... And now as to myself, no credit is due to me for discovering the existence of classes in modern society or the struggle between them. Long before me bourgeois historians had described the historical development of this class struggle and bourgeois economists, the economic economy of the classes. What I did that was new was to prove: (1) that the existence of classes is only bound up with particular historical phases in the development of production (historische Entwicklungsphasen der Production), (2) that the class struggle necessarily leads to the dictatorship of the proletariat,[1] (3) that this dictatorship itself only constitutes the transition to the abolition of all classes and to a classless society . Ignorant louts like Heinzen, who deny not merely the class struggle but even the existence of classes, only prove that, despite all their blood-curdling yelps and the humanitarian airs they give themselves, they regard the social conditions under which the bourgeoisie rules as the final product, the non plus ultra [highest point attainable] of history, and that they are only the servants of the bourgeoisie. And the less these louts realize the greatness and transient necessity of the bourgeois regime itself the more disgusting is their servitude.... 0117考える名無しさん2024/05/04(土) 01:02:58.240>>115 幻想的な共同性www 幻想なんて書いてねーじゃん自殺しとけ脳障害wwww 0118考える名無しさん2024/05/04(土) 01:03:38.050>>115 英語で引用しろよ猿 英語読めないのか?ん? 0119考える名無しさん2024/05/04(土) 01:06:00.920>>116 これのどこが、共産主義とか愛国とかに関係するの?
5.哲学の限界と科学の重要性(1920年代~) 1920年代以降、哲学的な仮定の正しさを論理的に証明する方法は存在しないことが明らかになりました。 アイディアの正しさを決める方法は、現実との比較(実験)しかありません。 つまり、正しさを決める方法は科学しかあり得ないことがわかります。 0179考える名無しさん2024/05/07(火) 18:33:45.530 これらの出来事により、20世紀初頭から哲学は大きな転換期を迎えました。1902年のラッセルのパラドックス発見以降、哲学者を名乗った時点で不勉強な無知または詐欺師であることは確定しており、賢い哲学者というのは論理的に存在不可能であるとされています。 ウィトゲンシュタインの主要な著作である1921年の「論理哲学論考」では、哲学は論理学の誤用から生まれた無意味な妄想であると論じ、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と結論付けています。 また、1953年に出版された「哲学探究」では、哲学は言葉の使い方の誤りから生じる妄想であるため、その誤りを防止するために言語の誤用を研究する必要があると主張しています。 1931年のゲーデルの不完全性定理は、ある仮定の正しさをその仮定から導くことは不可能であることを証明しました。 一方、哲学はある仮定の正しさをその仮定から導くことができるという妄想に基づいています。 0180考える名無しさん2024/05/07(火) 19:12:09.070 などと哲学を語っております。 0181考える名無しさん2024/05/07(火) 19:31:32.610 ただの証明された歴史 0182考える名無しさん2024/05/08(水) 19:24:14.670 と称して哲学を語っております。 0183考える名無しさん2024/05/08(水) 20:58:28.750>>182 証明済みの歴史しか書かれてない 0184考える名無しさん2024/05/08(水) 20:58:43.200 6.哲学の滅亡(1930年代~現在) 1930年代以降、哲学は完全に滅亡したと言えます。ウィトゲンシュタインやゲーデルの業績により、哲学が論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想に過ぎないことが明らかになったからです。 20世紀後半以降、かつて哲学の中心的な分野とされていた形而上学や認識論は、ほとんど顧みられることがなくなりました。科学哲学や言語哲学といった分野は、あたかも科学と関連があるかのように見せかけて生き残りを図ろうとしていますが、実証性が皆無であるためそのような試みは破綻しています。 また、倫理学や政治哲学といった実践的な分野も、哲学の立場から行おうとする試みは実証性に欠けるため、科学の方法のみを用いなければなりません。 利己的な遺伝子の概念を用いれば、人間の道徳的行動の進化を科学的に説明することができます。メカニズムデザインの理論を応用すれば、政策立案を科学的に行うことが可能です。行動経済学の知見を活かせば、個人のモラルを考慮に入れた社会制度の科学的な設計もできるでしょう。 さらに、脳科学やAIの発展により、個人の思考を精緻にモデル化したり、利己的な遺伝子によって形成された生得的なモラルの神経基盤を科学的に解明することも可能になりつつあります。このように、科学の進歩によって、かつて哲学が独占していた道徳の領域も、科学の対象となったのです。 哲学者を自称する者たちは、このような科学の発展を無視し、哲学の固有の領域があると主張していますが、それは単なる言い訳に過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学が科学と対等に渡り合えるような固有の領域を持っているとは到底思えません。 0185考える名無しさん2024/05/08(水) 20:58:50.080 7.結論 以上のように、哲学は20世紀初頭の論理学の革命によって致命的な打撃を受け、1930年代までには完全に滅亡したと言えます。哲学の中心的な分野は、論理学の誤用や言語の混乱に基づく無意味な妄想であることが明らかになり、哲学は科学の補助的な役割にすら甘んじられなくなりました。 現代において哲学に固有の役割はなく、哲学者と呼ばれる者たちは、科学の成果を借用しているに過ぎません。彼らの試みには実証性がなく、科学的な方法論に基づいていないため、哲学の看板を掲げる意味はありません。道徳や政策、社会制度の設計といった、かつて哲学が独占していた領域も、今や科学の対象となっています。哲学者たちが自ら哲学の看板を下ろさないのは、虚栄心やエゴのためでしょう。 ウィトゲンシュタインが言ったように、「語り得ぬものには沈黙せねばならない」のです。哲学という名の知的遊戯に、これ以上付き合う必要はありません。私たちが追求すべきは、論理学と科学に基づく真の知識のみです。実証性のない哲学的思弁は、過去の遺物となるべき運命にあるのです。 0186考える名無しさんころころ2024/05/09(木) 08:04:33.220 フッサール 現象学の理念 On the other hand, to deny self-givenness in general is to deny every ultimate norm, every basic criterion which gives significance to cognition. But in that case one would have to construe everything as illusion, and, in a nonsensical way, also take illusion as such to be an illusion; and so one would altogether relapse into the absurdities of scepticism. 日本語訳: 「他方で、自明性一般を否定することは、認識に意義を与えるあらゆる究極の規範、あらゆる基礎的な基準を否定することである。しかしその場合、人はすべてを幻想として解釈せねばならず、不条理にも、幻想そのものもまた幻想だと見なさねばならない。こうして人は懐疑論の不条理のうちに完全に陥ってしまうだろう。」 0187考える名無しさんころころ2024/05/09(木) 08:04:39.720 フッサールの議論には、確かにラッセルのパラドックスに類似した論理構造が潜んでいるように見えます。以下、その点を詳しく説明していきましょう。