哲学的最終解答
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
多目的に使えて、しかも中途半端でないこと、この両立がなかなか難しいく、
ただ提供される商品の選択肢のなかから選ぶだけでは埒があかない。
自分でどう工夫することができるのかを考える必要がある。
ただし、工夫に専念すると、それが自己目的化して、うまく工夫した
つもりが、無理を我慢しているのにそれを否認する自己欺瞞に陥り、
他人からは見れば、偏向した趣味にしか見えないことになる。 >>229
>>230
てめえ何言ってんだ?スレ違いだろ、出て行け。 生物学関係の一般向けの入門書を読んでいる。
高校の生物の授業とかもまったく勉強しなかったので、
常識レベルの知識も持ち合わせていないが、あらためて読んでみると、
なかなか面白いんだけど、分かりやすく説明するために使われている
隠喩が大きく間違っているような気がする。 例えば、遺伝に関してDNAについて説明するのに、それが「暗号」の
ようなものとして説明されている。確かに、DNAが発見され、その
配列がどうなっているのか、その配列がどう読み取られ、どのように
作用するのかを解明する必要がある、という研究の視点からすれば、
それは解読されるべき「暗号」のように見え、そのように説明する
ことはできるかもしれない。しかし、DNAの利用のされ方は、
ヒトでも大腸菌でも同じである一方で、DNAが無生物によって
利用されることはない。ところで、「暗号」とは何だろうか。
それは、通信文を、それが宛先とする相手以外の手に渡ったときに
読取り困難にするためのも本の「平文」に施された特別な操作である。
ところが、ヒトのDNAが大腸菌に渡っても読み取られてしまうだけ
でなく、ウイルスが運ぶ遺伝情報も、細胞に注入されれると、
読み取られてしまう。したがって、DNAの「遺伝情報」を通信文に
喩えるなら、それは細胞にとって「暗号」ではなく、「平文」である
と言わなければならないのではないか。 もちろん、専門家は、DNAがどのように働くのか詳細に研究しているので、
それを「暗号」として一般の人々に分かりやすく説明したところで何の
支障も生じない、という考え方もあるだろう。しかし、天文学で
天体の動きを説明するのに、それが分かりやすいからといって、太陽が
地球の周りを回っているというような隠喩は用いない。それがDNAを
通信文に見立てて、それを「暗号」に喩えることは、そのような
過ちを犯すことになるのではないか。ごくささいなつまらないことに
思えても、それが不適切な隠喩の用法なら、それを放置して、さらに
その隠喩に基づいて説明を展開していくことは、生物を理解する全体像
としてのモデルにまで悪影響を及ぼすことになるだろう。 それがDNAを通信文に見立てて ×
DNAを通信文に見立てて 〇 物事にはつねに多層的な複合性がある。
したがって、その複合性をどのようにか分かるように
しようとする探求の試みに対して、「物事はそんなに単純ではない」
という批判を向けることは、単に意味がないだけでなく、
探求を妨げるものとして有害ですらある。
「複雑なものを複雑なまま理解する」と言えば、聞こえがいいが、
これは、その無効性において「物事はそんなに単純ではない」
という批判とほとんど変わらない。なぜなら、そもそも、
物事に多層的な複合性が認められているから、それを解明しようと
探求を試みているのに対して、その認識を「物事は複雑だ」と
言い換えることは、多層性な複合性を無視して、それを
同一平面における複合性や、同一レベルでの多面性に置き換えて
しまうことになるからである。 美しさとして評価される「侘(わ)び」とは、英語で説明的に表現するなら、
"art of adaptation by self-diminution of exigence"であって、
それは、自らの置かれた状況に適応する己の生きる「術(すべ)」/"art"の
自覚である。したがって、それを「禁欲主義の『をし(教)へ』」に変えて、
他者に「侘(わ)ぶ」ことを要求する/《exiger》ことは、文字通り
倒錯であり、その「術(すべ)」/"art"を実践することに悖(もと)る振舞ひ
であると言わなければならないだろう。 最善を尽くすより、最善を尽くせるように
してあげる方がつねに得策 >最善を尽くすより、最善を尽くせるように
してあげる方がつねに得策
これは、自分に役立つ働きをする者についてだけでなく、
自分自身についても当てはまる。
最善を尽くそうと決意する精神主義は、大抵の場合、
全くの無駄である。それよりも、能力を十分に発揮することを
妨げることが分かっている要因を排除していった方がいい。 何が余計な制約として働くことになるのかを見極めることが大切だ。 「自分ないし他人が最善を尽くせるようにしてあげる」こともまた「最善を尽くす」ことに含まれる
したがってその指摘を踏まえても「最善を尽くせ」が「哲学的最終回答」であることに変わりはない 間違っているよ。
「最善を尽くせ」というのは命令であり、
自分にとって良いことをするのに命令は必要ない。
命令を必要とするのは、無理をしている証拠だ。 無論、従うことが明らかに不可能な命令、ないし従うことは可能だが従うために努力を要する命令は、「哲学的最終回答」などにはなりえないだろう
しかし「最善を尽くせ」はどちらにも該当しない
それはあらゆる人間にとって、従うことが可能で、かつ従うための努力を必要としない命令だ
つまりわれわれは常に既に最善を尽くして生きているのだ
だからやはり君の指摘はあたらないな >つまりわれわれは常に既に最善を尽くして生きているのだ
では、「何もしなくてもよい」でも、どっちみち最善を尽くしている
ことになるのだから、「最善を尽くせ」という命令は不要ですね 「哲学的最終回答」たりうる道徳命題があるとすれば、それは、「誰もが常に既に、特に意識せずとも従っているがゆえに、誰にとってもされてもされなくてもよい命令」に他ならない、というのが私の見解だ
だから、無論君の言うとおり、その命令は誰にとってもまったく不要なのだが、まさにそうであるからこそ、その命令は「哲学的最終回答」たりうると、私は考えるのだ 哲学板でマジレスしてる馬鹿共には>>1を理解できない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています