なぜ、馬鹿には哲学は無理なのか?
近所にいる馬鹿に、こう訊ねてみよう。「あなたは今、どんな哲学を持っているのか?」 その馬鹿の反応「は?」 たぶん、その近所にいる馬鹿は、生まれてこの方、一度も哲学を持った試しがないことであろう。それが、当該人物が馬鹿であることの根拠でもあり、原因、理由でもあるのだ。哲学を持たぬ者は、環境と状況、有力者や権力、知人、マスメディアの言説に右往左往するだけの塵芥、すなわち馬鹿として一生を終えることになる だから、一応、名目上は匿名の掲示板においてでも、私のように口を開くことは、個人的な利益を優先するなら愚行である。 哲学とは、ものごとのありようがただ(只)しく伝はるようにメタ言語的記述をただ(正)しくなほ(直)そうとするこころみである。 糺(ただ)す、糺(あざな)ふ >糺 1. to collaborate 2. to band togethe 検索機能を活用した知性の使ひ方の効率化について考へてみよう。 これについて後で書き込むことにする。 >>172 知性は、どのように使ふことが効率的なのか。 それは、何を「効率的」と考えるのか、その「効率」をどのような比として捉へているのかに依存するだろう。 例えば、正解があらかじめ決められた試験において好成績を収めるために知性を使ふということであれば、その試験において出題される問題と正解を事前に知り、試験が実施される日時まで暗記しておくことが最も効率的な知性の使ひ方であると言へるだろう。 それが不可能であるならば、事前の策は、試験において出題される問題をその集合の中に含む割合が高い問題集と正解集、または試験に出題される問題に可能な限り類似した問題とその正解を入手して、それを暗記することだろう。 多くの人々は、それが学校教育において要求される通常の知性の使ひ方であるため、知性を効率的に使ふとは、そのようなことであると思っている場合が多い。 と同時に、試験において基準を満たす成績を収めて、そのことにより何らかのリソースにアクセスする資格を認められてしまえば、極めて効率的に獲得した「知識」が一体何の役に立つのかも不明で、その後、それを役立てる機会に遭遇することもないということが珍しくない。 したがって、どのような試験においても問はれることがなく、自身の日常においてもそれを知っている必要性に遭遇しないような問題とそれに対する応へについて知ろうとすることは、無駄な雑学的な知識を得ようとすることであると感じられることになる。 その一方で、世の中で生きるうえで、知っている方が役に立つことは数限りなくあり、一体何を知ろうとしてそのために特別な労力を費やすことが望ましいのかすらはっきりしない。 例えば、細かい税法上の決まり事を知っていることは、誰にでも役立つが、何にどこまで詳しくなるように力を注ぐことが合理的なのかはよく分からない。 それと同様に、食事の栄養についてであれ、交通機関の利用法についてであれ、買い物についてであれ、知っていた方が得になることは無数にあり、その知識の対象とされる情報の内容も変化しつづける。 私自身、暗記はとても苦手で、自分が利用するほとんどの知識をネット検索に頼っている。 今では、難しい複雑な漢字については、私と同様に多くの人が、その文字表記法を暗記してはおらず、電子機器のネット検索機能と文字変換機能に頼っているだろう。 さらに知識の「検索」について言ふなら、それをネット検索に限定して考へる必要はなく、何かを書き留める行為そのものが、一般に、後で情報を検索できるようにすることを目的としていると言えるだろう。 私が、この掲示板に書き込むのも主としてそのためだ。 ふと、自分で何かに気づいて、そのことを書き込む。 その場合、気づいたことに関連して検査した内容と情報ソースを加へることが多いが、それは自分が何をどのように考へたのかを後で辿ることができるようにするためである。 それを記録しておけば、そのとき、そのときに何をどのように、どのような根拠に基づいてそう考へたのか、事細かに記憶している必要がない。検索してみれば、すぐに分かるからである。 以上は、やや長たらしくなってしまった前置きであり、私が書きたいのは、このように誰もがネット検索を利用することが日常生活の一環となっているような現状において、どのように知性を使ふことが私にとって効率的であり、有用であると感じられるかである。 抽象的な一般論は、ここまでにして、具体的な事例によりそれを示すことにする。 >尫 (en.wiktionary.org/wiki/尫) という漢字を知っているだろうか。「知っているだろうか」と問ひかけたところで、私自身、このような漢字の存在を今日の今日まで認識しておらず、どう音読み、訓読みされるのかも知らず、実際に文章において使はれているのを見たこともなかったので、他の人々に対してこの漢字についての私の知識を伝へようというわけではない。 この漢字は、 On (unclassified): おう (ō) Kun: まがる (magaru); よわい (yowai) (en.wiktionary.org/wiki/尫) と読まれることになっているそうである。私が、今日、この漢字に遭遇した経緯と何を思ってこのような漢字を引き合ひに出したのかについて、また後でつづきを書き込む。 >尫 このような事例を引き合ひに出しただけで、多くの人々は、「そんな雑学はどうでもいい」と感じるだろう。 この漢字は、私自身、実際に使はれているのを見かけたことがなく、さらに「まがる」、「よわい」と読まれるのであれば、「曲がる」、「弱い」という表記が一般に通用するものとして用ゐられているので、それらの代わりにこの漢字が用ゐられるべき理由も見当たらない。 そのため、このような漢字に注意を向けさせることそのものが、私の個人的な「雑学的な知識の収集に対する特別な関心の表れ」に見えたとしても自然なことである。 実際、私の物事への関心の持ち方は、他人から見ると、互いにどういうつながりがあるのか不明な雑学的なものに見えるようである。 しかし、その一方で、私自身は、暗記力も弱く、クイズやパズルなどには一切関心がなく、どのような対象についても網羅的に蒐集したいと感じるような趣味がない。 私自身は、むしろ、何かがどのようにか私の知性の使ひ方を効率的にするのに役立つ、言い換へるなら、それをし(知/領)ることが私自身の認識リソースの大幅な節約をもたらすと感じられるときにこそ悦楽を感じるのだ。 そして、この場合、私が、今日、この漢字について知ったのは、プレイヤード叢書でモンテーニュの『エセー』の序文を読んでいて出合ったフランス語の表現がきっかけである。 私は、ほとんどの場合、日本語以外で書かれた書物に目を通しているが、そのときに目が留まるのが、私にとってその意味を日本語ではうまく言い換へて記述することができない日本語の表現のメタ言語的記述としてぴたりとよく合ふ他言語における対応する表現である。 「日本語ですらうまく説明できない日本語の表現に他言語の表現がぴたりと合ふ」ことがあるという主張は、奇妙なものに感じられ、それが認められたとしても不思議なことであるように思はれるかもしれないが、それがどのような事態であるのかを原理的に考へてみれば、特に奇妙なことでも、不思議なことでもない。 例えば、今、説明しようとしている事例の場合、私の念頭に浮かんだのは、使はれているフランス語の表現が、それにうまくメタ言語的記述として対応するものとして想起されたのは、日本語の古語の「やまひ(病)が『あつ(篤)しく』なりゆきて」と表現される場合の「あつ(篤)し」である。 仮に身内に病人が出て長期に入院することになったとしよう。誰かに病人の容態を尋ねられて、「容態は『あつ(篤)しく』なるばかりで」と答へても、何を言っているのかよく通じないだろう。 「あつ(篤)しく」は、現代の日常的な表現としては、通用していないからだ。代わりに、「容態は重くなるばかりで」と言えば、伝へようとするのと似通ったことは伝はるだろうが、「あつ(篤)し」は表現として、「重い」と同じではない。 そこで代わりに「重篤」という漢語を用ゐたなら、「あつ(篤)し」に用ゐられるのと同じ漢字が参照されることになるが、「危篤」を想起させて、「今にも死に瀕している」という表現として捉へられることになるだろう。 それでも、「重篤」は、「容態が深刻に重い」と捉へられるだけで、「重篤」という漢語を使ふことにより、「あつ(篤)し」の意味が伝はることになるわけではない。 そこで、岩波古語辞典で「あつし【篤し】」を引いて見ると、その意味の説明として >病弱である。衰弱がひどい。 と記載されている。この説明は、「あつ(篤)し」のメタ言語的記述として適切だろうか。 私には、そうであるとは感じられない。 >篤 (literary) honest; sincere; earnest; whole-hearted (literary, of illness) serious; severe; critical (literary) solid; firm; strong; hard (literary) deep; profound (出典 en.wiktionary.org/wiki/篤) 日本語の「あつ(篤)し」という表現に「篤」という漢字が当てられているのは、明らかにこの漢字の用法が、「あつし」という日本語によって想起される様態とそれなりに重なるからであって、「篤」の漢字が想起させるのは、「弱まる」とか、「衰弱する」といったことではない。 つまりは、日本語の古語の「あつ(篤)し」は、現代語としては死語となってしまっていて通用せず、この表現が伝へようとする意味は、分かるようで分からないものになってしまっているのだ。 それを「極めて重い」と言い換へてしまっては、なぜ「あつし」と表現したのか、その理由が不明で、「重篤」という言葉で置き換へてみても、それはそのように置き換へても良いという習慣に依拠することになるだけで、「あつ(篤)し」という表現を説明することにはならない。 いつものことながら、論点の要旨にさしかかると、アプリケーションがフリーズされてなにも書き込めなくなる。 再起動させようにも、シャットダウンすらしない。酷いものだ。 順を追って論拠を書き込もうとしても、どうせまたフリーズさせられて、途中で書き込めなくなるので、結論だけ先に述べておこう。 プレイヤード叢書でモンテーニュの『エセー』の序文において、日本語の古語の「あつ(篤)し」のメタ言語的記述に相当する表現が見られるのは、次の箇所である。 >comme si la viellesse et la maladie, de plus en plus impérieuse à l'en croire, avaient brisé en lui le désir d'innovation この《impérieuse》が「あつ(篤)し」に対応する。 >Définition de impérieux , impérieuse adjectif 1. Qui commande d'une façon qui n'admet ni résistance ni réplique. ➙ autoritaire, tyrannique. Un ton impérieux. 2. (choses) Qui force à céder ; auquel on ne peut résister. ➙ irrésistible, pressant. Un besoin impérieux. (出典 dictionnaire.lerobert.com/definition/imperieux#google_vignette) 岩波古語辞典において、「あつし【篤し】」が >病弱である。衰弱がひどい。 を意味するものと解釈されている根拠は、 「あつし」が、さらに古くは、「あづし」とされ、 その「あづし」に「尫」という文字が当てられるとともに、「あづし」の説明として「支離」という記載も見られるということのようだ。 しかし、「尫」は、広く一般的に用ゐられた漢字ではないようで、「あづし」にどのような理由で「尫」を当てたのか、自明であるわけではない。 「尫」という漢字が、「王」という漢字の発声である"wang"を流用したものであるなら、湾/"wan"や碗/"wan"、鰐口(わにぐち)などにおけるこゑ(声)の使はれ方からも、文字の見た目の形からも、円弧を描くような曲げが想起されるものと考へることに無理はないだろう。 しかし、それと同時に、フランス語の《impérieux》と「尫」を並べて見ると、いかにも互いに似て見えることも確かだろう。 その一方で、「支離」は、「あづし」のメタ言語的な解釈による説明であると見られるが、「あ・づ・し」に「支離」を対応させようとするなら、「あ」に対応するのが「離」であり、「づ」に対応するのが「支」になるはずである。 私は、以前から、「あ」は、不特定に離れた様態を表現するように使はれると説明しているので、この解釈は、その説明を裏付けるものとなるだろうが、「支離」というメタ言語的な記述が、「やまひ(病)が『あづし』く」なる」ことの説明として適合するかは、この表現に「篤」という漢字が当てられることになったことを考え合はせるなら、極めて疑はしいだろう。 尫痹 wāng bì 〈中医〉尫痺.リウマチ様関節炎 (出典 中日辞書 北辞郎:検索 - 尫痹) ひと(人/一)とは、「比等」(万葉集の歌にもそう表記されるとおり)、つまり、《 adéquation》であるとともに、「被跡」/"contact"/»Berührung«でもある。 >「あづし」の説明として「支離」という記載も見られる 「支離」⇔céder irrésistiblement とする解釈は成立するだろう。 「ひとみ」/《prunelle》とは、不定の「比等(ひと)しさ」を「被跡」/"contact"/»Berührung«としてもたらす開孔である。 存在するものとしての「言語」とは、こわ(声)づか(使/仕/遣)ひの効果を確かめようとするこころ(試)み(/心観)によ(依)り暫定的にもたらされた「を(折)り(合)ひ」である。 >>190 日本語の古語の「あつ(篤)し/あづし」に当てられた「尫」という漢字によって伝へられる「こゑ(声)」についてさらに少し検討してみると、とても興味深いより一般的な関係性が見えてくる。 それは、代表的には、"Ü"と"∩"(「こゑ(声)」の記号としては用いられない)の「『キアスム的な同一性』を伝へるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として説明することもできるだろう。 これについて、後でまた書き込むことにする。 それを裏付ける検証のプロセスを無視して、私の独断による推測をまず述べるなら、日本語の古語の「あつ(篤)し/あづし」を表現するのに最も分かりやすく、適合する表記を考へると、「あつし」と「あづし」のいずれが先であったにせよ、「あつ/づ(壓/压/圧)し」になるのだろうと思ふ。 >壓 1. to press; to push down 2. to keep under control; to control 3. to suppress; to bring pressure on; to intimidate 4. to surpass; to prevail over (出典 en.wiktionary.org/wiki/壓) では、なぜ、どのような理由で「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられたのか。 また、この漢字により伝へられる「こゑ(声)」が、なぜ >代表的には、"Ü"と"∩"(「こゑ(声)」の記号としては用いられない)の「『キアスム的な同一性』を伝へるこわ(声)づか(使/仕/遣)ひ」として説明することもできる ことになるのか。それについて説明しようと思ふが、しかし、それは、言葉で説明するよりも、まずは、"Ü"と"∩"が、というより、視覚的な表記だけに頼るなら、"∪"と"∩"が、重力方向において向きが違うだけで同じ記号であることに注意するように促すことの方が、説明を簡単にするだろう。 さらに、聴覚的な認識を利用するなら、 「壓」という漢字の中国語としての中古音は、"'aep"、古代の発音は、"/*ʔˁrep/"であったものと想定され、英語としては、"press down"に相当する意味で使はれたものとされるが、ここで、 "step up"という英語の表現を考えてみるなら、"up"という作用がその反作用としてそのまま、"press down"、つまり、「「壓」("'aep"または"/*ʔˁrep/")」を生じるという関係性に留意するように促すこともできる。 「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられた理由を推測することは難しくない。 なぜなら、「まがる」、「よわい」と読まれるように「尫」という漢字が使はれている事例に遭遇することはまずないものの、「まげる」という言葉のMS IMEの変換候補としては、私が普通に使う漢字ではないものの、すぐに「枉(ま)げる」が出てくるからである。 >枉 1. bent; crooked 2. depraved; indecent; perverse 3. to distort; to twist; to bend 4. unjust; wrong 5. injustice 6. (literary) to condescend; to deign >>190 >「尫」という漢字が、「王」という漢字の発声である"wang"を流用したものであるなら、湾/"wan"や碗/"wan"、鰐口(わにぐち)などにおけるこゑ(声)の使はれ方からも、文字の見た目の形からも、円弧を描くような曲げが想起されるものと考へることに無理はないだろう。 要するに、「あつ/づ(壓/压/圧)し」を表すのに「尫」という漢字が用ゐられたのは、 >重力方向で「あつ(壓)」が生じてゐて、その「あつ(壓)」にま(負)けていること、すなはち、《pressant》/《cédant》という関係性の作用が働いている様態を、形が重力方向でたわ(撓)むように成形される(視覚的に"U"の記号によって代表させることができる)ことを具体例として示すことにより伝へようとしている からである、と説明することができるだろう。 ところで、日本語において「たわ(撓)む」の「わ」は、そのこゑ(声)の使ひ方において「わ(輪)」と重なっているだろう。 「わ(輪)」は、それを形として記号により代表させるなら"○"であるが、この形は、漢語としては「圓/円(ゑん)」である。 >圓 Middle Chinese: zjwen, hjwen Korean 圓 (eumhun 둥글 원 (dunggeul won)) Hanja form? of 원 (“won”). (出典 en.wiktionary.org/wiki/圓) 日本語の「わ(輪)」は、アルファベットを用ゐるなら、"wa"である。 中国語の漢字としての「王」は、(ピンインではなく)日本語のアルファベット表記の慣用に従っても"wang"であり、古代の日本語としては、語末が開音節に移されて「わに」として取り入れられていると考へられる。 「円」の音読みは、日本語のこゑ(声)では、「ゑん」/"wen"であり、朝鮮語では、「ウォン」/"won"であり、中国語としては、「圆」/" yuán"(ピンイン表記)である。 これらの表現に使はれている「こゑ(声)」は、互いに変移させることが可能であるようによく似ていると言へるのではないか(「こゑ(声)」を写そうとしたのだから当然であると言へるかもしれないが)。 ここで唐突に、まったく無関係に思える英語の"you"について考へてみよう。 >you (pron.) 古英語の eowは、þu(thouを参照)の与格・対格複数形で、「あなたたち」を意味する ge の目的格である。「あなたたち」を意味する ye (yeを参照)も同じです。これらはプロトゲルマン語の *juz-、*iwwiz(古ノルド語の yor、古サクソン語の iu、古フリジア語の iuwe、中オランダ語やオランダ語の u、古高ドイツ語の iu、iuwih、ドイツ語の euchにも通じる)に由来し、これ自体はインド・ヨーロッパ祖語の二人称複数代名詞 *yuに起源を持ちます。 (出典 etymonline.com/jp/word/you#etymonline_v_4985) >14世紀から「あなた」を意味する youと主格形の yeの発音が徐々に統合され始め、1600年頃には、使い分けが一般的でなくなりました。12世紀以降のイングランドでフランス語が広く使われるようになったことで、英語の youはフランス語の vousと同様の関連性を持ち始め、当初は上位の人に対する敬意の表現(「王様の一人称」のように)として、次に同等の者や見知らぬ人に対して、そして最終的には(おおよそ1575年頃に)一般的な呼びかけの形式となり、単数主格の thouを徐々に置き換えました。13世紀を通じて、英語には「あなたたち二人」を意味する双数代名詞 ink「ふたりのあなた;お互い」も存在しました。 語源学的に互いに関連付けられてはいないが、英語の"you"とドイツ語の»über«の»ü«も互いにこゑ(声)としてよく似ているだろう。 »über«は、»Übermensch«が「超人」と訳されることが多いことからも分かるとおり、一般に「超える様態」を表現するものとされるが、英語の"yonder"という表現における"yon"に似ていると言ふことができるだろう。 >yon (adj., pron.) 古英語のgeon「あちら(あの)」は、プロトゲルマン語の*jaino-(古フリジア語のjen、古ノルド語のenn、古高ドイツ語のener、中期オランダ語のghens、ドイツ語のjener、ゴート語のjains「あの、あなた」が源です)から来ています。 (出典 etymonline.com/jp/word/yonder#etymonline_v_4981) ところが、興味深いことに、»über«の語源をWiktionaryで辿っていくと、 その語源として想定されて、印欧祖語として再構築された"*upó"は、 >under, below (出典 en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/upó) を表現したものとされている。 別に私は、このような言語系統論が方法論的に正しいと主張したいわけではない。 それでも、互いに関連しているとされるこゑ(声)の関連性とたどりながら、意味解釈上、認めざるを得なくなるこのような関係性が、興味深いと指摘しているのである。 しかし、このようなこゑ(声)の使はれ方について表現の論理から考へるなら、解き難い矛盾などないことにすぐに気づくはずである。 英語の"you"にせよ、"yon"にせよ、ドイツ語の»über«の»ü«にせよ、それが上側を表現するか、下側を表現するか決めなければならないなどと悩む必要はないのだ。 相手側を"you"もしくは"yon"としてうやうや(敬々)しく指し示すように示すなら、その声が相手に伝へるのは、視覚的に示すなら"∩"であることになり、ひるがへって、そのことが、そのようにこゑ(声)を使ふ側がみづから(身づ柄/自ら)を"∪"として暗示していることになる。 逆に相手の呼びつけるような態度で、相手側を"you"もしくは"yon"として指し示すなら、相手が不相応に偉そうにしていることを指摘して、その声が相手に伝へるのは、視覚的に示すなら"∪"であることになり、ひるがへって、そのことが、そのようにこゑ(声)を使ふ側がみづから(身づ柄/自ら)を"∩"として示していることになる。 日本語でも、自称として「『よ(余)』は〜である」と発言したら、それだけでいかにも相手を見下していて偉そうにしていると理解されるだろう。 このような事例から見ても、表面上、考へられているより、異なる言語間でも、こゑ(声)の使ひ方にはかなりの共通性もしくは類似性があると言ふことができる。 カントとか投げ出したくなるんだよな ニーチェは系譜があるからマシ 文系哲学よりやはり数学者や物理学者の哲学の方が分かりやすい カッシーラーとかですかね。 ドイツ語の流麗さは一級品だとか社会思想の先生が言っていました。 ソクラテスと仏陀は量子力学や物理的な相対性の性質を見破ってたと思う 今で言うとIQ300とかサヴァン症候群のようなラマヌジャンのような観ただけで理解する感覚を持った人 両手で手を叩いて音が鳴ったのはどっちの手ですかー? 停止させてた手の方が鳴った?動かした方が鳴った?の話は物理が相対性なの分かってるよね 時代的に計算式で理論を表現できなかっただけで 偏差値教育が染み付いてしまったからな 自分で考えることより平均点の競い合いに時間を割く 人は誰でも、というより、いづれの生き物も自ずと追求しているのは「価(あたひ)」、つまり、どのようにか「あた(能)ふ」こと/"to merit"であって、「損得」ではない。 ところが、人の「メリトクラシー/能力主義」は、他人から成果が高く評価されなければ、どのような行ひもまったく何にも「あたひ(価)しない」と徹底的に思ひ知らせることにより、他人の評価に基づく「損得勘定」ばかりを追求するように訓練する。 つまり、人の「メリトクラシー/能力主義」は最初から、どのようにか「あた(能)ふ」こと/"to merit"の追求として倒錯しているのだ。 しかも、人は、そのような倒錯した訓練により、他人の評価に依拠する「損得勘定」ばかりを気にかけるようにつねに強制/矯正されながら、その振舞ひが、自分の「損得勘定」しか気にかけていないと絶えず批判され、どのようにか高い「価値」を追求しているのだという見せかけを繕ふ偽善的な姿勢を保つことまで要求されるのである。 >いつはりの なき世なりせば いかばかり 人の言の葉 うれしからまし / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ ナハハッハ〜イ♪ / /・\ /・\\ \_________ |  ̄ ̄  ̄ ̄ | ___________ | (_人_) | | | | | \ | | _ | | | \ \_| / j゙~~| | | | __/ \ |__| | | | | | / , \ n|| | | | | | / / r. ( こ) | | | | | | ⌒ ーnnn |\ (⊆ソ .|_|___________|  ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄  ̄l二二l二二 _|_|__|_ 答えはここを見よ https://imgur.com/a/K2hZe5U read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる