朝鮮哲学
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李退渓こと李滉(1502年〜1571年)は李氏朝鮮の儒学者
李珥(栗谷)と並んで、朝鮮朱子学における二大儒と称される 李栗谷こと李珥(1536年 - 1584年)は、李氏朝鮮の儒学者
朱子学者として李滉(退渓)とならぶ二大儒と称され、李滉の主理説に対し主気説を展開した
朝鮮王朝に仕えていたが、政争や貧困が蔓延して国防が疎かになっている国内の様相を憂いていた事でも知られている 朝鮮朱子学といえば、理気二元論
理の李退渓と、気の李栗谷
この2人が朝鮮の2大儒者 織田信長は浅井の子供をやってしまった。
それにより浅井長政は、織田に反旗を翻した。その意味がわかるのが織田信孝になる。 李氏朝鮮での儒教は16世紀に最盛期を迎えた。
趙光祖の宋明理学を人々の間に普及させる努力は、朝鮮の二人の最も著名な儒学者の登場によって受け継がれた。
李滉(1501年–1570年)と李珥(1536年–1584年)は、しばしば退渓(テゲ)と栗谷(ユルゴク)という号で呼ばれ、
今日では、大韓民国の1千ウォン札と5千ウォン札にそれぞれ描かれたり、ソウル中心部の主要な大通りにその名が付けられて、記念されている。 李退渓の思想は明で盛んになった陽明学を退け、あくまで朱子学を尊重することで、朱子学の提要である「格物致知」の概念や「理気二元論」に基づいて、精緻で稠密な議論を展開する主理説に特色がある。
「東方の小朱子」と呼ばれ、同時代の李珥とともに朝鮮儒学の代表者とされている。
その学説を継ぐ者たちは嶺南学派と呼ばれるが後に、李珥の系統を引く畿湖学派と鋭く対立した。 朱子学者として、李滉と並び称される李栗谷
彼は儒学のみならず多種多様の学問を積み、従来の朱子学をさらに発展させた。
理気論でも、必ずしも朱熹の説に依拠せず、理通気局説を唱えて合理的解釈を行った。
理の気に対する優位は認めたが、理の動静は否定した。徐敬徳の気一元論や荘子の哲学の影響を受けていた。 理気二元論とは何か?
例えば、反日朝鮮人が「慰安婦に謝罪するニダ。日本はけしからんニダ」と騒いでいたとする。これが「理」だ
一方で、同じ反日朝鮮人が日本のビールを飲み、別府温泉に来て「日本に来ると、ホッとするニダ〜」と言い出す。これが「気」だ
日本人から見れば、「そんなに日本が嫌いなら来るなよ」と思うのだが、当の朝鮮人は理気二元論だから平気だ
「建前と本音」というより、「観念と現実」といったところだろう 韓国・朝鮮は、非常に理念にこだわる
日本のように現実的で柔軟性のある国ではない
それが、朱子学で最も重要な「理」なのだ
「お前の歴史認識はけしからんニダ」
「いや、お前のほうこそ歴史認識がまちがっとるニダ」
こんなやり取りで泥沼の党派対立が延々と続き、一方の派閥が権力を握ると、対立派閥は処刑される
血で血を洗う理念闘争こそ、朝鮮王朝の五百年だ 李退渓と李栗谷の両巨頭
「東人」と呼ばれる官僚集団は李退渓を信奉し、「西人」と呼ばれる官僚集団は李栗谷を信奉した
流血沙汰が絶えない、激しい理念闘争が勃発した この宇宙は、「理」によってできている
理とは、西洋風にいえばイデア、観念だ
物質界は、「気」が集まってできている
これが、朱子学の理気二元論 理気二元論
儒教の中の宋学(朱子学)の理念。
宋代に興った朱子学(宋学)の中心概念で、宇宙万物の形成を、理(宇宙の根本原理)と気(物質を形成する原理)の一致として説明する存在論。
古来の中国の思想を発展させ、北宋の程頤、張横渠が組み立て、南宋の朱熹(朱子)が完成させた、宋学の存在論にあたる考え方となった。
朱子の理気二元論は、16世紀の朝鮮王朝(李朝)の時代に、李退渓と李栗谷という二人の儒者によってさらに展開されることになった。
前者は「理」を根源的なものと見なして主理説を唱え、後者は「気」を重視する主気説を唱え、互いに論争しながら理論を深めていった。
特に前者の思想は江戸時代の日本にも受けいれられていった。
しかし次第に議論は観念的、末梢的になって行き、19世紀のヨーロッパの合理思想が浸透してくると、その影響力を急速に失っていった。 【闇】統合失調症患う(両親の主張)娘を10年以上監禁して凍死させた両親…“無罪主張”したが控訴棄却 [和三盆★]http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1618835198/
1和三盆 ★2021/04/19(月) 21:26:38.47ID:xJrn3QAW9
プレハブ小屋に長女を10年以上監禁して凍死させた罪に問われた両親の控訴審で、大阪高裁は懲役13年とした1審判決を支持して両親の控訴を棄却しました。
柿元泰孝被告(58)と妻・由加里被告(56)は、統合失調症を患っていた長女・愛里さん(当時33)をプレハブ小屋に10年以上監禁し、十分に食事を与えずに凍死させた保護責任者遺棄致死の罪などに問われていました。
1審の大阪地裁は2人に懲役13年を言い渡しましたが、2人は判決を不服として控訴し、無罪を主張していました。
4月19日の判決で大阪高裁は、犯行について「行動の自由を制限して尊厳を著しく損なうもの」とした上で、量刑についても「事案に相応で合理的なもの」として、控訴を棄却しました。
http://www.mbs.jp/news/sp/kansainews/20210419/GE00037911.shtml
過去ニュース
33歳長女、体重19キロ
起訴状によると、両被告は07年3月ごろから監視カメラや内側から解錠できない二重扉が設置された自宅内のプレハブの小部屋に愛里さんを監禁。17年12月ごろまでに急激にやせ衰えていたのに十分に食事を与えたり、医師の診察を受けさせたりせず、同月に凍死させたとされる。
検察側は冒頭陳述で、愛里さんが12歳のころに不登校になり、それ以降、中学まで登校しなかったと説明。両被告は愛里さんに愛情を抱けず、一緒に生活したくないと考えて監禁し、粗雑な扱いをして死亡させたと主張した。小部屋の大きさは1.6平方メートルと畳1枚分程度で窓はなく、亡くなる直前の小部屋の温度は10〜12度。食事は1日1回、水はチューブを通して与えていたと指摘。衣類を着せず、入浴や歯磨きもさせず、死亡後の解剖結果では愛里さんは身長145センチ、体重が19キロで、歯はぼろぼろでいくつかは抜け落ち、ひざがまっすぐに伸びない状態だったと述べた。
http://www.asahi.com/amp/articles/ASN273G2KN27PTIL001.html まず大前提として、儒教は性善説である
これは、朱子学でも陽明学でも変わらない
もちろん、主理論も主気論も性善説 後醍醐天皇や楠木正成が熱心に学び、建武の新政における行動理念になったことでも知られる「朱子学」 江戸時代の日本人は、イテゲとイユルグクの儒学を学んだ しのみやってどうだすごいだろう!
今年の2月から今の今まで走りに走った…… 李 滉(り こう / イ ファン、1502年1月3日 - 1571年1月3日)は李氏朝鮮の儒学者
号は退渓、陶翁、清涼山人、真宝人。李珥(栗谷)と並んで、朝鮮朱子学における二大儒と称される 李 珥(り・じ、イ・イ、1536年 - 1584年)は、李氏朝鮮の儒学者。号は栗谷(りっこく、ユㇽゴㇰ)
朱子学者として李滉(退渓)とならぶ二大儒と称される。李滉の主理説に対し主気説を展開した
朝鮮王朝に仕えていたが、政争や貧困が蔓延して国防が疎かになっている国内の様相を憂いていた事でも知られている 主理説の李退渓に、主気説の李栗谷
この朝鮮2大儒は、江戸時代の日本に大きな影響を及ぼした 朱子学者として、李滉と並び称される彼は決して儒学のみならず多種多様の学問を積み、従来の朱子学をさらに発展させた。
理気論でも、必ずしも朱熹の説に依拠せず、理通気局説を唱えて合理的解釈を行った。
理の気に対する優位は認めたが、理の動静は否定した。徐敬徳の気一元論や荘子の哲学の影響を受けていた。 李滉は理気二元論において、理と気は互いに独立して対立しており、どちらか片方が欠けると宇宙を構成できないとした。
それに対し李珥は、理は無形無為の存在であり気は有形有為の存在として、理は気の主宰者ではあるが気は理が乗るだけであり、一元論でも二元論でもなく宇宙の構成は理と気がそれぞれ互いを包括しているという気を念頭に置いた主張を行った。
「四端七情」と呼ばれる人の性に議論を置き換えてもそれは同じで、李滉は四端は理が発し気がそれに従い、七情は気が発し理がそれに乗るという理と気の相互の能動性を説いた。
それに対し李珥は四端や七情がいずれも、気が発して理がそれに乗るという一つの形式であるという包括関係を説いた。 李退渓と李栗国は、両方とも朱子学者だ
あくまでも、朱子学の理気二元論の枠内での論争
朱子学と陽明学のように、根本的に考えが異なるわけではない 日本の国宝にも描かれ、今解明が急がれているあの人の哲学は難しかったか そのような哲学は、中国にも日本にもないが、イスラムには近いものがあったりする それは理の哲学の究極的な形だが、>>37-38のような話とは正反対の性格を持つ 朝鮮の一流の哲学を知るには、日本や世界の一流の哲学も知っておく必要がある。
古代から現代までを見通し、マルクスも仏教もイスラムもやって初めて、真に価値のあるものを知ることができる。 神学と中世哲学など、精神史のピークは9-13世紀頃。
1235年、チンギス・ハンの孫フレグ・ハンがモンゴル軍を率いてバグダートを侵攻し、
西洋と東洋の文明が衝突。世界史意識が形成された。
イブン・アラビーやトマス・アクィナスの時代で、
ルネサンスの方向性を決定づけた「12世紀ルネサンス」もある。
紫式部やヒルデガルト・フォン・ビンゲンといった女性の思想家も出てきた。 そういうグローバルな観点から、朝鮮哲学(中国や日本についても)を評価できているか 朱子が評価した周敦頤の太極図説は東洋のカバラ
ヨゼフ・ギカティラ(1248-1305)の本に書かれたセフィロトの樹
https://www.meisterdrucke.jp/kunstwerke/1200w/Unbekannt_-_Portae_Lucis_Gates_of_Light_by_Joseph_Gikatilla_-_%28MeisterDrucke-708318%29.jpg
周敦頤(1017-1073)による太極図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9c/%E5%91%A8%E6%B0%8F%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9B%B3.png/320px-%E5%91%A8%E6%B0%8F%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9B%B3.png
“無極にして太極。太極動いて陽を生じ、動くこと極まって静なり。
静にして陰を生じ、静なること極まって復た動く。
一動一静、互に其の根と為り、陰に分かれて陽に分かれて両儀立つ。
陽変じ陰合して水火木金土を生じ。五気順布して四時行はる。
五行は一陰陽也。陰陽は一太極也。太極は本無極也。
五行の生ずるや、各々其の性を一にす。無極の真と二五の精と妙合し凝る。
乾道は男と成り坤道は女と成り、二気交感して万物を化成す。”
― 周敦頤 『太極図説・通説・西銘・正蒙』 西晋一郎、小糸夏次郎 訳註、岩波文庫 (1938) p17、21-22 周敦頤は、陰と陽が分かれる前の段階として「無極」を策定した(>>65の図の一番上の円)。
これは、プロティノスの「一者」、否定神学の「名指しし得ぬもの」、
シャンカラの「無属性ブラフマン」、イブン・アラビーによる「神の名で呼ばれる以前の神」、
井筒俊彦がいうところの「根源的な絶対無分節者」に相当する。
「無極」は『老子』第28章に出てくる言葉。 唐代は仏教が盛んな時代だった。仏教といっても、当時の仏教は加持祈祷がメイン
唐朝は、国を挙げて加持祈祷に狂奔する迷信深い社会だった
宋代の新儒教は、それに対する啓蒙思想として登場してきた。だから、千年近く前の中世思想にしては驚くほど合理的
でも現代人から見れば、宋学だって十分にオカルトっぽい(笑) ネットで韓国や朝鮮の人間をストローマン論法でキャラクタライズするとき、
怒りっぽいという象徴を与えることがあるのは、
あはれの文学に代表されるように、日本の人間が悲観的であることの裏返しではないか?
つまるところ、怒りと悲しみはある種の対になっていて、
悲壮的な群衆の心理を逆手にとってというか、
木を見て森を見ず、自分が何に属しているかもわかってないんだろうなと
ようするに、韓国、朝鮮の人間は別段、怒りっぽいのではない
違いますかね、 韓国国旗の太極図の赤と青は、
個人的に、一つの見方として、赤が憤怒を、青が悲哀を表しているように思える
ところで韓国国旗の太極図の周りにある卦は、八卦のうちの四つしかない
それは、易学の本家の中国に謙遜の意味も込めてそうしてるとwikiに書いてあったけど、
赤と青が、喜怒哀楽のうちの怒と哀を表していると考えると、八卦のうちの四つしかないというのと合致はする? そんなことはどうでもよくて、
韓国行って焼肉と冷麺食いたい >>67
君がよく知っているもの
・加持祈祷
・オカルト
君がよく知らないもの
・形而上学
・自然哲学 形而上学としての『易経』
西洋の「メタフィジックス」(「meta 後」+「physica 自然学」)は、
アリストテレスが自然学の後に配置した著作群に端を発すると共に、自然の背後にある原理を探求するものであった。
それに相当する漢語の「形而上学」は、『易経』の註釈部分である「繋辞上伝」に由来する。
“是故形而上者謂之道、形而下者謂之器(この故に形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)”
(眼に見えぬ実在(形而上)が「道」、それが形となって表われた現象(形而下)が「器」である)
― 『易経(中国の思想7)』 「繋辞上伝」 丸山松幸 訳、松枝茂夫、竹内好 監修、徳間書店 (1965) p256-257 自然哲学としての『易経』
“大哉乾元。万物資始。乃統天、雲行雨施、品物流形。”
(大いなるかな、 乾 (純陽な天)の 元 (根源)のはたらきは。万物はこれを質(もと)に始(おこ)る。
すなわち天を統(おさ)め、雲を行かせて雨をほどこし、くさぐさの物に形をあたえる。)
― 『易経 増訂』 「乾」 三浦國雄、東洋書院 (2008) p70-71 (原文参照)
モンゴル>>63の国号「元」の由来 東アジアの漢字文化圏に広く共有される、最も根本的な形而上学にして自然哲学 井筒の『意識と本質』では、易経の「八卦」も、ユダヤ=キリスト教の「カバラ」も、仏教の「マンダラ」も同様に、
万物の生成過程を説明する「元型的イマージュの相互連関システム」と説明している。
コンピュータの原理ともなったライプニッツの二進法までもが同類。 太極の陰は湿っていて冷たいもの、陽は暖かくて乾いているもの
岩波の易経の解説にある
陰陽の概念は相補性のある対のものであるのなら、拡大解釈できる
概念としての感情にまで拡大するのは間違いかもしれんが
ボーアやユングが易経に触発されたというのも有名 易経の生みの親である漢民族は農耕をしていて、
降雨を知ることが生活の上で重要だった。
64あるうちの本卦は、8ある八卦を上下に重ねたものだが、
3つの陰の爻からなる八卦である「坤」が上に、
3つの陽の爻からなる八卦である「乾」が下にくる、
「地天泰」が最もめでたいとされる。
それは、湿った冷たい空気が上に、乾いた暖かい空気が下にあるとき、上昇気流が発生して雨が降るからだ。
陰陽が交わり合うことを易経は尊ぶ。 大極拳より対局健か。このご時世。いずれも悪くない。神戸大学の清明寮よろしく。精神医学の教科書買った。 あらがくるくる回ってはじけるわけ。陰陽と。術策の時。ハングル国旗に近い。 あれがくるくる回ってはじけるわけ。陰陽と。術策の時。ハングル国旗に近い。 そういう文献が人気ということ何しろ相手兵士の減り方が違う。 別に今回の紛争でも使えなくない。幻術は幻覚。妖術は設営。 三国志シリーズ 歴史シミュレーションゲームから出典。 ニールス・ボーア - wikiより
ボーアは、量子論の解き明かした粒子と波動の二重性、位置と速度の間の不確定性などの世界像を「相補性」と名付け、
後半生には量子物理学と東洋哲学に類似性があるとして東洋哲学、特に易経を研究していた。
さらに、次のようにも言っている。「原子物理学論との類似性を認識するためには、
われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、
大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」
その傾倒ぶりは、偉大な功績により、デンマーク最高の勲章であるエレファント勲章を受けた時、
「紋章」に選んだのが、陰と陽、光と闇の互いが互いを生み出す様を表した東洋の意匠、太極図であったことからもうかがえる。
ボーアの勲章
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/da/Coat_of_Arms_of_Niels_Bohr.svg/220px-Coat_of_Arms_of_Niels_Bohr.svg.png ニュートンの古典力学からアインシュタインの相対性理論までの世界は、
「神が世界を創った」という、ユダヤ=キリスト教的な決定論的世界観だった。
それに対し、ボーアの量子力学や易は、世界を偶然的に捉えている。
それで、量子力学に反対したアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言った。 >>96
マラルメの『骰子一擲』から、ドゥルーズやメイヤスーの「偶然性の哲学」が、こうした時代の哲学 易の影響を受けたジョンケージは、
作曲過程に偶然性が関わる「チャンス・オペレーション」を始め、
貨幣を投げて音を決めた『易の音楽』などを作曲した >>96
宿命論の背景。
“わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、
神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。”
― 新約 「コリントの信徒への手紙1」 2:7 (新共同訳) >>101
ただ、後に続く表現も鑑みれば、(人の目には)偶然に映ることもありえなくはない。
“目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された”
― 新約 「コリントの信徒への手紙1」 2:9 (新共同訳) 9〜10世紀イスラムのアシュアリー神学では、あらゆる時間性や因果性が断ち切られ、
毎瞬間、毎瞬間、世界は新しく創造されるという。
アラビア語には、未来のことを言う時に付け足す「インシャ・アッラー(全ては神の思し召し)」という有名な慣用表現があるが、
砂漠の過酷な環境下では、何事も人間の思い通りにはうまくいかず、先のことは神(アッラー)のみが知る、ということだとか。 “この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる。”
― カンタン・メイヤスー 『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』 (2016) >>95-96
(1)【16分解説】量子力学の世界
https://www.youtube.com/watch?v=Kh4nf9GAaBU
・ニュートン→アインシュタイン→量子力学(確率的、偶然的な世界)
(2)【量子力学】波と粒子の量子の世界。量子力学を礎を構築した学者達の軌跡。
https://www.youtube.com/watch?v=2zpaXaMqHNU
ボーアの「相補性原理」と「コペンハーゲン解釈」 >>79
“この計算でびっくりすることは、0と1によるこうした算法の中に、
中国古代の王であり賢者であった伏羲の発明した実線と破線とからなる不思議な図形が潜んでいるということである。
伏羲は四千年以上前の人物であると信じられ、中国人は彼を自分たちの帝国および諸学の創始者であるとみなしている。
彼がつくったといわれる実線・破線図形は何種類もある。しかしそれらすべてはいま述べた算法に帰着する。
しかしここではもっとも基本的といえる八卦の図だけを示す。
そして実線「―」は一つまり1、破線「- -」は零つまり0だということだけ述べておけば説明はそれで十分であろう。”
― ライプニッツ 『ライプニッツ著作集 10 中国学・地質学・普遍学』 下村寅太郎ほか 監修、工作舎 (1991) p12 今やっているのは、朝鮮哲学をやる下準備。
ドゥルーズ、デリダ、メイヤスーなどをやった上で、その先の朝鮮哲学がイメージできるかどうか。 メイヤスーからガブリエルまでの新実在論もやっておいて欲しいね。 今時の実在論に繋がるピカピカの話を、朝鮮哲学史の一体どこでやっていたのか? >>37-38、>>51-54
そのような話を賞賛している人っている? “李朝社会が後代に及ぼした弊習の中で最も大きなものは「士禍と党争」に要約できるが、
これは官人支配層内の無慈悲な権力争奪のための「内紛」であった”
― 朴正煕大統領 「わが民族の過去を反省する―李朝社会史の反省」 (『韓国学のすべて』 古田博司、小倉紀蔵編、新書館、2002、p184) “朝鮮王朝では朱子学と政治権力が密接に結びつき、朱子学の学説上の対立が政争とリンクし、多くの犠牲者が出た。”
― 『江戸の朱子学』 土田健次郎、筑摩選書 (2014) p223 “朝鮮も朱子学によって安定した面は多い。
だが朝鮮では同時に、朱子学の原理性が統治の不安定性を将来することにもなった。
それが端的に現われたのが、士林派と勲旧派の尖鋭な対立であった。”
― 『朝鮮思想全史』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2017) p139 >>38
“士林派が執権した途端、朝鮮の政界は朋党争いの泥沼に巻き込まれていった。
政敵を糾弾するかれらの個人文集は多いが、朝鮮王朝を代表する
国家的文化事業のほとんどは、勲旧派によるものである。” p292
“士林派が東人派と西人派に分かれて以来、各党派は「大同」をもって団結するよりは
「小異」を拡大して分裂に次ぐ分裂をつづけ、
お互いに論争する段階からそれが高じて、殺し合いの段階にまで悪化した。” p422
“端的にいえばこの65年間は、いちいち説明するのも煩わしいほど、
党派間の中傷や誹謗、謀略と誅戮、政治と党争の混同など、
朝鮮儒教史から切り捨ててしまいたいほどの汚辱の歴史であった” p424
― 『朝鮮儒教の二千年』 姜在彦、講談社学術文庫 (2012) >>43-44、>>46
“朝鮮の儒教社会は、李朝時代に中国の儒教が体制教学として採用され、
儒者官僚による苛酷なイデオロギー強制が、上は王から下は奴婢まで適用された”
“日本では、朱子学を朝鮮より90年早い1200年に受容したが、
徳川時代に朱子学が体制教学として幕府に採用されたという事実はない”
― 古田博司 「儒教の実践と社会改造」 (『韓国学のすべて』 古田博司、小倉紀蔵編、新書館、2002) p216 >>43-44、>>46
進研ゼミからの回答
定期テスト対策 高校地歴公民
【江戸時代〜近現代の日本思想】儒学者、国学者について
https://benesse.jp/teikitest/kou/social/ethics/k00491.html
<中江藤樹>
最初は朱子学を学んだが、外面的な規範を重視する考え方に疑問を持ち、心のこもった実践を重視する陽明学に賛同するようになった。
<山鹿素行>
はじめ朱子学を学んだが、やがてその抽象的・観念的な傾向を批判した。
そして、周公や孔子の教えに立ち戻り、後世の学者の解釈を排して学ぶべきであると主張し、古学を提唱した。
<伊藤仁斎>
はじめ朱子学を学んだが、やがてその形式的な考え方に疑問を持つようになった。
そして、『論語』こそが「最上至極宇宙第ー」の書であるとの確信に至り、儒教本来の精神を明らかにするためには『論語』『孟子』の原典を直接研究するべきだと考えて、古義学を提唱した。 こうした朱子学への反動から、本居宣長のような国学が生まれた。
それが「漢意(からごころ)」からの「大和心(やまとごころ)」。 今の韓国でも、大統領が任期を終えると訴追されたりすることを繰り返している。
こうした問題を解消するにはどのようにすべきか。
・第18代大統領、懲役22年
・第17代大統領、懲役17年
・第16代大統領、退任後に捜査を受け、投身自殺
・第13代大統領、懲役17年
・第11-12代大統領、死刑判決→無期懲役 朝鮮哲学関連
『朝鮮思想全史』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2017)
『人物でみる韓国哲学の系譜:新羅仏教から李朝実学まで』 金教斌、金明順 訳、日本評論社 (2008)
『韓国学のすべて』 古田博司、小倉紀蔵 編、新書館 (2002)
『朝鮮儒教の二千年』 姜在彦、講談社 (2012)
『朝鮮儒学の巨匠たち』 韓亨祚、春風社 (2016)
『朝鮮儒教の特質と現代韓国:李退溪・李栗谷から朴正煕まで』 邊英浩、クレイン (2010)
『朝鮮仏教史』 鎌田茂雄、講談社学術文庫 (2020)
『入門 朱子学と陽明学』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2012) ※補足
『ソウルで考えたこと:韓国の現代思想をめぐって』 尹健次、平凡社 (2003)
『韓国の西洋思想受容史:哲学的オーケストラの実現のために』 李光来、御茶の水書房 (2010)
『韓国近代哲学の成立と展開:近代、理性、主体概念を中心に』 姜栄安、世界書院 (2005)
『philosophyから「哲+學」へ』 許智香、図書出版文理閣 (2019)
『完本 高橋亨京城帝國大學講義ノート:朝鮮思想史編』 高橋亨、三人社 (2021)
『完本 高橋亨京城帝國大學講義ノート:朝鮮儒學史編』 高橋亨、三人社 (2021)
…
“栗谷は天才の評判が高い。『栗谷全集』巻頭にある坡州「花石亭」の詩を、〈略〉
小説でもあるまいに、一度に十五行しか読めないと謙遜(?)するのだ。”
― 韓亨祚 『朝鮮儒学の巨匠たち』 李退渓 『李退渓全集:日本刻版』 阿部吉雄 編、李退渓研究会 (1975)
李退渓 『自省録 (東洋文庫;864)』 難波征男 校注、平凡社 (2015)
李栗谷 『国訳栗谷性理学全書 (韓国古典国訳叢書 ; 第2輯)』 韓国古典国訳委員会 訳註、高麗大学校出版部 (1961)
李退渓(1000ウォン紙幣)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/1000_won_serieIII_obverse.jpeg
李栗谷(5000ウォン紙幣)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bb/5000_won_serieV_obverse.jpeg >>26
朝鮮王朝時代の儒学を、主理派と主気派に分けて整理をすることを提起したのは高橋亨らしい >>117
「尊王攘夷」という言葉も、儒学の理想に由来する言葉。
江戸幕府が官学として導入した朱子学の作用と反作用が、かえってその後の王政復古を導いた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています