原始的な交換様式Aの高次元での回復というモチーフはよく理解できる。
実際、古典古代のギリシャは、先進的かつ専制的なアジアの亜周辺として
氏族社会的な未開性があったからこそ民主主義を生み出したのだし、
中世封建制のゲルマンも専制化したローマの亜周辺としての未開性が
自由と平等の近代社会の原動力となったのだ。本書では触れられていないが、
中華帝国の亜周辺の日本のその辺縁から生まれた関東武士も似た位相にあるだろう。
この歴史観はほぼ100%納得できる。


 だが、第4部「社会主義の科学」で熱っぽく論じられる交換様式Dは空回りしている
ように思える。マルクスの弟子達が作り上げた交換様式Bによる最兇最悪の
アジア的専制国家に対し、交換様式Aを復活させようとするユートピア社会主義には
限界がある。だから交換様式Dだというのだが、それはキリスト教などの世界宗教が
根ざしているものだという説明は繰り返されるけれども、具体的なイメージは遂に
最後まで与えられない。もし本書を読んでそれが理解できた人がいるなら教えて欲しい。


 率直に言って、人類は3つの交換様式の間で右往左往していくしかないのではないか。
むしろ、この交換様式こそ絶対に最高最善と信じ込んで、その原理のみに基づいて
社会を構築しようとしたときにこそ、我われは地獄を見るのではないか。
共同性と権力性と市場性をほどほどに調合して騙し騙し運営していくことこそ、
先祖が何回も地獄を見てきた我われ子孫の生きる知恵ではないのだろうか。