また、まとめてみる。

神の主観は主観内主観と言えるのではないか。
そのような神は神そのものではなく、神の現れでしかない。
そのような人間精神の限界をいかに突破するかが問題となる。
一つの突破口はこの現実である。この現実を神の賜物と考える。
神なきモノの世界。それほど、詰まらないものはない。
私は独りだ。しかし、神はいるという留保付きの独りだ。
他者は神的存在である。
というのも、この現実は神の賜物だからである。
この現実は奇蹟に溢れている。

私は、意識のハードプロブレムは擬似問題ではないと考える。
しかし、脳神経系が全てであるという考えには反対である。
あらゆる客体は緩く繋がっており、脳神経系は言わば開放系である。
そして、脳神経系は唯一の意識の座ではないと考える。
客体は神の創造するものであり、私の構成するものである。
再構成と言ってもいいかもしれない。

善悪とは何だろうか。
私は、悪の道を行く。小悪人ではない。大悪人である。
神の摂理を知ろうとすることなど、大悪人にしかできない。
そこから、大善人への一発逆転を狙っているのである。