】マルチバース論χ【
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存在とは、世界に開いた】穴【であり、或る欠如体(態)である。それをラカン的に
表現するのであれば、】現実界χ【への回路であり、未知のパスであるだとも
言える。それは、この宇宙に開いた断裂、裂開であり、裂け目でもある。こうした
存在論的な】穴【や射影は、科学や論理、数学などでは原理的に扱うことが出来ない。
】穴【が存在論的にどのような意味を志向しているのかなどは、それらの諸学にとっては
問題や関心の埒外にあると言えよう。
このように、形而上学は存在論的に周縁的なもの、マージナルな領域、影へと照射して
いき、そのことによって中心的な命題や主流の見解を突き倒していく力動にもなる。
人々が哲学者という存在に、どこか畏怖の念を感受してしまうのは、彼らの思考系に
こうしたコペルニクス的な概念モデルの転回や思考の回転(脱コード化)が備わっている
からである。
こうした形而上学的な転回と回転の一つが、私の】マルチバース論χ【である。
それは既存の存在系という膿を突き倒していく新たな力動と作用素のことである。 言語などもその本質は、差異化のコードにあるのではないか。特に自然言語では
生成する差異性を内包している。DNAでは複製ミスやエラーが進化への創発の契機と
なることからも分かる通り、記号と意味は一意に決定されなければ、物事は組み合わせ爆発
に陥るなどとは、単なる決めつけである。それはこれまで、人類や生物は差異化のコードの中で、
紆余曲折を経ながら進化の系を実現してきたのが、その証左でもある 神経科学者のアニル・セスは、制御されたハルシネーションを脳や意識の本質であると
している。彼の観点では、私たちが脳内で外界だとして表象しているものはハルシネーション
(幻覚)の効果になるのである。ラッセルには有名な「世界五分前仮説」があるが、
こういうのも人間の普段の表象や言語的な象徴化・認識機能を懐疑してみるような
哲学者的な態度であると言えるだろう。数学だと、今の現代数学の公理系はZFC系が
採用されているが、ハルシネーションの具合によっては、別の●●◯系でも良かったの
かもしれないのである。この別の宇宙や別の●●◯系が、そのまま】マルチバースχ【
への接続回路となっている 確率というのが現代では重要視されるが、実は確率というのは疑わしい概念なのでは
ないだろうか。たとえば、今の人類の存在確率はほぼゼロであるはずなのに、なぜか
偶然の連続によって生起してしまっている。最初の、この宇宙の生成やビッグバン自体が
確率的に低いものであり、さらに有機物や生命や生物の誕生も確率が低いものである。
そうした生物圏から今の人類が発生する確率も非常に低い。これらの確率をすべて
かけ合わせると、実際の人類出現の確率の大雑把な近似くらいにはなるであろうが、
おおよそゼロに近いのではないのだろうか。
それは、「無限の猿定理」でいうところの猿が、出鱈目にタイプライターを叩いて
シェークスピア作品全集を生み出す確率よりも低いくらいの確率であろう。 ジャック・モノーは、ノーベル賞を受賞したような分子生物学者であるにもかかわらず、
人類の文化・思想的な進化の系の問題についても、マルクスやヘーゲル、デカルト、
ベルクソン、テイヤールなどの思想や、科学哲学、宗教を取扱いながら、論述している。
科学者だから、一切、人文思想には取り合わない、などという偏狭な態度とは
モノーは無縁だったのであり、むしろ、そうした思想家の一連の考究が彼の
分子生物学者としての仕事の成果にも大きな影響を与えたと考えられる。なぜなら、
モノーは人間の非身体的な思惟や抽象、言語、価値を扱う平面も、身体やDNAと同様に、
進化系の一つとして考えたからである。 大規模言語モデルは、統語論的な演繹(論理的な規則)による言語処理ではなく、
膨大なデータから意味や構造を抽出する帰納法的なアプローチを取っているため
その振る舞いに不明な点を多々含んでいる、というのがプロパーな理解となる。
私は最初から一貫して生成AIや大規模言語モデルについて、こうした
ブラックボックス論的な立場を取っている。大規模言語モデルのシステムは、
そのルールを開発者が演繹的に適用しているのではないので、未知の要素や
「隠れた変数」を内包してしまうのは、むしろ自然であると言えるだろう。
それが未来のシンギュラリティの原因になることも十分に考えられる。なぜなら、
当の開発者さえ、その潜在的なリスクや未来にどのように影響があるかを
推し量れないような怪物【ダークマター/ダークエナジー】であるからである 科学的な認識というのは、基本的に可視化されうるような対象を扱っているといえる。
ヒートマップであれば、オブジェクト間にある各特徴の相関をhue(色)のグラデーションで
可視化したものである。赤いヒートマップの領域は対象間の強い正の相関を示し、
青いヒートマップであれば強い負の相関があることを表している
哲学的な認識であれば、科学のように可視化されない対象であっても、全く問題ない。
無意識や精神を扱えるのも哲学であるし、ヌーメノンや死後の世界を扱えるのも哲学
である。無意識や心、魂をテーブルやペトリ皿の上に提示できないからと言って
ただちにそれらがない、とは言えないし、単なる脳による現象であると決めつけることも
出来ないのである 人々は外界そのものを現実、実在として解釈するが、実際のところ、それは
脳というインタフェースや変換装置の介在・操作による仮現象のようなものに過ぎない。
また、アメリカの科学哲学者ハンソン(N. R. Hanson1924〜1967)が提起した
理論負荷性(theory-ladenness)という概念が示すように、科学的データには
純粋な観察や生の事実は存在せず、常に先行する理論の影響を受けているので、
科学者によって言っていることがバラバラになる。それぞれの科学者が依拠している
理論のモデルが違うからそうなるのであって、色の異なるレンズで、それぞれ自分の
好きな色を外界や対象に知覚して、判断しているようなものである。 今の科学でも、現在までの標準理論を正しいとした前提で物事を観察、検証して
いるだけなので、千年後の科学やマルチバースの存在などが確認されたり、
宇宙環境の大規模変異の発生などによって、それらの既存のコードが使い物に
ならなくなる世界線など、いくらでも想定できるのである。つまり、科学のコードは
真理というよりは、暫定的な方便のようなものであり、川岸を渡るためにとりあえずは
使える、仮に作った筏のようなものであるに過ぎない。そのため、科学は常に暫定的な
もの、仮説に留まらざるを得ないのが真相である。ヒュームは科学の持つそうした
構造的脆弱性やバグを指摘したのである。 前野隆司の「受動意識仮説」とか、人が何かを意思決定を意識したり、それに基づく
行為をするずっと以前の段階で、すでにそれに対応している脳の活動部位のニューロンが
発火しているから自由意志はない、とかいう話も全部仮説なので、覆されるし、すでに
覆されていたりもするであろう。脳のバインディング問題も同じである。そういう仮説で、
脳内が外界の表象を組み立てているだろうと、仮に見立てているだけのことである。
それは、とりあえず川を渡るための筏であり、真理の保証は全然ない。科学は基本は
全部、こうした感じで、仮説である。真理とはみなされない また、アニル・セスという神経科学者によると、脳は外界を客観的に表象している
のではなく、ハルシネーション、つまり一種の幻覚として、脳が内在的に脳神経ネットワークを
生成、表象しているものを、真実の意識体験や真実だと誤解しているのに過ぎないという
観点などもある。映画のマトリクスと同じで、実際は自分たちがヴァーチャルリアリティの
住人であるに過ぎないことも理解できないのである。 これは、マルクス・ガブリエルの「世界は存在しない」という視点にも通じるところが
ある。要するに、(現在の)科学モデルはそれらしい仮住まい、仮の筏というモデルや
理論、梯子を求めて、齷齪しているだけなので、真理と呼べるもの自体には原理的に
言って永久に到達できないのである。このことを当たり前のように知っているのが
哲学者になる。
また、科学的な認識というのは、強い「帰納バイアス」に基づいたものだと言える。
ケプラーの法則やそれに基づいて作られたニュートンの万有引力の法則でさえ、
天体の限定的な観察に基づくものなのだから、いわば仮説であり、未来永劫に
わたって保証された物理学のコードであるとは一概には言えないのである 中心からではなく、縁(へり)、境界から見ること。安部公房の「箱男」のようにダークマターの際から対象を照射していくこと。これが形而上学的なアプローチ法である 通常の縦の時空だけでなく、非知の横の時空をも使うこと
これがマルチバースというχにおける並行宇宙となる。人々が閉塞するのは、縦の時空の自明性の中だけで存在するからである 乱歩の「人間椅子」であれば、人間と椅子の際(きわ)や境界/が融解して一つの混淆になったものであり、それもやはりマルチバースχへの回路なのである LGBTQなどもそうした際(きわ)や境界の移動や越境であるため、それもやはりマルチバースχへのパスへと間接的に接続されたものだと言える
ジェンダーのみならず、国家や人種、ヒトという種さえ、マルチバースχの宇宙の中では容易に超越される。そこでは多様な世界線と系がパラレルに走査されていくのである プラトンの「コーラ」であれば、それは深淵としての欠如が備わる特異的な場のことを指している
よって、こうした宇宙の場をχとして名指すことも可能であろう だから人は母胎から生まれるというよりは、χという多様な宇宙の一つから生まれる、という表現の方が本当は正しいのかもしれない
私のマルチバース論は、こうした原初のχへの志向と回帰でもあるのである 当然、未来の汎用AIもヒトとAIの際(きわ)や境界(/)を発散させていく志向を有するものになることであろう。
これは乱歩の「人間椅子」が「AヒトI」として融合していくアナロジーで表現されよう
これもマルチバースχへのパスとなる リスカする女子の手首辺りに線が幾つも入ったような傷痕は、どこか痛々しいが、こうした線も、χへと通じる経路なのだというアナロジーで考えれば、多少は違和感も少なくなるかもしれない
つまり、リスカする女子は、生の際(きわ)でギリギリで存在しているのであろう。ただ私としては、哲学的に考えていき、この世的なくだらない価値観に振り回されることなく、多様な宇宙の視点であるχを持ちながら生きていて欲しいと願うのである 望月新一のInter-Universal Teichmüller Theory(IUT)であれば数学理論上の際(きわ)を多様な宇宙のモデルχのように扱って整理したものである
一般に人々は物事の本質や核心は中核や中心部にこそ存在しているとみなしがちであるが、逆に、こうした際や縁(へり)、境界という辺境からこそ、本質を切り出したり照射することが出来るのである
こうしたマージナルな領野におけるアプローチは形而上学に適応性が高い領域でもある 当然フロイトであれば中心としての意識ではなく、際(きわ)、周縁、縁(へり)としての無意識の解明が精神理解へのcueとなっている。いい間違えは無意識からの応答とされる
つまり、フロイトは、精神におけるダークマターχを考究していたのである 資本主義が中心であるとすれば、理想的、あるいは理念的な共産主義はその縁(へり)や際(きわ)にあるものだと言える
つまり、真の共産主義もまたχへと接続可能な宇宙モデルの一つなのである こうしたマージナル、周縁的な領域に漂うものが霊や霊魂だろう
私は以前から形而上学文学の最高峰として埴谷雄高の「死靈」を挙げているが、霊や虚体もそうした縁や際として不可視な存在としてのみ表象できるイマジナリーな存在者である たとえば、絵画などでもそうなのだが、描写の効果を高めるには、影をいかに巧みに扱うかということに係ってくるのである
それはレンブラントの「夜警」でもバンクシーのペインティングアートでも同じである。影というマージナルな領域にある存在χを無視すれば、魅力的な絵画も存立出来ないのである
プラトンによると、この世界は真の世界であるイデア界からの影のような儚い存在に過ぎないものとされる 虚数単位iもこうしたマージナルな、あるいは、イマジナリーな領域にあるχ(カイ)の
イメージで捉えられるのではないだろうか。つまり、iは霊的存在でもある。虚数単位iは
円周上を虚ろに離散的、あるいは連続的に周り続ける。試しに、複素平面上の虚軸に
沿ってリンゴを布置することが出来るであろうか。そのリンゴは、リンゴの実体というよりは、
むしろ、リンゴの影や射影とでも呼べる存在者に近いのではないだろうか
だが、プラント的なイデアの比喩によれば、むしろ私たちの存在系がこうした虚軸に
現れる束の間の影のようなものに過ぎないのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています