「この甲斐性なし!」という日本語の罵りの言葉を英語に訳すとしたら、 どのように表現するだろうか。「甲斐性なし」をネットの辞書で検索 すれば、いくらでも候補として提示される訳語はヒットする。しかし、 では、それらの候補とされる英語の表現は、「甲斐性なし」に適切に 対応するものであることはどのように保証されるのか。実際に提示 される英語の表現は、いずれも相手を罵る言葉なので、それなりに 適合しているようにも見えるが、それだけでは、「罵るために使われる 表現であることが共通しているに過ぎない」可能性がある。しかし、 私が上に示したメタ言語的な捉え方によれば、 >「この甲斐性なし!」⇔"You're such a disappointment!" という対応関係を直ちに導くことができ、なおかつ、日本語、英語 それぞれの表現を構成している論理からその妥当性を容易に説明する ことができる。 0557考える名無しさん2022/05/20(金) 07:28:21.190 以下はWikipediaの"Enttäuschung"の項目からの引用
Das zugrundeliegende Verb enttäuschen wurde im 19. Jahrhundert als erfolgreiches Ersatzwort für die aus der französischen Sprache entlehnten Fremdwörter „detrompieren“ (détromper) und „desabusieren“ (désabuser) gebildet.
Es hatte zunächst die positive Bedeutung „aus einer Täuschung herausreißen“, „eines Besseren belehren“, eine Desillusion.
Der negativen Bedeutung von „täuschen“ folgend, entwickelte sich der negative Sinngehalt als „einer Erwartung nicht entsprechen“. 0558考える名無しさん2022/05/20(金) 07:44:43.640 「言葉遊び」という表現を、発言の無効性を非難する否定的な評価として しかつか(仕/使)ふことのできない人々は、»Enttäuschung«についても、 いつでもその片面においてしか捉えることができないだろう。 しかし、理性とは、本来的に感性の働きを節約することに他ならず、 それは、臨機応変に目的に応じて「違いがないものと見做す」ことであり、 「意図的に『まがふ』」ことなのだ。それ故、理性に従ってそのように 「まがふ」ことにしたものを、単に惰性により「違いがないものと見做す」 ことにするならば、手酷い»Enttäuschung«に遭うことになるだろう。 0559考える名無しさん2022/05/20(金) 07:55:24.200 生きることそのものが、試行錯誤による探索活動である。
袖振り合うも他生の縁(そでふりあうもたしょうのえん) 《Vivre c'est le chassé-croisé de ceux qui pourraient être soi-même.》 (勝手な解釈による自己流の仏語作文なので、適切な訳になっているかどうか、 仏文として通用するものとなっているかどうかは知らない) 0560考える名無しさん2022/05/21(土) 07:28:47.820 「互(た・が(交))ひ違(ち・が(交))ひ」だからこそ、その交叉において 触れ合いが生じる。そのような触れ合いの作用点("disappointment"の "appointment"である)が、日本語においては、「か」の発音によって 代表される。 0561考える名無しさん2022/05/21(土) 07:42:16.410 例えば、次の松尾芭蕉の表現を、「漢語」も含め、日本語として用いられる 「か」の発音に注目しながら、読んでみるといい。
>Etymology Borrowed in the 16th century from Middle French toucher (“touch”), from Vulgar Latin *toccāre, *tuccāre (“to beat”). Doublet of touchieren. Compare Italian toccare. < (Wiktionary, "tuschen"の項目から引用) 0564考える名無しさん2022/05/21(土) 10:53:05.350 このように見てくると、日本語の表現を説明するために私が行っている メタ言語的な記述は、何か独特の特殊な手続きではなく、辞書の記載が 通常、同一言語の枠内、またはせいぜい同系統とされる諸言語の枠内 で行っているような記述を、そのような枠組みを離れて、互いに関係 の明らかではない複数の言語の表現を用いて行っているに過ぎないこと が分かるだろう。
これに関連して、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也 」という 表現において、芭蕉がいかにうまく、日本語の「か」の発音を活用しているか についても、気づくはずである。 0584考える名無しさん2022/05/26(木) 10:43:48.540 ↑ 不法侵入 0585考える名無しさん2022/05/26(木) 10:53:54.460 人に休みを与えない 首無しのデブ こいつは何様なんだろう 支配者ごっこでもしてるのかな 0586考える名無しさん2022/05/26(木) 11:58:28.280 passerby as oneself 0587考える名無しさん2022/05/26(木) 12:09:53.400 This is good thing. 0588考える名無しさん2022/05/26(木) 13:18:39.570 人はコンテンツでもなければ イノベーションを産み出すツールでもない 相手の中にそれを探すこと自体が 人間に対する冒涜である 人は想いでしか動かない 0589考える名無しさん2022/05/27(金) 07:54:58.990>>578 >その解釈に根本的な「捉え損ね」が潜んでいるだろう
「捉え損ね」は、表現の語源が明らかとなっている場合にさえ、容易に生じ得る。 例えば、英語の"visitor"の語源をonline etymology dictionaryで検索してみると、 次のように記載されている。 >visit (v.) c. 1200, "come to (a person) to comfort or benefit," from Old French visiter "to visit; inspect, examine; afflict" (12c.) and directly from Latin visitare "to go to see, come to inspect," frequentative of visere "behold, visit" (a person or place), from past participle stem of videre "to see, notice, observe" (from PIE root *weid- "to see"). Originally of the deity, later of pastors and doctors (c. 1300), general sense of "pay a call" is from mid-13c. 0590考える名無しさん2022/05/27(金) 08:22:14.100 "visitor"についてのこの語源説明では、それを「視察する」、「査察する」 といったような文脈で用いられたラテン語の"visitare"に関連付けて、 "visitor"を「視察者」もしくは「査察者」として限定して解釈している。 しかし、そのような限定した解釈は妥当だろうか。無論、"visitare"が そのような文脈で使われた場合、それを「視察者」もしくは「査察者」 として理解することは妥当である。日本語でも、訪れる人を「物見遊山」 の「見物客」とする捉え方がある。しかし、「一見さん」と表現する 場合はどうだろうか。「一見さん」という表現がやはり「見る」行為に 語源を辿ることは間違いないものの、「見る」行為の主体がどちらの側 にあるのかはそれほどはっきりしない。さらに、訪問客を「お見えの方」 と表現する場合にはもやは、「客」は、「見る」行為の主体ではなく、 そこに「見ゆ」存在である。
私はここでなにも、"visitor"の語源としての「見る」行為を、原理的に 「見ゆ」という中動態に戻して解釈すべきであるというようなことを 主張したいわけではない。しかし、この場合も、「見る」行為の主体を 一方的に訪問してくる側に帰するように限定することはできないだろう と思われる。上に引用した"visitor"の語源説明では、"Originally of the deity"と明記されている。するとその場合、やはり、その"deity"を、 「見に来る」存在として捉えるより、訪れて「姿を『見せる』」存在、 もしくは「姿が『見える』」存在、つまり、「お見えになる方」として 捉える方が自然ではないかと私には思われる。 0591考える名無しさん2022/05/28(土) 10:17:52.180 万葉集の歌に詠まれた「たび」には、その多くの事例において「客」と いう漢字が当てられている。だから、現代語の日本語の「旅(たび)」 という表現も、その語源を辿るなら、「客人(きゃくじん/たびびと)」が 「この『たび(度)』はお世話になります」と挨拶するときの「たび(度)」 と同じであると説明したら、人々はどのように反応するだろうか。
人文学系の専門家を含め、その多くは、そんなものはただの語呂合わせ による「言葉遊び」に過ぎず、根拠が不明で何の意味もないと反発する 人が多いのではないだろうか。それでも引き下がらずに、スペイン語で 「接触する」ことを意味する"tocar"という動詞の"tocar (a+人)"という 形で「(人に)番が回る」ことを意味する用法を説明したとしても、 「たび」の"ta"の"t"と"tocar"の"t"の発音が重なっているだけで、 スペイン語と日本語に何の関係があるのかと、多くの人はそのような 説明に対して不満を露わにして、何の理解も示そうとはしないだろう。 0592考える名無しさん2022/05/28(土) 10:31:30.720 ところで、「旅(たび)」に対応する英語の表現はなんだろうか。 「旅」の漢字でWiktionaryの項目を参照すると、日本語の「旅(たび)」に 対応する英語として、以下のように記載されている。 a journey; travel (archaic) a temporary time spent in a place (more specifically) a place where a 神輿 (mikoshi, “portable shrine”) spends a temporary time outside of the 本宮 (hongū, “main shrine building”) during a 祭り (matsuri, “festival”)
また、その語源について、 >May be cognate with 度 (tabi, “the time when something happens”); both terms have the same pitch accent, the same ancient vowel values, and some semantic overlap. < と記載され、私の指摘と同じく(私は、事前にこの記載について知っていた わけではない)「たび(旅)」と「たび(度)」が語源的に関係している可能性が示唆 されているが、その示唆は、これらの表現の発音が重なっているという理由に 依るものにとどまっている。 0593考える名無しさん2022/05/28(土) 10:39:10.460 さらに、この項目では、「旅(たび/りょ)」を用いる熟語がその英訳とともに 次のとおり列挙されている。
したがって、逆に言えば、その表現の用法にどのような限定を加える にせよ、「ツアー」/"tour"が日本語の「たび(旅)」という表現に対応する ことを否認できる日本語の話者はいないはずだろう。 0595考える名無しさん2022/05/28(土) 11:03:09.850 さて、では、ここで"tour"の語源をonline etymology dictionaryで検索して みよう。すると、次のように記載されている。 >tour (n.) c. 1300, "a turn, a shift on duty," from Old French tor, tourn, tourn "a turn, trick, round, circuit, circumference," from torner, tourner "to turn" (see turn (v.)).
もう誰もが気づくはずである。それは、私が既に次のように指摘して いることだ。
>"tocar"という動詞そのものは、俗ラテン語の"*tuccō"に由来するとされ、 手で触れるなどの「接触する」ことを意味するが、 "te toca a ti ― it's your turn"のような用法において、順番として 回って来ること(つまり、日本語の「このたび(度)は〜」に対応する) を意味するように用いられる(Wiktionaryの"tocar"の項目を参照)。<
>(archaic) a temporary time spent in a place (more specifically) a place where a 神輿 (mikoshi, “portable shrine”) spends a temporary time outside of the 本宮 (hongū, “main shrine building”) during a 祭り (matsuri, “festival”)<
このように指摘したが、「渡り鳥」の「渡(わた)り」という表現は、元の 漢語の「客」が表現しているイメージにそれほどうまく対応しているわけではない。 無論、「渡(わた)り」は、古くからよく、「離れたところから渡って来る」ことを 想起させるように用いらてきたわけだが、その意味の中核は、「距離をまたぐ」 ことにあるのであって、「渡り鳥」は、「客」のように訪れないで「上空を渡り ゆく」だけでも、「渡り鳥」であることに違いはない。これに対して、「客鳥」 という表現の方は、明らかに「客のように飛来してきて一時的に留まる」 イメージを想起させるはずである。そのように考えた場合、日本語ので鳥類 の分類に用いられる「旅(たび)鳥(どり)」という表現の方が、漢語の「客鳥」 にうまく対応していると言える。私は、この「旅(たび)鳥(どり)」という表現 がいつからどのように用いられるようになったものなのか知らないが、 この表現における「旅(たび)」の用法は、古語の日本語の「たび(客)」 の用法をそのままうまく受け継いでいる/反映していると見ることができる。 0609考える名無しさん2022/05/31(火) 11:31:37.890 誤:用いらてきた 正:用いられてきた 0610客/旅(たび)鳥(どり)のように行き来する2022/05/31(火) 11:36:17.280 vogelfrei Etymology 15th century, from Vogel (“bird”) + frei (“free”). The earliest use was of persons who were free from feudal obligation and thus enjoyed freedom of movement. It seems plausible that the use for “outlawed” may be based on this, in the sense that the outlaw is forced ever to move from place to place. 0611外れ者2022/06/01(水) 07:55:29.970 ドイツ語の»Vogelfreiheit«は、日本語としては、 「たび(客/旅)『どり(鳥)』のように『ゆ(往』く『つれない身』としてある」 ことになることを表現しているものと解釈することができる。そのように 理解すると、万葉集において「『たび(客/旅)』にある」ことを形容する 決まり文句として詠まれる「草枕(くさまくら)」が、案外、ドイツ語の »vogelfrei«によって想起されるイメージと近い感覚を伝へようとしている ことが分かる。「たび(客/旅」の途中で命を落とした人の姿を見て詠まれた 次の歌は、その「草枕」のイメージの応用である。
>Mein Freund ließ mich ungern in dieser Einseitigkeit hingehen, von der er mich nicht abzuziehen vermochte: denn ohngeachtet seiner mannigfaltigen Studien wußte er doch die Hauptfrage nicht ins Enge zu bringen.< Quelle: Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 9, Hamburg 1948 ff, S. 217-258.
そこで、»ins Enge zu bringen«⇔「ち」という対応関係が想起される理由 を反省してみると、私が、「ち」という発音によって想起されるイメージ を、それを一文字の漢字で置き換えるなら、「注(ちゅう)」によって代表 され得るようなものとして捉えていることに気づく。私は、最近は、 日本語の語源を探るのに、よく中国語辞典や漢詞辞典なども参照するが、 中国語ができるわけでも、漢文が読めるわけでもないので、専ら現代の 日本語において使われる漢字の用法とその発音を手掛かりに、 中国語辞典や漢詞辞典を参照している。「ち」の場合には、その語源を 「注」の発音の流用に求めることができるといったようなことを主張 したいわけではない(ただし、可能性自体は否定しない)が、このように 「ち」の発音から、日本語において漢字として用いられる「注(ちゅう)」 を想起するようなことは、私にとっては、いつもの連想パターンの 一部である。 0628考える名無しさん2022/06/04(土) 10:52:48.040 ここで、»ins Enge zu bringen«を辞書で検索しても、またそれがどのように 訳されるのか、それに対応する訳文を検索しても、ヒットはなかった。 その代わりとして、記述がヒットする。 Deutsches Worterbuch von Jacob Grimm und Wilhelm Grimm: ... 1862 ... studien waste er doch die 4 ) in die enge treiben , in angustum cogere ( vgl . das stärhauptfrage nicht ins enge zu bringen ( zu concentrieren ) . 0629考える名無しさん2022/06/04(土) 10:57:55.390 では、「注(ちゅう)」の方は、どうだろうか。Wiktionaryを参照してみる。 注 1. to pour into; to fill 注射 ― zhùshè ― injection 注入 ― zhùrù ― to pour into 2. to concentrate; to pay attention 注視 / 注视 ― zhùshì ― to look attentively 專注 / 专注 ― zhuānzhù ― to concentrate completely 注意 ― zhùyì ― to pay attention 3. (gambling) stake 賭注 / 赌注 ― dǔzhù ― stake
Nah sind wir, Herr, nahe und greifbar. Gegriffen schon, Herr, ineinander verkrallt, als wär der Leib eines jeden von uns dein Leib, Herr. Bete, Herr, bete zu uns, wir sind nah. Windschief gingen wir hin, gingen wir hin, uns zu bücken nach Mulde und Maar. Zur Tränke gingen wir, Herr. Es war Blut, es war, was du vergossen, Herr. Es glänzte. Es warf uns dein Bild in die Augen, Herr. Augen und Mund stehn so offen und leer, Herr. Wir haben getrunken, Herr. Das Blut und das Bild, das im Blut war, Herr. Bete, Herr. Wir sind nah. 0641考える名無しさん2022/06/05(日) 09:16:02.610 >たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)り いぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして 巻十二 二九九一番歌