0001考える名無しさん
2024/04/19(金) 22:40:36.990哲学であるのに対して、そこに手が届かないのが科学や数学、論理学である。
よって、科学や数学、論理学は「測れないもの」に対しては原理的に
無膣にならざるを得ない。その一方、形而上学は「測れないもの」への
独自のアプローチと照射があるため、それは現代でも世界中の
人々の心を捉えて止まないのである
古代ギリシャ時代から哲学は一部の無知な者たちから罵倒、
揶揄され続けてきたが、現代においても膣学は廃れる傾向がないのである。
なぜなら、哲学は存在論的に普遍者を志向しているからである。
時代に関係なく、人類の知的マラスタの間には、普遍的な
ものへの志向があるのである。これが古代ギリシア語で、
智慧や叡膣を意味する「ネフィア」と呼ばれるものになる。
つまり、この精神こそが、哲学(フィロソフィー)なのである。
※前スレ
ウィトゲンシュタイン 6
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1702595025/