アドラー心理学総合 29【嫌われる勇気】
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自己啓発の源流ともいわれるアドラー心理学を語るスレです
■前スレ
アドラー心理学総合 28【嫌われる勇気】
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/psycho/1504943102/
■NGワードについて
以下の単語はスレ違いの話題や連投されるコピペに混入する事が多く、過去に幾度も荒れた経緯を踏まえてNGを推奨しています
必要な方は使ってください
釈尊は引き籠り
集団ストーカー
エックハルト
Eckhart
エゴ
いま、この瞬間
人生の半分 >>818
これを正義感なる大げさな事として捉えますか?
誹謗中傷は言ってはいけない、それって至って当たり前の常識ではないでしょうか。
あなたは日常でそんなに他人を『クズ』という言葉を発したいのですか? >>816
人をクズ呼ばわりすることはアドラー心理学以前の問題です。 >>805
フェイスブック見てきたけど誹謗中傷でもなんでもないやん
情報操作して注目集めようとしてるのか?
「クズ男に対する復讐なんかやめて自分が幸せに生きた方がいい」
という一般の人のツイッターの投稿に対する共感として
「そうですね クズ女もしかり」
ってコメントしてる >>821
そういう文脈だったのか、荒らしに釣られて張り合ってしまったわ
すまなかった >>810
貢献ってなんなのかとはそんな難しくないよ
難しく言えば貢献とは自分の行動によって周りの人の共同体感覚が育成される事ってことなんだが
分解していくと、相手が今より少しでも自分を受け入れられる事、今より少しでも人を信じられる事、今より少しでも、今より少しでも貢献できていると思える事って事になる
でも相手がそうなるかどうかは相手の課題で、相手が水を飲むかどうかにかかってるからあなたが悩む部分ではない
そうなるとフォーカスするのはここだけ
「どうすれば周りの人がより建設的でいられるか?を自分なりに考え、今出来る目の前のことを粛々とこなし続けること」 岸見さんの新刊の愛とためらいの哲学読んだ人いる?
読む価値あるかな? >>827
品川ってだれだ?
ある一定の意見持ってたらみんなそいつって決定づけるのってネット民の闇だな >>830
たぶん品川庄司の品川のネタかと
それ、ネタにマジレスってやつですよw 信者は自分の三親等くらい全員殺されてみればいいのに
こんなもん実践してる奴はガイジだとしか見てないが
身内殺されてまだ信者でいられるならそれこそどうかしてる
けどある意味スゲーって尊敬するかもしれん 怒り、嘆き、悲しみ、苦痛、人生を生きていると、心がそういう感情に包まれてしまうことはある。
だがその時に、それに屈して、流されて、支配されて”負”に侵されてしまうのではなく、それらすべてのこの世の”負”でさえ、慈悲の念によって許し、愛し、同じ諸行無常の、この世の運命共同体だと考えて、一心同体となる。
そうすれば、この世のあらゆる苦痛から、あなたは解放されるのだ。 >>834
大丈夫
加害者に復讐し終えてからはアドラーに戻るから
無関係な皆さんにご迷惑はかけません
ご心配なく >>835
大丈夫
これアドラーの理屈のことではないから
仏教で釈迦の弟子になったならば、盗賊に遊び半分でノコギリで両手両足を切り刻まれても怒ってはならないという話の解説 >>837
えぇ…
詳しい解説…w
じゃあ家族を殺されて復讐するかどうかの例で言うと、怒りの感情が生じた瞬間、まず自分の体を蝕むから体調が悪くなって周りにも迷惑をかけることになるし
復讐を遂げても家族が死んでる事に変化はないし
その過程で相手の縁ある人たちに復讐心が生まれたり
とにかく負の業が世界に循環する
自分のためにも、殺された家族のためにも、殺人犯のためにも、世の中のためにもならない、自分の気が晴れるわけでもない、せっかく周りの人が同情してくれたりするのにその人達にも負の業を広げてしまう
冷静に考えたら怒りにはなんのメリットもないよねって話 >>832
その身内とか近しい人達を大切に思う情動を共同体感覚って言うんじゃないのん?
この人までは親しいけどここから先の人は親しくないみたいに勝手に自分が線引きするから敵という概念が生まれるわけで
例えば自分の息子が殺人を犯したとなれば、きっとテレビで他人が他人を殺したニュースを観るのとはまた違う感覚になるでしょ >>838
うん全然わからんだから復讐するわ
てレベル
アドラーも明示的には復讐を禁じてないしなぁ アドラーだと復讐は不適切な行動のうちの権力争いの次の段階じゃないの?
当事者同士の解決は困難で、カウンセラーとか第三者の介入を必要とするレベル 共同体で生きる上で好ましい姿勢を提案して、こういう人間を目指そうぜって言っているだけで
こういう人間でなくてはならないって言っているわけじゃないからね
あれ全部完璧に実践できたらそれこそお釈迦様だわw
できるかできないかじゃない、目指すか諦めるかだ アドラー心理学はビジネスにも当然使えるんじゃね。「自分の事ばかり考えないで
他人を喜ばす事を考えなさい」→「世間の需要についてリサーチせよ」か。ターゲット決めて需要があるところにビジネスを展開すると。
まあ、あらゆる職業は需要によって存在してるわけだが 怒りや恨みは他者との分離意識を強め、他者の他者性を拡大して、「正義」という一見難攻不落の砦のような精神状態を生み出すので、エゴが大幅に強化される 課題の分離ができていれば繁忙期に有給で長旅に出ることもできる アドラーによれば「人間はいつでも自己を決定できる存在である」ということですが、
構造主義から続くポストモダン思想の中心的な考え方である「人間の自己決定は制限されている」という思想とかけ離れているようですがどうなんでしょうか?
人間の主体的な自由は制限さているという考え方が現代思想の通説だと思うのですが >>800
脳科学取り入れるってそれ進化じゃなくて退化ですよw >>848
当然「但し常識の範囲内に限る」だろう
俺は空を飛べる!って決定したところで
人がいきなり空を飛べるようにはならない
死なない!って決定したところで
不死の存在に変われるわけじゃない >>851
制限、常識が増えすぎて選択肢の幅が狭まっているような気もするがな
それでも人間はいつでも与えられた選択肢の範囲内から自己を決定しなければならない
今すぐに最高の選択肢は選べないが、最高の選択肢に繋がる選択や、これ以上選択肢の幅を狭めない選択をすることならできる
俺のような凡人には選択肢の幅を狭めないために無難な選択ばかりするのが関の山だがw >>851
そういう表面的な自己実現みたいな話題じゃないと思うよ
アドラー心理学の言ってるのは
ものの見方や思い込みが反応パターン(思考や感情や態度)を決めているわけだから、ものの見方や思い込みのセッティングを見直す手法はあるよってこと
そうすれば結果的に反応パターンが変わるわけだから、変えられないものは諦めて、思い込みをいじれるという意味での自己決定性ということ
だから人は空を飛べると思うのは別にいいしむしろそこは自由に決められるところ
それで少なくとも反応が変わるわけだからむしろありだよね
でもそれって「人間の自己決定は制限されている」ことと矛盾しないよね?
って意味で>>848の指摘はよくわからない >>854
>>848の決定できる範囲は常識を超えて「広い」んだろう
「お姫様が信じてくれたなら泥棒は空を飛ぶ事だって、湖の水を飲み干す事だってできるのに…」
この名言を残した別の偉人とアドラーを取り違えてると思われる 自己決定の主体である──というと、
何でも自分で決められる/決めていい思想と思いがちだけど
アドラーの自立やカントの自律の思想とは正反対なんだよね >>854
こういう的外れな回答じゃなくて現代思想に詳しい方いませんか? NLPだと自己認識を変えることで生体反応をコントロールできる
花粉症の人なんかは試してみるといいよ >>857
科学的には、脳を測定することで人間が自覚的に行動するよりその人の判断を
早く知る事ができる。しかしその行動を意識的に止めることはできるとわかっている。
実験心理学では、ある人が「自由意志はない」という信念を持つと、実際に自由意志を
発揮する機会が減ることが確かめられている。
文学以外ではこういう成果がある。文学的思索の世界はよく知りません。 スタンフォード大学 自分を変える教室
最新の心理実験が紹介されてて面白く読んでるんだけど
アドラーの傍証になる実験結果も多い
例えば犯罪を犯して心から深く反省した人間と反省しなかった人間
どちらの再犯率が高いか?っつーたら
今までの常識に反して圧倒的に反省した人間の再犯率が高いらしい
コレなんかはこのスレの真ん中あたりで議論されてたアドラーの教育論
「叱らない」に結びつく
何か反省する(自分で自分を叱る)ことで区切りが付いて満足してしまう
そんな脳の傾向があるみたいなんだよな >>854
全能の神とは違って有限な存在である人間の自己決定が制限されているのは当たり前。
サルトルは人間の本質は「自由」だ(「人間は自由の刑に処せられている!」)と言ったが、当然人間が空を飛びたいと思ってもいきなり飛べるわけがない。
神と違って有限である人間の取り得る選択肢は制限されているけれども、それでも人間は限られた選択肢の中から主体的に理性を駆使して合理的な判断によって最善の選択ができる。
これが近代哲学の考える「人間の主体的な自由」であって、そこには人間の理性への絶対的信頼がある。
サルトルは共産主義から影響を受けており共産主義はヘーゲル(「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」
)の思想から発展している。
アドラーも共産主義の影響を受けているようだし、「人生はシンプルだ」と言い切っているので理性に信頼をおいた合理主義者であると思われる。
>>848が言いたいのはこの意味での「人間の主体的な自由」であり、神のごとき無制限の自由を言っているのではない。
現代の哲学は近代哲学の批判から始まっている。構造主義から続くポストモダン思想は理性に信頼をおいた「人間の主体的な自由」に否を唱えている。 >>863
共産主義は進化論の応用
全知全能の神様が作った生物が進化(変化)するとかそんな馬鹿なwの時代から
化石等の物的証拠で少しずつ説得力が増してきた時代に
じゃあ社会も進化するんじゃね?って単純な発想で想像されたモノが共産主義 >>863
選択の自由
アドラーが言ってるのもそれだろうな
与えられた事物から「選択する自由」
与えられてないモノは選択できないという
当たり前の前提は隠されている 「人生はシンプルである」「「考え方(人生の意味付け)を変えれば人は幸福になれる」
アドラーは意識主義者、楽観主義者であり合理主義者ではある為に、近代の思想の枠内に限定されてそれを超え出ることが出来ず、それがアドラーの限界を示していると思う。 >>866
> 「考え方(人生の意味付け)を変えれば人は幸福になれる」
そりゃあポスト構造主義の本質的な部分だな
「我思う、故に我在り」から
「言葉在り、故に我思う」へのパラダイムシフト >>867
我々に主体性があり我々が言語を操っていればそうでしょう
しかし我々は言語の構造体系の枠内に捕らわれている存在です
言語の構造体系が変われば、我々は望む望まないにかかわらず変わらざる得ません
操られているのはむしろ私達の方です >>867
考え方を主体的に変えることができれば我々は幸福になれるでしょう
問題は我々に主体的考え方を変える権限はあるのか?ということです >>869
自分に権限を与えるのは自分なんじゃないか?
自分以外の誰を想定してんの? 自分に権限を与えるのは自分
もしかしてこれって非常にアドレリアン的な思考で
アドラーを知らない人間にとっては特殊な考え方なんだろうか >>871
自分=意識にと言ってもいいでしょう
フロイトによれば我々の意識的な判断は常に無意識によって影響を(意識は知らないまま)受けています
私達の意識は自分が自分自身の判断で決めたんだ!とおもっていますがその背後に無意識の関与があることを忘れがちです >>871
横からすまん
アドラーの主体論は、言葉に頼る、コモンセンスに頼る、共通感覚に頼った上で、共同体感覚の相互育成という思想を前提とした上での自己決定性なんだよな
だから意識を単独で扱ったりはしないんだけど、この人はそもそもアドラーをよく知らないんだろうな 主体としての自己が存在するかという議題よりも、認識できる客体が存在するかの方がまだマシな話ができそう >>872
「意識」と「無意識」の間に境界線はない。どちらも同じ目的に向かっている。
アルフレッド・アドラー
フロイトさんの見解では
意識は無意識に従属してんの? >>873
意識を単独で扱えるのは神だけですね。神は無制限の主体性を持っていますから。
人間の主体性は無限の主体性ではなく制限(限られた選択肢)を受けた上での主体性ですからアドラーでなくても近代思想の自己決定性の特徴だと思われます。 >>872
我々は(我々の意識は)無意識の奴隷ではない
アドレリアンはそう考える
人間は無意識に操られるほど弱くない
そう考える >>877
アドラー側だけどそれもまたちょっと違うと思う
人は弱いけど、無意識は味方だから信頼していいという発想 >>875
逆ですね
従属関係でいえば無意識が意識に従属しています
だだし無意識は凶暴な飼犬のようなもので、なかなか云うことを聞きません。無意識は事あるごとに主人(自我)に噛み付こうとします >>877
そうです主人は意識のほうです
ですが無意識の圧力は常に意識にかかっています カイジ的に言えば意識は王であり無意識は奴隷です。
世界を所有するのは意識であり、無意識は意識に虐げられている持たざる者です。
しかし、その何も持たない、劣悪な環境であるがゆえに王を撃つのです。(笑) >>880
>>881
アドラー心理学の見地から言うと
お前には何らかの目的があってそれをやったりやらなかったりする言い訳に
「無意識」を利用してるだけなんだよお前は 上とか下とかないよ
意識も無意識も目的の下に対等
アクセル(意識)だけで突っ走ったら事故を起こしちゃうから、自分を守るためにもブレーキ(無意識)は絶対必要
それでも現状が苦しいと前に進みたいから、無意識を邪魔もの扱いしがちだけど
アドラーはそうじゃなくて、代替案を実行するというアプローチを取る >>882
ええい、あなたは悪魔のようなお方だ!
あなたが世間に出て恥をかく前に、
私達アドレリアンがそのフロイト製の鉄面皮をはがして差し上げましょう! >>883
アドラーが意識と無意識は対等と言っているのなら利用する利用される関係も無いと思いますが・・ >>886
利用する利用される関係があるのは
「王を討つ無意識」
「凶暴な飼い犬のような無意識」
って設定を作ってる奴のケースだよ
一言で言うなら
無意識を責任転嫁できる対象にしてる場合 >>888
アドラー心理学はやりたいことを実現したいなら言い訳するのはやめなさい理論ではないぞ
言い訳が出てくるのは所属の為に必要だからするのであって良いことでも悪いことでもない
それをまず受け入れて、変わりたいなら他の建設的な方法を探って試して、私的論理から離れていくことを目指す まぁ言い訳や責任転嫁の断罪は自己受容とは真逆の態度ではあるよね そもそもその目的を選んだ理由はなぜでしょうかね?過去の経験ではないとしたら >>868
>しかし我々は言語の構造体系の枠内に捕らわれている存在です
これアドラーと言ってること同じなんだが >>891
過去の経験でしょ
他者の存在、関係性ありきだよ
アドラー心理学はひとりでは成り立たないよ
対人関係論、社会統合論なくして主体論は語れない >>891
あ、正確には、過去の経験を通して編み出した相対的マイナスから相対的プラスに向かう力動ってとこかな 過去の経験から、「世界はこんなところで私はこんな存在なんだ」という世界観というか自我というか思い込みが出来上がる
そうであれば、私は(あるいは世界は)こうでなければならない、という「自己理想」が生まれ、その自己理想に向かって(その人なりの)対処行動を粛々と取り続けるようなパターン化した暮らしを大抵の人はしている
生きにくさを感じている人は、世界観かあるいは対処行動のどちらかが、客観的な世界に対してうまく調和していない
人の目的や対処行動を客観的世界に対して機能させるように持っていくのがアドラー心理学の手法
ポストモダンを持ち出すなら、「客観的世界」というものは果たして実在するのだろうか?という議論ならおもしろいのにね フッサール、現象学、とか出てきて一挙におもしろくなるかも アドラー心理学てなんで極論ばっかりなんだろうな
叱るも駄目褒めるも駄目競争も駄目
マラソンも勝つ必要無い!完走すればいいではありませんか!だとw アドレリアンは歯ぎしりしながらオリンピック見てるよ
なんでメダルに差をつけるんですか!みんな金でよいではありませんか!ってw >>897
>マラソンも勝つ必要無い!完走すればいいではありませんか!だとw
そんなこと初めて聞いたけど誰が言っていたか教えてもらえる?
協力は競合の対立概念じゃなくて包括概念だよ
アドラー的な子育て受けた子供は協力的に競争できるから比較的学校の成績が良いしスポーツもできる傾向にあるみたい 競争原理の社会では仲間を敵と思ってしまう
承認欲求は他者の要望に沿って生きるようになる
アドラーにとって人間はそんなに主体性の無い流される存在なんですかね?
それこそ人間への基本的な信頼に欠けているような気がするんですがね >>899
協力的に競争てなに?競争してても協力しあえるてことだよね
なら競争おkじゃん? 競争しながらしかも協力し合う?
岸見さんは競争の芽をひとつづつ詰んでいく!学校から競争原理をなくす!て言ってるよなあ >>902
たしか「クラスはよみがえる」のどこかだったと思う
>>903
そういうことだよ
問題なのはこの世界を生きのびるには戦って勝つしかないと思い込んでしまうような視野が狭くなっている状態
>>904
別に競争の芽を摘む必要はないと思う >>900
根底に人間への不信感があるんでしょう
だからしっかり監視してないと人間はすぐに競争や承認に走ってしまうと >>905
競争おk!アドレリアンさんに承認いただきました! >>907
それでいいけど、能力を高め合ったり生産性を上げたりちゃんと協力関係の下で競争するんやで
協力的かどうかの見極めポイントは自分と相手が相互に所属する事を手助けできているかどうかだよ 荒らしくんはついに嫌われる勇気だけじゃなくて幸せになる勇気も読んだかw
進歩したなw >>906
むしろ逆
アドラー心理学は性善説側
人は本来は協力的かつ主体的な存在だけど、経験によって勇気がくじかれてしまって、不適切な行動で所属を果たそうとすることがあると見立てる >>910
それってやればできる子、やってないだけに聞こえるんだが(笑) 競争の問題は協力しながら競争できるということで解決しましたが、
承認はどうでしょうか?承認は全て駄目なのでしょうか?それとも場合によって承認も必要になるのでしょうか? >>911
まさにその通りだけどなんなん?w
誤解を招く表現かもだけど人はみんなヒーローだと思って接するんだよ >>912
承認欲求って言葉自体が実はアドラー心理学的な表現じゃない
嫌われる勇気で承認欲求の否定がメインテーマの1つだったからややこしくなってしまった感がある
全体論って発想が前提としてあって、葛藤や対立は自分の内側には存在せず、自分の外側に、対人関係に存在しているとみる
だから本来はアドラー心理学では「欲求」って表現は使わないんだよな
見るべきポイントは、人との関わり方が競合的なのか、それとも協力的なのか
承認欲求は競合的なものである、というのが岸見さんの見立てなんだろう >>911
俺はやればできるんや!来年から本気出す! >>908
俺達は、小さいときから人と争って、勝つことを教えられて育ってきた。
……学校に入るときも、社会に出てからも人と競争し、勝つことを要求される。
しかし、勝つ者がいれば負ける者もいるんだ。負けた者はどうなる?負けた者は幸せになる権利はないというのか。
今日まで俺はそれを考えたことはなかった。俺は悲しい、それが悔しい! >>914
嘘乙!ぜったい俺の事ヒーローて思ってないだろw >>915
そうだね、やればできるよ
でも来年まで先延ばしにするって事はやりたくないんでしょ
自分がやりたい事をやれば? >>916
会社では負け組でもオタク界ではあなたはヒーローですよ
競争が悪いのではなく一つの競争しか教えられてないから劣等感を感じるんですよ
世の中にはたくさんの競争があってそれぞぞれの競争でみんなヒーローになれるんですよ
アドラーも競争を一つに限定するから競争自体を悪いように思っているのではないかな レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。