犠牲ありきの思想は肯定すべきかどうか?
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スレタイ通りです。
ネットでよくみられるように
人間には気に食わない他者を吊し上げ犠牲になることを
強要する性質があります。
この性質について肯定すべきかどうか
広く皆さんの意見を伺いたい次第です。 学校でのいじめ、犯罪者への刑罰
ナマポ、ガイジは死ね、など
これらに共通するのは
他者の負担になってる存在が
生存していることは
他人に犠牲を強いてるに等しいので
公助する必要はない。
役立たずは死んでくれればいい。と。
一定の支持があるロジックです。
ただ、落ち着いて考えれば
払っている税金に比して
公共サービスの負担の方が大きい人間が大半なので
その理屈で行けば大半の人間は死んだ方が
いいという話にもなります。
根底にあるのは、自分たちにとって
不快な人間は犠牲にしていい、という発想な訳で
この思想を肯定すべきかどうか議論して
認識を深めたい次第です。 もっとわかりやすい話に落とし込むと
大抵の人は自分の血を吸う蚊を叩いて殺します。
けど、ごく一部の人は
蚊を下敷きかなにかで
傷つけないようにして
部屋の外に追い出します。
加害してくるから相手を殺そうという発想と
加害してきても相手に配慮しようという発想と
その両者の価値観の均衡がどうなるのかについて
意見を頂戴したいです。 詰めたことを書くと
犠牲ありきの思想信条を
殺した方がいいのか
それとも、犠牲ありきの思想信条を公認して
役立たずの度合いが低い人間から殺すのがいいのか
どちらが正解なのかみなさんの意見を伺いたい次第です。 器の度合い、という問題があるかと思われます。
例えば、仕事が忙しくてストレスがたまっている状態だと
普段、温厚な人でも余裕がなくなって他者に冷淡になる、と。
学校でも学習を強制されてなかったら
起こらなかったいじめもあるかも知れません。 例えば、昔は学校や職場で
体罰は当たり前でした。
今は少なくとも表向きには禁止されています。
ネットでの誹謗中傷の罰則規定が強化されたことからも
現状では時代を経るに連れて
他者に犠牲を強要する行為を禁止する流れになっています。
YouTuberの少年革命家ゆたぼんや
FIERのように、義務教育や労働の義務も
一種の犠牲の強要とみなして
そこから解放されようというトレンドもでてきています。
犠牲ありき、からは段々と脱却してきている訳です。
これはしかし、相対的正義観念、つまりは
誰の正義にも優劣はないという思考回路に背反してもいます。 保守とリベラルの対立について
保守が既存の犠牲ありきで
リベラルが犠牲の縮小化を目指す
という風に見立てることもできます。
保守とリベラルの問題にすり替えても
いいかも知れません。 ライトニングさんの犠牲でなりたってるルサンチマンなのか? 保守は究極的には自分達が犠牲にならないために
軍事力による防衛ありきの政治的スタンスに帰結します。
対して、リベラルは社会変革を続けることによって
犠牲を減らし続けて、平和な世の中の実現を目指します。
みなさんご存知の通り、日本は大多数が保守的スタンスで
大衆が支持しているエリート層は大多数がリベラルです。
このねじれというのが、ややもすると
社会運営をややこしくさせているのかも知れません。 日本は和を以って尊しとす、という哲学基盤の民族で
要するに、強力な存在や大多数の意見に倣います。
対して、中国は共産党主権によるマルクス主義。
アメリカはリベラルで自由の権利のために戦う哲学です。
強力な存在や大多数の意見に倣うという
スタンスは価値相対主義と相性がいいです。
すべての価値観はどっちもどっちであると
踏んでいれば、保守だろうがリベラルだろうが
勢いが強い方に乗っていける訳ですから。 誰の正義感も本当はどっちもどっち
という思想は、理想のために戦う姿勢を
回避するスタンスでもあります。
自分は違う、と思っていても
強者や多数派の意見に倣って判断してしまう訳です。
中国は今逆行というか、ブレーキをかけてますが
世界的には、個々人の自由を許容するリベラルの潮流なので
日本も建前上はリベラルということになっています。
なにか、主体的な国家である筈なのに
主体的判断を投げてるフシがあるな、と。
一旦、個人個人の正しいと思うところを
議論しあって、指針となる哲学を深めていく
必要性があると感じている次第です。 人で考えない。
ロジックで考える。
属人的に判断しちゃうから
弱いんだと思います。 飯がうまくなるとか
ライトニングさんがどうとか
全部、主観的かつ属人的。
主観や属人を捨てろとは言わないけど
客観やロジックに根ざして
互いの客観やロジックをすり合わせて
優れた客観やロジックを確立して
それを主観や属人に還元する作業も必要。 個人的な見解になりますが
現生人類の発生は、本能の命令にトラップをかけて基本ルールから逸脱する能力の獲得に
よるものと私は考えます (ズルをしなければ種として生き残れなかったと言う理由で)
支配的な立場の者が他者に犠牲を強いる と言うのは残念ながら現生人類のデフォルト
設定なのではないでしょうか?
これに対し他者を慈しみ尊重すると言う思考も文明の初期から存在しましたがそれは幼い
素朴な(おそらく子育ての本能の派生系)ものでした
社会の発達につれ 支配者による慈悲や信仰による規定も進化していますが微々たる物です
観念として他者を犠牲にするのは良くないと理解しても社会機構が現在に至るまで未発達で
犠牲者の発生を全てを防ぐことは出来ません しかし
予測外の偶発事故による犠牲を除いても 現生社会に於いて非道な犠牲者の発生が劇的に
減少していることも事実ですし 今まで不可視だった犠牲者を発見し救済の声が庶民の耳に
届くようになったのも社会の進化の結果(または過程)ではないでしょうか?
誰が犠牲者か?と言う定義や認識にも様々なレベルで課題がありますがそれは後ほど 根本的な話をすれば
人間がなぜ存在しているか
明確にわかる人は誰もいない訳です。
カオスを力による支配で
秩序に変える。
という構図も普遍的であるかどうかは
わからない。
ただ、明確なのは
犠牲ありきの世界だと
犠牲にならない側は秩序を求めて
犠牲になってる側はガラガラポン、つまり
カオスを求める。
一旦、犠牲のない世界というものを実現してみて
世界の実存理由の真を問いたいというのが
個人的な哲学的探究心としてあります。 そのためにレジでバーコードをピッと読み取るスレなのか??? >>16
個人的な見解になるけど
世界には相補性というものが機能していて
ある存在に対しては、必ずそれに対立する存在が機能している訳です。
けど、量子力学の世界だと対称性の破れというものもある訳で
ある種、マクロの環境でも対称性の破れ、つまりは、相補性のある観念においても
どちらかに優劣が付いている、それが種の進化を支えているロジックになっていると
見立てています。
例えば、光と闇という対立概念がありますけど
中国の太極図においては、光と闇は全くの同格ですけど
西洋文明においては、紙一重で光が勝るとされています。
この、対称性の破れ、光の側が紙一重で勝っていくというロジックが
犠牲を減少させていく社会の現実をつくりだしているというのが
僕の思うところです。 また、量子力学の世界では有名な観測問題があります。
光は、粒子の性質と波の性質を併せ持ち、観測機が介在してない状態では
波の性質で等しく分布しますが、観測機で光を観測すると
粒子的に分布されます。
量子力学の世界では、観測行為によって、光は性質を変える訳です。
波、という動的性質が、観測者によって
粒子という物質として固定化される。
これはつまりは、観測者の意思によって
光の内実が決定されることを示唆しているとも捉えられる訳で
光、というのは、世界の観測者である人間の意思で具現化していく、と。
このことからわかるのは、人の意識の持ちようが
世界の構築に関して決定権を有するという仮説に繋がり得ます。
そもそも、海の中から発生した生命体が空を飛ぶような個体に進化していったのも
なにか外的要因に求めるよりは、生命体自体が持つ意思により
世界との関係性を改善していった結果として起こったと捉える方が
ムリがない訳で、人間も生命体の一種である以上は
進化する意思の持ちようが決定的に大事になってくる、と。
その意味で犠牲を認める保守性というものは
犠牲になっている側の逆転進化の目を残すので
犠牲はなくす方向性の意思を持った方が人間の種としての
持続性も担保できるということも言えます。 >>15
>優れた客観やロジック...
人に作れるのは”現時点での..” まで
そして 社会にはそれを達成する能力が
常に不足しているのが現実
力が付いた頃にはロジックも陳腐化
以下繰り返し(あきらめちゃだめだけど)
客観視も能力不足なら主観に過ぎないよ?
自分の視点が客観だと思った時点で思い上がり
かも? 例えば、宇宙論で超弦理論というのがあって
高次元の輪っかによる振動で宇宙が発生しているという理論がありますけど
そういう理論を構築して、その仮説を信じて邁進する意思が
そういう宇宙の現実をつくりだそうとしている、とも見立てられる訳です。
哲学的に言えば、個としての実在こそが世界をつくりだしているという
仮説にも繋がるわけですけど、いずれにせよ
個々人の意思の在り方が世界の形成についてかなりの作用を及ぼしているということについて
量子力学の観測問題は示唆をしている訳です。 >>24
僕が言いたいのは、客観的ファクトを積み重ねて検証していくと
主観が客観を構築していくことが仮説として成り立つのではないか? ということ。
そして、その仮説が成立しているならば
誰も犠牲にならない世界を理想とする意識を以て生きていれば
世界はそのように少しづつ変わっていくのではないか?
なので、保守よりもリベラルの方がいいんじゃないか?
という見解と意見です。 まとめると、犠牲ありきの世界観はよくないのではないか?
犠牲のない世界観を目指し続けることが大事なのではないか?
けど、実存している本当の理由なんて実際にはわからないのだから
犠牲のない世界が本当にいいのかどうかはわからない。
わからないけど、犠牲のない世界を実現した時になにが起こるかによって
実存している本当の理由について少し認識が進むかも知れない。
だから、そうしよう。
ということです。 >>22-23
キミら懐疑主義だろw
僕も懐疑主義者だよ。 どっちみち一人分のことしかしてないよ
それを扱いあぐねてリアル世界に丸投げして逃げたいんだろ? >>29
20%くらいはその動機だけど
70%くらいは、保守層の多い日本人の意識変革をしたいという動機だよ。
あとの10%は、ここでの誰かの書き込みによって
自分の認識が変わることを期待しての動機。 誹謗中傷はダメ絶対
一方、正当な批判だったら全く問題ない
ネットというオープンな場所で発言するならそれに伴う責任は受け入れなければならない 自分の発言に多くの批判が寄せられることを吊るし上げだと感じるなら、そいつはインターネットや公の場で発言すべきではない 昔、堀井さんが月刊誌OUT誌上で
2042年に御茶ノ水駅の四ツ谷口寄りで
オフ会やる告知してたのはすごい有名だけど
先見性スゴ過ぎない? と。
この高度な政治的決断を現実に落とし込むセンス。
スゴ過ぎますわ。
つまり、ドラクエのプレイヤーであるトロくさい勇者達は
ドラクエというコンテンツに乗っかっていけば
一流どころの集団に仕立て上げる壮大な設計が昔からあるということ。
賢こスギィ! 同じ前提から出発すれば、誰でも同じ答えに辿り着くというのが論理(演繹)
論理的思考ともう少し幅広くとれば、悟性と経験による推論や同一視、仮説形成(帰納)も含まれる
この場合、人によって常に同じ答えが保証されるとは限らない
演繹では、何を前提とするのか、そもそも何を問題にするのかということは、個々人によるし、
機能に至っては、何をサンプルにするかで求められる答えの種類が変わってくる
議論において相手がどこのだれなのかということは本来関係ない、議論の内容の是非は権威や地位によって担保され得ないからだ
しかし、自分が何を動機として、そのことを考えているのかというのは一度考えておく必要がある
そこまで考えられて、初めて客観性というものの一端を担えるのだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています