たとえば梵我一如は真理です。
たとえば電車の中でみんな携帯を「見ている」
それぞれの人の意識の中に生じている映像は「私(でこすけ)」の一部です。
事象の地平の先も、更には並行宇宙も、すべてが私の精緻な表現です。

しかし私にはそれは超越だと思う、
ここでそんなことを言っても仕方がない気がする、
私は普段は日常にいて、ここ(このスレ)もどちらかといえば日常で、
たとえば意識のハードプロブレムに関心を寄せたりする、
するとこれは日常レベルで考えるべきだと思うわけです。
このとき他者の意識は私の内側なのか外側なのか、
それは客観的にどうなっているのかは私にはわからないけれども
とりあえず私は私に体験できない領域を私の意識の外側と誠に勝手ながら仮定する、
つまり意識の外側という概念は、あくまでも後から決めたことのつもりです。
ただしこれはそこそこみんなに同意してもらえるんじゃないかなと、

で、私の場合それを前提に整合する世界モデルを模索する、
むしろ他者の意識は存在するとしておいたほうが
多くの人の直観に馴染む世界像をつくれる気がする
という流れです。

ちなみに「直観に馴染む世界像」というのは
この世界は意識であったりするもののネットワークだという解釈のことです。
意識は自己完結できる気がしないのです。