無限って証明出来なくね?
宇宙が無限だとしても存在が証明出来るのは観測範囲だけ45787 宇宙の外って空間にしても例え何かの物質の壁だとしても
座標として存在してることは確かだからこの世って無限なんじゃね? 俺も気になってたが、科学的に無限は存在しないが
数学的には存在するんだってよ
あくまでも計算手法の手段としての無限だそうで xが無限に大きくなっていくとき、x^2も無限大に近づくし、x^3も無限大に近づく
x^2/x^3とx^3/x^2はどちらも∞/∞の形をしているが、
実際には前者は0に近づくし、後者は無限大に近づく
同じ∞/∞でも違う
この手のものを不定形と呼び、7パターンほどあります
極端な話、∞/∞の形をしていても、x^10/x^10の極限値は1です 無限大へと引っ張っていく力に強弱があるのでちゃんと計算しましょう、という話ですね ブラックホールとかに無限は存在しないのかな
後宇宙が広がり続けてるなら有限かつ無限は
成立する気がする >>1の疑問はウィトゲンシュタインのクワス算みたいな疑問なのかな?
無限って数学計算上の仮定というか前提のような気がするから
それが存在しないかもしれないという意味がよくわからんな。 宇宙が無限だとしてそれが証明出来るかってだけの話じゃね? >>13
円周率に終わりがない保証は無いけど
1/3=0.33333...これは同じ数字が続く事がわかる
まぁ数字も概念に過ぎないけど 私達の宇宙が有限である事は確実ですが
宇宙内外含めた空間の広さが有限か無限かは
永遠にわかりません
数学の無限は可能性であって
無限が実在するか否かとは別です >>19
消費は違う物理状態への遷移で0じゃあない エネルギー保存則自体が遷移しか無く
増えも減りもしないんだから有限を証明してるだろ >>27
うーん・・・
どう繋がるのか教えてください 此処からの存在は否定されている
此処からは此処までが在るからなのだが、此処からが無いということは此処までもない、つまり有限は存在しないということ 円を考えてみれば
此処からは無いけれども有限ですよね 中心に行くことができない
そのような世界かもしれませんよ 〈ここ〉からが無いから〈ここ〉までもない
有限は自然には存在しない
→自然は無限であることが証明される 終始は人間が自然を理解するから必要なだけ
自然には始まりが無いことを光速度一定の原理は証明した
自然科学は自然認識なんだから、認識論の基本は抑える必要があるんじゃないかな
ウイルスは分類するから分類し難いだけ
生物非生物は物理としては差異であり否定関係じゃあない
他にこんなことはいろいろ在るし
観測問題、不確定性原理、哲学の諸難問、不完全性定理も認識の在り方の問題
自然科学の基本の未解決問題は認識の在り方の問題に収斂するとわたしは理解している 認識器官という物理条件に自然の像は結ぶ
静止、生死は存在しないが認識器官には存在する
認識器官に像を結ばないが自然には存在することもある
地動説は見たものがそのままの自然では無いことを示す
認識の在り方は考察すべきかと 認識器官は生物により違うことも、範囲が違うことも
観たものがそのままの自然ならば諸生物の数だけ自然像はある
それは認識器官に生成する像でありどれが正しいということではない
喩えはわるいが食材が料理法で態様をかえるということ
どれが正しいというわけではない
認識とはという問題意識は必要 自然科学は否定関係と規定していたことが差異であったと示してきた
地球と諸天体
人間、諸生物、金属等を否定で規定していたが物理状態としては差異
静止は運動の一形態
生死は物理状態という観点からは差異であり否定関係ではない
ウイルスは生物非生物と分類困難だが物理状態の差異であり否定関係ではない
分類するから分類困難な対象が産まれる
それは何ら対象の問題ではない
規定するとはどういうことか
わたし、金属、植物を否定関係で規定するが物理として差異
わたしと規定するが産まれてから現在に至るまで大きく変化、この今も同一であることはないが同一のわたしと規定する
これがなにを意味するのかが考えられて良い事かと 次元が在るというのは信じられない
まず0次元が存在しないし
仮に四次元が在ったら静止した三次元が無限にあり、かつ私も無限に在る
そんなのは観測されたことはないし
だれか無限の自然、無限の観測者を観測したことはあるのかな
で無限の観測者を観測した人も無限に存在する
あると証明されたら臍噛んで死にます 有限で規定するが有限は存在しない
~で規定するが~は存在しない
物理として静止、生死は無いが静止、生死で
他にも
此処、座標原点、静止は存在しない
運動は静止で規定される
自然の静止は運動の均衡状態
わたし、家、山、駐車場の自動車、地球・・・すべて運動しているが運動の否定である静止と認識する 運動は普遍
物理の存在形態というか自然の存在形態
運動は静止、つまり有は無で規定する
0に限りなく近いが0では無いという不思議な規定
不確定性原理は測定値が近似値でしかないのだと
いずれも自然はそのままでは、=で認識できないということ
地動説はその嚆矢だろう
これらは認識の在り方を媒介に自然認識は為されるということ
此処からは存在しない
此処、今は運動を静止で規定していること
科学は自然〈認識〉
ならば認識もまた認識すべきかと 対象に静止は存在しない
対象の存在形態は運動で無矛盾
自然ー非自然という否定関係が存在するということは運動ー静止という否定関係が存在するということ
此処から此処までが存在するということ
それは光速度一定の原理の否定
何も生まれない無くならないというエネルギー保存則は物理として生死はないということ
宇宙が誕生するという理解はその否定
どこに物理として生まれたり無くなったりするということが観測されたのか
わたしが、食べ物が無くなるというのはそれぞれ、いや全て違う物理状態の遷移ということでしかない
自然科学は自然〈認識〉 目の前にひろがる自然
そして目も自然の一部
認識器官は自然が生成した
それは物理条件で、自然はそれぞれ認識器官の態様に像を結ぶ
諸生物の認識器官がそのままの自然ならば認識器官の数だけ自然が在ることになる
静止、生死は無いが認識には存在する
またそのまますべてを認識できるわけではない
真空もまた運動している
デイラックの海は真空はエネルギーの基底状態、つまり有の一形態ということを示す
運動を前提に有と無という否定関係は存在しない
認識器官に結ぶ無の像は有の一形態
此処からは存在しない
此処からが存在しないということは此処までもまた
認識論の基礎は考察するべきかと わたしの論は現代科学への提案
十九世紀の学者は、科学者は哲学を軽視するがそのじつ最悪の哲学に囚われていると書いた
自然科学は自然認識という基本に還ることを提案する
ある数学者は最先端からではなく立ち返ることで画期的な理論は産まれることがあると語る
地動説、集合論、原子論などなど
進化論も古代に在ると指摘されている
繰り返します
自然科学は自然〈認識〉なのだから認識論は必須ではないのかと
大前提に還っては如何かと 学問、とりわけ科学が前進するのをみたいだけ
科学革命が展開するのを目撃できればと
現代科学の在り方に疑問を呈する学者はハイゼンベルク、武谷三男氏らがいる
また科学革命が必要だと主張する科学者たち
日本でも九十年代から出現し、立花隆氏は量子力学は新たな理論が必要だとしている
時間非実在論は九十年代に出現、今世紀には入り科学番組、科学雑誌でも特集され、一派をなすまでに
また重力の存在に否定的な科学者が紹介されている
科学は無政府主義でとファイアアーベントは主張する
また素人が専門家の過ちを正すことはしばしばあることだと書く
わたしのがそうだとは言わないが w
もっと自由に! 有限で規定されるが有限は存在しないとわたしは理解する
有限が存在しないことで無限は証明される
静止で規定されるが存在しないことで対象が無矛盾、つまり理解可能であることが示される
規定は否定、つまり対象の否定で規定され、対象には存在しないことで対象は無矛盾であることになるのではと 自然は運動するエネルギーの濃淡が親和反撥して新たな濃淡を生成する過程として在るとわたしは理解しています
此処から此処までは自然が生成した認識器官に生成された像です
淡は真空であり像を結ばず一ではあるが濃淡である自然は認識器官に多として像を結ぶ
運動するエネルギーの濃淡の渦の状態が粒子として像を結ぶ
此処から此処までが無いということは粒子も有限も存在しないということ
物理として何も生まれないし無くならない、宇宙もまた同じ
一である自然を多で規定する、つまり否定で規定する
次元で理解するが次元は存在しない
重力というか諸力も存在しない
重力は運動関係変更に必要なエネルギーであり他の力はある物理状態に生成するエネルギー量となる
自然は一であり無矛盾
濃淡を否定で規定する
ゼノン、カント、ヘーゲル、観測問題、不確定性原理、不完全性定理などはこの観点から解決可能だとわたしは思っている
自然科学は自然認識であり、自己言及だというのがわたしの理解です
対象である自然は無矛盾、可知であるが故に不可知です
有は無で規定されます 科学革命が展開するのを目撃したいのですが
なんか無理そうなんで
わたしのは一試案です
無矛盾だから自己言及、それで決定不能ということに
科学革命は自己言及ではないかと
差異を否定で規定してきた
というか規定は否定
地動説は自己言及
進化論も
光速度一定の原理は静止で運動を規定するが静止は存在しないという、自然とその規定の在り方の自己言及
わたしには科学革命の準備はすでに為されているように映ります
科学者は自然科学は自然認識であり、やはり認識の在り方は多少でも考察すべきではないかと提言する次第です 自然は無限であることを科学は有限の否定によって証明しているというのがわたしの理解です 無限に生きられると思っている人に有限性を理解させるには、人生の選択や経験が実際には限られていることを示すことが効果的です。例えば、レストランでのメニュー選びに例えると、どんなに多くの選択肢があっても、実際には限られた数の料理しか試すことができません。同様に、人生においても、無限の可能性や時間があるように感じるかもしれませんが、実際には一人一人の時間は有限であり、すべてを経験することは不可能です¹。
また、「メメント・モリ(死を想え)」という言葉は、人間がいつか必ず死ぬ有限な存在であり、だからこそ今を楽しむべきだという考えを表しています。この言葉は、人生の有限性を受け入れ、現在の瞬間を大切に生きることの重要性を教えてくれます²。
人生が有限であることを自覚することは、私たちが日々の選択により意味を見出し、充実した生活を送るための重要なステップです。無限に生きられると思っている人には、このような視点から人生の有限性を考える機会を提供することが、彼らの認識を変えるきっかけになるかもしれません³⁴⁵。
ソース: Bing との会話 2024/3/18
(1) 人生の選択〜有限性と無限性〜 | 杉原学の哲学ブログ「独唱し .... https://ameblo.jp/manabook/entry-12654998430.html.
(2) 残り時間を数えるのをやめれば人生は変わる|これからの哲学 .... https://www.gentosha.jp/article/17173/.
(3) 時間も人生も無限と思っていると後悔する。時間も人生も有限 .... https://happylifestyle.com/23850.
(4) 人生を無限と思ってはいけない。人生は有限であることを自覚 .... https://happylifestyle.com/25393.
(5) 人生は、有限だから、素晴らしい。 | 人生に疲れたときの30の .... https://happylifestyle.com/11774.