていきます
それでも捨てられないで生き残る「~すべき」というものは、普遍的な意味を帯びていくはずです
それを人は倫理と呼んでいるのかもしれませんね
>>410
あなたが内心どう思っているか、ということなどほとんど他人にはわかりません
外見とか言動とか行動からでしか窺い知ることはできないでしょう
他人とは自分以外の人のことです
あなたは他人を評価するときに「糖質001aだなぁ」とは言わなかったじゃないですか(例えばの話です)
他人のことなんてよくわかりませんからね
だから>>381のようなおおよその評価をした、とわたしは思いましたけど >>411
私は間何歩先生の頭がアレだとは思うが
彼が倫理的か非倫理的かについては言及していない
> 外見とか言動とか行動からでしか窺い知ることはできないでしょう
言動や行動が倫理的かの
判断について問うたのだが…
それはもう良い
> それでも捨てられないで生き残る「〜すべき」というものは、普遍的な意味を帯びていくはずです
↑
これはどの様な指標や基準で選択されるだろうか? >>411
前回のレスとの繋がりで説明があるとよかったと思うけど、ストレートに「親子関係が倫理の源泉」という理解なのかな。閉じた人間関係において「当たり前」と思うことと、そこから「〜すべき」に至るには隔たりと飛躍がある。
実際には人間関係は閉じておらず、開放された社会関係にこそ倫理が定立され、社会的な義務としての「〜しなさい」は自由意志を持つ社会的成員が「不服従」を選ばず自律的に「〜すべき」と思うものだ。
つまり、開かれた多変数の社会の中で規律するものが倫理ということになる。その形成=普遍化の検討が倫理学とすると、飯の問題では「〜しなさい」を条件としない高い倫理に他人は集まり普遍化するという理解だったのだろうか。
それが単なる私的な利益衡量である限り倫理になることはないと思われる。指標足り得るかと。 >>412
人間の自意識というのは自分だけのものです
自分は他人ではありません
まあそういうことは置いておいて、
それでも人間の成り立ちというのはだいたいみんな一緒です
寝るし食べるし排泄もします
子供はいずれ大人になりそして老いていく
そういった不可抗力的要素が人間には共通してあるわけです
そういった前提がある中で、
例えば「食べ物を粗末にするな」という言い回しがあります
仮にあなたが「この飽食の世の中では意味がない忠告だ」と思ったとしても、
他の大多数が「それはごもっともだ」「そうするべきだ」と思ったとしたら、
その人たちが大人になり子供にそういう教育をしていく限りその言い回しが廃れることはないでしょう
食べ物がなくなったら餓死してしまう、という人間の特性がある限り、
「空腹」という状態を経験したことがある人はその言い回しをなかなか否定できません
そして大体の人は「空腹」という状態を経験したことがあるわけです >>414
「生存に有利な教訓が倫理になる」なら
「利己的に生きろ」が最も倫理的になるのでは?
周りも利己的を是とするならば
利己的である事を理由に孤立する事もない >>413
「利益衡量」なんて言葉があるんですね
勉強になりました
ありがとうございます
「互恵性」とかも知りませんでした
わたしももう少し語彙が豊富なら話が簡潔になったかもしれないです
申し訳ありません >>415
引用ですが…
https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20121128post-179.html
>誰かを手助けすると、まわりまわって自分に利益がもたらされる。
>つまり、手助けをする性質が生存に有利になることにつながり、進化の過程で選択されて広まりました。
>こうして、私たちは間接的に自分に得となる行為を無意識にとるようになったのです。
>生き物には「利己的」な性質が基本的に備わっていると言いましたが、
>第三者の目を意識するというのは人間に特有の性質です。
>たとえばチンパンジーは自分からほとんど手助けをしません。
>自発的に手助けをしても、相手や第三者が評価してくれなければ、自分に何も利益はもたらされません。
>そのためチンパンジーの進化の過程では、手助けをする性質が定着しなかったと考えられています。
>これに対して人間には、第三者などが評価してくれることで、手助けをすると自分に利益がもたらされることがあったため、
>進化の過程で手助けをするという利他的な行動が広く定着したのです。
>人間の特徴としてもう一つ、言語を使うことが挙げられます。
>集団の中で助け合いながら繁栄してきた人間は、利害関係の調整において言語コミュニケーション能力を獲得しました。
>このような能力を含む知性や理性は、脳の発達によってもたらされたものです。
>一説では、大きな群れを作って集団生活する種ほど脳が発達しているとか。
この意見のすべてにわたしも同じく思っているわけではありませんが、
ひとつの意見として参考にしてみてください >>417
実は私もこの利他的行動は
見返りを期待してのものというのは
合っていると思っている
では自己犠牲はどうして倫理的と
解釈される事が多いのだろうか? >>418
動物には「自意識」がなくとも「利己的」な性質が基本的に備わっています
第三者の目を意識することができるからこそ人間だけが利他的な行動をとるわけですが、
人間もまた動物ですから本能的に「利己的」な行動も取りがちです
人間全体が利己的を是とするならば、人間に自意識は必要ありません
チンパンジーのように生きていけばいいでしょう
人間はチンパンジーとは違う、という認識は誰にとってもありますが、
それを他人に認識させるのならチンパンジーと違う行動を取るしかないでしょうね 自己犠牲や利他的な行動に倫理的な価値が認められるのは、その社会集団を一つの統合された全体という水準で見たときに
その集団の体制(システム)を維持・存続していくことに寄与するからじゃないかな
視点を個人レベルにおくか集団レベルにおくかによっても倫理的な善悪は変わってくるはず >>421
動物にも自意識くらいあると思うが…
「他者からの見た自分を意識する」が
利他的行動の源泉であるとするならば
利他的行動は単なるポーズに過ぎない事になる
他者から認識されなければ
我々は利他的行動をとらないのだろうか? >>422
かなり納得感がある
では
「集団の体制(システム)を
維持・存続していくことに寄与する」
が我々の倫理観に概ね共通する指標となったのは
何故だろう
やはり単純に
それ以外が自然淘汰されただけと
捉えるべきだろうか りん【倫】
〘名〙
@ ともがら。たぐい。同類。仲間。 >>425
倫理でも善悪でもエシックでも
違いがない様に思えるが >>423
遡れば>>60,62,64なんかはわたしの書き込みです
わたしはこう思っている、という感じです
>他者から認識されなければ
>我々は利他的行動をとらないのだろうか?
自意識がない(と思われる)動物の行動に善悪というものはないと思います
本能に従って行動していてもそれを責めるものはいません(人間以外は)
弱いものを食べ、強いものに食べられる
そのことについて、良いも悪いも感じていないでしょう
周りから向けられる敵意については、
動物ならば生まれたときからやるかやられるかの世界です
人間の世界のように、ある一定の行動によって増減する類いのものではないわけです
言語コミュニティは人間と動物とを大きく隔てている違いになります
言語は客観的世界に環境として存在しているので、
世代を超えて伝えられるものです
たとえ「自分が死ねば世界が終わる」と思っている人がいても、
子供が出来たり孫が出来たりするとなかなか好き勝手には生きていけないものです
「なんでもアリ」さんでさえ、長い人類の歴史の中においてでは誰かの末裔ということになるでしょう
少なくとも好き勝手に生きて誰かの恨みを買い、
一族を根絶やしにされた人はあなたの先祖にはいなかったということになります >>427
他者からの攻撃を恐れて
媚びへつらうのが倫理なのだろうか? >>428
自分に正直な人は、短期的に敵を作ろうともそこまで嫌われることは少ないと思います
人は誰しも自分に嘘はつきたくないですから >>429
周囲に敵を作らない様に
振る舞うのが倫理なのであれば
ナチスドイツにいれば
ナチズムが倫理的と言えると解釈できるだろうか? 一口に善・悪とはいえ殺める行為等の対象に依存し、倫理は行為の射程を定めることを前提とする。
だから合理論では法が「義務」の表象であり、大陸法でも暫時に倫理は法に吸収されるという見解が示されている。この点では「淘汰」の力学を認めるが、
倫理の遷移か消滅プロセスであって倫理の源泉を求めるならカントが立ち開かる。いかに自己を拡大しても「義務」へ転化する構造にはならない。
「行為への客観的強制を表現するところの「〜すべき」によって表象する実践的規則と格律」は「理性使用の拡張」による"消極的効用"によって空言に帰結する。
もしこれに反対であれば、倫理学の本質は期待できない。例えばミード等のポスト経験論によるだろう。
「知識は、それ自身の本性において、自己意識ではなく、範疇のもたらさない有機的関係の中に残され、真理に対応した基準や方法は否定されない」
これは反対の真理ではなく、カントのいう理性の"積極的な効用"の無化、従って倫理学の解体という事態の理解は必須だが、
どうであれ倫理の本性は(その失敗でさえ書記なのだが)、法よりは哲学に吸収される。 >>431
長い上に分かり辛い
もっと分かり易く言って いま哲学スレの中で、間口が広くポップで、わ
かり易いのは、
→「意識のハードプロブレムの答え」スレだな。 >>433
このスレでも分かり易く
言えば済むよね? >>431
君には中心的な考え方が欠けてる。だから、倫理学はあまり役に立たないと思われてる。
中心は自分かな、人類かな、哺乳類なら全部守ればいいかな。
中心を欠いているのでどの道でも通じるぐらいに思っている。 >>435
たぶん法に吸収されるっていうから、違うんじゃない。ま、倫理なんて役立てる以外ないだろ。 >>436
う~ん、科学はすごい早さで進歩するでしょ?
国会議員が科学技術に法律を作ってない状態になってる。国会議員は科学者でないから、何だかよく分からない。
科学は法律に規定されてない(=まだ、誰も作ってない)から法律的な根拠が無いから、自由に使っていいでしょ?
こういうことを言い出す人がいるんだけど
この手の科学技術は多いんだけど、法律に吸収されるって話しになるかな? >>436
科学はすごい早さで進歩するのだが、まだ、誰も法律を作ってないから、
法律的にはグレーと言われるような状態ができてしまう
でもですよ、法律を根拠にできないならば、何か別のもので進歩した科学に人を傷付けてはならないと教えられないだろうか?
ここが倫理に言えと言われることなんだ 電磁波を全ての世帯で有効利用しようとすると動植物全般の神経に興奮作用がある
電磁波の影響は渡り鳥の神経を攪乱し、越冬地に飛来することができないのではないか
ツバメは電磁波を視覚で見ることができるが、地磁気を見ることができずに絶滅の恐れがある
生態系を崩すことは人間の生存にも関わるので、電磁波の使用世帯を制限すべきであるとかね
自然動物から人間の安全を確保した話しだけどな また電波の話か
それはもう分かったから勘弁してくれ >>430
現実ではナチズム自体が「敵」とされました
対立する構造がある限り、
相手から見ればわれわれが敵であり、われわれから見れば相手が敵です
しかしすべての人が対立構造に巻き込まれているわけではありません
そのどちらでもない人も当然います
その「どちらでもない人」からの視点も含めて考えてください
どちらがより不道徳なのかということを判断されるわけです
判断されるのは「理念」だけではありません
「行動」によっても判断されます
明確な「敵」を提示し、周囲を煽り同調圧力を高め、
その集団の理念が所属する人々の倫理観にまでなったとしても、
いつのまにかその集団自体が世界の「敵」とされることは少なくありません
周囲に合わせできるだけ敵を作らないようにしているつもりでも、
それだけで誰かの「悪」に加担している、ということもあり得ます
ここは哲学板です
他人からいちいちこんな説明を受ける場所では本来はないはずです
相談があるのならもっと親しい相手にしてください
顔が見え、声が聞こえる相手です >>442
「あたり前の事を聞くな」というが
なぜそれが「当たり前」なのか問うてるんだよ
ナチの例で言えば
その「どちらでもない人」が
なぜナチじゃない方を倫理的と
判断するのか聞いている >>441
君の嫌いな漫画の絵だったのか?どうして、倫理の骨格に気付かない訳だ。 >>443
自明性を打破するための哲学的な気づきはとても重要です
しかしこのような匿名掲示板で、
素性も知れぬ相手に質問ばかりしているのは如何なものかと思ったわけです
しかも哲学板です
「なぜそれが「当たり前」なのか問う」のはとても哲学的行為です
しかしそれは自分で考えるならばの話です
その答えを他人に乞うのは哲学者なら(自分の)自尊心を傷つけかねない行為かもしれません
基本的に聞かれたことに対してはできるだけ答えようとしていますが、
哲学板を利用するような方はあたり前のことをあたり前に思っていない方も多いと思われます
身近な人に相談なりして、「他人は何を当たり前と思っているのか」を考察してみるのも(あなたにとって)有意義ではないかと
>ナチの例で言えば
>その「どちらでもない人」が
>なぜナチじゃない方を倫理的と
>判断するのか聞いている
ひとつの例です(ナチではなくロシアですが)↓
【国際】プーチン氏、ウクライナのEU加盟容認 「西側の半植民地化するだけ」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1655509039/
16 ニューノーマルの名無しさん sage 2022/06/18(土) 08:42:03.67 ID:B9dRCPB70
まあ日本もそうだったんだけど究極の選択
ちょっと「指導者」の悪口言うだけでラーゲリにぶち込まれる社会になるのと懐柔され骨抜きにされる方向で支配されるのとどちらを選ぶか
一応見かけ上だけでも言論表現の自由があるほうを選ぶのが人情というもの
↑「人情というもの」を基準にどちらがマシか判断している例です
哲学的な考え方は人間の感情を排しがちですが、倫理について考える時は人情を抜きにしてはいけないでしょう
当時、ユダヤ人を排斥しようとしている勢力に対して、ひとりの人間としてどう思うか・思われるかを想像してみてください クルト・フーバー
1933年のナチス政権獲得には、共感していたと言われるが、身体障害者を排除し始めたナチスに反感を抱いていた。
それでも、1939年、妻の独断と本人の事後承認で、ナチス党員に籍を置くこととなる。
ミュンヘン大学での彼の講義は、ナチスに否定されていた人物、特にユダヤ人哲学者についてのことも取り上げ、学生にも人気が出始める。
時には、ナチス批判も口にしたともいわれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
↑
この、「身体障害者を排除し始めたナチスに反感を抱いていた。」の部分です
人心が離れる時はこういった部分に影響されていきます
そしてゾフィーショルは大学教授のそのフーバーに影響されて(他にもっと影響をうけた人もいたでしょうが)白バラの抵抗運動をすることになります >>445
>>446
私の考え自体はこのスレで何度も述べた
正しい倫理観など「存在しない」
それに対してあなたが
「存在する」と何度も言うので
その論拠を問うてる
「人情」とやらが論拠か? 在る無いが両方確認できる場合、ケーススタディは大事だけど、在る根拠を相関的にピックアップしても哲学にはならんの〜。 >>448
神の存在/非存在で争うのに似てるな
存在しないという証明もできないし
(世界中くまなく確認しても証明にならない)
存在するという証明もできない
(人間の理性では真贋を判断できない >>451
同じかなぁ?
既に確認される倫理との違い、ここらへん考えてみるといいかもね。 >>452
「既に確認されてる倫理」って
人類平等とかそういうのの事?? ・Strengthening Global Systems to Prevent and Respond to High-Consequence Biological Threats
http://i.imgur.com/DbqwT6Z.jpg
2021年に作られたサル痘パンデミックのシミュレーション
シナリオの設定ではサル痘の伝染の始まりは2022年5月15日の設定
企画主催者ミュンヘンNTI
参加者:メリンダ・ゲイツ財団、国連、WHO、中国CDC長官
ソース 10ページ目の進行表
http://www.nti.org/wp-content/uploads/2021/11/NTI_Paper_BIO-TTX_Final.pdf >>447
この世に人間が3人しかいなくても倫理観は生まれます
その3人のうちにあなたが含まれていたとして、
あなたが「正しい倫理観など存在しない」と言うのは全くの自由です
言うだけは自由ですが、そのことに何の意味があるのかと思ってしまいます
結局生きていかなければならなくて、お互い生きていこうと思うのなら、
お互いしなければいけないことをしていかなければいけません
あと二人いなくなれば完全な自由になれると思うのならそれはそれです
それでも生き永らえる状況ならそれを選択するかもしれませんが、
相手がいなければ言語なんていらなくなります
そのうち人間ですらなくなってしまうかもしれません
そうなる前に寿命が尽きるかもしれませんが、
子孫を残さないのならどのみち一緒でしょう >>455
答えになっていない
「この世に人間が3人しかいなくても
倫理観は生まれます」
私はこの理由を問うている
正しい倫理を知らないこの3人は
どの様にして正しい倫理を察知して
それに従うというのか >>456
君は理解できない人なのか。倫理は何を目的にしてると思ってるの?
上辺を飾る美学とかw 倫理は惨状を耳障りの良い言葉で呼びならわせば良かったの?
それも理由にはなるかもしれないけど、倫理でした? 実社会では「このハゲぶっ殺すぞ」みたいな強気と力関係がないと学級崩壊するな。他律なんだけど。 >>457,458,459
倫理に目的なんぞ無い
その目的は誰が考えたんだよw >>460
倫理に目的は無い。本当ですか?じゃあ、何にも結果を出さないでいい?
倫理って善いだ悪いだ考えてる単なる思い込みみたいなものだと考えてません? >>461
そうだよ
そうじゃないと証明できるの? >>462
そんなことも理解できないんですか?
アメリカが決めたこと、これで影響を受ける人は多くないですか? >>463
それなんの証明にもなってないよね
影響を受ける人が多いと正しいんですか? >>456
人間はいつか死にますが、何もしなくても死にます
3人のうちあなたとAさんだけが同じ量の食料をもっていたとします
Bさんは持っていない
食料はひとりの人間が3日分持つ量だとします
場所は無人島ということにしましょう
この状況であなたはどうしますか? 公平感が人に備わっているのは確かだね
ある人が良い思いをして自分にはそれがない場合に嫉妬が生まれる。
良い思いをした人には罪悪感が生まれる。
これって、人間に限らず高等な動物に見られる。
高等な動物は高度な集団活動を行って生き延びているが
そのために必要なバランス感覚なんだろう。
結局、現代も人間の社会の基本でもある。
借りたものは返すとか。 無人島で食料を持つ二人と持たない一人がいれば
そこに公平感が働く
持っていない人は不公平感を持つし、
持っている人は罪悪感を持つ
という公平感のバランス、力学が生まれて
すべてはそこからスタートする
たとえば持ってない一人が過去に罪を犯して食料をもらえなかったとすれば
自業自得、最初に負債を持つからもっていなくて当然
持っている二人の罪悪感は減る 465の仮定の場合、わたしだったらBさんに半分の食料を渡します
あとは生き延びるためにできるだけのことをするだけですね
サバイバルに自信があったらこの限りではないでしょう
わたしには自信がありませんから、とりあえずそうするという感じです >確か
>わたしには自信がありませんから、とりあえずそうするという感じです
サバイバルできるなら、気持ちいい物語を描きやすい緩い状況設定だなあ。
DVでもイジメでも、追いつめられた側が負い目で自死することもあるが、
立つ側、帰結するポイントによって倫理を消すなら、同義反復なんだな。 >>465
我々は既に組まれた
倫理観に従って判断するよね
でもそもそものその倫理観が
善いとか悪いとかどう判定する訳?
って話
>>466
公平感が人に備わってんじゃなくて
「公平が善」と教わっただけじゃねーの? >>471
集団における公平感という力学、あるいはエコノミーは
集団生活する動物にも備わるもの
善とか、正義はかなり最近に発明された物
たとえばリーダーがいる集団では、
リーダーが多くの利益をえるのは公平
周りもリーダーに一目置くし認めるから
そこに不公平感や嫉妬は生まれない
しかし下位のものが多くを得ると大きな不公平感や嫉妬が生まれる
このように曖昧な公平感を、定式化する新しい知的な試みが善であり、正義 あるいは集団を支配するためには公平感の力学をいかに操作するかが重要
集団は暴力で従わせるのは難しい
一時的によくても、不公平感が残り続けて、どこかづ反発する
集団を支配するために重要なのは公平感を保つこと
たとえば正当性
創始者の正統な後継であること
人々はそれならば支配してもしかたがないと納得する、公平感をもつ
あるいは贖罪
人々の犠牲になった
人々は償えない程の負債を負ったから
支配に従う
キリスト教とか、宗教に多い >>473
単に抑圧されたら反発するぐらいの
単純な話じゃね? 特に日本人は公平感に敏感だから
うまく活用するとよい
最近の同調圧力なんかもそう
他人に迷惑をかけないようにマスクしよう
負債を生まないようにあること >>474
まさにそういうこと
地球に重力が働いているように
集団には公平感の力学がずっと働いてる >>476
やっぱ「公平が善い」訳じゃなくて
流れでそうなったってだけだよね 日本人はよく空気を読む、空気が読めないとかいうけど
空気とは、公平感の力学のこと
その場にいる人々の間に働く公平感の力学を読んで発言することが大切
それを無視すると、負債が発生して支払わされることになるよ >>477
公平感には大きな欠点がある
範囲が狭い
狭い範囲でしか働かない
その場で保たれた公平感のバランスを、外からやってくるとなかなかわからない
そして公平感のバランスがとれた集団と、もう一つ公平感のバランスがとれた集団がであったとき、
それぞれの公平感をかけて戦争が起きる
そういうのを避けるために、より広くに分かり合えるように、客観的な文書化しようとする試みが善とか、正義
そしてそれが法律となる とはいえ曖昧でその場その場の公平感のバランスを取るのはほぼ不可能
善とかもなんかよくわからん
そして近代に生まれたのが民主主義、平等
平等って実際のシステムではお金で調整される
すなわに社会保障
貧しいに金を支援することで平等を調整する
公平感のバランスとはずれがあるんだけど
これだけ人が多いとこうでもするしかない >>479
まぁ大体そんな感じだろうね
共同体を回す為の理屈に
名前を付けただけのモノが正義や善って事
さて、では我々が
「倫理観など作り物」と理性で理解しても
まだなお我々が善くあろうとする
理由は何かな? 公平感覚が原始的に動物に備わるという前提でサンデルは成果主義は公平かと問いかけたりするが、実はやってることは不公平の肉付けというと、それは各自の政治的判断というんだな。 >>482
ふむ
例えば秩序の為に下っ端を抑圧するのも
公平の為か?
「リーダーが多くの利益をえるのは公平」だから >>481
現代で言えば、
公平感のあるバランスを平等というお金で解決するとき、
それでもこぼれ落ちるものを考え続けようという
尊い人々の優しい気持ちが善 サンデルは尊い人
功利主義や成果主義など
お金による平等でこぼれ落ちる善を問い続ける 最近だと中国では民主主義、平等は働いてないが
民衆はある種の公平感のバランスを保っているようにみえる
外から民主主義国がその不平等に顔をしかめようと
結局、民主主義って、公平感のバランスを保つ最良の策であるという神話は崩れつつあるのか >>485
こぼれ落ちる人は劣っているので
先程の公平の原理では
救う必要がないのでは? 結局アホもかしこも1票って、数量的な平等はおかしいんだよ
アホとかしこという質的な違いが反映されるべき 「気にくわない」ということ以上に、何事かが付加されているかは、たいてい問われないのだ。
例えば「公平」が問われる時は不公平と結論付けられるだろうか、等と。 >>470
こういった状況下で喰わせてくれる人はそれだけで偉いです
サバイバルに自信があるといっても、あとの二人の分も面倒見た方が将来的には良いと思いますね
ひとりきりよりも二人三人いた方が生き延びていけるはずです
そうすると「サバイバルに自信がある人」の言うことが絶対的になります
他の2人にとっては隷属的な立場に立たされることになるでしょう
そこにもう一つの集団が現れて、食料の面倒を見てくれる人がいたとします
そうすると、「サバイバルに自信がある人」はもう一つの集団の長と比較されるわけです
それが>>408で言いたかったことですね
>>471
人間関係の中で親子関係だけであったら、「倫理観」という概念は生まれません
親子関係だけではない人間関係が「倫理観」という概念を生みます
人間はどうしても比較してしまうものです
自我とか自意識というものがどう生まれるのか
生まれながらにして「自我とか自意識」を備わっている人間はいません
それは確かです
自分と他人との差異を感じるとき、自分は自分であることを認識できると(わたしは)思っています
つまり他人がいて初めて自分を認識できるということです
倫理観も同様です
ある「しきたり」があって、それを守っている集団の中だけで生きていれば、
それが正しいのかどうか疑問を持つのはなかなか難しいです
そのしきたりがない集団があって、そのなかで暮らし、
それで何の問題もなく過ごせれば初めてその「しきたり」に疑問を持つことができます
あなたももちろんそうです
あなたの主張はそういったものだからです >>487
社会の安定のためには全体の公平感のバランスを保たないといけないよ
こぼれる人の不公平感が負債となり、負債の支払いで集団は崩壊する 中国は昔から英雄思想があって
人はみな平等とは思っていないところがある
英雄は秀でており富と名声を得て当然と考える
その他の人々は英雄に導かれて幸せになる
そこでは格差があることも当然、公平と考えるから
公平感のバランスは保たれる
近代以前は世界的にそういうのは普通だったが
中国では今もそんな感じ 刑罰の教育的な側面から老人と障害者の犯罪は人格の矯正において可塑性に乏しく重罰化するのが公平だろうか。内容を問わず決定できるだろうか。サンデルに刑罰の社会的な意味をやってもらったとしたら、それ自体に意味があるだろうな。 >>490
しきたりの差異に疑問持つまでは良いとして
何の尺度で優劣を判断するの?
>>491
重度の障害者など、
反乱が脅威にならない場合は
迫害は続く? >>494
公平感のバランスで考えると、
障害者は生まれながらに負債を負っているから
バランスとして周りの人は助けようとする
負債を負っているものにさらに負債を与える指導者がいれば、
集団の中で指導者への反発が起きる
ただしやり方はいろいろある
障害者は前世で罪を犯したもの
障害という負債は前世の償いとすれば、
東漸の報いだから助けなくてもい、
あるいは殺害してもよいことになる
近代以前とは、このような公平感のバランスのばかしあいみたいなもので >>495
> 障害者は生まれながらに負債を負っているから
これは上手い解釈だ
確かにハンディキャップの有無は
周囲からの配慮を大きく変える
ただ逆に、優れた才能のある者は
その逆(貯蓄?)で嫌悪されるのか? >>496
優れた才能はみなのために使わなければならない
この公平感の力学はなかなか現代人には理解できないところだね
たとえば原始社会の集団では、天の恵みを得たのものはそれを独占するなんてあり得ない
まずは集団で共有する
現代の日本だとワールインワンすると周りの人に贈り物をするんじゃなかった?
幸運を独り占めする公平感のあるバランスが崩れるのでその反動が起きる
現実に宝くじで高額が当たったとき気をつけないといけない
気楽に言い触らすと、周りの嫉妬を買う
一部を寄付するとか
みんなにプレゼンと送るとかした方がよい
誰にもいわなくても自分の中で負債がたまって公平感のバランス崩れてその後おかしくなる 地球に重力があるように
社会には公平感の力学が強く働いている
社会とは公平感の力学場だ よく自分を観察してみて
すべて公平感のバランスで物事をとらえてるから スパルタでは障害者は殺されたよね。どういうバランス感覚? >>494
あなたがこの話題をするとき、
5ちゃんねるかツイッターか選ぶとしたらどっちでしますか?
あなたは正しい倫理観など「存在しない」と思っている人です
そう思っている人がこの話題に参加するとき、
「5ちゃんねる」と「ツイッター」で優越を判断できないと思いますか? >>497
「優れた才能は皆の為に使わねばならない」
これが本能って言うのは流石に無理くね?
>>501
俺じゃなくて
猿だった人間がどうやって
倫理的になったのか、って聞いてるの 公平感のバランスが一番わかりやすいのは物語だね。
みんな物語大好きだよね。
小説、映画ドラマ、マンガ、ゲームなど
物語とはなにか
始まりがあり終わりがあること
終わりとはなにか
終わりとは公平感のバランスがゼロになる点
伏線がすべて回収されて悪いやつは償い良いものが勝って負債が支払われる
いやすべてそううまくいかない場合も多い
それは本来は物語の終わりは公平感のバランスがゼロになるんだけど
あえてならないように設定する
すると人々の気持ちの中にもやもや、負債がのこるので、続編に続く
あるいは物語のあとにみんなはいろいろ考えて話し合って想像を膨らませる
そういう物語のテクニック でも重要なことは、物語は物語はだけではない
人は世界を物語としてしか認識できない
人はいつも無意識に世界を物語として見ている
すなわにどこかに公平感のバランスがゼロになる物語の終わりを設定して、世界を見ている >>503
それは
「公平感があった方が良い」
って前提で皆が読むからそう思うだけでしょ? >>502
自意識が芽生え、同じく自意識のあるものと生きていくのなら、
どうしても倫理的にならざるを得ないでしょうね
「人の目を気にする」というやつです
匿名掲示板でなら、そんなことを気にする必要はないかもしれません
匿名掲示板でなら、すべてのことに他人事でいられるかもしれないからです
しかしあなたは現実に存在し、実際は他人の目を気にしないで生きていられる「特別な」人間ではありません
匿名掲示板でなら、そうしていられるというだけです 悪いやつは最後には罪を償うことを望む
よい人は最後には救済されることを望む
物語の終わりを求める
何らかの才能があり成功した人はそれを独り占めせずにみんなのために還元する終わりを求める >>506
その「人の目」が何を基準に
良し悪しを判断するのかを問うてるんだが?
>>507
そんな高尚なのが本当に本能なんですかね? >>509
高尚というか、
原始社会では当たり前のこと 物語だからこそ、物語は終わらない。
だから倫理だけが、終わった。 >>516
アマゾンの人が
物語がどうとか言ってないのわ
流石に分かるわw >>515
>真も偽もない
のに真とする「偽り」の物語(が必要な政治)が一つ、あとは実存(アンガージュマン)で点的に開けるかもしれん。 >>509
人間でなくともサルでも生まれたときは泣き叫びます
これは生まれたときからできます
「発声」というのはどのように出来るようになるか?という疑問があるとしたら、
これは生まれつき出来る、という答えになると思います
下記は引用です
https://www.blog.crn.or.jp/report/04/38.html
赤ちゃんが生得的に持っている「泣く」という行為の意味を考えようと思います。
出産直後に大声で泣くのは出産のストレスによって新生児の脳から全身へと泣くように命令が伝搬されるからだと考えられます。
新生児すなわち赤ちゃんは何かの身体的なストレスに接したときには泣くように遺伝的にセットされているのです。
したがって新生児期の泣き方は単一的で新生児はお腹がすいたときも、おむつが濡れて不快なときも、ベッドの角にぶつかって痛みを感じたときも同じ泣き方をします。
短絡的との批判を覚悟で言いますと、赤ちゃんは生得的に身体的な不快感に接したときに泣くのだと考えるのが、私にはごく自然な結論と思えます。
上記によりますと、不快感は何も教えてもらわなくともわかる、ということになります >>520
何が倫理的かの尺度が
赤ちゃんにインストールされてるんですか? >>519
そう言うと、盲信できる枠組みを哲学したくなるけど、「倫理」というワードが表出するレベルではいいかも(それでも遺伝子発現スイッチの集合パラメーター、意思判断は身体動作に,数秒遅れる等の生理学が侵食する可能性はある)。 >>522
もっと単純だと思うよ
多分、善悪の感覚センサーだけあって
尺度は生まれた後に学習するんだよ >>521
赤ちゃんが泣くとき、泣かないようにあやす親もいれば、
泣かないように殴りつける親もいます
そのような親がいることは事実です
このような場合でも正しい倫理観といえるものはないのでしょうか?
後者もひとつの倫理観(泣き止まない赤子は殴って黙らせる)なのでしょうか?
その場合、泣き止まない赤ちゃんが「悪」なのでしょうか? >>525
そのさじ加減くらい自分で判断してください
自分が不快になることは相手も不快だろう、くらいはわかりますよね?
もちろんサルにはわかりませんよ >>526
「相手の立場で考えて」って尺度で
善悪判断するならそうなんでしょうね
でもそれが他の尺度より正しいかは
何に照らして判断したんですか? >>527
そういう判断は他の人もします
人間なら誰でもします
もちろんそのなかには相手の気持ちを考えられない人もいますよ
でも人間の社会の中で生活していくのなら、不快感はより少ない方が自分にとっては良いです
なかには他人に不快感を与えるのが生きがいと思っている人もいるでしょうが、
その人でさえも不快感はより少ない方が良いと思うでしょうね
サルでも本能的に不快な環境には寄り付かないでしょう >>527
複数の環境が選べるのなら、人は不快感が少ない方を選ぶ、ということです
尺度ではないです
選べないのなら、その倫理観の中で生きていくしかありません
もしくは、あなたが世界のすべての人の面倒を見れるというのなら、
あなたが思っていることが世界の倫理観になります
あなたが倫理を作るわけです >>529
赤ちゃんには自我がないんだったよね
さっきの赤ちゃんの例だと
赤ちゃんは何でぶん殴っちゃいえないの? >>530
殴られなかった人の方が生き残っているからです
虐待を受けて生きてきた人はそのストレスを他人に向けていくことが多いです
そういった人はなかなか社会に受け入れてもらえません >>531
じゃあやっぱり
単に生き残った人の
倫理観が正義とされてるだけじゃん
ナチがもっと強かったら
ナチが世界の正義になったよね >>532
同族(同言語)の人間から疑問視される倫理観は結局もろいです
人は誰だって捨てきれない人(家族や愛する人)を抱えて生きています
ユダヤ人だからとか障碍者だから切る捨てるようなことを訴えるような集団は、
結局「悪」だとされたわけです
死んだ人の倫理観が正義とされている例もあります
キリストは最たる例でしょう
迫害され刑死した人の言ったことがなぜこんなにもひとつの倫理観として生き残っているのか
それでいて「キリスト」になりたい、という人はあまりいませんけど >>533
キリストは死んだけど
信者は普通に生き残ったからね?
ていうか言語が違ったら
倫理観を疑問視されて良いって
いうのはどうして?? よい(と思う)環境を共有できる小社会が集まっているとイメージしましょうか。その環境を乱す者が排除される場合、端的に「そうならなければよかった」から「ざまー」までの反応が含まれる。
倫理という係累を分析すべく、後者の異分反応を照査すれば、黄金律ではなく「思いやる他者を思いやる」という同一律と、それを「よい環境」と思い「利益」と考える排他律がある。
けっきょく「倫理」の説明で「よい」「わるい」なら「よい」を選ぶというのは、¬「よい」=「わるい」を選んでいることになる。
意志と行為に満ちた、強者の道徳は別だろうけど。 >>535
その「良い」と「悪い」の尺度は
色々あるよね
ナチ的が良い
非ナチが悪い
もありえるよねってだけ >>534
キリストの倫理観には普遍性があったから、
信者は生き残れたともいえるでしょう
共感する人がいなければ結局は淘汰されます
>ていうか言語が違ったら
>倫理観を疑問視されて良いって
>いうのはどうして??
疑問視されて良い、と言っているわけではなくて、
もろいか脆くないかの差です
言語が違えば他の価値観に対して直接的な比較が出来づらいといえます
家庭内暴力は表にでなければわかりません
それと同じように他言語の倫理観はその他の言語圏のひとにはなかなか伝わりにくいでしょう
多少ごまかしがきく程度です
それでも江戸幕府は終わったわけですし、戦後の日本のありようも受け入れられたわけです
戦後の日本の統治システムが日本人に受け入れられなければ、
当然今のような社会ではあり得なかったと思います
たとえば使用言語を英語に統一させる、というようなことです
幸いそのような非倫理的な統治はされなかったわけですが、
もしされていたら自爆テロが当たり前の世の中になったかもしれません 414 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 2022/06/26(日) 20:16:31.62 ID:RgWijCms
★空飛ぶエイズと打つエイズ:共通項は「スパイクタンパク質」★
---
@SARS-CoV-2のスパイクタンパク質にHIV-1の配列が4個見つかった。従来のSARS-CoV(サーズ)では見つからず(2020年1月末、インド工科大研究者、仮論文、批判があって数日で撤回)
ASARS-CoV-2はCD4タンパク質を利用してTヘルパーリンパ球に感染する(2020年9月論文。同じくCD4経由で感染するのがエイズウイルスHIV-1)
BmRNAワクチンのスパイクタンパク質に、HIV-1のサブユニット(配列)が18個見つかった(キャリー医師)
C開発中のワクチンでエイズ検査(偽)陽性になることが発覚。開発を断念(オーストラリア、2020年12月)
DSARS-CoV-2は飛沫感染するエイズである(田淵 正文氏:東大医学部卒/元東京共済病院内科医長)
結論:空飛ぶエイズと打つエイズ→どちらも最後は免疫不全(遅効性の毒:”時限爆弾”)
---
415 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 2022/06/26(日) 20:16:56.21 ID:RgWijCms
>>414
ソース:
@HIVの配列が4箇所に挿入されていることをインド工科大の科学者たちが発見:biorxiv.org/content/10.1101/2020.01.30.927871v1.full.pdf、indeep.jp/found-hiv-in-wuhan-coronavirus
ASARS-CoV-2はCD4タンパク質を介してTヘルパーリンパ球に感染できる(SARS-CoV-2 Uses CD4 to Infect T Helper Lymphocytes):medrxiv.org/content/10.1101/2020.09.25.20200329v1
Bnicovideo動画「キャリー医師 ワク●ンでエイズの発症、思考力や生殖機能への悪影響」
C「豪 新型コロナワクチン開発中止 エイズウイルス偽陽性に」(2020年12月、NHKニュースほか)
D田淵正文医師のyoutube動画「飛沫感染するエイズなんです」SMQAElOG1XU(位置07:43-08:11) >>517
原始社会は原始共産主義とも言われるように
すべてのものが集団の供物であり、
得られたものも集団の共有物となる
たとえば狼の群れを考えても、
共産主義というのはおかしいが
共同体のルールに従った集団社会 性格的にも倫理を想うのはナーバスでアンバランスなメランコリニスタかもしれないぞぉー。
それより、この板には生粋のファシストがいて倫理の主体は国だったりするんだと熱弁する人がいてもいいと、かねてより思っていたのだが。
アメリカの価値観は核に支えられている。倫理は"それ"が「よい環境」にならなければならない。アンバランスだから広がり、十字軍が鎮護する。
ただ「弱い」というだけで滅んだ類がどれだけあったか。確かにそれは「倫理」が滅ぼしたのだ。
"ウイルス"のように。 まず決定的に重要なことは人は一人では生きられないという事実 それでも人には個という物があり、そこに公平感のバランスが働く
個は集団のルールの中で公平であることを求める
そこに負債の力学が働く
贈与と返礼
借りたものは返す、貸したものは取り戻す
それが社会に一つのルールっている
それが構造主義だ 不公平の不利益を拒み公平を利益と考える受益者は、もし公平であれば国となりファシズムに化ける。
一種の供犠となり、個体を戦地に送り出す。 >>537
キリストの倫理観が正しいかどうかは
何の尺度で測るの?
判断する人の倫理観もどこかから
持ってきたものでしょ?
倫理観の発生方法を述べないと
どうどう巡りだよ?
>>539,541,542,543
共有した方が都合良かったんでしょ多分
もしくは所有権の概念が薄いとかさ
結局は都合の良い慣習が残るだけだよね?
>>540
合わない思想は衝突するって
まぁ普通そうだわな ここ難そうで読んでないで書くんだけど。あとから読む
キリスト教はルサンチマンでもあるという記事みたのだけど、儒教も道徳の一つではあるけれど、現代では資本主義によるのか倫理意識がかなり薄いと思う
自分、今さら思うと家庭はとても幸せだったが父は洗礼まではしてないけれどキリスト教の思想で子供を育てたのだと気づいた
当たり前だと思ってたが周囲も例外を除きある程度の道徳があった
実は道徳の時間もあった気がする
父は大企業にいたので父の言葉でズルさもたまに感じたことはある
それは社会に生きるのは当然必要な事と今更わかる
自分ら兄弟は皆父のように優秀ではあったが
リベラルで自由、平等な教育をしてたけど進路の時点で家長的な独善が出て、今は漸く中流一人、一人は目立つやつだったのにインセルのよう、もう一人悩み深い自分に。
自分の場合思春期時代ピュアにそしてアナーキーに憧れたのもある
自分語りにもなったが狭き門だったり清貧を感じ、父のネオリベ的な社会安定を信じなかった
勿論子供を守るためだったのもあるのだが。
話がそれてしまったが病や諸事情で人生は変化して行く >>545
要約すると
「キリスト教圏って倫理観薄いよね?」
って事? >>544
現代人がまず理解しないといけないことは、
人類史100万年の中の近代200年
かなり変わった世界に住んでいるということ
資本主義、民主主義、個人、所有、平等
それ以前の100万年は基本的に集団の助け合い
贈与と返礼の社会だった キリスト教は倫理を作っていてそれ自体は人間同士の諍いを無くしルールがあるわけでいいのだが
弱者礼賛、謙虚さ、清貧を尊ぶことにニーチェは強者へのルサンチマンと述べたようだ
強者ローマ人に対するユダヤ人からキリスト教は産まれた
心に押し隠し、言動にならなくともそれはルサンチマン
全ての人間にルサンチマンはあると読めた
逆でしょ >>547,548
そのもっと前は
ウホウホ言ってた訳じゃん
そんで貸し借りみたいなのが
都合良いよねってなったと
そんだけだよね
>>549
ニーチェがどう言ったかは知らないけど
「人間って妬みあるよね」って話なら
「そうですね」としか >>550
ウホウホいってたわけではないだろう
猿の集団はかなり高度な社会秩序でできてるだろう
そこにすでに公平感のバランスがある 人間らしさと欲望を否定してると、それで神は死んだ、超人が生まれた
そういうことかな
しかしニーチェは人間らしく死んでいく
>>547続きがあるなら聞きたい しかしあのもう一つの「暗い事柄」、すなわち負い目の意識、「良心の疚(やま)しさ」なるものは、
一体いかにして世界に現れたのであるか。
・・・これら従来の道徳系譜論者たちは、例えば「負い目」というあの道徳上の主要概念が「負債」という
極めて物質的な概念に由来しているということを、ただ漠然とでも夢想したことがあったろうか。
「道徳の系譜」 ニーチェ 岩波文庫 ISBN:4003363949 >>551
不公平だと不満ですは分かったけどさ
別に善=公平って話じゃないよね 道徳の起源は負債にある
すなわに公平感のバランスにある
それは近代という貨幣商品等価交換以前、
贈与返礼交換社会の中では特に、
公平感のバランスが社会秩序を維持していた。 >>555
「公平な方が群を運営し易かったので
公平は淘汰されずに残りました」
だよね? >>554
公平感のバランスが小集団の秩序を維持していた
では小集団同士の公平感のバランスによる秩序はいかに保つか
そこには、どの小集団にも共通する抽象的な概念が必要になる
それが善と呼ばれて、研究対象になった
その中から、世界宗教や、哲学が生まれてきた 貸借対照表みたいw 、バランスシート
基本的には敬意と平等は人間には必要で、負債を解決してあげた方がそれを理由に強要する場合もあるからね
その思いや部分や契約だけ考えればいいのではないかと自分はおもう >>558
都合よくというか
社会秩序を維持するために必要とされた >>560
自然淘汰で残ったものに
名前をつけただけだよね? >>559
逆だね
公平感のバランス
贈与と返礼
商品等価交換
バランスシート >>561
自然淘汰で残ったものは
世の中のすべてのものがそうだから >>563
つまりどの倫理原則も
「淘汰されなかった」というだけでさ
正当性がある訳じゃないじゃん
だからナチズムでもテロリズムでも
淘汰されずに広まれば同じな訳でしょ 現代なら
親しい人たちは、贈与返礼交換
親しくない人たちは、貨幣商品等価交換
近代以前は貨幣商品等価交換がなかったから、
贈与返礼交換
交換は親しく人たちとのみ行う >>564
正当性とは?
倫理に絶対的な正しさがほしいということ?
歴史により、淘汰により作られた倫理ではダメだと? >>566
そうじゃないよ
ナチズムがダメとか
テロリズムがダメとか
決まってる訳じゃないよね?って話 >>567
決まってないよ
この世界には自然淘汰以外のものはないわけだから
ただし公平感のバランスは人類以前にさかのぼる可能性がある1000万年の自然淘汰だから
テロリズムもナチズムも公平感のバランスから生まれたし テロリズムは公平感のバランスを取る、
受けた負債を取り戻すために
暴力を使うということでしょ
テロリズム(terrorism)
政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。 テロ。 >>568
まぁそういう事なのよ
公平感でも博愛でも自由でもいいんだけどさ
倫理原則ヅラしてるものをどれだけ掘り下げても
論拠なんかないって事がいいたかったの
超簡単な話よ >>570
それは中二病だよ
この世界のすべては自然淘汰により生まれる
だからこそキミもこの世界に対する責任があり
関わらないといけない
ということが善 他人事みたいに、ほら根拠なんてないじゃん!が許されるのは中二まで >>572
そりゃそうなんだけどさ
逆に「我々の倫理は絶対なりぃ!」
っていうのも中2までじゃん
逆に「お互いなんの論拠もない倫理観ですよね」
って方が寛容性が湧くと思わない? >>573
でも1000万年の自然淘汰は限りなく絶対に近いぞ
なんでもありはダメだよ
そのために歴史を学ばないと たとえば母親が目の前でレイプされていて
母親を大切にするなんで自然淘汰だから関係ないとは思えないでしょ >>574
しかしだね、
例えばその「公平性」に反する倫理原則を持ち出して
「これこそが我々の倫理を最も説明するとのなり!
他は間違ってる勘違い原則なり!」って
言って罵倒して来る事がある訳じゃん
そこで言い争いする意味があるかは
根拠レスの自覚があるかに掛かってるでしょ >>576
進化とは突然変異と自然淘汰
まあいろいろ突然変異変異的な暴論があってこそ進化
それもまた大切だよ なんでもありと言っても、人間の手が簡単に3本になるわけではない
そうそう変わんないもんだよ >>577
でも新旧倫理の両陣営が
躍起になってレスバしても結論出ないんだよ?
だってお互い前提違えて話してるんだから >>579
両陣営がなにか分からないけど
政治では普通では?
どの国でも左派右派いあることが健全
ただどちらにしても、公平感のバランスの上での議論だと思うけど >>578
例えば奴隷制なんて
何の問題もないよってツラで続いてた訳だ
それがいつしかNGになる
今度は俺らの倫理も否定する奴が出て来る
ポリコレみたいな奴らだ
「人類は自然淘汰で倫理を厳しくして来た
長い歴史があるざます!」
って言ってどんどん厳しくされる
だか反論の根拠はない訳だ
あっちにもないがこっちにもない >>580
あなたが全部「公正で説明つく」って
言ってる様に
また別の原則持ってくる奴がいて
「XXで説明がつく」って言う訳さ
それで「だからここをこう変えろ」と要求する
でもこの議論は乗る必要がないだろ?
前提違えて話しても無意味だから
「公正でも説明つくから」で
「私はXXより公正だと思う」で
議論は終えて良い訳さ 人間のことを文学、歴史、科学あらゆる意味で考えれば倫理の落とし所があり、時代でそれは変わって行くけれど
論争もあるのだろう
哲学って個的な気がし思想は団体かなとふと思う
心や、脳の科学的分析もできていない
メタ認知の思考だけではダメなのかな 俺もう寝るけどよ
「倫理観なんて人間の創作だろ」が
ガチで通じない奴ら結構いるぞ
「環境問題対策は人間の為じゃなく
環境を守る事自体が目的なのだ」と
本気で言う奴らだ >>547
近代以降が特殊な時代であるのはその通りなんだけど
近代から現代にかけても人間は人間(交換する動物)のままだから今でも「贈与と返礼の社会」であることは変わってない
むしろ、交換のシステム(贈与と返礼)は近代資本主義によって加速している
交換(贈与と返礼)は別に助け合いのためにやってるわけでもなければ公平感のバランスを保つためにやっているわけでもない
交換(贈与と返礼)は何らかの目的を達成するための手段ではなく、人間とはそもそも交換する動物だから交換をしているんだよ
必要に迫られて交換しているのではなく交換のために交換をしている、交換自体が目的であって目的達成のための手段ではない
>>548
社会が成立しているのは公平感のバランスが保たれているからではなく、人間が相変わらず交換(贈与と返礼)をしているからだ
人が、ただ生きているだけの「ヒト」という動物ではなく、社会的存在としての「人間」であるのは(象徴・記号を)交換するが故だ
古代や中世、あるいは「いわゆる未開社会」で行われていた財物の交換(クラ交換やポトラッチ)や女性の交換(婚姻)においても
財物自体や女性自体を交換していたというよりも財物や女性は象徴・記号を交換するための担い手・媒体(メディア)として機能していた
近代資本主義社会でも、お金自体や商品(財・サービス)自体が交換されているのではない
お金は価値の媒体として、商品は商品イメージの媒体として機能しているだけで実態としては価値やイメージの象徴・記号が交換されている
>>541
人が一人では生きられないのは誰かに助けてもらわないと死んでしまうという意味ではなく
他者が存在しないと交換相手の不在により、ヒトを人間たらしめる象徴交換が不可能になるからだよね
人間とは象徴を操り、象徴に操られる言語記号的存在、ホモ・シンボリクス、ホモ・ロクエンスなのだから
そして倫理の形成には、どのような記号がどのように交換されるかに掛かっているから
その意味(交換相手が必要)でなら「まず決定的に重要なことは人は一人では生きられない」という点には同意できるよ
>>573
どのような倫理観であろうとも「正しい根拠」なんて無いのはその通りだと思うけど
正しい根拠がないからといって「倫理なんて全て無視していいんだ」と考えているわけでもないよね
多分その部分はあなたや私も含めてみんな共有できているはずだとは思うんだけど
あなたは問うているのは「倫理が形成されるメカニズムって何なの?」ってことだよね
で、まだ納得のいく回答が得られていないと
誰かに聞くのもいいんだけど、まず自分なりの考えも提示してみてほしい >>585
>まず自分なりの考えも提示してみてほしい
寝る前に返しとくよ
さっき書いたのと同じだが
単純なもんだと思ってるよ
善悪の感覚は生まれつきある
恐らく動物の群意識の名残りだ
だから基本は共同体とかそのメンバーの
為になる方向が善になりやすい
でも性癖と同じで割と適当にバラつく訳だ
そんでこれは他人と違うと衝突するから
自然淘汰されると、まぁこんな感じかな
名前は「なんでもアリ」としているが
俺はそんなに突飛な倫理観の持ち主ではない
至って普通だ aとbの思想が同じだから自明に倫理にもならないし、異なるから必然的に不和にもならない。
アプリオリな感覚に還元する必要もない。 >>581
だから中二病から脱却するためには
他人はわかってないことを言い訳にせずに
自分もわかってないことを恥じないと
だから歴史を学ばないと
近代に起こったことは
産業革命による大量生産時代
ようするに農業社会から工業社会に世界が変わった
当然それによって社会システムが変わり、倫理も変わった。 農業社会では生産手段である土地は簡単に増えない
でも人口は簡単に増える
だからいつも人余りだった
農家なら長男は土地を次ぐが次男以下はどうするか
一番の人口調整は戦争
余った人は戦争に向かい勝てば生き残れるか多くは虫のように死んでいく
命の価値は低かった
でも工業社会になって激変する
生産手段が機械になることで制約がなくなり、
人が多いほど富を生む
それで近代国家ができた
国境が生まれて、国民が生まれてた
国民には義務教育を受けさせて、衛生管理が行われて
優秀な労働者になるように、大切に育てられた
当然、命の価値は高くなる
そこで、倫理とか発明された 近代以降どんどん倫理が厳しくなるのは
社会が豊かになることとに比例してる
豊かになるほど、倫理にコストがかけられるようになる
最近ならLGBTだなんだ言われているが
貧しい国ではもっと基本的に人権問題までで、そんな倫理にまで金はかけられないよ 環境問題も豊かになったからできること
経済的な余裕がないと、高い省エネ機器なんて変えないよ 近代以前は贈与返礼交換が基本だったんだけど、
贈与返礼交換の一番の問題は信用が必要なこと
見ず知らずの人に贈与しても返ってくる保証はない
贈与返礼交換は信用できる近隣でのみ可能
でも近代になると、市場が生まれてきて、
交換は見ず知らずの人と行うことになる
贈与返礼交換はできないから
貨幣商品等価交換が基本になった
その場で金を払って清算されるから
相手が見ず知らずの人でも問題ない
逆には貨幣商品等価交換が基本になって、近代工業社会は可能になったとも言える
でも贈与返礼交換だろうが、貨幣商品等価交換だろうが、
そこにあるのは公平感のバランス
貸し借りなしゼロを基本にしたやりとり
そこは1000万年変わらない 現代は社会的には貨幣商品等価交換が基本で、親しい人たちの間では贈与返礼交換が残っている
親しい仲で貨幣商品等価交換を使うのは失礼
交換様式は変わっても、人の価値が変わっても、
ベースの公平感のバランスは変わらない
1000万年の自然淘汰はもはや本能 人は他人と公平であることの納得を求める
平等のように誰でも等しいではなく
認める人は自分より多くを得てもよいが、劣る人は少なくないと公平ではない
そこに客観性はなくてあくまで個人の納得の問題だが、
そのような公平感のバランスの力学が社会には重力のように働いて人々が動いて一つの秩序を生み出している 再度言えばわかりやすいのが物語
最後に正義は勝ち、悪は滅びる
それは公平感がゼロになる地点
物語とは公平感のゼロへの課程
そこに人々は安心を覚える
1000万年の安心
死んだら悪人は地獄に落ちる、善人は天国に行くのはなぜか
現世で公平感ゼロにならなくても終わりではない
死後に公平感ゼロになるように世界は出来ているから 共同体の倫理的な信用(≒推論)が市場経済に取って替わられ「人間」が疎外されることの必然性を史化したのがマルクスだが、その「人間」を見据えたのがニーチェといえる。
ニーチェの道徳の文献学的解体は「公平」や「負債」の概念(それらの古さを指摘しながら)の彼岸に射程を及ばせ、生きた論理を取り出した。
彼はバッサリと数多の道徳学が生の要件を満たさない為に切り捨てた。それらは自らの既道徳観に事実を適合させている"事に"気付いていない。
倫理は反作用である。彼が帰結したものも倫理を構成する「人間」の「残忍性」であって、他者に等価な「苦しみ」を"思いやる"ことだった。
個人的に興味深いのは、この導出の手法が、フォン・シュタイン博士と別ルートで、共産主義がリベラルから真っ直ぐ下りてきた点に同調する唯物性なのだが、、 ニーチェの場合は道徳と言ってもキリスト教徒として苦悩をベースにしてるから
キリスト教はその基本が処刑されたキリスト教への負債
キリストは人類の身代わりで死んだ、人はキリストな償えない負債、贖罪を背負っている 償えない罪を背負う人類を救済する
確かにこれは強烈なコンセプトで
免罪符として、大航海時代以降、キリスト教徒の世界征服を正義として可能にしてきた ニーチェのはロジックだけで切ってるけどね。
ま、
「人間」は神と違い、同時に別の空間を占有できず、偶有的な部分社会の、或いは直属する近所の素材を得る点では、特定の文化には特定の倫理が在るといえる。その点では、そうだな。
但し、ニーチェはキリスト教下の倫理を見ただろうけど、「それ以前」を考え、調べて「人間」を抽出して論じているのが一点、既に触れた通り、「現在」の倫理観を一歩も出ない物語を否定もしている。
さらに違う文化圏の人間が読んで、特定の倫理観の残滓が論理を歪めた形跡を認めない。それ以上に、事実の集積を「倫理」として動かす純粋な論理に有効性と興味を個人的には感じる。
押し付けるつもりは、毛頭ない。 近代とキリスト教を語るならなんと言っても、
ウェーバーの
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 キリスト教というのは日本人にわからないけどほんとに厳しい倫理の宗教で
なぜ資本主義の発展に厳しい倫理が必要だったのか
ニーチェしかり、キリスト教の呪われたとしか思えない厳しい呪縛はなかなか日本人には理解できない 資本主義社会へのテイクオフに、厳しいプロテスタンティズムの倫理が必要とされたということはとても興味深いことです。
一番はそれまでのカトリックの土着農業社会との癒着、利権から脱却するためと言うのはあります
近代化の最初の精神性である啓蒙主義の最初の対立はカトリック勢力だったわけです
たとえば明治に日本に近代技術が輸入されたとき、
それはプロテスタンティズムの厳しい倫理と一体でした。
近代技術を学ぶことは、プロテスタンティズムの厳しい倫理を学ぶことと同じことでした。 >>588
俺が「正しい倫理観なんて無いからメチャクチャやってやるぜ!」って言うならまぁ中二病だろう
でも逆だ俺はむしろ正しくありたくくらいだ
ただ、「XXは1000万年続いたからもう真理だ、それに反するモノは全て非倫理的だ、これが論理的帰結です、ハイ論破」と俺の倫理を否定しにかかる奴が来ると「バカかコイツ?」ってなる訳 >>604
それはやっぱり中二病かな
そもそも倫理とは関係ない >>606,607
なんでも中二病だな
俺の倫理はいま普通にある様な倫理観だよ
「人類平等」とか >>609
うん、そう思う
今はコレが一番人類に都合が良いんだろう 近代、資本主義、工業社会において、もっとも重要な概念は生産性
人類、平等は生産性向上目指す中で発明された。 生産性の向上を求める中で、
公平感のバランスをいかにあるべきかが、平等
とは言え、中国、ロシアの独裁を見ていると
平等も難しいなと思う。
平等は公平感を量的に見たそうとするところに無理がある。
平等の問題は、たとえばアホとかしこも等しく一票であることに公平感を感じることができるか
実際は直接民主制ではなく間接民主制で
アホもかしこも等しく一票ということの危険を回避している
自由主義の平等は機会の平等で、格差があることを原動力にする
など >>614
公平感のバランスを求めることは本能とも言える
不満を持たなければよいレベルでは解消できない 中二病的な欲求の世俗では乗り越えられない
悟りでも開かないと、人は公平感のバランスから逃れることはできない >>615
不公平は不満が溜まりやすいは分かったけどよ
どこまで行っても
「公平って人類に都合良いよね」って
だけだよね
「人類さんの都合より公平性が優先される」
ってんならまぁ聞きたいけどさ >>617
都合が良いは、
キリンの首が長いのは高い木の葉が食べられるから都合が良いと、同じだな
自然淘汰の事後的な結果論 >>618
公平感のバランスを取り戻そうと必死だな >>619
公平感は違うのかよ
>>620
公平感って言葉に無理矢理絡めようと必死すぎ 公平が量的な欲や質的な概念化でもなく直観である場合はカントに近くなるし、権利主体として人間化された類的存在論を展開するなら公平はアポステリオリに獲得された解釈になり、その解釈の解釈学に開いていくなら脱構築へと、
最後は空である。 >>622
とりあえず
「人類さんの都合を超えて公平性が
追求される必要はない」
でいい?
それなら俺は何の文句もないが >>623
少なくとも、それを哲学的な構造で示せたほうが良さそうだねぇ。つまり見え方の提示に論理があると良いのではないでしょうか。期待します。
それとは別に、贔屓目で見ても、読み込まれる諸権利の聖典は理性の適用だな。と気儘にぼやく。
プラトンでさえ直で真としなかったのは世俗的な関係性と切り離し得ないからというより、寧ろ差延に没する概念群に対して解釈学は存在論との距離を"どの地点でも"取ることに終始するからで、
デリダもフーコーの「効力」(倫理含む)の言語的な換骨奪胎を不徹底に感じたのが不和の一因だったろうが、、ここに至っては相互的ではある。 >>624
つまりは人類さんが
嫌な思いしないで済む方に進む訳よね
「公平性に向かってどこまでも
我々のエネルギーの許す限り
どこまでも突き進むべきであーる!」
っていうのは勘弁してくれって事よ
公平性も単にお気持ちじゃん >>623
人類の都合とは、功利主義的だな
最大多数の最大幸福
右派、保守派、自由主義、自民党
日本人に一般的な倫理観か
選挙にいこう! アダム・スミスは幸福と質を分けたんだよねー。
最大不幸を投票で避けた結果、
最大の比例の受け皿が勝つか、
それは、れ○わなのか、、 前pスレ見たけど親子の倫理はないと言ってたけど杜子春の母との場面見た?成功のためを選べば倫理も含め欠如になる
マイケル·サンデルはとてもいいモデレーターで其々の意見を引き出し考え論議を勧め自身の持つ纏めるけれど。
何でエリート候補ばかり集めるのだろうと 親は子を子として看るから倫理より原初形態だよね。逆に子が親を親として敬うことに背くことが総合的な倫理に適合し、局所的な倫理とするなら儒学になり、ある意味で生の論理ではある。
白熱教室どこまでいったんだろ。エリートじゃなくてもいいけど、「エリートでさえ」こうなるんだぞ、というデモンストレーションかもよ(つまり、一般庶民を並べたらヒドいことに)。 >>626
なんでも良いけどさ
「人類さんの都合を超えて公平性が
追求される必要はない」
でいいんだろ?
キリンの首はどこまでも伸ばす必要はないよな? >>631
いいかどうか
どの政党に投票するかは個人の選択だから
聞かれても >>630
日本には儒学思想が影響してるからね
しかし目上を敬う、人を思いやるより自分がとか、どんな訳も聞かず弱者を下にする風潮が見られる気がする >>632
いや倫理観の話な
「公平性のバランスこそ真理、他は中二病」
って考えもアリだし
実際それで洗脳できる人もそれなりにいると思うよ
バランスって言葉を上手く使って
批判からの逃げ口上も簡単に作れるだろうし
でも結局は数ある切り口の一つに過ぎないと思う >>544
>キリストの倫理観が正しいかどうかは
>何の尺度で測るの?
そうですね
たとえば、あなたが他人に対して「人としての道」を説くとしましょう
道徳についてでも、倫理についてでもいいでしょう
あなたの話がどれくらいの影響力を持つのかを想像してみてください
この場合の尺はあなた自身です
キリストの話を聞いて影響を受けた人は、
あなたがした話の影響力と比べてどれくらいなのでしょうかね?
あなたが思っていることがキリストより正しいと思うのなら、
あなたの隣人にあなたの思いを伝えるだけであなたの話を世界中に広めてくれるのではないでしょうか
…あなたの話を受け入れてくれる人が何人いるのか?ということですよ
まさか「自分以外の他人は是非の判断がつかないのだ」なんて思っているわけではないでしょう?
キリストは2000年以上前の人ですが、それ以降も道徳・倫理について語る人間は当然いたわけです
倫理観ような話は常にその話を聞いた人に比べられてきました
ありとあらゆる人の言うことと、です >>635
あのね、ウホウホの猿から
倫理が生まれた経緯を聞いてるだけ
とにかく「真理がある」みたいな話に
ウンザリしてるの俺は ニュートンによって示された力学によって星の運行は予測された
星はそのような力学場により運行している
人間の場合は、公平感のバランスと言う力学が強く働いている。 >>637
無限に追求する義務があるのか?
公平感のバランスという奴を
今でもまだバランスが取れていない事のか? >>638
持った物を話すとき重力で落ちるのとと同じ
近くに人がいると二人の間に公平感のバランスをとる力が働く。 たとえば明らかにお金がかかったおしゃれな服装の人がいて、
こっちがみすぼらしいと劣等感を感じる。
なぜ人と比べるのか?劣等感を感じるのか?
公平感のバランスが働いてるから 人と比べることはあまりにも当たり前だ
犬でも他の犬と比べて嫉妬することがある
当たり前であるが、なぜ人と比べるのか
そこに公平感のバランスの力学が働いているからだ 太陽が東から上るのは当たり前
人が嫉妬するのも当たり前だ
だかそこには力学がある >>643
はぁ、何度目かの質問になるが…
「人類の倫理観はこういう傾向で変わって来ました」
と
「だからその方向に無限に変えるべきです」
は全然違うと思うのだが認識合ってる? 1、倫理を選別する倫理の前提を問う
2、公平がいかに可能かの条件を問う >>645
ちょっと意味わかんないから
分かりやすく言ってくれる? 人の間には公平感のバランスがあるが、
環境により絶えずバランスは崩される
お金持ちと貧乏人、男前と不細工、スラブ人とユダヤ人など、
このようなアンバランスは負債を生み、争いを生む。
倫理とはこのようなアンバランスをいかに調整するかの技術だ。 たとえば現代なら
左派は富の再分配による調整
右派なら機会の平等による調整
富の格差は許容する。そこに生まれるアンバランスによる負債、不満は次のチャンスを与えることで頑張る原動力にしようという考えだ。
時代背景でアンバランの調整の仕方は変わるが
公平感のバランスを調整することには変わりがない。 >>647
その解釈はまぁいいんだけどさ
さっきの>>644への回答はないの? >>648
もしかしてコレ回答?
不公平感は是正しますってのは
今もある平凡な倫理観だと思うんだけど
それ以上は不要って事なら何も文句ないな 左翼は、富を均等に分けることで
公平感のバランスを取ると考えるが失敗した。
なぜ失敗したのか? >>651
仕事頑張っても頑張んなくても金が入るなら
皆やる気なくなって全体のパイが減るからだろ
しかも上層部が私服を肥やすし
自然淘汰で残った感覚が真理もどきって話なら
「ぶん殴られたらイラっと来る、
コレ真理もどき!」
と何も変わらないし異論もない
お気持ちに名前を付けただけのモノが倫理なのに
ネット上には不寛容な連中が多いのだ
ツイフェミとかポリコレとか >>653
君はもっと分かり易い言い方はできないのか?
毎回毎回意味が分からないのだ そもそも論として
ツイフェミもポリコレも
こちらが理解も納得もできない理論を持ってきて
「さぁ論破できないなら従いなさい!」
といって誰がそれに従いたいと思う?
偉い学者先生達がそう結論付けたとしても
突きつけられる側は学者でも哲学者でもないのだ 人類の大半が
「こう考えないと社会がヤバい」、
「こういう倫理観が好きだ」、
ってなるから倫理感が変わっていくだろ?
人類の都合で自然淘汰が起きるんだろ?
「コレが倫理の本質」、「いやコレこそ本質」
って一部切り取られた要素を
無限に追求し続けろなんてまっぴらだね
土地倫理学とかなんだ?
なんで土地に権利がある?
意味不明だ それはその通りだよ。淘汰で語ったら、何が良いなんて言えなくなる。かつて廃れた倫理が未来の倫理になるかもしれないから、切り取れないんだ。 決してかけることができない他者
他者がいると発生する公平感のバランスの力学
他者との関係を構築するときに、公平感のバランスをいかに設計するか、それが倫理です。
関係を構築するとは、一番には安定し生存すること
そして生存に必要な限りある資源をいかに扱うか
公平感のバランスの力学はエコノミーになります
他者とどのように安定したエコノミーを構築するか 原始狩猟社会
農耕社会
産業社会
発展する経済活動それぞれで、
他者とどのように安定したエコノミーを構築するか
それが倫理です 昨今、環境や動物が対象になった。
それまで不公平すらなかったんだ。
もちろん万物はちゃんといたんだ。
もちろんさ。 1、淘汰の過程で特定の事象を切り取れない
2、万象の関係性から公平を抽象できない >>636
サルが腰に腰蓑をまとえば倫理が生まれたといって良いのではないですか?
他人(他ザル)の前でも裸で平気ならまだまだですね >>662
お前の言う事はいつも難解だ
とにかく俺は人間の為にならない倫理観は嫌いだ
将来世代の為に生態系を大切にするなら良い
でも生態系そのものの為に
生態系を大切にするのは
俺の理解を超える
人間だけが社会の全部だ >>663
実際に猿が腰蓑をつけて人間になったのだろうが
猿が腰蓑を纏う様になった経緯が知りたいのだ
知恵の実でも齧ったのか?違うだろ
他人から見た自分を気にする様になって
その猿やその猿の群が何故生存率を上げたのか
それが知りたいのだ >>665
「公衆の面前で裸になるな」
↑
これについてあなたは
「人間が勝手に決めたことで確固たる根拠はない」
と思っていますよね?
では
「おまえはサルではないのだから公衆の面前で裸になるな」
これはどうですか
一理あると思いますか? ちゃうねん、グレタと格闘してるだけじゃろ、エ、白状しろ。
>>666
一理はあるのだが、それは今の俺達が
既に「人間はパンツ履くもの」という
常識を持ってるからだろ?
でもその常識を生んだ背景があるはずだ
日本とかでは割と最近まで
パンツ履いてなかったらしいが
でも海外の割とほぼ裸の部族でも
性器は隠してる事が多いだろ?
腰蓑を巻くのが倫理に大事なんだったら
その発生経緯も大事だろ?
>>667
グレタたん土地倫理学者だったの
だったらグレタも嫌いだわ 原因と理由は分けないといかん。机の引き出しに拳銃を入れて鍵をかけるか否かで、二択なわけよ。
わかりやすいでしょ。どっちかだから。
で、結果に対して理由をつけられるのは原因があると観なければいけないのは、「鍵をかけるか否か」はどっちでもいいという前提の上に理由があるからなんだね〜〜。
>>669
ちょっと分かり辛いが
銃を引き出しに入れた→原因
鍵をかけたorかけなかった人の判断材料→理由
って事か?
「銃が邪魔だから引き出しにしまった」原因
↓
「子供が銃を持ち出したら危険だと思った」理由
↓
「鍵をかけた」結果
か?
つまりパンツを履く事について
原因と理由がそれぞれあると言いたいのか? >>671
俺も土地倫理学を勉強した事はないが
どうやら環境倫理学の基になったモノらしい
元々はレオポルドとかいうオッサンの
ポエムから生じたそうだ
土地倫理学の土地は意味合い的には
土地より生態系に近い(らしい)
完全性とか美を保つのが善、みたいな学問。
個別の生物ではなくて生態系含む土地、
つまり自然そのものに権利がある、と
人類はやり過ぎだから
総人口1億人以下を目指せと言ってる
ディープエコロジーとかと似た感じだね お互い知らないなら、作れるね。まあ調べてみるけど。 >>668
横レスやけど、パンツと恥は、必ずしも恥が倫理という話ではなくて、卑近なイメージしやすい例として出たんだろうけど、一つの倫理の曖昧さの例にもなる。同じ恥でもパイパイは昔は出しっぱで、中世は貞操観念でサラシ等で隠し、戦後ホルスタインがええパイパイになった。
いまは多様性で、貧パイの生キャラメル乗せ、
全然オーケー。 >>668
先に倫理があったから腰蓑を巻いたわけではないでしょう
みんな服を着ているからそれが倫理になったわけです
666はサルと人間を差別化してます
原始の頃、人間とサルの見た目はそんなに変わらなかったとしたら、
腰蓑を巻くことが違いを際立たせたかも知れませんね
「差別」というとなかなか問題が多いですが、
自意識が成立する過程での自他分離というのは
「自分は○○ではない」という認知の積み重ねではないか、と思うのです
礼儀を重んじるのは、野卑な人との差別化だったりするのかもしれません
礼儀=野蛮ではない、ということを他人に認知させるための所作、ということです >>676
確かにエロスと倫理は曖昧な所が似てる
当然、セックスに関連付くモノに性的興奮を
憶えるのが普通なはずなのにバラつきが凄い
SMなんて只の暴力に性的興奮を憶えてる
きっと脳内の「エロさボタン」は
元々はセックスを想起する事で
押される造りなのに
SM好きの人はそれを暴力で押しに行ってるのだ
同じ様に脳内の善ボタンや悪ボタンも
本来のモノとは違う押し方ができるんだと思う
>>677
他人の性器を見るのが不快、というのが
猿や人の本性かは分からないが
猿から人になる過程で周囲へ配慮する能力を
高めたのかも知れない
相手の嫌がる事を推測して争いを避ける
この能力の強さは
確かに群の結束力をかなり変えそうだ
生存率に関わるかも知れない >>679
名前を付け忘れたが
「なんでもアリ」だ またナチズムの時代がくるかは、生み出した仮象の真を問う行為にかかっている。意志と表象の世界。 121さんの言っていた
「3人いれば倫理が生まれる」を考えたが
確かに生まれると思うのだ
倫理観の無い猿人3匹がいたとして
彼らは欲望と本能で動くとする
考えられる行動はいくつあると思う
まず強い1匹が他2匹を支配する
↓
(他2匹が逃げた場合)→群がなくなって死亡率上昇
(他2匹が不服従)→その2匹がボスからヤられて死亡
(他2匹が服従)→群が結束→生存率上昇→忠誠心発生
(他2匹が結託して反乱するが片方が裏切る)→死亡
(他2匹が結託して反乱するし裏切らない)→信頼とか発生
だから忠誠心とか信頼を裏切らないとか
そういう習性は自然と獲得されると思うのだ
これはかなり都合良く考えているから
実際には逆に悪徳みたいなモノも
獲得されるかも知れないが
そこは厳しい自然状態のなかで
神の見えざるハンドパワーが働くだろうと 原因と理由、ヒトラーが核を先に作ることもできた。ここに複次元の真と仮象、意志と表象が成る。 >>660
これの意味も考えてみた
エコノミーは効率性という意味があるらしいので
恐らくこれは経済的ではなく
効率性の意味と解釈した
これも猿で考えると、
群と群の闘争もある訳だから
当然、軍隊としての強さも生存率に関わるのだ
軍隊には統率や規律が必要で、
兵士が言う事を聞かなかったり、
敵前逃亡しちゃう様ではその軍隊は弱い
そうすると、
「自分は組織の中でどんな役割で
自分はどう機能した方が効率的なのか」を
猿達が考えて動く必要があるのだ
コレを自ら考える習性を猿達は
獲得して行ったのではないかと思うのだ
この「組織や共同体へ貢献する習性」も
倫理の材料になっていると思う >>684
倫理の前提というよりも生存の前提ですね。
他者とどのように安定したエコノミー(生存のための物質的基盤)を構築するか
それが倫理です
まあ当然ですが 効率化は近代的な価値なので
安定した生存基盤が効率化であるとは限らない 倫理の生存にもなる。同時に複数の倫理を"ただ"認めることである。「倫理」が在る故に。 >>685,686
一番大事な生存の基盤は
きっと社会や共同体だと思う
社会や共同体が物質的かと問われれば
それは違うかも知れないが
個人としても種としても
生存に絶対必要なはずだ
>>687
倫理を我々の義務とするのではなく
我々の義務を倫理とするのか
倫理を求めて彷徨うよりはずっと良い 倫理の生存だから、排除が特性でもある。そこに生存に関する種々の権利や、エコノミーを前提とした諸々の制度設計が抽象化されていくわけ。 >>689
寛容さも倫理のひとつだと思う
許容度に限界があるのは確かだけども >>690
それはそう。行為と抽象の関係ですから。 ほとんどの人が善だと思ってるモノは
本当に沢山あると思うのだ
でもそれらを突き詰めると
まるで人を縛る為だけに作られた様な
意地悪な倫理観が出来上がる
「自然は大切にしましょう」→土地倫理学やディープエコロジー(シーシェパードとか)
「苦しむ者は救ってあげましょう」→動物倫理学(アニマルライツ)
「理性的に生きましょう」→社会構築主義(フェミニズムやポリコレ)
倫理観は人類同士で殴り合いする為に
発達して来た訳じゃないはずなのに
コイツらはいつも誰か攻撃しているのだ
しかも1何か言ったら10反撃するくらい
ガチガチに理論武装している
「みんな仲良くしましょう」だって
一応は倫理の一部のはずなのに
インターネット、特にSNSでは
尖った思想の奴ら程に声が異常にデカいのだ
こういう奴らへに対抗する為に
俺は「正しい倫理など無い」という
主張を繰り広げようと思ったのだ >>666
一理あるだろ
猿を捨てて人間性を獲得するんやから 社会の成功者は倫理度外視
倫理を重視する社会のはずが、実態は逆である どこの範囲か、もう全員死んでるかもw
わからんけど。はやくして。 「鏡」」「12」「ルービック・キューブ」「鍵カギ」1.221
「12」に入るのが穴とかブラックホール 政治の複雑性というものがあって、想像するに、数値化「48」くらい。
これが、今後「90」まで上がる可能性があり、一般人の生活でこれが89まで届いた可能性がある。 で、日常生活を反芻してみて、自分の身におきたことがどのくらいか想像してみてあったことをちょうど誰かに話してみるとよい。これ、脳の能力にも容量があって誰でも容量越えると怖くなるし混乱する。
自然へのハラスメントがかなり大量にあったようで、オートマチチズムにして。何がハラスメントか考えてテキトーでいいのでカテゴライズしてみるとよい。機械設定は、「8」の方がいい。そうしないと「7」だと回る。 自然はオーマチズム、機械は複雑化したら誰かにちょうど良い子供が生まれる、このような意味の設定でオートマチックに事が進む。 あくまでも想像の範疇だが、文字面ではない。意味的にどうかが問題。 「駒(コマ)」がこれだけ子供が産まれてこない期間が多いと見易くてこええわ。
みんななんか合点いって見えてる筈。感情部分の弊害は誰かとか組織の自然へのハラスメントが原因。オーマチズム(自動)がわからなくなったら良い。 途切れてるのが、男一人くらい?
これを、繋ぐのか消すのかで、両方どういう意味があるか知った方がいい。
消すと変になる。 「苺」「旧約聖書」「ヘビ」「リンゴ」
男女が同時に生まれてきたのには意味がある。
この男女が1999年に会ってるとしたら反芻して過去を思い浮かべてほしい。どうせ最期に繋がる。助けたい人を正直にリスト化して、その人を守るイメージが、個人には良い。もう正直でいい。 「旧約聖書」「リンゴ」
機械設定にしてみると現代の性能でてきるか??やってみると良い、ボカボカでもどうせ繋がる。
あくまでも文字面ではない。意味してることを考えて。 あくまで「生殖」と「誕生」が、統合されることと思った方がいい。 「消す」「蔵」「倉科カナ」「清酒」「生誕」
コード的にはこの向きで伝えたい。このワードすべて「生殖」に統合される。 1999年は人間でわからなかったが、我ながら、女がいて繋がるべきなのに何も考えなかった。
これは人間の全般に言えることだが、繋がるべきときに
繋がるが、感知してもわからない。動かない。この罪があるのな。
これ「意識」が生殖の時間を感知して動くまでやらないといけないのな。
高度資本主義社会とかビルとか関係なく これ旧約聖書「エデンの園」で「恥じらい」「禁断」「リンゴ」があり、
町歩いていてもわからないし恥を思うが。 「Far East of EDEN」ファーイーストオブエデン
極東の園 極東の桜
「菊と刀」ベネティクト・アンダーソン >>710 女とどこであったか標高3000m以上上の長野県蓼科で、高原アルバイト、1999年8月23日から 「川」で、変な風に女が金トータル1700万円男に貢いでから好きでもない男に抱かれて斬らされて、最後に何人か殺される演劇とかプロレスやると、これ上層の思惑なんだけど、最後に女が男に嫌われるほどベトベトになって気持ち悪すぎて最後に繋がるなくてバツガ悪くなるで 自然へのハラスメントにおける地獄
第一段階 みんなに糾弾されて恥をかきつづけ死ぬほど落ち込む時期がつづく
第二段階 死体に前にいかされ力を弱められる→殺人に加担
第三段階 肉体的な苦しみ、間接的直接的暴力にあい痛い。ここで生物として弱いと死ぬ 第四段階 安らぎのない世界。安らげる時が1時間とか。ずっと神も仏もなく、長期間の屈辱侮辱、肉体的痛み、精神的苦痛とカオスのなかで最期に待ち受けてるのが完全な無。物質になっても痛いので無くなる。 >>716 これ1時間が味噌。これが「恩寵」。全部に一縷の望みがあるということ。 今回、フランス人の掛けた鍵のせいで、男が子供のころに一人にされて学んだことを女がそいつらにやったんだからね。女が一人にならなくて、男が一人になったが、反対でないとへんになるしもうなったわ。
女が男のことやって、女が男のことやってそれで「ジャンヌ・ダルク」の呪いで、これだけの誤差でこんだけカオスになる。 これ男の親父が一人になった息子に「鍵」閉めてる輪廻。 最後に「鍵」かけたのは「シルク・ナサヤ」でイギリス人宣教師 「柏餅」「四ノ宮」
Aグリンピース、@KJOJIRAOUR スクリプト荒らしか
このスレも終わったな
さらばだ 「レモン」「そうめん」
AINKAILN(クユラス)=糸重わかタケル シモーヌ・ヴェーユ「重力と恩寵」
ほかのひとつの重力とほかのもうひとつの重力が引き合うのは、引力のため。
紫式部
「源氏物語」 「君の名は」のセカンドインパクトは70年以内に新宿 「そうめん」
「レモン」
これから「砂漠」への道は善意で敷き詰められている日本人の道
左→左→右、ではなく左→右→左で「砂の女」にする。
「砂の女」安部公房(not「砂の器」) >>清見、あと少しだから少しだけ工面してほしい。少なくていい。3000円でも。 「パパイヤ」オタクのパパイヤ講座
「パパイヤ」は0.968、「赤トマト」の0.901で恋人関係で死んだ 「パパイヤ」鍵オタク
「ナツメグ」は0.892で、香辛料「コリアンダー」0.1に降られた。 01「パパイヤ」先生のパパイヤ口座
「塩」は0.143で静岡県の海塩が一番近い 1.0
「ナツメグ」センコーの海塩をさがす旅inハワイ 楽する人に最適・海旅コード
普通0619136 + 1.0「ナツメグ」先生から「花束にアウト込めて」」 「死体」と10「死霊」小説 埴谷雄高著
「ジェームス ジョイス」の小説「ユリシーズ」」 「ナツメグ」センコーの「ピーナッツ講座-土にかえる」
0.011211212112-女 倉木麻衣の元旦那と、
「山田太郎」漫画の可能性の中心 1.0「からは」
XOXX01XX001X01122 XXoXo1「「らくせる。ころっそ。ブッコロッそ」
1.1 倫理的相対主義も倫理的絶対主義も間違っていて、実は【善悪は状況により決まるが、善でも悪でもない状況はない】のではないかと思うんだが、この説の反例があれば教えてくれ。 倫理的相対主義も倫理的絶対主義も間違っていて、実は【善悪は状況により決まるが、善でも悪でもない状況はない】のではないかと思うんだが、この説の反例があれば教えてくれ。 >>854
倫理は相対的だか
倫理観のない人はいないから
見る人によって善悪が変わる
ってのではダメか? 具体的に示して欲しいかな、反例は。見る人によって変わる事例とは例えば何か?
よくよく考えてみると現代の科学では判別しにくいだけで理論上はきっちり善悪の区別を付けられるケースもあるかもしれないからさ。 >>857
戦争とかは人によって見方変わるじゃん
とにかくダメって奴もいるし
正当な行為とみる人もいるし
あとは死刑とか >>858
戦争は状況によってどちらが悪いか決まるでしょう?勝った方が良いとは限らないが少なくとも民主主義陣営とか色々事情を考慮してどちらが多く批判されるかが決まるよ。
死刑制度については、宗教が絡むから混乱するだけ。どんな状況でも死刑がダメって言うのははっきり言って不自然で、状況によっては死刑にすべき凶悪犯だっているはずだ。でもその国の法体制では死刑にならないかもしれないけどね。
ほら、こう考えればやっぱり「状況により善悪が決まる」と考えられないかい? >>858
何事も、状況に関わらずとにかくあれだこれだって言うのは誤謬と思う。いくらでも極端な状況を考えられるのに状況に関わらず絶対的な倫理は存在しないと、現時点であくまで帰納的に考えているよ。(絶対とは言い切れない)だからこそ反例が欲しいんだ。帰納的に導いた結論だからさ。 ちなみに善でも悪でもない状況はないという結論も帰納的に導いた結論ね。色々考えてみたけど意外と個々の状況を詳細に設定しさえすれば善悪は判定出来るっぽいぞって思った。 >>861
ちょっと帰納的の意味はよく分からんけど
多く批判を浴びた方が悪っていうのは
俺らが民主主義に染まってるからでしょ
大衆紙といって批判する人もいるっしょ
あと、死刑に「すべき」という義務は
死刑にすべきかどうかを判断する人の
倫理観から生じてるだけで
誰から見ても死刑にすべきなんて奴はいない
結局は観て判断する奴次第じゃん >>862
大衆紙じゃなくて大衆迎合だったわスマン うーん、確かにそうか。立場によって多くの真理があると言えてしまいそうだな。相対主義を無理やり克服しようと変に考えすぎたみたいだな。哲学って難しい。 >>864
いやいや
「客観的で普遍な倫理観がある」って
可能性も否定はできないのよ?
ただ、神がいる/いないと同じで
どちらにせよ証明が付かないのよ
例え神が目の前に現れても
それが神かは俺らの理性では分からないし
宇宙の隅まで探して神がいなかったとしても
そもそも神が俺らに
知覚できる存在か分からんでしょ
倫理も同じさ まぁ簡単に言うと
相対主義と実在主義について言えば
「相手を否定する側が不利」 倫理的判断(善悪)は人により様々だが、ある程度近い意見同士がまとまって存在する(絶対悪という人もいれば条件付きで悪という人もいる)。これらの意見をまとめてゾーンと呼び、意見の多さをゾーンの多さと呼ぶことにする。
しかし、一般に一つの命題に対して真逆及び中間(善でも悪でもない)の意見のゾーンが形成される。善と悪のゾーンの差が大きいほど数が多い方のゾーンの意見をより重視すべきである。また、中間のゾーンが1番多かったり善悪の数が拮抗している場合は中間の意見を重視すべきである。
とかはどうですか?わかりにくくてすいません。つまり意見を善悪中の3つに振り分けて数の大小の比較によって善悪中を判断すべきという結論です。この意見の問題点があれば指摘して下さい ほんとだ…考えてる時は全然気付かなかったよ。
確かに本質的に言ってること同じだね。 因みに、相対主義を捨てる必要はないぞ
倫理が俺らの思い込みだとしても
倫理は俺個人にも俺ら皆にも必要だし
そもそも善くありたいってのが普通じゃね?
善くありたいんだから善くあればいいんだよ 「帰納的に導いた〜」とかあったけど
やはりみんな本当は数学みたいに
ビシッと決まった論理的な倫理像が好きなんだな
数学と違って倫理には公理がないけどね
また本の紹介だけど
「公理と証明」って本が面白かったわ
(なんかリンク貼れなかった)
「1+1=2」が
「イチとイチの和はニです」という意味とは
今の数学ではもう保証してないらしいのよ
単なる記号の操作を俺らが勝手に
解釈してるだけという扱いなんだってよ
数学ですらコレだからな
倫理なんてもう何でもアリよ 倫理は単なる選好に過ぎず、その中である程度一般化できるものを法で規定しているだけである >>871
要するにカント主義やん
倫理も数学も理性が構成する >>873
カントってそうなの?
「なんでも僕らの思い込みです」って感じ? >>874
思い込みは言いすぎよ
でも数学の構成主義はカント的やし、倫理学とくに第二批判は数学の書き方に似てる
理論哲学も実践哲学も理性の立法によって成立するし、第一批判の序文には「理性は自分が作り出したもののみを認識できる」的なことが書いてあったやろ >>875
書いてあったやろと言われても
カントなんか読んだ事ないけどな
あれかな?
快も苦も善も悪も
人間が勝手に切り取って語を当てました
みたいな感じかな?
仏陀がそんな感じの事を言ってたって
この前5ちゃんで見たわ 意味はあるっしょ
「大量札人推奨!奴隷制度推奨!
これ私の倫理観だからね!」
とか
「偉大なる地球の為に人類滅べ!」
とか
アホな主張が出て来た時には
まず先に倫理で反論したいじゃんよ >>873
カントは倫理は論理理性ではなく実践理性だ言うとるわけだな
まとめるとこう
・自分の利益を求めるのは理論理性の奴隷である
・人間性は自己の方針、格率によって自律的でなければならない
・その格率は他者の格率と矛盾すれば理論理性である
・実践理性はそれ自体が目的の自由、個の尊厳に立脚する
・自由と個の尊厳から演繹される系が求める目的の国である >>879
カントさんは
「自己利益」と「自己の方針/格律」は
どうやって分けてるの?
どっちも自分で決めてるんでしょ?? >>880
カントの義務倫理学は「自由」が中心にある
理論理性は因果に絡め取られ、そして利己主義は人は所与のものとしてあるので、必然的に利己の因果に飲み込まれ自由ではない
一方で実践理性も利己、利他共に格率を定められる
しかし、複数人が自身と同じ利己的格率を持つと、それらの人々は背反するので矛盾する
利他的な格率のみ他者と背反しないので矛盾しない
この矛盾しない格率のみが道徳法則に叶ってる、となるわけだ
そしてその矛盾せず、道徳法則に叶う格率を自ら選んで生きることこそ、利己の因果に囚われていない自由で自律した状態である、と語りますな >>881
みんなが利他的であるべきみたいな内容?
それは利他的とは言えないんじゃないか?
利他は他人に求めた時点で利他じゃないだろ >>882
いや、自己利益と格率をどうわけてるか、の説明 >>883
ありがと
カントってなんか嫌いなんよ
「我々はこうすべきって
ガッチリ決まっとんとねん!」
って言ってそうで
まぁカント読んだ事ないけどな
義務論って名前がなんかそれっぽいから嫌い >>884
カントは義務論という用語を好んでは使ってはいない
キケロに義務の教説という言葉は使ってたかもしれんが、徳論ないし倫理学という用語をよく用いた
義務論deontologyという用語を作って自身の倫理学に名付けたのはイギリスのベンサムや >>885
そう聞くとカントも悪くないな
自由を推してるって所もポイント高いわ
「皆さん利他的でありたいでしょ?
どうぞ好きなだけ利他って下さいよ!」
みたいな感じだったらもう大好き
まぁそんな甘い事は
言ってなさそうな気もするけど >>885
義務って単語は単語でしかない
格率理論でもいいわけだろ
論点は、人には利己主義の傾向があり、それに準じて因果を紡げば万人による戦いは避けられないわけだ
だから「正しい(矛盾)格率」を定めてそれに沿って生きるのが自由って主張だろ 個人的には功利主義のほうが「義務」って単語が相応しいな
意味的に >>887
確かに大事なのは内容よね
「闘争を避ける為に(好き好んで)利他的な格律を定めて(好き好んで)それに従う、これってマジで自由じゃないっすか?」
みたいな意味なら結構好き
カントって子難しいオッサンのイメージを勝手に持ってたけど意外といい奴かも
>>888
最近読んだ倫理学入門的な本に逆っぽい事が書いてあったんだよね
真に望ましいこと、望むべきこと、などないのだ、とミルは主張していた、と読めます。(中略)
『望ましい』ものは、実のところは人々が現に望んでいるものなのだ、と主張しているのです。」
なんつーか、「善なんか本当は無いんだから皆が望む事をすりゃいーじゃん」的な意味だと思うんだわ
そうするとあんま義務っぽくないなと
まぁ例の如く俺はミルの本は読んでないんだけどさ
本はこれな(4章D)
『倫理とは何か-猫のアインジヒトの挑戦-ちくま学芸文庫-永井-均』 >>889
永井さんのやついいですよねー
ミルの論理は
・個性の多様性が全体の幸福を増大させる
・自由意志での選択に誰も干渉できない
・他者危害原則で道徳的な選択ができる
ですなー ミルの主張の格は「個性の発揮、多様性は全体の幸福を増やす」だな
こちらも自由意志がベースにある
自分の「利益、不利益」を踏まえた上で何かを選択する時に、その選択は他者や社会に危害を及ぼすか否か、が問われる
そして、危害を及ぼす場合は、社会はその選択を罰して良い、となる
これを「他者危害原則」と呼ぶ
しかし、他者危害原則に該当しない場合は、「誰もその選択に干渉してはならない」となる
この他者の自由意志による選択に「社会が干渉しない」、という個の尊厳や自由を「社会が重視する」姿勢が
結果として、個性の多様化に繋がり、自由意志による選択を最大化させ、全体の幸せは増大する、って原理だな 功利主義を引き継いだシンガーやヘアがいる
ヘアはベンタムの快楽計算の利己主義に偏りかねない傾向の不備を、完全義務と不完全義務の観点から指摘し、さらに完成させている
例えば、知らない子供が川で溺れていたら、それを助けるのは完全義務にあたるか、不完全義務にあたるか、という問いだ 功利主義の快楽計算で考えると、溺れた子を助けずに殺してしまう方が不快の量は増える
見ず知らずの子を助けるのは称賛される行為である不完全義務と言い得るが、それでも完全義務として捉えられるべき
これを拡張すると、世界には餓死する子供たちが沢山いるにも関わらず、それを考慮に入れずにコンビニで不必要なものを買って快楽を満たしている現代人はどうなのか?となる
完全義務であるなら、毎月30パーセントの収入はそういう子達の寄付に使うべき、となる
そして、ヘアは有言実行でそうしている
こうなると義務っぽい >>893
俺なぁこういう「寄付は義務である」みたいな考えが嫌いなんよ
もうこう言われたらさ、「寄付して良い事したなぁ」とか思う事が許されないじゃんね
「寄付した?だからなんだと言うのだ、お前は当然の事をしただけだ」みたいな高圧的な感じ
寄付される側も「寄付が有難いかって?恵まれない俺らが寄付を受けるのは当然の権利なんだが!?」みたいになるしよ
この人々の善意を義務にすり替える思想がむしろ全体の幸福を押し下げてるまであると思うわ >>894
その場合、道端で溺れた子供を救うのは完全義務か、不完全義務か、どちらだと思いますか? >>895
不完全でしょおそれは
やったら褒めらて当然よ
自分も死ぬかもしれないのに
助けて当然っていうのはおかしいわ
もうその場面に遭遇しただけで不幸だわ
トロッコ問題みたいなもん >>895
逆にちょっと考えて欲しいんだけどさ
その溺れた子供を助けたとしてさ
「礼は言わねーぞカス
お前は義務を果たしたに過ぎないし
救護されるのは俺の権利だ」
って言われたらぶん殴りたいでしょ?
そういう事 >>896
普通はそうですね
ただ、功利主義は「全体の幸福のためなら自分の不利益も甘んじて受け入れる」が前提にある
その原動力は「共通善」と自由な「選択」の規範に支えられている
だから、功利主義者にとって完全義務で「あり得る」わけなんですわ >>897
上に書いてあるように、功利主義は「自分と他者の権利」を平等の規範の前に置くんだな
だから、功利主義者の観点から>>897の事態があったとしても、完全義務で「あり得る」 >>898
>>899
あり得るのはいいんだよ?
本人がそう思うのはいい
逆に本人が勝手に思って
「僕は当然の事をしただけです」
って言うのはむしろ格好良くすらある
でもそれを
「いや、お前らなんでやらないの?
これって義務だよね!?」
って他人に求めた瞬間に超醜くなるのよ 功利主義は義務倫理学や社会契約論の「権利」や「正義」ではなく「善」を強調する
いい意味でも悪い意味でも、機械的で客観的な側面が強い >>900
理論の特性として、功利主義は「そういう個別性」を無視して、他者も自分も平等の規範の下に置く
だから言ってることは分かるが、功利主義の話をすると、その個別性の事態はあまり考慮に入れられない
どちらかというと、「助けるのは義務だよねーーー」とか言われても全体の幸福に「助けることが寄与しない」なら無慈悲に切り捨てられることもあり得る 個別事象に対する良心や徳による倫理に関しては
共感理論や徳倫理学の守備範囲になる
共感理論はヒュームやアダムスミス、徳倫理学はアリストテレスだな 永井均さんの独我論的な愛の送り渡しに近しいのは共感理論か
徳倫理学はどのケースでどうリアクションするのが徳ある人間と言えるか、ってモデル >>901
正にその機械的な感じが超嫌なの
例えば「汝の隣人を愛しなさい」と言われてもさ
隣人は俺じゃねーし、地球の裏側に住んでるやつは隣人ですらない訳
地球の裏側に住んでる奴より隣人が大事だし、隣人より自分が大事なのは別におかしくも何とも無いと思うのよ俺は
自分と隣人と地球の裏側にいる奴を等しく愛する奴がいてもいいけどそれを他人に求めるのはおかしいわ
>>902
この個別性無視ってのも問題あるわ
寛容さは皆無かよと
俺も基本的に「思想は押し付けて良いもの」とは思ってるけどさ、でもそれはもっと広く緩い範囲での話よ
基本的人権とかそういうレベルのね
自分が「うーん、これは完全義務!」って思ったら皆もそう思うべきってのは寛容さが無さすぎる
そいつが勝手に無慈悲になるのは別に構わんけどさ
>>904
永井さんの本は読んだ分の1割も分からんかったわ
なんか入門書的な感じの前書きだったのに割と基礎知識ある前提で書かれてたんかな >>905
> >>901
> 正にその機械的な感じが超嫌なの
それが功利主義の特徴だわな
功利主義は実践理性より理論理性に寄っている
客観性が強い理論で、その側面では効果がある
> この個別性無視ってのも問題あるわ
> 寛容さは皆無かよと
それほど、利己心が人は強いってことだろうな
> 永井さんの本は読んだ分の1割も分からんかったわ
> なんか入門書的な感じの前書きだったのに割と基礎知識ある前提で書かれてたんかな
永井均さんの論は全て永井均さん流独我論が基礎にあるから、それを理解してないと難しいわな
その発展形で、「なぜ人を殺してはいけないのか」という書籍もあります
おすすめ ちなみに西洋哲学史の中で実践理性系の倫理理論は
義務倫理学と共感倫理と徳倫理学
義務倫理学が一番抽象度が高く、その次に共感理論、最後に徳倫理学が一番具体的、となる
理論理性よりの社会契約論や功利主義は
社会契約論が抽象度が高く、功利主義は具体となる 個人の分類だと
義務倫理学は「共同体倫理」
徳倫理学は「人格倫理」
共感理論はそれらの中間、となり
社会契約論は「国家倫理」
功利主義は「行為倫理」、となる これらの生まれた起源順に並び替えるとこうなる
人格倫理
↓
国家倫理
↓
共同体倫理
↓
行為倫理
↓
etc... これらは一つ一つが孤立して自立している倫理領域だが、
背反の関係にない、相互補完の関係にある 理論理性には実践理性が欠けており、
その逆もまた然り
従って、
国家倫理には人格倫理
共同体倫理には行為倫理
でバランスすると真ん中に最も大切な倫理が浮かび上がる これらの倫理理論が徳倫理学以外はキリスト教から生まれたことを鑑みて、
中心に浮かび上がる倫理理論の領域は
創造倫理学、と名付けられるだろう 何れにせよ、社会契約論と義務倫理学と功利主義と共感理論と徳倫理学の全てをバランスさせられる高度な倫理が、最も人類に必要とされる倫理観である、と言えるだろう 功利主義の後の徳倫理学のリバイバルを経て、統合倫理学、ないしは創造倫理学を語る天才が未来に現れる 今のところ、社会契約論はロールズやノージックなどの現代哲学者を生み
義務倫理学はハーバマス、功利主義はシンガーやヘアなどを生んでいる
共感理論は哲学というより心理学方面で発達する
徳倫理学に至っては天才はまだ生まれていない
が、哲学を離れて宗教の領域に向かってしまう だから、今のところ倫理学の領域において、発達しているのは、社会契約論と義務倫理学と功利主義、となってしまう ちなみに、倫理の文脈でトロッコ問題に答えられるのは「功利主義」だけ
他の理論ではトロッコ問題に答えることが出来ない 自然科学分野だったら天才が独走しても良いよ?
凡人が理解できようができまいが
一般相対性理論が唱えられて
原子力が使える様になるんだろうから
でも殊に倫理とか道徳に関しては
凡人を取り残して高度化する事はできまいよ
どんな馬鹿にも分かる様にとは言わないが
少なくとも大半の凡人に理解できる程度の
範囲に収まらない倫理など意味がないし
もっと言えば害悪ですらある訳さ
凡人に分からせる事ができる倫理にしか
社会を動かす力がない だから社会契約論や義務倫理学、功利主義が「まだ」熟成しとるんだろうな
まだ創造倫理学は早い 今は、ハーバマスの義務倫理学の流れの討議倫理学、つまり俺の分類の共同体倫理学が人気があるな
マイケルサンデルとかは討議倫理学の流れだ >>898
こんなクソみたいなことを言わないからベンサムは古典やし、だからこそ功利主義はベンサムに学ぶべきなんやろな
功利主義の修正の歴史は劣化の歴史やろ >>919
熟成っつうか凡人に批判されてる間に
粗がとれて(論が修正されて)
理論の方から凡人のレベルに落ちて来るんでしょ
その創造なんとかの事は知らんけど
そのうちに骨抜きにされて
俺の所に落ちて来ると思うよ
>>921
古典だから良いってもんでもないっしょ >>921
ベンタムの功利主義は「快楽計算」だな
んで平等の原則を取り入れたのも彼
平等であるべきなので、質はむしして「量」を重視する
質を無視するのは地位や教養などの視点を排除したいから
産業革命の時代は社会にヒエラルキーが広がった時代
だが、「質」を無視するから「快楽」を重視すると低俗化に向かうのでは?という批判がなされる
それを改良したのがミルだな
他者危害原則を導入することで道徳的な質を担保した >>922
いや、ちゃんと進化してますよ
例えば功利主義者のシンガーは規範功利主義と行為功利主義をわけて、規範功利主義が行為功利主義的によい結果をもたらさない時には、行為功利主義が規範功利主義を修正したほうがよい、みたいなことを語る
あくまでも行為功利主義から規範功利主義を改善する動的な側面を強調したり、
ヘアは規範功利主義は既知の事態の繰り返しの日常で適用し、行為功利主義は非日常、例えばAIが司法を司る世界、を想定したときに適用すべき、などの使いわけの視点を足している 何れにせよ、義務倫理学が行為自体の倫理性、その質を強調し、
功利主義は結果を強調し、最大多数の最大幸福の原理に立つ >>924
シンガーって確か財産ほぼほぼ全て
貧しい人に寄付するのが義務とか
言ってたオッサンだろ?
俺はそういうのはむしろ退化だと思うよ
もう弱者を盾に普通の人を
叩き続けてるだけじゃん >>926
功利主義者として生きるかどうかは本人が決めればええのでは?
シンガーのは効果的な利他主義の生き方ですな >>927
本人に選ばせてくれればいいけどさ
シンガーとか
「貴方はアホだから自分の罪に気付いていないだけ」
みたいな雰囲気出して来るじゃん
アイツの動物倫理の本読んだけど嫌いだわ >>928
社会契約論のロールズやノージックの社会契約論とも通底してる話だなー
ロールズは公正な機会の平等と、不遇の人への福祉を語り
ノージックは人から奪ってなければ金は自分のものなのだから国家がそれを奪って福祉に使うのはおかしい(でも自発的な贈与は個人の勝手)と語りますな
国家における倫理と個人における地球視点での不遇の人への倫理 >>929
>>930
俺個人がどう思うかは確かに勝手だし
偉い先生方が何を考えるかは確かに勝手だよ?
しかし大体のお偉方がそれを
「こう考えるべきなのだ」という論調で来ちゃうのよ
「そう考えるのも当然勝手だろ」と思うだろうが
それを放置しておくとだな
「公共の福祉の為に貴方は
あらゆる物を犠牲にせねばならない!」
みたいな運動になる訳
前にも言ったけどさ
フェミニズムとか動物解放運動とか土地倫理とかさ
もうウンザリなんだよ俺
倫理なんてもんは俺らが勝手やる事だよ? >>961
規範功利主義の話ですな
功利主義的には毎回計算するのは現実的じゃないけど
規範功利主義は義務みたくなる
ただ、フェミも動物解放もあくまでも運動であり、それ自体が倫理「学」とは別なんじゃない?
その運動が倫理学を思想の「後ろ盾」にすることはあるだろうけど Black Lives Matterやmetoo運動うんざりなんだよねー、みたいな発言ともほぼ同じなような気がする
うんざりするのは主観だが、差別されてる側が権利や理不尽な現実に異を唱える運動にあなたがウンザリすることと
倫理学にウンザリするのは関係ない気がするな(^_^;) >>933
俺も倫理学が悪いとは言ってないよ
自分の倫理観こそ正しいと信じて疑わない奴らが問題な訳
例えば、俺がウンザリだと言えば
「それは君が差別種者だからだね」と返すのも
要するに「正しい倫理に従えないアホな君」
みたいな意味を含んでるだろ?
俺はこういう考えが蔓延するのが嫌なんよ >>934
嫌かもしれないがムーブメントが起こる時はそれなりの理由と賛同者がいるわけで仕方がないわな
大衆狂気は全て嫌なものだ >>935
うむ、もちろん理由なくは起こらんだろう
出発点には誰かの怒りや悲しみがあるのかも知れん
が、しかしだ、今のフェミニズムを見てみろよ
売春少女達を被害者だと言い、
あらゆるポストの半分は実力によらず
半数を女に明け渡せといい、
フェミニズムに協力しないものは加害者だと言う
もう女性の救済とか関係ないだろ
これは「女性の地位が向上する事は正しい」と
盲信し続けてきた結果よ
男女同権をとっくに通り越して
女尊男卑を突き進んでる訳 >>936
彼らの主張を理解した上でそれ言ってます?
ポストの半分は本当の機会の平等のためですな
仕組み作りに女性が関与するところが「スタートライン」だから強制的にポスト半分にしないといけない
今はスタートラインにも立ってないわけですな
この世の中は目に見えないシステムが全て男性中心に作られとります
例えばiPhoneの大きさ
これは男性の手の大きさを基準に大きさが決められてます
また、非正規社員の増加と割合
これは、少子高齢化の中で終身雇用と退職金制度が崩壊してるから、それを騙し騙しで延命するために非正規社員を働かせて社会福祉制度の一部を補うためにある
昭和は男性は外で働き、女性は家庭を守る、みたいな常識があった
社会福祉制度が崩壊したら女性を使い捨ての非正規社員で酷使し、さらにそれでもあかんとなったら今度は女性も男性も働け、となる
こういうのは昭和の老害(男性)の価値観で作られた目に見えない差別の仕組みなんです フェミがポストの半分を開け渡せと言ってる訳だけでは実はない
国家が女性に労働力になってもらわないと「困る」から、スタートラインに立とうとしてるだけ、という側面もある
そしてそれは社会福祉の崩壊を崩壊させるままにしてた政府や官僚の怠慢をまたしても女性に担わせようとしてるだけ、という見方も出来ますわな
フェミや環境団体組織の狂気「だけ」を見てると視点が偏りますぜ
大衆狂気は悪だけど、それだけじゃない >>937
>>938
フェミニストの主張はTwitterで大体見てるよ
その上でやはり違うと言ってる訳
「機会」で言えば既に均等だし
女性が働かないのはポストがないからではないし
それにTwitter上では特に顕著なんだが
ここ数年でフェミニストは急速に力を失ってる
「女は辛い」、「男はショボい」という
以前までの鉄板ネタが共感を得られなくなっているし
他の主張でもすぐに
「でも男女反転しても同じ事が言えますよね」
と返される様になってしまった
日本社会に薄っすらとあった
「女性は無条件に守られるべき」というのには
やはり長年培われてきた背景的要素があった訳だが
フェミニスト自らそれを壊してしまったんだわ
既存の規範から一部だけ取り出して
ぶん回したら当然のそうなると思うんだ
議論では負け続けるフェミニスト達が
それでも文句を言い続けるのは
やはり「私こそは正しい」という盲信のせいだと俺は思う >>940
今のSNSの規模を考えれば
SNSは倫理と無関係の領域とは
言えないと思うが? >>941
フェミの話から倫理の話とは関係なくなったな
個人の趣味の話に変わった >>942
フェミに限らなくても良いけどさ
手段の目的化っていうのかな
倫理的である事そのものを
目的とした倫理観が猛威を奮ってると思う訳 >>943
カントはまさに個の尊厳の尊重こそが「目的」だ
と言っとるな
目的の国だ カントは理性を理論理性と実践理性にわける
理論理性は>>655にある通り因果に絡め取られるので自由ではない、と語る
それと似たロジックで、行為を目的と手段の連続で捉える
手段→目的=手段→目的=手段…と、
手段によって達せられた目的は、次の手段となり次の目的を達し、と全ては手段化される
カントは手段ではなくそれ自体が目的であるもの、手段化できないものとして人格をあげる この世の中はしばしば人を利用して目的を果たす、人を手段化する
市場価値や感情価値の己の利益のための手段とする
そこで道徳法則に叶う行為を「汝の人格と他の人格のなかにある人間性をたんなる手段ではなく、つねに同時に目的として尊重せよ」と定式化する
そして、すべてのひとがすべてのひとの尊厳を尊重する共同体、実現すべき理想の共同体をカントは目的の国と呼ぶ
これは社会契約論の対象が「国民、コミュニティメンバー、民族」などに対し、万人に適用される概念 西洋倫理学の歴史はキリスト教の旧約と新約の関係に等しい ホッブズから始まった「社会契約論」は、旧約とは神と民族の「契約」に基づき、また、その履行は「律法」に基づくことと類比させ、神を国家に、民の国家への忠誠に置き換える しかし、カントはその旧約的な価値観を、個の尊厳を中心にした国家、つまり民族ではなく、万人に普遍的な原理を目的とすることで国家を作る価値観に転換させた
そして、個の尊厳を守る国家として、国家の機能を定義し直す 社会契約論の目的は「万人による万人の争い」を「防ぐ」ことにある
義務倫理学の目的は「個の尊厳を尊重する世界」の「樹立」にある 何れにせよ「倫理を目的とする」という言説は抽象的すぎる
倫理理論によって、目的は「違う」
功利主義の目的は「最大多数の最大幸福」だな これらは「倫理」を「どの角度からみるか?」とした時の目的の違い、でもある
倫理とは立体的なものであるから、一つの視座で全てを語り尽くすことは不可能だから、さまざまな倫理理論がある
つまり、それぞれ背反の関係にはない
相互補完の関係にある んで、西洋倫理学とは、キリスト教の脱宗教化の歩みでしかない だからこそ、西洋倫理学は「徳倫理学」が一番手薄でもある
徳倫理学は「修養」の概念が強い
「徳を持つ人間になる」という倫理学だ 修養の概念のある倫理学は「実学」と変わらず、倫理「道」とも名付けられる
人類にはこの「倫理道」が足りない この倫理道が出来ることで、宗教の脱宗教化は倫理の側面で完成されるが、であるなら「宗教でよくないか?」という問いも立つ ルドルフシュタイナーが脱宗教化された「学」を立ち上げたのには、倫理におけるそういう背景「も」あったのだろう
彼はカントや西洋哲学を納めている 彼は思考の上位互換として道徳的直感をおいた
彼の倫理学の基礎は「独我論的道徳的直感」みたいな名付けが出来る
そして、それは「可能態として人類の中に種子としてある」といったところか つまり、シュタイナーの人智学の行体系、「倫理道」は徳倫理学に分類することも可能だろう 西洋倫理学の系譜の中で、テーマの一つとして「徳倫理学の発展」も視点としては重要だと個人としては思う かくして徳倫理学の目的は「人格をそだてる」とかになるだろう 倫理学の目的、つまり
「万人による万人の争い」を「防ぐ」
「個の尊厳を尊重する世界」の「樹立」
「最大多数」の「最大幸福」
「人格」を「育てる」
これらは全てが目的たり得る
そして、これらの総体を一つの層に戻す
つまり、キリスト教に還元すると
「神の創造」への「参与」
となる >>962
結局それらも俺ら大衆が
納得しないと意味ない訳よ
大衆が納得できる部品で
組み立てられてるかも知れないが
「頭がマトモならこの倫理観に行き着くはず」
という構図にしないで欲しいの
その倫理道を主張する側も頭のどこかに
「といっても一つの考えに過ぎないけどね」って
前提を置いておいて欲しい訳ね
眼球は物を視る為に造られた訳じゃないし
耳は音を聞く為に造られた訳でもないし
倫理も何かの為にある訳じゃないのよ
てかもうスレも終盤だけど
これ次スレ要る?? >>923
ミルは改良というよりは改悪した
質の差は個人の感受性の違いに還元できるし、ベンサムは実際にそうしている
ベンサムはちゃんと利他的行為のよさが任意の(つまり強制でない)行為にあることをきちんと理解している
利他行為が強制される社会の苦痛が想像できんのは過度な合理主義に走るようなサイコパスやからやろ
ベンサムは貧困層への保障は累進税など「とられても痛くない」程度(限界効用逓減)の控除から配分されるべきだと考えている
しかも道徳ではなく法的政治的な解決やしその意味でもまとも
利他行為の強制とかまともな神経をしてたら受け入れられるはずもないし、古典になるような思想家なら当たり前のことは当たり前に考えている
突飛な結論で人を驚かせるのは二流の仕事よ >>963
俺の意見を「一般化」する必要はある?
おまいは常に「一般化」された意見しか喋らない、というポリシーがあるのかもしれないが、それもまた主観でしかないわな >>964
低俗化と道徳倫理は共存するのか?
それは相対主義の虚無に霧散して終わり、となるんでないか? >>965
あるんだなそれが
社会制度はひとつしかないだろ?
矛盾する制度を並行して置いておけない
そうするとだな「これこそ真なる倫理!他はカス!」みたいな主張が出ると困る訳
だから強制されるのは社会に必要な最低限度(人権とか)でないと困るの
もちろん人権思想も押し付けだよ?
俺は人権が好きだから良いけどそうじゃない人はかなり辛かろう
だから、「人権など知らん!」という他所の国があったとして、そこに人権思想を植え付ける義務は俺らにはないと思う
それをやるなら「俺は今、自分の欲望のままに思想的侵略をしているぅぅ(勃起)」という自覚をもってやらねば糞ダサい >>967
俺個人の意見は一般化される必要ない
俺の意見
あなたの意見が一般化されてなくてあなた個人の意見なのと同じ >>968
いや、俺は俺の意見の一般化を求めてるんだわ
端的に言って「押し付ける気マンマン」
突飛な思想を持つなら
普通の思想に劣後する個人の信仰として語れと
(内心の自由な)
もしくはこの社会から出て行って、
この社会に影響しない所でやってくれと
良くあるだろ?
「『押し付けるな』という思想を押し付けるな」って話
思想を押し付けてはならない理由はない訳で
「思想を押し付けるな」っていうのは一般的に
「俺の許す範囲から外れた思想を吹聴するな」って意味な訳 >>969
おまいがそうなのはおまいの自由なんじゃん? >>970
逆に自由じゃない事って無い訳よ
大量札人でも何でも俺らが勝手に禁じてるのね
だから自由とか自由じゃないとかは俺らの社会が許してるかどうかな訳
そんで正しい倫理観があってそれに従う義務があるみたいな考えを他人に求めるのは社会的に許されてない訳ね
人権も平等も自由も権利もぜーんぶ俺らの勝手な思想だからそれらを分かった上でしかモノを言うなと、まぁそんな感じ >>972
うん、俺は社会的に許されてるんだ
真理があるとか説く奴は
社会で許されてないって話ね >>973
て、あなたは思ってるだけ
ぜーんぶ、俺様の話か >>974
真理なんて無いっていうのは
ほぼほぼ全員が当たり前に持ってる考えなんだわ
「これが真理だ」って言って何かを押し通して
社会で許されると思ってるのは
一部のヤバい奴だけなんだわ >>975
ていう真理を押し付けたいだけなんだな?
おまいはそれでいいんじゃん? >>976
これは真理じゃなくて「現実」な
みんな現実を見て生きてる訳よ
「神は存在しない」と誰か証明した訳ではないのに
社会の制度は神がいない前提で作られてる訳ね
(地獄で永遠に苦しむかも知れないのに
日に5回の礼拝とか法律で定められてないよね)
真理って奴もまぁ同じなのね
誰が証明しなくとも「そんなものはねぇ」って
みんな分かってんだね現実を見てるから
なのに真理があるとか言って掻き乱されると
皆さん本当に迷惑しちゃうんだな >>977
真理を現実という単語にすげかえてるだけでやってることは同じだよな >>978
「世界には元々何もない」
と
「世界の何処かに目に見えず聞こえもしないルールが最初に書かれており、何故か人間はそれに従うべき義務を負っており、且つ、それを人間がそれらのルールをどうやってか不明ながら読み取れており、それが倫理である」
って言うのを並べてどっちが現実か判別が付かないならそうなんだろうな
現実を見ろ >>979
おまいの現実が万人の現実だと思い込めるのは全能感の仕業だよな >>980
もしかして「真理がある!」という信仰を持ってる?
信仰心は否定しないよ
信仰は自由だよ >>981
真理がある!ってなんだよw
しかもそれを信仰とかいってるしw >>982
無いと考えてるんなら
意見の相違もないし別にいいよね
「真理がある!」っていう奴ら本当に面白いよな
自由とか公平とか博愛とか何か提示される度に
感覚で「うーむ、これは真理!」とか言ってる訳でさ
いわば真理教だわな >>983
真理という単語に執着しとるようじゃな(^_^;) >>984
考え方は人それぞれ程度の話に
お前が異様に食い付いてるだけだけどな >>986
考え方は人それぞれって言われて
カチンと来るか? 考え方は人それぞれ、に一番カチンと来てるの自分なんだろ? 「真理がある」から「押し付ける」なら、単なる押し付けだと思われ。 >>988
カチンと来てないぞ
大量札人推奨主義と平和主義も横一線な
前者は支持者が少なくて勢力が弱いだけ
>>989
それは押し付けだろうけど
俺は「押し付けを禁じる事はできない」と言ってる
さっきも書いたが、「押し付けるな」という思想を押し付けるのは既に矛盾だからな
みんな思想を押し付け合ってる >>990
>俺は「押し付けを禁じる事はできない」と言ってる
ホントに?
真理でないなら「押し付けを禁じる事はできる」んじゃないかな。まさに矛盾律なんだけど。 >>991
「押し付けを禁じる」ってどうやって他人に求めるの?
他人が押し付けて来るの止められないよね? いやいや、自分で押し付ける気まんまんいうとるから
自分は押し付けるが、押し付けられるのは嫌って全能感のマガママンなだけだろ?
>>969
> >>968
> いや、俺は俺の意見の一般化を求めてるんだわ
> 端的に言って「押し付ける気マンマン」
>
> 突飛な思想を持つなら
> 普通の思想に劣後する個人の信仰として語れと
> (内心の自由な)
>
> もしくはこの社会から出て行って、
> この社会に影響しない所でやってくれと
>
> 良くあるだろ?
> 「『押し付けるな』という思想を押し付けるな」って話
>
> 思想を押し付けてはならない理由はない訳で
> 「思想を押し付けるな」っていうのは一般的に
> 「俺の許す範囲から外れた思想を吹聴するな」って意味な訳 >>994
「押し付けは禁じられない」と言っているのだから
「押し付ける気マンマン」じゃないと
むしろおかしいだろ
大丈夫かお前? >>996
思想は押し付け可能なのだから
「札人してはならない」という思想も
押し付けられる
思想が押し付けられなかったら
「法律を守ろう」すら言えないだろうが
大丈夫か? 倫理学は押し付け(と勝手に感じてる)から感情的に嫌い、なんだろ?w このスレッドは1000を超えました。
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