ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 22
ジル・ドゥルーズ単著
『ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性』 木田元・財津理訳 朝日出版社:エピステーメー叢書、1980
『経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論』 河出書房新社、2000
『ニーチェと哲学』 足立和浩訳、国文社、1974;江川隆男訳、河出文庫、2008
『カントの批判哲学』 中島盛夫訳 法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1984
『カントの批判哲学』 国分功一郎訳 ちくま学芸文庫、2008
『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1974
『ニーチェ』湯浅博雄訳 朝日出版社、1985/ちくま学芸文庫、1998
『ベルクソンの哲学』宇波彰訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1974
『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 晶文社、1973
『原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ』原田佳彦・丹生谷貴志訳 哲学書房 1986
『意味の論理学』 岡田弘・宇波彰訳、法政大学出版局、1987
『意味の論理学』 小泉義之訳、河出文庫上下、2007
『差異について』 平井啓之訳 青土社 1989、改訂1992.2000
『スピノザと表現の問題』工藤喜作ほか訳 法政大学出版局、1991
『差異と反復』財津理訳、河出書房新社、1992
『スピノザ 実践の哲学』鈴木雅大訳 平凡社 1994/平凡社ライブラリー、2002
『感覚の論理──画家フランシス・ベーコン論』山縣煕訳 法政大学出版局、2004
『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』 宇野邦一訳 河出書房新社、2016
『シネマ1 運動イメージ』財津理、斎藤範訳 法政大学出版局、2008
『シネマ2 時間イメージ』宇野邦一ほか訳 法政大学出版局、2006
『フーコー』 宇野邦一訳、河出書房新社、1987/河出文庫、2007
『襞──ライプニッツとバロック』宇野邦一訳 河出書房新社、1998
『記号と事件 1972-1990』 宮林寛訳、河出書房新社、1992/河出文庫、2007
『批評と臨床』 守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社 2002/河出文庫、2010
『無人島 1953-1968』宇野邦一ほか訳、前田英樹監修 河出書房新社、2002
『無人島 1969-1974』稲村真実ほか訳、小泉義之監修 河出書房新社、2002 『狂人の二つの体制 1975-1982』宇野邦一ほか訳 河出書房新社、2004
『狂人の二つの体制 1983-1995』宇野邦一ほか訳 同
『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』 國分功一郎監修、角川学芸出版、2015
『基礎づけるとは何か』 國分功一郎、長門裕介、西川耕平訳、ちくま学芸文庫、2018
ジル・ドゥルーズ他の共著
『フーコーそして/あるいはドゥルーズ』第5巻、蓮実重彦訳、小沢書店〈叢書エパーヴ〉、1975
『ドゥルーズの思想』 田村毅訳、大修館書店、1980
『情動の思考-ロレンス『アポカリプス』を読む』 鈴木雅大訳、朝日出版社〈ポストモダン叢書〉、1986
『消尽したもの』 宇野邦一・高橋康也訳、白水社、1994
『重合』 江口修訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、1996
『ヒューム』 合田正人訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000
『対話』 江川隆男・増田靖彦訳、河出書房新社〈ちくま学芸文庫〉、2008 フェリックス・ガタリとの共著
『アンチ・オイディプス──資本主義と分裂症』 市倉宏祐訳、河出書房新社、1986
『アンチ・オイディプス』 宇野邦一訳、河出文庫上下、2006
『アンチ・オイディプス草稿』ステファン・ナドー編、國分功一郎、千葉雅也訳、みすず書房、2010
『カフカ──マイナー文学のために』 宇波彰・岩田行一訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1978
『リゾーム…序』 豊崎光一訳、朝日出版社(『エピステーメー』臨時増刊附録、1977/単行本、1987)
『千のプラトー──資本主義と分裂症』 宇野邦一ほか訳、河出書房新社、1994/河出文庫上中下、2010.9−11
『哲学とは何か』 財津理訳、河出書房新社、1997
『政治と精神分析』 杉村昌昭訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス、1994
『フェリックス・ガタリの思想圏―“横断性”から“カオスモーズ”』大村書店、2001
フェリックス・ガタリ単著
『精神分析と横断性――制度分析の試み』杉村昌昭、毬藻充訳、法政大学出版局、1994
『分子革命――欲望社会のミクロ分析』杉村昌昭訳、法政大学出版局、1988;[改題]『精神と記号』法政大学出版局、1996
『機械状無意識――スキゾ分析』高岡幸一訳、法政大学出版局、1990
『闘走機械』杉村昌昭監訳、西川浩樹、前田晃一訳、松籟社、1996
『カフカの夢分析』ステファヌ・ナドー編註、杉村昌昭訳、水声社、2008
『分裂分析的地図作成法』宇波彰、吉沢順訳、紀伊國屋書店、1998
『三つのエコロジー』杉村昌昭訳、大村書店、1991;[平凡社ライブラリー]2008 代表的な研究者または論客には次のものがある
浅田彰『構造と力』1983、『逃走論』1986。日本におけるドゥルーズ紹介のセンセーショナルな先駆者
蓮実重彦『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』1978
吉本隆明「『アンチ・オイディプス』論」「『千のプラトー』」『アンチ・オイディプス』日本版刊行当時に根底的な批判。宇野邦一との討論もある
宇野邦一『ドゥルーズ――流動の哲学』2001、『ドゥルーズ――群れと結晶』2012。フランスでドゥルーズの研究室で学んだ代表的な論客
江川隆男『存在と差異――ドゥルーズの超越論的経験論』2003、『アンチ・モラリア――〈器官なき身体〉の哲学』2014
小泉義之『ドゥルーズの哲学――生命・自然・未来のために』2015、『ドゥルーズと狂気』2014、『ドゥルーズの霊性』2019
檜垣立哉『ドゥルーズ――解けない問いを生きる』2015、『ドゥルーズ入門』2009
千葉雅也『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』2013年に同著刊行し話題になる。ドゥルーズ論の新世代といわれる
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』2013
鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究: 出来事、運命愛、そして永久革命』2020
佐藤嘉幸、廣瀬純『三つの革命:ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』2017
仲正昌樹『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』2018
近藤和敬『〈内在の哲学〉へ:カヴァイエス・ドゥルーズ・スピノザ』2019、『ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』を精読する 〈内在〉の哲学試論 』2020
小林卓也『ドゥルーズの自然哲学: 断絶と変遷』2019
オムニバス
『ドゥルーズ KAWADE道の手帖没後 10年、入門のために』河出書房新社編集部、2005
『ドゥルーズ 没後20年新たなる転回』河出書房新社編集部、2015
『ドゥルーズの21世紀』檜垣立哉、小泉義之、合田正人編、2019
『ドゥルーズ/ガタリの現在』鈴木泉・檜垣立哉共編、2008
『ドゥルーズ横断』宇野邦一 編、1994
『ドゥルーズ 千の文学』宇野邦一、堀千晶、芳川泰久編、2011
『ドゥルーズキーワード89』芳川泰久、堀千晶、2008 ドゥルーズ関係書籍をあげた人は、マルクス・エンゲルス全種は読んだの? 大人みたいな本の読み方ってなあに?🥺
思想を流行り廃りの「最新(笑)」な系列の全体性に還元して本を読むこと?
それともおっさんのスノッブな自己愛を満たすために「君にはわからないだろうね」などとほざく為の道具として使う為の殴り棒にすること?
どちらも全体性ではなく強度を主軸とし「哲学は社会の愚かさと戦うための武器」とするドゥルーズの哲学性から大きくズレてて草
1000 考える名無しさん 2021/12/06(月) 00:09:59.24 0
>>998
子供みたいな本の読み方 >>11
前スレでもやったけど、君は「テクストを読むということ(テクスト論)」が分からないんだよ。
> 998 名前:ハチくま ◆81qMC/Fs4Y [sage] 投稿日:2021/12/05(日) 21:30:24.01 0
> 未だに哲学書を読むことを、何か高尚なものだと勘違いしてる馬鹿って感じ
> 986 名前:ハチくま ◆81qMC/Fs4Y [sage] 投稿日:2021/12/04(土) 21:19:38.98 0
> メイヤスーとかほんとそいつしか興味ないよな 【テクスト論(テクストを読むということ)】
マルクス信者「尊崇する作品を読む」
・作者>作品
↓
/////////// 超えられない壁 //////////
↓
ロラン・バルト「テクストを読む」(テクスト論、作者の死)
・作品>作者
↓
デリダ「エクリチュールを読む」
↓
ドゥルーズ「非シニフィアン的記号を読む」
↓
メイヤスー「数学的コーパス(資料体)を読む」
↓
千葉「言葉の形象を読む」
テクスト論
https://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E8%AB%96-186000
作者の死
https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BD%9C%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%BB
こういうのが、フランスの現代哲学がやってきたこと。 特に注意してほしいのは、ドゥルーズやメイヤスーなど、ポスト構造主義以降の「テクスト」とは、本や文章に留まらないということ。
ソシュール記号学の対象は日常的音声言語であったが、
ドゥルーズやデリダが影響を受けたパース記号論の対象は言語記号に留まらず、
生命現象や自然現象にまで及ぶ。
それで、量子力学と存在論、などという話まで見てきたわけだ。 東大寺の大仏「毘盧遮那仏」や空海の「大日如来」が正にそういう世界。
それらは宇宙の森羅万象そのものを仏格化したものであり、
それが、デリダ的なエクリチュールの差異の運動として捉えられている。
“五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり
(地・水・火・風・空の五大からなる森羅万象が声として響き、
仏・菩薩・緑覚・声聞・天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の十界すべてが言語を具え、
色・声・香・味・触・法の六塵、つまり知覚世界の諸差異が文字を生ずる。
大日如来と呼ばれるものは、宇宙のありのままの姿に他ならない。)”
― 空海 「声字実相義」 『弘法大師 空海全集 第2巻』 筑摩書房 (1983) p263-298を基に訳出 “文は全体であり、世界であり、ブラフマン(宇宙の根本原理)である”
― バルトリハリ 『古典インドの言語哲学 2』 赤松明彦 訳注、平凡社 (1998) p223 >>12
だからそれが「最新の知(笑)」という流行り廃りの殴り棒として読んでるっていうお前の心理状態の話な🙄 >>13
まさにこれ自体が「流行り廃り」の「文脈」である🙄
テクストからシニフィアンの連鎖を抜き取る「振り」をして、実態はその文脈構成によって規定された知の構成に並べ替えているだけ
こいつの言う「大人の読み方」とは、即ち「哲学」ではなく「哲学史」の系列にまとめてるだけの神経症症状に過ぎない🥺
そんな所にテクストの強度はない🥺 そもそも「作品>作者」とかほざきながら、いざ反論されれば
733 考える名無しさん 2021/10/05(火) 23:40:17.24 0
>>732
どの本で読んだんだ?
などとのたまう時点で、こいつの脳みその構造は既に「作者>作品」である🥺 本質的に去年いわゆる「鬼滅棒」でワンピース(と「作者」)殴ってたネットの有象無象と同じ思考体系なんだよな🥺
「作者の死」からあずまんのいう「データベース消費」に移行した知の枠組みに沿ってるだけに過ぎない そもそも作者からテクストを切り離すという恣意性それ自体が、テクストから作者の身体を排除しているというこの点においてまさに「シニフィアン」に囚われているに過ぎないという矛盾があるわけで🥺
精神分析においては患者の語った言葉(シニフィアン)だけではなく、患者の身体の動作(まだ意味されていないもの)もまた読まれなければならないものである🥺
この辺り千葉はドゥルーズの喘息という身体性で消尽について語っていたと思うが🥺 >>13>>14
それじゃ、言葉の使い方が間違ってるだけだよw
量子力学と存在論、なんて大真面目に語ろうとするから、ソーカルさんにバカにされたんだよ? ここに書き込みしてる目眩がしそうな馬鹿は、シニフィアンがシニフィエを指示するって基本的な動きについて一から考え直したほうがいい。ソーカルに遡るにせよテキストは文字列なくむしろ図像論で、テキスト=シニフィアン=文字みたいなこと言ってる馬鹿は世界ひろしと言えどまずいない。 >>23
基本的な話だけど、精神分析は神経症者しか快復させる可能性を持たない。これはなんでかって、雑な例えだけど精神分析は精神の整骨で、ズレちゃってる神経症を矯正してズレてない神経症に治すことしか出来ない。
一方、「テキスト論」として(笑)、精神病にもっとも頻繁にみられる症状は陰性妄想に並び幻聴で、これを汲んだあずまんが存在論でルフ、フォネー、アペルと区分したのは流石としか言えない。 >>30
呼び声、声、よびかけ、ね。なんで何れも音声なんだろう?
ヒトが言語を学習し(シニフィカシオン)、なにかのシニフィアンがなにかのシニフィエを指示している、という無限の連鎖に参入する上で、じゃあなぜヒトは特定の文化圏内に於いてもこんなにも多様なのかって、そんなの母ってシニフィアンをテキストとして共有できたとして、俺の母とお前の母は現実的に交換できないからだ(馬鹿向けに書いてます。あしからず)。 >>31
この存在論に於ける音声主義対文字は他でもない、かの有名なラカンVSデリダ戦に繋がる話で、これは哲学民ならほんとは基礎教養のはずなんだけどな。デリダが音声主義を批判する鮮やかな議論なんて敵ながら天晴れなんだけど。今の5ちゃんねるってほんと見てて赤面するレベルの馬鹿しかいないんだよね。 >>34
俺の孫はなんでドゥルーズスレに書き込みしてるのに、構造主義の文脈の話避けるの?😢
つか孫はちゃんと勉強する気ないなら、悪いこと言わないから哲学なんかに興味もたないほうがいい。 世界初! 「鳥の言葉」を証明した“スゴい研究”の「中身」
https://twitter.com/smasuda/status/1469256426170519554
これってドゥルージアンからしたらどうなの?わかりやすく説明して?
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>36
横だけど、彼は、哲学に興味を持ってるんじゃなくて、哲学の欺瞞を暴こうとしてるんじゃないの?
学問を追求する人間なら、誰でも学問的な欺瞞を糾弾するだろ? >>39
>>38の僕は、ドゥルージアンじゃないからw >>38
ラッセルのパラドックスって知ってます?
なんで存在論が第一哲学に分類されてるのか知ってますか? >>47
存在論って何?
意味を知らないのに使うとみっともないよ。 大阪の堂島北ビル火災で19人死亡27人心肺停止 心療内科でジョーカー🤡(60代)が放火か?雑貨ビル怖すぎ★8 [579392623]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1639727649/ >>47
ラッセルのパラドックスって、哲学となにか関係があるの?
定義がおかしいという意味で、哲学と同じってこと?
>なんで存在論が第一哲学に分類されてるのか知ってますか?
知らないから、教えてくれよ。 ドゥルーズは『記号と事件』で法律よりも判例が重要だと言っていた。
論理学よりもその使用例が重要だということか?
A.O#2:4
ベイトソンは、たがいに矛盾する二つの秩序のメッセージを同時に発信することをダブル・バインド
〔二重拘束〕と呼んでいる(例えば、父が息子に、さあ、私を批判してみろ、という。ところが父は、
あらゆるほんとうの批判、少なくともある種の批判は歓迎されないことを強力にほのめかす)。
ベイトソンは、ここに、とりわけ分裂症をひき起す状況を認めて、ラッセルの階梯理論の見地から、
この状況をひとつの「ナンセンス」として解釈している(20)。私たちにはむしろ、このダブル・
バインドつまり、二重の袋小路はありふれたものであって、とりわけオイディプス化的な日常状況で
あるように思われる。さらに、この状況を定式化することを覚悟の上でいえば、これはラッセルの
いう別の種類のナンセンスにかかわるのである。すなわち、二者択一あるいは排他的離接はひとつの
原理との関係で決定されるが、にもかかわらずこの原理そのものが二者択一の両項または二つの
下部集合を構成していて、この原理自身が二者択一の枠の中に入っている(これは、離接が包含的で
ある場合に起きるのとは、まったく異なる事態である)。まさにここに精神分析の第二の誤謬推理が
ある。要するに「ダブル・バインド」はオイディプスの総体そのものなのである。この意味で
オイディプスはひとつの連続状態として現前し、神経症的な同一化と、いわば規範の内面化という
二極の間をゆれ動いている。どちらにしても、オイディプスがいて、それは二重の袋小路である。
したがって、ここに分裂者が臨床実体として生みだされるとすれば、それがいわばこの二重の道を
逃れる唯一の手段だからである。この二重の道においては、規範性も神経症と同じく出口をもたず、
解決も問題も同じく道をふさがれている。ここでひとはみずからを器官なき身体の上に折りたたむ
しかないのだ。
(20) G. Bateson et collab.,〈Towards a Theory of Schizophrenia〉, Behavioral Science ,
1956, I >>52
>「ダブル・バインド」はオイディプスの総体そのもの
これ、笑うところだよね? ダブルバインドが統合失調症の病因とは言われなくなったようだし
正しさ半分与太半分って感じじゃないの >>54
どこにも正しさが見当たらないんだが?
ドゥルーズの読書のしかたでフロイトを理解しようとしたのが、間違いなんだと思う。
解説本読んだだけで、『精神分析入門』すら読んでないんじゃないだろうか?
マルクス主義への言及も解説本頼みで、もちろん『資本論』は読んでいない。 ダブルバインドが非神経症圏の精神病を引き起こすなどと言うなら、今の医学基準ではたしかに誤謬だよ
それ以外は科学的に争いようがない思弁 ダブルバインドの反復により発症する分裂症の症例の分類:
言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)1
言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型[解体型])2
コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型)3
ベイトソン『精神の生態学 』新思索社,287,299~308頁参照
浅田彰『ダブル・バインドを超えて』(1985)では、
1がジョイス、2がベケット、3がアルトーに対応するとされている(浅田64,87~8頁)。
Joyce 妄想型 paranoid
https://i.imgur.com/2biUldM.gif ;Ulysses メタファー
Beckett 破瓜(はか)型 hebephrenic
https://i.imgur.com/9FIyMsE.gif ;Quad リテラル
Artaud 緊張型 catatonic
https://i.imgur.com/rwKgu01.gif ;La coquille et la clergyman カット・オフ
ただし、破瓜型は近年では解体型と呼ばれ、また、ダブルバインドのような理論の
多くは統合失調症の原因というよりも、パーソナリティ障害の原因らしいと言われている。
母なるものを批判的に扱うこと自体も批判される(岡田尊司『統合失調症』PHP新書)。
ちなみに上の症例の分類はこのスレッドのレスの分類にも使える。
自分は2か? ドゥルーズA.O#2:4
《…ダブル・バインドを深く洞察した最初の分析の実例は、マルクスの『ユダヤ人問題について』の中に見い
だされるかもしれない。それは家族と〈国家〉の間の──家族的権威のオイディプスと社会的権威のオイ
ディプスとの間のダブル・バインドである。》
マルクス ユダヤ人問題によせて 結語部分より
《社会がユダヤ教の経験的な本質であるきたない商売とその諸前提を廃棄できるようになるやいなや、ユダヤ人の
存在は不可能になってしまう。…ユダヤ人の社会的解放は、ユダヤ教からの社会の解放である。》
(世界の大思想シリーズより)
>>57
そもそも、ダブルバインドをオイディプスと結びつけてるのが間違いなの。
ダブルバインドというのは自分の中の価値観の相克であり、オイディプスというのは自分の中の愛憎の相克。
まるで違うものだよ。
だから、ドゥルーズはフロイトを読んでいないということがわかる。 誤謬は最初にダブルバインドを分裂病と結びつけたベイトソンでしょうよ
それを批判していて、かつ後世から見て正しい批判ならば
他は別としてその部分については及第点と言うべき
もっと意味不明な衒学的記述で埋め尽くされていると思っていたが
見れば見るほどそうでもない部分もあるじゃない >>56
ドゥルーズの表現は科学ではなく、個人的な思弁(思い)に過ぎないという意味なら賛同する。
>>60
それとドゥルーズが、フロイトをまったく理解できていないこととは別問題。
問題は、ドゥルーズが実際の著作に当たらずに、通俗解説本をもとに対象を批判していること。
いくら「哲学史」が出発点だからといっても、対象を批判するためには実際の著作に当たるのは不可欠だろう。 アンチ・オイディプスの単行本中古で買ったけど、表紙が古いヤツだった!
千のプラトーとそろえたかったのに無念
ドゥルーズは指摘していないがニーチェに以下の記述がある
ニーチェ ツァラトゥストラ 1:24:3
《 きみたちは言うのか、ツァラトゥストラを信じると。だが、ツァラトゥストラが何だろう?
きみたちはわたしの信者だ。だが、およそ信者が何だろう!
きみたちは、まだみずからを求めないうちに、わたしを見いだした。およそ信者のすることはそうだ。
それゆえ、およそ信仰はかくもつまらぬものだ。
今やわたしはきみたちに命令する。わたしを失い、きみたちみずからを見いだせ、と。そしてきみ
たち全部がわたしを否定した時、はじめてわたしはきみたちのところにもどってくる。》
(秋山英夫・高橋健二、2015) 山内志朗 『ドゥルーズ 内在性の形而上学(講談社選書メチエ le livre 極限の思想)』 (2021/12/09) >>59
いやさ、あらゆる相対性を遡るとオイディプス神話に行き当たるってのは、近親相姦のタブーの重複を指してるんだよ。
自分の中の愛憎のそうかつじゃなくて、原因に傾向はあるかって話ね。 >>66
これちょっとはっきり言いたいんだが、物理的事実としての力を偏りを所与の条件とする場合、過去の文化的傾向って遂行文として否定されるけど、これがそもそもナンセンスなんだよね。 ドゥルーズ視点なら再演と言いたいとこだな
現実的には単なる投影だろ >>66
ほんとソボクに、実在論者にはシニフィカシオン以前の私の生の偶然性について語って欲しいもんだよね。
実存主義者にはなんでシニフィカシオン以前に、ただ偶然生き延びているのが私、って感覚がないんだろ。わたくしなんてたまたま生きてるだけで、千葉じゃないけどそれは無意味の成れの果ての生であり、偶然の貴族なんだよね。 >>68
ルプレザンタシオンは構造に起因する再演じゃね? ドゥルーズは物理的事実さえ文化的傾向≒偶然とみなす思想に帰着する
タルドへの傾倒などで特に顕著に感じるところだ >>69
ちょっと、反プラグマティズム的実存主義の危ないところをまとめると、なにより問題なのは言存在としての無自覚さで、ヒトが思考の条件に言語を用いている以上、シニフィアンの連鎖に古いも新しいもないんだよね。 >>71
じゃ観思ですね。良かったね。
でもフラストレーションは残るから、こうやって5ちゃんに書き込みしてるんでしょ? >>70
そのあたりの構造を厳密に定義しようと試みたのが「差異と反復」で端的に言うのは難しそう
ドゥルーズの論ではシミュラークルという概念というか次元を持ち込むことで解決させた側面と未解決にしてしまった側面があるように思う
構造と言わずに解決させたあれは認識論としての成功なのかなあ
未解決問題は「アンチ・オイディプス」で克服を試みたけどうまくいかなかったように見える
心理ではトラウマ問題にすぎないので臨床的効果がなければ空論とされてしまうし >>73
フラストレーションの解消を5chに限定する理由はなんだろうか
生とはフラストレーションで生きてる限り消えないと思うし消す必要もないと思うよ
好きなようにフラストレーション解消を図ればよろしいのでは?
法的に問題ない範囲で >>72
さっきドミューン観てて、前半では宮台は超越論に触れかかってたんだけど、例によって狂気の歴史には触れなかったのが、宮台のそれこそアドバンテージのキワなんだろうな、とすら思う。フーコーは外部にただ剣呑だったわけではなく、変な言い方だけど収容所がパンクして外に溢れちゃうヒトのことを想定して(構造主義の反転運動) 、革命が発生することを期待はしていたんだよね。 >>75
なにも問題ないんじゃない?
結局、構造主義が勝っちゃったことを証明するだけで。 >>77
構造こそが絶対であり、我々はテックに身を任せのんびり生きていく、で全然問題なし。 >>78
これに反論できねぇのがネット民だから構造主義は強すぎてアレなんだよな。 >>80
構造主義ってマウントとりたいなら一番有効な立場なんだけど、千葉や宮台はだからこそあえてマウントはせずに正面からぶつかるんだよね。ワイは雑魚だから構造主義の論理でマウンティングしちゃうけど。 >>81
構造主義って、私もあなたも言葉を使って考えてますよね?で決まっちゃうからね。
あとはもう遊戯王カードで雌雄を決すれば?みたいなルール上のバトルになる。
存在論って少なくとも遊戯王カードよりかは、ヒトの命の分くらいは重いはずなんだけど ドゥルーズはクリナーメンなんかも導入しながら構造を攻めたけど難しい戦いだったね
構造=権力だから思想的には一番、肝心なところだ バトルっていう発想がもう少年ジャンプ(構造)🥺
お前らはマウントを取りたいから本読んでるの? >>71
ドゥルーズやメイヤスーの偶然性のモデルの大本はルクレティウスの原子論。
それがクリナメン。
ドゥルーズの時代はそれを量子論として引き受けた。
それからヒュームの因果律。
ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 21
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1614095672/584-586 ドゥルーズが構造主義的な構造と対決したのが、『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』だよ。
このスレの人たちが必死に避けてきたそれ。
代表的なものが、リゾームや非シニフィアン的記号論。
千葉は、非シニフィアン的記号論を評価しつつも、
それが記号の論理である限り、限界があることも指摘している。
今はそういう検証をする段階。 千葉は独自にその次の段階も示しているが、
君たちが気づくこともできないだけ >>88
無駄な努力、というものがこの世にはある。
対象的不毛といってもいいが。 いずれにしろ、日本の右傾化、若年層の保守化は進んでいる。
この先に来るのは、もちろん憲法改正と、それに伴う自衛隊の米軍指揮下入り。
日本のドゥルージアンたちのままごと遊びが、それを加速させているともいえる。
完全なる自己肯定思想として。 《何も急ぐことはありません。生長を待たなくてはなりませ
ん。じっくり育ってゆかせなくてはなりません。やがていつか
その時が来たら、立派な作品ができるというのなら、それに越
したことはありません。
わたしたちは探求してみなくてはなりません。そのために、
部分は発見されたのですが,まだ全体を見出すまでにはいたっ
ていません。わたしたちにはまだ、この最後の力が欠けており
ます。わたしたちを支えてくれる人々がないからです。しか
し、わたしたちは、仲間になる人々を求めております。わたし
たちはバウハウスでそれを始めたのであります。わたし
たちは、わたしたちがもっているすべてのものを捧げる連帯の
意識をもって始めたのです。
それ以上のことはわたしたちにはできません。》
パウル・クレー『造形思考』ちくま文庫上202頁より
最終部がMP#11「リトルネロについて」で引用された。 《…芸術家は宇宙に向けておのれを開き、「作品」に宇宙
の諸力を注ぎ入れようとする(さ
もなければ宇宙に向けての開放は単なる夢想にとどまり、
大地の境界を広げるなど望むべ
くもない)。そのような作品を目指すなら、簡素で純粋この
うえない、そしてほとんど児戯
に近い手段が必要になる。だが、それと同時に民衆の力も
必要だ。そしてこれこそまさに、
いまもって欠けているものにほかならない。「われわれには
この力が欠けている。われわれは
民衆の支えを求めているのだ。われわれはバウハウスでそれ
を始めた。それ以上のことは
できないのだ……(38)。》
(38) Paul Klee, Theorie de l'art moderne, pp.27-33.〔『造形思考』上145−151ページ〕 日本人 南部陽一郎が考えた超ひも理論を超える統一論が無いと判明 [144189134]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1640872764/
ニュートン最新1月号が発売
《素粒子が「点」だと,何が困るのか》
2021年に生誕100周年を迎えた
南部陽一郎博士が提唱した
ひも理論は,
「超ひも理論」(超弦理論)へと進化した。
素粒子を点ではなく「ひも」と考える利点は何か。
理論の実証はどこまで進むのか。
〜Newton最新号(1月号)「超ひも理論」より
画像
https://i.imgur.com/sedd2n1.jpg
超ひも理論を最初に考えたのは日本人の大栗博司(画像あり) [144189134]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1618703087/
超ひも理論
https://i.imgur.com/5bsPpTx.jpg
相対性理論と量子力学の統合理論 超ひも理論に勝てる理論って無いの? [659060378]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1613600324/ >>93
哲学愛好家が物理の理論に手を出すと、またやけどするよw 素人のナルシシズムを満たすのに物理使うの辞めたほうがいいよ🥺 物理の視点からすればドゥルーズは無限個のパラメータで理論構成して当てはめてドヤってるだけにしか見えん。 点というものは長さも面積も体積もないのだから、モノが点である
わけはない。 >>101
なにもないんだから、安定もなにも振動なんかするわけないだろ? 超弦理論の「ひも」って一次元なんだって。でもさ、幅がない「線分」もまた、
位置しかない「点」と同じく、物理的というよりは理念的な存在じゃないかい?
で、その「ひも」が最小単位だというけど、なんでそう決めつけられるかねえ。
やっぱりそれもさらに小さい何かから出来て立ってことになる予感がする。
フラクタル。ライプニッツ。 ミクロスケールの物理は人間の五感にフィットしない
大きい力、小さい力、点、線etc…
これらを排斥しているのが人間の五感 >>99
哲学的には、原子論をヒュームの知覚の束でまとめたという話。 >>103
それが、古い唯物論の限界を超えたところのもので、量子力学からメイヤスーの思弁的唯物論の世界。
リーマン幾何学が相対性理論に足場を与えたみたいな。 >>104
ドゥルーズ以降のポストヒューマンの議論は五感を超えた世界を問題にしている。 >>107
量子力学なんて、哲学になんの関係もないからやめとけw >>108
ギリシア哲学でも東洋思想でも、”五感を超えた世界を問題にしている”んだが?w 五感に依存しないならば、なるべく簡素に記述されるのが好ましい
提示されたモデルに対し論理的整合性を緻密に追求していく作業が要求される そもそも五感に依存する哲学って、現象学みたいな哲学のことかな?
それとも唯物論を貶したいだけ? 最近日本やばすぎだと思う
こんだけ地震があるのに
原発たくさんつくるってだけでも
異常ではあるけど
ドゥルーズが死んだのは
エヴァとかオウムの頃
日本は天皇の王国みたいだから
民主主義のフランスを嫌いそう
何かしたんじゃないのか
とかいろいろ考えちゃうよ エヴァの頃高校生だったけど
なにか記憶がバラバラ
はっきり思い出せない
なにかよくわかんなさそうなこと
やってた感じもある >>103
現代物理学の世界で「物質が理念的なものになっていっている」のと同時に、
ドゥルーズの場合は「理念が物質的にもなっていく」。
これがドゥルーズや千葉がやっていること。 シニフィアンの記号学
・形式 ○
・実質 ○
・素材 ×
非シニフィアン的記号論
・形式 ○
・実質 ○
・素材 ○
https://i.imgur.com/rjmTOAC.jpg
― ドゥルーズ=ガタリ 『政治と精神分析』 法政大学出版局 (1994) p95 “何をするかわからない他者たちと共存するために、それらの解釈の諦めを理論的に取り扱う、これが必要だと思います。
無解釈性を理論に含めている人文学、それを僕は、フランソワ・ラリュエルを背景として「非人文学」と呼んでいます。
解釈を努力する部分と、解釈を諦める部分が、両方ある。
諦めるといっても、すぐに暴力的なぶつかりあいになるのではなく、ただたんに隣にいることです。
つまり、ナマコとヤドカリのイメージです。空間的並置とはそういうことだと思います。
複数の秘密が隣り合って並んでいる状態です。少なくとも僕は、そういう状態について考えたいのです。
それも、意味を伝える言語だけではなく、非シニフィアン的でフォルム的な言語を駆使して考えたいのです。”
― 千葉雅也 「ナマコとヤドカリ」 『現代思想の転換2017: 知のエッジをめぐる五つの対話』 篠原雅武 編、人文書院 (2017) >>116
理念もまた、脳と神経系の化学反応と電気信号の複合体、と言ってしまえばそれまでだけど、それでなにかが分かるわけでもない。 20世紀の哲学が言語論的転回のピークを迎える中、
東西冷戦(自由主義/社会主義)や文明の衝突(キリスト教/イスラム)など、
イデオロギーを巡る対立が世界を総動員して行われた。
言葉の解釈は対立を生み続ける。
実在論的転回や非シニフィアン的記号論は、
そのことの反省と、問題を解消をする具体的な方法だということ。 千葉雅也『オーバーヒート』発売 @masayachiba ・ 2022/1/26 20:05:59
村上春樹は学生運動の時代に幻滅し、どんなイズムも信用するなと学んだと言っている。今のSNSにおける政治的党派的時代も学生運動の時代に対応すると僕は思っていて、僕もそこから幻滅を学んでいる。 107 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2022/02/13(日) 01:49:50.53 0
今やっているのは、朝鮮哲学をやる下準備。
ドゥルーズ、デリダ、メイヤスーなどをやった上で、その先の朝鮮哲学がイメージできるかどうか。
108 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2022/02/15(火) 01:13:41.14 0
メイヤスーからガブリエルまでの新実在論もやっておいて欲しいね。
朝鮮哲学スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1615604444/ 最初ドゥルーズを知ったとき、わからないながらも、これは考えていることに近いという予感があったが、偉い人なのだから相当難しいことを言ってるはずで、そう易々とはわからないだろうと「構えて」いた。
小さい頃から、いろんなジャンルを横断して遊んでいて、家庭ではそういう感覚が奨励されていた。ひとつのことを極める求道的な姿勢より、マルチに生きることの方がうちの家族においては上位なのだった。それに、「強い理想を持つべきだ」という教育がなかった。全然なかった。それは、ひじょうに世俗的な家庭で育ったということだろう。
だから、ドゥルーズ的感覚は日常的なものだったと言え、そういう哲学が革命的なものだったのだと気づくのに時間がかかってしまった。
20年ドゥルーズを読んできたが、もちろん哲学史的に細かいことはたくさんあるにせよ、大きな方向としては、つまり僕が感じてきたことじゃないか、というのが結論である。と今なら思えるが、振り返ると、そういう素直な読みが、いろんな機会に「阻害」されてきたと思うのだ。
デリダよりフーコーより、とくにドゥルーズに関して、「これは簡単じゃないぞ」というプレッシャーが変にあったと思う。
ところで、親が普段から正義とか批判とかを口にする家庭で育つということが僕には想像できない。うちの家庭はいつでも美的判断の連続だった。美的にアリかナシか。その根拠が語られる。色や形、響き、味などが「どのようか」について、言葉が言葉を呼ぶ。家族の会話が全部批評。
世界は生成の途中であり、絶対的な同一性はない、ということに本気で感動しているドゥルーズ読みがもしかするとマジョリティで、だとすると僕はそこからかなりズレていることになる。絶対的な同一性や理念やイデアなど、幼稚園の時から信じたことがない。逆に言うと、世の中の多くの人は同一性、定義、形相によってものを捉えていて、そこからドゥルーズ的流動的な世界像へと向かおうとすると、無理がかかって、うおおおおお!!!とかなるのかもしれない。そして「かろうじて」理解する、と。 これは言い過ぎかもしれないが、うちの会話には公共的意識というものが一切なかった。僕の記憶では、「一切」なかったと思う。そのことは、僕のあり方にとって、やはりどうしても逃れることのできないデフォルトなんだと思う。そういう条件で育ったので、その後、大学に入って倫理とか正義といった概念で、いわば「一神教的モメント」を経験して以後、しばらくそちらへ持っていかれたが(高橋哲哉と中島隆博の影響が大きい)、結果としてたどり着いたのは、中途半端な公共意識がもたらす害悪を認識し、「脱公共的公共」のような思想に向かう、ということなのだろう。
己の世俗性をよく見つめること、というのは僕にとって重要なテーマである。
「自己世俗性分析」をせずに、そこから目を背けるようにして何らかの理念を語る人が多すぎるのではないか。理念的なタテマエに言葉を費やせば、すでに生きてしまった世俗的な身体をリセットできるかのような欺瞞。それでは真に理念を生きているとは言えまい。だが、理念を語りたいならもっと世俗性を自己否定せよということではない。むしろ世俗性のただなかに深くダイブし、そこにある他者性をもっとよく見なければならないということである。
ドゥルーズはとんでもないことを言っているのであり、それは容易には到達できない境地で、もっともっと読解しなければ、というのは少なくとも僕にとっては違う。そう言うと不遜に聞こえるかもしれない。僕の場合、ドゥルーズからことさらに小難しいことを引き出そうとするとかえって変なことになる。素直に読めばいいのである。
研究が進むにつれてわかったのは、子供の頃からあった自分の判断や世界観が表現するに足るものだ、ということ。ドゥルーズは新たなことを教えてくれるというより、それでいいんだと言ってくれる哲学者なのだと、徐々にわかってきた。最初からそうわかればよかったのに、いろいろ邪魔が入った。横断的、リゾーム的、といったことと80年代文化のつながりがあり、80年代を苦々しく思う(思いたい)人たちからの歪んだ茶々入れがあった。
他方、ドゥルーズをやたらに持ち上げる向きにおいては、70年代のまだ重苦しい時代に大学の哲学科という権威の塊みたいなところで過ごした人にとって、ドゥルーズが途方もなく解放的だったのだろう。だが僕は80年代に広告屋の息子として育ち、そのような解放は最初からデフォルトだった。 >>129
自分語りで世界を語りたがるところは、ドゥルーズと似てなくもない。 80年代の広告やメディアの軽佻浮薄な文化を今苦々しく振り返るインテリは多いわけだが、僕はまさにその渦中で育ったので、それへの批判もわかるが、それによって心身を形成されたという事実の方がはるかに大きい。80年代否定派と僕では価値観がまったく違う。僕は80年代的横断性をまさに「子供心」で受け止め、それを動力として生きてきた。実際そのときに子供だったのだから。
80年代にドゥルーズが持ち上げられた、逃走とかリゾームとか言われた、それは80年代だ、80年代ダメ、逃走とかリゾームとかダメ、ドゥルーズを読むなら80年代みたいに読んじゃダメ、というつながりなのだろう。結局、そういうことだったのだろう。
ドゥルーズを貶すのも祭り上げるのも僕にとっては違うのである。
僕のドゥルーズ読解は、そもそも心身があまりドゥルーズ的でないような人たちのヘンテコリンなドゥルーズに対する距離の取り方が周りにわさわさあるなかで、なんとかそれと付き合いながらひねり出す形になり、余計な負荷がかかっている。本来、自分にとってドゥルーズの考え方は自然だ。そこに戻る。
坂口恭平さんが『けものになること』で「おれはドゥルーズだ」と言ったのにはびっくりしたが──ドゥルーズ的であることと「ドゥルーズだ」というのは違うので、というのは「同一化」のように見えるわけで、それは違うよなーと正直思ったのだが——、これも彼にしばしば感じる同世代感覚のひとつかもしれない。
ドゥルーズの言っていることを容易にはわからないものとして捉え、それをわかろうとしない人も説得できるように書き直すような仕事というのはやる必要がないと思ってしまう。端的に言って。つまり同一性の論理の方に妥協してそっちの言葉で書き直すわけでしょう。しょうもねぇわ(栃木弁で)
ある対象の本質について本来はわかっていたのに、諸事情によってわかっていたということがわからなくなっていた、わからないようにさせられていた、ということがおそらくある。本当にこれまで、いろんな人に支えられてきたが、それと同時に、いろんな人に自分の直観を邪魔されてきたと思う、そのこともこの歳になって客観視できるようになった。
いつか、もう一度ドゥルーズの全体を捉える本を書くときが来るかもしれない。それはきっと、ひじょうにシンプルな本になるだろう。 >>131
いまは分からないけど、なんかすごそうだからいつかわかると思う、ってこと? >>134
他人の考えたものを
「俺ならもっとこうするのに」
「俺のものだったら良かったのに」
と悔しがるのは卑しい 残酷な天使のテーゼで
ドゥルーズを読んだシンジ君が
そのうち窓辺からやがて飛び立って
自死に至る。。 こいつは入門書ぐらいの格でまだ売れてない。死後大分たってないと。
資本主義と分裂病なんてひどい簡単な本あるけど。アンチオイディプスね。 こういうのがいるから分裂病者が絶望するしかないんだ。 東京専門学校早稲田大学ね専門があると強いと思うけど。 専門分野の一個として。まあアンチおいてぃぷすなんかの何千倍の考察できるよ。 四位一体波平自演シリーズ👴👴👴👴
護衛介護キャラ∶塩なめくじ
誰もまともな会話をしてくれない波平の孤独を補うイマジナリーフレンド💩
波平の自尊心が傷付けられるとよく護衛に現れる
攻撃キャラ∶自称無職名無し
波平の討論用のアバター、というよりただコテハンを外しただけの波平👴
無職であることをひた隠しにしている波平とは打って変わって、無職を肯定しており無職である己を弁護するキャラ
しかしながら中身は波平なので幼稚な語彙による知能の低さがモロバレである🥹
自演に人生を捧げた結果「なんのために生まれ」たのかという強迫観念からアンパンマン関係の語彙がよく表れる🍞
スレ流しキャラ:学術死廃
波平のキチゲ解放キャラ
無意味に見える言葉を喚き散らしてスレを流して話題を逸らそうとする🚽💩
マゾヒストキャラ:お陰様で
波平のメインアバター
日々己のガイジ具合を嘆いているが、その本音は自分の老化をADHDだと思いこんで否認している哀れな老人である🥺
下らないプライドを守るため仏教の話を垂れ流すことがあるが、本人は仏教を信じてるわけでもなんでもなくただ「悟ってるボク」という演出のための中身のない虚飾でしかないので無視してよい🥺 絶版などで入手困難となった資料をパソコンやスマートフォンで
閲覧できるようにするサービスを国立国会図書館が5月19日から始めることになりました。
対象となるのは、国立国会図書館が所蔵し、すでに電子データ化された書籍や雑誌、論文など150万点余りです。
入手困難な絶版など パソコンやスマホで閲覧可能に 国会図書館
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220430/amp/k10013606071000.html 《BOB DYLAN / 11のあらましな墓碑銘 (より、つまみ食い的抜粋。)
…
さよう わたしは思想ドロボー
だが 誓って 魂のぬすっ奴じゃない
わたしは建て 建てなおした
海辺の砂を待っているものの上に
たくさんの城をきざむ
わたしの時間の前に
開かれているものの上に
ひとつのコトバ ひとつの調子 ひとつの物言 ひとつの行
わたしは心をひらく
そしてわたしの戸棚思想裏庭的雰囲気をみとめる
ちがう わたしは抵抗しすばやくツバを吐く
コトバという武器で》
上記はドゥルーズが『ドゥルーズの思想』(ディアローグ---ドゥルーズの思想 )で引用して話題になった。
《質問 ボブ・ディランって、本当に脱領土化なんですか?
ジル・ドゥルーズ ええ、そうですよ。ディランの声とは音楽的に言って何でしょう?
一種の抑揚のない声ですね。非常に面白い。どんどん鼻にかかったものになっています。》
(ジル・ドゥルーズ「音楽について」ヴィンセンヌでの講演、一九七七年三月八日)
(批評空間1998 6月 第二期18号)
《ボブ・ディランがなにを歌っているか聞く必要はない。彼の歌い方を聞きさえすれば充分だ。》
ジョン・レノン ローリング・ストーン誌のインタヴュー 負債への着目はドゥルーズの功績のひとつ。グレーバーは批判的に言及しているが。
AO#7
《 現代人類学の偉大なる著書は、モースの『贈与論』であるよりは、むしろニーチェの
『道徳の系譜』である。少なくとも、そうでなくてはならないだろう。というのも『道徳の
系譜』の第二論文は、「英国式の」交換や利益の考察をすべて消し去って、原始経済を
〈債権者-債務者〉の関係における負債の用語で解釈しようとする試みの成功として、
他にないものであるからだ。交換や利益を心理学から消し去るのは、それらを構造の中に
位置づけるためではない。ニーチェは、古代ゲルマン人の法や僅かなヒンドゥの法といっ
た乏しい材料しかもっていない。しかし彼は、モースのように、交換と負債との間で迷い
はしない(バタイユもまた、彼を導くニーチェの刺戟によって、迷いはしないであろう)。
登記、コード、刻印といった原始社会体の基本的問題を、これほど鋭い仕方で提起したひとは、
これまでに存在しない。人間は、強度的な胚種的流体を、つまり生物的-宇宙的な大いなる
記憶を抑圧することによって、自分を人間として形成しなければならない。
…
この問いに対する答えは簡単である。それは負債によってである。
…
法の馬鹿らしさと恣意性、通過儀礼の苦痛のすべて、抑圧や教育のまったく倒錯的な装置、
赤熱の烙印、残虐な仕打ち、こうしたものは、人間を調教し、生身の肉の中に刻印し、
人間に縁組を可能ならしめ、債権者-債務者の関係の中で人間を形成するという意味しか
もってはいない。債権者-債務者の関係は、債権債務のいずれの側においても、記憶に属する
事柄である(未来にまで引きのばされる記憶である)。負債は、交換が装う見かけであるどころ
ではなく、大地的そして身体的登記からじかに生ずる効果であり、この登記が用いる直接の
手段である。負債は、まったく直接的に登記から生ずるのである。》 今純粋理性批判を読んでるけど「実在性/否定性」における内包量の“度”について
語っているくだりがあって、なんかドゥルーズっぽいなと思った。 「強度」概念に繋がるとこだよね
「プロレゴメナ」の方が分かりやすく書いてあるなと感じた記憶がある >>159
そうなんだよね。あと現象は物の内的な規定の現れではなく、我々が知りうるのはそれらの相対的な
「関係」にすぎないってあたりは構造主義をもほのかに思わせるしほんと、色々示唆に富んでて面白い。 カントもドゥルーズも古典だよな
現代思想という括りが解せない 最近よく話題になってるAIの描いた絵って哲学的に見ると興味深い。
人物の一部と小物や背景が部分的に繋がってたり、前後関係が逆になってたりと未分節な箇所がある。
しかもそれがアートのように意図されたものでなく、偶発的なだけにより混沌としてる。
ドゥルーズほか、昔の哲学者たちがこういうを見たらなんていうんだろうとふと思った。 シニフィアン(signifiant)は、
フランス語で動詞「signifier」の現在分詞形指すもの、意味するもの、表すもの
言語学用語で、能率的な筆記かな、と そのまま受理された
無内容な論文、ソーシャルペイント >>54
あれをするなと命じる
あれをするなとするなと命じる
積み重ね、タイムラプス 仕事に関して報告しなさい
報告作業
君の意見は聞いていないです
仕事に関して報告しなさい
君の意見を聞かない作業
仕事に関して報告しなさい
発生条件を探りなさい
報告作業
仕事に関して報告しなさい
あ、君の意見は?聞いてないですw >>168ズレた
シニフィアン(signifiant)は、
フランス語で動詞「signifier」の現在分詞形
指すもの、意味するもの、表すもの
言語学用語で、能率的な筆記かな、と