哲学するってなんのためにするのか?
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権力関係、権力ゲームがどうこうってミシェル・フーコーは言っていたな。
正直そんな余裕のある時代じゃなくなってきた気がするけど。 時代がきつくなると自己防衛のため哲学するものが増えたりするのかなあ? >>12
数学はまさに知的ゲーム、哲学は理性ゲームだな。 理性と知性。やっぱり理性の方が知よりちょっと高級感あるよな。 高級感か、知性は生きてくための必需品、必要とあらば競ってでも勝ち取りに行かざるを得ない、理性は趣味とか嗜好品って感じはあるね、ガツガツしてまでやる必要もない、やりたい人の楽しみ。 利害得失を無視しないまでもそれをちょっと超えた頭の働きが
理性には必要だわな。 哲学するって実践な気がするのだけど、哲学を勉強するのと、哲学するのは違うよね? 哲学するって実践な気がするのだけど、哲学を勉強するのと、哲学するのは違うよね? 人が実践する際に念頭に置かれているのがその人の哲学だと思う。 いくら偉大な哲学者の思想を理解してもそれを実践できなければ、その人は大して哲学してないことになるよね 哲学始めた切っ掛けは悩み事の自問自答だったから、実践と言えなくもないか。今じゃ全く関係しない趣味と化したが 哲学始めた切っ掛けは悩み事の自問自答だったから、実践と言えなくもないか。今じゃ全く関係しない趣味と化したが 辞書には、人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問とある。
つまりは、考えることが実践だ。 みんな考えてるからなあ
その上で哲学するって行動だと思うけど >>37 人生・世界、事物の根源のあり方・原理について 実践と対応するのは理論だわな。
で、実戦と理論の背景にあるのが哲学や理念だろうな。 感性が鈍い人間が理性の哲学に傾倒すえるのかもしれない、理数系も得意な人間は別にして。 文学の場合有り余る感性を癒やすため嵌る感じだよな。
哲学はそれと逆かも。 >>40
カントは理論的哲学と実践的哲学は区別できると
いっているね ざっくり言えば文学は楽しむ、哲学は考え方を吸収する効果があるように思う。
哲学をやると精神安定するな。感情で物事を無理やり解決しようとするのでなく頭を使って道理に当てはめる。 考えてみれば哲学の実践は自ら哲学本を書くことだな。 世界は陰謀論など勝手なことをいって、文明の基盤が危うくなってるけど、
哲学って 文明の基盤を危うくすることに荷担してるんじゃない。 >>52
逆🥺
むしろ哲学は理解不能な頭のおかしい偉人の著作を傾聴することで、今自分を形作っている既存のS1が破壊される
これが解説書とか倫理の教科書みたいな「データ」としてまとめられたものを読むならそれは害悪でしかないが🥺 知的探求の賛美は 人間賛美の一種だが、自然科学の知的探求については科学者の責任が
しばしば問題になっている。核兵器、生命倫理の問題、AIの問題等。これに対して、哲学の知的探求に関して、哲学者の社会的責任が問題とされないのはなぜなのか。哲学が暴走してもその迷惑度など、暴走する科学の迷惑度に比べたら、非常に小さいというのもあるだろうが、現在の世界に蔓延する社会不安、インターネットで陰謀論もすぐに拡散して現実の強大な過激、 圧力集団になる世界において、哲学の責任が皆無などと考えるのであれば、哲学者の精神的怠惰。 哲学者の意見より、マツコデラックスや松本人志の意見をありがたがるからな >>56 哲学というたいそうな名前の旗を立てている人間なら、自分で考えてほしい。問題に 気づきもしない、考えもしない点で、精神的怠惰といっています。 >>58
精神論ですから、精神的怠慢かどうかを判断しようがないですね、受け手の問題なのか、発信側の問題なのか。
責任問題だと受け取るなら、問題提起しないことも精神的怠慢だということになります。 すでに問題提起していますよ。今はこれ以上は申し上げません。 >>60
問題意識があることを提起してるのみなので、他人にはなにを問題といっているのかわかりかねます。
言えるようになったら書き込んでください、そのとき考えてみます。 表現の自由に対する萎縮効果を生じさせかねない言説ってあるもんなんだな、
と思った。 表現の自由は平等に与えられている権利だからね、自由と言っても発言に責任は伴うでしょう。 受け取る側の解釈の余地はいくらでもあるから、
責任の範囲を広げ過ぎない方がいいと思う。 >>65
逆、哲学者の精神的怠慢だからね····発言の範囲がそもそも広い 哲学とは、この世のすべての事象を考察することであり、すべての事象を考察する
ということは、単にあれこれと頭の中で考えるだけではなく、身体的な事象につても
考察することである。従って、ここに記している「考察」とは精神と肉体との両方の
意味を持っている。この点をふまえて、哲学とは物事−すべて事象の究極の真実を
探求する`総合学問`と言うことができる。 人生論や根源、原理的なことを考えたりするのは
どこの分野だ? 哲学的な人はそう言うのが好きだと思う
作家や芸術家もそんな感じかも知れない 金も女もなければ人生は苦痛でしかない
外に出て他人がいるのも嫌だな
誰とも関わりたくない
政治に興味ある。国家運営。法律の概要と日本国の
法律の中身。国家運営は
もっと言うと18から一貫して金に興味を持ち続けてる。
金はこの世でもっとも強い。全てを超越する。金も結局
法律で強固に守られている。結局法律は避けて通れない
働く必要がない今ですら金はなくならない 哲学なんてやらずに友達や彼女と遊んだりスポーツをしたりしようぜ陰の皆さん 頭だけ使って遊ぶほうが効率がいいし
面倒くさくなくていい 哲学と経済学と宗教学を学んだ上で、
後もう少し学校経験or社会経験があれば
人に大いに役立てる可能性が高い。 マララは、オックスフォード大学で哲学と政治学と経済学を学んだ。 政治学は比較的哲学から分離していない学問だけど、
宗教学(神学)は哲学との関係性がややこしいし、
経済学は分離して100年以上経っているからなあ。 “不正を行うことは自己利益に反する”
こんなことを言い出したソクラテスさんの後始末を、2400年くらいかけてしている 正義/不正義を巡って哲学論議はされがちだけど、
自己利益って何だと考えたほうがいいかもしれないね。 突き詰めて物事を考えようとしたら、その思考のための技術を訓練するとか、いい手がかりが欲しいとかあるでしょう?
突き詰めて物事を考えない人には哲学は不要。 ・絶対に露見しない
・露見しても社会から問題とされない
・問題とされても制裁は受けない
こういう場合でも、不正を行うことは自己利益に反する、は真なのかな
反する人間はいるだろうけど、反さない人間もいるのでは
真偽は別として「反する」ということにしておいた方が結果的に社会がよくなるというのは別の話 >>921
知覚と知覚対象にズレがなかったら、知覚できないので
幻想という単語はは不適切だと思いますが・・・。
ミクロレベルに換算して認識した物と、通常認識した物は
スケールが違うのだから、りんごがぎっしり詰まっている
という認識に対して錯覚というのも不適切だと思います。
認識を混同している、でこすけんさの錯覚ならアレですが。
物はなんであれ素粒子で構成されてるので、パソコンも
素粒子の集合体ですし、パソコンを機能させるのは
パソコンじゃないので、パソコンは機能していても存在は
していないという感覚がするのは不可解ですね。
パソコンを機能させるのも、機能をプログラムするのも
それを利用するのも人です。
意識の外側に感覚的な世界が無いのは同意ですが
そもそも意識に外側は無いと思いますよ。
扉が閉まっている冷蔵庫の中が普通の印象と違うもの
のように思われるなら、今のところその認識はマトモな
考えとは思えません。
僭越ながら、せっかく返信頂けるなら、書き込みボタン
押す前によくよく確認し直すことをお勧めします。 >>85
このスレで出てきたのは、
物事を突き詰めて考えること
だわな >>82
・良心に反する
・結局社会の一員である自分にも不利益がある 哲学は全ての事象・物事を突き詰めて考察し、その考察した一定の結果を客観的に
判断することが求められる。つまり、哲学とはすべての事象・問題等の真偽を探求し、
一定の客感的な結果を出す総合学問である。
物事つきつめて考えることは非常に難しく、多くのひとは途中で挫折する。
そこで、過去の哲学者を調べてみると、哲学的に思考するための技術があることを知った。
例えば、デカルトの場合は思考法として「四つの規則」がある。又、フッサ−ルの場合は
物事を考える時には、今、考えていることを紙にメモをする。つまり、メモをしながら
考察を続けるのである。フッサ−ルの場合は死後に膨大なメモが見つかったとのことです。
デカルトの場合も膨大なメモをしながら`デカルト座標`の考察をしたと言われている。 >>1
もしこーだったら、あーだったら みたいな事を良く思いつく「無駄[な]想像力」を持つ人が、
抽象的で考えてもしょうがない答えのない問いに、
色んなパターンを仮定してあれやこれやと議論する
的な?証拠も何もないけどそんな感じでしょ大体たぶん 発想力じゃなくて想像力だから、新しい発見をするより、新しいものの見方を提示するとか?
考え方はたくさんあって正解は無くても、自ら意見としてまとめられるのはセンスか哲学の本を読みまくって無意識に気に入った哲学者の価値観をパクってるパターンは少なく無いんじゃね? >>88
「物事を考える/考えている事をメモする/メモしながら考察を続ける」
って、誰に頼まれた訳でもなく、アイデアが湧き出るのと似てるんじゃないかな。
アイデアの方向が、物事の別の切り口からの捉え方についてなのか、既存とは異なる方法で何かを解決しようとするかの違い?
前者は物事をよく突き詰めていく方向・後者は別のものを探すだから真逆とも思えるけどどうなんだろ 別の切り口で云々は哲学、違う方法で解決云々は実践というかんじかな。 `物事を考える`とは、ある命題(A)について考えることであり、`メモをしながら
考察を続ける`とは、命題(A)に対して、いろいろな課題が創出する。 つまり、
命題(A)を深く考えることによって、いろいろな課題(問題点)が見つけ出される。
これら種々の課題に対して、明証的な考察を進める。この複雑化する考察を助ける
のが課題(問題点)をメモ(視角化=活字化)し、メモを通して明証的な考察を進める。 メモはfacebookのニュースフィードとか
ネット掲示板で皆が協力してするのがいいだろうな。 >>95
命題(A)を深く考えることによって、いろいろな課題なり、問題点が見つけ出される。
これらの種々の課題に対して、明証的な考察を進めると書いていますが、種々の課題に対
して、メモを通して明証的な考察をするとは、具体的にどの様な考察でしょうか? >>97
我々物事を考える判断をする時に理性(良識)に基づいて真と偽を判断している。
つまり、我々の身の回りにある出来事、又、ニュ−ス等で見聞きした諸々の出来事・
問題に対して、よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつ能力が備わっている。
この誰しもに備わっている能力を理性という。
この理性をさらに深めることにより、明証的状態に至ることが出来る。
その方法は、身近な出来事・問題などに対して`わずかでも真に対して、疑いの理由と
なるものを”すべて退ける”という思考活動を行う。この思考活動を小さいもの(容易な問題・
出来事)から徐々に複雑ものへと進めて行く。 この思考活動をさらに深めていくことにより
不可疑的状態へと至る。 この不可疑的状態が明証的状態である。
この明証的状態は人によって”明証状態の認識”に個人差が出来る。 それは何故か
というと、人によって知識の幅・質・経験が異なるからです。 この明証的状態に
於いて、メモ(カ−ド化する)を通して考察することを明証的な考察という。 哲学は要はコツだろ
より簡単にできるようにするにはどうしたらいいか
何かを繰り返しするようになれば自然と発生する >>98
誰しも”真”と”偽”を判断する理性(良識)を持っているのであれば、
あえて”明証的な考察”をする必要はない様に思いますが、なぜ”明証的な考察”が
必要なのでしょうか? >>100
日常的な認識の中には、時として”偽”が混ざっていることがある。
その為に”偽”であるものが”真”と認識され行動をする人々が多々いる。
そういう自分自身も偽なるものを真(正しい=疑わしさのないもの)と思い
こんで、受け入れていたこともあった。
日常的な認識とは別に、科学、物理学、医学、その他の専門の学問分野に於いても、
その理論の中に”偽”が混ざっていることがある。この様な”偽”を退ける為に`明証的考察`が
必要となる訳です。 >>99
”何かを繰り返しする”と書いているが、その通りです。
”真”に対して、少しでも疑しい理由のものを”退ける”という、我々に元々備わっている
”理性”を繰り返し深めていく。その繰り返しを自分の能力の範囲内で行う訳です。
自分の能力の”範囲内で繰り返す”という理性的思考を続けることにより、自身が感じられる
”明証的状態”を認識するようになります。
この様な状態は、登山にたとえることが出来る。 登山は、自分の体力、能力、気力に
よって、山の中腹であったり、或いは、頂上であったりするが、重要なことは、各人の体力、
気力、能力によって、山の中腹で登山を止めたとしても、そこで得る”登山の高揚感”が重要です。
何故かと言うと、その高揚感が”明証的状態”であるからです。
従って、人それぞれの能力によって、明証的状態は異なる。その人の能力に合った”明証的状態”が
重要なポイントとなる。その明証的意識状態によって、各人が自身に合った明証的思考”をする訳です。 >>98
明証的状態”に於いて、メモ(カ−ド化する)を通して考察を
することが明証的考察です。と述べていますが、何故、メモ(カ−ド化する)を
通して考察をするのか、よく分かりません。又、このカ−ド(メモ)は、明証的状態の時に
作成するのでしょうか? >>103
明証的状態とは”一切の疑いのない状態”であり、 何故か?とか何故?という
疑いを持っ問いかけは出来ない状態である訳です。
つまり、明証的状態は、”不可疑的状態”であり、疑いを含んでいる問題・課題等々は、
明証的状態の時には作成することは出来ない。
カ−ドに記入された問題等は、事前に、明証的状態を始める前に、5枚〜10程のカ−ドに
いろいろな課題なり、問題を作成しておくのである。
そして、明証的状態に於いて、そのカ−ドを並べ、視覚化された中で、カ−ドをして
語らしめる。 カ−ドによる視覚化と明証的考察は非常に相性が良い。
誰しも持っている理性を深めることが、明証的状態であり、この明証的状態での
”カ−ドをして語らしめる”という体験は容易に行えるものであり、一度、体験すると
なるほどと実感されることでしょう。 哲学の解釈も人それぞれだろうけどさ
やはり、哲学=疑う、問う=世代風潮や思想の更新=実践したのがソクラテスじゃねえの?
究極的には人間の知能というのは一元化へと向かうのだと思う。
その過程において様々な軋轢というものがあって、様々なローカル知識や伝統の初期化というのが必要不可欠。敗戦後に征服された文明人というのは思想の抹殺対象だからな。ローマ人から征服されたユダヤ人やスパルタ人から征服されたアテナイ人から死刑宣告された聖人伝説というのも理由が頷けるわけよ。 ものを教える人間としては頭脳のブラッシュアップと
知識の共通一元化というのは支配しやすいコントロールしやすい人間の開発という
目的がある。
ソクラテスが当時の旧世代の民衆から非難されても歴史を越えて
評価されるのは当然ちゃあ当然だ。
なぜならこの人のやっていることは当代、当事者から肯定されることはない宿命だからだ
史的観や客体観から評価されるだけ。 >様々なローカル知識や伝統の初期化というのが必要不可欠
カーバ神殿がムスリムによって破壊されたことが思い起こされるな。 案外ソクラテスみたいな人って、
日本みたいな素朴なあっという間に伝統とかが廃れやすい国で受け入れられやすそうなのは、
気のせいだろうか。 デカルトもそうだけど、明証的状態にある、とはそれほど自明でも検証可能でもない
だろう。今のワクチンでいえば、多くの人はそれに効果を認めているから打つのだろうが、実は薬害やADEの原因になっている可能性さえ大である。
つまり、明証性を担保するには、数の論理だけでは不十分なので、明証性そのものは
それほど容易に得られるものではない。オウム真理教の中にいれば、麻原の教えが
明証的に感じられることも同じことだ。日本にいれば、日本の一般性が明証性である、
と錯覚するのも同じこと。 最近、つとに思うのはインターネットというものは凄いなと今更ながら思う。
みな真実を知ってしまうのだ。
聖人伝説の裏側の理由とかな。
たとえば昭和の定番ドラマの水戸黄門のモデルになった水戸光圀の辻斬りとかな。
ええっ?!となるもの。 >>111
だから数学を捨てるわけにはいかないんだよな。
麻原も法廷で自分の都合の悪いことを聞かれた際に英語でごまかす位には、
受験英語は得意だったようだが。 英米系と違ってソクラテスやルソーが日本で評価されるのは
日本の和の精神や自然観、倫理観がこの二人の思想と重なるところがあるからかもな。 竹田青嗣によると、英米圏ではホッブズ、ルソー、ヘーゲルではなくカントやロックが
社会契約説や国家論で高評価されるが、これは日本に政治哲学経由で輸入されていると思う。
で、カントは日本では京大的な純哲分野で重視され、一般の読書家の間でもよく読まれている。
まあ、安定的な哲学だから日本で受けているということなのだろう。
竹田はそれに風穴を開けようとするべく、ヘーゲルの法の哲学の解説書を最近著した。 人は肉体の繋がりのある親から先ずは生きる術を教わる。
しかし他の民族から征服されたら、これはある意味、肉体の伝統の否定をせざる得ない状況
。頭脳を新しい観念でブラッシュアップすることは人間としての前進に他ならないからな。
プラトンの太陽の比喩や肉体の原罪のキリスト教が世界で幅を利かせるのも納得の理だ。 肉体もそうだけど、土着性の否定ね
下らない土着性にこだわるのがネトウヨ 土着性を昇華するには宮本常一や安丸良夫の本を読まないといけない。
そして、土着性をブルジョア的日常性に読み替えて近現代をやり過ごしたのが、
カントを読みまくった読書人たち。 でもカントだけでは足りないからヘーゲルも
という時代の流れが来つつあるのかも知れない。 でもヘーゲルって読むのが難しいんだよな。
気長にやるという精神が要求される。 ヘーゲル自身は古代ギリシアを理想としていたようだから、
スコレー、暇の哲学を肯定していたのかも知れない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています