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なぜ何もないではなく、何かがあるのか、について
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0001考える名無しさん
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2021/05/06(木) 03:02:31.490
どんなに科学が発展しようと答えが出せる気がしないのは皆同じ
そこで、なぜあるのかという疑問への「答えは存在するのかしないのか」だけを考えてみたい

・人間が辿り着くことはないが、理解可能な答えがある
・人間が辿り着くことはないし、理解も出来ないが、答えがある
・人間は辿り着くことができるが、人間の理解を超えている
・人間は辿り着くことができて、人間の感覚で理解することができる
・答えはない

どう想像する?
0005考える名無しさん
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2021/05/06(木) 10:32:41.310
なぜ7巻でセリ―ちゃんと致すのか。
0007考える名無しさん
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2021/05/06(木) 10:45:47.660
約束するとは、言質を与える("give one's word for it")ことである。
0008考える名無しさん
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2021/05/06(木) 11:58:32.300
「何もないではなく、何かがある」ことが真理であるとするなら、
そのことを請け合うことができなければならない。
0009考える名無しさん
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2021/05/06(木) 14:00:25.470
君らがハマってる本格的な哲学ではないからいいんだよ
人間の感覚ではどうしても始まりがあるのが前提になるけど、始まりはなく存在するのが宇宙であると何らかの方法で結論付けられれば、それが一つの答えになる
そういう今は見えてないところに人類が到達できる可能性があるかどうかだけでも考えたくなる
0010考える名無しさん
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2021/05/06(木) 14:13:09.600
この世界がマトリックスみたいに嘘の世界でも、とにかく本当の世界があるわけで、とにかく世界がある。「とにかく世界があるように見えるだけ、とにかく私か存在しているように見えるだけ」
でもとにかく見えたものは""在った""わけで何かが存在している
けどそれを語る言葉はあるのだろうか?
0011考える名無しさん
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2021/05/06(木) 14:15:59.100
言葉で語ったらそれは伝わってないと思う
0013考える名無しさん
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2021/05/07(金) 02:12:34.920
正直認識論の「見えていると思っている世界は偽物」系統の話って物質よりも本質を説いてた時代のその時代ゆえの産物と言っていいくらいだと思うんだが
本質は人間が与えるもので世界それ自体は本質を持っていない、である程度決着がつく話だし
重要なのは「偽の世界が存在すること」じゃなくて「世界は存在するが俺らはその世界を見ていない」ってことの方やろ
自分で世界が実在するって前提を投げ捨ててちゃそらその後の議論はSFにしかならんて
数学だって1が1であることを証明できねーんだから哲学だってどっかで認めなきゃならない前提は出てくるでしょ
まあこれって結局人の生は世界に対して「いきなり始まる」し、だから知識に「限界がある」ってとこに戻ってくるんだが
0014考える名無しさん
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2021/05/07(金) 03:10:03.950
人の観測による「存在する」ではない
ただ存在する自然(じねん)としての「存在」
人間が関連付けでしか思考できない以上はこういう意味付け自体を拒否する概念は
名前が付くことはあってもまともに何か語ることは不可能だろう
あるものが意味も訳もなく存在するならその話はそこで終わってしまう
まだ科学や宗教や哲学から人間の主観を排除するってやり方の方がまともなアプローチじゃないか
この場合は存在論や宇宙論から人間本位の解釈を排除する、ってとこかね
宇宙は何かの燃えカスが冷えて固まったものであり、世界は観測者の有無を無視して存在する
やっぱりこれより広げるのは難しそうだな
0015考える名無しさん
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2021/05/07(金) 08:28:52.920
そうだと思った、というだけではなんの真実でもない
そう思ったら、やっぱりそうだった、または
そう言ったら、そのとおりだった、ということで初めて真実が現れる
約束する場合と同様に、真実を言おうとする場合にも誓うことが求められるように、
真実を言うとは、言うことが言ったとおりであることが保証されるという約束である
では、それは誰による保証なのか、その約束は誰と交わされるものなのか
0016交換可能性としての分有、あるいは第三者
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2021/05/07(金) 09:38:12.170
どのようにも表明されない真実(何かをそう呼んだとして)は、
真実性を有し得ない。
表明される真実は、本来的に誓いと結び付いている。
では、それが、自らが敬うもの(それが「神」であれ、
祖先であれ)に誓うということではない場合、
真実を表明することの真実性は、誰によって、何によって保証されるのか。
誓いに反した場合にその敬うものによって罰が下されるという前提が
成立しなくなった状況において、その敬うものの代わりに、
それが担ってきた役割を果たすのは何か。
0017考える名無しさん
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2021/05/07(金) 10:00:50.590
前提として人間は真実を言うことはできないんだから
人が人に対して誓っとるだけやぞ
0018考える名無しさん
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2021/05/07(金) 10:53:33.410
では、何かを告げる行為は、その何かが嘘でないことを前提としているのだから、
わざわざ「これから真実を告げる」と相手に誓う必要はないはずでしょう。
0019考える名無しさん
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2021/05/07(金) 13:29:10.000
カラスが鳴くとき、カラスは明らかに何かを表明しているが、
誰に何を表明しているのか。その表明していることは真実なのか。
それが虚偽である可能性はあるのか。
0020考える名無しさん
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2021/05/07(金) 22:12:04.090
私は鳥の生態については何も知らないが、鳥が集団を形成して
鳴き声で合図をすることによって互いに協力関係を成立させている
のであれば、それぞれが虚偽の合図を頻繁に出したとすれば、
協力関係はすぐに崩れてしまうだろう。例えば、ある個体が
餌がある場所を見つけたとき、それを独り占めにするために、
危険が迫っているわけでもないのに警戒の鳴き声を出したと
すれば、餌を独占する代わりに、危険に対する警戒態勢に
関しても孤立してしまうことになる。であるとするなら、
協力関係が成立している限り、それぞれが出す合図は、
虚偽である場合よりは、何らかの真実を反映している場合の
方が多いはずである。
0021科学的な真理
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2021/05/07(金) 22:29:50.680
ところで、古来より鳥は吉兆を知らせるものとされることが多い。
単に姿を見せることであれ、偶然の鳥の振舞いが何か神的な存在からの
「お告げ」として解釈され、人の集団的の行動の指針とされたりする
わけだが、その「お告げ」は、神託のようなものなのだから、
神的な存在が人に虚偽を知らせるはずがなく、その「お告げ」に
従った結果、行動が大失敗に終わったなら、「お告げ」が虚偽であった
のではなく、その解釈が間違っていたとされ、その解釈をした者が
責めを負うことになるはずである。つまり、「お告げ」に従った
結果がどうであれ、「神的な存在」が人々に知らせる「真実」の真実性に
対する信頼が揺らぐことはない。
0022考える名無しさん
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2021/05/07(金) 22:34:33.950
さて、「科学的な権威」とされるものが人々に告げることは、
人々に対してどのような関係にあるのか。
0023考える名無しさん
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2021/05/08(土) 08:43:52.150
真実を言うとは、現実を、その現実を「な(己/汝)」がどのように経験するのか
に忠実("truthful")であるように伝えることである。このことは、規則が
どのように与えられているのかという現実の場合でも変わらない。
0024"philoaisthesis"としての自己/現実
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2021/05/08(土) 09:08:37.690
日本語で「哲学」と呼ばれる"philosopy"は、ギリシア語の"φιλοσοφία"に
由来し、"φίλος"は、「〜を愛する/友である」ことを意味するように
用いられるが、この"φίλος"は、現代の多くの日本語の表現にも流用
されて残っている日本語の古語の「な(己/汝)」(中国語の「羅」の流用)
に対応することを私は指摘した。

ここで、"philosopy"になぞらえて勝手な造語により表現するなら、
真実を識るとは、な(己/汝)が経験する現実を「フィロアイステーシス/
"philoaisthesis"」として、つまり、な(己/汝)の感覚として探求することだろう。
このことは、「真実を識る」という取り組みを、伝統的な学問分野としての
「美学」に引き渡すことを意味するわけではない。哲学が真実を探求する
ものであるなら、哲学の探索の歩みはそのような性質のものとなるだろう、
ということである。
0025考える名無しさん
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2021/05/08(土) 09:42:53.980
フローベールの"L'Éducation sentimentale"を読み始めた。といっても、
まだ作品自体ではなく、作品を紹介する序文を読んでいるところだが、
Pierre-Marc de Biasiという人が、作品の題名として用いられている
"sentimentale"という表現の解釈についてとても重要な議論をしている。
現実の経験を忠実に伝えるには、伝わるように表現しなければならないが、
自己(な/己/汝)を探求することなしに、容易に伝わる表現を用いることは、
経験を忠実に伝えようとすることに反する。

>>On ne devient pas créateur en tuant en soi le sentiment, mais
au contraire en détruisant les processus qui conduisent intérieurement
à n'en connaître que la parodie, sous cette forme dégradée qui
est celle de la sentimentalité. Le simulacre, la verbosité sentimentale,
les stéréotypies du sentimentalisme font obstacle à la représentation
du véritable sentiment qui est l'objet même de l'art, le matériau et
le médium à travers lesquels l'artiste peut communiquer avec les
autres, ses contemporains, et, au-delà même de son temps,
transmettre un message esthétique recevable par les générations
à venir.<< p.16
0026考える名無しさん
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2021/05/08(土) 10:19:28.060
フローベール自らが、《une triple règle d'écriture》として
《l'impersonnalité, la relativité généralisée des points de vue,
et le refus de conclure》(p.17)を挙げているとしても、そのことを、
「主観」を脱する「客観性」というような用語法でとらえるなら、
凡庸な科学的客観主義の枠組みに再び回収されてしまうこと
になるだろう。実際、Pierre-Marc de Biasiの議論における「用語法」も、
従来の「自/他」、「主観/客観」の枠組みを抜け切れていない。
しかし、ここで重要なのは、フローベールのそのような記述の方針が、
自己を非人称の第三者性に解消することではなく、自己(な/己/汝)を
探求して、現実を忠実に伝えることに向けられていることである。
0027考える名無しさん
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2021/05/08(土) 10:19:37.340
>>18
現実として人間はいくらでも嘘をつくし、
その関係で嘘ではないと誓う行為も死ぬほどあるんだけど
0028考える名無しさん
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2021/05/08(土) 10:24:08.610
で?
0029考える名無しさん
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2021/05/09(日) 08:05:42.670
>>25-26
まだ序文を読み終えただけで作品を読み始めてもいないが、序文の議論は、
これは何について書かれた作品なのか、"L'Éducation sentimentale"という
題名はどのような意図を反映していて、それを日本語で伝えようとするなら
どのような表現となるのかといった疑問を生じさせる。この作品の題名は、
通常、『感情教育』とされているが、序文で議論されているとおり、
フランス語の題名がフランス語を母語とする人々にとってすら解釈の
定まらないものであるとすれば、日本語の題名は、解釈不明なものと
なっていると言わざるを得ないだろう。作品を読み始めれば、またすぐに
考えが変わるかもしれないが、いまのところ、序文の議論からは今のところ、
この作品は、『心のなら(習/倣)ひのを(教)しえ』について書かれた本では
ないかと予期している。
0030考える名無しさん
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2021/05/09(日) 08:11:40.420
誤:『心のなら(習/倣)ひのを(教)しえ』
正:『心のなら(習/倣)ひのを(教)しへ』

現代の日本語の仮名遣ひは相当に凶悪だ。
まずはそのことを常に意識していないと、日本語で哲学をすることはできない。
0031考える名無しさん
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2021/05/09(日) 11:10:45.060
誤:いまのところ、序文の議論からは今のところ
正:序文の議論からは今のところ
0032考える名無しさん
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2021/05/09(日) 12:06:55.880
>>29
試しにドイツ語の翻訳ではどうなっているかを密林で検索してみると、
・Lehrjahre des Herzens
・Die Erziehung der Gefuehle: Geschichte eines jungen Mannes - Lehrjahre des Herzens
・Lehrjahre der Maennlichkeit: Geschichte einer Jugend
・Die Erziehung des Herzens: oder auch: Die Schule der Empfindsamkeit
など、様々であり、解釈が一つに定まらないために複数の候補を題名、
副題として並べている例も少なくない。これに対して英語の翻訳における
題名は、副題が付けられているとしても、
・Sentimental Education
の一択である。ところが、序文の議論のとおり、英語からの借用語として
歴史の浅い《sentimentale》というフランス語の解釈が明確に定まる
わけではないとすれば、英語の題名は、逆説的なことに、最も大きな
翻訳上の困難を抱え込んでいることになる。

これらのドイツ語、英語の題名と比べて見るとき、まだ作品を読み始める
前の暫定的な試案に過ぎないものであるとはいえ、
《L'Éducation sentimentale》という表現を
『心のなら(習/倣)ひのを(教)しへ』と解釈することの可能な日本語は、
極めて柔軟性に富み、効率的な表現力をもつ言語であることが分かる
(ただし、その柔軟性と効率は、新仮名遣いによって大きく損なわれている)。
0036考える名無しさん
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2021/05/14(金) 10:47:48.480
"L'Éducation sentimentale"の作品そのものを読み始めた。
まだ少し読んだだけだが、この作品は『心のなら(習/倣)ひのを(教)しへ』に
ついて書かれた本ではないかという私の予想は、それなりに妥当であるように
感じられる。作品の文体は、序文の紹介どおり、作者自らの徹底した観察を
反映して、記述の密度が異様に高い。それは単に記述内容が細かいという
ことではなく、観察の「経験」そのものを記述に反映させようとしているから
である。

その記述には、作品が描こうとする時代と地域を反映して、日常的にはテレビ
ドラマや映画でしか目にすることのない衣類、乗り物、住居の内装その他、
様々な物の名称が含まれ、いちいち辞書を引くのが面倒なので、助けになる
ように日本語訳の本も図書館で借りてきた。日本語の対応する訳語が分かった
ところで、その訳語に対応する物がどのような見た目で、どのような使われ
方をするのか、必ずしも明確になるわけではないが、訳本は、懇切丁寧に
図も添えて訳されている。その丁寧さのためだろう。この翻訳は多くの
読者にとても高く評価されているようである。

しかし、である。私は、自分の読み間違いを回避するために、この
日本語訳を同時並行で読み進めようとしても、すぐに苛立ちが募って、
読み進めることができない。なぜだろうか。
0037考える名無しさん
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2021/05/14(金) 11:17:38.420
訳者のフランス語の能力も知識も、作者や作品についての知識も当然、
私とはまったく比べ物にならないほど豊富である。作品のテキストは、
日本語として分かりやすくなるように思い切った配慮がなされている
場合でも、誤訳とならないように入念に訳されているのだろう。

では、何が不満なのか。それは、日本語の訳文をいくら円滑に読めた
ところで、フローベールの文体を読んでいるという感覚が、私には
まったく得られないからだ。例えば、《vexé》が「いらだしげに」
と訳されている。無論、この訳はどこも間違ってはいない。しかし、
「いらだたしげに」と「いらだって」では、観察の「経験」の記述
としてはまるで別物である。そんな細かいことを言い出したらきりがない
と思うかもしれないが、この作品は、何について書こうとしたもの
なのか、それが問われなければならない。別の例では、
《C'était l'autre. Il n'y pensait plus.》が、「デローリエだった。
友のことはまるで頭に浮かばなかった。」と懇切丁寧に訳されている。
これは、作品の主人公が友人とともに住む自分の住居に戻ってきて、
その友人のいびきが聞こえるまで、友人と同居していることも
忘れていた状況の記述である。したがって、この訳は「情報としては」
まったくその通りである。しかし、同居人の存在として《l'autre》
に気づくことと、友人の「デローリエ」を想起することは、「経験としては」
まったく別物だろう。つまりは、いくら「情報として」円滑に読めても、
私には、何を読まされているのかさっぱり不明である、という印象が
生じるのである。
0038考える名無しさん
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2021/05/14(金) 13:41:12.880
日本語の古語の「な(己/汝)」(中国語の「羅」の流用) の用法は、ギリシア語の
"φίλος"に対応すると指摘したが、このことは、ギリシア語の"φίλος"と、
ラテン語の"fīlum"(thread)に由来すると考えられるフランス語の《fil》の
歴史言語学的な関係をどう考えるにせよ(そのような関係を否定する場合でも)、
日本語における「な」という発音の用法は、フランス語の《fil》にも対応する
と考えられる。このことから、様々な関連する表現の解釈がもたらされる。
0039考える名無しさん
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2021/05/14(金) 14:03:10.280
フランス語で《étoile filante》は、「『なが(流)れ』星」であるが、
「なが(流)す」は、日本語の表現の解釈をフランス語にそのまま移すなら
《laisser 〜 filer》であり、「なが(長)さ」は、「なが(流)れ」/《filant》
の様態に沿った《prolongement》であると言うことができる。

フランス語の《étoile filante》に対応する英語の表現が"shooting star"
であることからも類推されるように、「な(投)げる」もやはり、
「なが(流)れ」/《filant》の様態に沿った《prolonger》という動作に
対応すると考えられる。すると、「『なが(流)れ』星」が尾を引いて光る
とき、それが星の「なごり」であるように、「なごり」は、
《ce qui est prolongé》であることになり、ここで、「なご」は、
ちょうど《prolongé》という分詞形に対応する。このことは、例えば、
「の(除)く」⇒「のこ(残)り」、「よ(避)く」⇒「よこ(横)」、
「む(向)く」⇒「むこ(婿)」などと比較してみれば、明らかとなる。
0040考える名無しさん
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2021/05/14(金) 14:28:00.740
では、「なほ(直)る」や「なほ(直)す」の場合は、どうだろうか。
「の(除)く」⇒「のこ(残)り」の例の場合と同様に考えるなら、
「な●」⇒「なほ(直)す」という関係において、●に対応するのは、
「ふ」であると推測され、「なふ」という答えが導かれる。
ところが、「な(綯)ふ」も、それに関連する「なは(縄)」も、
さらには、「なへ(苗)」も、「なほ(直)る」や「なほ(直)す」の
「なほ」とは何の関係もないように見える。

しかし、実は、ここにこそ、中国語の表現としての「複/覆」を
ピジン言語として流用した日本語の「ふ」の用法の融通無碍な自在さが
発揮されているのである。このことは、この場合も「な」にフランス語
の《fil》が対応するものと想定して、フランス語をメタ言語として
用いて考えてみればすぐに分かる。「なほ(直)す」の日本語の表現
としての解釈をそのままフランス語に移すなら、《laisser 〜 effilé》
ということになり、《effilé》に対応するのが「なほ」であり、
この場合、《effiler》は、「糸をほぐす」ことを意味する。
0041考える名無しさん
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2021/05/14(金) 14:48:46.540
中国語の表現としての「複/覆」を流用する日本語の「ふ」の用法が、
メタ言語的であることは、これまで何度も指摘してきた。「ふ」が表して
いるのは、それが付加される表現の作用/動作/様態を「ひっくり返す」
という指示であり、その「ひっくり返し」がどのように行われるべきか
は、解釈次第なのである。したがって、「な(綯)ふ」の場合には、
「ふ」によって「な」≒《entrelacer》の相互性や反復が指示されて
いると考えられ、「なへ(苗)」の場合にも、相互性が指示されていると
考えられるが、「なほ(直)す」の場合には、《entrelacer》の動作が
ひっくり返される、つまり、「なほ」の形に対応するように
フランス語の表現を造語するなら、「なほ」≒《dé-enrelacé》
ということになり、「なほ(直)す」≒《laisser 〜 effilé》という表現
となるのである。
0042考える名無しさん
垢版 |
2021/05/14(金) 14:52:32.940
誤:「なほ」≒《dé-enrelacé》
正:「なほ」≒《dé-entrelacé》
0043考える名無しさん
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2021/05/14(金) 15:24:26.370
ところで、通常、「なほ(直)す」に対応するとされるフランス語の表現は、
《corriger》であるが、話しているときに自らの言い間違いを「なほ(直)す」
必要があるときに使われる表現として、「もと(元)い」というのがある。
これは、どのような表現だろうか。「元い」を検索してみると、
以下のように記載されている。

https://kotobank.jp/word/元い-645998
[感]「元へ」に同じ。
https://kotobank.jp/word/元へ-646079
もと‐へ【元へ】
[感]《旧軍隊用語》
1 体操などで、もとの姿勢にもどることを命令する語。もとい。
2 言いまちがえて訂正するときに発する語。もとい。

しかし、この説明は奇妙ではないだろうか。自分の言い誤りを訂正する場合、
「もとい」は、「自らの発言を訂正します」、つまり、《se corrigeant》
という相手に対する合図であり、体操などで使われる「もとへ」は、
「なほ(直)れ」と同様に、集団に対する命令、すなわち、《corrigez-vous》
という号令である。すると、「もと・へ」の「へ」をどう考えるにせよ、
「もとい」は、実は、「もとひ」であり、ちょうど、《se corrigeant》
に対応する、「ふ」を利用して「自らをもとに戻して」を意味する再帰表現
であることになるだろう。
0044考える名無しさん
垢版 |
2021/05/14(金) 15:29:57.400
したがって、「もとひ」を「もとへ」と同一であるとする(私に言わせれば
誤った)解釈は、合図の言葉を、号令と同じであると理解すべきであると
していることになり、そのような同一視を可能にしているのは、再帰表現
の無視である。これは偶然だろうか。
0045考える名無しさん
垢版 |
2021/05/14(金) 15:57:55.380
日本語の語源的な解釈においては、再帰表現を認めることは徹底的に
忌避されている。文法的に再帰表現を特に認めていない以上、語源
解釈においてもそれを認める必要はない、ということにも思える。
しかし、奇妙なことに、明白に文法的に再帰表現の用いられている
印欧諸語の場合でも、語源解釈においては、再帰表現を認めることは
意図的に避けられているという印象を強く受ける。

このことは、言葉の表現が本来的に合図として用いられることを考える
なら、重大である。”sign”が、日本語にされるときに、しばしば、「合図」
ではなく、「記号」とされること自体が既に、「相互性の否認」として作用
しており、この「合図」⇒「記号」への言い換えはまず間違いなく意図的
である。さらに、「合図」の表現における再帰性が否認されるなら、
「もとひ」/《se corrigeang》を「もとへ」/《corrigez-vous》と同一視
するように指示される場合と同様に、「合図」を受けた相手は、それを
「号令」として解釈すべきことが既定とされることになる。その結果、
もたらされるのは、伝える行為の一方向化である。
0046考える名無しさん
垢版 |
2021/05/14(金) 17:10:03.620
Vademecum – Vadetecum

Es lockt dich meine Art und Sprach,
Du folgest mir, du gehst mir nach?
Geh nur dir selber treulich nach: –
So folgst du mir – gemach! gemach!

Friedrich Nietzsche: Werke in drei Bänden. München 1954, Band 2, S. 18.
http://www.zeno.org/nid/20009249915

>手引き(われと共に歩め ― 汝と共に歩め)
私の流儀と言葉に おびきよせられて
君は私に従うのか、私について来るのか?
ひたむきに忠実に君自身について行きたまえ ―
そしてこそ君は私に従うのだ ― 落ち着いて!落ち着いて!<

『ニーチェ全集8 悦ばしき知識』、信太正三訳、pp.23-24
0047考える名無しさん
垢版 |
2021/05/15(土) 01:23:01.880
誤:「もとひ」/《se corrigeang》
正:「もとひ」/《se corrigeant》
0049みづから(身づ柄/自ら)に素直(すなほ)であるとはどのようなことか
垢版 |
2021/05/15(土) 08:10:51.880
このように見てくると、日本語で考えるなら、ニーチェの最も基本的な
「をし(教)へ」は、「みづから(身づ柄/自ら)に素直(すなほ)であれ」
というとても簡単なものであることが分かる。その「をし(教)へ」が、
何かとても複雑で難解であるように見えるとすれば、それは、親に
よるものであれ、学校によるものであれ、制度的な宗教組織による
ものであれ、世の中で一般に「をし(教)へ」とされているものが、
「素直(すなほ)」であるとは、宣告/詔(みことのり)、すなわち、
「みこと(御言/命)」として告げられることに「穏やかに」/《gemach》
従ふことであると、暗黙に認識させようとしているからである。

与えられる「拘束服」/"straitjacket"を普段からおとなしく身につけている
ことが自然な状態であると認識するように教育によって感覚を矯正されるなら、
それを脱いだ状態が極めて不自然で、特別な解釈を必要とするものであると
感じられるようになるだろう。
0050倒錯した人文学のをし(教)へとは
垢版 |
2021/05/15(土) 08:17:50.940
教育によってそのように「素直(すなほ)」となるように矯正されると、
辞書や文法書を参照しただけでも、そこに「みこと(御言/命)」が告げられ
ていると認識するようになるのである。
0051考える名無しさん
垢版 |
2021/05/15(土) 09:02:20.460
>>25
>la représentation du véritable sentiment qui est l'objet même de l'art,
le matériau et le médium à travers lesquels l'artiste peut communiquer
avec les autres, [...]

フローベールの"L'Éducation sentimentale"のような作品を読むことの「効用」
は、記述を観察の経験として読むように自然に導かれることであり、そのような
「をし(教)へ」に導かれるなら、辞書や文法書などを参照するときにでも、
そこに書かれていることを、宣告/詔(みことのり)などとしてではなく、
それまでに蓄積された何らかの観察の経験を記述した「素材」と認識するように
なることだろう。
0052考える名無しさん
垢版 |
2021/05/15(土) 14:10:38.150
« l’autorité de la chose jugée n’a lieu qu’à l’égard de ce qui
a fait l’objet du jugement. Il faut que la chose demandée soit
la même ; que la demande soit fondée sur la même cause ;
que la demande soit entre les mêmes parties, et formée par elles
et contre elles en la même qualité »
L'article 1355 du Code civil (art. 1351 anc.)

G. Flaubert, 《L'Éducation sentimentale》, Le Livre de Poche, p.124(脚注)
0053考える名無しさん
垢版 |
2021/05/16(日) 09:23:57.640
註釈をしているPierre-Marc de Biasiは、この法文を、フローベール自らの
考えを示唆するものとして引用している。

>On peut aussi y voir une réflexion indirecte sur la théorie flaubertienne
de l'mpossibilité de conclure et de géneraliser<
G. Flaubert, 《L'Éducation sentimentale》, p.124(脚注)

そうであるとすれば、さらに面白いのは、この法典を引き合いに出す直前に
フローベールの原文が《la tierce opposition》に言及していることである。
>Il s'agissait de la tierce opposition.
G. Flaubert, 《L'Éducation sentimentale》, p.124

《Tierce-opposition》についての説明を辞書から引用する。
https://www.dictionnaire-juridique.com/definition/tierce-opposition.php
Si des personnes n'ont pas été parties à la procédure ou qu'elles
n'y ont pas été représentées, alors qu'elles avaient intérêt à y défendre
leurs droits, elles peuvent alors faire à nouveau juger les dispositions
du jugement qui leur font grief en introduisant une procédure dite
" tierce-opposition ".

ここから分かるのは、フローベール自らが、解釈の判断について、「主観」と
「客観」の対比などによってではなく、「当事者」、「第三者」という捉え方で
考えていただろうということである。
0054考える名無しさん
垢版 |
2021/05/18(火) 10:22:21.840
>>46
この日本語訳は、最後の「落ち着いて!落ち着いて!」という訳だけが
とても残念なものになっている。「(慌てずに)ゆっくりと!」に
対応する《gemach!》 を「落ち着いて!」とするのは不適切だろう。
「落ち着いて!」というのは、相手をたしなめる表現であり、
宥める表現ではない。例えば、英国のテレビドラマを観ていても、
何か大変なことをが起きて気が動転している相手に"Calm down!"など
と言ったりはしない。代わりに「まあお茶でもどうぞ」と言うのは
見慣れた場面だろう。物を一緒に運ぶときに角をぶつけないように
する場合でも同じだ。「落ち着いて!」などと言ったら、相手は
かえって動きが固まってしまう。「ゆっくり、ゆっくり」と言うのである。
0055考える名無しさん
垢版 |
2021/05/18(火) 10:58:11.360
《Geh nur dir selber treulich nach》を「みづから(身づ柄/自ら)に
素直(すなほ)であれ」という「をし(教)へ(≒呼びかけの声による導き)」として
解釈したが、「みづから(身づ柄/自ら)に素直(すなほ)である」とは、
「みづから(身づ柄/自ら)と折り合いをつける」ことでもあり、
「みづから(身づ柄/自ら)に出来ることをしようとする」ことでもあるだろう。
《Du folgest mir, du gehst mir nach?》の《folgen》という動詞は、
「したが(従)ふ」という意味では、語源的には、「曲がる」ことを表現して
いたとも考えられている。

https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/fulgā;ną
>Alternatively, may be derived from Proto-Indo-European *pelḱ-, *polḱ- (“to turn, twist, wind”)

「汝(な)」に素直に「ゆっくり/ゆったりと」「したが(従)ふ」ことがすなわち、
「己(な)」の「をし(教)へ/さそ(誘)ひ」にも「したが(従)ふ」ことになるのであれば、
「己/汝(な)」の関係は、ちょうど次のようにイメージされることになるのではないか。
https://en.wiktionary.org/wiki/糸#/media/File:糸-bronze-shang.svg
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