【人新世】 斎藤幸平 2 【脱成長】
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斎藤幸平(1987年1月31日)は、日本の哲学者、経済思想家、マルクス主義研究者で
ある。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。フンボルト大学哲学博士。
略歴
芝高等学校を卒業後、東京大学理科二類に入学するも3カ月間在籍後、
「フリーマン奨学金」を得てウェズリアン大学へ進学する。
2009年 - ウェズリアン大学政治経済学部を卒業する。
2012年 - ベルリン自由大学哲学科修士課程を修了する。
2014年 - フンボルト大学哲学科に博士論文「Natur gegen Kapital」を提出する。
2015年 - フンボルト大学哲学科博士課程を修了する。
ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー客員研究員
2016年 - 日本学術振興会海外特別研究員・カリフォルニア大学サンタバーバラ校
客員研究員
2017年 - 大阪市立大学大学院経済学研究科准教授
2018年 -「Karl Marx's Ecosocialism: Capital, Nature, and the Unfinished Critique of Political Economy, Monthly Review Press, 2017」により、ドイッチャー記念賞を歴代最年少の31歳で日本人で初めて受賞する。
2020年 -「マルクス経済学のエコロジー的転回に関する研究」で日本学術振興会賞を受賞する。
2021年 - 著書『人新世の「資本論」』で新書大賞を受賞する。
2021年 - 著書『人新世の「資本論」』で韓国のAsia Book Awards
(ABA 아시아북어워드) 2021年優秀図書賞(一般書部門)を受賞する。
2022年 - 東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻准教授
https://twitter.com/koheisaito0131
斎藤幸平
@koheisaito0131
前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1623817701/
【人新世】斎藤幸平【脱成長】
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>571-572
思想の言説では、つねに「べき論」が先に立つので、
「べき論」などまったく無視して実際に「どのようか」
をまず記述しようとする哲学の試みは、「身も蓋もない」
ことを言ふ不埒な振舞ひとして拒絶され、否認される。
しかし、哲学の立場から見れば、そのような拒絶や
否認は、認めたくないものについては、気づかないふり
をすることを貫こうとする現実逃避の姿勢でしかない。 例えば、人が「奴隷」として扱はれる現実があり、
そのことは「奴隷制度」が廃止され、禁止されて
いることになっている国々においても変わらない。
そのような現実に対して、思想系の言説を紡ぐ
人々はまず、そのような現実は「あってはなら
ないこと」であるとし、本来であれば、つまり、
社会の組織化が「正常」に働いているのであれば、
「あるはずのないこと」であると「あらかじめ
規定する」のであり、そのような現実がなぜ
どのように「定常的」に生じているのかを忠実に
記述しようとはしない。 ところで、「奴隷」の売買が制度として成立して
いた社会においては、「奴隷」が売り買ひされる
のは、「奴隷」には「身分がない」からである。
というより、むしろ、「生き物」としては同類で
あるものと認識されるが、「身分がない」または
「身分を失った」とされる者が「奴隷」とされる
と表現した方が適切だろう。
ここで、「身分がない」とは、「人(ひと)としての
身分」がないだけでなく、「身内としての身分」
もないということである。だから、「奴隷」として
「身分がない」者でも、「身請けする」人が
現れたなら、「元奴隷」として扱はれるとしても、
もはや「奴隷」ではなくなるのだ。 この関係性から、おもしろいことに気づく。
それは、愛玩用のペットとされる動物と人との
関係性である。ペットとなる動物は、「奴隷」
のように売り買ひされるが、「奴隷」が「役畜」
のように売り買ひされるのに対して、ペットは、
「役畜」のようには売り買ひされない。
ペットは、むしろ、「身請けする」人が、
代金と引き換へに自分のものとすることが
できる「金で買うことのできる『身内』」であり、
その意味では、「元奴隷」に喩えることの
できる存在者である。だからこそ、
「身請け」されて「金で買うことのできる
『身内』」として世帯で飼われることになった
ペットは、もはや「役畜」のように取引きされる
ことがない。ペットには、「身内としての身分」
がその生涯にわたって保証されるわけではないが、
「身内としての身分」を失ったペットは、さらに
別の人に売られるのではなく、捨てられるか、
殺処分にされるのである。 「身内としての身分」を与へてもらっている方が、
「人(ひと)としての身分」を手に入れるよりも、
楽であるとか、安泰であるとか、理想的であるとは
言へないが、だからといって、「身内としての身分」
を捨てることによって、「人(ひと)としての身分」が
手に入るわけではない。
しかし、「人(ひと)としての身分」を手に入れようと
することは、多くの場合、「身内としての身分」を
放棄することを余儀なくさせ、しかも、
「人(ひと)としての身分」が一時的に手に入った
としても、その身分が保たれる保証はどこにもない。
「身内としての身分」がこのまま継続することが、
生きるに堪えないほど苦痛であるというのであれば、
「人(ひと)としての身分」を得ようと模索する他ない
というだけのことだ。ただし、「人(ひと)としての身分」
自体は、それが手に入ったとしても不毛である。
だから、「人(ひと)としての身分」を手に入れても、
それしかない人の多くは、「金で買うことのできる
『身内』」であるペットを飼うのだ。 哲学するためには、金に関心をもってはならない
といったような類のことを他人に忠告しようとする
人がよくいるが、これは、明白に誤った主張である。
なぜなら、哲学をするためには、むしろ、その
前提として、「奴隷」として生きることを余儀なく
されることがないように、みづから(身づ柄/自ら)を
「身請けする」ことができなければならず、
そのうえで、みづから(身づ柄/自ら)を身内として
飼ひ慣らそうと日々、努めることが必要とされる
からである。 「犬死にする」とは、「身内としての身分」を失ひながら、
「人(ひと)としての身分」を得ることもできないままに命を落とすことである。 頼みにできる身内もなく、孤立無援だったとしても、
「人(ひと)としての身分」を得ることを希求することなく、
他人の「飼い犬」となることで他者よりも優位な「身分」を
みづから(身づ柄/自ら)に確保しようとする者は、
それに成功したとしても、結局は、用済みになれば、
犬のように捨てられることになる可能性が高いことも
覚悟しておく必要があるだろう。
>「そうした悪徳をわれわれが必要としているのだし、この共通の必要性なるものによって、悪という真の性質が捨象されているのだから、それは許容されるべきだというのなら、その役目を、われわれなどより、もっとたくましくて、臆病
ではない市民たちに演じさせるべきだ。彼らならば、祖国を救うために、自分の
命を犠牲にした昔の人々のように、自分たちの名誉も良心も犠牲にするはずだ。
でも、われわれのような弱虫人間は、もっと簡単で、危険の少ない役割を引き
受けるとしよう。公共の利益が、裏切りや、嘘や、殺戮を要求するのであり、
こういう任務は、もっと従順で、柔軟な人々にお任せしようではないか。」
モンテーニュ「エセー6」p.13 宮下志朗訳 >哲学するためには、金に関心をもってはならない
といったような類のことを他人に忠告しようとする
人がよくいる<
このようなことを他人に忠告する者は、間違いなく、
既みづから(身づ柄/自ら)を「身請けする/してもらう」
必要のない「身分」をあらかじめ確保できている
優位な立場にあって、そのことについてまったく無自覚
である(つまり、そのことについては、哲学していない)
者か、あるいは哲学しようとすることが、そのような
「身分」を一時的にでも確保できること、または
不可能な場合には、「仮想」としてでも確保できている
と思ひ為すことを必要とすることにはっきりと気づいて
いながら、その「気づき」を意図的に相手に対する
「ルサンチマン(まがいの)脅迫」として利用する
「飼い犬」かその「主人」である。この後者、つまり、
「飼い犬」かその「主人」である場合、その忠告は、
「それができる『身分』が自分にあると思ひ込んで
いるなら、やってみるがいい。目に物見せてやるから」
ということを暗に意図している。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています