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意味の論理構造の哲学
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0546考える名無しさん
垢版 |
2022/05/14(土) 08:49:33.520
>>545
『伊勢物語』を、それぞれのエピソードを「物語の断片」と見なして
解釈しようとする大枠の見方そのものが、最初から「ボタンを掛け違えている」
ように私には思える。というのも、エピソードそのものが、通常の意味での
物語の体を成していないからであり、私には、そのどこまでが「言葉遊び」
なのか(私は、言語表現の意図的なメタ言語的な操作の実践を「言葉遊び」
と呼んでおり、「実効性がない」などという意味でこの表現を用いている
わけではない)としての表現なのか判然としない。逆に言えば、歌の背景
とされるエピソードそのものにかなりの程度の遊びが含まれているように
見える。
0547考える名無しさん
垢版 |
2022/05/14(土) 14:04:26.530
>>462-493
ところで、日本語の「を」は、呼びかけとしては、ドイツ語の»rufen«という
動詞に対応させて説明することができ、したがって、「音に聞く」という
表現に見られる日本語の古語における「音」も、それを「おと」ではなく、
「をと」と読まれるべきものとするなら、やはりドイツ語の»von Ruf«
という表現に対応させて考えることができ、その場合、「をとこ/をとめ」
の「をと」もそのような「を」の用法であると解釈することができる。
さらに、この解釈は、「をと」をポルトガル語の"vaiedade"に対応させた
上述の説明にもうまく適合する。

さて、ここで、現代において社会的な課題として議論されることの多い
男女平等の実現ということについて考えてみると、そこで中心的な問題
とされているのは、男女が同等の条件で継続的に»beruflich tätig sein«/
「職に就いている」ことのできる社会環境が整えられているかどうか
であるように私には見える。言うまでもなく、この»beruflich tätig sein«
という表現における»be・ruf・lich«の»ruf«は、上記の»rufen«や
»von Ruf«の»ruf«と共通である。私自身は、»beruflich tätig sein«/
「職に就いている」と他人から見做されなくても、そのことによって
家内で下働きすることを強制され、下される指示に応じるしかない
従属的な立場に追い込まれることなく、生活するのに十分な収入が
得られるなら、特に»beruflich tätig sein«/「職に就いている」必要性
は感じないのだが、そうでないことによって、「何らかの欠損」が生じて
いると評価するのが、世の中に普及しているより一般的な見方だろう。
そのような感覚がどのようにして生じているのかを理解するのに、
>>541で触れた「を」と「な」の関係が、万葉集の歌において
表現されるものと、現代でどのように変化しているのかを比較検討して
みることが有益ではないだろうか。
0548唯動論
垢版 |
2022/05/15(日) 02:07:31.260
動きそのものが意味 以上。
0549考える名無しさん
垢版 |
2022/05/15(日) 11:01:08.100
>>546
『伊勢物語』について
>エピソードそのものが、通常の意味での物語の体を成していない
と私は指摘したが、これは、部分的に物語として成立していないという
のではなく、初段からである。その一方で、各エピソードは、明示した
とおりの意味において、通常の歌詠みの掛詞の活用の度合をはるかに
超えて「言葉遊び」となっているように私には感じられる。
例えば、初段で印象的なのは、「射(い)る」ことと関連付けることの
できる「い」の発音の用い方であり、現代の日本語にすれば、
「矢継ぎ(古語では、「いやつぎ」または「いつぎ」と表現される)早に」
という表現を想起させる「言葉遊び」となっているのではないかと
私には感じらる。既に指摘したとおり、エピソードの登場する
「女はらから(姉妹)」を形容する「なまめいたる」という表現も、
言葉そのものとしては、初春の柳の枝のような「弾力性のある
しなやかさ」を表現するものであり、それが「狩」に関連づけ
られるなら、当然、弓のしなやかさが想起される。「しの(偲)ぶ」
ことと掛詞にされている狩衣の「しのぶずり」の「しの」も、
「しの(篠)」を想起させるものであり、「しの(篠)」とは、
岩波古語辞典によれば、「細く小さい竹の総称」であり、
「矢などにつくる」ものである。また、「しの(篠)を突く」
という表現は、「雨がはげしく降るさま」に用いられる隠喩である。
このエピソードのしめくくりの文句に用いられる「いちはやき」
という表現も、私には「矢のような速さ/勢い」を想起させる。
0550考える名無しさん
垢版 |
2022/05/15(日) 11:24:18.950
>>545で、『伊勢物語』について、
>「お」と読まれた漢字が「を」と読まれた可能性があることを踏まえ、
歌の言語表現の要素がメタ言語的に用いられている可能性に注目すると、
歌の解釈は、従来に示されているものとはかなり異なったものとなり
得るように思われる<
と指摘した。ここで、『伊勢物語』について検索してみると、図らずも
(実際に私はそのような議論について事前にまったく知らなかったので)、
初段から、「〜となむをいつきていひやりける」という表現の解釈に
関して、それを「をいつきて」のままとするか、「おいつきて」に
変えて解釈するかが問題とされて、それによりこの箇所の現代語訳が
様々なものとなっていることが分かる。それをどう解釈することが
妥当であるか私にはまだはっきりと判断がつかないが、少なくとも
「をいつきて」の「いつき」は、現代語において「矢継ぎ早」の
「矢継ぎ」に対応する古語の「いつぎ」と掛詞になっているだろう
と私は考える。
0551考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 18:04:15.110
『伊勢物語』について、
>各エピソードは、[...] 通常の歌詠みの掛詞の活用の度合をはるかに
超えて「言葉遊び」となっているように私には感じられる<
と指摘した。私が『伊勢物語』をそのように形容することに否定的な
評価のニュアンスはまったく込められていないが、一般的には、
「言葉遊び」というのは、「何の『効果/かひ』もない無駄な言葉遣いを
している」といった程度の意味で蔑みの評価であると考えられている。
実際、『伊勢物語』には、「歌の詠み手の心の動きを如実に表現して
相手に伝へる」ことに関しては、何の「効果/かひ」もないことに
おいて無意味/ナンセンスであると感じられる歌が少なくない。
では、なぜそのような無意味/ナンセンスとも思われる歌を詠み込んだ
エピソードを書き連ねているのだろうか。それを問はなければ、
『伊勢物語』に特徴的な言語表現の重要性に気づくことはできない
だろうと私は考える。
0552考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 18:17:59.100
例えば、『伊勢物語』の第七十五段のエピソードは、男が女をつれて
いこうと誘ったが、つれなく断られたというだけのことで、そこに
詠み込まれた男と女の歌のやりとりにおいて女が詠んだ歌が、
次のとおりである。

>岩間より 生ふるみるめしつれなくは 潮干潮満ち かひもありなむ
0553考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 21:32:33.550
この段のエピソードは、言い寄る男と、その男につれない態度をとる女の
関係を歌のやりとりによって伝へているだけで、その話の筋には、人の心を
動かすものはなにもなく、詠み込まれている歌にも、詠み手が自らの心の
動きを捉えて表現しようとするような動機が感じられない。例えば、上に
引用した歌にどうしても心の動きを見てとろうとするなら、そこに見られる
のは、「心の動きのなさ」としての「冷淡さ」ということになるだろう。
しかし、それでは、「言い寄る男を女が冷淡にあしらった」というだけの
ことになり、それがなぜわざわざエピソードを伴う歌のやりとりとして
提示される必要があるのか不明だろう。
0554考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 21:57:40.530
その一方で、この歌の表現手法に注目すると、「かひ」という表現だけでも、
それが三重の掛詞として用ひられていることにすぐに気づく。歌は、
海に関連付けられているので、「かひ」はまず最初に「貝(かひ)」として
読まれるが、「『かひ』もありなむ」という表現において、「効験」
としての「かひ」と掛けられていることが明白であり、さらに「かひ」
は、「潮干潮満ち」につづくことによって、その語源的な用法どおり
に「か(交)ひ」を、つまり、「潮の干満」の「交替」とも掛けられている。
要するに、この歌は、相手とのやりとりにおいては、なぜわざわざ
相手に送られる必要があるのか不明な、詠み手の心を相手に伝へる
ことに関しては無効なもの、その「かひ/効験」がないことにおいて
無意味/ナンセンスなものでありながら、メタ言語的な表現法として
は、「かひ」という言葉の掛詞としての用法をこれ以上ないほどに
簡潔に明確に具体的な事例として提示している。そして、私には、
こちらの方が、そこに読まれる歌とエピソードを創作した主眼であり、
話の筋は、その口実に過ぎないものであるように思われるのである。
0555考える名無しさん
垢版 |
2022/05/17(火) 22:36:49.760
この「かひ」についてのメタ言語的な表現法の有効性は、それを日本語
以外の言語に対応させて考えてみれば、さらに明らかとなる。
無論、他の言語において「かひ(貝)」と「かひ(効験)」が掛詞に
なることはないが、「かひ(効験)」と「か(交)ひ」は、例えば、
ドイツ語の場合であれば、そのまま»Tausch«に対応させることができ、
「かひ(効験)」をマルクス主義的な用語である»Tauschwert«に
対応させることもできる。「生き甲斐」、「働き甲斐」と言えば、
それは、「生きること」、「働くこと」の»Tauschwert«と解釈
することができるだろう。さらに、「『かひ』がない」、
「ふ『がい』ない」という表現も、»tauschen«との関連性から
直ちに、»enttäuscht«という表現と関連させて考えることができる。
試しに、»enttäuscht«をキーワードにして検索すると、次のような
表現がヒットする。

>Fühlst du dich oft von dir selbst enttäuscht?

ここで、»enttäuscht«を辞書の記載により、「失望させられた」と
いったような訳語を当てはめて考えるより、『伊勢物語』の表現法にも
見てとることのできるメタ言語的な捉え方に応じて、
「あなたはよく自分を『ふがいない』と感じますか」とした方が、
はるかに自然で、ドイツ語の原文の表現にも近い解釈が導かれる
のではないだろうか。
0556考える名無しさん
垢版 |
2022/05/19(木) 20:19:38.820
>>555
言語表現をこのようにメタ言語的に捉えることができ、その捉え方が妥当である
ならば、すぐに応用が効く。

「この甲斐性なし!」という日本語の罵りの言葉を英語に訳すとしたら、
どのように表現するだろうか。「甲斐性なし」をネットの辞書で検索
すれば、いくらでも候補として提示される訳語はヒットする。しかし、
では、それらの候補とされる英語の表現は、「甲斐性なし」に適切に
対応するものであることはどのように保証されるのか。実際に提示
される英語の表現は、いずれも相手を罵る言葉なので、それなりに
適合しているようにも見えるが、それだけでは、「罵るために使われる
表現であることが共通しているに過ぎない」可能性がある。しかし、
私が上に示したメタ言語的な捉え方によれば、
>「この甲斐性なし!」⇔"You're such a disappointment!"
という対応関係を直ちに導くことができ、なおかつ、日本語、英語
それぞれの表現を構成している論理からその妥当性を容易に説明する
ことができる。
0557考える名無しさん
垢版 |
2022/05/20(金) 07:28:21.190
以下はWikipediaの"Enttäuschung"の項目からの引用

Das zugrundeliegende Verb enttäuschen wurde im 19. Jahrhundert als
erfolgreiches Ersatzwort für die aus der französischen Sprache entlehnten
Fremdwörter „detrompieren“ (détromper) und „desabusieren“ (désabuser)
gebildet.

Es hatte zunächst die positive Bedeutung „aus einer Täuschung
herausreißen“, „eines Besseren belehren“, eine Desillusion.

Der negativen Bedeutung von „täuschen“ folgend, entwickelte sich der
negative Sinngehalt als „einer Erwartung nicht entsprechen“.
0558考える名無しさん
垢版 |
2022/05/20(金) 07:44:43.640
「言葉遊び」という表現を、発言の無効性を非難する否定的な評価として
しかつか(仕/使)ふことのできない人々は、»Enttäuschung«についても、
いつでもその片面においてしか捉えることができないだろう。
しかし、理性とは、本来的に感性の働きを節約することに他ならず、
それは、臨機応変に目的に応じて「違いがないものと見做す」ことであり、
「意図的に『まがふ』」ことなのだ。それ故、理性に従ってそのように
「まがふ」ことにしたものを、単に惰性により「違いがないものと見做す」
ことにするならば、手酷い»Enttäuschung«に遭うことになるだろう。
0559考える名無しさん
垢版 |
2022/05/20(金) 07:55:24.200
生きることそのものが、試行錯誤による探索活動である。

袖振り合うも他生の縁(そでふりあうもたしょうのえん)
《Vivre c'est le chassé-croisé de ceux qui pourraient être soi-même.》
(勝手な解釈による自己流の仏語作文なので、適切な訳になっているかどうか、
仏文として通用するものとなっているかどうかは知らない)
0560考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 07:28:47.820
「互(た・が(交))ひ違(ち・が(交))ひ」だからこそ、その交叉において
触れ合いが生じる。そのような触れ合いの作用点("disappointment"の
"appointment"である)が、日本語においては、「か」の発音によって
代表される。
0561考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 07:42:16.410
例えば、次の松尾芭蕉の表現を、「漢語」も含め、日本語として用いられる
「か」の発音に注目しながら、読んでみるといい。

>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、
馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、
片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、
去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、
春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、
道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、
笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、
住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住替る代ぞひなの家

『おくのほそ道』
0562考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 09:57:47.430
>>560
ここで、「か(交)ふ」において、「か」が「『交叉における』触れ合いの作用点」
として現れることは、この場合、「か(交)ふ」の「〜ふ」が相互性を表すように
用いられている再帰性の指示であることにも留意しよう。すると、この場合も、
「か」そのものは、「かろ(軽)し」、「か(枯)れ」、「か(香)」、「か(蚊)」
などに関連して以前から説明してきたとおり、瞬間的に触れて離れる様態
としての"touch and go"としてイメージされることになる。
0563考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 10:18:42.960
ここで、ドイツ語の»Enttäuschung«を形成する動詞の»täuschen«は、
「交換する」ことを意味する»tauschen«と同根の語とされ、»tauschen«
そのものはフランス語の《toucher》(英語の"touch"に対応する)の
借用に語源が求められるとされることにも注目される。

>Etymology
Borrowed in the 16th century from Middle French toucher (“touch”),
from Vulgar Latin *toccāre, *tuccāre (“to beat”).
Doublet of touchieren. Compare Italian toccare. < 
(Wiktionary, "tuschen"の項目から引用)
0564考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 10:53:05.350
このように見てくると、日本語の表現を説明するために私が行っている
メタ言語的な記述は、何か独特の特殊な手続きではなく、辞書の記載が
通常、同一言語の枠内、またはせいぜい同系統とされる諸言語の枠内
で行っているような記述を、そのような枠組みを離れて、互いに関係
の明らかではない複数の言語の表現を用いて行っているに過ぎないこと
が分かるだろう。

日本語において「かむか(考)ふ」とは、「かむ(神)・か(交)ふ」こと
であり、「かむか(考)ふ」という行為そのものが、その発音からも
推察されるとおり、「『交叉における』触れ合いの作用点」を探索
することを要求する。この場合、「かむ(神)」は、以前から指摘して
きたとおり、鏡を意味する中国語の「鑒(Middle Chinese:/kˠamH/)」
の語末を開音節に移して借用したものであると私は考えている。
ただし、「かむ(神)」は、単に「鑒」の発音とそれに関連付けられた
概念を借用したに過ぎないものではなく、日本語として移植される
ことに伴って、「か・(ま、み、む、め、も)」の系列において「ま行」
の活用に関連付けられて、累加する内的な反響作用のようなイメージを
想起させる表現となっている。
0565考える名無しさん
垢版 |
2022/05/21(土) 11:56:04.990
>>562
誤:指示であることにも留意しよう
正:指示によるものであることにも留意しよう
0566考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:08:31.790
>>562
>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる。

このような記述をすると、必ずすぐに、「いくらでも例外が見つかるので、
そのような対応関係は認められず、恣意的に関連付けているだけだ」とか、
「別の言語では、同様の発音が別のイメージに関連付けれ、同様のイメージ
が別の発音に関連付けられているので、擬音語や擬態語を例外として、
そのような対応関係について推論することは意味がない」といった類の、
あたかも記述が発音とそれが想起させるイメージの1対1対応を主張して
いるかのように誤解しようとする人々が大勢出てくる。だが、
「1対1対応を主張」を前提としているのは、そのような人々の思い込み
の方にしかなく、しかも、自らが暗黙にそれを規範として前提として
しまっているからこそ、系統が異なるとされる別言語の間の、発音
を含めた表現上の類似性を見てとることができなくなるのである。
0567考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:15:45.120
例えば、
>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる
という具体例に関して、フランス語の表現について考えた場合、そのように
イメージされた日本語の「か」に対応するものとして私にすぐに想起される
のは、《sec》(クラウン仏和辞典から対応する訳語を引用すると、「乾いた」、
「乾燥した」、「かさかさの」、「(伴うべきものが)伴っていない」、
「素気ない」、「手加減のない」、「辛口の」など)という表現であり、
その発音である。
0568考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:24:16.300
>>567
フランス語の《sec》という表現が想起させるイメージが、日本語では「か」を
用いた表現が想起させるイメージによく対応していることは、誰でも容易に見て
とることができるだろう。それでも《sec》という発音と「か」という発音が
特に互いによく似ているというわけではない。

ところで、《sec》は、ワインが「辛口」であることを形容することにも
使われるが、日本語では、酒について「キレの良い辛口」と表現すること
がよくある。
0569考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:36:01.220
逆に日本語の「キレの良い辛口」という表現から、フランス語の《sec》に
ついて考えるなら、「キレの良い」イメージに関連して、《sec》と発音
が重なり、「切断」を意味して、英語にも取り込まれている《section》
という表現が直ちに連想される。

そこで、《sec》と《section》のそれぞれの語源を調べてみると、《sec》
の方は、ラテン語の"siccus"、印欧祖語として想定される"*seyk-"に由来
するとされ、《section》の方は、ラテン語の"secō (“to cut”) +‎ -tiō"、
印欧祖語として想定される"*sek-"に由来するとされ(Wiktionaryの記載に
よる)、これらの2つの語源は、互いに関連付けられてはいない。
0570考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:44:44.640
では、《sec》と《section》は、想定される語源が異なるので、互いに
無関係なのだろうか。私にはそのようには思えない。なぜそのようには
思えないかと言えば、それは、日本語において「キレの良い辛口」という
表現が自然であると感じられるように、「キレの良さ」に関連づけられる
《section》と、「辛口」に関連付けられる《sec》は、その発音の重なり
からも、互いに自然に結びついてイメージされてきただろうと考えられる
からである。
0571考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 10:58:08.700
さて、ここで
>ラテン語の"secō (“to cut”) +‎ -tiō"
に注目すると、例えば、スペイン語では、"seco"は、「乾いた」を表現
する形容詞として用いられ、語源的には、"secō (“to cut”) +‎ -tiō"から
ではなく、やはり"siccus"に由来するとされる。ところで、ラテン語の
"secō"にここで当てられている英語は、"to cut"であり、スペイン語の
"seco"に通常、当てられる英語は、"dry"であるが、英語にはそのまま
"cut-and-dry"というよく使われる常套句があり、問題が「単純に
割り切れる」かどうかという文脈でよく使われる。
0572考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 11:40:51.100
>>567-571
日本語の「か」の発音のイメージから出発して、このようにフランス語、ラテン語、
フランス語、英語などの表現を参照してみると、そこで共通して用いられている
のが"k"の発音であることに気づく。「き(切)る」という日本語と英語の"to cut"
の場合でも、"k"の発音が共通している。これは、偶然に過ぎないのだろうか。
私はそうは思わない。日本語において、「く」や「こ」の発音の要素として
、暗い母音と一緒に"k"が用いられる場合には、"k"は「求心性」をイメージ
させることになるが、日本語の「か」、「き」、「け」において用いられる
"k"の発音は、ここで見た、フランス語、ラテン語、スペイン語、英語など
の表現の場合と共通して、「瞬間的に接触して、すぐに離れる作用の様態」
を想起させるように用いられているものと感じられる。

例えば、日本語の「か(交)ひ」とフランス語/英語の《intersection》/
"intersection"の対応関係を考えてみるといい。この場合、フランス語/
英語の《inter-》/"inter-"は、日本語の「〜ふ」に対応するように
相互性を表現し、語源的には「切断」を表現する《section》/"section"
は、日本語の「か」に対応していることになるが、《section》/"section"
は、「切断」をイメージさせるだけでなく、互いに交差点で瞬間的に
交はる/"to cross"ことによって瞬間的に触れた後、再び離れることを
イメージさせているはずである。
0573考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 11:49:05.740
誤:このようにフランス語、ラテン語、フランス語、英語などの表現を
正:このようにフランス語、ラテン語、スペイン語語、英語などの表現を
0575考える名無しさん
垢版 |
2022/05/22(日) 13:50:50.070
ある作用の様態のイメージを想起させるようにある発音が、異なる複数の
言語において互いに類似した用いられ方をしているという指摘が、
そのような対応関係の必然性(即ち、1対1の関係)は認められないという
批判を呼ぶことは、それ自体、興味深い問題である。そのような批判を
する人々は、なぜか、そのような対応関係の指摘は、自動的で、機械的
でなければならないという規範を前提としているのだ。しかし、例えば、
生物の身体が、共通性の認められる分子構造を用いている場合に、その
機能を特定するのにそのような規範が前提として成立しないことは言う
までもなく、共通性の見られる物理的な構造とその機能の場合ですら、
そのような前提は規範として成立しない。例えば、軸を中心に複数の
羽がついている構造が存在したとして、それが扇風機の羽に似ている
ことは、その構造体が必然的に扇風機の部品として使用されることなど
意味しない。そのような構造は、風速を測るための風車、風力を利用
して穀物を粉に挽くための風車、回転させて前進する推進力を得る
ためのプロペラ、上昇するためのローター、落下の速度を緩和する
ためのローターなど様々な用途に用いられ、軸を中心に複数の
羽がついている構造が共通しているからといって、それが使われる
機能が1つに決まるわけではない。また、逆にそれが使われる機能が
多用だからといって、その構造の作用の様態の共通性を探ることが
無意味になるわけでもないだろう。
0576考える名無しさん
垢版 |
2022/05/25(水) 09:26:57.710
Chloé
Chasser Croiser – Le Surréel et son écho (livre / CD)

この本、値段が高いから買おうとは思わないけど、面白そうな気がする。
気がするだけで、内容を見たわけではないので分からないが。
0577考える名無しさん
垢版 |
2022/05/25(水) 09:30:00.160
具体性、即ち、体(からだ)を具えた性質とは、
生きることの《chasser croiser》によって形成された意味の多層性である。
0578客人(たびびと)/"guest"としての各自(かくじ)
垢版 |
2022/05/26(木) 09:41:39.230
>>561
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、
馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。 <

日本で学校教育を受けた人ならば、その多くが触れたことがあり、
万葉集の歌などと比べれば、現代の日本語の表現との隔たりもそれほど
大きくないため、それなりに理解していると感じているものと思われる
この『おくのほそ道』 の序文の表現も、一般に、その解釈に根本的な
「捉え損ね」が潜んでいるだろうと、私には思われる。というのも、
私自身が、その「捉え損ね」を、これまで特に意識することのなかった
一般の人々のうちの一人だからである。この「捉え損ね」は、「たび」
とはどのような表現であるかにかかわり、また引用した文における
「過客」という表現の"k"の発音の用法にもかかわる。
0579考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:05:50.000
現代の日本語の用法においてほぼ例外なく「旅」という漢字が当てられる「たび」
という表現に、現代の日本語を母語とする人々はどのようなイメージを思い浮か
べるだろうか。「旅立ち」や「旅と別れ」など「たび(旅)」は「立ち去る」こと
と結び付けてイメージされることが多く、「たび」という表現を聞いて一般に
人々が想起するのは、「旅(たび)に出かける」ことだろう。

しかし、古代からの日本語の「たび」の捉え方がそのようなものではなかった
ことは、まず間違いないことだろうと私には思われる。というのも、「たび」は、
「出かけて行く」ものとしてではなく、「たび」に「ある」ものとして
捉えられているからだ。私に言はせるなら、「旅(たび)」に「出かけて行く」
という捉え方がされるようになったことそのものが、「たび」の物象化
である。では、「『たび』に『ある』」とはどのようなことだろうか。
それは、芭蕉の表現にそのまま見られるとおり、「自らが『過客』としてある」
ことである。

まずは、万葉集の歌を確認してみるといい。多くの歌で「たび」が詠まれている
が、そのかなりの割合において、「たび」に当てられている漢字は、「客」、
つまり、英語で表現するなら"guest"である。したがって、「たび」の「別れ」
が詠まれている場合、それは「一時、訪れて、また離れる」ことを表現して
いるものと考えることができる。このことから私に直ちに推測されるのは、
「たび(客)」は、「〜する『たび』に」という表現と語源を同じくする、
「た」によって「接触」を表現した「た・ふ」に由来する再帰表現ではないか
ということである。
0580考える名無しさん
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2022/05/26(木) 10:19:45.160
無論、「『たび』に『ある』」ならば、妻子とは、離ればなれになった境遇
に置かれている。しかし、それを「たび」によって妻子と別れることになった
と理解するのは、誤りだろうと私は考える。なぜなら、「たび」を形容する
決まり文句として「草枕」が用いられることからも明白なとおり、「たび」
という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における『借りの滞在』」
だからである。

ここで私にすぐに連想されるのは、スペイン語の"tocar"という表現だ。
"tocar"という動詞そのものは、俗ラテン語の"*tuccō"に由来するとされ、
手で触れるなどの「接触する」ことを意味するが、
"te toca a ti ― it's your turn"のような用法において、順番として
回って来ること(つまり、日本語の「このたび(度)は〜」に対応する)
を意味するように用いられる(Wiktionaryの"tocar"の項目を参照)。
0581考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:26:18.980
実際、「たび」という表現についてこのようにイメージすると、現代の
日本語においても、通常は、訪れるものとして意識される「月日」や
「年月」がなぜ、
>月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也
として、「たびびと」、即ち、「客(たび)人(人)」に喩えられるのか、
よりよく理解できるようになるのではないだろうか。
0582考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:27:08.690
誤:「客(たび)人(人)」
正:「客(たび)人(ひと)」
0583考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:34:31.040
日本語の「か」の発音について、上で次のようにしてきした。

>「か」そのものは、[...]としての"touch and go"としてイメージされる
ことになる

>日本語の「か」、「き」、「け」において用いられる
"k"の発音は、ここで見た、フランス語、ラテン語、スペイン語、英語など
の表現の場合と共通して、「瞬間的に接触して、すぐに離れる作用の様態」
を想起させるように用いられているものと感じられる。<

これに関連して、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也 」という
表現において、芭蕉がいかにうまく、日本語の「か」の発音を活用しているか
についても、気づくはずである。
0584考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 10:43:48.540

不法侵入
0585考える名無しさん
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2022/05/26(木) 10:53:54.460
人に休みを与えない
首無しのデブ
こいつは何様なんだろう
支配者ごっこでもしてるのかな
0586考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 11:58:28.280
passerby as oneself
0587考える名無しさん
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2022/05/26(木) 12:09:53.400
This is good thing.
0588考える名無しさん
垢版 |
2022/05/26(木) 13:18:39.570
人はコンテンツでもなければ
イノベーションを産み出すツールでもない
相手の中にそれを探すこと自体が
人間に対する冒涜である
人は想いでしか動かない
0589考える名無しさん
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2022/05/27(金) 07:54:58.990
>>578
>その解釈に根本的な「捉え損ね」が潜んでいるだろう

「捉え損ね」は、表現の語源が明らかとなっている場合にさえ、容易に生じ得る。
例えば、英語の"visitor"の語源をonline etymology dictionaryで検索してみると、
次のように記載されている。
>visit (v.)
c. 1200, "come to (a person) to comfort or benefit," from Old French
visiter "to visit; inspect, examine; afflict" (12c.) and directly from
Latin visitare "to go to see, come to inspect," frequentative of visere
"behold, visit" (a person or place), from past participle stem of videre
"to see, notice, observe" (from PIE root *weid- "to see").
Originally of the deity, later of pastors and doctors (c. 1300),
general sense of "pay a call" is from mid-13c.
0590考える名無しさん
垢版 |
2022/05/27(金) 08:22:14.100
"visitor"についてのこの語源説明では、それを「視察する」、「査察する」
といったような文脈で用いられたラテン語の"visitare"に関連付けて、
"visitor"を「視察者」もしくは「査察者」として限定して解釈している。
しかし、そのような限定した解釈は妥当だろうか。無論、"visitare"が
そのような文脈で使われた場合、それを「視察者」もしくは「査察者」
として理解することは妥当である。日本語でも、訪れる人を「物見遊山」
の「見物客」とする捉え方がある。しかし、「一見さん」と表現する
場合はどうだろうか。「一見さん」という表現がやはり「見る」行為に
語源を辿ることは間違いないものの、「見る」行為の主体がどちらの側
にあるのかはそれほどはっきりしない。さらに、訪問客を「お見えの方」
と表現する場合にはもやは、「客」は、「見る」行為の主体ではなく、
そこに「見ゆ」存在である。

私はここでなにも、"visitor"の語源としての「見る」行為を、原理的に
「見ゆ」という中動態に戻して解釈すべきであるというようなことを
主張したいわけではない。しかし、この場合も、「見る」行為の主体を
一方的に訪問してくる側に帰するように限定することはできないだろう
と思われる。上に引用した"visitor"の語源説明では、"Originally of the
deity"と明記されている。するとその場合、やはり、その"deity"を、
「見に来る」存在として捉えるより、訪れて「姿を『見せる』」存在、
もしくは「姿が『見える』」存在、つまり、「お見えになる方」として
捉える方が自然ではないかと私には思われる。
0591考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 10:17:52.180
万葉集の歌に詠まれた「たび」には、その多くの事例において「客」と
いう漢字が当てられている。だから、現代語の日本語の「旅(たび)」
という表現も、その語源を辿るなら、「客人(きゃくじん/たびびと)」が
「この『たび(度)』はお世話になります」と挨拶するときの「たび(度)」
と同じであると説明したら、人々はどのように反応するだろうか。

人文学系の専門家を含め、その多くは、そんなものはただの語呂合わせ
による「言葉遊び」に過ぎず、根拠が不明で何の意味もないと反発する
人が多いのではないだろうか。それでも引き下がらずに、スペイン語で
「接触する」ことを意味する"tocar"という動詞の"tocar (a+人)"という
形で「(人に)番が回る」ことを意味する用法を説明したとしても、
「たび」の"ta"の"t"と"tocar"の"t"の発音が重なっているだけで、
スペイン語と日本語に何の関係があるのかと、多くの人はそのような
説明に対して不満を露わにして、何の理解も示そうとはしないだろう。
0592考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 10:31:30.720
ところで、「旅(たび)」に対応する英語の表現はなんだろうか。
「旅」の漢字でWiktionaryの項目を参照すると、日本語の「旅(たび)」に
対応する英語として、以下のように記載されている。
a journey; travel
(archaic) a temporary time spent in a place
(more specifically) a place where a 神輿 (mikoshi, “portable shrine”)
spends a temporary time outside of the 本宮 (hongū, “main shrine building”)
during a 祭り (matsuri, “festival”)

また、その語源について、
>May be cognate with 度 (tabi, “the time when something happens”);
both terms have the same pitch accent, the same ancient vowel values,
and some semantic overlap. <
と記載され、私の指摘と同じく(私は、事前にこの記載について知っていた
わけではない)「たび(旅)」と「たび(度)」が語源的に関係している可能性が示唆
されているが、その示唆は、これらの表現の発音が重なっているという理由に
依るものにとどまっている。
0593考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 10:39:10.460
さらに、この項目では、「旅(たび/りょ)」を用いる熟語がその英訳とともに
次のとおり列挙されている。

旅先 (tabisaki, “destination”)
旅路 (tabiji, “route, itinerary; journey”)
旅立ち (tabidachi, “departure (on a trip)”)
旅券 (ryoken, “passport”)
旅行 (ryokō, “trip, travel, voyage”)
旅団 (ryodan, “brigade”)
0594考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 10:49:35.670
しかし、「旅」の漢字のWiktionaryの項目における記載からは、私に言は
せれば、日本語の「たび(旅)」という表現に対して、簡潔でありながらも、
最も適切である、そのまま対応する英語の表現の記載が欠落している。
それは、旅行を表すのに最も一般的な和製英語として日本語としても
完全に定着している「ツアー」、即ち、"tour"である。

したがって、逆に言えば、その表現の用法にどのような限定を加える
にせよ、「ツアー」/"tour"が日本語の「たび(旅)」という表現に対応する
ことを否認できる日本語の話者はいないはずだろう。
0595考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 11:03:09.850
さて、では、ここで"tour"の語源をonline etymology dictionaryで検索して
みよう。すると、次のように記載されている。
>tour (n.)
c. 1300, "a turn, a shift on duty," from Old French tor, tourn,
tourn "a turn, trick, round, circuit, circumference," from torner,
tourner "to turn" (see turn (v.)).

もう誰もが気づくはずである。それは、私が既に次のように指摘して
いることだ。

>"tocar"という動詞そのものは、俗ラテン語の"*tuccō"に由来するとされ、
手で触れるなどの「接触する」ことを意味するが、
"te toca a ti ― it's your turn"のような用法において、順番として
回って来ること(つまり、日本語の「このたび(度)は〜」に対応する)
を意味するように用いられる(Wiktionaryの"tocar"の項目を参照)。<

そう、スペイン語の"tocar (a+人)"という形における"tocar"は、
英語の"turn"に対応するように「巡(めぐ)り合はせ」/"turn"において、
「この『たび(度)』は」当(="tocar")番/"turn"となることを表現して
いるのである。
0596考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 11:24:54.380
「たび(旅/客)」と「たび(度)」が語源的に共通であることを示すのに、
これ以上の説明はもはや必要ないだろう。またそれと同時に、
「旅(たび)に出かける」という表現がなぜ、「たび(旅/客)」の本来的な
捉え方であるよりも、むしろ、その物象化であると考えられるのかも、
もはや容易に理解できるはずである。英語の"a tour"が「各所を巡ること」
を表現しているのだから、「ツアー/旅(たび)に出かける」とは、
本来は、"go for a tour"に対応しているはずであり、"to tour"/「各所
を巡る」ことの方が、もともとの「「ツアー/旅(たび)する」行為である
と考えられるはずのものなのである。そして、「たびびと(旅/客人)」
とは、「ツアー/旅(たび)に出かける人」であるよりも先にまず、
それが本人であっても、「巡って来る人」としてあることなのである。
0597考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 11:42:23.850
ここで、より一般的で重要なこととして、「旅」の項目でWiktionaryに
記載される説明と照らし合わせると、私を導いた推論が極めて強力で
有効なものであったことにも気づかされる。それは、私が次のように
指摘したことと関連している。

>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における
『借りの滞在』」だからである。 <

私は、「たび」についての推論を書き込むにあたり、事前にWiktionaryの
記載を参照していたわけではなかった。したがって、そこに記載される
日本語の「たび」という表現の以下の用法についても知らなかった。

>(archaic) a temporary time spent in a place
(more specifically) a place where a 神輿 (mikoshi, “portable shrine”)
spends a temporary time outside of the 本宮 (hongū, “main shrine building”)
during a 祭り (matsuri, “festival”)<

にもかからわず、「たび」という発音からその表現の用法の検討は、推論により、
この用法にもそのまま適合するイメージに私を導く結果となっている。
このことは、方法論的にとても重要であると私には思われる。
0598考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 13:16:00.720
ちなみに、「トラベル」/"travel"は、「わた(渡)り」であって、「たび」ではない。
0599考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 14:13:38.350
人文系の何らかの研究分野を職業的に専門としているわけでもない一般人
として私は、この場合の「たび」のように、普通、人が当たり前に理解でき
ているものと感じている言葉の表現についても、尋常でないほどよく
辞書を調べる。ただし、それは、例えば、「たび」の項目の辞書の記載を
網羅的に調べるということではなく、「たび」によって「私に連想される
表現」を、それが日本語であるか他の外国の言語であるかに否かに
かかわらず、思いつくままに検索して参照するということである。

その一方で、私は、英語で書かれたものは言うまでもなく、自分が教育を
受けたことのない言語で書かれた原書でも、ほとんどまったく辞書を
引くことなしに読む、というより、目を通すことを習慣としている。
「読む、というより、目を通す」というのは、私はそれらの書物で
用いられている言語をまともに学習していないので、当然のことながら、
辞書を引かない以上、その多くの部分は、まったくその内容が不明な
場合も多く、私には、読んでいると言えるほどよく理解できないから
である。だったら、その原書が日本語に翻訳されて出版されている場合
には、無理をせずに日本語の翻訳で読めばいいではないか、と思われる
かもしれないが、ことはそう単純ではない。なぜなら、原書で読んで
分からないものを日本語で読めばよく分かるかと言えば、必ずしも
そうはならないからだ。そこには、万葉集の歌を現代語訳で読めば、
歌に何がどのように詠まれているかがよく分かるようになるか、という
のと同じ問題がある。
0600考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 14:40:42.630
例えば、私は、ドイツ語の教育を受けたことがないので、私のドイツ語の
能力は初歩的なものに過ぎない。それでも、私は、ニーチェの著作を
だいぶ以前に日本語の翻訳だけで読んだときには、その表現が支離滅裂に
感じられ、全体として何を言いたいのかさっぱり理解できず、途中で
読むことを放棄してしまった。しかし、その著作を翻訳で読もうとした
ことがあったことさえ忘れるほど時がたってから、原著のドイツ語に
目を通して見ると、多くの記述は、私自身の言語能力の不足から不明
のままでありながら、所々、あたかも最初から私の母語としての日本語
で書かれているかのように、何をどのように表現しているのかが
よく伝わるように感じられた。ところが、私の理解が適切であるのか
どうかを確かめようと、日本語訳を借りてきて当該の箇所を確認して
みると、やはり私にはさっぱり分からない日本語で表現されている
のである。
0601考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 15:14:16.060
ここには、方法論的に重大な問題がある。私は、英語を学習するのにも、
ごくたまにしか辞書を引くことがなかった中学生時代を別にして、
英和辞典を使ったことがほとんどない。高校、大学時代のまた一冊の本を
読み通すことが難しいほどの英語力しかない頃から、辞書を引くとすれば、
専ら英英辞典しか参照することがなかった。

基本的な英単語の知識すら不十分なのに、英和辞典を引こうとしないことは、
はるかに英語力のある人々から見れば、「怠惰」、「反抗」、「思い上がり」
の現れである「不遜な態度」であると評価されるのが普通だろう。しかし、
私自身の感覚では、英和辞典を使用することに「拒否反応」が生じること
は、その当時は、言葉でうまく説明できなかったとしても、そのようなもの
ではなかった。学習の初歩の段階で、英和辞典を引くことは、英語の表現に
対応するものとされる日本語の表現を参照することであり、その対応関係
を記憶する作業を要求されることになるのである。これは、「たび」という
表現を例にとって、逆方向で考えるなら、その表現の意味と用法を理解する
のに、「たび」⇔"trip", "travel", "journey", "voyage"を対応関係として
暗記するようなことであり、あらゆる表現について、これを反復作業として
繰り返して、対応関係の知識を蓄積することに他ならない。しかし、
この作業をいくら熱心に繰り返したところで、
>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における
『借りの滞在』」<であるというような理解はもたらされない。
したがって、「行かふ年も又旅人也」のような極めて単純な表現を適切に
解釈するのにさえ役には立たないことになる。言い換えるなら、
どう理解してよいのかまだよく分からない表現に、既に理解されている
明確な表現を対応させて暗記することにより、「よく分からないことが
既によく分かっていることにされてしまう」のであり、「よく分からない」
という感覚を表明すること自体が抑圧されるのだ。
0602考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 15:32:46.480
しかし、一般の人々は、「よく分からないことが既によく分かっている
ことにされてしまい」、「よく分からない」という感覚を表明すること
自体が抑圧されることを、むしろ、好ましいと感じているように私には
見える。その一方で、「よく分からないことを、よく分からないこと
として明確に認識して、その認識をそのまま保つ」ことを著しく嫌う。

これに対して、私自身の性格は、その真逆なのである。私は、
「よく分からないことが既によく分かっていることにされてしまう」
のを嫌い、「分からない」という感覚を表明するのを抑圧される
ことに対する耐性が低く、「よく分からないことを、よく分から
ないこととして明確に認識して、その認識をそのまま保つ」ことが
できることを、むしろ好ましいと感じるのである。だからこそ、
ろくに学習したこともない言語で書かれ、その多くの部分がまるで
理解できない内容の本に、まるでその本が読めるかのように、
分からないことは分からないままに目を通すことに何の苦痛も
感じないのだ。世の中のほとんどのことは、私にはよく分からない
ことが定常であると認識しているので、何らかの手がかりに遭遇
して、時たま、よく分かるという状況が生じるなら、私にとって
は、それでよいのである。
0603考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 15:47:28.680
古語辞典の記載に対する私の不満も、英和辞典を使用することに対する
拒否反応と同じ類のものである。「梅を『をく』」という表現のおける
「をく」に「招(まね)く」という現代語が与えられても、私には少しも
「をく」という表現がよく理解できるようになったとは感じられないの
である。「をく」が、「梅の木の花を咲かせようとする意」に対する
「誘い」、つまり、「〜したくありませんか」と呼びかけること、
この場合には、「花を咲かせたくありまんせんか」と呼びかけること
とメタ言語的に記述することができて初めて、私にはその表現が
理解できるようになったと感じられる。そのようなメタ言語的な記述
がうまく行われているのが、優れた英英辞典である。
0604塩なめくじ
垢版 |
2022/05/28(土) 16:11:21.20ID:iemXpYDa0
誤:「花を咲かせたくありまんせんか」
正:「花を咲かせたくありませんか」
0605考える名無しさん
垢版 |
2022/05/28(土) 16:45:11.060
訂正してくれてありがとう。でも、私は「塩なめくじ」ではありません。
0606考える名無しさん
垢版 |
2022/05/31(火) 11:06:59.110
万葉集の歌で日本語の古語の「たび」という表現に「客」という漢字が
当てられていることからも窺い知ることができるように、「たび」は、
漢語の「客」にそれなりに対応する表現として意識されたのだろうと
思われる。

ここで中国における漢字の「客」の用法を漢語詞典で検索してみると、
「客鳥」という表現があり、その「詳細釋義」として次のように記載
されている。
>外地飛來的鳥。多喻旅人。
>晉 王贊 《雜詩》:“人情懷舊鄉,客鳥思故林。” 唐 鮑溶 《鳴雁行》

私は中国語も漢語も読めないので、適当な憶測だが、「多喻旅人」
というのは、おそらく「客鳥」という表現が「旅人」の喩えとして
用いられることが多いということだろう。「外地飛來的鳥」は、
現代の普通の日本語では、「渡(わたり)り鳥(どり)」と呼ばれること
になるのではないかと思うので、「客鳥」は、現代の日本語では、
「渡り鳥」と訳されることになるのだろう。
0607考える名無しさん
垢版 |
2022/05/31(火) 11:11:00.430
ところで、日本語における鳥類の分類としては、「渡(わた)り鳥(どり)」
とは区別されて用いられる「旅(たび)鳥(どり)」という分類があるらしい。

日本大百科全書(ニッポニカ)「旅鳥」の解説
>旅鳥 たびどり transient passage migrant
ある一つの地域でみられる鳥のなかで、毎年規則的にある季節にのみ現れて、
その地域では繁殖も越冬もしないものをいう。旅鳥は、普通は春と秋、
またはその片方だけに出現する。
[浦本昌紀]<
0608考える名無しさん
垢版 |
2022/05/31(火) 11:26:33.570
>「客鳥」は、現代の日本語では、「渡り鳥」と訳されることになるのだろう。

このように指摘したが、「渡り鳥」の「渡(わた)り」という表現は、元の
漢語の「客」が表現しているイメージにそれほどうまく対応しているわけではない。
無論、「渡(わた)り」は、古くからよく、「離れたところから渡って来る」ことを
想起させるように用いらてきたわけだが、その意味の中核は、「距離をまたぐ」
ことにあるのであって、「渡り鳥」は、「客」のように訪れないで「上空を渡り
ゆく」だけでも、「渡り鳥」であることに違いはない。これに対して、「客鳥」
という表現の方は、明らかに「客のように飛来してきて一時的に留まる」
イメージを想起させるはずである。そのように考えた場合、日本語ので鳥類
の分類に用いられる「旅(たび)鳥(どり)」という表現の方が、漢語の「客鳥」
にうまく対応していると言える。私は、この「旅(たび)鳥(どり)」という表現
がいつからどのように用いられるようになったものなのか知らないが、
この表現における「旅(たび)」の用法は、古語の日本語の「たび(客)」
の用法をそのままうまく受け継いでいる/反映していると見ることができる。
0610客/旅(たび)鳥(どり)のように行き来する
垢版 |
2022/05/31(火) 11:36:17.280
vogelfrei
Etymology
15th century, from Vogel (“bird”) +‎ frei (“free”). The earliest use was of
persons who were free from feudal obligation and thus enjoyed freedom
of movement. It seems plausible that the use for “outlawed” may be
based on this, in the sense that the outlaw is forced ever to move from
place to place.
0611外れ者
垢版 |
2022/06/01(水) 07:55:29.970
ドイツ語の»Vogelfreiheit«は、日本語としては、
「たび(客/旅)『どり(鳥)』のように『ゆ(往』く『つれない身』としてある」
ことになることを表現しているものと解釈することができる。そのように
理解すると、万葉集において「『たび(客/旅)』にある」ことを形容する
決まり文句として詠まれる「草枕(くさまくら)」が、案外、ドイツ語の
»vogelfrei«によって想起されるイメージと近い感覚を伝へようとしている
ことが分かる。「たび(客/旅」の途中で命を落とした人の姿を見て詠まれた
次の歌は、その「草枕」のイメージの応用である。

万葉集 第13巻 3336番
鳥が音の 聞こゆる海に 高山を 隔てになして 沖つ藻を 枕になし
ひむし羽の 衣だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は
母父に 愛子にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言伝てむやと 家問へば
家をも告らず 名を問へど 名だにも告らず 泣く子なす 言だにとはず
思へども 悲しきものは 世間にぞある 世間にぞある
0612考える名無しさん
垢版 |
2022/06/01(水) 09:58:51.080
»vogelfrei«を日本語のサイトで検索すると、以下の辞書の記載がヒットする。
>vo・gel•frei, [fóːɡəlfraI]
>[形] (付)(述)〔歴史〕 法の保護を奪われた,アウトローの.
出典 プログレッシブ 独和辞典

私自身はTwitterのアカウントをもっていないが、以前にTwitterを眺めていると、
辞書を引かず、きちんとした教師の指導を受けることなく外国語を読んで
分かったつもりでいると、例えば、ドイツ語で»vogelfrei«は、
「法の保護を奪われた」を意味するように用いられているのに、それを
「鳥のように自由」として完全に間違って理解してしまうようなことがある
のでとても危ういといったような「助言」を見かけたことがある。
私自身は、既に述べたとおり、まともに学習したこともない言語で書かれた
外国の本をまるで辞書を引くことなく「読んでいるつもりで目を通す」ことを
習慣としているので、そのような「助言」に、「月明かりのない暗い夜道
を歩くときには、せいぜい気を付けることだな」といった類の「助言」
だか「忠告」だかよく分からない言葉をかけられるのに似た「気味の悪さ」
を覚えたものである。しかし、私は、そのような「助言」は、それを
その言葉通りに「善意」として受け取るとしても、正直に言わせてもらえば、
とても「浅はか」だと思う。
0613考える名無しさん
垢版 |
2022/06/01(水) 10:21:55.410
なぜそのような考え方が「浅はか」であると思うのかといえば、それは、
そのような「助言」に従うことによって導かれるのが、»vogelfrei«という
ドイツ語の表現に「法の保護を奪われた」という日本語の表現を「自動的/
機械的に対応させることを覚える」ことに他ならないからである。
その結果、»vogelfrei«という表現が、「法の保護を奪われた」
といった文脈で用いられている場合、確かにそれを「正しく訳す」ことが
できるようになるだろう。しかし、そのように「正しく訳す」ことを何度、
繰り返したところで、ドイツ語の»vogelfrei«が表現として想起させる
イメージが、日本語の「草枕」が想起させるものと類似していることなど、
まったく思いも寄らないということになり、それどころか、その類似性
を明示的に指摘されても、何がどのように類似していると指摘しているのか
見当もつかないということになる。そのような結果に導かれることは、
»vogelfrei«に「法の保護を奪われた」という日本語訳が対応するという
説明に対する反応として、(「鳥の自由」と直訳できる)»vogelfrei«が
「法の保護を奪われた」という意味になるなんて「日本(語)の常識と
はまったく考え方が違う」といったような感想がそのまま受け入れられ
ていたことにもはっきりと見てとることができる。
0614考える名無しさん
垢版 |
2022/06/01(水) 10:40:57.090
簡単なことを長々と説明することはやめておこう。
>ドイツ語の»Vogelfreiheit«は、日本語としては、
「たび(客/旅)『どり(鳥)』のように『ゆ(往)』く『つれない身』としてある」
ことになることを表現しているものと解釈することができる<

ここで「ゆ」くの「ゆ」には、「往」の漢字を当てたが、この場合も、もともと
中国語の表現を流用したものであると考えられる日本語としての「ゆ」は、
古語の「〜ゆ(由)」の「ゆ」、「自由」の「由」と同じものである。
したがって、ドイツ語の»vogelfrei«に「たび(客/旅)どり(鳥)のようにゆ(由)く」
を対応させた場合、違っているのは、ドイツ語の表現では暗黙の前提と
なっている「たび(客/旅)」が省略されているか否かだけということになり、
そのように「つれない身」であるという感覚は、万葉集の時代の日本語に
おいてであれ、現代の日本語においてであれ、そのまま通用するものであり、
何らドイツ語の表現に限定されるものではない。

言語表現の意味を理解しようとするのに辞書の記載による説明と対応関係に
ばかり拘っている人は、言葉の意味とは、或る言葉と別の言葉の自動的/
機械的な対応関係を確定することだと思い込んでいる。しかし、
言語表現の意味を適切に解釈するとは、そのようなことではなく、
言葉による表現を手掛かりとして利用して、自らにとっての世界の在り方を
探求して、手応えを探り当てることなのである。
0616考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:08:52.140
「梅を『をく』」という表現において用いられる日本語の古語の「をく」
という動詞は、それを日本語の別の言葉でメタ言語的に説明することが
必要とされるにしても、まずは、ドイツ語の»hervorrufen«に対応する
ものと考えると、とても分かりやすい。

her・vor|ru・fen*, [..ruːfən]
[動] (200) (他) (h)
❶ ((j4))(…4を)呼び出す;(演奏者・俳優など4に)カーテンコールをする.
❷ ((et4))(ある結果4を)呼び〈引き〉起こす
Empörung hervorrufen\憤激を招く.
出典 プログレッシブ 独和辞典
0617考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:20:43.270
>>611
万葉集 第13巻 3343番
>浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
0618考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:45:38.450
>>616
そのような解釈の妥当性は、それを実際に言語表現として適用してみることで
直ちに検証することができる。

言語表現において発音はまずなによりも、発話の意にそ(沿)ふような
感性の働き「を」「をく」/»hervorrufen«ためにつか(使/仕)はれる。
0619考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:48:39.010
死者を蘇らせることはできないが、死語に働いていたはずの感性を
妥当な解釈を通じて呼び覚ますことにより、死語を蘇らせることはできる。
0620考える名無しさん
垢版 |
2022/06/02(木) 15:58:01.770
だからこそ、新たに古文書を発見するまでもなく、既に残されている言語表現を
よりよく分かるように解釈しようとする試みは、歴史修正主義の批判などを
持ち出すまでもなく、本来的に「ゆゆ(忌々/由々)しき」ふるま(振舞)ひである。
0621神し恨めし
垢版 |
2022/06/03(金) 08:57:36.460
>>611
第13巻 3346番
>見欲しきは 雲居に見ゆる うるはしき 鳥羽の松原 童ども いざわ出で見む
こと放けば 国に放けなむ こと放けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし
草枕 この旅の日に 妻放くべしや
0622考える名無しさん
垢版 |
2022/06/03(金) 09:23:22.560
>>617
>浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも

これは、入り江の浜の波打ち際に屍(しかばね)が横たわっている
情景を詠んだ歌である。この歌の表現に働いている感性の論理は、
次のようなものだろうと私には思える。

入り江の浜の波打ち際に(死体として)横たわっている君が(=)
家路を知らない旅人であるとすれば、(それを目にしながら
通り過ぎる)旅人である我は、(我も家路を知らないとすれば)
君であり得る存在である。
0623考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 07:52:33.080
>>597
>「たび」という表現が想起させるのは、「その都度の到着地点における『借りの滞在』」

万葉集 第20巻 4348番
>たらちねの母を別れてまこと我れ旅の仮廬に安く寝むかも
0624考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 09:38:10.430
ゲーテの著作のドイツ語の原書に目を通していて、そこに見られる表現から
ふと日本語の古語の不明な表現の可能な解釈が思い浮かんだ。その日本語の
古語の表現というのが、上に引用した万葉集の歌にも詠まれている
「たらちねの」である。その解釈が妥当なものであるかどうかは別として、
なぜ、私がまともに学んだことすらないドイツ語の表現を見て、直接には
何の関係もない日本語の古語の表現の解釈を思い浮かべることになるのか、
その連想のプロセスそのものが、私にとってはごく自然に感じられる、
言語表現の解釈を探求する手続きの具体例となるので、それを詳しく
記述してみよう。
0625考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 10:00:02.640
当該のゲーテの著作とは、"Dichtung und Wahrheit"であり、この著作は、
『詩と真実』として日本語に訳されている。私は、以前にこの『詩と真実』
を岩波文庫で読み通したことがあるので、その訳文は覚えていないものの、
どのようなことが書かれていたかについてはある程度の記憶が残っている。
したがって、この場合は(いつものことではない)、ドイツ語の原文に「目を
通している」と言っても、ドイツ語で書かれた内容についてまったく何の
手がかりもない状態でそれを眺めているわけではない。ただし、私は、
ドイツ語については、辞書というより、初心者用の英語−ドイツ語の
基礎語彙集としてのとても小さなポケット辞書を所持しているだけで、
それ以外に辞書を所有していない。また、インターネット上でドイツ語の
無料の辞書を利用することは可能だが、そのような辞書を検索しながら
ドイツ語の原文を読んでいるわけではない。

断っておくが、私は、ドイツ語を学習するのに他人がそのような方法を真似る
べきだなどと主張しているのではなく、ただ単に事実を述べているだけである。
ドイツ語をまともに身に付けたいなら、利用できる辞書が手元にあることが
望ましく、分からないと感じたことは、辞書であれ、ネット検索であれ、
何でも利用して、片っ端から調べた方が良いことは言うまでもない。
ただし、私は、辞書に記載される表現の対応関係を暗記するような学習法が、
表現の適切な解釈を導き出すのに役に立たないだろうという見解をもって
いることに変わりはない。
0626考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 10:15:14.060
さて、私がそれを見て、「たらちねの」という日本語の古語の表現の
解釈をふと思い浮かべた、ゲーテの"Dichtung und Wahrheit"で用いられている
表現であるが、それは次のとおりだ。

>Mein Freund ließ mich ungern in dieser Einseitigkeit hingehen, von der
er mich nicht abzuziehen vermochte: denn ohngeachtet seiner
mannigfaltigen Studien wußte er doch die Hauptfrage nicht
ins Enge zu bringen.<
Quelle: Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden.
Band 9, Hamburg 1948 ff, S. 217-258.

誰がどうみても、ここに書かれていることは、「たらちねの」とはまったく
無関係である。では、この文の何が「たらちねの」の解釈を私に思い浮かべさせる
ことになったのか。それは、この文中の»ins Enge zu bringen«という表現
であり、より詳細には、この表現が、「たら『ち』ねの」の「ち」を含め、
「『ち』はやふる」、「『ち・ち』(父)」、「ち(血)」、「ち(乳)」、
「『ち』から(力)」、「いの『ち』(命)」、「こ『ち』ら」、「こ『ち』(東風)」
などで用いられる「ち」の発音によって想起されることになるイメージを
メタ言語的に記述するのにとてもうまく適合するように私には感じられたことである。
0627考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 10:42:48.190
私は、引用したドイツ語の文が日本語訳においてどのように訳されていたのか
覚えていない。また、それをどのように訳すことが適切であるのか、私自身、
よく判断がついているわけではない。それでも、自分が知っている英語の
表現からの類推により、»ins Enge zu bringen«の»ins«の»in«を"in"に、
»Enge«を"England"や"angle"に、»zu«を"to"に、»bringen«を"bring"
に関係付けて解釈しようとすることができる。そして、その解釈によって
もたらされるイメージは、それほど大きくずれたものではないだろうことを
当てにしている。では、その程度のいい加減な解釈によってもたらされる
イメージが、なぜ日本語において「ち」の発音によって想起させられる
イメージとうまく対応するように私に感じられるのだろうか。ここで
留意してもらいたいのは、私は、そのような感じ方を、「私という個人に
特有の感性によるもの」であるなどとはまったく考えていないことである。

そこで、»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係が想起される理由
を反省してみると、私が、「ち」という発音によって想起されるイメージ
を、それを一文字の漢字で置き換えるなら、「注(ちゅう)」によって代表
され得るようなものとして捉えていることに気づく。私は、最近は、
日本語の語源を探るのに、よく中国語辞典や漢詞辞典なども参照するが、
中国語ができるわけでも、漢文が読めるわけでもないので、専ら現代の
日本語において使われる漢字の用法とその発音を手掛かりに、
中国語辞典や漢詞辞典を参照している。「ち」の場合には、その語源を
「注」の発音の流用に求めることができるといったようなことを主張
したいわけではない(ただし、可能性自体は否定しない)が、このように
「ち」の発音から、日本語において漢字として用いられる「注(ちゅう)」
を想起するようなことは、私にとっては、いつもの連想パターンの
一部である。
0628考える名無しさん
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2022/06/04(土) 10:52:48.040
ここで、»ins Enge zu bringen«を辞書で検索しても、またそれがどのように
訳されるのか、それに対応する訳文を検索しても、ヒットはなかった。
その代わりとして、記述がヒットする。
Deutsches Worterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm: ...
1862
... studien waste er doch die 4 ) in die enge treiben ,
in angustum cogere ( vgl . das stärhauptfrage nicht ins enge zu bringen
( zu concentrieren ) .
0629考える名無しさん
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2022/06/04(土) 10:57:55.390
では、「注(ちゅう)」の方は、どうだろうか。Wiktionaryを参照してみる。

1. to pour into; to fill
注射 ― zhùshè ― injection
注入 ― zhùrù ― to pour into
2. to concentrate; to pay attention
注視 / 注视 ― zhùshì ― to look attentively
專注 / 专注 ― zhuānzhù ― to concentrate completely
注意 ― zhùyì ― to pay attention
3. (gambling) stake
賭注 / 赌注 ― dǔzhù ― stake

注 - ウィクショナリー日本語版
意義編集 · (水などの液体を)そそぐ。 注水、注入 · 意識などを集中させる。
注意、注目、注視 · (註の代用字)書きとめる。 注記(←註記)、注文(←註文) ..
0630考える名無しさん
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2022/06/04(土) 11:14:38.080
このように見てくると、日本語において「ち」によって想起させられる
イメージを「注(ちゅう)」によって代表させることが可能であるとするなら、
その「注(ちゅう)」に媒介させることにより、
»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係を想定しても
よいように私には感じられる。実際、日本語で「ち」を発音するとき、
その行為は、自らが吐く息を»ins Enge zu bringen«として記述できる
ようなものとなっていないだろうか。

さて、問題は、そのような「いい加減な」対応関係を想定することにより、
「たらちねの」という古語の表現がどのように解釈されることになるか
である。その適切な解釈は、この表現の用法を離れてはもたらされ得ない
はずなのだから、「たらちねの」の「ち」も、ドイツ語の
»ins Enge zu bringen«に対応すると考えるだけで済ませるわけにはいかない。
0631考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 11:32:50.050
ところで、岩波古語辞典で「ちか(盟/誓)ひ」の項目を引くと、
>日本語のチカヒも「血交ひ」に起源をもつという。
と記載されている。しかし、「『ち』かひ」の「ち」が「血(ち)」の「ち」
と共通であり、「ちかひ」が「血」を想起させたとしても、より一般的に
日本語の「ち」が»ins Enge zu bringen«に対応すると考えるなら、
「ち」を「血」に限定することなく、
「ちか(盟/誓)ふ」⇔»ein anderen ins Enge zu bringen«のように
解釈しても問題はないのではないかと私には思える。
0632考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 14:06:44.750
万葉集 第11巻 2364番
>原文 玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
>訓読 玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ

「たらちねの」という表現において、語義が不明であると考えられているのは、
「〜の」を除く「たらちね」であるが、万葉集には「たらちね」に直接に関連する
表現として「たらち・し」があること、また、「たらちね」から、「たらち・め」、
「たらち・を」という表現が派生させられているから考えて、「たらちね」は、
「たらち・ね」と分けることが可能であるものと意識されたことは間違いないだろう。
さらに、万葉集では「たらち」に様々な漢字が万葉仮名として当てられるが、
「多良知祢」のように1つの音節に1つの漢字が当てられるのではない場合、
「たら・ち」の「たら」には、「垂(たら)」または「足(たら)」が当てられている。
0633考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 14:22:07.450
したがって、「たら・ち」の「たら」は、「垂(たら)」もしくは「足(たら)」
という作用としてイメージされていた可能性が考えられるわけだが、ここで、
「たら・ち」を、そのように「たら(垂/足)ち」としてイメージされたものと
想定すると、私にはすぐに連想される和製漢語がある。それは、
「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」である。Wikipedieaの「本地垂迹」の項目には、
以下のとおり記載される。
>仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道の八百万の神々は、
実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた
権現(ごんげん)であるとする考えである。<
0634考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 14:28:28.580
「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という表現は、「本地(ほんぢ」と
「垂迹(すいぢゃく)」から構成されるとされ、Wikipediaには、さらに
次のように説明される。
>本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れる
という意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのもの
である法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。
また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、
仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。 <
0635考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 14:58:50.650
私は、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という考え方についての詳細や、
歴史上の文献に基づく研究についてまったく知らない。しかし、「矛の
先」(私には、「茅(ち)」が想起される)から「しほ」を「た(垂)らす」こと
によって、島が「自ずと生成される」というエピソードは、『古事記』にも
見られ、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」も基本的には、英語で表現するなら、
"bring into being"を表現しているのだろうと思われる。

ところで、「本地垂迹(ほんぢすいぢゃく)」という表現と、上に引用した
万葉集の歌
>玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
を比べて見ると、「地」を「ぢ」はたは「つ『ち』」として見るならば、
「乳(ち)」との重なりが意識されるほか、「玉垂」(古語において「たま」は、
つねに「魂(たま)」を想起させるものでもある)と「垂迹」において「垂」
が重なっていることとともに、「垂迹」の「迹」と「風跡」の「迹/跡」が
重なっていることも私には意識される。
0636考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 15:31:50.480
あまり長くなっても、「たらちねの」という表現についての私の連想による
解釈がどのようなものであるのか分かりにくくなってしまうだけなので、
省略しよう。

>たまだれの をすのすけきに いりかよひこね たらちねの ははがとはさば
かぜとまをさむ<

私には、この歌は、「たらちねの」という表現によって伝わるイメージを
うまく逆手にとって利用しているように思える。「たら・ち」の「ち」に
よって想起されるイメージが、ドイツ語の»ins Enge zu bringen«に
それなりに対応するものとしてメタ言語的に記述されるものと考えたとして、
「たら」が「垂(たら)」であるのか、「足(たら)」であるのかを確定しよう
とすることには、あまり意味がないだろう。なぜなら、このような言語
表現は、掛詞による解釈の多重性を利用することを最初から意図している
からである。私により重要であると思えるのが、「垂(たら)」であれ、
「足(たら)」であれ、それが「何かを生じさせる行為の様態」として
イメージされているだろうことである。現代の日本語でも「血(ち)を分けた兄弟」
という表現はよく用いられるが、「たらちねの」は、「ち(『いのち(命)』、
『ちから(力)』、『ち(血)』、『ち(乳)』の『ち』)」を「た(垂/足)ら」す
ように我が身に「注(そそぎ)ぎ込む」/»ins Enge zu bringen«ことによって
我が身を存在させた/"brought into being"のが「たらちねの」母であり、
父であり、親ではないのか、というのが私の推測である。現代語でも
「心血を注ぐ」という表現がある。
0637考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 15:54:52.230
私には、上の歌において、「入通来根」と「足乳根之」は、表現として
意識的に対比させられているように見える。万葉集において「たらちねの
はは」が詠まれている歌にひととおり目をとおして見るといい。
母親は、単に子供を「見守る」存在として捉えられているのではなく、
一瞬の「隙もなく」/»eng«、我が子の振舞いひに注意を向けている
存在として認識されている。上の歌は、そのように母親の注意が
向けられている子である女性の立場から詠まれた歌である。
男性が自分のところに通ってくるのに、「玉垂の小簾のすけきに
入り通ひ来」る「風」のように振る舞ふ必要があるのは、「たらちねの
はは」が「我が身」に対して、極めて緊密な/»eng«である関係にある
からに他ならず、そうであるのは、「我が身」そのものが(母)親との関係に
おいて、そもそもそのように生成されているものであるからである。
0638考える名無しさん
垢版 |
2022/06/04(土) 16:37:51.550
ゲーテの著作のドイツ語の原書に目を通していて、私に連想された日本語の古語の
解釈について長々と、その連想のプロセスを記述してきたが、これによって
私の「たらちねの」という表現の意味解釈の妥当性が検証されたなどとは
言っていないことに注意してもらいたい。
0640考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 00:11:02.010
日本語の古語の「たらちねの」という表現が伝える緊密さは、案外、
パウル・ツェランの「テネブレ」という詩が表現する近さの感覚と近いのではないかという気もする。
Paul Celan ‘Tenebrae’

Nah sind wir, Herr,
nahe und greifbar.
Gegriffen schon, Herr,
ineinander verkrallt, als wär
der Leib eines jeden von uns
dein Leib, Herr.
Bete, Herr,
bete zu uns,
wir sind nah.
Windschief gingen wir hin,
gingen wir hin, uns zu bücken
nach Mulde und Maar.
Zur Tränke gingen wir, Herr.
Es war Blut, es war,
was du vergossen, Herr.
Es glänzte.
Es warf uns dein Bild in die Augen, Herr.
Augen und Mund stehn so offen und leer, Herr.
Wir haben getrunken, Herr.
Das Blut und das Bild, das im Blut war, Herr.
Bete, Herr.
Wir sind nah.
0641考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 09:16:02.610
>たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)り
いぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして
巻十二 二九九一番歌

>「たらちね」の語義は不詳ですが、監視者である母に多用される形容で
あることが指摘されています。
この歌はそんな監視の目が厳しくて恋人に逢うことができなかったの
でしょうか。「いぶせく」すなわち胸のなかが煙でいぶされたように、
心がふさがれて晴れない心理状態にある、恋の辛さを詠んだ一首です。
(本文 万葉文化館 小倉久美子)
0643考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 10:29:28.450
ところで、現代の日本語に「『て(手)しお』にかけて育てた」という慣用句が
あるが、「て(手)『しお』」は、本来は、「て(手)『しほ』」と表記される
べきものであり、「しほ」が表現しているのは、「塩」ではなく、
「喜びも『ひとしお』である」と表現されるときの「しほ」、つまり、
漢字としては「入」が当てられてきた「しほ」だろう。

ひと−しほ 【一入】
学研全訳古語辞典
[一]名詞
染め物を、一回染め汁に浸すこと。
[二]副詞
一段と。いっそう。
出典古今集 春上
「常磐(ときは)なる松の緑も春来れば今ひとしほの色まさりけり」
0644考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 10:42:47.540
この場合、「しほ」に「入」という漢字が当てられていることにも
明白に見てとることができるとおり、「しほ」は、「『し』み入っている」
ことを表現している。そのように考えと、現代の日本語では、まず
なによりも物象化された調味料としての「塩(しほ)」を想起させる、
名詞として用いられる「しほ(塩/汐/潮)」という表現そのものが、
「し・ふ」という再帰表現、すなわち、「自ずと『し(浸)』み入る」
作用を表現する動詞から派生させらたものではないかと推測される。
0645考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 10:56:38.010
つまり、「しほ(入/塩/汐/潮)」とは、英語を用いてメタ言語的に
記述するなら"let-oneself-in"である。

このことは、槍の穂を柄に接合する部分である「しほくび(潮頸・塩首・入首)」
の構造を画像検索で確認することによっても検証することができるだろう。

精選版 日本国語大辞典「潮頸・塩首・入首」の解説
>しお‐くび しほ‥【潮頸・塩首・入首】
〘名〙 槍(やり)の穂先と柄が接した部分。けらくび。ほくび。
※言継卿記‐天文二年(1533)一一月四日「予鑓之さや袋
さかわに口、塩頸、青貝等之事、沢路へ申付候了」
0646考える名無しさん
垢版 |
2022/06/05(日) 11:14:10.530
このような簡単なことにあらためて気づいたとき、私が喜びに浸っている
わけではない。むしろ、私は、それを「とても残念なこと」と感じざるを
得ない。なぜなら、私は、日本語を研究してきた専門の国語学者や
言語学者がこの程度の簡単なことにこれまで気づくことがなかったなど
ということは、あり得ないと確信しているからである。ここにある
大きな問題は逆に、なぜ、その「気づかない状態を正常化する」
ために多くの専門家が、私には「常軌を逸していると感じられる」ほどの
多大な労力は日々費やしているのかである。
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