>>On ne devient pas créateur en tuant en soi le sentiment, mais au contraire en détruisant les processus qui conduisent intérieurement à n'en connaître que la parodie, sous cette forme dégradée qui est celle de la sentimentalité. Le simulacre, la verbosité sentimentale, les stéréotypies du sentimentalisme font obstacle à la représentation du véritable sentiment qui est l'objet même de l'art, le matériau et le médium à travers lesquels l'artiste peut communiquer avec les autres, ses contemporains, et, au-delà même de son temps, transmettre un message esthétique recevable par les générations à venir.<< p.16 0026考える名無しさん2021/05/08(土) 10:19:28.060 フローベール自らが、《une triple règle d'écriture》として 《l'impersonnalité, la relativité généralisée des points de vue, et le refus de conclure》(p.17)を挙げているとしても、そのことを、 「主観」を脱する「客観性」というような用語法でとらえるなら、 凡庸な科学的客観主義の枠組みに再び回収されてしまうこと になるだろう。実際、Pierre-Marc de Biasiの議論における「用語法」も、 従来の「自/他」、「主観/客観」の枠組みを抜け切れていない。 しかし、ここで重要なのは、フローベールのそのような記述の方針が、 自己を非人称の第三者性に解消することではなく、自己(な/己/汝)を 探求して、現実を忠実に伝えることに向けられていることである。 0027考える名無しさん2021/05/08(土) 10:19:37.340>>18 現実として人間はいくらでも嘘をつくし、 その関係で嘘ではないと誓う行為も死ぬほどあるんだけど 0028考える名無しさん2021/05/08(土) 10:24:08.610 で? 0029考える名無しさん2021/05/09(日) 08:05:42.670>>25-26 まだ序文を読み終えただけで作品を読み始めてもいないが、序文の議論は、 これは何について書かれた作品なのか、"L'Éducation sentimentale"という 題名はどのような意図を反映していて、それを日本語で伝えようとするなら どのような表現となるのかといった疑問を生じさせる。この作品の題名は、 通常、『感情教育』とされているが、序文で議論されているとおり、 フランス語の題名がフランス語を母語とする人々にとってすら解釈の 定まらないものであるとすれば、日本語の題名は、解釈不明なものと なっていると言わざるを得ないだろう。作品を読み始めれば、またすぐに 考えが変わるかもしれないが、いまのところ、序文の議論からは今のところ、 この作品は、『心のなら(習/倣)ひのを(教)しえ』について書かれた本では ないかと予期している。 0030考える名無しさん2021/05/09(日) 08:11:40.420 誤:『心のなら(習/倣)ひのを(教)しえ』 正:『心のなら(習/倣)ひのを(教)しへ』
現代の日本語の仮名遣ひは相当に凶悪だ。 まずはそのことを常に意識していないと、日本語で哲学をすることはできない。 0031考える名無しさん2021/05/09(日) 11:10:45.060 誤:いまのところ、序文の議論からは今のところ 正:序文の議論からは今のところ 0032考える名無しさん2021/05/09(日) 12:06:55.880>>29 試しにドイツ語の翻訳ではどうなっているかを密林で検索してみると、 ・Lehrjahre des Herzens ・Die Erziehung der Gefuehle: Geschichte eines jungen Mannes - Lehrjahre des Herzens ・Lehrjahre der Maennlichkeit: Geschichte einer Jugend ・Die Erziehung des Herzens: oder auch: Die Schule der Empfindsamkeit など、様々であり、解釈が一つに定まらないために複数の候補を題名、 副題として並べている例も少なくない。これに対して英語の翻訳における 題名は、副題が付けられているとしても、 ・Sentimental Education の一択である。ところが、序文の議論のとおり、英語からの借用語として 歴史の浅い《sentimentale》というフランス語の解釈が明確に定まる わけではないとすれば、英語の題名は、逆説的なことに、最も大きな 翻訳上の困難を抱え込んでいることになる。
与えられる「拘束服」/"straitjacket"を普段からおとなしく身につけている ことが自然な状態であると認識するように教育によって感覚を矯正されるなら、 それを脱いだ状態が極めて不自然で、特別な解釈を必要とするものであると 感じられるようになるだろう。 0050倒錯した人文学のをし(教)へとは2021/05/15(土) 08:17:50.940 教育によってそのように「素直(すなほ)」となるように矯正されると、 辞書や文法書を参照しただけでも、そこに「みこと(御言/命)」が告げられ ていると認識するようになるのである。 0051考える名無しさん2021/05/15(土) 09:02:20.460>>25 >la représentation du véritable sentiment qui est l'objet même de l'art, le matériau et le médium à travers lesquels l'artiste peut communiquer avec les autres, [...]
フローベールの"L'Éducation sentimentale"のような作品を読むことの「効用」 は、記述を観察の経験として読むように自然に導かれることであり、そのような 「をし(教)へ」に導かれるなら、辞書や文法書などを参照するときにでも、 そこに書かれていることを、宣告/詔(みことのり)などとしてではなく、 それまでに蓄積された何らかの観察の経験を記述した「素材」と認識するように なることだろう。 0052考える名無しさん2021/05/15(土) 14:10:38.150 « l’autorité de la chose jugée n’a lieu qu’à l’égard de ce qui a fait l’objet du jugement. Il faut que la chose demandée soit la même ; que la demande soit fondée sur la même cause ; que la demande soit entre les mêmes parties, et formée par elles et contre elles en la même qualité » L'article 1355 du Code civil (art. 1351 anc.)
G. Flaubert, 《L'Éducation sentimentale》, Le Livre de Poche, p.124(脚注) 0053考える名無しさん2021/05/16(日) 09:23:57.640 註釈をしているPierre-Marc de Biasiは、この法文を、フローベール自らの 考えを示唆するものとして引用している。
>On peut aussi y voir une réflexion indirecte sur la théorie flaubertienne de l'mpossibilité de conclure et de géneraliser< G. Flaubert, 《L'Éducation sentimentale》, p.124(脚注)
そうであるとすれば、さらに面白いのは、この法典を引き合いに出す直前に フローベールの原文が《la tierce opposition》に言及していることである。 >Il s'agissait de la tierce opposition. G. Flaubert, 《L'Éducation sentimentale》, p.124
《Tierce-opposition》についての説明を辞書から引用する。 https://www.dictionnaire-juridique.com/definition/tierce-opposition.php Si des personnes n'ont pas été parties à la procédure ou qu'elles n'y ont pas été représentées, alors qu'elles avaient intérêt à y défendre leurs droits, elles peuvent alors faire à nouveau juger les dispositions du jugement qui leur font grief en introduisant une procédure dite " tierce-opposition ".
ここから分かるのは、フローベール自らが、解釈の判断について、「主観」と 「客観」の対比などによってではなく、「当事者」、「第三者」という捉え方で 考えていただろうということである。 0054考える名無しさん2021/05/18(火) 10:22:21.840>>46 この日本語訳は、最後の「落ち着いて!落ち着いて!」という訳だけが とても残念なものになっている。「(慌てずに)ゆっくりと!」に 対応する《gemach!》 を「落ち着いて!」とするのは不適切だろう。 「落ち着いて!」というのは、相手をたしなめる表現であり、 宥める表現ではない。例えば、英国のテレビドラマを観ていても、 何か大変なことをが起きて気が動転している相手に"Calm down!"など と言ったりはしない。代わりに「まあお茶でもどうぞ」と言うのは 見慣れた場面だろう。物を一緒に運ぶときに角をぶつけないように する場合でも同じだ。「落ち着いて!」などと言ったら、相手は かえって動きが固まってしまう。「ゆっくり、ゆっくり」と言うのである。 0055考える名無しさん2021/05/18(火) 10:58:11.360 《Geh nur dir selber treulich nach》を「みづから(身づ柄/自ら)に 素直(すなほ)であれ」という「をし(教)へ(≒呼びかけの声による導き)」として 解釈したが、「みづから(身づ柄/自ら)に素直(すなほ)である」とは、 「みづから(身づ柄/自ら)と折り合いをつける」ことでもあり、 「みづから(身づ柄/自ら)に出来ることをしようとする」ことでもあるだろう。 《Du folgest mir, du gehst mir nach?》の《folgen》という動詞は、 「したが(従)ふ」という意味では、語源的には、「曲がる」ことを表現して いたとも考えられている。