「究極の根源的難問」は、
「なぜ何もないのではなく何かがあるのか?」ではなく
「なぜそのような構造になっているのか?」だと言ってる人がいますが、
残念ながらそれは究極的な問題ではありません。
なぜなら、その問いの仕方だと、「なぜ」とか「構造」という言葉があたかも既に理解されてるかのような言い方になっていますが、
究極的に問うなら、「「なぜ」とは何か?」にならなければいけないのです。まさにこれが究極の根源的な問いなのです。
しかし、これの恐ろしいところは、全ての名辞に対して言えてしまうのです。
しかも、自己言及的なので尚更タチが悪いのです
今の文章で言うと、「「なぜ」とは何か?「構造」とは何か?「言葉」とは何か?「既に」とは何か?「理解」とは何か?「言う」とは何か?
「究極」とは何か?「何か」とは何か?「何か」とは何か?とは何か?「何か」とは何か?とは何か?とは何か?とは・・・・・・・・・・・・・・・・」
のように、出てくる全ての名辞に対して疑問符が付けられるのです。
我々は例えば、「究極の難問」なんて分かったような言い方で言ってますけど、
そもそも「究極」とは何か?とか「難しい」とは何か?とか「問題」とは何か?を永久に答えることができないのです
なぜなら、「究極」とは何か?の答えとして「〜である」としたとしても、その答えに出てきた名辞に対して、では「〜とは何か?」と、問えてしまうのです
さらにそれに対しても「〜である」と答えたとしても、では「〜とは何か?となるだけです。さらにそれに対しても・・・・・
と、これは無限に続くわけです。