意識のハードプロブレムの答え22
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1の考え。
客観はある種の主観である。
全ての事物は客観化可能である。
クオリアは「立ち止まり」として客観化可能である。
脳神経系を含む私の客体は、私の主観的意識の精緻な表現である。
そして、他者の意識は存在しない。
仮に存在すれば、それは主体の意識の内側に存在する。
客観的主観を哲学的キマイラと呼ぶ。
主観、意識、クオリア、心、私……
何か一つ「そのようなこと」を示す記号が必要である。
紫外線は人には見えないが、これと指すことはできる。
それを形式的知性と呼ぶ。
純粋な経験的知性を形式的知性は超える。
形式的知性を超える知性は存在しない。
意識のハードプロブレムの答え21
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1658395516/ 客観は主観とは独立に存在できないから
主観的客観をキマイラというのは間違いかな >>78
揺れることは正しいという発想の転換も正しくあり得る。 >>81
哲学的キマイラは、客観的主観です。主観的客観は普通にあります。哲学的キマイラは、哲学的ゾンビに対抗したネタなのですが、ただのネタでは終わらせないつもりです。 >>81
白色と本は相関しています。白色的本はたくさんあります。哲学的キマイラではありません。 >>85
> 白色と本は相関しています。
とは、どういうこと? 不可逆性と非可換性のことだろ、とかいうと
またキマイラになるのかね >>61にもう一言。表現者は私ではないです。表現者は神です。あるいは世界の理と言ってもいいかもしれません。 >>87
本と色は独立ではなく、白い本は多いということです。 >>88
不可逆性と非可換性とは、どういうことでしょうか。重要そうな気がします。 >>91
白色的本はあっても、本的白色はない、
ということですね、(多分) >>92
本的白色はありますよ。本でよく見かける感じの白色のことです。 先程書いたメモ
主観は客観とは独立に存在できるけど、
客観は主観とは独立に存在できないなんて、
非対称性があったりするんかね
でもこの物理ディレクトリ内で主観が存在していることは、
主観が客観とは独立に存在できないということでもあるんかね つまり、
白色的本は、白い本で、
本の内容であったり文章において、
白色の言及がある場合本的白色になる、みたいな どちらかというと、神的悪魔はいても、悪魔的神はいないという感じかな、 脳の器質を認めて、脳が現れると捉える、脳キマイラ。
神の視点を持てないのに、神の器質を認める方がムリ。 >>95
本的白色は表紙に限らないなら、少しクリーム色の白色のことじゃないかな。 >>94
私は、主観と客観は独立ではないと思うよ。ただ、面白い論点だと思う。 >>94に関しては宿題にさせて下さい。いつか答えが閃くかもしれません。 本というのは二つの意味があって、
一つは閉じられた一冊の本、
もう一つは綴じられた一冊の本
ルートによって開かれたi と-i は
二乗することで、本のページをぴったりと閉じ合わせるようにして綴じられる
ちょうど閉じ合わせた本のタイトルを綴るように
>>99
本を脳に、色を意識に言い換えてもいいかも
脳的意識は脳に生じた意識
意識的脳は意識にのぼった脳 >>103
脳的意識と意識的脳の対照はわかりやすいですね。本と虚数の関係は難解でした。 >>105
1: close
-1: open
でいいのでは? >>107
|1| (絶対値1)は、1, -1で、
二乗してルートを取るというのは、
|x|(絶対値x)となって、
xが正のときはx、xが負のときは-xになる
これはよくよく考えるととても良くできてる
絶対値というのは距離と言い換えることもできて、
1と-1の原点からの距離は両方1と言っている
つまりどういうことかというと、
絶対値を取るということは開かれるということ、
二乗してルートを取るというのは閉じられるということ
だと思われる
しかし、i を二乗してルートを取ったらi あるいは-i になる
これはキマイラかもしれない >>103
意識の無い脳は、脳停止?
そして心停止にでもなれば「神」に召されるのだろうか。いずれにしても意識から辿るか、概念から辿るか、神学からは生理学を辿らなかった。
哲学の言語は「わたし」の判断と認識を区分けし、思惟の変遷を比較して、「りんご」を色と形で定義するように、立体的に書き起こすことさ。
神をキマイラにするなど、二次元好きも甚だしい。 >>109
私は、開くという動作は-1を掛けること、閉じるという動作は-1で割ること、だと思った。>>108は深すぎてよくわからない。 >>108
|1| (絶対値1)は、1だわな
|x|=1が、x=1, -1 >>64
私事で恐縮ですが、私としても投稿するにあたっては、
もう少し抽象的なテーマのものを探しました。
例えば「存在とは何か」みたいなかんじのものです。
なお私は5ちゃん初心者なので、自分でスレッドを立ち上げる
という考えはまったくありませんでした。
とにかくイメージ通りのものがあるとは限らず、
とりあえずその頃はこのスレッドが一番いいかんじに思えました。
あともうひとつ、スレ主がこのスレッドを立ち上げた意図として、
ことさら「意識のハードプロブレム」にこだわるつもりがなく、
多様な話題が扱えるゆるいものを想定したということがあります。
私としても物理学や生命論や文明論まではなしを広げたかったので
ちょうど良かったということがあったのでした。
ちなみにスレ主が何故「意識のハードプロブレム」を中心的なテーマとして
据えたのか、以前一度質問をした記憶がありますが、
肝心なその答えは覚えておりません。 >>115
>>61へのレスは分散していますが、とりあえずは>>89は重要だと思います。
このスレッドの名前は、話題を広く取るために付けたと思います。 >>116
スレッド名が「整数論」なら整数論しか話題にできませんが、
「フェルマーの定理の答え」なら何でも話題にできそうじゃないですか。
そういう感じです。 >>66
>脳神経系を含む客体は、主観の精緻な表現である
私の感性では、この部分が「答え」のポイントになりますが、
「脳神経系を含む客体」がいまいちややこしい気がします。
「他者の意識は存在しない」とはなっていますが
その「客体」が時計さんの意識の内側なのか外側なのかが微妙な気がします。
私は内側だということを知っていますが
初見の人には分かりにくいのではないかと思うのです。
私は「答え」という表現をしましたが、漠然とした方向性でいいと思います。
例えば私のこのスレでの印象だと、「その答えは人間には知り得ない」
というのが多数派なんですが、
「1÷0」の答えが「不能」で良いなら、
つまり「意識のハードプロブレム」の答えは「不可知」でもいいと思います。
ただ、それが何故そうなるのかの説明が必要になると私は考えます。
>>75
私の理解もまったく同じです(汎神論は汎心論の変換ミスだと思いますが)
>>76
私としては深堀しているつもりなんですが
要するに失敗しているということだと思います。
不十分なところについてはご指摘いただければと存じます。 >>118
存在するということは、内側に存在することだと考えます。
外側に存在するとしたら、その時点それは内側に変わると考えます。 >>118
「脳神経系を含む客体」は「脳神経系に代表される全ての客体」ということです。 >>117
>何でも話題にできそう
余計なお世話ですけど、あるいは今更ですけど、
私としては、この部分はスレッドを新しくする度に毎回明記していただきたい
くらいの気持ちがあります。
脱線しやすくなりますので、恐縮です。 >>121 追記
この表現はわかりやすいように思いますが、「代表って何?」というツッコミはアリ得ると思います。 >>122
了解です。次のスレッドには書いておこうと思います。 >>123
正:あり得る
誤:アリ得る
何でカタカナになったんだろう…… :) >>116
私の感性では、時計さんの主張の中で>>89は「最重要」
と言って過言でない気さえします。
ちなみに私がそれを知ったのは投稿を始めてからけっこう後のことだった
と記憶しております。 >>126
なるほど。それも>>1に加えます。形式的知性のくだりは要らないかな。意識の謎は知性を越えているという主張に関しての考察ですが。ほとんど誰も主張していないですし。 >>118
多くの現代人は「解釈」という点では、主観の中にあると普通に思ってるんじゃないかな。さらに睡眠中は意識がなくなることから、生物の機能だと考える。だから意識もすべての物事と同じように客観的に「解明」できると考えている。
社会的な行動心理学としては、「わたし」を特別視せず、他人と世界に共存していると考え、いま居る場所で知る行動様式で、他人と関係し、評価し合い、死後も世界は在ると常識する。
だから「わたしの意識もない」と証明して初めて「意識」から「他人の意識はない」と演繹できる。 >>127
ちなみにここで言う「意識の謎」とはどのようなもののことでしょう?
また、「誰も主張していない」というのは
たとえばその問題の重要性みたいなことについてでしょうか、
あるいはズバリその問題の答えについてでしょうか、
私はちょっと見失ったみたいです。 >>129
以前、意識のハードプロブレムは人間の知性の限界を
超えているという説を紹介して下さった方がいたんです。
コリン・マッギンらの提唱する認知的閉鎖というらしいです。
Wikipediaに記事があります。
ただ、賛同する人はあまりおらず立ち消えになりました。
私は面白いなと思いましたから、>>1で軽く触れていたわけです。 「・・」という0次元(超)球面が根源であるとする。
この2つの点を区別するために○●とすれば、単純に、
ψ = α|○> + β|●>
であり、単なる「量子」だ。
量子が根源たる混沌神なのだ。
そうなると、この、われわれの宇宙にある情報量は古典的な1ビットしかない。
プランク定数を2πrであるとすれば、ディラック定数はrである。
このrを存在確率半径と考えるなら...宇宙の解明は完了する。
三次元世界における不確定性原理は、単純に、存在確率半径である。
この半径を下回ると(三次元世界には)存在できない。
さらに考えるなら、この半径がアイデンティティの半径でもあるw 物理学を終わらせるのはホーキングの仕事だったはずだが、
とりあえず、トドメの指し方(ほんとうは「刺す」だが、将棋っぽく)はわかったw >>130 補足
ただ、>>1での触れ方はわかりづらいかもしれません。
最後の一文は、
「形式的知性を超える知性は存在せず、無意味である」
の方がわかりやすいかなと思います。
どちらにしても私は、反-認知的閉鎖の立場を取ります。 >>131
面白いのですが、いつものことながら上手く理解できません。:)
「存在確率半径」を検索してみたのですが、引っかかりませんでした。
「存在確率半径」は超球面さんが考えた概念なのでしょうか。 存在確率半径はわたしの造語です。
在るということは存在確率1であり、
1を半径とした円、球面、超球面が存在確率半径1です。
なんらかのスレッショルド値を超えて「存在」となります。
でもって、これをプランク定数やディラック定数に求めてみると、
こいつが「存在」や「確率」に関係するものであると考えられますw
「空」を「存在」させているのは、存在確率半径であるディラック定数なのです。 >>136
超球面さんが造った言葉なのですね。
説明して頂いて少しイメージできました。
根源は2つの点であり、それぞれ、rと-rという
座標を持っているということでしょうか。
「1を半径とした」というのは間違いですか。
ディラック定数が存在確率半径だと後で述べていますし。 >>137 追記
1を半径とするのは存在確率半径1と書いてありますね。読み落としていました。すみません。 根源となるものは「量子」である。
となれば、相対性理論も「量子」によって作られるw
ま、量子宇宙なのだからあたりまえといえばあたりまえすぎるけどね。
すべての量子は「同じもの」であり、それゆえに量子はひとつしかないといえる。
この量子が(その量子の)主観世界をつくっているとすれば、
主観世界をつくりだす方程式が描けるはずだ。
それは「意識」の方程式でもあり、脳など考えなくてもよいので意識のハードプロブレムは書き直されねばならない。 存在確率半径とは何でしょうか。
何故、2rには量子は存在しないのでしょうか。
また、素粒子には種類はあると思いますが、
すべての量子は同じものであるとはどういうことでしょうか。 >>128
存在について、時計さんの場合、存在は認識されて初めて成立する
という、一方では一般的な考え方に基づき
時計さん自身が経験できない他者の意識は存在していない
というふうに展開されるようです。
この考え方に対して、私には決定的な反論をすることができません。
実際に私にしてみれば、時計さんの意識が実在するということを証明することが
できません。
それに対して私は「私以外にも意識は存在する」と主張していたわけですが、
その根拠は直観的なものです。
私のかんじでは、存在とは、関係を持つことの過程で成立できるものであって
つまり関係のないところ、何かがひとつしかないところでは成立できない
という感覚があります。
意識の中に生じる「表象」は、何らかの関係の過程で生じているのであって、
となるとこちら側に対するあちら側を想定するのが妥当のように思えるのです。
このとき意識はこちら側としてしか成立できませんから
あちら側が本当にあるのかどうかはわかりません。
あちら側はこちら側が絶対に経験できないものということになりますし、
また、あちら側というのがどのようなものなのかもよくわかりませんが、
しかしそのようなものを想定しても、問題が起こるどころか
むしろ認識上では整合するという印象を持ちます。
その印象は絶対的な根拠にはならないかもしれませんが、
「他者の意識は存在する」と言い切っても差し支えはない
とデマカセを言ってもほぼ大丈夫という判断です。
「私以外にも意識は存在する」という主張はデマカセだった
というネタバラシです。 存在確率半径とは確率1のことです。
ブラックホールのシュヴアルツシルト半径のようなもので、
その表面が「存在」という事象の地平線ですw
ディラック定数と同一視できるだろうと考えます。
とすれば、ディラック定数の単位J・sは存在の単位かもしれませんw
「存在」は、エネルギーと時間を持っています。
量子そのものなので、2rに量子はありません。空あるいは空の類似物です。
量子とは物理量の最小単位のことなので、粒子ではありませんよ。 量子は物理量の最小単位なので、すべての量子は同一でなければなりませんw
物理量を現象と言い換えるなら、量子は現象の最小単位です。
事象の最小単位でよいかもしれない。
空類が事象の中心にある。
事象とは空類の表面である。
「事件は、その周りで起きている」の録画をやっと視聴中。
表面には拡がりがあり、「藪の中」となる。 >>142
横ですけど、この機会にせっかくなので、
超球面さんにとって、「物理的である」
というのはどういうことでしょうか。
ちなみに私のかんじとしては、
認識上で物理学的に整合すること、
つまりあくまでも認識上でのことであり
存在の本質ではない印象があります。 >>141
存在を対象の側から描くと存在であり、
主体の側から描くと経験になると言えるかな。
認識はまた別の概念ではないかと思います。
何というか知性が関わってくるように思います。
整合性という観点では、他者の主観は存在するという考えは、
客観的主観という哲学的キマイラが待っています。
>>142
「存在」という事象の地平線ですか。
エネルギーと時間を持つ……
量子は確率的に広がりを持って存在しませんか?
rにいる確率があるなら、2rにいる確率も
ありそうなのですが、どうでしょうか。
量子は物理量の最小単位であるということは、
素粒子よりも小さいということでしょうか。
>>143
と、書いているうちに新しいレスが。
量子は現象、事象の最小単位なのですね。
それでは、素粒子とは何でしょうか。 素粒子は、物質の最小単位ですね。
ということは、「幻想」や「虚構」の最小単位かもしれませんw 例えば、ニュートン力学を使用して惑星の運動を計算する時、
それは事実的であり、幻想的ではありません。
しかし、ニュートン力学自体に揺さぶりをかけることは可能で、
そういう意味では、それは幻想的です。
同じように、コーヒーを飲む時、それを一々幻想だと思っていたら、
コーヒーは飲めませんが、ふとある時、
これは幻想ではないかと考えることはあっていいと思います。
こういう風に幻想と非幻想は共存可能だと思います。 >>147 追記
つまり、何が言いたいかと言うと、
すべては幻想であり、幻想ではないということです。:) その出どころはわからないにしても、
あるのは「情報」ですね。 >>149
経験することを情報を得ることと言い換えて良いのであれば、
情報はどこにでも存在しますね。 主観は情報をモノ・コト・トキとして投影するものですから、
主観あるかぎり情報はあります。 >>151
なるほど。そういう意味ではすべては情報かもしれません。 そう考えると、「主観」は「情報処理システム」ですねぇ。
「意識」=「主観」とすれば、ハードプロブレムが求めるのは「主観」ですね。 >>153
情報処理システムか……
直感とか霊感とか信仰とか、例えば、
そういうものを説明できるのかな。
これもハードな問題ですね。:) 主観とか幻想といったものに
1+1のような加算性は成り立つのか >>155
1+1は神と私です。答えは1です。:) >>156 追記
冗談です。答えは2です。いつか1になるかもしれません。 >>157 追記
寧ろ、1+∞、かもしれません。
何を言っているのかわからなくなってきました。 >>155
今更ですが、1+1のような加算性とはどういうことでしょうか。
多分、主観と主観の加算というものは考えられないと思います。 >>159 訂正
客観的主観はキマイラでした。
主観とキマイラの加算、あるいはキマイラとキマイラの加算ということになります。
自分でも何を言っているのかよくわかりません。:) 主観と主観が同時に成り立たなくても、加法としては記述できます。
この場合パラレルワールドの記述ですねw ほんとつまらない話を自演してまで続けなきゃいけないのって病気だろ🥺 >>160 追記
しかし、全知全能の神は、主観を持つことくらいは容易いかもしれません。
>>161
神のことは留保するとして、私は主体の意識の外側は存在しないと考えます。 >>159 補足
ここの主観と主観は、私の主観と神の主観ということです。
続く>>160では、神でさえキマイラかもしれないと考え、混乱しています。:)
そういう流れです。 >>165 追記
そのような神は神そのものではなく、神の現れでしかない。 >>166 追記
そのような人間精神の限界をいかに突破するかが問題となる。 >>168 追記
このような認識主観限界を突破できないがゆえに自演でぐるぐる回り続けるしかないのが精神病のお前🥺 >>168 追記
一つの突破口はこの現実である。この現実を神の賜物と考える。 >>170 追記
一つの突破口は自演を止めることである🥺
この現実を現実と考える🤔 >>170 追記
神なきモノの世界。それほど、詰まらないものはない。 >>170 追記
他者なきものの世界🌚
それほどつまらないものはない🥺 まとめてみる。
神は主観内主観と言えるのではないか。
そのような神は神そのものではなく、神の現れでしかない。
そのような人間精神の限界をいかに突破するかが問題となる。
一つの突破口はこの現実である。この現実を神の賜物と考える。
神なきモノの世界。それほど、詰まらないものはない。 まとめてみる。
他者はキチガイにとって主観内主観と言えるのではないか。
そのような他者は他者そのものではなく、他者の現れでしかない。
そのような人間認知の限界をいかに突破するかが問題となる。
一つの突破口は自演を止めることである。この現実を孤独と考える。
他者なきモノの世界。それほど、詰まらないものはない。 私は独りだ。しかし、神はいるという留保付きの独りだ。 時計は独りだ🥺しかし、他者はいるという留保付きの自演だ🥺 >>174 訂正
正:神の主観は主観内主観
誤:神は主観内主観 >>174 訂正
正:他者の主観は主観内主観
誤:他者は主観内主観 修正しつつ、さらにまとめてみる。
神の主観は主観内主観と言えるのではないか。
そのような神は神そのものではなく、神の現れでしかない。
そのような人間精神の限界をいかに突破するかが問題となる。
一つの突破口はこの現実である。この現実を神の賜物と考える。
神なきモノの世界。それほど、詰まらないものはない。
私は独りだ。しかし、神はいるという留保付きの独りだ。
他者は神的存在である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています