【古き良き時代】日本移動通信を語ろう【IDO】
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IDOは完全におっさんイメージだったな。
cdmaOneから突然イメチェンをはじめてauブランドになって逆に若者向けになったっけ その昔、IDOではアナログモトローラ方式のTokyo phoneってのがあってだな… >>2
cdma One は織田裕二がCMキャラクターやってた
何と!それまでドコモの携帯でやってた織田裕二だぞ!
ドコモの契約切れてすぐIDOに移ったんだよね >>4
IDOだから DOCOMOから移動したんだなw 最初はIDOとdocomo間で通話出来なかったんだぜ! こりゃ最悪やねw
auお客様センター最悪
お客様相談室ヤクザ対応
顧客満足度は金で買える
純増数も金で買える
LTE NET for DATA勝手に速度制限
じぶん銀行さらに改悪
NEXUSもPixelも無ぇ♪
大株主トヨタ,SoftBankと合弁会社
大株主京セラ,docomoに端末提供
通信自体がご利用いただけなくなる場合があります
au online shopは分割だけ
キッザ庭で社会貢献,値下げしません
3日6GBはauだけ
安サポ値上げ
基地局最下位
面積カバー最下位
実効速度最下位
災害復旧最下位
MTU値も最下位
庭信者,KDDI社員スレで傍若無人な自演
3G/LTE認証サーバ風前の灯火
ロードバランサー無しでAPN変えて捌く ← New !!
でも、顧客満足度と純増はいつもナンバーワン!
契約者数はいつでもナンバーツー! cdmaOne開始時にやってた街頭デモで、デモ機の端末設定がおかしかったのか音声回線のシステム異常だったのかは知らんが
電話越しのねーちゃんの声が割れまくってて「これダメじゃね?」って思ったっけなw アナログ時代は、ドコモ方式とモトローラ方式の2種類あったね >>12
業界の方ですか?
初期の頃は、NITだったね?w
懐かしいわ 親戚の会計士のおじさんがハンディホンミニモを使ってた。
超うらやましかったなぁ... 昔は携帯を買うとおまけでストラップくれたから、今頃になってIDOのロゴ入りのストラップ使ってる。
当時はお気に入りのキャラ付きのストラップ買ってたから、IDOのストラップは引き出しに入れたままだった。 ローミング使用料1日300円とか
セルラー契約者がIDO地域で通話すると
もしくはその逆 >>13
ナレーションの仕事をやった事がある
原稿を「にほん」と読むか「にっぽん」と読むか苦戦してたな
結局「にっぽん」で落ち着きました デジタルミニモはD320が最後でD318が欠番、
TACS(タックス)ミニモはT218が最後でT210・T215・T216が欠番、HICAP(ハイキャップ)ミニモはH107が最後でH105・H106とH108は欠番だったな
DDIセルラーのHP-50T・HP-50P・HP-10Pに相当する機種、IDOでも販売してくれたらよかったな
(DDIセルラーのHP-10P=IDOのT210、DDIセルラーのHP-50P=IDOのT215、DDIセルラーのHP-50T=IDOのT216)
D308、T219はなぜか自動車電話だったな
IDOにはTU-KAのTH051・DDIセルラーのHD-10Pや、ツーカーのTH361・DDIセルラーのHD-30T・デジタルホンのDP-172Vに相当する機種はなかったし(ツーカーのTH051に相当する機種があった場合、D308だった)
(D304にバイブレーターがついていた場合、「D304II」だったはず)
国際電気は携帯電話機事業やっていなかったら、NTTドコモでは「DoCoMo By HITACHI HT101」なる機種があったことだし、T202の製造元は国際電気ではなくパナソニック、D313は国際電気ではなく三菱電機(ツーカーのTH461、デジタルホンのDP-221に相当する機種)、デジタル自動車電話の番号・型番はD320だったそうだし
ツーカーではNEC製の端末は1996年と1997年にはなく、IDOとDDIセルラーではNEC製の折り畳み式のタイプ(デジタルホンのDP-113に相当する機種)はなかったし
HICAPは東芝製はなくNEC製と富士通製とパナソニック製はあり、TACSはパナソニック製はDDIセルラーにはあってIDOにはなぜかなかったんだな
IDOもDDIセルラーも三菱電機製の機種はほとんどなかったし
富士通のIDOのD311に相当する機種はDDIセルラーにはなかったし
DDIセルラーでもHD-40P、HD-40Nは欠番だったんだな 0001どどん ★
2023/11/03(金) 15:05:16.53ID:uWXwg6+39
前橋市総社町の「総社村東03遺跡」の発掘調査で、紀元前の中国初の統一通貨「半両銭」や、7世紀から13世紀にかけて造られた渡来銭など10万枚を超す大量の埋蔵銭が見つかった。藁紐(わらひも)で約100枚ごとにまとめた「緡(さし)」の状態だった。藁の袋に入れられており、中世期の戦乱などで急きょ地中に埋められたと見られるという。
事業者の工場建設を機に発掘調査が行われた。市によると、埋蔵されていた範囲は、縦約60センチ、横1メートルで、約100枚単位の緡が1060見つかった。10緡にまとめた1貫文(約1千枚分)にして納められた痕跡も確認された。稲わらのむしろが残っており、この中に入った状態で埋められたとみている。
遺跡の所在地は、総社町総社大字大屋敷で、字名から、大きな屋敷があった可能性も考えられるという。
埋蔵銭のうち334枚を調査したところ、中国の前漢時代から、南宋時代までの通貨44種類が確認された。通貨の初鋳造年代は紀元前175年から1265年までとされる。
最も古いものは、前漢時代、紀元前175年初鋳造の「半両銭」が1枚確認された。直径2・3センチ、中央部分の四角い穴は一辺7ミリ、厚さ1ミリ。表面の左右に文字が描かれ、左は「両」、右が「半」。
最も新しい銭は南宋時代の1265年初鋳造の通貨。このことから、埋蔵時期は、鎌倉時代(1185〜1333年)と考えられるという。ただ、サンプルで調べた枚数が少なく、今後の調査によって埋蔵年代が変わる可能性もある。
市によると、この遺跡の約1キロの範囲に、総社古墳群や、山王廃寺、上野国分寺などがあり、この遺跡のあるエリアは、古墳時代から律令期にかけて上野国の中心地域だったと見られる。
総社村東03遺跡の出土品は、2022年度に前橋市内で行われた発掘調査の成果を紹介する「新出土文化財展2023」で展示されている。ほかには、古墳時代後期の円墳から出土した大刀(たち)や、象嵌(ぞうがん)と呼ばれる技法が施された「銀象嵌鍔(ぎんぞうがんつば)」、古代群馬の中心地域であった「上野国府跡推定地」から出土した古代の土器や陶磁器も展示される。
会場は臨江閣(前橋市大手町3丁目)で、12日まで。無料。問い合わせは、前橋市文化財保護課。
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