存在とは、世界に開いた】穴【であり、或る欠如体(態)である。それをラカン的に
表現するのであれば、】現実界χ【への回路であり、未知のパスであるだとも
言える。それは、この宇宙に開いた断裂、裂開であり、裂け目でもある。こうした
存在論的な】穴【や射影は、科学や論理、数学などでは原理的に扱うことが出来ない。
】穴【が存在論的にどのような意味を志向しているのかなどは、それらの諸学にとっては
問題や関心の埒外にあると言えよう。

このように、形而上学は存在論的に周縁的なもの、マージナルな領域、影へと照射して
いき、そのことによって中心的な命題や主流の見解を突き倒していく力動にもなる。
人々が哲学者という存在に、どこか畏怖の念を感受してしまうのは、彼らの思考系に
こうしたコペルニクス的な概念モデルの転回や思考の回転(脱コード化)が備わっている
からである。

こうした形而上学的な転回と回転の一つが、私の】マルチバース論χ【である。
それは既存の存在系という膿を突き倒していく新たな力動と作用素のことである。