哲学は仮定からその仮定の正しさを導けるというゲーデル不完全性定理に反する妄想なので、必ず論理の詐欺をやっています。その詐欺のパターンの王道は、ラッセルのパラドックスを使って矛盾ではないものを矛盾だと言い張ることです。それにより「矛盾する=矛盾しない」という爆発律が成立し、その後はどんな無意味な妄想も正当化できるようになります。これが哲学の正体なのです。 0441考える名無しさん2024/05/09(木) 01:56:06.240 フッサール 現象学の理念 On the other hand, to deny self-givenness in general is to deny every ultimate norm, every basic criterion which gives significance to cognition. But in that case one would have to construe everything as illusion, and, in a nonsensical way, also take illusion as such to be an illusion; and so one would altogether relapse into the absurdities of scepticism. 日本語訳: 「他方で、自明性一般を否定することは、認識に意義を与えるあらゆる究極の規範、あらゆる基礎的な基準を否定することである。しかしその場合、人はすべてを幻想として解釈せねばならず、不条理にも、幻想そのものもまた幻想だと見なさねばならない。こうして人は懐疑論の不条理のうちに完全に陥ってしまうだろう。」 0442考える名無しさん2024/05/09(木) 01:56:13.060 フッサールの議論には、確かにラッセルのパラドックスに類似した論理構造が潜んでいるように見えます。以下、その点を詳しく説明していきましょう。
以上が、フッサールの議論に潜むラッセルのパラドックスと、それを矛盾と仮定することによる爆発律の問題点についての説明です。論理学の基礎知識がない人にも理解しやすいよう、できるだけ平易な言葉で解説しました。 0443考える名無しさん2024/05/09(木) 01:57:02.630 カール・ポパーが提唱した「反証可能性」という概念は、科学の方法論として注目を集めましたが、その内容を詳細に検討してみると、実はそれほど革新的な考え方ではないことがわかります。 ポパーの主張の核心は、ある理論が科学的であるためには、その理論が反証可能でなければならないというものです。つまり、その理論が間違っていることを示す証拠が存在する可能性を認めることが重要だと考えました。しかし、これは要するに、法学の分野で長年確立されてきた「証明責任」の原則と大差ありません。 「証明責任」とは、ある主張をする者が、その主張の正当性を証明する責任を負うという、公平な議論のルールです。古代ローマ法の判例から確立したこの原則は、ラテン語で "Onus probandi incumbit ei qui dicit, non ei qui negat"(証明責任は、主張する者に存し、否定する者にはない)と表現され、ローマ法の法文集「ディゲスタ」の22.3.2に法学者パウルスの見解として記載されています。 ポパーの「反証可能性」は、この「証明責任」の原則を科学の文脈で言い換えたに過ぎません。つまり、ある理論を主張する者は、その理論の正しさを証明する責任を負い、反証を受け入れられない状態では主張を証明したことにはならないということです。これは、科学に限らず、法学、政治学、経済学など、あらゆる分野でのフェアな議論に求められる条件であり、ポパーが新しく提唱したものではありません。 したがって、ポパーの「反証可能性」という概念は、科学の方法論として特別に重要な意味を持つわけではなく、むしろ古くから存在する「証明責任」の原則を再確認したに過ぎないと言えます。ポパーの主張は、科学哲学の文脈では一定の意義を持ちますが、科学の実践自体を大きく変革するようなものではないと理解することができます。 0444考える名無しさん2024/05/09(木) 01:57:11.190 古代ローマ法における証明責任の確立は、法務官法の発展、弁論術の発達、法学者の活動などを通じて徐々に形作られていきました。特に、法学者パウルスが示した「証明責任は、主張する者に存し、否定する者にはない」という原則は、現代に至るまで法学の基本原則として受け継がれています。 証明責任の原則は、法学にとどまらず、自然科学の分野にも大きな影響を与えました。科学者は、自分の仮説を裏付ける証拠を提示する責任を負っており、この証明責任の原則なくして科学の進歩は望めません。実験や観察によって得られたデータを根拠として示すことで、科学者は自分の主張を証明し、他の科学者による検証を可能にします。科学における証明責任の重要性は、ニュートンとフックの光の性質をめぐる論争、ラヴォアジェとプリーストリーの酸素発見をめぐる論争、ガルヴァーニとボルタの動物電気をめぐる論争などの歴史的な事例からも明らかです。 証明責任の原則は、法学や科学だけでなく、ジャーナリズム、政治、教育、ビジネスなど、あらゆる分野で真実性や公正性を担保するために不可欠です。証明責任がない場合、根拠のない主張が横行し、社会的な混乱や危険が生じる可能性があります。また、相手の主張の根拠が存在しないことを証明することは、主張者が根拠を示すよりも困難である場合が多く、証明責任の不在は公平性を欠く結果につながりかねません。さらに、根拠のない主張の証明を相手に求めることで、議論を混乱させたり、相手を困らせたりすることが可能になってしまいます。 したがって、証明責任の原則は、公正な議論を実現し、真実を追究するために欠かせない原則であると言えます。ただし、その適用に当たっては、証明責任の公平な分配、証明の困難さに応じた調整、建設的な議論の促進などに留意する必要があります。証明責任の原則を適切に運用することで、私たちは理性的で建設的な議論を行い、より良い社会を築いていくことができるでしょう。