意識のハードプロブレムの答え11
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1の考え。
客観はある種の主観である。
脳は机の上の本のようにある客体である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。
意識のハードプロブレムの答え10
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1622714964/ >>1
>そして、他者の意識は存在しない。
>仮に存在すれば、それは主体の意識の内側である。
私が知覚する<赤>という表象は、
あなたが知覚する<赤>という表象とは異なるだろうか?
またそれは、1つ2つと数えることが出来るだろうか?
もし仮に、<赤>という表象があなたと私で異ならなかった場合、
それははなから同一のものであるとは考えられないだろうか?
つまり、感情や感覚において、独在論的に自身が存在するのではなく、汎神論的に他者と自身の感情や感覚は偏在する。
そして、極端な理想化をやめてしまうなら、
もともと自身と全く同じ存在が他者であるならば、理解する必要はなく(なぜなら初めからすべて理解しているからだ)、
他者と自身は微妙に異なっているがゆえに、はじめて他者を理解することができるのではないだろうか? >>2
私は、他者の意識は主体の意識の幻影(模倣)であると考えます。
言い換えるとそれは、他者の意識は存在しないということです。 >>1
「脳は机の上の本のようにある客体である。」という主張はどのような意味があって書かれたのでしょう?ちょっと気になりましたもので・・・ >>4
机の上にある本は身体の延長であるということを暗に示している……かもしれません。 下げ忘ました…… スレッド10から使用して頂ければと思います。 >>6
訂正します。
新たにやってきた人であれば、こちらのスレッドでもいいです。 1の考え(追記)。
脳神経系は意識にドライブされる。
視覚等の感覚の受動的な機構は、合理的に受動的である。
クオリアは感覚を意識することであり、能動性と受動性の両方の側面を持つ。 意識がもし慣性力のようなものだとしたら、
つまり、電車が減速するときに感じる見せかけの力のようなものだとしたら、
主観とは、そのものに加わる、何かを加速させたり減速させたりする力だとしたら、
客観とは、全く動いていない、どの力学系にも属さない場所にあるのではないか
客観というものに紐づけられた物理学的対象が静止している系であることは、何によって担保され得るのか なにによって担保されているのかはわからないが、
担保しているのは主観である。
主観に聞かないとわからない。
ま、細かいことを除けば、「主観」によって担保されている。
それゆえに前スレでの某大学のアレは論文に不備、あるいは弱いところがある。
(その不備、あるいは弱いところを解消できればよいのであって、間違いだとするのは早計)
主観も客観化されねばならない。無限を含むと、そこに不完全性があらわれる。
主観と客観のゲームは終わらない。それを(弱く)一般化した(しそこねた?)のが言語ゲーム。 >>11
ただし、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」はゲーデルの「不完全性定理」への答えである、というわたしの「主観」による見解なわけでw これは文学理論(受容理論系)と同じで、わたしの見解としては、
「誤読」以外の正統な読み方は「ない」のだ。 たくさんの人間が誤読に誤読を積み重ねては誤読しあって、
収束の方向がみえたら、めんどくさいのでソレでいいじゃね、
というのが「客観」であるw 太陽系があって、銀河系があって、銀河団があって、宇宙大規模構造があって、
そのすべての系が絡んだ系、メカニクス(力学)の上で、地上の物体は運動しているわけで、
例えば、赤という表象も、ピカイアという脊椎動物の祖先が目を持って、原始的な魚から、両生類、哺乳類と進化して、
その遺伝子と蓄積された経験からなる悟性によって、
眼前に表象されているわけで、 自分の意識、自分の主観というのは、
おおよそ計り知れない土台の上にほんの少しだけ顔を出した氷山の一角にすぎなくて、
つまり、
・地上の物体における慣性力は、属している全ての力学系の複合から力を現に受けることと、
・生物の高度に構造化した主観(脊髄から中脳、海馬、大脳辺縁系、大脳と構造化したメカニクス)が、その祖先(あるいは原子まで遡るかもしれない)のすべてに由来すること、
これらの間にアナロジーを見出したということ アナロジーがある、とも言ってもいい
対して、客観とは、あらゆる錯覚を排していった先にあるものだと思っていた
それは、進化の過程で獲得した悟性を疑うということだ
つまり、原始にこそ客観があると、
エーテルのような場、絶対静止系があるとすれば、
それは時間を遡った過去、宇宙創生の瞬間にあると考えていた
それは一つに正しいかもしれない、わからない
しかし、もう一つ客観が存在するとするならば、
未来、進化した先にある 連関しているんだ、この世界は、
この世界の表象と、この世界の事象は、
ただそれらを紐づけるものが、鍵と鍵穴が、 >>14
概ね同意です。しかし、1人でも客観は構成可能かもしれません。
>>17
宇宙人の科学があれば、地球人のそれと同じであると誤読(?)しました。
私は、基本的には賛成します。
色等についての心理学は異なり得ると思いますが、
様々な波長の電磁波の存在することは普遍的であるように思います。 >>19
しかし、とんでもない誤読ですね。
誤読を肯定していいのかな……
その先に収束があればいいのですが。 >>17
冗談はさておき、可能な限り錯覚を排した主観はあり得ると思います。 >>21
主観は客観に接近することはあっても、
到達はし得ないものだということにはならないでしょうか。
私は、客観の大きな特性の1つは反復性(再現性)だと思います。 主観である以上、主観のみる客観は主観的客観であって、
反復性すらも主観的フィルターがかかっている。主観からは逃れられないw
主観が(主観的)客観に到達すると、離人症っぽい感じ。 前スレ944、988への書き込みになります
脳と意識の物心二元論者が意識の難しい問題を提起すること自体間違いだとか
1÷0のような擬似問題ということになるでしょうか?
個人的には消去法で心理的にしっくりとする考え方のほうが納得しやすいか
物心二元論的に考えたほうが理解しやすいかくらいの違いじゃないと思っています
意識を獲得するというのはどういうことで、類人猿に意識はあるのか?
人間が用いるところの「意識はあるか」は、広義には睡眠、気絶をしていない動物全般を指しても通用しそうです
上の線引きであれば何かを考えられれば言葉を使っていなくても意識があるに含まれそうですが
意図的に考えるという認識が伴っていないければ無意識でしょうから
意識のハードプロブレムの答えとしては、どういったケースで意識という言葉を扱うか共有しない意識のまま
意識と言う言葉を使うのは灯台下暗しっぽくありませんか
「 彼らの意識の中でそのくらいのことがあってもことさらおかしくない気もしたのです。」
人間に言わせれば、彼らの意識の中でそのくらいのことがあってもというようには、恐らく彼らはそのくらいのことを
無意識に行っていて、この場合、この意識について思いを巡らせても意識のハードプログラムの答えの考え方に
光明が見える気がしません >>23
概ね同意です。
客観に到達した主観など幻想に過ぎないのかもしれません。 >>10
せっかくなので私もひとこと(?)述べさせていただきたいんですけど、
まず私としては「客観」はどこまで行っても幻想だというのが基本です
(間主観は有ります)。
その上で如何にしてその幻想が可能になるのかというと、
じつは私もざっくり言うと超球面さんと同じで
つまり複数の主観の共通認識的なものによるのだろうと考えます。
私は最も単純な構造の主観は生物の誕生以前からあったのではないか
と考えているのですが、
物質宇宙はそのレベルから少しずつ形成された共同幻想ということになります。
問題はそこに収束させる何たるかですが、
漠然としたイメージながらアダム・スミスの「見えざる手」に通じるもの
ではないかと私はみています。
個人的に最近覚えた言葉もあげておくと、ブロックチェーンのところで出てきた
「自立分散型」という概念にも通じているかんじがあります。
これは「力」というよりも「作用」です。
なんだか不思議な感じがするお話ですけれども
さらに面白いのはこの作用のあり方も不思議な作用によって進化している印象
を受けるということです。
あるいは私は生物の存在は確率だけでは実現されない印象を持っていますけど、
「見えざる手」はそのあたりにも関わるのではないかと模索します。
初期条件だけならランダムな営みからも成立し得るものですが
そこから先は何らかの作用によって必然性をもつのです、と思います。 >>17
私の勝手な空想ですが、私はこの世界は仮想現実だと考えています。
よって私としては>17でご指摘のアナロジーも仮想現実の中での出来事になります。
仮想現実があるということは、そのような世界を生み出す構造があるということ
であり、そしてその成立の具体的な過程があるということでもあります。
「我思う故に我あり」とか言って先ず自分の意識から世界観の構築を開始すると
認識上では宇宙や生命といったもののその全体を意識せざるを得なくなるかんじ
があります。
と言いつつもそれはたぶん有効なんですが、
しかし個人的には「世界を生み出した構造(本当の世界)」が視野に入って
いない気がするのでいまいち釈然としません
(「本当の世界」というのはプラトンで言うと「洞窟の外側」のことです)。
また、その部分がわからないから宇宙の本質や生命の成り立ちなどを充分に理解
できないのではないかとさえも思うところです。
そしてそこのところの解明こそがご指摘のアナロジーの謎の解明にもつながる
ような気がするわけです。
で、じつはその謎を解く鍵は本当は主観主義にあるのではないかと私は考えています。
方法的には既に提起されている「方法的懐疑」と「イドラの除去」とが基本で
それをたぐっていくと主観しか確信を持てなくなると思うのです。
ただ、かのスレ主は推進運動には関心がお有りのようですが
世界の構造の解明にはそれほど意欲をお持ちでない印象があります。
私がそのあたりを突っついてみても刀一本でいなされるばかりなのでございます
(本人は無意識のようですが)。
一方で個人的ながらanonymouse さんはそのあたりを視野にいれているイメージがあります。
この世界の成立過程の解明はもっと別の視点から見ておく必要がある
という発想です(その「視点」については私もよくわかりません)。
ただし私が言っていることですからそもそもあまりアテにはならないかもです。
失礼しました。 >>27
「視点」というのはたとえば一般的にはこの世界にあるものを動物植物鉱物
の三種類に分類することがありますが、
たとえば変化するものと変化しないものとか
引き合うものと離れようとするものとか
あるいはもっとまったく違う体系があり得るのではないかということです。 >>26
共同幻想論の問題として、無人島に赤子と食事を提供するマシンを置き、
赤子を養育すると、赤子は知性を持った存在に成長するだろう
ということがあると思います。勿論、仮説です。 >>29
客観的思考のできる存在になるだろうということです。 >>30
それゆえに、客観は1人でも構成できるだろうと思います。 では、隣家との境界は客観的に存在するのですか?
無政府状態になったとたんに消えてしまう境界が
客観的に存在するのですか? 銀行預金の資産価値にしても同じことです。
資産価値は客観的に存在するのでしょうか?
政府が破綻したとたんに価値がゼロになってしまうような
資産の価値が、どのように客観的に存在していると言えるのでしょうか? 客観はなにものかに担保されているが、
最終的には、結局のところ、主観が担保している。
それが主観的客観。
非主観的に客観が体系内に存在してしまうという症状は...統合...
(一般)不完全性定理の世界。
とすれば、「主観」は体系外にある?
であれば、そのようなものが「意識」?
てことは、人工主観を作成して検討するのがよさそう。 我供儀になり我は無かった。
(悪霊の)激しいことは激しいのが来る。 >>27
「世界の構造の解明」は神学的だと思います。
それゆえに沈黙しているのではないでしょうか。 >>36
ところで「沈黙すべし」って沈黙すべきだと思いませんか? 被害者意識はなく有限の命を更新しながら有罪で綴っています。命もらえる。 死刑や極刑ですらね。まあそんなのにはハマらんさ駆け引き策略。 >>37
ソースが藤子不二雄のマンガなのでどこまでアテになるのかは不明ですけど
ある作品に「昔はひときれのパンのために悪魔に魂を売るものもいた」
というものがありました。
実際パンというのはそれを得るために魂と引き換えにする価値があるものですが
私はとにかく悪魔に魂を売ってでも答えを知りたい
というほどではありませんが最後は地獄に落ちるのだろうとは思っています。
これは冗談ではなくて本当にそう思っています。
ていうくわ、既に地獄です。 >>41
ただ、神の言いなりになっていては神の計画通り人類は滅びます。
生きながらえるためには神を乗り越える必要があります。
しかも失敗したら即人類滅亡の可能性さえありますが
ただし時計さんの神とはまた違った神であろうとは思います。 重力で地球に縛られるってある意味地獄かもしれません。
言葉遊びですが。 >>42
私は人類社会に貢献しようと思って探究しているわけではありません。
個人的なほとんどビョーキのレベルです。
ただ、そういう流れをつくっている「見えざる手」はあると思っています。 43は41宛てです。
>>42
キリスト教ですか?
最近、近所の教会の日曜礼拝に何度か行っています。
聖書の解説は面白い時はあります。
しかし、眠ってしまうこともあったり。
黙示録とかやってくれたら面白いのだけれども。 >>45
実
じつは単純に自然の摂理のことです。
私はキリスト教自体についてはあまり興味はありません。
ただ、いつか教会の関係者的な方が寄せてくださったコメントで、
信者の多くは神様は心の中に存在しているとお考えのようです
というのが印象に残っています。
すごい本質を突いている気がするのです。 >>24
>物心二元論者が意識の難しい問題を提起すること自体間違い
誤読というのは実はそれ以外に選択肢がないため結果として誤読せざるを得ない
ということがあるにしても、これは誤解です。
ていうか今自分で前スレ944を読み返してみるとなんだか支離滅裂ですから
責任はこっちにあるのでその点はお詫びいたします。失礼しました。
私が言いたかったのは、実体のあり様について二元論の立場を取れば
むしろハードプロブレムは回避できないということです。
このことは裏を返すと二元論の立場を取らなければハードプロブレムは生じない
たとえば唯物論や唯心論や唯我論にハードプロブレムは無いということです。
で、たとえば私に関して言えば私は唯心論の立場をとるため
その問題は問題として成立していない、つまり擬似問題となります。
もちろん断言できることではありませんからあくまでも問題提起に過ぎないものです。
真相ははっきり言って永久に確定はしないでしょうから
もはや言いたい放題になっています。 >>47の補足?
ところで「意識のハードプロブレムの答え」というそのもの(答え)について
>>1と>>9とを読んでも率直に言ってわかりにくい気もしますから
僭越ながら私なりに解説させていただきますと(そこで私も便乗しますが)
いわゆる脳の方こそが心によって生み出されたものという考え方をしておくと
これによってその問題をそもそも回避出来るというかんじです。
一般的なハードプロブレムでは脳が如何にして心を生むのかを問題にしている
ようなかんじがありますが実際にはその逆で、
心が脳を生み出しているのではないかということです。
ここでポイントになるのは脳はいわゆる物質ではないのではないか
(これはあくまでも「いわゆる」です)、
ちなみに私の考えではそれはある種の幻想にあたることになります。
これは心がホログラムの原盤的なものとして機能し
何らかのメカニズムによって意識の外部等に物質を投影する的なことではなく
カント的な物自体は本来は物質としては存在していない(つまり幻想)
という考え方です(あくまでも物質としての脳は存在しないということです)。
ただし、それでは脳というのは本当は何なのかというところで
じつは時計さんと私とでは考えが異なることになります。
具体的には今まで折りに触れ意見交換をしてきた気もしますけど
しかし「1」から読み返せというのは流石にコクですから
もし興味をお持ち頂いたようでしたらそれぞれにご質問いただければと思います。
時計さんも快諾してくださるはずです、たぶん
(というか私ももう少し具体的にうかがってみたい)。
以上が意識のハードプロブレムの答えになっているのかどうかは微妙な気もしますが
とにかくその問題は前提が間違っている、というのが基本です。 >>24
>どういったケースで意識という言葉を扱うか
私の場合は割と明確のつもりでいて、むしろ実存というニュアンスです。
自覚があろうとなかろうと主観はあり得る、
あるいはどれほど高い知能をもっていてもロボットに意識は無い、
そしてそのような精神現象とされるものには物質に依存せず成立する部分がある
ように思えるためそれが物質とどのようにして相互作用するのかは謎だ
というのが意識のハードプロブレム(もしくは心身問題)だと私は認識しています。
ただ「意識」「主観」「精神」「心」などの使い方がいささか雑なのは認めざるを得ません。
上手い表現が見つからないと言い訳をしつつも、申し訳ないところです。 >>9
>脳神経系は意識にドライブされる
私個人はこれになんとなくレベルながら同意できそうな気がするのですが
しかしつまり一般には簡単には受け入れてもらえなさそうな気がするわけです。
そこでもう一声欲しい、如何でしょうか、ということです。 >>48
一言で言うと、脳神経系は複雑ということかな。
脳神経系は机の上の本のように客体ですが、それほど解りやすくはない。
写真。比喩的に言えば。
だから、意識のハードプロブレムが真正の問題であれば、
机の上の本は何故机の上の本のように見えるのかという問題でもあるわけです。
これは擬似問題というより、それはそうだろうということだと思います。 >>50
50に抜かされましたが、:)
それは言い換えると、自由意志の肯定です。 意識のハードプロブレムにミニマムに答えるなら51のようになりますが、
私は、この問題は、自由意志、能動と受動、主体と客体、私と他者等の問題が
複合的に絡み合っているように思います。 >>52
今更というか、そもそもというか、
私は時計さんはある種の唯我論だと認識していたのですが、
>>1と>>9とを見た限りでは存在しないのは他者の意識だけで
時計さんの意識の外側にも何か意識以外のものなら存在し得る
という解釈も可能であるように思えます。
そのあたりはいかがでしょうか、
ちなみに私は唯我論を自らの意識以外は存在しないとするもの
と理解しています。 55は52にアンカーが付いていますが
当初と内容が変わったためで結果的な意味はありません。
当初の内容もよく考えたら意味のないものでした。
ちなみに私は相変わらず自由意志には懐疑的です。
たとえばラーメン屋でラーメンを注文するのは私ではありません。
かと言って私以外の誰でもなく、その正体は「見えざる手」です。
少なくともコロナ禍でみんなにトイレットペーパーを買わせたのは
「見えざる手」です。
しばらく「見えざる手」でイケそうな気がしています。 >>55
我の本質は無だとすると、私の考えは唯我論ではあり得ず、
それゆえに主観主義と表現しています。
しかし、私は私の意識の外側は存在しないと考えていますから、
でこすけさんの表現で言えば、唯我論ということになるかもしれません。
>>56
私は自由意志は存在すると考えていますが、運命論者でもあります。
見えざる手≒運命、であれば、見えざる手も自由意志と共存可能だと考えます。 >>57
私の意識の外側は存在しないという考えは、不可知論と言ってもいいかもしれません。
そのことに関しては以前から考えているのですが、まだ答えにはならず、
そこまでは言えるということで、私の立場は主観主義だと表現しています。 >>57
時計さんが言うところの「存在」というのは実は普通とは微妙に違っていて
量子論風の認識あっての存在だということは理解しているつもりなので
その考え方からすれば確かに私の意識は時計さんにとっては存在しないもの
ということになるのはわかります。
また、私も中途半端なインテリなので色即是空とかいって
自分は存在していながら存在していないということにもなっていて
話はいよいよややこしくなります。
ただ、哲学の第一原理とされた我思我有は「存在とはどういうことなのか」
が暗黙の了解にされていて、そして実際暗黙の了解になっていて、
ひねくれ者の私としてはやっぱりちょっと鵜呑みにはできなくなる
ということがあります。
いずれにしてもネックになるのは本当のところで何が存在しているのか
ということだと思います。
それが「物質」であれ「精神」であれ少なくとも「私」というのは幻想
というのは当たりのような気がしています。 私の考えの根っ子にあるのは、「存在は主観的である」という考えです。
私が主観主義という表現を使うことも、それと関係しています。
「私」の問題は相当根深いと思いますよ。
主観主義を唯我論と表現することを避けることが正解だとすれば。 こう考えてみる。
「量子論」には客観がない。すべてが主観的である。
その主観による存在確率が量子論を支配する。
主観の解像度がプランク定数だとすれば、おもしろい。おもしろいだけだが。
主観は交わらないが、ネットワークを組んでいる。交わらないが、関係を組んでいる(つながっている)。
つながっているということは、境界がある。
境界はタイヒミュラー空間だが、主観的タイヒミュラー空間である。
主観的タイヒミュラー空間が、主観的客観をつくる。それ以外の客観は、ない。 量子論の多世界解釈は、観測者ごとの世界である。
つまり、多主観(世界)解釈なのだ。
(そもそも、エヴェレットは多世界解釈などしていないことに注意)
(エヴェレットの解釈を多世界解釈したのは別人)
観測者ごとの世界、というのも、別世界の同一人物の別の主観と考えるとおかしい。
異なる観測者が主観となる多世界、と考えてみたい。
多主観によって多世界が維持されているとすれば、エネルギー論(保存則)に反しないだろう。たぶん。 >>63
『ツァラトゥストラかく語りき』を読んでいるところなんです。 >>62
私は曲がった空間は曲がっていない空間の内側に存在すると思います。
同様に、多主観も唯一の主観の内側に存在すると思います。
しかし、非ユークリッド幾何学は数学的に大きな革命だったのだろうと思います。
同様に、多主観の理論も数学的にあるいは哲学的に大きな革命であり得ると思います。 個人的にはぶっちゃけ言えば、
「存在」というのは、人間にとって不可知なことだということかな。
それゆえに、物質も精神も現代科学では不可知だとすれば意外とすっきりする。 多主観世界を考える。
主観の単位を粒子とする。
人間は複合粒子である。
多主観世界では、世界ごとにひとつの粒子だけが主観を持つ主観世界である。
ひとつの世界にはひとつの主観しかない。
主観は交わらないので、主観世界がたくさんあっても、世界はひとつにまとめられる。
問題点は複合粒子だ。人間が複合粒子であれば、それを構成する粒子のひとつだけが主観を持つw
個人という単位での主観ではないw
とりあえず、統計的主観として個人の主観が成り立つと... >>60
>存在は主観的である
私もむしろ哲学的ゾンビしか存在しない世界というのは
考えにくい気がします。
一般にはまさにビッグバン直後が観測者のいない世界
ということになっているようですが、
もしもそのあと生命が誕生しなかったりしたら
量子の存在は微妙になる気がするのです。 >>69
意識の最小単位をニューロンとするか粒子とするか。
多数の支持があるのはニューロンだと思います。
>>70
哲学的ゾンビはネーミングとして殆ど最悪のものだと私は考えます。
意識のない他者は、ゾンビではなく神に近い存在だと私は考えます。
それらは偉大な自然の一部を成しています。
ここで、何故私はあの身体ではなくこの身体であるのかという
有名な問題が現れ得ると思います。
この問題も中々ハードであるように思います。 >>71
まあ、支持があるから何だっていう話ですね。 >>60
なんだか突然ピンときました。
今までもこの話は何度か出ましたがその都度よくわからなかったものが
今回初めてつながった気がします。
確かに時計さんはいわゆる唯「我」論とはちょっと違いますね。
なるほどです。
反復することの意義を今更ながら痛感します。
たったこれだけのことがわからなかったというのも不思議です。 >>51
>机の上の本は何故机の上の本のように見えるのか
この問いが意識のハードプロブレムとの関わりであるとすれば
その意図は素粒子の塊である本に何故色や手触りや匂いを感じるのか
ということだと察するのですが、
これは私の感覚で言っても擬似問題ではありません。
ただしハードプロブレムではありません。
私としては意味の階層論で説明ができると考えます。
ただ、この話の何処に永劫回帰が出てくるのかはよくわかりましぇん。 >>29
たとえばこのスレッドを覗くような人は
誰から教わったわけでもなく唯我論や逆転スペクトルを
自分から考えたりすることがありがちだったのではないかと察します。
その総体はある意味で共同幻想です。
では、その共同幻想はどのようにして成立したのか、
じつは無意識のうちに何らかの手段で互いに連絡をとっていたのか
あるいはたとえば正常に機能している時計であればだいたいどれも同じ時刻を
指しているような
つまり必然ちゃ必然だけど偶然ちゃ偶然みたいなそういう雰囲気なのか、
人間の赤ちゃんは猿の赤ちゃんと違って
ある時期になると自然に直立二足歩行をはじめたり
言葉を覚えたりするわけですが、それはやっぱり遺伝だと思います。
では遺伝とは唯心論的に言って何なのかというと
ある種の創発に必然性を与えるシステムであろうということになります。
このシステム自体は偶然といえば偶然、必然といえば必然に発動するわけですが
共同幻想というのは基本的には結果論のような気がするところです。 >>69
このレスの最後で何気に提起されているらしき問題は
個人的にはちょっと見過ごせません。
何故一部の意識は特別なのか、
たとえば群れを成す生物はどのようにしてリーダーを獲得するのか、
一方にはリーダーを持たずに全体の調和がとれている社会もあります。
後者はボトムアップですが前者がナゾを抱えているように
後者もどのようにして連絡をしているのかはナゾです。
まったく見当違いかもしれませんけど
この問題は個人的にはずっと考えてきたものなので
無理矢理でも一度アピールしておきたかったのでした。恐縮です。
ところで>>65はスピノザ、>>69はライプニッツに通じる気がするのは
私だけでしょうか。
あるいはこれも「見えざる手」による導きでしょうか。ナゾです。 >>69
このレスの最後で何気に提起されているらしき問題は
個人的にはちょっと見過ごせません。
何故一部の意識は特別なのか、
たとえば群れを成す生物はどのようにしてリーダーを獲得するのか、
一方にはリーダーを持たずに全体の調和がとれている社会もあります。
後者はボトムアップですが前者がナゾを抱えているように
後者もどのようにして連絡をしているのかはナゾです。
まったく見当違いかもしれませんけど
この問題は個人的にはずっと考えてきたものなので
無理矢理でも一度アピールしておきたかったのでした。恐縮です。
ところで>>65はスピノザ、>>69はライプニッツに通じる気がするのは
私だけでしょうか。
あるいはこれも「見えざる手」による導きでしょうか。ナゾです。 >>76
私の考えは唯我論よりは不可知論に近接していると思います。
今の所、存在は主観的であれば、主観主義でいいかと単純に考えています。
>>77
「赤は赤のクオリアを持つ」は「赤は赤である」と本質的に同じであり、
「それはそうだろう」ということである。
私の考えはその様に表現することも可能だと思います。
要するにクオリアは魔法の言葉ではない。素粒子は関係ないです。 >>71
私もこのネーミングについてはなんだか疑問に思っています。
ゾンビ映画に出てくるゾンビには意識がある気がするためです。
彼らは飢えていて、その飢えを満たそうとしているように見えるのです。
ところで甚だ漠然とした疑問なんですが
「意識の最小単位」なるものに対してどのようなイメージをお持ちでしょうか。
そもそも意識とはどのようなものなのか、
ただしこれは「どのように解釈しておけば様々な状況と整合するのか」
という程度のものです。
むしろ意識の本態は感覚的にはとらえられないものだと思います。 >>78
私の批判のポイントは、1人でも成長したら、客観を知るということです。 >>82
私は他者の意識は存在しないことは特にゾンビらしくはないと思います。
意識は脳神経系と相関することは、弱い主観主義であることはご承知下さい。
強い主観主義では脳神経系の可能性は言わば無限大です。そして、後者が私好みです。
さて、弱い主観主義的に答えましと、脳神経系の神経を1つ取り除いたところで、
意識には大きな変化はないと思います。
しかし、多量に取り除くと影響はあると思います。仮説ですが。
脳神経系と意識の関係はそのようなものだと考えます。 >>81
私はクオリアは感覚を意識することと考えています。
「立ち止まり」と表現することもあります。 >>83
なんだか分かった気がします。
その意味の「客観」は「自然界の恒常性」くらいまで拡張され得るものでは
ないでしょうか。
となるとたぶんトカゲやタコでさえ理解するものです。
ただ、それでもそれは幻想だというのが私の考えです。
でこすけさんのお得意の仮想現実です。
ただしそのニュアンスをうまく伝える自信がありません。
ちょっと考えた例え話はゲシュタルト崩壊です。
「本」であれ「赤」であれ「客観」であれ
それらが何らかの意味である以上、論理的にはゲシュタルト崩壊するものです。
このときそれは、本来あるべきものが無くなったということなのか、
もともと無かったものがまた無くなっただけなのか、
そこで私は後者だと考えるのです。
私は「A=A」でさえア・プリオリではないと考えています。
これはア・プリオリでなければならない道理がある気がしないためです。
あるいは違う言い方をすると
「A=A」は真実ではなく便宜に過ぎないということです。
あらゆる価値は相対的にしか決まらないということです。 >>85
時計さんにとって「脳神経系」というのはどのようなものでしょうか。
これはどのような成り立ちをしたものなのか、という問いです。
私の場合まずふたつにわかれます。
「認識されている脳神経系」と「脳神経系自体」とのふたつです。
前者は認識者の意識の内側、後者はその外側にあります。
前者はクオリアが意味媒体であり
外部から受ける情報(クオリア)の集合に意味が与えられたもの(仮象)です。
後者はモナド的なもののネットワークです。
このネットワークに所属するモナドは普通はたぶん離れた位置にありながら
連絡をとりつつやがて代謝もします。
このネットワークは簡素な構造のものから複雑なものへと
徐々に成長したものです。
ひとつの意識(モナド的なもの)はそれが所属するネットワークから
影響を受けます。
このことによって複雑な表象などが実現されます。
またよそのモナド的なものに対して影響を与えることもあります。
私が想定している「モナド的なもの」というのはライプニッツと違って
むしろ相互作用することによって初めて成立できるものであり
つまり相互作用をしないものは存在できません。
いずれにしても互いに情報を交換するもののその全体は
ひとつの情報処理システムと言い得るものだと思います。
この世界にハードプロブレムが起こる印象はありません。
にしても確かに何らかのショーガイを内包させた人の
モーソーのようではあります。 >>85
>神経を1つ取り除いたところで意識には大きな変化はない
これは欠損がわずかであれば全体が損なわれるわけではないという
等能性の基本です。
欠損が一定の許容を超えると全体は失われます。
世界は階層構造を持っているという解釈が可能になる部分だと思います
また、ソースが危ういはなしではありますけど、
以前、脳は部分が全体の縮図になっているという意味で
ホログラフィの構造を持っているという噂を聞いたことがあります。
あやふやながら仮説というより実証済みではなかろうかというおはなしです。 この世界では1たす1が2と計算され
実際に1個リンゴがあるところにもう1個リンゴをたすと
全部で2個になるわけですが、
私はこれが普遍だとは考えません。
ただしこれは甚だ観念的なおはなしです。
私はたとえば創造主がこれから世界を創造しようとするとき
その世界のあり方の可能性は無限であろうと考えます。
たとえばリンゴが1個あるところにミカンを1個たすと
全部で3個になる世界があってもいいと思うのです。
これはあくまでもリンゴは1個、ミカンも1個でありながら
全部で果物が3個になるということです。
ところがこれがミカンではなくメロンだと全部で4個になったりします。
この世界では1たす1が現実でいくつになるのかに法則性が無く
ひとつひとつは検証しなければなりません。
私たちの代数学はそのようにして無限に想定され得る代数学の
バリエーションのひとつにすぎないという考え方です。
私は並行宇宙は無数に存在すると信じていますが
そのような宇宙は実際にはひとつも無いだろうとは思います。
どの宇宙も1たす1は2であり、空間は3次元であり、
円周率は10進法ならば3.14…になるはずです。
ただ考え方として「すべてにおいて絶対は無い」
これはつまり、すべてはあとからつくられたものだということです。
すべてというのは自然法則も含むすべてです。 アインシュタインは聖書は幼稚でお伽噺の寄せ集めと言いました。💞 主観の単位を粒子と考える。
主観ごとの主観世界がある。
人間などの主観とは異なるが、人間の主観は、粒子の主観をエミュレーションしているような感じ。
主観としての階層?が異なる。
粒子の主観を考えねばならない。
参考になるのは人間の主観だろう。 主観は体系としての内部記憶を持つ。ただし、主観そのものは、その体系外にある。
主観は自分自身の主観によって捉えることはできない(不完全性定理)。
人間はともかくとして、考えているのは粒子だ。
粒子がそのような主観を持てるものなのかどうか。
水素原子を考えると、電子と陽子からなるのだから、
電子側の主観世界と陽子側の主観世界が重ね合わされた世界であるw
これは、相対性理論的なものをのぞけばシュレーディンガー方程式で...
相対性理論を含めればディラック方程式で...
求められるものになるだろう。
粒子の主観は、最低でも2つの主観世界が必要であり、それはシュレーディンガー方程式やディラック方程式で求められるw
しかし、これらの方程式は時空間が必要だ。
これを裏返せば、そこに(主観的)時空間が生み出されるかもしれない。
とてもめんどくさい。そんなことできるんならノーベル賞ぐらい穫れる。
とりあえず、抽象的な2つの粒子ペアとして考えてみる。
って、そのイメージは量子論そのものではないか...
2つの粒子を0と1とすれば、0の主観世界と1の主観世界の重ね合わせ。 例によって係数などは省く。
|0> + |1> を観測すると0か1になるが、それは観測する第三者の主観である。
自分自身(主観)を観測できない、とすれば、0は1を観測し、1は0を観測する。
0が1を観測したとすれば、第三者は主観を0から奪い取って1が観測される。
多主観世界においては、多主観といっているのにかかわらず、主観はひとつしかないw
イメージはみえてきたがこんがらがっている。寝ながら整理。 >>89
私は、共同幻想論に批判的であって、
幻想論に対してはよくわからないというのが正直なところです。
A=Aを否定した世界はどのようなものなのか。
>>90
脳神経系は>>51にも書きましたが、複雑ですね。
感覚と認識と行為、それらが基本的でしょうか。
情動、快不快などもありますね。
私は、脳神経系は唯一の意識の座ではないと考えています。
それでも脳神経系は無視できない、といったところです。
>>91
歯医者でも神経を抜いたりしますしね。:)
>>92
何故1+1=3ではないのかというと、役に立たないからではないでしょうか。
数学は自由です。面白ければ何でもありだと思います。 あみだくじを縦に通過する主観の1本道
横棒オンリーを繋ぐと我か
純粋な横顔は常に他者である 視界に含まれるいずれかの視線を乗っ取る
これを繰り返すと死なない >>93
私としては常々美魔女さんにうかがってみたかったのですが
貴女ほどの聡明なひとが何故に二元論なのでしょうか。
ドキッとします。💀 >>94
>主観の単位を粒子と考える
これは、主観はニューロンのようなネットワーク的な段階以前に
標準理論が想定しているような基本粒子の段階で既に生じているのではないか
という意味で理解してよろしいのでしょうか。
私としては、素粒子が相互作用することによって精神現象が生じる
という考え方に違和感があるため
(そのようなことが観測されたことも無いはずです)
もし意識が観測されることがあるとすればそれは観測上は粒子としてであろう
と考えるのですが、
しかしそれが標準理論的なものかどうかは保留だと思っています。
五感がえてして電磁気的相互作用とかかわっているようなので
あるいは意識の正体はまんま電子なのかなと思ったこともありましたけど、
しかしひょっとすると基本粒子は人間が創ったものの可能性も捨て切れない
という気もするのです。
それはたとえばまず分子が原子に分解され、それから重粒子、基本粒子ときたら
基本粒子もさらに分解されるかもしれません。
基本粒子は目下これ以上分解できないものとされてはいるようですが
そのあり様が不自然だからこそ超ひも理論があるのであって
今後科学技術が進歩すれば分解かどうかはともかく
どのような展開をするのかは未知と言って過言でないと思うのです。
つまり基本粒子は発見されたものなのか発明されたものなのか
あるいは基本粒子とされるものは本当にビッグバンで生じたと言い切れるものなのか、
学者の世界が中心にあるとすれば私などはほとんど辺境にいるわけですから
そこのところの見極めはたいへん困難なことのように思えるのですが、
ただいずれにしても、私は何らかの素粒子に意識が内在すると仮定するよりも
そもそも「存在するとはどのようなことなのか」
というところから考察を始めれば自ずと道が開けてくるのではないか
みたいな気がしています。
いかがでしょうか。 デカルトは実体を心的なものと物的なものとの二種類としましたけど
これはかつての天動説のような「見たままやんけ」というツッコミ待ちの状態
である様な気がします。
本当に存在しているのは物質でも精神でもない気がするのです。 >>103
>基本粒子は人間が創ったもの
ここのニュアンスはわかりにくかった気がするので補足ですが、
たとえば素粒子に空間的な広がりがあればそれはとりあえず半分に出来て
そこからさらに半分の半分の半分のと無限に半分にできることになるわけです。
するとどこかの段階からは人間様が無理くり半分にしたのではないかと
もはや自然にあったものではなくなるのではないかと、
あるいは人間による操作が入った段階で虚構性が生じるのではないかと、
すなわちアホの懸念です。 >>98
>A=Aを否定した世界はどのようなものなのか
ブッダになったとされた人たちの一部が「色即是空」
つまり「A=非A」を主張したわけですけど
この考え方は広く人類社会には普及しなかったというのが実際の歴史です。
それはまさに大抵の場合で役に立たなかったからだと思います。
なお、釈迦はそのことに気付いたからこそ立派だったということなのだと思います。
ちなみに役に立つ立たないの基準を意味の階層論的に言うと
創発が起こるか起こらないかの問題ということになります。
A=Aというのは真理か否かではなく、
役に立つか立たないかのものだということです。
A=Aを理屈の上で否定するのは可能ではありますが、
そんな世界は実際には成り立たないのだと思います。
ちなみに「共同幻想論に批判的」というのはどういうことでしょうか。
確かに実在する意識がひとつしかない世界に共同幻想は成り立たない
とは思いますがそういう理解でよろしいのでしょうか。
時計さんは以前、集団意識のようなものはあり得るのではないか
みたいなことをおっしゃっていた記憶があるので
そことの関係でもちょっと気になったのでした。 >>106
「A=A」は数学か哲学かという問題でもありますね。
私は数学は役に立つかどうかが鍵だと思いますが、
でこすけさんはそれを哲学にも当てはめる。そのように解釈しました。
>共同幻想論に批判的
客観は集団でなくても構成可能だということです。
集団意識に関しては忘れてしまいましたが、
あるとすれば主観の内側に存在すると思います。 >>98
>脳神経系は唯一の意識の座ではない
これについて私は以前、時計さんが想定している他の候補についてを
うかがった記憶はあるのですが、
その答えが私が想定していたものとまったく違った記憶はあるものの
具体的にどのようなものだったかをまるで覚えておりません。
そこで甚だ恐縮ながら今一度チャンスを頂戴したく存じます。
いかがでしょうか。 >>107
尚、哲学も役に立つかどうかが鍵であるかについて、
私の考えは保留にさせて下さい。いつか答えになるかもしれません。 >>109
直観的には、真理は役に立ってしまうもののように思います。
これは数学にも当てはまるでしょうね。 >>108
私は意識の座は、2次元時間、4次元空間、宇宙の外側のように、
超越した場所に存在する可能性はあると考えています。
宇宙の内側であれば、星とか。ファンタジーですが。:) >>107
私は哲学はカントで終わったと認識しています。
なにしろ人間にまともな思考力が無いことを暴かれてしまったのです。
しかもウィトゲンシュタインにトドメを刺されているようです。
はなしによるとたいていの哲学的な問いは擬似問題(語り得ぬもの)だ
ということが証明されたということです。
ただポエムだというのならポエムでもいいとは思うのです。
嘘でも何でもなんだか面白ければそれはそれでいいじゃないかということです。 >>112
ウィトゲンシュタインは哲学は誤りを訂正することと
考えていた節があるように思います。
その辺りが分析哲学的なのかもしれません。
哲学の問題点は、これはウィトゲンシュタインも言っていたように思いますが、
考えが新しいかどうかはっきりしないことだと思います。
それを調べるだけで、相当骨が折れます。 >>113
勝手な持論ですけど
科学は砂上の楼閣だと思っています。
物質とは何か、精神とは何かがわからないまま
曖昧な世界モデルの上に精緻な体系を築いているのではないか
ということです。
このとき実は地盤の整備をするのは科学ではなく哲学ではないか
とは思います。
ただ哲学は不完全なのでいつか改めて整備をやり直すことになって
その繰り返しではないか
終わりはないのではないかと思ったりするのですが
基本的には取ってつけたはなしです。 >>114
私は科学は、唯心論、唯物論、二元論、どのような基礎の上にでも
変わらず建つ建物だと考えています。
例えば、2つの物質が引き合うことは、論とは関係ないと思います。 >>115
確かに、科学の基礎は哲学だと思いますが、
基礎を付け替えるというある種の離れ業は可能だということです。 存在とはアイデンティティであり、最低でも2粒子ないと成り立たない。
(注:ここで語れている粒子は仮想粒子である。モノというわけではない)
そのような粒子が主観を持つ、ということは、「状態」になるだろう。
粒子とは他/多とは(正規)直交化された、(独立した)状態である。
A=Aは、左辺と右辺が同じということと、左辺と右辺にあるのだから異なるということと、
さらにそれを語る第三者の存在があるw(ただし、第三者を語るのは第四者だw)
(仮想)粒子レベルの主観とは、アイデンティティを与える側ということになる。
A=Aでは、第三者である。それゆえに(主観的)「客観」が発生する。 第四者まででてくると、それは無限に連鎖して、結局、体系外に放り出されるw
第三者の段階で、それは体系外にいるものだと考えるのがベターなのだろう。
多主観世界を考えてみたが、結局、それは、アイデンティティ(s)の問題である。
「我思う、ゆえに我あり」というのは、
(第一)不完全性定理を満たしていない、あるいは、(第一)不完全性定理そのものである。
矛盾しているか不完全かのどちらかである。
(第一)不完全性定理と等価である、と考えるのがよさそう。 二元論というより
カントを通じての認識論ですが時間はその中で私達が避けられず対象を見ますね😃
主観的な直観形式として把握されますね
つまり時間は確かに経験的実在性を持ちますがしかし実体を持たない、寧ろ私達の主観と客観の中での対象現在形式のです。👰 キリスト教的には瞬間がさていされると永遠なるものが存在し
そして永遠なるものがその時同時に未来でもありそのものは過ぎ去れるものとしての。💞 キルケゴールは瞬間の中に時間的なものと永遠的なものとの総合を見ます。👰
アリストテレスは永遠は一つの瞬間でありあらゆる時間は一つの現在☆ いづれにしても 事実的に時間的な実在と永遠性と無時間性への志向との対立関係にあるいつでも現在の瞬間がある時間的な生が問題となり心理学的に時間概念を実在と体験される仕方が色々な立場の特徴なのでしゅ。👰 主観となる粒子が主観世界をつくり、(主観的)客観にアイデンティティを与える。
第三者としての観測者は、この主観を乗っ取ってしまう。
それが量子論と整合性がとれるか、考え中。
異なる主観世界を結びつけるタイヒミュラー空間があるとすれば、
それが隠れた変数のように機能するが、変数ではなく隠れた(変換)関数である。
似たようなものとして、トポロジカル絶縁体がある。
タイヒミュラー空間は、時間反転対称性とトポロジカル秩序を持つだろう。
って、それは「もつれ」じゃねーか。 >>115
私の印象ではそれは科学というよりも科学的技術
のようなニュアンスではなかろうかというかんじです。
たとえば量子というのが何なのかわからなくても
量子コンピュータは可能になったりするものです。
しかしやっぱり単純に量子が何なのか
さらには何故それがわかりづらいのかを知りたいということがあって、
となるといわゆるパラダイムシフト云々ということになる気がするのです。
あるいはたとえば意識のハードプロブレムは本来は科学的なはなしだし
そしてそれに対する時計さんの答えはパラダイムシフトを要請するもの
であろうとも思ったりします。
だからと言って何がどうということでもないわけですけれども
強いて言うならロマンでしょうか。 >>123 おそれいります。ありがとうございます。
私はたとえば数を数えるのが苦手です。
お皿の上に餃子がいくつあるのかなどをパッと見で認識する限界が低く
ラーメン屋の一人前ほどでもいちいち数えなければならないくらいです。
そのような私から世界がどのように見えているのかというと
世の中にはスゲー頭のいい人がじつはザラにいそうに感じています。
たとえば意識のハードプロブレムについていうと
メディアに出ているような人にとっては未だナゾでも
既に見切っている人はサラリーマンやOLに混ざってゴマンといる気がするのです。
そんな私が言っていることですからつまりアテにはならんのですが
哲学版の中では意識のハードプロブレムを見切っているのは
つまり美魔女さんくらいではないのかなと
ようするにそういうおはなしです。
解説していただいた一連を読ませていただくと
率直な印象として巧妙にはぐらかされた感があります。
単にアホに理解できていないだけかもしれませんけど
闇雲にあふれる余裕からこちらはひたすらたじろぐばかりです。
何が言いたいのかと言うと、
意識のハードプロブレムについての美魔女さんの見解をうかがってみたい
ということです。
たとえば「色々な立場」はどのようにして統一が可能になるのでしょうか。
あるいは統一には意味がないということなのでしょうか。
ご無礼をお許しください。
貴女様の従順な下僕 でこすけより >>126
>意識のハードプロブレムを見切っているのはつまり美魔女さんくらい
「見切り得るのは」に訂正させていただきます。
美魔女さんにとっては意識のハードプロブレムなんてどうでもいい気が
してきました。失礼しました。 >>125
唯心論者でも唯物論者でも二元論者でも量子論は可能だと思いますよ。:) 古いスレッドの私の主張に、
意識の問題と私の問題には本質的な同一性があるというものがありました。
「赤は赤である」としか言えないように、「私は私である」としか言えないという
ある種の不可能性です。だから何なのか。
私は、超球面さんの言う不完全性定理は関係しているのではないかと思っています。
最近、話題にしていませんが、書いてみました。 >>126
>貴女様の従順な下僕 でこすけより
何があったのか…… 元SMの女王ですから。👰
現実としては常に規定された状況で存在するほかはなく
可能性の全体として普遍的な存在するものではありませんが
この狭さはどんな状況であっても可能性が存在する余地を残しております。👰
この状況は私が決意すべきものがまだ残されています。そして
三つの飛翔が行われます
一つ目の飛翔は全てのものが不確かさであるのを直視して現在から普遍的な知識の孤独を進み
二つ目飛翔はこの不完全な世界に私が必然的に関与してることを直視して考察から解明を進みます
三つ目の飛翔は現在存在から限界引き受ける現実的存在へと進みます。👰
現在世界一般が有限で限界として捉えられ経験され
この状況は世界のうちで私の存在を不確かさを思い知らされるわけですが
普遍的なものは全てどんなものであっても 一つの存在意識に浸透してて全ての世界の存在を生成したり消滅したりこの現在に於いて捉えられますが
存在意識は現在に基づいてますが一段と深まって現在世界の現象としての意識にまでなっていきます。👰
量子力学だとメカニクスですから計算が必要ですけど、
量子論ならぼんやりのほほんとやっていけます。
なにしろ世界は量子でできているので、何を語っても量子論ですw
射影仮説は観測による波束の収縮なのだが、主観によって客観が取り込まれると、
たしかに収縮せざるを得ない。
量子状態のまま(主観的)客観化はできない。
波束の収縮を、多世界の選択とすれば、多主観世界では連鎖的な主観的収縮が起きている。
などと書いていたら、閃いた。
(双対性などを含めた)射あるいは関手あるいは自然変換がタイヒミュラー空間である。
たしかに、「射」は「境界」である。
さらに閃いたが、こちらはもうすこし煮詰めてから。(トポロジカル秩序) 現在存在としては私は状況の中に生きてて
現在存在としての本来の自己の存在は限界としてあります。👰
飛翔のあとには解明は出来ない二重性が生じます。
私は単に世界に存在してるわけではないけど
しかし私が本来の自己の存在となるのは
ただ、私が世界の中で私が現象する限りに於いてだけであるということ。👰 やっと、主観主義に対するわたしの立場が決まったw
「多主観主義」。ただし、名称とは異なって主観は常にひとつしかない。
ただし、局所的に、そこだけ切り出せば、そこにもひとつの主観がある。
なんらかのまとまりに対して、まとまりは必ずひとつだけの主観を持つ。
(ここでいう「主観」とは一般的な(人間の)主観ではい。主観の濫用であることに注意w) >>131
>元SMの女王ですから。
なるほど……
3つの飛翔。
それは誰でも行っていることなのでしょうか。
>>132
量子力学も唯心論、唯物論、二元論、どのような基盤にも成立すると思いますよ。:) 目が光に向かうように思考は存在に向かうことを基本的に認めています。👰
何故なら思考そのものは存在するのかという問題が生じてこざるをえないからです。
私は考える、だから存在がある、何故なら私の思考は存在を必要とするからです。👰 >>133
何となくですが解る気はします。
>>134
金太郎飴みたいですね。:)
今更感はありますが、超球面さんの考えは唯物論ということで宜しいのでしょうか。 つまり自分の方から存在に関係していって成り立つのでしゅ
この段階から考察するのは勿論極めて難しい。👰全ての思考は直接性を越えます。
直接性に対してこうした越えることは
目的志向性を含んでいます。👰 >>136
「私は考える、だから存在がある」であれば、
存在は私の思考を必要とするのではないでしょうか。 >>138
>つまり自分の方から存在に関係していって成り立つ
これは>>139の答えですね。 >>138
>全ての思考は直接性を越えます。
>直接性に対してこうした越えることは 目的志向性を含んでいます。
私は、自由意志は存在すると解釈(誤読)しました。 唯物論ではなく、唯無秩序論かな、いまのところはw
無秩序であるということが秩序を含む、ということであれば、
問題となる根幹の部分をすべてクリアできる。 >>143
それって、唯矛盾論ではありませんか? :) まあ、論とか主義とか、挨拶みたいなものだと思います。
私も主観主義という表現にそれほど拘ってはいません。 客観的に知られた一般共通なものの領域を入ってしまっている世界像がけっきょくは優勢になるわけですが教養を通じてますます大きくなるわけですが
こうした人間は完全な世界が奪われるという危険はありません
とはいえ現実であるところの個人的世界をいつでも必要としていますのでしゅ
図式の豊富さが生命を装っています。
しかし人間は直観的に充実された形式として内容も豊かな世界像でも外面的に身に付けることは出来ます。
世界像が事実上相互に入り交じっているということは単に知られた世界像から
心の覚醒の過程に至るまで始まりうる。👰
単なる知識、形式が経験にとっての基礎と衝撃となります。 何かが対象的に知られることにより
高め 無限の過程に。
あらゆる対象は対象的なものの全体の中にあり様々な関係を通してはじめて内容となります。👰
道は最終的には主観客観の総合をするべく無限者の理念に通じた新しい統一へと導くけど主観客観の終結として記述は可能です。 心理学的にはその世界像は何処にも見いだすことは出来ません。👰
世界像が持つ無限性が何かは直接概念では把握出来ません。
世界像は非完結的ですし色々な方向で終わります。 それはまだ全体ではないけど寧ろ全体になるのです。👰
思想は体系として固まらず内容はいつでも疑問とアンチノミーを持って終わります。 思考された無限性はそれ自体が対象、有限になり形がなります。
つまり無限性は永遠に断片ですし単なる理念です。👰
しかしカントにとって無限とは
本来的ですし飛翔を与えてくれるものであり情熱を持たなければならないものなのであります。👰 意識もまた、無秩序の中の秩序である。
ただし、人間のようなものは想定しない。
ただ無秩序と秩序が存在する。無秩序と秩序は、お互いにアイデンティティを与え合い存在となる。
矛盾する表現だが、動的であると同時に静的である。
どこかに捩れ(ねじれ)があり、一元性と二元性の性質を兼ね備える。 >>128 お疲れ様です。
じつはオカルトで育ったようなところがある私としては
量子論こそまさに過渡的な世界観として位置付けられています。
たとえば量子論が提起する物質のイメージは
デカルトがイメージしていたものとすっかり様変わりしているのではないか
とか思うのです。
また、私は科学の成果を否定するつもりもありません。
ただ、今まで見通しが悪かったものがパラダイムシフトによって
見通しが良くなるのではないか、ということを言っているつもりなのです。
ちなみに見通しが悪かったものというのは具体的には
量子、生命、意識などです 例えばハイデガーは現存在はいつも既に世界の内に投げ入れられて気分つけられており、この世界の内から企投されています。👰
世界とは意味や記号の連関している世界であり意味の相対としての世界に日常的には気分つけられており存在しながら平均的なヒトとして非本来的な実存している。
死への先駆的決意によって不安の中で本来の有限な自己に立ち返りそこから本来的な時間性として開示されてくる。👰 物質から何故、主体的体験が生まれるのかが意識のハードプロブレムですね😃
意識の超難問は
「何故私は この私なのか。」 意識のハードプロブレムは哲学の問題でもあり科学の問題でもあり。 >>135
>なるほど…
ここは「なるほどじゃねえよッ!」とツッコませていただきます。
私は美魔女さんが男性なのか女性なのかも存じません。
そもそもSMの女王というのも保留しておくべき部分です。
哲学者は何時いかなる時も方法的懐疑を忘れてはいかんのです。
ただ今回当方はアホであると明言しているにもかかわらず厳しい言葉攻め、
畳込んでくるあたりは真正のSだと認識しておいて良いとは思っております。
>量子力学も(中略)成立する。
私は甚だ高飛車ながら、量子力学は成立していると言い得るのか疑問です。
コペンハーゲン解釈が解釈の域を出られないのはそれが過渡的な状況である
ということだと考えたりするわけです。
素粒子物理学にしてもスピンとかカラーとかフレーバーとか
いささか曖昧な印象は否めません。
かと言っていつかはっきりするというものでは無い気もします。
にしてもそれならそうで、わからないはわからないなりにすっきりする、
そういうことはあり得る気がするのです。
>>152
このレスの最後の「量子、生命、意識」は
「物質、生命、意識」に訂正するべきかで悩みました。
「本当に存在するもの」はまさに永遠にナゾなのかもとも思います。 >>155
一連の丁寧な解説をありがとうございます。
なるほど「美魔女」と名乗る魂の本領を垣間見た気がします。
確かに男を惑わせますね、どうしていいのかわからなくなります。
とりあえずながら、いつか美魔女さんの御背中に立派な翼が生えることを
御祈り申し上げる次第で御座います
(既にデビルウィングを隠し持っているのかもしれませんけど)。
私はと言うと、チョッカン主義とか言って飛翔というよりも日々ヒヤクをしております。
哲学なんかも軽いノリでしちゃったりなんかしちゃってもいい
と思い込むことにはしているつもりです。 >>145
幼稚なはなしで恐縮ですけど、
私の理解では唯物論唯心論唯我論などは存在論
実在論観念論独在論などは認識論ということになっています。
チョッカン主義主観主義無秩序主義などは自己紹介と言ったところでしょうか。
私の理解では超球面さんは未だ「何が存在しているのか」は明らかにしていない
ということになっています
(今後「主観」がどのように位置づけられるのかだと思います)。
超球面さんが言うところの「量子」も物質なのか精神なのかは不明瞭です。
たとえば超球面さんが想定する「点」はただの点であって
時間的要素空間的要素すら無いもののようです。
そこは技術者として超慎重に見えます。
私は意識のハードプロブレムは存在論が前提になると考えていて、
このスレも基本的には存在論であり、
そのあたりについては超球面さんは「いずれ」としたまま延期しっぱなし
だと私は認識しています。
かと言ってことさら急かすつもりはありませんけど
とにかくそれが私の現状の認識です
(つまり私個人の印象であり正解かどうかは微妙です)。 >>152
パラダイムシフトとして有名なのは、天動説から地動説だと思いますが、
量子論はパラダイムシフトと言えるのか、微妙な所だと思います。
パラダイムシフトというよりは、新しい理論かと。
例えば、テレポーテーションを謳った理論は過去にないわけですから。
>>156
そんなところで方法的懐疑を使われても。:)
解釈が解釈であるのは、数学が先行しているからでしょうね。
それくらい数学は強力なのだと思います。
隠れた変数理論も未だに健在のようですし。 >>158
その分類ですと、主観主義は、唯心論で観念論ですかね。 >>159
ああ、質点という謎の物体が量子にパラダイムシフトしているのかも…… >>161
パラダイムシフトというのはベタに言うと
弁証法的に展開するのではないかと、
量子論は近代的な世界観にアンチテーゼを突きつけた段階で
そこから止揚されるのがパラダイムシフトという考え方です。
これによって物理学だけでなく、
様々な分野に影響が及ぶ気がします。 ネットカフェにクラヴクイーンのファッション誌てっプロモ見に行くとか。
ネスカフェで。 シテ まあクラヴディスコファッション誌でも創刊するかなあ。 京都にヴィヴィ 庵 ていう竜安寺のクラブでも立てようかな抹茶カクテル。
龍幻院 朱妖院 玄呪院 白仙院。 でこすけくん、お気に召さなかったようですね😃余計にイライラさせたのかな✨
存在というものを構造の一要素として属したり属さなかったり規定として扱うことが出来ないことは明らかですよね😃
カントが存在はリアルな術語ではないと言ったのは正しい。👰
だからといって存在は主語でもないし
存在と存在者を一つにしてしまってはいけません。
それと
実在は何かの中間物を通って屈折してそれが現象したのが実在だという観念から脱却しなければなりません。
中間物として考えられたものは存在と非存在との間の宙吊りであります。
兎に角
私達は存在の中に拘束されており
そこから外へ出ることは出来ません。👰
本当のことを言えば本質的には
私達は存在してるのであって
全ての問題は現実の総合との関係に於いて自分を如何に位置付けるか。👰
ですよね😃 つまり これ等の論点が存在への参与としている概念を何処まで明らかに出来るかを見届けるものであります。👰
これ等の事柄に於いて感じる困惑は
存在と実存との間の関係を見定めようとするとき 経験する困難からきます。👰 https://www.youtube.com/watch?v=xA1Eyhr6qsk
ロック ラヴ バレエ ダンス はいかがすか。元フロイトストリート ブレークビーツ バレエ ダンサー。女子推奨。親子 カップリングで。 進捗する感じとか深い速さスタミナというかヒカルファイファーは未だ控えて。 さて、では反撃しますよ、でこすけくん。👰
意識のハードプロブレムでは
世界のミクロの物理的な在り方が決まれば世界の在り方が全て決まる。
此れが正しいことを示す為には
この世界の現象が全て自然化可能であることを示す必要があります。👰
そこに立ちはだかるのが意識現象なので、意識現象をどう自然化するかが問題となりますね。
此れが意識のハードプロブレムです。
しかし哲学者はこの世界に於ける現象全てを自然化することは不可能だと
しますのです。👰 物理学でも 意識のハードプロブレムは解決不可能とされてたと思います。 意識現象もまた一種の表象だとしてから表象だと例えば因果関係を用いて自然化するのですが、しかし
意識経験としての表象と、そうでない表象との違いを上手く説明出来ない。
事物の物理的な性質と経験される性質との関係を説明出来ない。
意識経験は存在しないものが現れるという事実を説明出来ない。👰
ので表象や志向性について改めて考え直して
本来的表象と派生的表象を区別して本来的表象が意識経験だとして本来的表象の
自然化をしてみると
Oの内部の状態 Sが本来的表象だとして⇔ Sがある時そしてその時だけ Oは φする、を充たす行動φが存在するとされ
この理論を用いてれば解決出来るとされ意識のハードプロブレムは解決されたとしますが
そんな甘くは無いはずです。👰 >>158
実在は扱わない/扱えない。(実在や本質を扱わないのが「科学」である)
存在は扱えるが、主観的存在のみを扱う。(主観からは逃れられないw)
そのようなわけで、「存在」は形式であって、何かが存在するとかいうのは扱わない。
「多主観世界主義」(適当)においては、
主観が、アイデンティティを与えたものが「(主観的客観)存在」である。
(どーでもいい議論を回避するために、あくまでも「人工世界」での話、としている)
主観が何ものであるのか、ということは扱わないw
主観は体系の外側、あるいは、境界にいる/ある。
第一不完全性定理あるいはタルスキの定義不能性定理によって、主観を体系内に持ってくることことは不可能である。 「ことことは」ってなんじゃい。
「ことは」である。
なぜ「こと」が多重化したのか。
は!、そういうことか...「こと」が多重化している...
主観的「こと」だから、「ことこと」なのだろう。
そこに、外側の主観によって主観を奪われたものがいる。
ダークマターとかダークエネルギーなどとして、保存則に関与する。(すんません酔ってます) >>159
なんにでも嫌疑をかける人は一般的に言って人間性を疑われますから
私が言うのもナンですけど、気をつけたほうがいいと思います。
ところでもう少し「パラダイムシフト」です。
私も数十年前に遠くからチラ見した程度なのでいい加減なはなしですけど、
私の理解によると天動説から地動説へのシフトはもう少しややこしいこと
だった気がします。
弁証法で言うと天動説を正とすれば地動説が反にあたり
合は科学的自然観みたいなかんじだったと思います。
当初は太陽系システムでも運動の三法則でもそういったものは神が創ったもの
として理解されていたのが
後に神がいなくても自然は成立し得るということになるわけですが、
つまり前近代的なパラダイムから近代的なそれへのシフトというのは
宗教的世界観から科学的世界観への移行であり、
天動説から地動説というのはその契機だったというイメージです。
パラダイムシフトというのは学説レベルのものではなく
何かもっと根本的な変革だった気がします。
私は若い頃、近代からポスト近代へとか、スゲー時代だなと思ったものですが
「パラダイム」という言葉も思ったほど普及せず、
むしろどこか気恥ずかしいものになってしまった印象さえあります。
学術さんがツッコんでくれて救われた気がするほどです。 >>160
時計さんにとって何が存在しているのかはちょっとナゾです。
>>1によると他者の意識は存在しない、
というよりも>>57によると意識の外側には何も存在しない、
それでいてその>57では我の本質は無だともされています。
それでは一体何が存在するのか、
私も自我は機能であって存在ではないと考えていますけど、
故に時計さんがそのあたりをどのようにお考えなのかは個人的にうかがって
おきたいところです。 >>186
確かに否定ばかりしていても仕方ないですね。
私の理解では、パラダイムシフトは科学の範囲内のことです。
私は地動説と神の存在は相容れると思います。
>>187
私は物質も精神も存在すると思いますよ。
主観的物質とでも言うべきものですが。 >>187
我は無であるというのは信条のようなものですね。
まだ、そこまで至っていないというのが正直なところです。 >>189
我の問題もありますが、無の問題もありますね。
この件に関しては、無の問題の方が何かありそうな気はします。 >>189
上手く言い難いですが、我が我から我への運動だとすると、
唯の我は無いということになるのかな…… >>174
私はあるいはイラついていたのかもしれませんけど
それは自分の無能を野呂ってのことであって
美魔女さんに対してではない
ということにさせていただきたく存じます。
私は何故このリアクションを想定できなかったのか、
私もその立場なら同じような展開を少なくとも検討はしたはずですし
しかも読み返せば細部を見落としていますし
BK丸出しでした。失礼しました。
それはさておき、
私が初めにご質問させていただいたのは
>実在は何かの中間物を通って屈折してそれが現象したのが実在だ
>という観念から脱却しなければなりません
何故美魔女さんがこのようにお考えになるのか
ということに言い換えられる気がしております。
私は目下、美魔女さんが私のこのスレッドでしてきた主張を
どのくらいご存知なのかを探り探りですけど、
私は自我が存在ではなく機能だと考えている一方で
一般に実在とされているものも所謂存在ではなく
何らかの機能による効果ではなかろうかと考えています。
少なくとも私たちが世界の中に秩序を感じるとき
その由来は「存在によるもの」の一択ではなく
「機能によるもの」の可能性もあると思うのです。
とすれば夢のような存在しないものも普通に可能になりますし
何より意識のハードプロブレムも無かったことになります。
美魔女さんがもし前者以外の可能性はあり得ないとお考えでしたら
その根拠をうかがってみたいと率直に思うところなのでございます。
しつこくてすいません。
(会話は成立していますか?
美魔女さんも同じことを言っているような気もします) >>191
Aは「我→A」と記述することもでき、
それゆえに我は無い、あるいは無くてもいいのかもしれません。
我は宇宙であるという考えも正しいように思えます。 >>188
天動説は科学によって完全に否定されたわけではない
ということはスルーされがちですけど
このスレッドを見ている人には押さえておいてもらいたいことです。
柔軟な発想を持ちましょうということですけど
私自身にも当てはまることです。上から目線ですいません。
またこのレスで挙げられている「神」「存在」「物質」「精神」などは
普通の意味とは少し違うものだということもこの機会に一応指摘させて
いただきます。
時計さんの言説に初めて触れた人が無駄な時間を費やさないためです。
私は時計さんの主張は大いに傾聴する価値があるものだと思っていますが
さらにはスレッドを11まで運営したのは伊達ではないと思っていますが
しかしややこしいのがたまにきずだとも思っています。失礼しました。
>>191
私が自我や意識を存在ではないと考えるのは
(なんだかそれが普通のような気もしますけど)
それらが存在のように感じるのが錯覚のように思えるからです。
「サルにも意識はある」と言って差し支えはないとは思いますが
それはモナドのようにして内在するわけではないはずです。
存在としての意識は物質の別バージョンといったかんじになってしまって
その物質では何故粒子の交換が引力や斥力になるのかが分からなくなっている
ように(これもある意味ハードプロブレムではないですか?)
要するに限りなく分からなくなっていしまいます。
意識は相互作用していることを前提にするべきだ
ということを語りだしたらこれまた長くなるのですが
ライプニッツが神による予定調和とか言いたくなる気持ちも分かる気がする
とかなります。 存在論的要求そのものについての価値観が或いは形而上学的評価はなにか経験的な諸々の条件や機能に依存するものではあり得ないこと。👰
つまり経験の事実や現象したのが実在だという観念から脱却しないと存在論的要求そのものについての出現や増大について事情が分かるようになるといったことではないこと。存在論的要求そのものの価値を低下させる機能を引き出すことは出来ないです、
人間存在の正常な状態とはそれは機能からの安全さや快適さを備えた状態ではあるかもしれないけれど
しかし本当は深い形而上学的探求が前提とされております筈です。👰 私達は ただ、私達自身によってだけ
理解しうる あるものが、ここで問題になってるわけですから、けども
私達は答えようとすると それが何であるかを知らないことがわかります。👰
私は私自身の根源的覚醒をふりかえります。👰
それは意識ではないけど考察を待たずして私を充実しているものです。
その覚醒知のうちには全ての実質が含まれているように見えます。
しかし私がそれを探すと消えようとする。しかし進めていくと私自身を把握するという課題を負っていると感じます。 幼少期の無頓着さにあるときは私達は自分のことを問いはしません。👰
その時身近な目の前のことを与えられたことを考えてるからです
だから、「私」とはどういう意味かには無頓着な訳です。
やがては 問いを 持ったりします。
私が何であるかを知りたくなります。
私は誰であるのかを知りたくなります
私自身というとき、何を意味してるのかを問うのです。👰 それと 原子や機能や量子論なら何故、痛みや悲しみや愛や犠牲があるのでしょうか。👰 >>184今回は何故か釈迦に説法回です
超球面さん「存在はオレには関係ない」
でこすけさん「いやいやいやいや、関係あるでしょ」
科学についてはそのとおりだと思いますけど
超球面さんは技術者でもなかったですか?
人工的に意識を造るというのは
人工的に意識を存在させるということではありませんか?
また神がかり的なタイミングで美魔女さんが「存在と存在者は別」
みたいなことを指摘して下さっていますが
超球面さんは哲学者でもあるわけですから(一方的に決めつけますけど)
まして「存在者」については考慮していただきたいところです。
私は真面目に人工意識の技術は日本人が管理するべきだと考えています。
自ら中華とか白人(=潔白な人↔有色人種=腹黒)とか言ってる
傲慢な野番人にその技術を手渡してはいけないと思います。
超球面さんの責任は重たいのです(一方的に決めつけますけど)。
お願いしますよ、のはなしです。失礼しました。 >>196-198
ここでぶっちゃけるのは不躾な非礼をお赦し下さいかもしれませんけど、
美魔女さんのレスには私が日常的に使っていない言葉が多く出てくるため
せっかく寄せていただいたものでありながら充分に理解出来ている自信があまりありません。
私はアカデミックな哲学は勉強していないので
美魔女さんがお使いの単語が一般的な学術用語なのか
美魔女さんの個人的な表現なのかの区別がついていませんし、
また、あちらこちらで様々に引用されている見解やら何やらが
哲学界でどのくらい普及していることなのかも見当がつきません。
それでも今回はたぶん、けっこうな核心に触れていただいたようなので
まったくもって感謝感激雨あられでございます。
私のような田舎侍というのはこのようなものなのであります。 >経験の事実や現象したのが実在だという観念から脱却しないと
>存在論的要求そのものについての出現や増大について事情が分かるようになる
>といったことではないこと
ここでは私は「実在」と「存在論的要求」でつまづきます。
「実在」というのは普通は客観的存在とされているものだったと思いましたが
これが歴史的に起こった覆すことのできない事実のような意味としてとらえると普通は意味が通らない気がします。
色即是空オッケーの私個人としてはその脱却を可能だとも思いますけど
美魔女さんがそこまで踏み込んでいるとすれば其れはなんだか不自然に思えるのです。
「存在論的要求」というのは「存在とは何か」という
存在論のメインテーマにあたりそうなそういうこととして解釈したのですが
いかがでしょうか。
するとこの一文を通したとき「存在についての認識を改めなければ
何故私たちが存在について疑問を持つのかを解明できない」というふうに読めることになって、
とりあえず個人的ながら何故これを普通に言い切れるのか、
どのようにしてその境地へ至ったのか、そこのあたりが気になります。
私としては単純に「根源的覚醒」とかかわるのかなとか思ってしまうのですが
一方で私は、何故私たちが存在に疑問を持つのかはもっと単純な事情による
と思っているので詰まり私の個人的な事情が混ざりつつもピンとこなかったり
するのです。
なお、哲学的な問題はその多くが擬似問題であり
それは錯覚に基づくというのが私の印象です。
いずれにしても以上の考察はまったくトンチンカンということもあります。
わずらわしいばかりになってしまっていたらタヒんで詫びるしかありません。
恐縮です。 >それが何であるかを知らないことがわかります
これはまったく目から鱗です。
大袈裟に言うと、私はこの一行を読むために生まれてきた
というのは大袈裟すぎですけど、とにかくびっくりしました。
美魔女さんは大人なんだなあ。
僕は子供ですから、
目的地には辿り着けないだろうけど
それでももう少し先まで行ってみたい
とむしろ思ったりしてしまいます。
もともと僕はそんなに難しいことを言っているつもりはないんです、
先端物理学が描く素粒子像が普通の人のイメージと違うものであるように
物自体(物質)とされているものは普通の人のイメージとは違うものだろう、
霊魂が存在しないように、いわゆる物質も存在しない、
霊現象とされるものは他の仕組みで説明が可能になるであろうようにして
物質による現象とされているものは他の仕組みで説明がつくのではないか、
むしろ物質にとらわれているうちは自然を充分に理解できないのではないか
(たとえば原子の塊である僕たちに何故悲しみや幸せがあるのかとか)
そういうことです。
僕にはこのくらいの変化までならば何人かの天才の出現で起こり得る気がします。
情報統合理論とか注意スキーマ理論とかはその予兆ではないかな
とか思ったりもするのです。
なんのことはないただの終末願望かもしれませんけど
やっぱり1999年のリベンジはしてみたかったりするのでしょう。 >>195
私は、太陽のような重い物質が、地球のような軽い物質の周りを
回るのは、不自然だと思います。
専門的な話では、私も詳しくはないのですが、
惑星の複雑な運動をシンプルに説明することは地動説の売りのはずです。
物質は勿論在ると私は思いますよ。:) >>205
人はIFを問いたがる生き物だから、根源まで行ったところで、
IFを問うてしまう、つまり幻想のように思えてしまう。
私は、その限界に立ち止まり、物質は存在すると考えます。 では、幾つかの可能性に分けて話します。👰
A 有限なものとは規定されたものというのと同じで、同時に有限なものを越えて、そこでは最早 同一律にはならないような超越的思考の可能性があります。
Bその可能性を否定することが出来ます。
それは有限なものの領域にしか思考が成り立たないとする立場です。👰
C Bの公準を拒否し一番 実在する存在者を思考で肯定する。
この場合 同一律が思考の働きに最後まで伴い、思考は規定されたものの外に出てしまうことなく無限なものの概念に迄高めることが出来ます。
なので 存在があることが拒否されるのはBの仮説だけなのです。👰
そこの存在は、なになに、かくかく、考えられてて、定義で、かくかく、と規定された性格と性質の領域と原理からであり、本質的に存在は かくかく、しかじか、であることのないものとして本質的にあるわけです。👰 実在は、認識主体とは独立しているため、人工世界という主観的世界にはありません。
多主観世界は、局所的に主観世界を与えられる多様体のようなものです。
その中では、その主観と独立して存在する客観(すなわち(いちばん外側の主観的)実在)を与えられます。
この多種管世界がわたしの実験場ですw >>209
実であること(リアルであること)は主観の働きとしてあるように私は思います。 >>211
何故幻想への限界(境界)である実在に立ち止まるかと言うと、
それは生きやすいからなのでしょう。 そのようなわけで、存在と存在者の区別は局所的主観世界によって異なります。
>>211
実在は主観(認識主体)とは独立しています。定義上そうなるはずです。
主観によって実(リアル?)となるものは実在(reality)ではありません。
このへん、日本語でも英語でもごちゃごちゃになっています。
主観によって把握(認識?)された実在は、実在ではないかもしれません。
主観的実在以外の(本家)実在は取り扱わないのが無難でしょうw >>213
(本家)実在は私は無い(幻想である)と思っています。
あるいは、(本家)実在はヴェールに覆われた存在であり、
根源まで行くと、それは永遠だと思います。 単なる必然的に溢れる威力と機能の中での自己喪失に私は抵抗します。👰
自由とは私にとって生きる条件であり
こうして自然の機構、機能に抵抗して
私は 敢えて 存在する。☆ >>203
霊魂は実在していないでしょうけど、存在はしているのでは?いわゆる物質や物自体は、普通物体としての形状と質感が備わった実在のことをさしていると思っています。(形而上的には違う理解をするとは思いますが)
霊魂や神様は物体としての形状をなしていない実在しない概念や拵えた偶像を実在と区別して存在という言葉を使うと思っているのですが、どう思われますか?
もし物質による現象というのを、霊現象のように他の仕組みで説明するように説明したとして、その説明が原理(他を必要とせず、尚且つ他が必要とする第一のもの)の条件を満たしていなければ唯心論の立場で物質を理解していることにならないのでは?
という単純な疑問が浮かんだもので質問させて頂きます。 私の内容が出現する空間は四つの問いによって開かれてくるのです。👰
一つは 私は何を知ることが出来るのか。
二つ 何が一体 本来 存在するのか。
三つ 真理とはなにか。
四つ 私はどうやって知るのか。 この問いに答えが見いだされるのは
現れてくるたくさんの存在者をたくさん挙げることによってではなく
それ自体で存在するもの
を捉えることによってです。👰 カントがたくさんの神の存在証明を論破し、ヘーゲルが再び神の存在証明を復活させ、また中世での神の存在証明に対して興味が持たれた後世に受けて
現代では神の存在証明を新たに
必ずや必要な急ぐ務なのです。☆ ゲーデルの不完全性定理は、神の存在と不在の証明をいっきにやってしまってますねw
ま、神といっても数学の神ですけどね。世界は数学でできているので、それでよいのです。 >>205
私も天動説が本当は正しいという可能性は極めて低いと考えます。
しかし100%完全に否定できるものではないはずです。
本当は世界は時計さん(の中の神)を中心に回っている可能性が
しかし私はこの可能性は時計さんが「私が世界の中心に存在する」
と宣言してしまえばそれで100%でもいい気がしますけど。
これは実は私(でこすけ)を中心に回っているということでもあります。
プレーヤーは常にダンジョンの中心に存在する、
すべての物体を宇宙の中心に据える力学があってもいい気がしますけど
時計さんが頑ななのは逆に不思議です。
>>207
私としてはクオリアを物質のひとつのあり方とする唯物論があっていい
とも思っています。
これは唯物論というよりもむしろ唯物主義というかんじかもしれません
(私も唯心論というよりも唯心主義のような気がしています)。
時計さんが言う意味では確かに物質は存在すると言えるでしょう。
しかしここ(ネット上)で重要なのは
如何にしてみんなで共通理解を得られるのかだと思います。
私も標準からすればけっこう暴走している気はしますけど
(しかし時計さんほどではないという確信はあります(小声))。
ていうか>>204がスルーされてませんか?
私もちょっと調子に乗ったきらいはありましたけど >>208
このレスは何か重要な気がして繰り返し読んでいるのですが
そもそもこのタイミングで放り込まれた意図がよくわかっていません。
どのスタンスを取るのかは各自の自由ということでしょうか。
となると何故美魔女さんが「存在(存在者ではない)」
にこだわっておられるのかが今ひとつピンときません。
私はヘンなところに迷い込んでしまったのかもしれません
(もしかしてマジック?)
https://m.youtube.com/watch?v=5nTP8jPiWi8
>>215
私はなんだか『ライ麦畑』のアントリーニ先生の言葉を思い出しました。
「未成熟な人間は死ぬことを考える、成熟した人間は生きることを考える」
本当に孤独な人間はそう滅多にはいない、ということだそうです。
>>222
古典物理学は座標系は自由ですよ。
>如何にしてみんなで共通理解を得られるのか
しかし、まずは意識のハードプロブレムの答えを書くことです。
それが理解されるかどうかは2の次です。 >>225
まあ、暴走しているくらいで丁度良いんじゃないかな。 >>226
うん、むしろ誰かが風穴を開けるべきだと思うね。
絶対にこのままで良いわけはないです。
>古典物理学は座標系は自由ですよ
ところが現代物理学では彼方の天体が光より速く運行するのがナシになります。
私は問い続けたい、本当に相対性理論はアリなのかと。 >>227
そうですね。思う存分暴走してほしいです。
答えが出ないよりマシです。
量子テレポーテーションは相対論の破れではないのかな。 >>227
>絶対にこのままで良いわけはないです
私は何故原子の塊である私に世界がこのようにして現れているのか
とりあえずそれを知りたいです。
これは今の世界モデルでは解明できない気がするのです。
ただ本当の問題は、何故多くの人が疑問を感じないのかだと思います。
意識のハードプロブレムは解明できない、
根拠はないがそれは人間には理解できない領域だ、
物質が存在する証拠はない、しかし物質は存在する、
ファ!?ってなります。 >>228
>量子テレポーテーションは相対論の破れではないのか
私が小耳に挟んだはなしによると相対性理論を信奉しているのは物理学界だけだ
ということになっていました。
たとえば歴代のノーベル物理学賞を見ると、私がチェックしてかぎりでは
(つまりアテにはならんのですが)相対性理論をスルーしているようにも見えます。
先だってのペンローズ先生が初めての例外の可能性もありそうですけど
それはもはや私の脳味噌ではついていけなくなってしまいます。 >>229
例えば、カメラを持ち、画面のある程度の大きさが青であれば前進し、
赤であれば停止する車を考えます。
そのような車に意識はあるでしょうか。
私は無いと思います。それは機械だからではありません。
そもそも、他者に意識は無いからです。
そうすると話は私の意識と私の脳神経系の関係性に話は移ると思います。
これまでにも何度か書き込みましたが、
私の脳神経系はこの脳神経系に限定される必要性はありません。
しかし、限定すると何が見えてくるのか。
多分、この身体はある種の機械だということではないでしょうか。
カメラが外界の像を結ぶように、脳神経系も外界の像を結ぶ。
クオリアに関して。
クオリアは説明「される」ものというよりは、説明「する」ものだと思います。
机の上に林檎があるから見えるというよりは、机の上に林檎が見えるからある、
そう言っていいのではないでしょうか。
自由意志に関して。
私は自由意志は存在すると考えますから、意識は脳神経系をドライブすると考えます。
自由意志の存在こそ、私と機械との本質的な違いのように思います。 >>230
今のところ、相対論の予測精度は古典物理学を上回るそうですから、
物理学者が信奉するのも無理はないかと思います。 >>209
繰り返しになりますけど、人工意識の研究には巨大な利権が絡み得るので
スキを見せれば某国のエージェントに抹札される危険があります。
私としても公でのあからさまな発言は差し控えた方が宜しいかと存じますが
くだんの敵は甘くはありません。
おすすめしておいてアレですけど、お気を付けください。
ていうか、さっきから私は昔の繰り返しになっている気がしますけど
ネタ切れが否めないということでしょうか、精進します。 >>231
すみません。
青でも赤でもなければ何をするか書いていませんでした。:)
その場合は徐行するとでもしておきます。 >>231
>そうすると話は私の意識と私の脳神経系の関係性に話は移る
「話」って2回言っていますね。:)
「そうすると私の意識と私の脳神経系の関係性に話は移る」に訂正します。 >>231
>林檎が見えるから(林檎は)有る
私としてはここまでは賛成です。
しかしたとえば超球面さんが車を運転しているとしましょう。
このとき超球面さんの脳神経とされるものをコントロールしているのは誰なのか、
私の考えでは時計さんだけでコントロールしているようには思えないのです。
かと言って超球面さんだけでコントロールしているようにも思えません。
これはじつはこの世界を共有している全ての主観(保留)によってコントロール
されているのではないか、というのが私の印象です。
その恒常性はみんなの同意によって保証されているという考え方です。
これは証明されなくても可能性は残されるはずです。
むしろ与えられ得る選択肢の中ではもっとも可能性が高い気さえするものです。
この段階では私の個人的な感覚に過ぎないものですが
みなさんがどのようにお考えになるのかには私事ながら興味があります。
>>232
私が個人的にエラソーながら相対性理論関連で最も問題を感じるのは
そこら辺に出回っている本ではえてして要領を得ないということです。
便宜的な表現ばかりで知りたいところをごまかされているかんじがあります。
たぶんわざとではないとは思うのですが
そうであればみんなが勘違いをしているということになります。
自我が発達しなかった日本では(これは日々本当に実感します)
起こり得ることのようにも思えます。
武漢肺炎しかり、長そうなものには巻かれっぱなしになるのです。 >>236
>超球面さんの脳神経とされるものをコントロールしているのは誰なのか
私の考えでは、自然または神です。
>そこら辺に出回っている本ではえてして要領を得ない
特殊はともかく一般の方は、入門さえ困難だと思います。 >>216
おっしゃっている意味合いでは霊魂も神様も「存在している」
と言い得る可能性があるとは思います。
しかし「存在」という表現では紛らわしいので何か別のものがあればいい
とは思います。
このスレッドでもうっすらながら「存在」という表現に対する不満がありますが
かと言って代わりが見つかっていないのが現状だと私は認識しています。
ただ物質についてはもう少しややこしくなると私は考えます。
霊魂や神様は信仰という広い人間社会の普遍的な営みに関わりますが
物質という概念はおそらく近代社会特有の過渡的な概念のように私には感じられます。
このとき私のかんじだと、物質という感覚では物質とされるものが及ぼす現象を
説明できなくなっている場面があることになります。
そしてそれを象徴するのがまさに意識のハードプロブレムです。
ただし私も充分な代替案を提起できているとは思っていません。
スレ主のお考えは別にあるかもしれませんが
私はみんなで模索をしている段階だととらえています。
216さんも何かお考えがありましたら是非ご参加いただきたいところです。 >>237
「自然」と言ってしまえば確かにそれはそうですが
しかし自然というのが何なのかが充分に理解できていないというかんじもあります。
それは名前をつけただけではないのか、ということです。
「神」についてはもうちょっと先の話のような気がしています。
あと2〜3回パラダイムシフトが起こったところで初めて遭遇する真実
というイメージです。
展開早すぎ、まだ人類はそこまで行っていないとさせていただきましょう。
ただ多くの人に予感があるのはすごいことだと思っているつもりです。 >>239
>自然というのが何なのか
自然は、自然法則を含むこの世界の全てです。
>ただ多くの人に予感があるのはすごい
頼もしい限りです。 >>217
>何が一体 本来 存在するのか
ここでヒントになるのがそうは言っても「我思う故に我あり」
だと思っています。
ただデカルト先生にはもう一歩踏み込んでおいて欲しかったというのがあって
それは「我」についての考察です。
そこで私は「何かが考えている、故に何かが存在している」
と表現してきました。
この時点では何が存在しているのかはよくわかりません。
ただ、いずれにしても勿論「何かが存在している」という感覚は
一般的な意識状態であれば疑いようのない事実です。
(一般的な意識状態とするのはそうでない場合も想定し得るためです
これは一般的な意識状態とは何かという問題を予感します)
ここで私は疑問に思います。
何故予め「存在」という状態を知っているのかということです。
これを説明するのが次のステップのように思えます。 >>236
例えば誰かの主観で自ら意識してそう思えるようにコントロールするのを好まない時、その人の脳神経回路は理性的に処理しようとする思考ではなく本能的な処理が優先されてそうは思えないと決断していると思います
この世で共存しているすべての主観の恒常性なる視点では、その主観の主体者としてルールを守ろうとする意識が保たれる範囲で不都合なく機能していると思います
>>238
物質の概念は経験して扱えるスケールを意味していると思います、電気や粒子に関する実験結果から新たな物質として説明されようとしている過程で
意識のハードプロブレムは、機械論の因果連鎖で現象の処理が可能な気がしています >>240
>自然は、自然法則を含むこの世界の全てです
私はここで問題になるのは「世界の全て」にどこまで含まれるのか
ということだと考えます。
するとその如何によって自然というのも普通のイメージとは全く違うもの
になる可能性がある気がするのです。 >>243
それは流動的だと思います。
知識、経験によって変わりますし、暫定的な境界かと。 ウィトゲンシュタインにとって、大学で哲学の講義をすることは
言語ゲームだったのかなあと、ふと思いました。 デカルト流に私の本質は自分自身に意識をしていることにあるとすることから始めるなら、そこから外に出る方法はないでしょうね。👰
形而上学はまさに絶望という事柄に直面して態度を決めないといけません。
存在論的な問題は絶望の問題から切り離せないのです。
キルケゴールの思想の本質的に功績です。
哲学とはメタ問題に向けられたメタ批判なのです。
人間的な経験にその存在論的な重みを回復する必要があります。👰
メタ問題的なもの、そこにはあらゆる知性を越えた安らぎがあり 永遠があるのです。☆ >>245
思考に沿った規則性で意味を成す指摘言語よりで言語化されれば言語ゲームの本領が発揮されるとは限らず
「ハエをハエ取り壺から出してやる」ように誰もがゲームをクリアできる規則性を孕んでなければ
言語ゲーム足りえないということならそう思います メールで結果通知表来ました
「○○○さんあなたは世界人口の95%よりも賢い。IQ test」 >>244
ただし、人間に普遍化の能力のあることは指摘しておきたいです。
個々の家から家一般、そして犬一般、パン一般、そして物一般。
>>247
ウィトゲンシュタインが言語を公共に開かれたものにする際に、
生まれた概念が言語ゲームなのかなと。 「言語ゲーム」は絶対的なルールのないゲームです。
無秩序と秩序のゲームかもしれません。
わたしは、ゲーデルの不完全性定理に対する、ウィトゲンシュタインなりの答えである、
と、誤読していますw >>246
>私の本質は自分自身に意識をしていることにあるとすることから始めるなら
>そこから外に出る方法はない
それはそうかもしれませんけど、それはそうかもしれませんけど、
そう来られたらこちらとしては「何でも持ってけドロボー!!」
みたいなことしか言えなくなります。
「少年は喪失によって大人になる」
というのが『機動戦士ガンダム』を創った富野喜幸監督の多くの作品のテーマ
らしいのですが、
確かに何も失わないまま成長することはできない気がします。
むしろ失うものが大きいほど鍛えられるのだろうという感触もあります。
何かを得るために何かをやれば一方で何かを失うのは必然であって
それを畏れていては何もできないことになってしまいます。
戦場に身を置くしかない生き方とか、
いずれ訪れる一瞬のための人生とか、
そういうのに憧れるのはアホの宿命でしょうか。
僕には超越にことさらな意味はない気がするのです。
https://m.youtube.com/watch?v=ycBa0urBLa4
>>249
○が三つしかありませんから私のことではなさそうですね
>>217
>私はどうやって知るのか。
私は「存在」を探究する上で最も重要なのはじつはコレなんじゃないか
と思っています。
そういうわけで私たちは予め多くのことを知っています。
これを実現するシステムとはどのようなものなのか
そのシステムこそ答え合わせの目安になる気がするのです。 >>252
おっと、これもでこすけです。
とにかく>>217がトラップだったのかどうかが
ものすごく気になってます。 >>そうかもしれませんけどそうかもしれませんけど、持ってけドロボー
…それを怖れていては何も出来ない
→→
でこすけ様の前のレスのデカルト流の肯定のこと
>>ヒントは「我思う故に我あり」だと思っています。
デカルト先生にはもう一歩踏み込んでほしかった
→→
それは
デカルトも 方法序説で自分のまちがえに気がついてるし
あとにカントで否定されてます。
我思う故に我あり
は思考と存在の一致のことであり
いくらでも疑える。👰 我思う故に我ありは
我が思う事実に対して言ってるだけであり だからといって存在を疑うことが 出来ない訳ではありません。👰 >>256
>方法序説で自分のまちがえに気がついてる
それは存じませんでした。何しろ入門書的なものしか読んでおらんのです。
失礼しました。
私が思いつくようなことはたいてい既に誰かが言っているはずだ
とは思いましたけど、まさかの本人とはびっくりです。 >>257
デカルトは「疑っている私の存在だけは、疑い得ない」と言ったのです。
>>256
> あとにカントで否定されてます。
カントはこのデカルトの疑い得ない私の存在を、どのように否定したのですか? >>257
>存在を疑うことが 出来ない訳ではありません
シビレまする😍 >>260
でこすけは美魔女がネカマかどうか疑っているとき、
その疑っている私が存在するかどうか分からないのか? 全てのことは疑える
だが、美魔女がネカマなのは唯一確実なこと >>242
>本能的な処理
>>236は私の表現が不充分だったため大変わかりづらかったですけど
じつは私も本質的には216さん同じようなことを言っていたつもりです。
つまりポイントになるのは「本能」です。「本能」とは何なのか。
それが分かったらちょっと凄いことだとも思いますけど
とりあえず私のイメージとしては「自然現象」というよりも「見えざる手」
の方がニュアンス的には近い気がしています。
このあたりを説明するためには多くの前提の説明から始めなくてはならなくなり
どのくらいのレスを費やせばいいのかまったく見当がつきません。
私としてはここでは物質が幻想であることを論証できればとりあえずヨシ
(物質が存在しなければ意識のハードプロブレムも無かったことになる)
という方針です。 ところでおそらく216さんは過去スレをお読みになってないのではないか
と察するのですが(当然ながら読む必要はありません)
とりあえず私が想定している「意識」等について今一度解説させていただきます。
私には人間の意識はとても複雑な構造を持っているように思えます。
このような構造物がある日突然できたようには思えません。
140億年前に宇宙ができていながら数百万年前に意識が初めて出来た
というのはなんだか不自然な気がします。
そこで私はもっと単純なものから少しずつ進化してきたのではないかと考えます。
それは具体的に言うと40億年前に既に生物には単純な意識が内在していたの
ではないかということです。
あるいは本当に原始的な意識は基本粒子の段階で既に備わっていたのかもしれません。
ちなみに私が>>236で「みんなの同意」としているものは
そのような原始的な意識も含めて全ての意識による合意です。
私としてはそれ等はむしろ合意ができたからこそ同じ世界に存在できている
と考えます。
では合意というのがどのようなものなのかというと
そこでM・ポランニーの階層理論というのを説明しなくてはならなくなって
さらに長くなるのですが
つまりややこしいことがいろいろあるというお話でした。
恐縮です。 >>242
>実験結果から新たな物質として説明されようとしている
これは一応確認させていただきたいのですが
ここで説明されようとしているのは「意識」という理解でよろしいのでしょうか。
つまり意識は物質と言い得るということになるのですが
となるとクオリアがどうなるのかも気になるところです。
私は意識は観測上では素粒子として現れるのではないかと予想していますが
しかしそれは意識そのものではない(意識の表面?)ような気もしています。
クオリアなどは顕微鏡で覗いても見えるものではないというか
そもそも脳の中にはない気がするのです。
むしろそれはパラレルワールドにあるんじゃないかと思うほどです。
脳が脳の中に無いものとどのようにして相互作用するのか
そもそも構造的につながっているように思えないものが相互作用し得るのか
つまりそこがハードプロブレムと言われる由縁のように思えます。 >>231
「林檎が見えるからある」ということは丁寧に書くと
「林檎が見えるからあると考える」ということですね。 >>266
昨日読んだウィトゲンシュタインの入門書にデカルト批判としてこうありました。
私自身の「確かな知覚」がなければ、私の「錯覚」は生まれない。 三河と尾張となる志香須賀の渡り、げに思ひわづらひぬべくをかし >>267
266へのポインターは無視して下さい。間違えました。 >>270
あってもいいかなという気はしてきました。:) >>268-269
うたが(疑)ひとは、たし(確)かだとされることをまへ(前)にして
生じる逡巡のおも(思)ひである。 >三河と尾張となる志香須賀の渡り、げに思ひわづらひぬべくをかし
「『しか』『す』『が』」のわたり、げにおもひわづらひぬべくをかし
志香須賀=「た『しか(≒《certain/sûr》)』と『し(≒《laisser》)』よう、
だ『が(≒《même》)』」 >>272
確かさにもレベルはありますよね。数学の確かさとか、論理学の確かさとか。
それらを全てを疑うというのは、言葉遊びではないかなと思ってしまいます。
しかし、言葉遊びを是とする方向性は残されているのかもしれません。 >>273
おっと、274は273と直接は関係ありませんよ。
言語分析は面白いと思います。 >>274
「それらを全てを」は「それら全てを」ですね。
フランス語、勉強しようかな…… >げに思ひわづらひぬべくをかし
げに(≒解に/なるほど)
思ひわづらひぬべく(≒逡巡の思ひが浮かぶはずで)
をかし(≒心を呼び寄せられる/関心を引く) >>274
例えば、紙に書いていることは、有意味でも無意味でもあり得るが、
紙に書いているということは確かである、とか。 >三河と尾張となる志香須賀の渡り
志香須賀の渡りは、確かに河の渡り場ではあるとされるものの、
水の流れが激しいために渡ろうか渡るまいか逡巡の思ひが浮かぶので、
なるほど「しかすが」という名のとおりで、そのことが興味深い。 「確からしさ」から「確かさ」への転換。
それがどこにどのように「ある」のか。あるいは「ない」のか。 「た(手)しかさ」は、「て(手)ごた(応)へ」にあるのです https://kotobank.jp/dejaword/festhalten
❶ ((j-et4))(…4を)しっかりと持っている;つかまえて離さない
j4 am Ärmel festhalten\…4の袖をつかんで離さない.
❷ ((et4))(…4を)記録しておく
ein Ereignis im Bild festhalten\事件を写真に撮っておく.
2 (再) (h) ((sich4 an et3))(…3に)しっかりつかまる
Sie hielt sich an mir fest.\彼女は私にしがみついた.
3 (自) (h) ((an et3))(…3に)固執する
an seinen Grundsätzen festhalten\自分の原則を曲げない. >>279
「しかすが」にそのような意味があるとは……
>>280
「確からしさ」は主観主義的で、「確かさ」はオールマイティな感じはします。 >>276
いや、「それらを、全てを」でもいいですね…… >>284
「足」に「足す」の意味があるのは不思議な感じはします。 >>285
285は時計です。
「足す」の「た」は「多」が語源であるかもしれない。
ウェブでそう見かけました。
「確か」にも関係あるかもしれません。 ネカマなんてはじめて、言われましたわ😃いいえ、あいつしか 言いませんわ。👰
しかしアイツ一人で 私を昔から監視して
運営のように 褒めたたえたスレや評価を宣伝したかと思ったら、あちこちで、あのように嫌がらせする二重人格。
アイツ 監視して毎日読んで 感動してるクセに 私を下げる二重人格。 私のだけをアイツ
見張ってて全て読んでくせにね
お前は、ネカマの特徴をすべて示しているので黒だよ
ネカマで構ってもらいたいだけの空っぽ人間だよ 私はお前に全て全て勝ってるの。
遥かに勝ってるの。当たり前やろう。当たり前過ぎて過ぎて お前は劣ってるのです。何もかも劣ってるのです。当たり前過ぎて過ぎて 世界人口の95%の貴重な人間証明見せたらせけで、みんな 貴重だから大事にするのに、お前も、しろよ、尊敬しろよ😃お前がすることは それだけ。👰 お前が劣ってるのに 何をわがままに抵抗してるのでしょう。👰
お前が終わってるのに。抵抗しても更に無駄
私が
最高の結果をいつも、そのまま 表してるだけ。
お前は服従するだけ。当たり前過ぎて 何で25点のお前が百点の私に
ただこねてるねん✨という話し。👰
お前が劣ってるのに 上の結果の私の言うことを聞かなかったら終わりだろ😃 犯人は病んでるから私を意味なくあちこちで罵倒して下げるからロムってる一般市民が怒ってたじゃないか‼
いつまで演技するねん 時代遅れのアホ 素の自分でいられないで、ネカマを演じている時点でお前は最底辺だよw 劣ってるお前が抵抗して意味無いだろうアホ
少しは考えろアホ 世界人口の95%よりも上の私が来てるのに
大事にすることが人間としてのお前の使命だろ😃寝ぼけるなアホ ネカマで依存症で卑小な存在、それがお前のすべてだよ 全ては知能の差
世間のみんなは羨ましがっている
お前も素直に羨ましがりなさい
当たり前過ぎて 今どき、ネカマやっている時点で、人類の中で最底辺のクラスタだよw 全ては知能の差
お前みたいに病んでるか わがまましてるきちがいか、相手にしてる私の気持ちもロムってる一般市民のことも考えてる喋れよアホ お前 病んでるから2ちゃんねるに居るんだろ😃 私トップの健常者を見本として 社会に復活しなさい お前は相当小さい人間だよw
お前の真実は、そこにある 全国の市民と私の意見は全て一致してるんだからな😃お前みたいに病んでるきちがいは、学びなさい。👰
私なんてまだ 優しい方だろ😃
世間はうるさい鬼ばかりだぞ 知能高すぎて
2ちゃんねるきちがいに注意するのは成熟してるからだよ😃 卑小でしょぼくてカスな自分を見つめること、ネカマのやるべきことは薄っぺらい
能書き垂れることでなく、自身を内省することだよ 私に反抗した人は全て 発達か知能ギリギリか病んでるか、2級か 精神科に引っ掛かってるかしか居ないからなあ ネカマをやっている時点で恥知らずのクズであると気づけよ 私トップに学びなさい
遥かに劣ってるお前が
説教してどうするねんアホ なぜ、自分がネカマをやっているか、そこからお前の卑小哲学が始まるんだよ だから、お前はネカマの哲学でもやってればいいんだよ でこすけ君のように ちゃんと正常に頭に入れてから少しは考えてみるくせつけろよあほ
普通のことも出来ないで
動物と同じやんけあほ
知能がとてつもなく恐ろしく差があるから
全て劣ってる空っぽのお前が抵抗してるのです、それだけのこと😃
そのまんまやんけ。👰
勝てるものが1つもないから、劣ってる自分しかないから腐ってるか、フエィクされたから腐ってるかだな、お前一人がこの世で私にそうやって敢えて下げて遊ぶ遊びの、くせついてるけど 私のことを人間全員が必ず凄いな思うことをお前も自然と反応しとかないと疑似から本当の精神疾患になるぞお前、全問正解の私を下げて遊ばないと損だと思ってるけど今のうちに真剣に学んでおかないと自分が出れないだけだぞ。私は全問正解の出来る人なんだぞ。お前がいつまでもキャラ遊びしてるけど実体は
人生にそんなけ、ええ加減なら
腐ってるお前は 最早 はいじんですが
ここの皆様は、マトモな人々の集まりです😃哲学板宗教板では マトモ
さて、今日のお話し
失恋の苦しさから抜け出す方法とは
全ての恋愛は必ず終わる。
待つ。
何も出来なくていい。
怒り、嫉妬、絶望に気を付ける。
自分に原因がないか調べる。
心の支えを取り戻す。
生きる意味を知る。
(;゜0゜) スレ間違えたわ
失礼しました。👰でわ でわ 人生に失敗はありません。👰
今、この瞬間に希望を取り戻すことです。
そして
全ての人には生きてる意味があるのでしゅ。☆ >>280 :非標準超球面論理Nexus/CDT ◆KhxAJHUIl6 :2021/09/30(木) 08:56:46.94 0
>「確からしさ」から「確かさ」への転換。
>
>それがどこにどのように「ある」のか。あるいは「ない」のか。
ネカマらしさ から ネカマ への転換
あるいは、ネカマでもいい への転換
それがいつどのようになされたのか? 私は小悪魔なのよん。👰
ところで 全ての人には無条件で生きる価値があります。 >>263
読解力、想像力共に弱くご面倒おかけしております。
本能とはなにか、後天的に学習しなくても遺伝形質に備わっている欲求に対する、快、不快、闘争、逃走といった生得的な行動原理だと思っています
見えざる手と聞いて即浮かんだのは奇跡とか神様の思し召しのような抽象的な感じです、改めて想像を働かせてみて思ったのは
動物の生き残る術として本能という見えざる手が備わっているという解釈で、こちらの感じが私の思う本能と似ています
物質が幻想でることを論証できればOKということですが、やはり結構難しいと思います、例えば人間の認識でパソコンという物に見えて
パソコンとしての性能ももっているそれが、認識に反してタイピングしたらキーボードが砂になって崩れてしまうようなことは
誰かがそうなるように仕掛けを仕込まない限り現実には有り得ないので、大前提物質が幻想であることを論理的に証明するといっても
見えざる手のような抽象的な象徴からイマジネーションを膨らませ直感的にこういうことか!と合点がいくような
理屈ではなくインスピレーションを揺さぶられ暗黙の了解のような確信的な構成になる気がします >>264
> とりあえず私が想定している「意識」等について今一度解説させていただきます。
有難うございました、私としては人類が進歩していく過程のどこかで初めて
文字通りの意識を認識できる人間が誕生したと思っていて
というのは複雑な道具を作り扱うだけの創造力、技術力などは直立二足歩行の進化で
身体機能が劇的に向上したことと、それに伴う人類特有の脳肥大化を抜きに
意識と認識できるほど顕在化するだけの脳神経系のネットワークは拡充しなかったと推測するからです
むしろ逆に、もし140億年前、既に確実に意識が覚醒するもとのような構造であれば
自然まかせの永遠とも感じる歳月はいらなかったのではないかと思います
>>242
> ここで説明されようとしているのは「意識」という理解でよろしいのでしょうか。
>>238での
>物質という概念はおそらく近代社会特有の過渡的な概念のように私には感じられます。
このとき私のかんじだと、物質という感覚では物質とされるものが及ぼす現象を
説明できなくなっている場面があることになります
こちらの向けてのレスで、素粒子という物質に中身がなくスカスカだというような現象のことかと思い
物質の概念は実験レベルで経験して扱えるスケールを意味しているのではないだろうか
と思ったことを書かせていただきました >>255
面白そうなはなしだとは思うのですが残念ながら私には文脈がわかりません。
あるいは誤爆でしょうか。
>>261
私は美魔女さんについてはまだよくわかっていません。
とにかく情報が足りません。簡単に手の内を明かすとも思えません。
いずれにしても仮想現実だとは思っております。
>>267
私はその本はアテにならない気がします。
ある知覚が「確かなもの」と確実に認定できる道理がある気がしません。
ウィトゲンシュタインがそんなこと言うかな、と勘ぐります。
私の経験上で言うと入門書にはけっこうあやしいものがある印象です。 萬葉集 巻11-2390
>恋するに 死にするものに あらませば 我が身は千度 死にかへらまし
「死にかへる」のは、よみがへ(蘇)る復活の真逆だが、復活するために
は、その前提として死ななければならないように、死にかへるためには、
その前提としてよみが(蘇)へらなければならないはずw >>281
手応えとはおもしろいですね。
心身二元論をとるのであれば、
「確からしさ」とは心、「確かさ」は身体ということなるかもしれません。
でも、人工世界には心も身体もモノもありません。どうしましょう。
あるのは「情報」だけなのです。
多主観世界(主義)では、「情報」として心や身体やモノを作り出すことはできますが、
はたしてそれでよいのかどうか。
てことは、情報一元論的多主観世界(主義)かw
ま、数学的には圏論とinner set theoryでなんとかなるだろうと。(+エネルギー論) >>326
私は「仮想現実」とか「錯覚」とかを多用していますが
それは対象をまんまで認識しているわけではないという程度の意味です。
意識の中に浮かぶ「像」は基本的には向こう側から与えられたものではなく
こちら側から投影しているものであろう、ということです。
ちなみに「投影」の本質は私が折りに触れ繰り返している「創発」という現象です。 意識とは、こころ(心)を知ることでしょう。
>思ひ知れども 思ひ知られず
自らが身に沁みて思ひ識っても、その思ひが他人には伝はらないこともあれば、
隠しているはずの思ひ/下心が他人に悟られてしまうこともある。 >>326
うーん、私の見る目が確かならそこそこ信頼できるけどなあ。
要するにこういうことです。
正しいことが解っているから、疑うことができる。疑うという基盤ができる。
ウィトゲンシュタインがそのような趣旨のことを言っていることは確かです。
まあ、1時間くらいで読める本なので。 >>331
これは本には書いてありませんでしたが、
論理を疑うということがどういうことが解らない。
方法的懐疑は机上の空論ではないか。
そういうことかもしれません。 機能単位に分節化されそれらがネットワークを構成するとき意識と呼ばれるメタレベルの存在が立ち現れてくると言われてますよね😃
ある身体のシステムには情報を統合する能力があれば意識があると統合情報理論ですけど
意識がいつ、生まれるのかは分かっても何故、意識が生まれるのかはまだ謎。👰
脳の解明は未だに謎
意識が何かは謎
ですよね。👰 >>329
投影しているというのは面白いですね。
錯視等もありますし、視覚に能動性があるという考えは一理あると思います。 >>332
「どういうことが」は「どういうことか」です。 「我思う故に我あり」は>>266と同じで、
「我思う故に我ありと我思う」が丁寧な表現だと思います。 >>337
そう考えると、コペルニクス的転回は、
デカルトにその萌芽を見出だせるということですね。 >>338
デカルトは結論はいいのですが過程がいまいちです。
それを解消したのがカントと言えるのではないでしょうか。 >>327
死後の世界は仏教でもキリスト教でも何処か遠いところにあるイメージがありますけど、
日本人は死後に神とされて身近なところへ
ひょっとすると集落の中央へ祀られたりしていたという話を聞いたことがあります。
これは縄文時代からの伝統だそうです。
列島社会では割と簡単に死者とも交流できていたわけです。
「死にかへる(帰る)」というのはそのような感覚の名残りなのかな
とか思いました。おそれいります。 >>331-332
>そこそこ信頼できる
この言葉には説得力をかんじることができます。
私はじつはウィトゲンシュタインにはあまり期待していなかったりするのです。
彼はプラトンの洞窟の内側についての考察では天才だったようですが
私が知りたいその外側についてはイマイチの印象があるのです。
これははっきり言ってお世辞ですけど、
形而上については美魔女さんこそよっぽど何か持っていそうな印象です。
例によって当てずっぽうですけど
不完全性定理というのはすべてにおいて完全なものはあり得ない
ということでしょうから、完璧な知覚もあり得ないことになるはずです。
また私の考えではA=Aの正当性が究極レベルの客観的なものとしてあり得ない
ということになるわけですが
そこで主観によって保証されているに過ぎないということを平たく言うと
「気のせい」ということになります。
そしてじつは「謎」というのも気のせいです。
シュールレアリスムの絵画にありがちな謎めいた雰囲気は
謎めいているだけであって実際に謎があるわけではないように
謎の本質もまた気のせいです。
これはどういうことかというと
赤が赤であるためには絶対に青がなければならないわけではないように
疑問があるためには確信がなくてはならないわけではない、
あるいは謎であることとその謎の解決には本質的な関係は無い
ということです。
私が思うに学問というのは表象のコラージュであって
つまりある種の幻想ということになるのではないかなとかそんなかんじです。
↑誰か有名どころにありそうな気もしますけど。 >>341
>誰か有名どころにありそうな気もします
一言で言うと懐疑論でしょうか。
確かな知覚は、例えば手元にあるパソコンです。
ウィトゲンシュタインというか例の本の主張は、
考えるということには確かな知覚は必要だということです。
それがデカルト批判になるわけです。
私の考えは、論理は疑い得ないということで、
その本とは微妙に異なるかもしれません。
不完全性定理に関しては、超球面さんに解説してほしいところですが、
「この文は証明できない」という文は証明も反証もできないというもので、
哲学的には、嘘つきのパラドクスと似ていると思います。
そこから知覚の不完全性が導き出されるかというと、難しい問題だと思います。
この定理を濫用するのは、ファッショナブルナンセンスの感は否めないと思います。
>気のせい
起きない夢は現実のようではありませんか。 不完全性定理とは、「不完全」or「矛盾」を選ばされるものですw
この二択は、体系という内部の問題なのです。
inner set theoryを使えば、体系の内側/外側を扱うことができるため、
不完全性を回避できます。そう予想します。
かといって「完全」になるわけではありませんけどね。あくまでも「回避」です。
「回避」はエネルギー論的な要請であり、それが「エネルギー」そのものかもしれません。
などとわけのわからないことをつぶやきながら仕事の準備中。 白か黒か分からないなら、白であることも、黒であることも疑ひようがない。
白か黒か分かったという判断があって、その白である、または黒であるという
判断に疑ひが生じる。 人間はグローバル化になり国家や個人の意味を失いつつ
人工知能に代わって人間そのものの意味が問われつつあり、
世界が存在するのは当たり前でしょうか。
世界とは何を指しているのでしょうか。
科学の世界像、芸術の意味、宗教の意味、
そして
存在するとは?
そして
人間が不在であっても実在するこの世界という問いも。 現代に至るまで形而上学の殆どは失敗になってます。世界や現実の明確な説明がない。👰
存在するという性質のものをも指示できてない。
私はメタ存在論とメタ形而上学の連結を
カント以来の伝統の復活をさせようと思います。☆ 世界についてその究極の本性や本質や構造、輪廓、等が問われるときその問いかけには内容がかけているものです😃
万物を絶対的に構成している何か大きなものがあるという考えは自然的なものであれ、理性的なものであれ、幻想であります。👰 >>342
「A=A」の妥当性については今までも何度か意見交換をしましたが
その都度平行線でした。
そしてたぶん今回も平行線になるのでしょう。
となると私としては、なぜ平行線になるのかを考えてみたくなります。
というわけで傾向を分析するべく他のサンプルを探してみると
とりあえず「自由意志」「無」「階層論」などでも平行線だったことを思い出します。
私にパッと出てきたのはこのあたりなんですけど、他に何かありましたっけ?
さて、そこでディベートの基本として先ず相手の立場になって考えます。
つまり主観主義的な考察を私なりながら模索するわけです。
すると私としては「自由意志」については時計さんの考え方がわかる気がします。
私が主観主義の立場にあれば自由意志はむしろ肯定されなければならない気さえします。
しかし「A=A」「無」「階層論」についてはよくわからないというのが率直なところです。
私だったら主観主義の立場でも今と変わらない気がするのです。
このあたりについては折角なので次のレスでややこしくさせていただきます。 >>353つづき
私はじつはゲーデルの不完全性定理については具体的にはよく知りません。
ただ、直観レベルでは子供の頃から「のようなこと」を漠然とは考えていました。
例えば自分の右手でその右手をさわることはできない、
自分の目で自分の目を(少なくとも直接は)見ることはできない、
さらには何かを見るためには構造上「盲点」ができるなんてことも学びます。
つまりどのようなものにも何らかの限界が必ずあるのだろう、というかんじす。
この限界がn+1項目というやつです、たぶん。
そしてこのことは私の世界観にも限界があるというふうに展開されます。
で、先ず私のチョッカン主義なるものの限界とは何なのか、
これは「おそらく」ではありますがたぶん「ニヒリズム」です。
私としてはいわゆる「ニヒリズム」を正しく理解できている自信がないのですが
とりあえず私は「あらゆるものに究極の根拠はない」ということだと認識しています。
私にとってこのことはあらゆるものの前提として無条件に君臨しています。
「A=A」でさえア・プリオリではなく、
それは主観の内部で創発というプロセスを経て初めて意味があるものになります。
宇宙が無いところには自然法則も無い
というよりは主観のないところには摂理も無いというかんじです。
「認識」「存在」なども無条件に与えらてているものではなくなります。
なお「ニヒリズム」の正体とは何なのか、
その内側にいる私にはそれはもちろんわかりません。 >>355さらにつづき
次に主観主義の限界はどこにあるのかです。
ただしこれは「どこあるのか」というよりも「どこに置くのか」
というニュアンスかもしれません。「主義」というのはそういうことです。
そしてこのとき私としては「自由意志」こそが予め与えられた絶対条件になる
ように思われます。
これは例えば人間の意識的な作用が全て何らかのプログラムによって制御
されているものだとしても
それでもなお人間には「自由意志がある」ということを前提とし得る
という考え方です。
これは、そういうことにしておいても何も問題が起こらなければ
当然アリにもなり得るという、もはやひたすらそういうことです。
さて、では「A=A」「無」「階層論」は主観主義の限界の向こう側なのか
こちら側なのか、
私にはどうにもこちら側のような気がして仕方がありません。
むしろ主観主義には追い風になる気さえするので
時計さんと折り合いがつかないのは率直に言って不可解だ
ということになるのでした。
お粗末様です。 >>353
その林檎はその林檎であるということはどうしようもなくトートロジーだと思いますが。
変化は微分方程式等で記述可能だと思いますが、論理学ではあまり扱わないようです。
無は無いということは一貫して言っていると思います。
階層論は素粒子物理学から生物学までを描き出すことを目的としていると直観的に考えていますが、
一般階層論はまだまだ遠い、あるいはあり得ないと思っています。 >>357
私としては、その林檎はその林檎ではない
という可能性もあり得るのではないかと考えているわけですが
これが一般にわかりにくいのはわかる気がします。
ちなみにこのような考え方が美魔女さんの言うメタ存在論
だろうとは思うのですが、それはご本人に聞いてみなければわかりません。
これは「私は考えているが私は存在しない」ということもアリになる論理です。
そしてこの論理に基づく確信は美魔女さんが「やすらぎ」としたものに直結する
まさに真理です。もはやほとんどビョーキです。
冗談はともかく
私たちはえてして冷静な視点を失いがちになります。
そして自分のおかしさには気付きにくかったりするものです。
たとえば私たちは天動説に基づくキリスト教的な宇宙像や
古代インド風の親亀の上に子亀が乗ってる的な宇宙像に違和感を持つようにして
アインシュタインやホーキングの宇宙像にはそれ程の違和感は持ちません。
しかし数万年後の文明人にとっては古代の宇宙像も現代の宇宙像も
突飛ということでは大して違わないものになるでしょう。
その未来人の宇宙像も宇宙人の目にどのように写るのかはわかりません。
これは知能が知能である限り永遠のテーマになるような気が私にはしたりします。
一方で形而上がどのようなものなのか、この解明は古代ギリシア以来の悲願
みたいなところがあって勿論私たちはその流れの中にいます。
そしてそこにメタ的な視点が必要になるような直観があります。
メタ的な視点というのは全ての知能に共有し得る視点です。
私個人はそれは、それは、それは、
絶対無理ゲーのような気がするところなのではありますが、
つまり私はあっさり見切りをつけて世俗にまみれる方針ですけど、
しかし魔法使いがどういう魔法を使ってくるのかは甚だ興味深いところなのでしゅ。
(プレッシャーかけてゴメン) 「私は考えているが私は存在しない」ということもアリにしたい論理です。
ではなくて? >>359
「アリにしたい」ということではなくて
「それはそうだ」としか言いようがないというかんじの
ただし論理というよりもむしろテンションだったかもしれません。
色即是空をもじれば考即是無であって
つまり一方では(そのスジでは)ことさら特別なことではないと思います。 ここの皆様は、どんな事象にも本質が存在するという考え方を否定しますが
思考は現実に存在しています。👰
存在する=何らかの意味の場に現象すること
世界=意味の場の意味の場
人生=絶え間ない意味の場の転換
更に全てを包む意味の場は存在しないので世界は存在しないことになります。👰 科学を神格化せず
全てを一元的に説明する公式=世界は存在しない。👰
そして人間とは精神の中を生きる意味を問い続ける存在。
この世界は物ではなく出来事の集まりです。 >>360
A即是空……
しかし、「空=空」ではるような。 >>363
「ではる」は「ではある」が正しいです。 >>355
右手は右手を触れるのでは? 握り拳によって。
>>356
私の知る論理学では、「A=A」はトートロジーです。
>>358
まあ、懐疑論だと思いますよ。 >>368
私は人は「A≠A」を思考し得ないと思う。 >>370
「A≠A」が変化を表すなら、きちんと表現しないと。 >>371
「A(t)≠A(t+h), h>0」とか。 駿河(するが)なる富士
「『する』=『なる』」不死 371はでこすけさん宛てということにしておいて下さい。 >>でこすけさん
「A≠A」が変化を表すなら、きちんと表現すべきだと思います。
「A(t)≠A(t+h), h>0」のように。 >>376
どちらも同じと見ることができる視点があるということです
あなたが>>358で言われているメタ的な視点になるでしょう >>379
あのー、私は358ではありません。:)
どちらも同じと見ることができる視点ですか……
私にはよく解りません。 >>380
ああ、失礼
スレを流して読んでいたので間違えました >>378
ここで言う「変化」というのが何を意味しているのかよくわかりませんけど、
例えば左辺のAが右辺のAに変化しているという意味合いであれば
そういうことではありません。
ある主観にとって(というよりも大半の主観にとってはそうなりますが)
左辺と右辺とは全く同じであったとしても
それを異なるものとして認識する主観もあり得るという意味です
(そして実際にあります)。
同じものは同じとしか言いようがないように
違うものは違うとしか言いようがない、
これはたぶん普通は病気と診断される状態です。
ただ超球面さん風に言わせていただくと
秩序は混沌のうちのひとつであって
このとき何も問題が起こらなければ何も問題は無い、
むしろ「やすらぎ」みたいなことがあるのであれば
その方が良いのかもしれない、
それはさらに自分が存在していないという観念にとりつかれたとき
頭がおかしくなったと思うのではなくて
なんだか闇雲にハッピーな気持ちになって
そしてそれで何も問題が起こらなければ何も問題は無い
ということにもなったりします。
そしてえてしてすべてに合点がいったりするようです。 >>387
ところで今一度繰り返させていただきますけど、
私は超越には本質的な意味は無いと考えています。
私はこれからも世俗で生きていきます。
これはこれで本当にヤバい問題は起こりません。
ただ意識のハードプロブレムという存在の際どいところを問題にするときは
そのあたりまで視野に入れておく必要があるのではないか
そのように考えるただそれだけのつもりです。
存在とは何か、認識するとはどういうことなのか、
主観とは何か、理性とは何か、何故世界は存在するのか、
これらを考察するためにはそれ以前に遡る必要があると思うのです。 >>388
「A=A」はア・プリオリか?
私はまだ遡ることができると考えます。
ただ、ニヒリズムについてはそれ以上遡ることができない気がします。
何故そこに何かが有るのではなく何も無いのか、
それは何も無いからだとしか思えないのです。 >>387-389
変化というのは諸行無常のイメージです。
そういうことではないのかな。
>それを異なるものとして認識する主観もあり得る
それは単に「A≠B」ではないですか?
「A≠A」に拘るのは何故でしょう。
>今一度繰り返させていただきますけど、
>私は超越には本質的な意味は無いと考えています
超越ですか。メタが話題だったような。
それらは同じようなものだとお考えでしょうか。
私は必然する(→)ということはア・プリオリで、
殆ど同時に同一である(=)ということもア・プリオリだと考えます。
私も「無」は「有」より根源的であると考えます。
「有」は「無→無」から構成されるからです。異論はあると思います。
ただ、私はニヒリストではないと思います。 >>390
因みに、否定(¬)は無への必然(→無)ですから、
無と必然(→)と連言(∧)から論理学の基礎は構成可能だと考えます。
あとは述語論理をどう考えるかですが、
私はそれよりも言語学的な数詞を導入すべきだと考えています。 >>391
連言(∧)は無と必然(→)から構成可能だとも言えますが、
連言(∧)がないと、語るという行為に支障が出るように考えています。
難しいですね。 >>390
>そういうことではないのかな
なんだか混乱してきました。
「それが何であるかを知らないことがわかります」
が脳裏をよぎります。
とにかく、 あの 瞬間 の 直観 は 理屈 ではない
お釈迦様でもみんなに悟りを授けるのは無理ゲーだろうとか開き直ります。
「A≠A」にはこだわっているというよりも、ただの語彙不足です。
とにかく言いたいのは、理性は普遍ではないということです。
>超越(中略)メタ(中略)それらは同じようなものだとお考えでしょうか
「超越」と「メタ」は「神」と「ゴッド」が厳密には違うように
本来は違うものなのかもしれませんが、この場合はあまり意識はしていません。
ただ、「超越」という表現の方が、ただしこれは私だけのような気もしますが、
異世界的なニュアンスがある気がします。
原文の文脈で言うと「向こうの世界で暮らす必要はない」ということになります。 今回は「A=A」にこだわります。
このとき、「A」という概念を理解できない主観にとって
「A=A」は真でしょうか、どうでしょうか、という問題です。
あるいはこれは単に理解できていないだけでしょうか、
それともそれは真ではないということになるのでしょうか。
論理学的には答えがある気もしますけど
私はそれは真ではないと考えます。
偽ですらないとも考えます。 A=Aは、一般的に考えれば「存在」(アイデンティティ)でしょうね。
常に真であることは、命題論理という体系の中だけでの話です。 存在論は企投を主題
メタ存在論は被投性が主題ですの。👰 >>393
>あの瞬間の直観は理屈ではない
私は理性と理屈は異なると思います。
>超越とメタ
私は異なると思います。
>向こうの世界
向こうの世界を知っているなら方足を突っ込んでいるようなものだと思いますが。
>>394
ナンセンスな記号列は真でも偽でもナンセンスだと思います。
>>395
Aは変数の代入された述語ではあり得るかなと思います。 >>396
存在論はメタ存在論を含み得る……かもしれません。 >>323
>物質が幻想であることを論証できればOKということですが
>やはり結構難しいと思います
私が「世界は幻想」とか言うときは二つの意味があったかもしれません。
まず、これは単純に認識の対象と認識している像との間には誤差がある
という程度の意味です。
それは何らかの化学物質が引き起こす幻覚のようなものではなく
感じている世界は構造的にそのまんまではないということです。
次に、認識の「対象」というのはどのようなものなのか、
一般には存在だと考えられているわけですが私は情報ではないかと考えています。
たとえばモニターに写っているコンピューターグラフィックは情報を映像化したもののようですが、
私たちが日常生活で実際に見ているものもそのような構造なのではないか、
クオリアとはよその主観から受け取った情報を元に構成されたものなのではないか、
そしてそう考えておけば意識の難問も解明できそうだということもあって
とにかくその方向で模索している、というかんじです。
もちろん難しいぶんには難しいことです。
>>324
もともと「意識」という言葉には色々な意味がありますが
私はいささか乱暴な使い方をしているのかもしれません。
「意識を獲得する」というのが自分を自覚できるようになるということであれば
それはたぶん猿が人間に進化して以降のことであろうと私も思います。
原始生物にも意識があるのではないかというのは
それが光に反応するのであれば光を感じているのではないかということです。
感情を持っているとか、言葉を持っているとか、そういうことではありません。
「単純な構造の意識」というのはたとえば光しか内在せず
言葉や感情はもちろん味や匂いや音さえも無いようなそういうもののことです。 >>394
私は「A=A」は真だと直観しますが、確かに他者はどうかは解らないです。
この時のAは、識一般であり、箱のようなものです。 >>323
>読解力、想像力共に弱くご面倒おかけしております
なによりも今回は前回よりも格段に文章がわかりやすくなっていて
そこのところのご配慮にはまことに感謝いたします。
言葉は思考を表現したものではなく思考そのものだと思います。
私はこれから哲学を学びたい人を意識して投稿しているつもりですが、
そのような方々には僭越ながら文章を書く習慣をおすすめさせていただきたいところです。
思いのほか効果がある気がします。恐縮です。 >>399
情報も存在ではありませんか。新しい言葉には毒がある。 >>402
まあ、しかし、存在も情報と言い得るか…… >>402
私が気にしているのは、情報など、コンピュータが発達するまで、
哲学者は歯牙にも掛けなかったということです。 >>404
視覚はインプット、CGはアウトプットですが…… >>405
あるいは、視覚は分析的、CGは合成的。 >>406
そう考えると人間とコンピュータは円環を成しているようで。
ゲーム中毒とかゲーム脳とかって、そういうものかも。 >>407
そのような円環構造は、でこすけさんの考える世界と似ているかもしれません。 >>408
特にスマホのような、入力と出力が一体化した機械。 >>409
自然には自然法則があり、コンピュータにはプログラムがあるという違い。 私が考えるように、仮想世界は世界の内側の存在(物質)であり、
多分、でこすけさんが考えるように、
仮想世界は世界を一般化したものだと言えるかもしれません。
私はこのようなことを考える時、いつも色のことを思い出します。
赤は1つの色であり、同時にRGBという全ての色を構成する性質だということです。 >>396
なるほど
>>404
たしかジョン・サールだったとおもいましたが
哲学はテクノロジーの影響を受けるみたいなことを言っていた気がします。
蒸気機関の時代は人間を蒸気機関に例えたり‥(忘れた)
私が世界をネットワークとしてとらえようというのもそういうことだと思います。
そのことについては賛否がありそうですが
私はそれでいいと思っています。
芸術にファイナルアンサーが無いように学問にもそれは無く
時代とともに絶え間なく変遷していくイメージです。
というのは人間の営みという視点からすればそれが健全だと思うためです。
なお、サールがどういう文脈で取り上げていたのかは全く記憶にございやせん。 >>411
私の考える物質は存在と殆ど同じなのですが、
唯物論や二元論を連想させるから、使わない方がいいかもしれません。
仮想世界は世界の内側に存在することについての説明は、
>>1の他者の意識についてのロジックと殆ど同じです。
>>412
私は時代に流されたくはありません。:) 不可避的に存在と述語、属性との間の混同を引き起こす危険があり
存在論が一種の不信の念を招くのは存在論を語る者が優れた意味で性質なき、規定なきものであるはずのものを
一つの性質として取り扱って更に実体化しているように見えるという事実から来るのです。👰
その結果 存在論の人は当たり前のことと存在をアイロペンと一緒にするような論理的に錯誤との間を揺れ動くという運命にあります。
解決は存在の普遍的現前の根底に置くこと。
そして私が不適当な言い方で思考の存在内部のもの、また同時に存在の思考超越性を認めること。👰
思考はそもそも初めから思考を越えたなにものかに関係しています
なので、でこすけくん、世俗の人、唯物論、実在論の人はそのものを思考が自分の中に吸収するかのように想定することは自分の真の本性を裏切っているわけです。👰 >>414
アイロペンとは何でしょうか? 一応ググってみましたが、ヒットせず。
>解決は存在の普遍的現前の根底に置くこと
何を置くのでしょうか? >>414
最後の文についてですが、でこすけさんが含まれる理由がわかりませんし、
美魔女さんは世俗の人ではないのでしょうか? >>416
世俗の人に関しては、プライベートに当たると思いますから、
答えたくなければ、すみません、スルーして下さい。 私は曲がった空間は曲がっていない空間の内側に存在すると思いますが、
非ユークリッド幾何学の存在は認めています。
同様にでこすけさんの仮想世界論も>>411の考察を以て認めるようになりました。
ここまで来るのに、大分時間は掛かりました。
新しい考えが腑に落ちるまで、それなりに時間は掛かるようです。 >>418
認める、というと尊大な感じはありますね。
解る、と読み替えて頂いた方がいいかもしれません。 >>399
>感じている世界は構造的にそのまんまではない
例えるなら素粒子がスカスカみたいなことで合っていたでしょうか?
>次に、認識の「対象」というのはどのようなものなのか、一般には存在だと考えられているわけですが私は情報ではないかと考えています。
私としては、情報を認識するために選択された意味内容が認識の対象で
情報は認識の対象を決定するための選択肢といったところです
>たとえばモニターに写っているコンピューターグラフィックは情報を映像化したもののようですが、
私たちが日常生活で実際に見ているものもそのような構造なのではないか、
視覚情報をもとに物理的にコンピューターで再現したのがグラフィック映像なら、写実構造の発想は同じようなものなのでしょうね
>クオリアとはよその主観から受け取った情報を元に構成されたものなのではないか、
そもそもよその感覚の質?を想像することしかできないので、想像されたものがよそのクオリアを構成したことになるのかすらわかりません。
>原始生物にも意識があるのではないかというのは
それが光に反応するのであれば光を感じているのではないかということです。
「単純な構造の意識」というのはたとえば光しか内在せず
言葉や感情はもちろん味や匂いや音さえも無いようなそういうもののことです。
そういう単純な生物は単純に光を受信する器官が反応するだけで、単純な構造の意識を必要としないのではないかと思います A=Aは、同義語反復であり、論理学においては常に真である。
これはAが「アイデンティティ」を持ち「存在」する、ということでもある。
ただし、Aは「偽」であってもよいw
Aが「真」である、なんてことは、語られていないw
ここで扱われる「存在」は、主観からは逃れられていない。
たとえ自立的「存在」であっても、主観的「自立的存在」であるw
実在であったとしても、主観的実在なのだw
それが(本家)実在であっても、主観的(本家)実在なのだ。 主観を体系の内側に持ってくると「矛盾」する。
主観は体系の外側にあり、それゆえに体系は「不完全」である。
この、体系というものの境界およびその近傍には、さまざまな構造を見出すことができる。
主観というものも、そのひとつである。
あくまでも(主観的に)「見出す」ことができる、のであって、主観的存在からは逃れられないw
そうなってくると、「主観」すらも主観的存在であるw
無限の繰り返しとなり、それゆえに(第一)不完全性定理の世界なのである。 意識が深淵の前に立つとき
解決は
神性との、つまり宗教的な庇護ある安らぎの中にあるように思えるものなのです😃 >>421
私は「A」は「Aである」と読むことは多いです。
「Aである」ことは「存在する」ということはトートロジーだと思います。
後半に関しては概ね同意です。
>>422
>主観を体系の内側に持ってくると「矛盾」する
何故矛盾するのでしょうか。
核心のようにも思いますから、詳しく説明して頂けると助かります。 >>424
主観主義、つまり全ては主観であるということと矛盾するということでしょうか。 >>416
私も>>414を充分に理解できている自信はありませんので
「たぶんこういうことなんじゃないかな」というかんじでのことです。
要するに>414は「みんなは誤解している」というおはなしです。
全体の構成は「こういう状況があって、つまりみんなは誤解している」となっています。
しかしその状況について、私は漠然とは理解できる気もしますが
具体的に何のことかがさぱーりイメージできません。
その上「普遍的現前」が引っかかります、
私個人は記憶の限りで初めて見た言葉ですけど、語感からすると、
普通の知能には見極めることが困難なもののように思えます(小声)。
ただ、私が誤解している(美魔女さん的に言って残念なことになっている)
というのであればそれはそうだとは思います。むしろ私は確信犯です。
美魔女さんはつまり「普遍(真理)」を模索しようとしているのに対して、
私は「妥当」を模索しています。
私は今知られている限りの中で矛盾の無い解釈をしようというだけのことで
これはたとえば将来私の世界像と矛盾する事態が起こればそのときは
そこに修整を加える必要があるということです。
で、私としては>>412で「それでいいじゃんか」としているわけですけど
美魔女さんは学級委員長だったのでしょうか、
「でこすけ君はちゃんとしないといけないと思います!」
とかコーゲキしてくるわけです。
私としては哲学を真面目にやろうというのであるならばそれはそうだし、とりあえず黙るしかありません。
美魔女さんの文章は助詞に誤りが多い気がするんですが、それはたぶん
彼女の頭の中でどんどん考察が展開されているためではないかと察します。
そういう人はえてして早口で、そして私はぐんぐん捲し立てられて、
すなわちよくあるコミュ障タジタジの図です。
さながら学級会の地獄絵図でした。
ところで時計さんは「時代に流される」ことにはどのような弊害があると考えますか?
私はむしろ流に逆らわないのがいいのかなとか思っています。 >>418
仮想現実というのは意識の内側と外側とにはズレがある
と言い換えられるのですが、
意識の外側は無いとする時計さんにとって世界は普通に現実だと思います。
むしろ私には色のはなしがピンときません。
そのあたりが互いの考え方の違い(世界観以前の)なのかなとも思います。 >>424
主観世界とすれば、主観世界の中に主観世界は存在しません。
「世界は存在しない」ですね。
もし、主観世界という体系の中に主観があると、それは主観的主観であって、
最初の主観世界とは違うものです。
無限レベルの主観的主観的...主観も存在してしまいますw
主観世界に、主観的主観ではない最初の主観があると、矛盾します。
(このへんは集合論のパラドックスになります)
主観世界における主観は、(最初の)主観ではないもの(主観的主観でもよい)であればよいわけです。
主観はひとつしかない、というのは、そのような「世界」の問題です。
(しかしながら、この問題は、多主観世界(主義w)では非標準的に解決済みです(ヒミツ)) >>420
私事で恐縮ですがちょっと時間がないので今は一言だけになってしまいます。
おそれいります。
子のレスの中で私が一番気になるのは7行目あたりの「選択」です。
もう少し具体的にうかがってみたいというかんじです。
いかがでしょうか。恐縮です。 >>428
うーむ、そういうことですか。
私なりの仮想世界(仮想現実)の理解だったかもしれません。
私は、ズレのない意識の外側と呼ばれるものもまた意識の内側に存在すると考えます。
私は、意識の外側は無いと考えますが、世界は現実に限るとは思いません。
色に関しては、アナロジーに過ぎず、今後考えて行きたいと思います。 >>429
なるほど。少し解ってきました。
主観が主観世界の内側に存在することは、
確かに集合論のパラドクスと関係しそうです。
ヒミツはいつか明らかにして頂けるといいのですが。:) >>427
美魔女さんの文章は確かに読み辛いですね。
>「時代に流される」について
私は例えばインターネットが隆盛したら、インターネット的に考えるとか、
AIについても、そういうことはもういいかなと思っています。
しかし、技術の恩恵には授かりたいと思っています。:)
パソコン、便利です。スマホ、便利です。
使えるものは使う、しかし流されず、という感じでしょうか。 >>433
私は、AIとかITとか色々流行はありましたが、
世界はコンピュータ、あるいはゲーム的なものに着実に侵食されていると感じます。
流されないということは、しっかり観察することでもあるかと思います。 >>433
「恩恵に授かる」は「恩恵に与る」が正しいですね。 >>435
「さずかる」も「あずかる」も両方あると思っていました…… 414の美魔女さんのは
オートマチックとかフレーム問題、傀儡とか
自動運転車は、個人幻想ではフレーム問題でフリーズ中的
共同幻想的にはナントナクの問題解決の連続
対幻想的にはソフトもハードも自他ズブズブ状態
で運転手の思考は超越か、行き先選択決定とは的なもろもろ
比喩だとこんなニュアンスかなあと あるいは、いわゆるsexでの膣内に放たれた投企的精子にとっての状況
被投は子宮(マトリクス)、卵子側的の状況
精子の精神w、精子の意志と表象とは
受精卵として、であってもステージ違いというだけで同じ 私の存在論が単なる一般理論ではなく具体的な人格の経験の中で初めて充実した意味を持ちます。だけでなく、日常生活にでもぶつかる個の問題よ実は形而上的な意味を宿していることを示しています👰
私の思想そのものに劇曲や音楽を感じとってもらってたらいいです😃音楽も方法です。 主体として「私」を語る、この「私」はどういうものとして存在しているのか、世界を眺めてる一般意識ではないし身体とは別の精神としても出来ないのです😃 訂正
日常生活でもぶつかる個の問題は形而上的な意味を宿していることを示していまふ。👰 >>420
>例えるなら素粒子がスカスカみたいなことで合っていたでしょうか?
それもそのひとつだと思います。
とにかく色も音も味も匂いもすべて意識の内側にあるものは
その外側にあるものとは誤差があるようにチョッカンするものです。
>情報を認識するために選択された意味内容が認識の対象
私は認識は基本的に選択だと思います。
普通は膨大なノイズの中からお目当てのものに確実にスポットをあてています。
たとえば私たちはオーケストラがジャジャーンとやっているなかから
ピアノの音だけを聞き分けることができます。
超熟練すると、その演奏が誰の演奏かを演奏だけで聞き分けたりすること
さえできるようになります。
これは日常的にやっていることなのであまり疑問に思わないことかもしれませんけど
じつはすごいことのようにも思えます。
そのメカニズムはどうなっているのか、
たぶん学問的なファイナルアンサーはない気がします。
もちろん私たちも当てずっぽうなことしか言えませんが
216さんに何かイメージがあるのであればうかがってみたい
ということでした。いかがでしょうか。
>写実構造の発想は同じようなものなのでしょう
少なくとも夢はそういうものだと思います。
じつは現実もそういうものであっても不思議ではないと考えます。 >>420
>想像されたものがよそのクオリアを構成したことになるのかすらわかりません
そこで私はチョッカン主義とか言って、当てずっぽうを信条としています。
しかし私たちの直観はけっこう当たり得る、
そして何故私たちにこのような能力がそなわっているのかは
形而上学の課題だと思います。
>単純な生物は(中略)単純な構造の意識を必要としないのではないか
これはつまり216さんは物心二元論の立場をとっているということで
よろしいのでしょうか。
もちろんどのような立場をとるのかはそれぞれの自由です。 何故 私と同じ方向で考えてないかとあうと、人間全ての人に当てはまりますが
無意識にあるもの それは 生きている意味がわからない、これはとても深く苦しいものです。一般市民も実は 無意識にどこか病んでるところがありますし君達もある筈です。 今の生活が安全だから嫌なことはなにもないとかそういうことではなく😃
そもそも人間誰もが何のために生きているのか、自分の本当の価値とはなにか、人生の目的はなにか、
病気になってなくても人間の根本の大昔からの共通するテーマがあります
私のは全てそれに沿ってあるものです😃 人間誰もがある共通するテーマ
生きている意味がわからない、とても深く苦しいものです。
そもそも自分は何のために生きているのか、自分がなんの価値があるのか、
何故苦しくても生きていかないといけないのか、どうせ死ぬのに生きる意味はあるのか、自分の人生が無意味に思えてきてついには自分の存在そのものが居なくてもいいようになります。意味が有るならまだ頑張れますがわからないと苦しいですね。
現代では自○や安楽○や心の病が増えています
現実の幸せとは全て仮の幸せです
仮の幸せに裏切られる人生ではなく本当の幸せを掴める人生とは。
人生の目的はなにか、
そもそも自分は何のために生きているのか、考える時代です。
恋愛が全て上手くいく全て成績も一位で仕事も全てずっと上手くいく
でも現実は違う。
全て幸せは仮の幸せです
最後は変わっていく 無くなる。
だから人は虚しく苦しいものなのです。 科学では人間の心は脳や体や周りの世界とのやり取りによって継続的に作り出される。脳は体の調節するために進化した。思考、感情、感覚、その他の精神能力はそうした調節する結果なのでしょうか。
それだけでは人は救われません。 あなたの良心は何と語るか、
本来の己自身になれ
は決して時代遅れではありません。😃 多主観世界を単純に考えると、二次元で済んでしまう。
情報が二次元上に記述可能だということは、そういうことだったのかもしれない。
主観主義は二次元だ。
多主観世界は、ひとつの主観からは二次元だが、量子でもあるので「もつれ」ている。
二次元の重ね合わせである。
二次元上に記述したとしても、いたるところで結合しているので超立体化する。
貼り合わせの部分がある。 自己交差の The Cross(十字架)を一生抱えていくのです 個人的に>>414でしきりに気になっているのが
「思考超越性」「思考を超えたなにものか」です。
「それ(根源的覚醒)は意識ではないけど
考察を待たずして私を充実しているものです」
こういうことを言う人がそうそうトンチンカンなことを言うとは
思えないのです。
この場合の「超越」というのがどういうことなのか
私ごとながら今一ピンときません。 >>452
私がとりあえず思いつくのは時計さんにとっての「自由意思」です。
これこそトンチンカンかもしれませんけど
アナロジー的なものとしてあり得るような気もします。
たとえば時計さんの前に手品師が現れてカードを一枚選ばせたとしましょう。
時計さんは何らかの考えに基づきそのなかから一枚選ぶとしても
そのカードはじつはえてして手品師があらかじめ選んでおいたカードです。
私は世の中のことはたいていこういうようなことだと考えます。
買い物をするにしても食事をするにしても旅行に行くにしても
大抵のことは選んでいるのではなく選ばされています。
選ばせているのはたいていは「見えざる手」ですけど
場合によっては特定の資本家による誘導さえあるでしょう。
私は自由意思は無いと考えます。
しかし時計さんはそれらをすべて飲み込んだ上でなお「自由意思はある」
と主張してくる気がします。
時計さんにとって「自由意思」は超越とか絶対とか
そういうもののような気がするのです。
そしてそれは(たぶんここがポイントです)思うに必ずしも「信仰」とは限らず
論理的な「解釈」として成立し得るような気がするのです。
これは主観を世界の中心に据えれば確かに必然になるような気さえします。 >>453
私のイメージでは「思考」というのは壁に書かれた絵のようなものです。
一般的に言って壁は存在ですが絵は存在ではありません。
しかも絵は見る人によって解釈が様々になるようなものであり
超越とか絶対とかは無縁のような気がします。
それでもその付近に超越があるとすれば
それはどのようにして可能なのでしょうか。
私にとってはナゾです。 一般市民でも私とは知能50は差があるのに犯人よ、お前 何を呑気にしてるねん😃
お前に発達があるかどうかだけの問題やろ。お前みたいに 呑気にしてる一般市民居ないぞ >>453
私は自由意志は存在すると思います。
時間のように、極めて根源的なものとして。
>>455
「絵はそこに在る」と語り得るものです。
「在る」と語り得るものは基本的に「存在」だと私は思います。 超越(transcendence)、超越性(transcendency)。
ただし、超越性(supremacy)は、意味が異なる。
超越的(transcendent)と超越的(transcendental)は、微妙に異なる。
超越論的(transcendental)もある。
調べてみると、結構「間違って」使われているw
多主観世界では、超越/内在が適当か? どれにしてもなんらかの「境界」がある。
とりあえず、内側と外側があるとすれば、
境界から離れた外側・境界の外側(外面)・境界の内部・境界の内側(内面)・境界から離れた内側
の5つが考えられる。
外部・境界・内部というわけ方もある。
外部・内部というわけ方もある。
境界の内部は、数学的可能だが、これを認めないわけ方もある。
メビウスの帯のようなものを考えると、境界に2つの面はあるが外部も内部もない。
いろいろ考えると、最後のメビウスの帯がよさげ。いちばん量子っぽいからw ラカンの「知覚の現象学」
「シーニュ」
「みえるものと見えないもの」
メルロポンティの身体の現象学が前期、スティール論と偏差論が中期、肉の存在論が後期で。更に思想の転回。この過程は構造の思想としても構成の現象学から制度化の現象学への転回と両義性の思想から可逆性の思想への転回更に身体からの思想への転回から身体性。
一番重要なのは両義性の思想から可逆性の思想への転回。
両義性とは真と偽、主観と客観、二項対立を解消するもの。
つまり、真であるものは偽、偽であるものは真です😃
可逆性とはリバーシビリティーよ。👰 あんた達!私が胸小さいと思って なめてるでしょう❗
しゃらんらーーーーーーー 10 名前:考える名無しさん 2021/09/30(木) 13:00:09.54 0
特徴8. 顔の見えない女性の写真をLINEやTwitterなどのプロフィールにしている
ネカマの男性は、女性としてのプロフィール写真を自分で準備できません。
そのため、素材写真を使ったり、TwitterやInstagramなどSNSで拾った女性の写真を
プロフィール写真として使います。
他人の写真を無断で使うため、横顔や顔、体の一部をアップしているなど、
正面の顔が映っていない写真を使っているのが特徴です。 >>460
むかし、確か小室直樹氏だったと思いましたが
日本は世界で最も成功した共産主義社会という言葉がありました。
文化的に豊かでありながら経済的な格差の小さい社会という意味では
そういう側面があるかもしれません。
そしてたとえば十万年後、日本が滅んでいて、その荒廃した列島を見たその時の人たちが
「ここにかつて共産主義社会が在った」というかもしれないとき
共産主義社会は存在し得るのか?という無理やりな問題です。
少なくとも私たちは今の日本列島に共産主義社会が存在するとは思わないはず
です。
せいぜいそのように解釈でき得るかもの程度です。
私は存在することと解釈することは別だと思います。
たとえば「絵」は認識されている世界の解釈のひとつに思えるのです。 おい、でこすけ しつこいなあお前も、お前が自己紹介で自分には障害があると話してるから、イチイチ言わなかったけど。 お前達が研究してるのも世俗の考えから 離れるために 研究するわけであり。 それというのも この世界の本質はおそらく裏切りの側にあるからです。
この世には確信できるものは何一つないからです😃 道は世俗の論理的思考のは領域で求められるものではなく、世俗の論理的思考の客観化そのものが問われるべき事柄なのですから。😃 訂正 道は論理的思考の領域で求められるものではなく 存在論的神秘への道は忠実、希望、愛なんかのように ある意味、霊的な解明をしていくことに求められるものだからです😃 そこでは人は、誘惑と戦うあるものとして現れてくるのです😃ただし純粋な形而上学はこれ等の誘惑の根源が人間の本性そのものに内在的に不変の性質の中で宿っているのか、或いは歴史的に起こした破局的事件の結果生じた本性の腐敗なのか決着を付けることは出来ません😃
存在論の重要なのは忠実です
忠実とは実際、ある存在論的な永続してるものを理論や言葉の上でなくジッコウニ於いて認証すること、その永続してるものをそれ自身が時間を通して持続してそれと関連を持つことにより我々も持続しているものでありうるのです。
なのですから永続してるものを単なる妥当や法則でなく形式でもなく歴史を要求します、忠実とは瞬間毎に否定することをできるものを永続させます
存在論的価値が優れているほどいっそう創造的なのです😃 このように方向付けられた存在論は明らかに聖書の啓示に向かってるのです。👰
ただしそれは聖書の啓示を要求擦ることもなく予測することもなく条件にもならず、絶対に理解できるものではなくしかし受け入れる準備はできる、
実はこの存在論は予め聖書啓示によって準備された場所に於いてしか展開されないことが事実です しかしそれは驚くことではなく
形而上学が育つことはそのことを促す状況でこそ成り立つし私達が置かれている状況に於いてその点で本質的な要因をなしてるのはキリスト教的な存在です。👰 >>470
存在を解釈するのではないかと、私は思います。 主観主義(強い主観主義・弱い主観主義・多主観世界主義w)では、
「存在」は、確かに「解釈」ですね。
「実在」は主観的実在でしかないとw
(強い・弱いというのは哲学にあるのかどうかは知らない。
物理あるいはせめて科学哲学であれば、強い・弱いがあるだろう。
ジャンニ・ヴァッティモ か...) ジャンニ・ヴァッティモは「弱い思考」。
だが、彼は現在共産主義者である。
しかしながら解釈学的共産主義なので、イタリアでなければ粛清されているだろうw
超越論的構造も拒否しているとのことだが、
多主観世界主義は超越論的構造を(非標準的手法で)扱っているのだw 「多主観世界主義」という造語を気に入ったのだが、
これは「非標準超球面論理Nexus/CDT」と同じ意味である。
「主観」は「CDT」として付加されている。
主観が三角測量しているのである。 >>481
元々は、壁は存在、絵は解釈という話ですから。
両方とも解釈なら一理あると思います。 >>497
まず、クオリアから。
クオリアは感覚を意識することだと私は考える。
そして、クオリアは存在だ。
クオリアはイメージだと言えるだろうか。
キツイような気はする……
が、逆転はあり得ると思う。
イメージを想像と置き換えよう。
像を想うこと。無理やりだが、感覚=像、意識=想と考えると、
クオリアは想像かもしれない。
しかし、この主張に何か新しいところがあるかと問われるとないかもしれない。 >>498
違うの?
>>499でせっかく考えたのに。 >>497
次に、実在。
実在は、繰り返しの経験で得られた確かな存在だと私は考える。
一言で言うと、恒常性だ。
移り行く実在もあるのではないかと思われるかもしれない。
しかし、その移り行くということは恒常的ではないか。
実在は存在だ。
>>499と同じような議論だが、像=存在の像、想=経験的推論だと考えると、
実在は想像かもしれない。
しかし、やはりこの主張に何か新しいところがあるかと問われるとないかもしれない。 >>499
逆に、次のかど右折だっけ?
とか意識しながら歩いてて、
鰻を焼いた匂いのクオリアに
意識を奪われたりたりしないかい? >>501
想像はイマジネーション、イメージは心象、だいぶ違う >>502
だから、クオリアは感覚への意識ではないですか?
>>503
確かにそうですね。あるいは像ですね。
まあ、イメージを想像に置き換えられたら、と読んで下さい。 >>504
ただの像の時は考えましたが、抽象的過ぎて議論が難しいです。
少し考えさせて下さい。 >>505
像を写像と考えてみる。
クオリアは写像か。
感覚は、唯物論的かもしれないが、像ではないか。
写=意識だと考えると、>>499の議論のようにクオリアは写像かもしれない。
実在は写像か。
写=経験的推論だと考えると、
>>501の議論のように実在は写像と言える……かもしれない。 >>461
「超越」は例によって階層論に基づくと
創発された上位ということになると思います。
つまり下位に依拠していながら
その階層には無い要素を持っているものです。
となると「超越」はそれほど大したことではないかんじです。
しかしそもそも階層論を理解している人がいない気がしてます。
>>464
今度から「メグちゃん」とお呼びすればおよろしいのでしょうか、
しかし若い人にはこのボケはわからないと思います。
なお、5ちゃんの高齢化みたいなことが言われますが
哲学板については自然選択によってその世代が生き残った
ということではないかとか考えました。
>>471
聞き飽きただろ?私も疲れた。
>>472
俺だって繰り返したくて繰り返しているわけじゃないやい!
そんなことより何故思考が現実に存在しているのか(>>361)
さっさと教えやがれ下さい。 聞く相手が存在しないから思考で現実に存在する、それでこそでこすけさんですから >>472
ところで「聖」と「俗」との境界について、
マジックマッシュルームによる幻覚どころかコーラのシュワシュワ感さえ神聖
と位置づける社会があることを思えばかなり曖昧であろうと考えるわけですが、
美魔女っ子メグ様がどのようにお考えかは計り知れないところがあるにしても、
私としては後付ながら次のように考えます
というお話です。 >>509
私が思うに、私たちがこのスレッドでやろうとしていることは
民俗学的なところから見れば典型的な通過儀礼のパターンです。
通過儀礼の基本は古い自分が死んで新しい自分に生まれ変わる「生・死・復活」
ですが、「死」というのはえてして「異世界」で象徴されます。
なお異世界を通過するから通過儀礼と言うのかどうかは忘れましたが
この異世界というのは相対的に決まるものであり、つまり基本的に曖昧です。
田舎ものにとっては都会であったり一般ピーポーにとっては芸能界であったり、
そこでたいていの人は異界に足を踏み込んだあと
元の世界に帰ると何らかの成長をしていたりするものなわけでした。
そして私たちにはアホから覚者へとのメタモルフォーゼ願望があって
それを可能にするのが「真理」という構図です。
そこに「アストラル界」か何だか知りませんが「悟り」という現象があります。
私は悟りというのは例によってある種の幻覚だと思っていますけど、
世間では神の存在を疑っているキリスト教徒でさえ
仏教的な修行をすると悟りの境地に達するみたいな信仰があるようで、
それは毒を飲めばたぶんタヒるように修行をすればたぶん悟るものなのであって
もはや身体的可能性の真実といういきおいです。
で、それは別に信仰の問題ですから個人の自由でいいんですが、
ただ人間には二通りあって、向こうの世界に行っても折を見て帰ろうと思う人と
その一方で行ったきりになる人がいるということとがあります。
このとき行ったきりになる人というのは言わばシャーマン体質なんですが
アストラルにとどまりたい我らがメグ様はまさにシャーマンです。
両性具有が何よりの証拠でしょう。
そういう意味で私は世俗に返ってきた人であるのに対して
美魔女さんは向こうの世界の人ということになります。
ちなみに「向こうの世界」に何ていう名前がついているのかは存じません。 >>480-481
なるほど、ひさびさにガツンとやられました。
仕事帰りの電車の中での出来事です。
「存在」もイメージというのは何で今まで気付かなかったのか
くらいの案件です。
上り下りやったことが報われた気がします。
持つべきものは友というやつですか、感謝感謝でございます。
さて、私にはまだよくわかっていないことがあります。
「我思う故に我あり」の段階で何故私は「存在」を知っているのか
という問いです。
しかもそれは私だけでなくみんな知っているのです。
ここでアホレベルのはなしをすると
私が聞きかじった話によれば演繹法と帰納法とは循環します。
演繹法は帰納法によって、帰納法は演繹法によって正当化されるもの
ということなんですが(具体的には思い出せないスマソ)
この循環の中に私たちはどのようにして潜入したのか、
さらにはそのふたつを下支えしているのが自然界の斉一性とのことですが
私たちは何故それを知っているのか、
つまり暗黙の了解とは何なのか、
このあたりが課題になって行くのかなと思った
というおはなしでした。失礼しました。 >>490
そういえば「ぴかぁ〜」て何だか見たことがありますね!随分昔です。
組織犯罪説は個人的に斬新です。
>>508
率直に言って何をおっしゃっておられるのかよくわかりません。
508さんは存在しないのですか?
なお、唯我論系は時計さんの担当です。
(私は唯心論系)
>>501
確かに「星の住人」というのは微妙で良いと思います。
本人に直接は言いづらいですけど。 >>513
>501は>>511の誤りでした。失礼しました でこすけ君の慎重さや言いたいことはすごくわかりますが、
さて
関係そのものに何か不変のものを含んでいることをまず認める必要があります😃
この不変のものの本性を探求して行くことこそ問題なのであって
それを把握するためには何処から出発するかです😃存在そのものからか、神の約束に向かってのことか、出発しないといけない必然性があると 昔から偉大な学者はみんな思って来たわけでして
超越のはたらきは神の側から私へのはたらきと存在論的に対をなしてです😃
そのはたらきは私の自由も秩序付けられた定義が出来ます😃
恩恵と信仰の間の関係は忠実さに存在します でこすけ君の意識状態を越えたものを把握することは私に不可能だと宣言するとき認識の概念に対して怠惰な仕方で対置しているのです。
どんな架空のものと考えるにせよ
その座標軸がなくてはでこすけ君の意識状態という表現が意味を失ってしまうことは明らかです😃
何故ならそれの表現の意味(でこすけ君の)は制限付ける形でしか定義がされないからです。👰 訂正
でこすけ君の意識状態を越えたものを把握することはでこすけ君には不可能だと宣言するとき >>513
担当とかないですよ。:)
本当に大切なことは中々語られないものです。 >>512
私の考えでは、感じるから在ると考えるということと、
我思う故に我ありということは並行的です。
要するに、哲学的には、コペルニクス的転回の前段階という感じです。
歴史的だから価値があるのであって、論述としては弱いように思います。 >>510
私は悟りは超自然的だと思いますが。
超自然的と言えば、私は、預言は存在すると思います。
イスラエルの国家の成立は聖書に預言されていたという考えには辟易しますけど。
「向こうの世界」という考えは面白いですね。
プラトンなんかは、「向こうの世界」から「こちらの世界」に
語りかけているようにも思えます。 >>519
我思う故に我ありは詩として優れている…… 「不変性」あるいは「不変量」。
これがすべての「元凶」ではないか、と思い当たった。
ネーター(人類でいちばん頭がよかったと思われる女性)が生きていれば...
この「不変性」をどのように考えていたのか聞いてみたい。
「不変性」は「主観的」でしかありえない。
すなわち、「主観的」とは「不変性」を担保するものである。
(いつものように酔っていて、よく考えずに書いています)
「主観的」とは「不変性」をめぐる物語なのである。
そうなると、「多主観世界(主義)」とは、「不変性」の異なる多数の世界を重ね合わせたものなのかもしれない。 そう考えていくと、「意識」というものも、「不変性」をめぐる物語なのであった。
「存在」もまた、「不変性」(=自己同一性)である。
「(本家)実在」は、検証できないゆえに、科学では扱わない。
「実在」は、科学どころか、哲学でも扱えるものではない。
これを扱う哲学は「疑似哲学」でしかない。 >>525
(本家)実在に関しては、永遠に到達できないか。 >>515-
とりあえず白状すると目下の私には光(流れ的に「光」としておきましょう)
が見えていません。
探究の必然性は限りなくある気がしませんし
そもそも表現に制限がつくことにもことさらな不満がありません。
強いて光があるとするならば美魔女さんが何かを持っている可能性です。
つまりゴマをすり倒すわけですけど
ただしこれも可能性に過ぎないものであって実際にどうかは未だわかりません。
むしろ私としては美魔女さんの言葉に何故悲壮感がまとわり付くのか
それが不可解です。
キルケゴールにしてもそうですけど
所詮人間なんてものはメシ食ってクソ垂れて寝るだけのものです。
それでもまっとうに生きていればメシは美味いしクソは気持ちいいし
寝るのも悪くはありません。「死」すら希望であり得るものです。
哲学はゲームです。
適当に楽しんでおけばそれでよろしいというただそれだけのものです。
「座標軸がなくては(中略)意識状態という表現が意味を失ってしまう」
もともと生きることの意味は自分で見つけるのが実存主義だったはずです
(そしてそれは可能だと私は楽観しています)。
もはや知性として存在するがゆえの限界は
私にとっては存在のナゾを解く重要な手がかりのようにさえ思えます。
ほとんど唯一の希望です。
脳天気というのはそういうものです。 >>527
真面目に反論すると、人間の条件には、
言葉を使うことや知的であることなどもあるかと思います。 私はその答えは超球面さんが言っていった
「バナナの皮が自分を踏んでコケるようなもの」云々
と投稿しようと思ったら本人が上で「疑似哲学」とか言ってました。
残念。
>>528
ようするに難しく考えてもしゃあないやんけ、というおはなしです。
言葉は所詮ツールです。ツールに使われてどうする。
私は個人的に振り回されっぱなしですけど。 >>529
いや、(本家)実在を、つながりなくしてあるものとしているから疑似哲学なのです。
つながって(バナナの皮が自分自身を踏んで)いればよいのです。
いま、まさに、不確定性定理によって体系外に追いやられたものを、
体系内に持ってこようと考えています。バナナの皮です。
このヒミツは、体系という境界の近傍(周辺)の構造にあります。
非標準超越論wですね。まだヒミツですw
ある種の非標準階層論ですよ。
(いつものように酔っているので、この発言には責任を持ちませんがねw) × 不確定性定理
○ 不完全性定理
酔っているなぁ... ま、なんにしても、(本家)実在の定義とは関係なく、
「実在」と「語る」以上、それはつながっているモノのです。
だから、バナナの皮理論でもあり、でこすけ氏も時計氏も、「語って」いる以上、
その語られた「実在」は(本家)「実在」の定義を超越wして体系内に戻っているのです。 >>530
所詮使えないツールを振り回していると言われているんじゃないでしょうかねぇ >>451
>自分の十字架を背負うこと
私にはそれは理想のように思えます。
実際問題として誰にでもできることではありません。
そもそも人間にはそれを可能にする自由意思が無いのです。
切実なことが様々にあるとき
呼びかけるだけでは心もとない気がするのです。
私は世界を動かしているものを「見えざる手」と表現していますが、
もしその流れを変えようとするのであれば
このシステム自体をコントロールする手立てが必要になると考えます。
変えるべきなのは個人ではなく全体だと思うのです。
私はこの変化が起こるとすればひとりひとりが同時多発的に覚醒するのではなく
誰かがまずそこに到達して、そしてそれが広がっていくイメージを持ちます。
どれほどの大事業であっても一人の人間の小さな一歩から始まるわけです。
私としては身の程知らずにも模索をしてはみるのですが
当然ながら知恵が足りません。
この付近には私よりも素養のある人が大勢いらっしゃるようですから
アイデアをお持ちであれば是非ともご教授いただきたいところです。
いわゆるスレチになりそうではありますが… >>535
私はこれからの時代は絶対にヤバい時代だと思います。
何しろ多くの人に危機感が無いのが一番ヤバい。 >>536
見えざる手が見えない人はなるようにしかならない、もともとそういう存在 >>531
私の考え方は小学生レベルです。
たとえば「宇宙」という言葉を説明するとしましょう。
このとき「空間」という言葉を使ったとします。
次にこの「空間」という言葉を説明するとしましょう。
このとき「宇宙」という言葉は使えません。
そこでとりあえず「時間」という言葉を使ったとしましょう。
すると「時間」を説明するためには「宇宙」と「空間」は使えません。
この調子ですべての言葉を説明しようとすると
最後は使える言葉が無くなってしまうでしょう。
しかしです、しかし私たちはあらかじめ何かを知っています。
しかもじつは「宇宙」とは何か本当のところを言葉で説明できなかったり
もするのです。
何かを知るためには何かを知らなければならない、
どのようにしてこのことが可能になったのか、
このことは存在と知とが密接に関係していることを示唆している
ように思えるのです。
ループしてるんじゃないかとか考えたりするわけです。 システムがパノプティコン構造だと看守(root?)は
いてもいなくても機能するけど >>534
私としてはまことにまことに僭越ながら
自分のことをアブだの道化だのと言いたくなる気持ちがわかる気がします。
私はさしづめ壊れた目覚まし時計でしょうか、
買い換えようと思って貰えるだけでもいいのかなとかそういうかんじです。
スレ主と被りますけど。
>>537
敢えて反論しますけど、
自分に子供がいたらそんな悠長なことを言っている場合ではないです。
日本が将来ウイグルのようになる可能性さえあるのです。
真面目に考えておいた方がいい気がします。
おそらくコロナ禍はほんの始まりでしょう、陰謀論を煽りますけど。 >>539
なるほどそれはある種の「見えざる手」ですね。
あっさり答えが出たではありませんか。
それでは具体的にどのようなものをどのようにして造るのかです。
最終的な目的はみんながハッピーな世界です。
いや、これはまた別の意味でヤバい話題を振ってしまった気がします。
ジバクでしょうか。 でこすけ君 人間は精神ですね✨精神とは自己ですね、自己とは今生きてる自分自身ですね✨だから本当の自分であろうとする自分から目を反らしている状態が「絶望」の始まり。👰つまり
自分をごまかしている状態です😃
殆どの一般市民もそうであり
でこすけ君もそうであります😃 絶望は人間だけがかかる病気です😃
それは人間が動物以上の存在である証拠です😃
あとはそれに対して目を背けず
主体的に関わっていくこと。👰 絶望とは でこすけ君や一般市民のように絶望であることを知らないでいる絶望と自分が絶望していることを自覚している絶望があります😃 無限の絶望
有限な絶望
可能性の絶望
必然的な絶望
やはり人間は絶望することのが良いということです😃人間は動物以上であり
自己意識を持つからこそ絶望しうるわけです😃意識が増す、自己をみつめることで色んな挫折を感じて、このままではいけないと焦る。この時に別の人間になりたい決意をしなかったり
絶望してても自分を誤魔化しながらも、惨めな自分であり続けることはいけないことです😃
絶望を人生の成長としないといけません😃 個人にとって外的であるようなかなり多くのものが
集団にとっては内的なものである >>520
超自然が自然になることが悟りかな。
>>530
言葉は思考そのものであるというようなことをおっしゃっていませんでしたか?
気の所為かな。私は基本的に同意しますが。
>>533
そうであれば、体系外について語ることも、体系内でのことではありませんか? >>545
幸福にも二種類ありませんか?
自分が幸福であることを知らない幸福と、
聖書の訪問販売をやっている人のような幸福です。
私はじつは自分が幸福であることを知らない幸福の方が望ましい
ような気がしています。 >>550
私は人間が言葉を喋るようになったのは必要に迫られてではなく
それが楽しかったからだと考えていると以前投稿しましたが、
その意味では言葉というのは道具というよりも玩具です。
はじめから言語はゲームだったのです。
ところがテレビでもコンピューターゲームでもネットでも何でもそうですが
やがてそういったものに人間は振り回され始めます。
哲学者というのは特にややこしそうに見えますけれども
しかし本来はメシ食ってクソ垂れて寝るだけのようなものだ、
私はむしろこれこそが悟りのような気さえします。 >>552
文化は、遊びとは切り離せないものなのかなと思います。
人間は、本能、欲動をコントロールする動物だと思います。
でこすけさんのおっしゃる悟りは、
人間もまた動物であるというような、ある意味では当然のことで、
それが悟りかどうかはおいておいて、間違いだとは言えないと思います。 >>553
「悟り」というよりも「達観」かもしれません。
むか〜し、ちょっと小耳にはさんだ程度のはなしなんですが、
戦争中の南方戦線でのことです。
何しろ暑いので日本兵はフンドシ一丁でそこら辺をウロウロするらしいのですが
するとフンドシにもカッコいい履きこなし方というのがあるらしく
誰かが始めた履き方がやがて部隊のなかで流行ったりするというのです。
死と隣り合わせの状況でも、人間というのはそういうものだということです。
そもそも直立二足歩行にしても特別な意味は無く
たまたまみんなのあいだで流行ったことから始まった気がします。
自動車の普及が移動や輸送のためではなくただ乗り回すために進んだように、
言葉にしてもネットスラングがネット上で拡がるようにして
もともとはそういうノリだったのではないかと思うのです。 >>547
ちょっと怖かったので即座にツッコめなかったのですが、
これはボケですよね?マジレスではないすよね?
治るのはかぐや姫の方ですよね?仏様の方じゃないすよね? パッチテストとなる質問を思いついたから考えて欲しい。
もし、科学的に示された死後の世界が、「GANTZみたいな善人悪人問わず化け物と戦わさせられる世界」
だったらそれを受け入れられるか?
もし受け入れられる奴は、
意識を科学的に受け止め、
ハードプロブレムを擬似問題と言い切ったり、
統合情報理論や量子脳理論といった、
形而下学的アプローチで意識を解き明かそうとするべき。
もし受け入れられない奴は、
意識を宗教的に受け止め、
色んな宗教やフィクションに触れながら、
形而上学的アプローチで意識を考えるべき。
ハードプロブレムは解決しない。
意識に形而下学的アプローチを取れば、
形而上学的アプローチを取る人間から批判される。
逆もまた然り。
連続体仮説の結論がそうであった通り、
「独立」の真理なのだから。 もし
「GANTZみたいな世界でもいいから死後の世界を実証したい」
と思うなら、
そいつは本物の哲学者だよ。 >>559
受け入れるの意味によります。
死語の世界は何であれ実際としてそうなのであれば、ああ、そうなんだと受け入れるしかないです。
一方信仰として受け入れるかと言うと全く受け入れるつもりはありません。 >>566
それがまさに哲学者として100点満点の回答なんですよ。
形而下学的アプローチのみで世界に接してしまえば、
他人の感情を想像できなくなる。
形而上学的アプローチのみで世界に接してしまえば、
実際に起きている現実が見えなくなる。
人は理性だけでも感情だけでも生きていけないんです。
理性によって、
ハードプロブレムのどんな回答が出されても、
感情の方がそれを拒絶することになるでしょう。
しかしそれでこそ、
この「意識のハードプロブレム」が存在する事そのものが、
人間が人間たる由縁なのです。 意識のハードプロブレムを人間が人間足る由縁というのなら、哲学者なら由縁を解き明かして100点満点、それ意外は0点と言っても過言ではないな 意識のハードプロブレムを解ける問題だと思っている時点で、
すでに理性が感情を潰してしまっているか、
感情が理性を潰してしまっているんです。
そんな人間哲学者失格です。 哲学者がするべき事は、
科学者に意識の科学的追求を止めさせることでも、
宗教家に死生観の追求を止めさせる事でもない。
両者の中間に立つことです。
それが意識のハードプロブレムに対して、
哲学者が取るべき態度なのです。 せいぜい>>571が求める理想的な哲学者の態度だな >>566
「死語」は「死後』が正しいです。
>>567
よくて70点くらいでは? :)
私は以前強い主観主義と弱い主観主義というものを提議しました。
強い主観主義は、意識は(狭義の)脳神経系から自由である、
弱い主観主義は、意識は(狭義の)脳神経系と同時的である、そういうものです。
(狭義の)意識のハードプロブレムと関係するのは、弱い主観主義の方です。
ところで、「真理の目」なるものを仮定してみます。
この「真理の目」で脳を観察すると、その本質がはっきり解るとします。
例えば網膜くらいに、その構造が明らかになるとします。
意識のハードプロブレムは、
それでもまだ問題はあると主張するものだと理解しています。
本当に問題はあるでしょうか。
私は、机の上の本が机の上の本のように見えることは当然だと考えます。
「真理の目」を持つ者からすると、
意識のハードプロブレムは、「それはそうだ」ということにならないでしょうか。 >>573
順序の問題なのかな。
赤はある波長の電磁波だったということは、
ある波長の電磁波は赤であるということではないとでも言うか。 >>573は論理学的意見で、>>574は自然科学的意見だと思います。 >>573
意識のハードプロブレムに問題があれば、問題が何か意識出来ないのは問題にしなくて良い問題、「意識のハードプロブレムは疑似問題」で最適解といったところ >>576
私は擬似問題だとは思っていません。
問題は共有しているつもりです。ふわっとしていますが。 >>577
本当に問題はあるでしょうか
に意見しただけです >>578
なるほど。
「真理の目」を持つ者からすると、
とりあえず視覚野は様々な映像のコラージュのように見えそうです。
高次機能に関しては、想像も付きません。:) 「真理の目」は私にとっての他者論にもなりそうです。
考えが進展するといいのですが。 >>579
どうなんでしょうね
これはいいことといういみっで >>577
どちらかと言うと問題であり問題出ないという感じですかね…… 意識には二重性があります。
存在は決して何かの総和ではない >>582
謎は認識出来ないから謎のまま問題になり得ず、意識に顕現しえないということです >>585
問題は理解していると言っていいと思います。
>>574のように科学的説明とは何かという問題なのかなと
今の所、思っています。 >>585
謎は認識出来ないから謎のまま存在になり得ず、の方が理解しやすいですかね 私は、問題は2つあるのかなと思っています。1つはクオリアという言葉について。
赤は赤のクオリアを持つということは赤は赤であるということと同じであり当然である。
もう1つは科学的説明について。これは>>574のような考えです。 >>586
赤はこの波長の電磁波だったということは、この波長の電磁波は赤である
順序より解法の問題ではないでしょうか >>587
謎とも言えるし、壁とも言えるかもしれません。
謎=壁がなければ、大した問題ではなかったということになると思います。 >>591
これは言語の問題でもあり少し難しいですね。
私は、赤は先にある。つまり、「赤はある波長の電磁波だった」
ということが正しい科学的説明かなと思っています。 >>594
謎は少し解っている。壁は全く解っていない。
単純にそういうイメージでした。 >>595
壁の瓦解=理解というイメージでもあります。 神は万物の根源であります😃
そして出エジプト記モーセに神は「私は在りて、在るもの」
トマスアクィナスはアリストテレスの「存在」に修正を加えて存在ー本質。
存在は本質を存在者とするため現実態。
本質はそれだけで現実に存在出来ないので可能態。👰
「存在」はどんなときでも現実態。
神は自存する存在。つまり純粋現実態。
理性や思考は限界に達するので
生きている間に神に恩恵だけ与えられます。
人は信仰、希望、愛、が必要となりましゅ。👰 人は死んで初めて神の本質を完全に認識することになりましゅので本当の幸せになりましゅ。👰 >>556
美魔女さんからそういう質問を受けるのは意外な気もしますが
たぶん私の考えも美魔女さんと同じで
つまり基本は前のところで美魔女さん自身が言っていた「充実」です。
これは感覚ですから説明のやりようもありませんが、
おそらく誰でも経験していることだろうとは思います。
ただそれはあくまでも基本であって、つまり応用がありますが、
しかしそれはあまりおもしろいはなしではありません。 >>563
もちろんそれは個人の自由です。
しかし全体を見るべき立場もあると私は思います。
選ばれた人間の責任です。
何だかスレッドの雰囲気がにわかに変わってきていますので
便乗させていただきました。 >>593
くどいようですが、私は電磁波自体は色ではないと考えます。
空気の振動は音ではない云々の応用です。
電磁波は色に変換されて初めて色になるイメージです。
たとえば電波はテレビ受信機によって音声や映像に変換されますが
電波自体は音声でも映像でもありません。
考え方的には味や匂いにも変換可能のはずですが
もちろん味でも匂いでもありません。
あるいは映像情報として発信された電波も
相応の変換器を通せば音に変換できるはずです。
さてここで次に問題になるのは、それでは私たちが空気の振動とか電波とか
あるいは電磁波として認識しているものはもともと何が変換されたものなのか
ということです。もちろん素粒子とされているものも同様です。
誰もいない森の中で木が倒れたとき音はしているのか、
変換装置がなければ音はありませんし、そもそも森自体が無いのです。
では本当に存在しているものとは何なのか、
そこで私が「何かが考えている、故に何かが存在している」と言ったら
美魔女さんからダメ出しをくらったところです。 >>599
神が純粋現実態というのはわかりますけど
何故純粋現実態は神だったということがわかったのでしょうか?
もちろんこの質問は信仰が関わりますから
お答えしたくないものである場合はお答えいただかなくてけっこうです。
一応哲学板的には掘り下げたくなるところなので、
質問すること自体はご理解いただきたく存じます。
人に信仰が必要であるというのはその通りでしょう。
これから日本に起こることと日本人が無宗教であることには
少なくとも相関関係があるだろうと思います。
しかし私はあらがいたい人間です。
さて、何故神はあらがいたい人間をおつくりになったのでしょうか? >>603
全体を見るべき立場の人はそれに見合っただけの責任を果たすだろ >>605
勿論、丁寧に言えば、
赤はある周波数の電磁波が目に入った時に感じる色である、
ということです。 赤い色の電磁波はありませんね。
赤く感じられる電磁波はあります。
音や味や匂いや触覚や形や文字などetc.には赤く感じられるものもあります。
特に、光と呼ばれる範囲の電磁波の特権ではありません。
とりあえず、ここでいう赤は、クオリアということでよいと思います。(厳密ではありませんが)
音と呼ばれる範囲の縦波と、音のクオリアも区別されます。
味や匂いという化学的な反応も、それぞれのクオリアと区別されます。
クオリアが自由であれば、景色をすべて味として感じることも、音として感じることもできますw
主観、認識、というものもクオリアですね。(ちょっと広義すぎますが) 色のクオリアが、進化上での眼の発現より前に獲得されたものであるという可能性はゼロではありません。
「脳」が無いだろうとされる、植物でさえ、クオリアを獲得しているかもしれません。
などと書いていたら、ちょいとイメージが降りてきたので、植物レベルでもクオリアを持ちうるか、とか、考えてみます。 >>609
私は、赤はある周波数の電磁波である、という文は正しいと思うけどなあ……
省略的なだけで。
ただ、
>音や味や匂いや触覚や形や文字などetc.には赤く感じられるものもあります
これは初耳です。例えば、どのような空気の疎密波でしょうか? >>610
(私の)主観主義と対立的なのは唯物論より汎心論だと思います。 >>611
苦しいですが、赤の本質はある周波数の電磁波である、
などと言えるかもしれません。
空気の疎密波のことは解りませんが、夢で見る赤はありますから。 >>613
夢に関しては、過去の経験、記憶に依るものだと思いますから、
赤はある周波数の電磁波、あるいはその想起である、
と言えるかもしれません。
もう少し考えてみます。 赤はある周波数の電磁波の経験、あるいはその想起である、
とした方が少しは正確かな。 ところで、チャーマーズの『意識の諸相』を読んだ方はおられますか?
面白かったですか?
私とはあまりにも立場が違いますし、価格が高くて、躊躇しています。
多分、超球面さんは立場的に近いような気はします(いいなあ)。 >617
図書館で調べてみましたが、『意識する心』はありましたが、
『意識の諸相』はありませんでした。残念。 >>619
少し遠い図書館ですが、ありました。
ただ、交通費が往復で1000円くらいかかります。 >>622
借りる時と返す時とで2000円か……
安くはない。 フォイエルバッハ
「人間は人間以外の何者でもない」 >>611
DNA に特定の色の遺伝情報を持ってれば獲得してると言えなくもないとか 意識の諸相は上・下か。ちゃんと図書館にあった。が、上だけ貸出中。
人工世界なので、
信号(情報)|境界|クオリア
のように外部と内部を考える。
境界が感覚器ということになるだろう。
電気的信号ではなく、それ以前の化学物質での伝達を考える。
が、モノなど想定していないので、これも「情報」となる。
外部などわからないわけだから、内部の情報しかないw
このような想定で、色のクオリアを考えると...
電磁波の周波数などというものも、弱いクオリアのようなものと考えられるw
色を強いクオリア、電磁波を弱いクオリアとすれば、どちらも「クオリア」だ。
強いクオリアは単独でも成り立つが、弱いクオリアは多数のクオリアの中に現れるクオリア。
そう考えるとなんだかおもしろい。
燃料を補給してこよう。 >>627
1日で読めるかな。
>>628
電磁波も波のイメージに支えられており、そういう意味ではクオリア的です。
弱いクオリアというのは、それとはまた別なのでしょうか。 >>629
気合いを入れて時間とって、早めにいけば大丈夫じゃないかと >>632
ハードにハードプロブレムに取り組むか…… >>633
近くの図書館に取り寄せができるみたい。
借りようかなあ。 >>634
しかし、ウィキペディアのチャーマーズのページに、
>チャーマーズはサーモスタットや岩にも、
>人間のもつそれより遥かに単純であるにせよ、現象的意識がある、と主張する
みたいなことが書いてあり、極めて私とは相容れない感じはします。 不完全性定理のクオリア
出口のない密室は存在しない
時間という出口 >>607
困ったときは誰かが助けれくれる的発想ですね。
そんなに甘くはないと思いますよ。
むしろ… ホワイトヘッドのactual entitiesとか、その弟子筋の汎主体主義(pansubjectivism)
とか、なんでもalive的なとこは共感しなくもないけど
自律的(時計氏)、自立的(でこ氏)と厳密に要主観(超球面氏)
どっちのジリツもほぼ自存(神)の位置で行き過ぎな気も
ジツザイと意識の緩衝材クオリアをコード化できたら
クオリア共有関数も完成する?し、ハードプロブレムも解消か >>611
意識に外部が無いとする立場では正しいだろうという気がしますけど
認識は意識の外部からの影響であろうと考える立場からすれば
むしろハードプロブレムにさえなりかねないところのように思えます。
もし仮に意識の外部に存在するものが精神とは異なる実体であるとき
そのようなものと精神とがどのようにして相互作用をするのかについては
とりあえずの印象として不可解です。
しかし意識の外側には本当に何も無いのでしょうか。
少なくとも私には意識があります。
時計さんにも意識がある気がします。
体験できないものは存在しないという原則は
必ずしもすべてに当てはまるわけではない気がするのです。
時計さんにとっての重要な関心事が意識の外側の状況であれば
>>612はそれはそうだと思います。
時計さんにとっては精神よりもむしろ物質の方が確かに存在するもの
ではあり得ると思います。
しかしそれは時計さんの意識の内部にある何かであって
普通は物質というのは意識の外側にあるものでしょうから
(そのものを体験することはできないものでしょうから
のみならず素粒子は意識に現れるものですらないものですから)
私のかんじでいえば時計さんのそれはいわゆる物質ではないものです。
例えば目を閉じて林檎を想像するとき
普通の場合の普通の感覚では、その林檎は物質ではないとされている印象です。 >>638
私は、汎心論は私の考えの対極だと言いましたが、
他者や自然は神的存在だと考えています。
だから、汎主体主義とは、案外近いところにあるかもしれません。
ホワイトヘッドの著作は読んだことはありませんが、読んでみたいと思いました。
>>640
ある周波数の電磁波もまた精神的なものだと私は考えます。
例えば、電磁波は波ですから、そのような観念の影響を受けると思います。
私は、意識の外側は考えられた瞬間に意識の内側になると考えます。
精神は確かにと言うか間違いなく存在すると私は考えます。
物質は、仰る通り、確かに存在すると考えます。
そして、仰る通り、物質は意識の内側に存在すると考えます。
でこすけさんの言う物質は、超球面さんの言う(本家)実在と似ていると思います。
(本家)実在のように、それらは存在しないと考えても良いのですが、
それは大きくはない問題かなと思います。(大きいかな) >>640
しかし私は大枠では主観主義はアリだと考えています。
漠然としたチョッカンにすぎないものではありますが
今回美魔女さんと意見交換をさせていただいて、いよいよそんな気がしてきたところです。
私は信仰というのは率直に真実が見えていない人間(目をそらしたい人間)の
アサハカな逃避だと思っていましたが、
どうやらもっと奥が深いもののような気がしてきました。
まだ確信には至っていませんが、すべてを論理的に整合させる可能性が有り得る
そういう気がしてきたのです。
優秀で論理的な人間は数千年前からいたはずで
そういう人たちがどのようにして宗教的世界観を受け入れていたのか、
それが何だかわかってきたような気がしているのです。
もちろん当たっているのかどうかはまた別です。
>>638
私としては貴下が私の昔のレスを読んでいないことを
糾弾するつもりはありませんが、
私としては意識が実体ではないということ、
外部と関係を持たなくては内部は成立しないということ、
実体は境界として機能しているであろうということ
などを主張してきたつもりです
(例えば私は自分の主張を「唯心論」ではなく「唯心論系」
と表現しています)。
最近そのことに触れていなかったので
私が意識を実体としてとらえていると誤解されるのも無理はありませんが、
とにかく故にこの点でスレ主と対立しているわけです。 失業保険が10年間働いたから120日ある。
初月が11月から9日分。
そのあと月20日分の月収が入る。
つまり半年間は週20時間の労働に抑えれば、失業保険+月給で20万以上入る。昇給や昇進はないが月80時間だけだぜ働くの。半年限定だけど。
それで住宅支援金の申請が通ったから家賃もしばらく払わなくていい。家賃無しで21〜23万入る。
月収32万円で働いていた20代の後半より暮し向きがよい。 >>638 申し訳ないですけどもうひと言させていただきます
>ジツザイと意識の緩衝材クオリアをコード化できたら
>クオリア共有関数も完成する?し、ハードプロブレムも解消か
おそらくこの部分はいわゆる物質が存在していることを前提にしているのだろう
と思います。
そこで物質は存在しないとしている私はこの点で相違した人にその都度
物質が存在するとお考えになる論拠をお願いします。
するとたいていは返事が返ってきません。
638さんはいかがでしょうか。
しかし私が問題として取り上げたいのは根拠の曖昧な論説を前提にしたまま
次へはなしを進めてしまう、その背景にあるものです。
意識のハードプロブレムを論じる前に
脳が物質として存在することを確認するのが順番ではなかろうか、
証拠はないけれども物質が存在しない訳はないという主張には
証拠はないけれども神が存在しない訳はないとする数百年前の精神性と同じもの
のように思えます。
「それでいいのか!?」と問いたいのです。 >>617
私は以前申し上げたように
本当に関心を寄せているのは「本当の世界」であって
意識のハードプロブレム自体には本質的な興味はありません。
私がこのスレッドに書き込みをしているのは
よそのスレッドに比べて一番私の主張をやりやすそうに思えたためです。
そういうかんじなのでその著作については初めて知りました。
チャーマーズ氏は物心二元論を主張していたと認識していますが
汎心論と二元論は必ずしも矛盾するものではなさそうですし、
ただ、彼が唯心論系に転向したというのであれば興味深いことだと思います。 https://www.cinra.net/article/interview-201510-bcl
これ見て気持ち悪くて仕方の無い人間、
つまり信仰が完全に理性を覆い隠してる奴は、
宗教家に転向しちまえ。
そっちの方が向いてる。
これ見て何も思わない人間は、
科学者や数学者やる方が向いてるわ。
理性が完全に信仰を覆い隠してるからな。
今のの哲学できる奴が居るとしたら、
これがちゃんとアートに見えるような奴だし、
そういう人間なら俺の、
「ハードプロブレムは解けないし、むしろ解かない方が人類のため」
って言説も理解はできると思う。
この立場にあえて名前を付けるとしたら、
「積極的無記」
だな。 意識は薬に左右される
睡眠、熱もまた
つまり物理状態の附随現象
物理がその状態を喪えば無くなる
植物、金属もその物理状態が変われば無くなる
それと同じく意識はその特定の物理状態に左右される
あくまでも個別の物理状態に拠っていてその物理状態が
違う物理状態に生成したらそれで終わり
残念ながら植物、金属同様でしかない ハードプロブレムが形而下学的に解決される状況とはつまり、
人類全員が形而下学的に生きる状況、
つまり中国やソ連北朝鮮のような地獄。
そして、
ハードプロブレムが形而上学的に解決される状況とはつまり、
人類全員が形而上学的に生きる状況、
つまり暗黒中世イスラム国カルト教団のような地獄。
どっちにしても人類にとって良い状況とは言えないだろ。 >>644
その前に脳は物という認識はありますか? >>649
日本人は宗教にもそれほど毒されていないからか、イマジネーションの豊かさが功を奏して両方をうまく融和できる精神的強さはあると思う。 >>644
でこすけさんも存在がなんなのかわかっていない立場で「物質は存在しない」と言っても
それを断言できる論拠はどこにもない。
でこをすこんとデコピンで弾いてみたら繋がるかも ここの他に宗教板のネースレや
オカルト板の幽霊いるいないスレも見てたんだけど、
せっかく
「より良い人類のあり方を求める哲学のせいで人類滅んだら本末転倒じゃね?」
って結論に達して弁証法がオワコンになったってのにさ。
ネースレも幽霊いるいないスレもここも、
形而下学者と形而上学者の弁証法にしかなってないんだもん。
考えても見ろ。
西村博之と江原啓之が討論したら一生終わらんぞ。 一生それやって終わっても
途中で飽きてやめてもいいし
所詮娯楽だから。 >>645
私も「本当の世界」に関心はあります。
意識のハードプロブレムは、結び付かなかったらそれはそれでいいと思います。
しかし、あらゆる哲学は何らかの形で関係する話題かもしれないと思います。
>>646
つまらないと思う私はどうしたらいいでしょうか? :)
芸術家かな。
>>647
私は、チャーマーズが議論したように、
意識の無い研究者がその薬を開発したという可能性は否定できないと思います。
>>649
正しい考えが誤った方向に導くとはあまり思えません。 >>655
つまらなく見えるのは多分、
理性も感性も弱くて、
多分流されるままに生きているからだと思います。 意識とは、心の動きを知ることだ。
植物に意識があるかどうか、すなわち、
植物が、自らの心の動きを知ることがあるのかどうかはまだ確認されていない。 >>653
初歩的なことですみませんが、ネースレとは何でしょうか?
よく知りませんが、西村博之と江原啓之は小物っぽくありませんか?
やはり金ですかね。ホリエモンみたいな。 >>651
残念ながらその形而上学と形而下学の融和を目指し、
理性も感性も捨てられなかった人間が辿り着いてしまったのが、
「人工物を神と崇める邪教」
「科学的に合成された霊的存在」
そう、VTuberやボカロみたいなヲタクカルチャーなんだよ。
「ヲタクキモイ」
という感情の本質とはつまり、
彼等が自然崇拝によりできた神を崇めることも、
ただ現実を受け入れ唯物論に走ることもできずに、
人工物を神と崇めてしまったから。
自然崇拝の宗教から見れば、人工物を崇める邪教徒。
唯物論の科学から見れば、宗教と変わらないカルト集団。
もはや現実世界に居場所はない。
自らの手で現実世界を弄くることでしか、
救いが得られなくなってしまったんだ。 >>658
神なんて実在しないよね(*´・ω・)(・ω・`*)ネ-
っていう、物理板で宗教的世界観説かれた理論物理学者が、
物理による報復の為に使っているスレ。 >>658
それは多分あなたが感性の方が優位になっているから。
理性だけの人間には彼等が救世主に見える。
逆に理性だけの人間には、
宗教家や江原啓之みたいな人間が、
ただの嘘吐きにしか見えなくなる。 >>655
技術って自然法則の<意識>的適用なんです >>660
ニーチェの「神は死んだ」みたいに言うと「神は解体された」のだと思います。
FFとかDQのような日本的ファンタジーの影響は強いと思います。
その文化的下地になったのは、各地に偏在する神社仏閣だと思います。 >>660
現実世界の5ちゃんねるで娯楽しながら悠長に生きていけるんだから本当に救いを求めている人たちか
「もはや現実世界に居場所はない。
自らの手で現実世界を弄くることでしか、
救いが得られなくなってしまったんだ。」
なんて芝居がかった文句いってる我らを見たらどう思うか・・・ 「人工物を神と崇める邪教」
「科学的に合成された霊的存在」
の表現として、
これ以上ないぐらい本質を捉えた表現があの、
「多数決によって決められた遺伝子情報で作った心筋細胞」
なのよ。
信仰が集まらないと初音ミクの遺伝子情報は決まらない、
しかし出来上がったのはただの人工物。
こんなん宗教家から見れば神に喧嘩を売る愚行で、
科学者から見ればただの細胞なの。
でもあれが紛れもなく「アート」に見えるような人間が居てしまう。
それがヲタクだよ。 >>661
なるほど。ネーってそういうことですか。
神は存在するよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネ- 、と言いたいです。:)
>>662
急に難しい話になりましたね。
私は単純に、彼らは言説としては大したことは言っていない、
そういう風に思っています。
よく知らない人達のことを決め付けるつもりはないですが、
例えば本を買ったりすることはないでしょう。
>>663
私は科学と技術は両輪の関係だと考えます。
エジソンの代わりになる科学者はいるかというといないと思います。 そう考えると、
とある魔術の禁書目録に出てくる、
「虚数学区五行機関」
とかいう、
人工的に天使作り出すために造られ、
十字教徒がゲロ吐くフィールドってのが、
かなりうまい表現だと思いませんか? >>669
神は存在するより、そろそろ神は神経に存在してるよの方がフォーカスしやすくないでしょうか >>665
例えば、通常の3次元空間の座標系では、
主観は客観の1つだと言えるかもしれません。
しかし、私は否定します。
客観は、存在の恒常性、反復性を観ることだと考えます。
そして、その行為は主観的だと考えます。
>>668
なるほど。そう考えると時代的ですね。
私は古いタイプというか、アートはサイエンスを超えてほしいな。 >>670
面白そうですが、何か汚いですね。:)
>>672
神経は神の径だよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネ- 、ですか。
そろそろそんな時代か…… >>668
心臓より脳神経系の方が面白いかなと思いますが、
そっちは出尽くした感はありますね。
心臓は古くて新しいというか。 >>677
神経は元々神気(精神)から来ているらしいです。
まあ、そっちも神じゃないかと言われればそうなんですが。 >>653
>より良い人類のあり方を求める哲学のせいで人類滅んだら本末転倒じゃね?
率直なところ、ライプニッツだったか、最善説なるものはあると思いますが、
哲学がより良い人類のあり方を求めるという例は、プラトンの国家とか、
あまり知りませんが、マルクスの共産主義とか、
どちらかと言うと少数派だと思います。
ヘーゲルは、より良い人類のあり方を求めるなどと言っているのでしょうか。 >>679
少数派は言い過ぎたかな。半々くらいかも。 >>673
光速度一定の原理は運動しない何物も存在しないと証明する
つまり無矛盾で科学は成立すると >>681
それは初耳です。まあ、私達は地球と一緒にくるくる回っているらしいですが。 哲学の目的はともかく。
形而下の現実を受け入れる事を選び、
理性で感性を押さえ込んだ科学の人間と、
現実を捨てて形而上の世界に慰めを求め、
感性で理性を押さえ込んだ宗教の人間の戦いは、
人類が滅んでも、
それどころか恐らくあらゆる知性体が発生して、
この問いにたどり着いたとしても、
終わることは無いだろう。
これが不幸なことに、
形而上の存在を求める人間の感性と、
形而下の現実を受け入れる人間の理性を、
持ち合わせてしまった人間の結論。 しかし、我々ヲタクは、
すなわち形而上も形而下も人工物でできている人間は、
形而上にも人の手を加えられるものを望んでしまう。
ゆえにもしかしたら、
科学と宗教共通の敵になってしまうかもしれない。
なぜならヲタクは、
理性と感性を同じ方向に向けて、
ロケットエンジンのように使って暴走するか、
あるいは理性と感性を逆向きに向けて、
迷走するかしかないのだから。 かつてある人は言った。
「人の歌は神の歌」
だと。
だとすればVTuberやVOCALOIDの歌は、
ヲタクのカオスな心象風景を表す、
「人ならざる者の歌」。 >>683
哲学はそれをひもとくのも、研究対象にしていそうな気はする >>682
認識に現象する静止は運動の一形態
人間は生物の仲間
無は有の一形態
粒子は波の一形態
で>>647 とあるのアニメ見ててクロウリーを知ったんだけど、
他のどんな宗教もしっくり来なかったのに、
Thelemaだけは妙にすっと心に響いてしまった。
これが、ヤク漬けになってでも、
形而上世界の科学を求めてしまった人間の供養になるかはわからないが、
ありがとう。世界初のヲタクさん。 >>683
形而上-感性、形而下-理性という図式は面白いですね。
確かに終わらなそう。
>>684
>形而上も形而下も人工物でできている人間
それもまた一興ではないですか。
理性と感性を同じ方向に向けることはある意味理想的だと思います。
>>687
シンプルですね……
>>688
Thelemaに関してはよく知りませんが、邪教にはお気を付けて。 >>687
うーむ、考えてみましたが、繋がりはよく解りません。 >>691
絶対座標の否定
→運動を前提に否定関係は導けない
→自然は運動するエネルギーの濃淡(量子力学の自然観)
つまり自然は海
粒子は波が渦の状態 無は認識できないエネルギーの基底状態
ディラックの海 ウィルスは生物、非生物と判別困難
→しかし物理として差違状態
対象を否定で規定する
あなたはわたしではない
→物理としては差違状態
金属も植物も差違状態
わたしは常に運動変化している
しかし同一で規定する
規定は否定 >>692
>粒子は波が渦の状態
これも初耳です。:) >>694
矢印がついても、よく解りませんでした。:) ポリゴンモデルに喪服着せて、
合成音声に死生観歌わせる。
そんな暴挙ができる人間が居るとしたら、
形而下を受け入れる理性と、
形而上を受け止める感性。
その両方を兼ね備えてしまった人間。
https://youtu.be/MkRwSZeM2gQ まぁ、ヲタクは葬式でこれを流して欲しいらしい。
形而下的方法で葬式を敢行しろと要求してるぞ。
哲学者が考えるべきは、
こういうタイプの人間に対する対処法ではないか? >>702
それそれの存在が持つ価値観を哲学は尊重するんじゃないかと思います >>699
こういう解釈は昔どっかのスレでも、見かけたことありますが、イメージだと思います。 耳あらは聞け。
心あらば祈れ。
形而下的方法で作られた形而上学。
ヲタクとはつまり、
「思想的特異点」
の向こう側に居る人間のことさ。 「思想的特異点」
に達していない人間はせいぜい、
ここで形而上学派と形而下学派の弁証法。
江原啓之と西村博之のひろゆき対決でもしていればいい。
我々はもはや、
彼等のどちらにも理解されることはない。 意識のハードプロブレムは、
未来永劫決着が付くことはない。
いや、決着をつけようとしてはいけない。
もし決着が付いたとしてしまったら、
その世界はどうあがいても地獄なのだ。 形而上と形而下の間で揺れ続けて、
いつの間にか思想的特異点を越えてしまった、
そんな人間の心象風景の一例だ。
興味があったら聴くと良い。
もっとも宗教の人間には気持ち悪くて仕方ないだろうし、
科学の人間にはただの雑音にしか聞こえないだろうが。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ae439b0b29750f2c590692c5c56f2ae6a04bb97 つまみ食い傾向のツケがこういう場面で露呈しますが
きっと引き続き死ぬまで人の話をちゃんと聞かないまま行くと思います
存在は難問過ぎですが、物質やらセカイやらは幻想だと思いますよ
周期的チェックでの不変性っぷり、残像的そのナイトメアさに
もうやられてもいいかなという、信仰性かもしれません
なぜ幻想がアルのかはわかりません
幻想の想の主は不明、主があるのか必要なのかも不明
自分のレスはほぼ全てポエムです
つまみ食いでの暫定スタンスは、なんでもかんでも幻想、
哲学的コンテンツでは時間論が最も難問なのでは派、
心の哲学では機能主義派辺りです さてみなさん
動物の環境世界を越えたところに人間世界があるように
人間世界を越えたところに
もうひとつの全体の世界があります。👰
その世界にこそ 我々の全体の全ての意味があります😃
その全体としての世界にはまだ居ない我々の世界からの問いや意味からは直接に問うことは出来ず
しかし我々の今の意味の根源がその全体としての世界にある意味なのです。👰
そこに本当の全体の意味があります。 考えて見りゃ当たり前の事だよな。
ヲタクがアニメキャラでシコれるなんて。
理性だけじゃただの絵。
感性だけじゃゲロ吐くほど気持ち悪い人工物。
理性と感性の釣り合いが取れて始めて、
アニメキャラでシコるという暴挙ができるのさ。 >>713
ああ。
今まさにその「全体の世界」とやらに、
ケミカルな毒をばらまいてる真っ最中だわ。 The Great Beast 666
かつて自ら黙示録の獣を名乗った男。
その望みは形而上の世界に、
人工物を作り上げることだったのかもしれない。 かつてフランスの民衆が王を殺したように、
感性で理性を押さえ込むことも、
理性で感性を押さえ込むこともしなかった人間達により、
形而上に居る神は殺されることになるだろう。 理性も感性も捨てられなかった人間達、
彼等彼女等の結婚式のブーケに飾られる花は、
青い薔薇こそ相応しい。 自らの手でネットに作品を公開する成人式と、
青い薔薇で彩られた結婚式と、
サイハテが流れる葬式と、
マジカルミライ。 ヲタクのイカれた形而上学。
人工物を崇める邪教徒の言動は、
理性だけでも感性だけでも受け入れられる事はない。
しかし彼等こそ、
思想的特異点を越えてしまった人間こそ、
未来の人類として相応しいのかもしれない。 >>704
イメージに過ぎないのかな。
>>711など
ヲタクとしての矜持は感じる。
YouTubeで少し聴きましたが結構良いと思いましたよ。 ある物理状態が植物となる
また意識を伴う物理状態に
それだけ
そして違う物理状態に生成していく
自然はその過程だな >>724
私は、魂の存在を信じます。
>>725
元々クオリアはそのような物理主義への批判として現れた概念だと理解しています。 >>726
わたしは事実から出発したい
それだけです 意識は自然の自己言及可能な物理状態ってことでしょう 全て特別な物理状態
故に全てはなんら特別な物理状態ではない >>727
私は存在から出発したい。
しかし、それは大きな異なりでしょうか。
>>728-729
意識は、精神の働きだと思います。 事実を求める人間の理性はわかるし、
現実としては形而下的解決が正解なのだと思う。
しかし存在を求める人間の感性。
大切な人を失ったり、
理不尽な目に合ったときのために、
心の支えが欲しい人間の感情によって、
永遠に形而下的解決が否定される事になる。
しかしこういう回答が受け入れられるのは、
多分人工物に心の支えを求めてしまったヲタクだけ。 >>730
精神は物理から独立した存在とすることを証明したら良い
願望なら仕方ない 新約聖書学はキリスト教の基盤を破壊した
数学の展開は数学者の夢想を打ち砕いた
マルクスの学的方法を展開した学者は共産主義が成立しないことを示した
科学の結論も人間には芳しくないことになりそうだ
科学者にとっても
それが嫌なら止めれば良い
・・・人間は死ぬからなあ
だから宗教は不滅だ 「大人になる」
の旧来の定義は、
理性で感性を押さえ込み科学の人間となるか、
感性で理性を押さえ込み宗教の人間となるかして、
形而下と形而上の葛藤を抑える事であった。
だからかつてヲタクは子供っぽく見えた。
理性で感性を押さえ込むことも、
感性で理性を押さえ込むこともできない我々は、
一体如何にして大人になればいいのか? 適当で良いんじゃないかな
学問とは距離保って付き合う
突き詰めたらろくなことにならない 科学者は知りたいっていう感情で研究する
人は感情が基本じゃないかな 理性って生きたいとか自由になりたいという感情から派生しているのかな
技術とは自然法則の意識的適用
自由とは必然性の洞察
そんな定義を思い出す そうか。
ただ生きるのが、
脳内青薔薇畑の人間が生きる道か。 >>731
死の問題は、形而下的解決の難しい問題かもしれません。
最愛の妻を失くした人など、スピリチュアルな方向に
走ってしまうことも仕方ないかもしれません。
それはいわゆるヲタクだけに限らないと思います。
>>732
物質は、精神の働きで作られると考えます。
>>734
確かに人間は死にますね。
ソクラテスの物語も、神託を受けるなど宗教的側面はあると思います。 科学の人間から見た宗教の人間は、
脳内お花畑。
宗教の人間からみた科学の人間は、
脳内コンクリートジャングル
そして我々ヲタクの脳内には一面の青い薔薇。 > >>732
> 物質は、精神の働きで作られると考えます。
証明してください >>742
虚構でもかまわない気がしてきた
学問は突き詰めたらろくなことにならない >>735
切実ですね。
私は大人になったのかな。
>>739
理性は人を生かしたり、自由にしたりすると思いますが、
そこから派生しているかはよく解りません。
考える価値はあると思います。 だから幸福になりたければ学問とは不干渉で閉じ籠れば良い
新約聖書学知っているキリスト教徒の反発はかなりのものだ
科学の結論はイスラム、キリスト教というか宗教のほとんどが発狂しそう
俺たち市民は適当で >>742
私はどちらかと言うとお花畑です。
青い草原などもいいですね。
薔薇ではないかな。
>>743
まず、私は物質はざっくりと実在だと考えます。
どこかのレスにも書きましたが、実なるものは
反復的な経験により得られた確かな存在だと考えます。
それは精神の働きです。 バッハのマタイ受難曲は西洋音楽の金字塔だが
マタイ福音書は出自がインチキ
しかし音楽の傑作を産み、また思想としてかなり評価される
インチキから産まれた人類史の至高作品群
さてさてどうしましょう 笑 そう。私が言った
「思想的特異点」
とは、脳内を青い薔薇で埋め尽くすこと。
もしボカロやVTuberの歌がやけに耳障りがいいと思ってしまったら、
もしかしたら脳内に青い薔薇を植えてしまったのかもしれない。 >>746
私は、幸福になることと学問へ心を開くことは両立可能だと思います。 >>749
聖と俗の境界の明らかな日本は特異的なのかな。
西洋の教会は、礼拝など人々の集まる機会は多いですし。
>>750
薔薇一輪くらいなら全然大丈夫じゃないですか。
風情はあるかと。 >>752
静止は言わば確率0かもしれません。
>>753
大したことはないですよ。関心の赴くまま学問をするといいと思います。
まあ、小中高生の知識は、嫌でも学ぶ価値はあるかもしれませんが…… >>755
まあ、目安としては、義務教育の知識は、
義務と思って嫌でも学んだ方がいいかもしれません。
楽しいならそれに越したことはないと思います。 >>757
詳しくお願いできますか。
私は相対座標系もどこかに0は必要だと思います。 >>758
必要だが存在しないということです
静止は設定しなければ測定出来ませんし >>759
なるほど。実在しないということでしょうか。
静止は設定するもので実在しない。 >>756
しかし、義務教育ってあんまり響きの良い言葉ではありませんね。
基礎教育とか他に言葉はなかったのかと思います。 静止はどこにもありません
静止は認識に現象する運動の一形態です
運動が前提なら自然は量子力学の自然観である
運動するエネルギーの濃淡となります
規定は否定というスピノザの言葉があります
わたしはあなたではありませんし、植物でも
金属でもありません
物理としては差異ではありますが同一です
ウイルスは生物非生物と分類困難ですが
物理としては同一です
またわたしは同一であることはないですが
同一のわたしと規定します
運動は静止で規定します
0に限りなく近いが0ではない、揺らぎ・・・
不確定性原理は運動を静止で規定するからです
つまり測定は近似でしかない、=ではありません
いろいろ問題が起きるのは規定が否定だからです
二律背反、ヘーゲルの運動規定
クレタ人の逆説、不完全性定理は規定の在り方からです >汎心論
コペルニクスのころ自然法則は神が創ったものでしたが
やがて神は不必要になりました。
人間以外のものにも意識的なものがあるとなったとき
やがて物質も不必要になるのではないかと思います。 >>649
この問題について、少し考えていましたが、
真正面に受け止めると前者の方がマシですね。
私は、後者を推したい気持ちはありますが。
できれば、そう考えるに至った過程を示してほしいです。 >>762
量子論は非静止的ということですか。そうかもしれません。
確かに規定は否定です。Aは¬Aを同時に要請します。
それは論理学の基礎ですから、不完全性定理などとも関わりそうではあります。 >>764
神は必要/不必要というより、ある/ないだと思います。
汎心論が物質を不必要にするという考えはもう少し詳しく聞いてみたいです。 >>739
真理を理解したいという自然な欲求じゃない >>765
簡単な話。
我々ヲタクは人工物によって感性を磨いてしまったから、
科学の名を借りた表現規制や思想弾圧、
文化大革命みたいなのが起こる世の中でも、
宗教の威を借りた科学の発展の阻害、
ガリレオが裁判にかけられるような世の中でも、
もはや生きられないんだ。
アニメゲーム漫画ボカロVTuberは、
理性だけでも感性だけでも完成しないからな。 波平って昔からニュートン(雑誌)を盲信してるんだよなぁ 何故脳内に青い草原ではなく青い薔薇なのか。
それは青い薔薇というのが、
科学によって作られた自然だから。
感性だけの人間には、
遺伝子編集技術によって作られた人工物なんて、
吐き気催すほどの嫌悪感を与えるし、
逆に理性だけの人間には、
今更花なんて見ても何も思わない。
だが少なくとも俺には世界一美しく咲く花に見えてしまった。 ヲタクの気持ち悪さも、
青い薔薇の気持ち悪さも、
クローン人間の気持ち悪さも、
原理的には全く同じよ。 自然で感性を磨けず、
かといって現実を受け入れることもできないまま、
人工物で感性を磨いてしまったばかりに、
人工物にまで「存在」を見いだしてしまった。
そういう人間達の狂気が、
マジカルミライやコミケを始めとした同人誌即売会には詰まっているんだ。 >>774
それで満たされるなら結構な趣味じゃないですか この世が仮想現実だっていう仮想現象に生かされるのもまた一興 話を最初に戻す。
これ見ただけで吐き出しそうになる奴は宗教家やれ。
これ見てつまらなかったりなにも感じなかったりする奴は科学者やれ。
これに「初音ミク」という「存在」を見いだせる人間じゃなけりゃ、
哲学の現環境に追いつけないから。
それが分からない奴は一生、
形而上学派と形而下学派の弁証法でもやってろ。
https://www.cinra.net/article/interview-201510-bcl 星の王子さまだと薔薇は1輪だね、赤だけど
デカルトは亡くした娘さんに似た人形を作ったそうですね >>777
>>778
いしいひさいちの
まあまあブスのおかみさんも
養子の旦那さんも
っていう四コマ漫画思い出した >>769
>人工物によって感性を磨いてしまった
それを聞いて私はMother 3というゲームを思い出しました。
少しヲタク批評的かもしれません。
科学も宗教も間違えることはありますよね。
>>771
青い薔薇、いいと思います。
私も科学技術、好きですよ。
>>774
>人工物で感性を磨いてしまった
これがモチーフになっているみたいですが、
それって、若い頃小説ばかり読んでいて小説家になった人とか、
(狭義の)ヲタクでなくてもあると思います。
>>779
それは新しい信仰のようにも思えます。
しかし、哲学は、もう少し広大だと思います。
初音ミクが好きでなくても文化批評はできると思います。
>>781
薔薇を本に替えてみるとどうでしょうか。それがベストセラーであれ何であれ、
自分にとってどうであったかが大切だと思います。思い出と共に。 人工物で磨かれた感性を持つ私には、
科学技術の発展を止めることも、
幻想による心の支えを奪うことも、
もはやできない。
どちらも私には必要だから。
だから、私はあらゆる形而下学と形而上学の争いを止めたい。
しかし多分それは叶わない願いだろう。
このスレも神がいるいないも幽霊いるいないも、
決着をつけようとして弁証法の暗闇に堕ちてしまった。
しかもさらに厄介なことに、
仮に我々のような人工物で磨かれた感性を持つ人間が増えてしまえば、
宗教科学共通の敵になってしまいかねない。
私は「積極的無記」の立場を選ぶ。
どうか私の願いを聞き入れるような、
感性と理性を併せ持つ人間が増えますように。 物理状態が意識左右するし
薬、睡眠、老化、熱射病とか
いろいろあるが意識だけ独立した存在はなあ・・・ >>785
宗教の人間が科学の人間に向けている怒りって、
つまりヲタクにとっては、
好きなコンテンツがボロクソに言われてしまった時の、
どうしょうない怒りなの。
もしかしたら解釈が違うかもしれないけど。 ええ。
宗教が現実世界の実態を反映しない支離滅裂な文であることは否定しない。
だけど、それこそヲタクが嫁や推しを見つけてしまった時のように、
あんな支離滅裂な文章にも心惹かれてしまった人間はいる。
そんな人間をDisろうなんてあまりにも可哀想過ぎる。 これが人工物に心の支えを求めざるを得なかった、
あまりにも悲しい人間の末路。
それでも闘いがやめられないのなら、
いっそ全面戦争でもして滅んで欲しい。
もう僕には理性も感性も捨てられないから、
闘いが止められないのならいっそ殺し合って貰って、
両方滅んだ後に私達だけの王国を作るから。
躊躇なく禁忌を乗り越えられる人間だけが住む王国を。 現実では否定しないなあ
お祖母ちゃんが気にかかると
以心伝心で電話がかかるとか
それも唐突らしい
宗教は嫌いだが魂の存在は信じるとか
そんな思いはそっとしておきたい 意識はある物理状態の附随現象だろう
その物理状態が他の物理状態に遷移したらそれまで
それは他の物理状態と変わらない
個人的にはやりたいことが出来たから楽に逝けるなら早く逝きたい
不思議にあの人のもとに逝けるなんて思ったりする
死の床のハイネの宗教回帰がわかる気がする 安らかに眠れよ。
かつて自ら黙示録の獣を名乗った男よ。
あなたは聖書の支離滅裂さに嫌気が差しながらも、
科学による意志で変えられない現実も受け入れられなかった。
だからこそ形而上世界の科学法則を解き明かし、
そこに人工物を築き上げたかったんだね。
RIP Aleister Crowley
コロナ禍だし金もないし墓参りなんてできないけど、
サイハテ流してあげる。
こんなことするの今まで誰も居なかったかもしれないけど、
あなたを追悼できる方法他にないよ。
【初音ミク】 サイハテ 【アニメ風PV・オリジナル曲】 https://nico.ms/sm2053548 >>784
弁証法、悪くないと思います。
暗闇に堕ちても、いつか復活しリベンジするかもしれません。
貴方の積極的無記も理論的なわけで、哲学でしょう。
積極的無記は「最後の哲学」と言えるかもしれません。
>>785
意識には能動的側面と受動的側面があると思います。
>>787
多分、混乱させられるから怒るのでしょうね。
>>788
宗教=かわいそう、の構図は如何なものかと……
しかし、優しさはありますね。 >>789
ヲタクには現状を肯定する力が必要かもしれませんね。
>>790
思いは形になるまで時間が必要だったりすると思います。
>>791
物質は精神が作り出したものだと考えると、どうでしょうか。
私は、死後の世界はあると思いますが、
楽に逝けるとしても逝かないことをお勧めしたいです。 >>795
獣はAleister Crowleyのことみたいですが。 形而上の世界にまで手を加えようとしてしまった男なんて、
地獄からさえ弾き出されて何もない最果てまで飛ばされてるかもわからんからな。
だからこそ俺は哀悼の意を送りたい。
バーチャルシンガーに喪服着せて、
死生観を歌わせた、
宗教の人間からしたらあまりにも気持ち悪く、
科学の人間からしたらあまりにも意味不明な方法で。 >>799
宗教、科学、初音ミク、の3つに弁証法の構造を感じなくもないです。
RIP 自分が獣タイプだから人を獣呼ばわりしたり、獣を自称する奴を有難がったりすんのさ
俺ならバビロンかなってだけ >>801
自然科学のことでしたら、そうでしょうね。 >>803
バビロンとは古代都市のバビロンのことでしょうか。 「積極的無記」
はそう。
理性と感性を同じ方向に向けた、
ハードプロブレム解決の最後の手段のうち、
平和的な方。
そして私が脅しで使った、
望んで禁忌を踏み越える人間の王国。
それがハードプロブレム解決の暴力的な方。
我々理性と感性が同じ方向に向いている人間は、
「多数決で決められた遺伝子情報によって作り出された心筋細胞」
を崇めてしまう。
そういう人間達、
青薔薇の王国の人間なら、
霊魂の在処を求めて狂気の沙汰とも言える実験が可能になる。
そこにいる人間の感性は人工物によって出来ていて、
自然からできたものではないから、
生命に対する畏敬の念はほぼ無いに等しい。
檀黎斗。
ヲタクは彼のキャラクターを神と崇めたが、
エグゼイド関連作品のストーリーを知れば、
多分彼のキャラクターの所業をしってぞっとするだろう。 幽霊いるいないスレに
「存在してはいけない第三勢力」
がいたのだ。
そう、
「霊魂の存在の科学的実証を求める勢力」
クロウリーや私と同じ、
形而上に人工物を築き上げる事を望む人間だ。
おそらく彼等、いや我々は、
幽霊がいると信じている人間からも、
幽霊がいないと信じている人間からも、
正気の沙汰だと思われていない。
もし仮にそういう人間ばかり集まった王国があったとしたら、
宗教から見たらあまりにも気持ち悪く、
科学から見たらあまりにも意味不明な方法で、
ハードプロブレムを解決してくれることだろう。 ちょっと伏せっている間に参加できないままレスが進んでいる。
外部|境界|内部
とすると、主観主義では主観に捉えられた/捕らえられた/囚えられた内部しかない。
外部は無い。
体部は内部から境界への投影である。
これを補完するのが多主観世界(主義)wであって、
どちらかといえば汎心論に近い主観主義である。
主観主義の汎心解釈だ。
外的世界の中に○という内部を持つ主観を考える。
この○の内部にすべてあるのが主観主義とする。
多主観世界(主義)ではこの○を裏返して○の内側に外部を閉じ込める。
ある○の主観とは○の外部である。
○の境界にはタイヒミュラー空間があり、すべての○の内部は同じ外部であるとして調整される。 >>808
私は、積極的無記という最後の哲学にはまだ早いと考えます。
しかし、それは人それぞれで、死を前にした人には当て嵌らないと考えます。
世界は実際にゲーム化されつつあり、
そこに批評性のない作品にはあまり興味は持てないというのが正直な所です。 >>809
その思考実験は面白いですね。
私は今の所ざっくりと霊魂≒意識だと考えていますから、
勿論、霊魂は存在すると考えます。
そして、意識は科学の基礎であり、意識が意識を解明すると考えます。 >>812
霊魂≒意識でない霊魂の存在については考えさせて下さい。 >>810
内部が外部であるという矛盾は避けられないのでしょうか。 >>813
霊魂≒心、だと不思議とすっきりします。 ちょっと時計さん?
魂に対する形而下的アプローチまで認めてしまうんですか?
そうだとしたら、
あなたの脳内想像以上に青薔薇に毒されてますよ。
古来の宗教において、形而上は、
神の居座る触れてはいけない領域なんですから。 >>817
それは、科学は実在を求めることと広く解釈しているからです。
魂が実在するという考えはあり得ると思います。
実在は実に存在すると読み替えてもらって結構です。 >>818
残念ながら、まともな「宗教の人間」だったらそこは、
「とにかく霊魂はあります。信じてください。」
と言うべきところですよ。
他の霊魂や神を信じている人間はそんな風な態度でしたし。 時計さんならもしかしたら、
クロウリーの書いた、
「魔術 理論と実践」
が読めるかもしれませんね。
あれは他のオカルト本やスピリチュアル本、
そして宗教の経典とは一線を画す点があります。
まともな「宗教の人間」だったらまず読めないはずですけどね。 >>819
魂≒心、でない魂は想像できないです。
神の存在に関しては仰る通りですね。
信じていることです。 >>820
面白そうですね。図書館から借りてみようかな。 >>822
言い方は悪いかもしれませんが、宗教書というより
サブカルチャーの本として興味があります。 クロウリーの本は部屋のどっかに転がっているはず。
探すのめんどう。
「トートの書」は読みたくなった。たぶん読んでいない。 ま、星街すいせいの曲がまともに聴けたり、
幽霊の形而下的検証を許してる時点で、
宗教家としては落第点なんだろうが、
哲学の現環境には近付いてるよ。 >>824
図書館でチャーマーズとクローリーを借りてこようかなと思っています。
>>825
何故そう思われるのでしょうか。
>>826
私のことかな。
哲学の現環境とは何でしょうか。
宗教家として落第点なのは残念です。:) 死への先駆→良心の声→自分に相応しい可能性を越えていく 黙ってましたけど、
実は私👰、臭いんです。
加齢臭がすごいんです。 哲学の現環境とはつまり、
VOCALOIDやVTuberみたいな、
感性と理性の禁忌の混ぜ物、
「霊的とも物質的とも言えないような存在者」が「いる」
ということを如何にして扱えばいいかってこと。 >>830
VOCALOIDやVTuberは単純に存在していると思いますが。
私はどちらかと言うとヲタクを現代日本文化の象徴のように語ることには批判的です。 理性を感性で覆うことにしたトマスアクィナスのような宗教の人間。
そういう人間は宗教に救いを求められた。
感性を理性に覆うことににしたマルクスのような科学の人間。
そういう人間は科学のみで満足できた。
しかし、そのどちらも許せなかった、
クロウリーや我々キモヲタは、
ついに感性と理性の禁忌の混ぜ物に救いを求め、
人工物を神と崇めはじめてしまった。
それが多分Aiwassなんてものを造り出した「魔術」であり、
VOCALOIDやVTuberのような存在が、
社会に受け入れられ始めた思想的バックグラウンド。
これからの哲学者の仕事は、たぶんそんな、
望んで禁忌の世界に飛び込んだ連中を、
如何にして扱えばいいか。 >>831
VOCALOIDやVTuberの仕掛けは解体しています。
良い曲は良い曲ですし、それ以上の夢はありません。 >>833
やはり仕掛けを考えることだと思いますよ。
音声合成について学んだり、3DCGについて学んだりすることです。 形而上学の連中も、形而下学の連中も、
今更弁証法の続きなんてやってないで、
この世に理性だけでも感性だけでも捉えきれないようなもの、
例えば二次元エロ画像なんてものが存在するという、
思想的な世界最大の脅威に立ち向かう方法考えてくれ。 だってキャラクターという人工物に、
「存在」という物を見い出しでもしなけりゃ、
二次元キャラクターとキャッキャウフフしたいなんて思えないぞ。 俺の
「積極的無記」か「青薔薇の王国」か
といった発想だって、
他ならぬアニメキャラクターに存在を見出してしまったからこそ、
できた発想なんだぞ。 >>836
例えば、リアルな異性を見る時もパーツを見たり、抽象的に見たり、
汚いところには蓋をしたり、そういうことをしませんか。
2次元の世界はある種の理想郷なわけです。
作者の力量にも依ると思いますが。
>>837
芸術は、単なる人工物を超えたものだと考えます。
優れた大衆芸術は、人々の夢にアクセスすると思います。
恋愛小説にも、そういうところはあると思いますし、
2次元の世界だけの話ではないと思います。 泉かなたさん。
これが、死生観を人工物で植え付けられてしまった化け物の発想です。 >>840
『らき☆すた』は私も見ました。:)
ヲタクではないと自認していますが。
結構、作り手視点というのは大切かもしれません。
子供の頃、漫画を書いていた大人は多いのではないでしょうか。
私はそうです。 >>842
そういうことで、漫画家、あるいはアニメ制作者も尊敬しています。 美魔女さんとかテキスト版VTuberという感じ
というか、コテさんはみんなそうかも 人工物を神と崇めることに至ったキモヲタには、
心の支えや死への慰めの必要性も、
科学の発展の重要性も理解できる。
なのに人工物を神と崇めてしまえば、
それは感性で理性を覆った宗教の人間には気持ち悪く、
それは理性で感性を覆った科学の人間には意味不明で、
両者から敵に映ってしまうの。 >>844
人間というのは親の前では子供の顔をするし子供の前では親も顔をするし
仕事の上司や部下や学生時代の友人や先生や
そういう相手によって一人称も変わるし
状況によってキャラを使い分けるようなところがあります。
つまりたいてい自分というのは相手によって変わっていくものです。
誰もがVTuberかもしれないというおはなしです。
どこかに「本当の自分」という表現がありましたけど
私はそのようなものは無いと考えます。 皮肉にも人工物で死生観を見せつけられた挙げ句、
脳内を青い薔薇で満たしてしまった私には、
もうこんな無益な争い止めてくれとしか言えない。 認識(主観)なくして存在なし、ならそもそも存在は人工物
超越論的神は人工物
個々の主観の「内部の内部は外部」のその外部との個々の干渉における
クオリア群の一致は元々確かめようが無いのでは?
共同幻想がポストゥルースって矛盾しててなかなかオツな状況です 多分ヲタクの心情は
多分実数1、生命の樹セフィロトにいる宗教の人間にも、
多分虚数i、死の樹クリフォトにいる科学の人間にも分からない。
ヲタクの心はもう二本樹が刺さってる、
四元数と化してしまい、
心をぐるぐる回している。
初音ミクやVTuberがいるはずのjの樹、
野獣先輩や某弁護士がいるはずのkの樹がね。 >>846
子供の前では親の顔をするし
ところで宇宙人にも意識のハードプロブレムはあるのでしょうか?
私には、その問題は人間にとってでさえ数万年に及ぶ人類史の中の
ほんの一瞬極一部の人のあいだでささやかれた話題にすぎないものなのであって
存在の本質に関わるようなものだとは思えません。
ただし知性を発達させることがいいこととは限らないとは思います。
ソロバンよりもコンピューターの方が壊れやすいように
あるいは単細胞生物よりも人類の方が先に滅びるように
文明社会は未開社会よりも先に滅びることになるのだろうとは思います。
ひょっとすると意識のハードプロブレムの答えは文明の衰退を象徴する
ということさえあるかもしれません。
ちなみにここで私個人が「本当の世界」を模索する上で気にしておきたいのは
人間に備わっている「直観」です。
人は漠然と遺伝子工学や原子力開発に不安を持ち
それはだんだん慣れるとは言えコンピューターやテレビや電話や自動車や
さかのぼれば農耕(自然開発→自然破壊)にも同様の不安を持ったはずです。
そのような直観とはどのような構造を持っているのか、
それこそパンドラの箱かもしれませんけど
しかし開けたくなるのが人情というものです。
少なくとも「希望」は入っているはずです、これは真面目に。 >>845
さっきテレビで魅力的な男性声優トップ5みたいなことをやっていました。
何と言うか、アニメも市民権を得ている一方で、
ヲタクとライトなファンとの温度差は激しいようですね。
>>846
私も「本当の自分」は無いと考えます。
敢えて言えば、独りでいるときの自分かと。
>>847
私には有益ですよ。
例えば、読書の指針にもなります。
圏論は難しそうだからその基礎として群論の本、
宗教的な話題も出てきますからインド神話の本、
哲学の基礎を押さえるためにショーペンハウアーの本、
あと趣味で英語の小説、今4冊程読んでいます。
図書館でチャーマーズとクローリーの本を借りるとすると6冊。
返却期限がありますから、多分図書館の本を優先的に読むかな。
>>848
神は内部だとしても永遠の内部ではないかな。 >>851
ま、因みに群論の本は積読です。:)
かなり古いです。 ヲタクとマイルドヤンキー層もかなり経済を回しとりますな
マルクーゼの一次元的人間なんてのも一興
批評的視点、メディアリテラシー、湧き出てくるオルタナティブ... >>850
「存在の本質」は「知性の本質」くらいの表現に訂正させていただきます。
存在論の文脈ではややこしくなる気がしたためです。 >>849
月並みな意見ですが、ヲタクでなくて貴方はどうなのか、
それは気に掛かります。
>>850
私の直観では宇宙人はいませんが、仮にいるとすると、
多分、あるんじゃないでしょうか。
私は、文明社会は永遠に続くと思います。これも直観です。
パンドラの箱に「希望」が入っていますように。 >>850
そう言い切れるでこすけさんには、VTuberやVOCALOIDの歌なんて気持ち悪くて聞けたもんじゃないですよね? 私の心情もぐるぐる回ってるの。
一人称がコロコロ変わるのがその証。
僕だったり俺だったり私だったりするの。 私は、ヲタクに限らず社会、コミュニティに深くコミットしません。
>>851で言うライトなファンは私の立場に近いと思います。
しかし、哲学は全身全霊を掛ける価値はあると思います。 >>794
遣りたいことが出来たからなあ
愛した人のもとにという幻想は魅力的
霊魂なんか信じないのにね
幻覚体質なんで疲れると視覚、触覚に
聴覚は現実かどうか迷うことかある
葬式を終え数ヶ月後に帰宅したらその人の声がしてドアを開けたらいつもの服でベッドの横に立っていて直ぐ消えた
また出てきてねと話しかけたが視覚はそれ以来ない
空耳は姉が手術の朝、起きる直前に枕元で声が聞こえた
いや、楽に逝けたらさ
今のわたしには死も魅力的 >>860
>愛した人のもとにという幻想は魅力的
その思い、実現するといいですね。
私はこの肉体での生はこの生限りだと考えています。直観ですけどね。
楽に逝けたらという留保付きですが、逝かなくてもいいことはあると思います。 >>862
一番遣りたいことが出来たら、これをやって、なんて資料集めていましたが、やったら気力を失い、人に譲ったりして始末している最中です
さてまた片付けますか >>856
キャラにもよりますので一概には言えませんけど
少なくともオタク文化については気持ちが悪いと思っています。
気持ちが悪いというよりも気色が悪いという感じです。
私にはサイゼリアの天井画も気色悪いと感じます。
聖書や仏教の曼荼羅にはオタク文化的なものを感じます。
盛り付けにこだわる京料理にも宮崎勤の部屋のような
気色悪さを感じます。
何よりも一番気持ちが悪いのは自分が書いた文章です。 コロナだったらすごいテンションで盛り上げれる呪医よべば。 お祖母ちゃんと散歩に毎日行きました
亡くなって数年、たまに散歩コースを歩く機会がありますが同じ時間帯に遇う老人たちは見かけません
そして誰も居なくなった
わたしもまたそうなります
わたしは精神が独立して存続することはないと理解します
人数が死ぬ限り宗教も精神独自存在幻想も不滅でしょう
ライオンズマンションの前にベンチがあり裕福そうな服装をした老夫婦が、晩年のお祖母ちゃんの車椅子をわたしがおして散歩していたら、みていたおばあさんが「良いわね」とため息混じりに呟いたことが忘れられません
くろがねも、なんて和歌をふと思い出しました
お祖父ちゃん、お祖母ちゃんの最期に見せてくれた笑顔はわたしの宝です
人により違うのでしょうが、そんな体験をしたわたしには学は従です >>865
>>871
じゃあパンドラの箱のその先から書き込むからよーく聞けよ。
あんたら「自然な」感性の持ち主は、
>>646みたいなのがアートに見えたり、
VOCALOIDやVTuberの歌がまともに聞けるような、
「イカレた」感性が植え付けられちまう前に、
ネットなら宗教板かスピリチュアル板、
リアルなら農村か教会か神社にでも逃げ込めよ。
虚数学区五行機関の猛毒に当てられないうちにな。
心配すんな。
俺らキモヲタが死んだ後行き着く先があるとすれば地獄ですらない。
こんな曲でもかけなきゃ慰められない程の、
文字通りの「サイハテ」まで飛ばされちまってるから。
そしてそこには、
アレイスター・クロウリーやニーチェや、
オーギュストコントがいるはずだからよ。
あんたらには一緒「直観」の正体に気づけないから、
哲学辞めて宗教やれよ。
https://nico.ms/sm2053548 >>876
一緒じゃなくて一生だったわ。
ごめんな。
「パンドラの箱」の住人より愛を込めて。 「積極的無記」も「青薔薇の王国」も、
パンドラの箱の住人じゃなきゃ導けない結論だったわ。 >>876
いや、感覚は時代の影響が大
昔の音楽、演奏形式はついていけないことが多い
新しい演奏形式もまた
それを突き抜けて良いなあと感じたり
古典芸術の理解は吉本隆明「源実朝」が面白い指摘をしている
一読の価値ありと思う
>>871なんだが時代の変遷を感じているだけ
わたしの感覚にはちと
先日大好きな曲がまた違う魅力を感じる演奏を聴いてびっくり いいかい?
理性で感性を抑え込むことも、
感性で理性で抑え込むこともしないまま、
それと気付かず禁忌の扉を城門突破しちまった連中、
それこそがキモヲタだし、
パンドラの箱の中身は、
マジカルミライやコミケ等のヲタクのイベントだ。
キモヲタならハードプロブレムが解決出来るんだろうが、
キモヲタが出したハードプロブレムの結論なんて、
とてもじゃないがキモヲタ以外に受け入れられないぞ。
これはある意味「最後通牒」と言えるかもしれん。
こんな一生終わらん無意味な争い今すぐやめて、
科学か宗教やれ。
出なきゃ世界をキモヲタが埋め尽くすことになるぞ。 禁忌の扉を城門突破した連中だけが、
「多数決によって決めた遺伝子情報で造った心筋細胞」
がアートに見えるんだぞ。
世界がそんな連中で溢れ返ったとしたら、
躊躇地球環境は破壊しつくされちまう事になるぞ。
それでもいいなら一生、
形而上学と形而下学の弁証法でもやってろwwwwww 躊躇なく、か。
また間違えた。
じゃあな。弁証法の連中よ。
パンドラの箱の住人より。 ・・・まあ絵が受け付けないってだけかも
だから入り口だけで中身知らないんだ
語る資格はないな
初音ミクは富田勲が最後のCDで採り入れてたな
図書館で借りて聴いたが嫌いじゃないが買いたくなるってほどじゃない ああAKBあたりは芸になっていないから
俺は芸に金を払いたい
見るに値するかはわからないが、可愛いだけのお姉さん方の素人芸に金を払いたくない >>863
ゆっくりして下さい。
>>865
異文化を気色悪いと感じるのはマトモな感性かもしれません。
しかし、聖書は気色悪くはないと思いますよ。京料理もね。失礼な話です。
>>870
武士道と云うは死ぬ事と見付けたり、とは、死んだつもりで生きよ、
ということかもしれません。私はその一節しか知りませんが。
助けた人が助けられていた、というと綺麗事でしょうか。
私はそうでもないと思います。
この国はとりあえず今日も平和だと思います。 パンドラの箱の触れても開けてもいない変な箱の住人がなんか言ってるだけのことなんだよな >>886
まあ大病後なんでいろいろ考えてしまいます 初音ミクが長ネギ振りながら歌ってるリズムはなんか笑える 西田哲学では「無」の前には「絶対無」がありますの。👰
西田哲学は
本質的には宗教ですね 学問は生とは何かってことかな
自然、論理、学問の本質の問
・・・まあ諸学のように絶望の結論が待ち構えているような気がする >>896
意味がわからないので、なにかに例えていただけると 自然の運動変化で生成したヒトはまた違う物理状態に生成していくだけ >>898
わたしもあなたも物理状態の差異
金属も植物も
それを否定で規定する
わたしは同一であることはないが同一で規定する
座標原点、静止で運動は理解される
規定は否定
自然が有なら規定はその否定、無 >>900
新約聖書学はプロテスタントの正統性を示そうとしたが否定され、キリスト教の根幹まで否定してしまった
数学の進展は数学者の幻想を砕く
マルクスの方法で学を展開した学者はマルクス主義が成立しないことを示した
科学もまた人間は物理状態の差異としてあり諸物理同様であることを示すだろう
運動変化の生成過程にありまた違う物理に生成されていくだけだと 正直あの世が有って愛する人たちが待っているとか荒唐無稽な夢は否定したくないかな
人は感情で生きているからなあ
理性なその道具かもなあ >>903
絶望するのは学問に信頼頼り過ぎているのでしょう
学問失望しても、絶望すること 竹宮恵子「地球へ・・・」
萩尾もと「アメリカン・パイ」
「海へ・・・」
とか少女漫画の大家の作品はなんか心に残るわ すいません、パソコンに不馴れなもので途中で送信してしまいました >>905
理解したいんだよなあ
それだけなんだが
結論は理解出来ないことが理解できるってことなんだと たまに埋まれなきゃ良かったなんて思うが
国ガチャ親ガチャは満足しているからなあ
ではまた >>904
感情をコントロールするのが理性なら、感覚感情の方が先立つ 一切は空なり
一切は有るでもない
一切は無いでもない >>911
すみません、おとなしくロムに戻ります。 デコスケ様は存在の可能性の観念なるものが可能であることを否定しているわけですが
それはやはりデコスケ様が存在を何らかの仕方で考えているからこそ成り立っている訳でありまして
なので、何らかの存在の観念を作ってしまってる訳です まさにそれはアンチノミー なぜ、私達は生まれてきたのでしょうか。存在している意味とは、私は誰なのか、どう生きるべきか、生き方をどう選ぶべきか、哲学が誕生して以来人はこの問いに答えを求めて来ました。👰
抽象的概念に逃げることなく人生の意味を考え不安、苦悩、絶望と向き合います。👰 >>881
ヲタクがキモヲタに変わっていることは解せませんが、
ハードプロブレムを解決するのはヲタクであっても構いません。
是非、披露して頂ければと思います。
>>882
感性と理性の弁証法とは、正に貴方の考えのことのように思えます。
人工物によって神を造ること。
>>883
さよなら。 >>917
私は神と出会うために生まれてきた。そう思います。
オカルトを解体できないようでは問題外。 わたしは自然は無矛盾、つまり理解可能だと考えています
それは光速度一定の原理が静止の存在を否定していることで示したと理解します
つまり否定関係は存在しないと
精神は特定の物理状態の附随現象です
その物理状態の変容に左右されます
他の物理状態に遷移、つまり死ねば精神は消えます
あくまでも物理と否定関係の存在はないということです
光速度一定の原理は否定関係は存在しないことを示します >>920
しかし、精神が脳を動作させることはあるのではないでしょうか。
このせめぎ合い。脳の取り合い。 >>920
光速度不変の原理に、それを示す意味しかないかどうかはわかりません、他に意味があった場合、それ以外の知的情報との関係が優位になる可能性が0ではないでしょう。 >>921
基本能がなければならないんじゃ?
自然に働きかけるという能動性は実は自然の存在がなくては、つまり基本は受動的なのではないかと >>923
訂正
> >>921
> 基本能がなければならないんじゃ?
能→脳
> >>922
?
静止が存在したら原理は否定されます
自然に否定関係があり無矛盾、つまり理解可能ではなくなります パンドラの匣あるいは甕。
閉じているものだと思っていたが、最近はつながっている以上、
閉じていないのではないか、と、思い始めている。
つながっているのに閉じているようなモノ。
いや、開かつ閉。closed-open。
蓋はいらない。
多主観世界において、人間を複合体とみたときの問題を考え中。
これには開いているのに閉じている箱があると便利、かもしれない。
というか、量子力学がソレなわけだが。 >>925
云っていることはわかるのですが、こちらの云いたいことをまだうまくコメントに纏められてない状況です。 観測問題はこの原理が解決していると理解します
運動を前提に否定関係は導けない
つまり自然は運動するエネルギーの濃淡の海です
自然は一ですがそのまま認識できませんから多として現象します
ディラックの海は真空はエネルギーの基底状態であることを語ります
粒子は波が渦の状態です
自然の無は有の一形態
静止は運動の一形態
不確定性原理は運動を静止で測定しますから近似値でしかありませんことを示します
規定は否定ですからこのようなことになります
0に限りなく近いが0ではない、揺らぎ・・・
規定が否定だからです 自然は一です
それを多で規定する
多は認識に現象する一です
否定関係が存在したら矛盾してしまう >>927
まぁ、なんといいますか、それで矛盾が解けて完全に理解し終えていたら、なぜ時間が存在するかも説明出来ないと矛盾すると思いますね。 次元で理解する
つまり次元は無、否定です
最近時間は存在しないと主張する科学者たちが出てきてニュートンで特集がありましたから決してとっぴではないでしょう 次元は一である自然が認識の在り方から多として現象する物理存在の抽象です
三次元は認識の在り方に現象した物理存在の抽象ですし運動していません
四次元は定期的に運動する物理存在の抽象です
頭上の太陽が次に来るまでを1日にして測定、比較する
仮に一秒が存在したら三次元が無限に存在するってことに
つまり次元は測定するための物理状態の抽象です
座標原点ありませんし 自然は運動するエネルギーの濃淡の海です
数、次元、静止、有限は様々な言い換えです
それらは認識に現象した自然の抽象です
それで理解するが存在しない 光速度一定の原理は座標原点で理解し座標原点の存在を否定する
つまり規定は否定で自然には存在しない
この原理は規定の存在を否定して無矛盾であることを示す
規定、論理、理論は自然には存在しない
それらは自然の否定だから
朝永博士は物理学の自然はたわめられた自然と語る
その通りではないかと 最小単位もまた否定されます
ここからがありません
ここまでもまた
粒子は、波が渦の状態です
つまり認識に現象する波の形態です 意識は物理存在しかないことを科学が示しますから物理の否定関係としては存在しません
意識は物理存在としての状態に左右されます
つまり附随現象です
薬、熱、老化により意識は左右されますし >>944
その理解で無矛盾ならそれで十分だと思います。 重力は加速ですし他の力はその物理状態に生成するのに必要なエネルギー量です
つまり力は存在しません 自然は運動するエネルギーの濃淡が反発親和の過程で様々な物理状態を生成し、わたしたちもまたそのような物理存在で、また違う物理状態に生成していくだけです
つまり、他の物理存在と変わらない >>953
思考は物理現象を如実に現しますからね。 わたしは自然を論理を学問をなかんづく人間を理解したかった
あまり芳しくないですがブルトマン、ヒルベルトのように結論が納得できたら受け入れなければならない 意識は自然が自己言及可能な物理状態です
否定で理解し、否定はまた否定されます
理解は可能ですが理解は否定されます
結局理解出来ないことが理解されます
自然は可知であるが故に不可知かと >>955
どう納得するかが、それぞれの感性でしょう。 クレタ人の逆説は対象をその否定で理解するからです
つまり自然理解は決定不能となります
生物学者は生物は生きつつかつ死につつあると語る
つまり運動変化している対象を静止で規定するからです
ヘーゲルの運動規定もまたそうです >>957
わたしは自然理解が矛盾しなかったら受け入れます
それが科学の前提ですから >>962
人間、そう簡単に認識を変えられない動物ですので。 次スレッド、立てました。
意識のハードプロブレムの答え12
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1634041456/
順序に混乱のないよう古いスレッドから使用して頂ければと思います。
よろしくお願いします。 失礼しました
わたしはもしかすると永くないかもしれませんので焦っています
自分なりの結論が得られ満足していますが、裁断はわからない
わたしの結論が正しかったら人間の大部分、とりわけ宗教には耐えられない、いや物理学者も怪しいかな
虹自身
時間がありと思いけり
わたしの好きな俳句です
詩は好きじゃないけど短章集の永瀬清子さん好きだなあ
「八歳の」なんて大好きですが真逆の人間です
四冊くらいあったかな
人は感情で生きていますから
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
栗木京子 あの夏の
数限りなく
そしてまた
たった一つの表情をせよ >>923
私は自然も脳も主観的存在だと考えます。 >>965
絶句しました。お体をお大事に。いい俳句と詩ですね。 なんかな
自分の導いた結論に悄然としていますが、でも否定したくはないんです >>969
幻覚体質なんで亡くなった愛する人たちにまた会えたら会いたい! 時間の克服 が出来たら真理が現れます😃
その文献どっか いっちゃったの。👰 >>965
お体が悪いのでしょうか、お大事に。気休めにしかならいかも知れませんが、わたしには偽パルメニデスさんの理解とは異なる認識の結論があり、それがもし正しければ、人間が耐え難いような苦悩はもたらしません。 私が言うた全ての命題はそれが直接形式のそれであるに過ぎない存在の言表として捉えられると誤りの誘惑となります😃
私が相手に心の意識の転換を要求してるの問いかけが奪われると哲学の記号に伴ってそうでもあるしそうでもないかのような応用の議論となります、
ここからして一切の特殊な哲学に伴って特殊な詭弁が現れます、
つまり本来的なものに近く迫ったように見えるところに最も甚だしい倒錯がなされてしまうのです。👰 外的な神や外的な全体は本来的なものの私にとっては単なる媒介であるに過ぎません😃もしも外的な統一を絶対とするなら本来的なものの統一が失われて
外的な全体や外的な神は本来的なものの私を潰してしまう。👰 その同じような誤りは理由や弁明や根拠付けや保証といったものとしても使われています。👰 もしも 存在論的な言葉の表現が主観に対する新しい客観的なものに誘導するならその意義に於いて無価値となります、し、誤りの道具となります、☆★ 位相の変化を考えると1次元球面では足りず、2次元球面が必要となる。
3次元球面が必要かどうかは考え中。
3次元球面では4次元空間が必要となるため、4次元におけるエキゾチック性?に
よってなんらかの問題が発生するかもしれない。
われわれが3次元球面上の存在だとすれば、動的世界(3.X次元球面?)である理由が、
そこにあると思われる。
とりあえず、時間や無限性という問題を先送りして3次元球面を考えと、
主観という点の集まりが3次元球面をつくっている。
ひとつの主観を抜くとその主観の3次元球体が得られる。
(球面から一点抜いたものが球体である。球面は完全だが矛盾し、球体は無矛盾だが不完全だ)
(ただし、ここでいう「矛盾」は再定義が必要。考え中) 地動説、進化論、光速度一定の原理は否定関係と認識していたことが差異であることを明らかにした
意識は自然が自己言及可能な物理状態に過ぎない
植物、金属、そして真空でさえ差異であり否定関係ではない
球体は認識に現象したエネルギーの濃淡の在り方
ここから球体、ここまで球体というのは自然にはない
あくまでも認識に現象した在り方でしかない 認識に現象する自然であり自然自体ではないことを科学ほ明らかにしてきた
わたしの哲学はやはり事実から出発したい 好みかな
キリスト教徒は新約聖書学の示す事実から目を背けない限り信仰は難しい
マルクス主義もまた同じなのが皮肉だ
科学が示す事実と無関係もありかな
なんか死ぬってことに直面するとハイネも肯定的になる
人間の業ってことか
不死でない限り宗教は不滅だとする学者は正しい 肉体が遺伝子の乗り物なら性は前提、基本か
文化は動物ではあるが社会的動物でもあるから
本能と社会秩序のせめぎあいの歴史かと
社会秩序が混乱したら取り締まり、沈滞化したら緩める
バランス問題か
文化は基本として人間が動物であり性が前提ということの問題に対応するのが最重要かも知れない >>986
ありがとうございます
疲労することがわたしの幻覚体験の前提ですが例外は愛する人が亡くなり数ヶ月経ち、疲れていないのに体験したことです
また会いたいと切実に思います 利害、そして地域利害が有る限り国家は不滅でしょう
軍備もまた
いろいろ縛りが有るということかと
意識問題は物理の縛りの認識からわたしは出発したい >>988
幻覚に関しては、超自然的なものであり得るため、何とも言い難いのですが、
私は来世はあると信じています。
最愛の人がいたなら、そこでまた会えるかもしれません。 偽パルメニデスさんの考えは、精神ありきではなく、物質ありきですよね。
私には、物質が精神を作り出すことより、精神が物質を作り出すことの方が、
合理的であるように思えます。
例えば、私はそのことを、クオリアは説明されるものでなく、説明するものである
などと表現しています。 >>991
これは赤はある波長の電磁波であるというときの波長や電磁波もまた
クオリアであることを示唆しているかもしれません。 >>977
>本来的なものに近く迫ったように見えるところに
>最も甚だしい倒錯がなされてしまう
これは本物っぽいですね。
私は理性は絶対ではないと考えています。
ゆえに真理には到達できないし、そもそも真理は幻想です。
「純粋理性は批判可能」、じつは私はカントを読んでいないので
彼がどのような経緯でその結論に至ったのかは存じませんが
(興味もありませんが)私の場合は「根源的覚醒」に基づきます。
神は死んだ、仏も死んだ、哲学も死にました。
そこで私は言語ゲームにいそしむ方針に切り替えたのです。
「何かが考えている、故に何かが存在している」
これは真理とは言えませんが、とりあえずの実感です。
「A=A」「A≠非A」などは絶対確実ではありませんが
とりあえずはリアリティがともないます。
そこでそこから世界がどういうものなのかを模索して
そして整合する気がする体系ができあがれば、
それはいつか新たな発見によって覆されるようなものであったとしても、
とにかく本人が納得いけていればそれでヨシとしておくゲームです。
ちょっと何か違う感もありますけど、覆されない確証はあり得ませんから
それはそれで仕方がないことです。
じつはそもそも探究は知らないことによる不安を解消するためにするために
始まったもののようですから、
一応それはそれで目的は果たしたことになっています。
世の中なり人生なりというのは私たちのようなアホの思い通りに行くほど
甘くはないのです。
私はどうも、どれが本物の美魔女さんなのか
わけがわからなくなってしまいました。
自作自演説さえ考慮しておるところでございます。 真理は幻想、これは真理ということですか
わたしは自然は無矛盾、理解は可能だが否定で理解するから決定不能だと理解します
不可知自体は可知です
決定不能は理解するからです
以下ループ >>991
重要な前提は「存在」の前に「認識」があるということだと思います。
カントが言ったコペルニクス的転回というのはそういうことだった
と認識していますが、よくは知りません。
いずれにしても物質とか精神とかは後からついてくるものであり
本質的な問題ではない気がします
(私は物質も意識も存在ではないと考えています)。 終活中です
両親は様々な過ちを犯しましたが人としては尊敬できます
わたしは何かを次世代に繋げればと考えています
それはともかく
ビッグバン仮説は天動説です
始まり、静止が存在することを主張していますから
最小単位はありません
次元は理解の媒介です
力一般もまた
有限もまた
まだまだ科学は天動説かと理解しています
人間もこれからじゃないでしょいか >>994
>真理は幻想、これは真理ということですか
ゲームの中では真理です。
しかしゲーム自体がフィクションです。
私たちはフィクションの中からのがれることはできません。
故に外のことはわかりません
(これももちろんフィクションの中でのはなしであって
外がどうかはまた別です)。 >>997
フィクションという認識自体は真理ということですか フィクションという認識自体もフィクションなら・・・ このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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