ヨガ哲学
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ヨーガ・スートラ T 三昧の章 1. それでは、ヨーガを教えよう。 2. ヨーガとは心の働きの止滅である。 3. そのとき、見る者はそれ本来の状態にとどまる。 4. その他のときは、心の働きと同一化している。 つまり・・心と身体ではないことは確か^^ 心と身体は見られるものであり見るものではない^^ 見るものが真の自己^^ 4. その他のときは、心の働きと同一化している。 私たちは心の働きと同一化しているためそれに気づけない^^ 見るもの(プルシャ)真の自己 純粋意識=真の自己=精神原理=変化しない 変化しない(不変)=安定=平安 見られるもの(プラクリティ)心・身体 心・身体=物質原理=変化する≅怒・憎しみ= 変化する=不安定=苦 ニルヴァーナ・シャタカム https://youtu.be/Kb2EHT5xq9w 8世紀の偉大な聖者シャンカラチャリヤがアドヴァイタ・ヴェーダンタ(非二元哲学)を6編の詩にまとめました。8歳の男の子が、グル(師匠)をもとめてヒマラヤをさまよっていると、そこに聖者が現れ、"Who are you?" と聞きます。それに対する男の子の答えがこの詩です。そして、この聖者こそが、彼が探し求めていたグルだったのだそうです。 8歳でこの答え、すごいなあ。。 私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。 地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。 私は、5つのプラーナでもなく生命の息でもない。私は、7つの体の部位でもなく、5つの鞘(Kosha)でもない。 私は、会話の器官でも手でも足でもない。生殖器でも肛門でもない。私は、無限の意識、純粋な自己である。 私には好き嫌いもない。強欲、妄想もない。うぬぼれや嫉妬もない。 法や富や快楽や悟りを追い求めることもない。私は無限の意識、純粋な自己である。 私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。 私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。 私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。 教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。 私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。 私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である 真の自己(純粋精神)が心・身体(根本原質)を鑑賞していると・・^^ 真の自己(純粋精神)は見るもの(変化しない) 心・身体(根本原質)は見られるのも(変化する) そう思わない^^? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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