アドラー心理学総合34
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アドラー心理学(個人心理学)を語るスレです。
■関連スレ
[前スレ]アドラー心理学総合 33【嫌われる勇気】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1532016371/
[兄弟スレ]アドラー心理学2 【嫌われる勇気】 [無断転載禁止]
http://fate.2ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1493067514/
■関連書籍
岸見一郎『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』
向後千春『アドラー“実践"講義 』
岩井俊憲『アドラー心理学ワークブック』『勇気付けの心理学』
野田俊作『アドラー心理学を語る1.2.3.4』『クラスはよみがえる』
清野雅子『3歳からのアドラー式子育て術「パセージ」』
■日本アドラー心理学会
http://adler.cside.ne.jp/index.html
学会のテキストはアドラー心理学を学ぶのにおすすめです。メールで注文可能です。
■課題の分離の注意事項
課題の分離には初心者が陥りやすい問題があります。
課題の分離は個々の人間の独立を重んじるためのものではありますが、断絶のためのものではありません。
個人の課題は分かたれていても、そこに他者への関心があり、協力できることを忘れないようにして下さい。
■共同体感覚について
アドラー心理学のあらゆる理論や技法は、共同体感覚を持つ個人の育成を通じて、協力的な社会を築くという思想の実現に向かう形で整理されています。
ゆえにアドラー心理学の実践はすべて、個人の競合的なライフスタイルを協力的なライフスタイルに代替する事で、すべての人々が所属できるように、自分にできることをしよういう決心を支援するために行われます。
合意を得ずに他者に介入したり、社会構造を変化させようとしたり、個人の自己実現のためにアドラー心理学の理論や技法を使うと、アドラー心理学の押し付けになりかねないので注意しましょう。 アドラー心理学の理論的な枠組みは、個人の協力性の育成のため次の5つを基本前提として受け入れていることによって成立している。
「基本前提の歌」より引用
■個人の主体性
個人が心と体を動かすが、心が個人を動かすのではない。
個人はいつでも主語の位置にある。
■目的論
本能、欲求、衝動、感情が個人を動かすものだと考えず、個人がそれらを使って生きていく。
人の心は一因一果論では説明できないが、目的論を採用するならば予測と制御ができるようになる。
動物たちは個体の生存と種族の保存を目指して生きているが、人は社会的な動物で、社会があってはじめて生きられる。
そのため人の究極目標は、社会の中に居場所を見つけ出し、所属をとげて人から愛されて、仲間と一緒に暮していけることと言える。
所属のために選ぶ方法は人ごとにみな違うものであり、それが個人の個性を作り出す。いかなる個性も所属に向いている。
ある種の個性は所属を目指しつつ、正しい方法学んでいないため、競合的な目標追求し、努力をしても結果が得られない。
勝って所属をしようとすることも、負けて所属をしようとすることも、やればやるほど所属に失敗し、自分と他人を不幸にするばかりになる。
不幸を感じて暮しているならば、ある日のひとつのエピソードをとって、感情、思考、行動を手がかりに仮想的な目標を調べる。
自力かあるいは人に助けられ、隠れた目標を自覚させて、競合的とわかれば工夫して、協力的な案を試みる。
こうして日常実践続ければ、次第に心は協力的になり、やがてはいちいち意識しなくても、協力的に暮らせるようになる。
勝ち負けのない協力平等の真の所属を目指して実践し、子どもに伝え、人類全体が所属を果たすことに向かっていく。 ■全体論
個人は有機統合体であり、部分の和よりも大きな全体で、部分の間に葛藤矛盾はない。
意識と無意識、理性と感情は、一見すると対立していると見えるが、実はそんなことはなく、分業しながら協力して動いている。
近代科学は部分を研究し、それを集めて世界の運動を一種の機械のように説明し要素論的理論を作ったが、心も社会も生きた全体であるため、要素論では予測も制御もできない。
社会はともかく個人の心には全体論は役立つアイデアで、予測も制御もどちらも可能だし、バランス保って改善してゆける。 ■社会統合論
一対一の二人の関係を調べて、そこから科学の方法で人の心を説き明かそうとするもの。
心理学は科学であるゆえに、観察できない心の中でなく、観察できる対人関係を対象にして理論を組み立てる。
二人の間が競合的であれば、どちらが上でどちらが下なのか決めようと争いを続ける事になる。これが縦の関係と呼ぶ。
二人の間が協力的であり、相手に任せて口を出さないか、力を合わせて一緒に働けば、横の関係と呼んで区別する。
二人の間が競合的ならば、相手の賞賛得るため行動し、だめなら不適切な行動で注目関心引こうと試みる。
競合性がもっと強ければ、権力争い互いに興奮し、相手を負かして自分が勝とうとし、感情投げつけ相手を罵倒する。
負ければ裏に回って復讐し、相手の心を傷つけようとする。
たとえば犯罪行為に走ったり、病的思考で相手を困らせる。
それでもだめなら最終段階で、無能力を誇示して人々が自分に一切期待せぬように脱落者としてむなしく生きていく。
これらの競合的なやり方は相手も競合的にするために悪循環が回転し続けて終わることなく二人を苦しめる。
ひとりが協力的な生き方を学んで、相手を尊敬、信頼し、勇気づければ二人の関係が変わって自分も相手も幸福になる。
人はいつでも社会に組み込まれ、自分の行為が相手を決めてゆき、
相手の行為が自分を決めてゆく。
「自分が変わることから始めよう。これはみんなにとってなんだろう、私はみんなになにができるだろう。」
これを共同体感覚といい、明るい未来を作る鍵となる。 ■仮想論
個人は事象を勝手に解釈し、それを事実と思って生きていく。主観の世界に人は生きている。
事象を個人が認識したときに、良いか悪いかどちらでもないか無意識的に判断するのだが、根拠を私的感覚と呼ぶ。
悪いと思えば、これはライフタスクであると劣等感を感じて判断し、対処行動によって補償して、仮想目標を目指して行為する。
ライフタスクとは価値によるマイナスあり、仮想目標価値のプラスだが、客観的にそうなのではなく、個人の意味づけ以上のものでない。
私的感覚を根拠に判断を繰り返すので、個人の行動はいつでも決まった冗長性があり、事前に予測ができることになる。
古典的にはライフスタイルと呼ばれるが、いまのはやりではナラティブなどと呼ばれることもある。個人がこの世を生きる物語。
競合的な私的感覚は生活上の問題困難を引き起こすが、当の本人は自分のせいだと知らないかもしれない。
ある場合には共通感覚と違っているので問題抱え込むので、普通は人はどんなに思うかを知れば、摩擦を起こさなくてすむ。
人によっては共同体感覚が育っていないため、問題抱え込む。
自己執着をいったん保留して、相手のために貢献考えよう。
相手の目で見て、相手の耳で聴き、相手の心で考えられるよう、普段の暮らしで訓練繰り返し、思い込みの罠から抜け出そう。
私的感覚をあたかも絶対の真理と思わず、違った考えも可能であると認める生き方を価値相対論と呼んで重視する。
現代世界の不幸のさまざまは、自分が正義で相手が悪人と相手を裁いて競合的になり、暴力的に解決しようとする事で生じる。
共同体に貢献することを仮に共通価値と認めあい、理性によって対話を重ねれば、明るい未来を築いてゆけるだろう。 テンプレにわりこんですみません。
模倣と創造との関係で日本では古来、守破離といいます。
他人の模倣から離れられない人や人を自分の模倣から離れさせない人は
師匠として好ましくないですが、何の手本もないところから始めて
大きな仕事をする人も少ない。
西洋でも「巨人の肩の上に乗って」といい、先人の知恵を用いることは重視されえています。 模倣を離れるという面での西洋の教えは
十字架の聖ヨハネの言葉
「鳥をつないでいる紐が、細かろうと太かろうと、
それにつながれている限り、細い紐であったとしても、
断ち切らないならば、太い紐でつながれているのと
全く同じことで飛び立つことはできない。
たしかに細い紐は断ち切りやすいが、
それを断ち切らない限り飛び立つことはできない。
何かのものに執着している人は、こうしたもので、
いかに多くの徳を持っているとしても、
神との一致の自由に至ることは出来ないであろう。」
以上 カントは「天才はオリジナリティ、二流はイミテーション」と言ったけど、
ベルクソンは他人を見たときに「すごい!私もああなりたい。せめて真似したい」と思うのが
道徳の根本感情だ、と言った。
宗教や道徳の根本に型や模倣はある、という考え方もあるんですよね。 言葉だって母親の模倣から憶える訳だし。
個として独立して神と対峙するというのも
母の無限の保護の幻想を断ち切るという事だろうし
そうやって神ないし自然に向かい合い
そこから直接何かを取り出して戻れば
創造という事になるだろうし。 >>1おつ
全スレ終盤から延々と連投している人は誰に向けて何を言いたいのか主張の肝がはっきりしないね
完全に自己満になってるよ >>11と>>12は別人だよ。確かにアドラーと関係のない話になってる。すみません。 まあ、神といえばいかにも人格的だしエラン・ヴィタールといえばいかにも
生気論的だし自然といえばいかにも理知的だし共同体感覚といえばいかにも
人生哲学っぽい。自分にとっての究極の一語を見定めようと決めて、もしそれが
共同体感覚でいいかもしれないと思ったらこのスレに参加するといいよ。
どれも論理的には終端符号、つまりそれを言ったら話は終わりという記号なんだけど
語彙が共通しないと共同体の会話に参加できないからね。がんばってね。 「課題の分離」は日本のアドレリアンが開発した言葉なの?
それともアドラーの著作のどこかに記述がある? >>170
アドラーの直弟子のドライカースは治療では基本的に使ってるね
「Who’s responsibility?」って言い方で
課題の分離は、野田さんが治療の場面で親が子供の問題を混同してしまっているから役割分担の意味で使い始めたのが本来みたい
日本人は苦手な傾向があるみたい
決して「これは私の課題なのであなたには関係ありません」という意味ではない >>18
アドラー本人と関係ないところで編み出された言葉が
なんで個人心理学の最重要テーマであるかのような扱いがされてるのでしょう? 無条件に人を信頼するということ
1.相手には課題解決能力があると信じる
相手が苦境に陥った時に自分がなんとかしなくてはと思わないことでもある
相手が自分の課題に向き合う勇気を持っていると信頼する
どうしても解決できない課題でも、自分の運命を受け入れることができると信じる
2.建設的な意図を信じる
悪意としか思えないことをされたとしても、相手の言動に良い意図を見つける努力をする
それを可能にするのが、「他者は自分を援助しようとしている人であり、自分もまた必要があれば他者に対して何かできることがある時には力になりたいと思える仲間感覚」 >>20
課題の分離が流行ったのは嫌われる勇気でしょ?
課題の分離に触れてさえいないアドラー本は多いよ、日本でも
あと、アドラー心理学はアドラー本人がまとめた訳ではなく、弟子のドライカースがアメリカで体系化した系譜が主に「アドラー心理学」と呼ばれている
アドラー本人の著作を読むのも面白いけど結構ざっくばらんだよ >>22
アドラー本人が言ってもいないことをアドラーの名で語るとは酷い状況だねぇ
嫌われる勇気はノリがマンガっぽいけど、ああいう風にキーワードで読者を吊るのが
最近の流行なのかね?現実ってそんな言葉一つや二つで説明出来るほど
単純じゃないでしょうに…
岸見一郎さんは、翻訳の方も出してるから、真剣に取り組みたい人は
こっち読んでくれってことなのかもしれないけど >>23
アドラーの本読んだ事ないでしょw
テキストが必要だよあれは
アドラー心理学を学びたいなら他国と交流があって正式なアドラー心理学であると認められている学会のテキストを使った、子育てや教育の場で、仲間とディスカッションしながら実践していくしかない
あと、海外のアドラー心理学は、存在と当為を区別しないという日本語の性質上、そのまま使っても日本人には機能しないよ とりあえずこのスレ、課題の分離が出来た/出来ないの話題だけで
無限ループしてるのをなんとかしたほうがいいんじゃないの^^; >>26
だって課題の分離はアドラーの主要なテーマではないんだもん
そんな話題でスレが占められてるとか滑稽じゃない? >>27
課題の分離でバズったんだからもはやどうしようもないような気もするけど…
住人が固定してるわけでもないんだし
課題の分離というワードが出たら「目標を一致できないか相手と話してみたの?」って毎回聞くようにするとか? アドラー心理学に関して言えば、技法の上達も必要だが、共同体感覚の上達も必要だと考えているので、剣玉の名人やコーチングの達人よりは、もうちょっと日本語で言う「人格者」に近づくかもしれない。それでも、仏さまに近づくわけではない。
アドラー心理学と仏教とをゴチャゴチャに考えている人がけっこういるが、私はまったく違うものだと思っている。仏教は、自分自身が仏になることを問題にしているし、そこまでいかなくても、絶対者としての仏と向かい合うことを前提にして成り立っている。
しかし、アドラー心理学をどんなに学んでも、完全な共同体感覚を持つことはできないことを、アドラー自身が認めているし、私もそうだと思う。また、アドラー心理学は、別に神も仏もいなくても成り立つ教えだ。 >>30
その理屈だと、仏は無理でも菩薩の道を歩もうという大乗仏教系の考えは全く違うとならないのでは? >>31
繰り返すが、心理学がいうところの「人格成長」は、心理学という芸事に上達するだけのことで、日本語で言う「人格」、すなわち道徳観念、が改善されるわけではない。
そのあたり、アメリカの心理学者はクールに割り切っている。たとえばコーチングが上達すれば、対人関係を上手にこなせるようになるだろうが、心そのものまできれいになるとは考えていない。
物理学が上達すれば計算が上手になるだろうが、心がきれいになるとは限らないのと同じだ。
アドラー心理学は、共同体感覚という概念があるので、ただ技術が上達するだけでなくて、その技術を自分の利益のためにではなく人々の利益のために使うから、心はきれいになるだろう。
しかし、仏教とは違って、それで悟りが開けることもないし、仏への信仰が芽生えるわけでもない。 仏教から見れば、共同体感覚が成長したアドレリアンなんて、我欲の使い方が巧妙になっただけのことだ。
仏の前では、極悪人もアドラー心理学の達人も、同じように迷える凡夫でしかない。それでもしアドレリアンが「私は極悪人よりは仏に近い」と思っているなら、極悪人よりもいっそうタチが悪くて仏から遠いと、仏さまは思われるかもしれない。
ともあれ、もう一度、「人格成長」という言葉を、本来の西洋的な意味で理解しなおす必要があると思う。心理学は「心理道」ではないのだ。
アドラー心理学以外の心理学はただの技術だし、剣玉とそんなに変らない。アドラー心理学だって、そこに道徳的お説教がくっついているだけで、それでどれだけ「人格者」になれるかは、いささか怪しいかもしれない。素行の悪いアドレリアンも実際にいるしね。 人間には無限の可能性が眠っていると言った世迷い事を信じる程能天気ではない。
そんなものを心の支えにしなければ成り立たないモチベーションなどろくなもんじゃない。
まあそんなことを本気で信じ込んでいるのは一部の勝ち組だけだろうが、
なんとなくそういうものとして受け入れることで、容易く人生に絶望する凡人を量産しているのも事実。 愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかける事である。 >>33
思想とか語り口調から野田さんの影響を強く感じる
俺は仏教をそんな神格化してないから、アドラー心理学と大差ないものって感じるけどな
>>34
無限の可能性云々はアドラーよりも仏教やコーチングの思想だね
べつに間違っちゃいない考え方だし、勝ち組とか関係ない気もする
無限の可能性あるし、アドラー心理学で生き易く生きるくらいしても良いよねっていう
建設な側の勇気に繋がるならそれで良いんじゃないってくらい 誉めるっていう勇気くじきにあった場合、対処としてはなにがあるんや?
よく親にされるんや。自分が自分の意思でそして好きでやってるのに誉められるとすげー気分悪くなる 反応するのはあなたなのだから、いかようにでも
やめさせることはできないからね >>39
確かに相手を変えることはできないから自分を変えればいいっていうのがアドラー心理学なのは知ってる。
けど、具体的にどういう対処を処理を自分の中で39はするのか、39が言う、いかようにもを例えばで教えてほしい > 相手を変えることはできないから自分を変えればいい
アドラーが本当にそんなこと言ってたの? >>40
にっこり笑ってありがとうと言うよ
私なら
余計なことも言うかもしれないけどね
「毎日ご飯作って立派だね、偉いね」とかw >>41
アドラー心理学の知見に立つとそういう考え方があるっていう意味やで アドラーが本当に相手を変えることが出来ないと考えていたならば、
アドラーは自分の学を作ることなく、ただ一人自身の考えの実践者として
黙々と生きていればよかったじゃない
実際、そのように生きてる人はたくさんいるし
だけどアドラーはそのような人と違い、言葉を用いて人を変えようとしていた
少し丁寧に言えば、虚構論を用いて人を創造的な生へと導いていた
カウンセラーのその場限りの言葉を、どの文脈にも通用する普遍的な言葉として
用いるのは、あまりいい効果を生まないと思うよ >>45
嫌われる勇気っていうのを読んだだけだけど少なくともアドラー心理学の知見にたって考えてのべている岸見一郎っていう人は相手の考えをかえることはできないから課題の分離に言及してる
そこで相手の考えをかえることはできないという考えが使われるわけだけど、俺の私見では少なくともいちいち回りの人間の考えを変える労力を使うべきではないってことだと思う
加えて、相手の考えは相手の考えとして尊重する。そして自分の考えは自分の考えとして尊重する。そういうアドラー心理学の捉え方として使われているようにも思う
まぁ、あなたの考えはあなたの捉え方で見たときには正しい。けどそれはストローマン論法にすぎない価値のない会話 これは自分のいい加減な考えなので聞き流してくれていいんだけど、
人間は自分を変えるより他人を変える方が簡単なんだよ
だから世の中にこれだけ言葉が満ち溢れてるんでしょ
神や仏ですら自分が変わるのではなく、イエス、ムハンマド、ブッダを通して
人を変えようとしたわけじゃん
人間以外も似たようなもんか
人は変えられない、なんて弱気なこと言ってたら
心を他人にいいように踏み荒らされて悲惨なことになるよw
人は言葉を使って互いに牽制し合い、互いに変化を促し合う生き物なんだよ
人は変えられないとカッコつけて割り切って生きていけるのは
にーちぇの超人に限りなく近いレベルの人たちだけだよ 確かアドラー心理学を実践すへば自分も他者も共同体感覚に向けて操作しようとする在り方になるって話だったと思う
利己的なことも話し合いで解決するならオーケーみたいな話もあった気がする
操作しようとするのが悪いのではなくて、支配的なのが良くないって論文があったよね >>42
それくらい強くなれたらええなぁ
なるほどやでありがとう😘 >>47
あなたの心を踏み荒らす人もいれば踏み荒らさない人もいるでしょ。踏み荒らすひとは一定数いてそのひとの考え方は変えられないからその人たちから距離を置いて、踏み荒らさない人に近づくことってできないかな
踏み荒らそうとするひとの考え方を変えようと努力し続ける限りあなたは彼らに囚われ続けることになるよ >>48
論文のソース貼ってくれないと何言ってるのかわからん... >>38
褒められて嫌な気分になるということは、あなたに陰性感情が生まれているよね?所属に失敗しているはず
だからまず、自分が陰性感情を使用する目的を考える
あなたが陰性感情を使うということは、あなたと親は縦の関係にあり、「あなたが親に対して勇気くじきをしている」と自分を主語にして捉え直す
あなたが親に対して勇気くじきをする目的は何かというと、所属に対して競合的な仮装目標がある、あるいは仮装目標が協力的なものだとしてもやり方が不器用で競合的になっているかのどちらか
親と対等な良い関係を築くために自分らしく活動しているのにそれに失敗しているのかもしれないし、あるいは親との関係を断ち切りたいから自分の好きな活動に没頭しているのかもしれない
もし前者なら、手段の問題なので、親と話し合って自分の気持ちを伝えてみるといいかもしれない「褒められると上から言われているようで、嫌な気分になってしまう。褒めて欲しいんじゃなくて、一人前な自分を見てもらいたい。母さんを感激させたいんだ」
後者なら、目的の問題なので、まずは親を好きをなる、ひいては自分を好きになる努力をする必要があるかもしれない
他にも考えられるけど、正体はあなたにしかわからない
ともかく自分の競合性がこれじゃないのかな?というものが見つかったら、それを協力的な案に置き換えて実際に実行してみる
自分のライフスタイルとは違うことをするわけだから、代替案を実行するのは葛藤が生まれるはず
ここで「勇気」が必要になる >>41
うん、違うかもね
自分が変わるだけの理論ではない
人間は社会的存在だから自分が変われば相手は必然的に変わる
自分が変わることから始めよう
というような趣旨
アドラーが目指していたのはすべての人が所属できる社会の実現だからね
そのためには社会の仕組みを変えても意味がない、個人の心構えを一人一人協力的なものに変えていくしかないと
だから教育や臨床に力を入れたんだよ アドラー流子育ての目的もそう
自分の都合のいい子供に育てるのではなく、より良い未来の社会を創るため、共同体感覚を持った子供を育てること
で、そのためには子育てを通じて自分まず共同体感覚を育成しなければならない >>52
話し合うしかないんやなぁ
陰性感情を選択して使ってるってのはコペルニクス的解釈で興味深かった
ありがとうやで😘 肝心なのは人を変えられるか否かではない。人は変わるかも知れないし変わらないかも知れない。
しかし自分が頭痛の時に自分以外の何がどう変わろうが変わるまいが自分の頭痛は治らない。
もちろん近くで騒がれて頭痛がより痛く感じるというのならそいつを追い出すか自分から離れれば何とかなる。
しかしそれは根本解決にはならない。 相手を変えることはできない、変えようとしない、というところに過敏に反応しないでさ、
命令や陰性感情で変えようとしちゃ駄目だよ(無益無駄だよ)という意味合いだと思うよ
こんなやり方もありますけど、試してみませんか?、とか、こうやって欲しいんですけど、やってくれますか?、というのはむしろオッケーでしょう カウンセラーとか評論家のいう事に耳をかすな
アドラーを初め偉人達と直接対話しなさい
そして実践においてはアドラーについて何も知らない人との交わりにおいて行いなさい
死んだ人はもうあなたを騙すことも操作することもないから 死んだ人を死んだ人として対話するんです
死んだ人を生き返らせることじゃありません
なんでこんなこと言いたくなるかといえば
あまりにもアドラーの名を語りいい加減なことばっかり言ってる人が多すぎるから
自分の考えを言いたいなら自分の名前で言えばいいのにね
そう思いませんか? そういう意味じゃアドラー関連で話を聞くに値するのはホリエモンぐらいかな
言ってる内容の良し悪しは私には分からないけど、冗談じゃなく本気でそう思ってる >>61
アドラースレだからしょうがないんじゃないか?
ただ、たしかにアドラー心理学の理論とはずれているような意見をアドラー心理学であるように語っている書き込みは多いとは思う
その為のテンプレを作っているわけだから、>>3,4,5,6の基本前提に則っているかどうかで判断すればいいと思う 「心の声をつなぐのが、これほど怖いものだとは」
サンボマスター 世界はそれを愛と呼ぶんだぜ >>59
まあまあまずアドラーの原書読んでみなよ
アドラー本は徹頭徹尾共同体感覚の不足にこじつけるから
アドラー→ドライカース→シャルマン→野田→岸見の系譜になっているから、順番に読んでいけば嫌われる勇気であろうと真に主張したいことの本質が見えてくるよ
少なくともホリエモンには受け継がれていないから >>55
感情は自分の内面に生まれるのではなく、対人関係において相手に影響を与えるために使われるんだよね
陰性感情を伴うエピソードには競合的なライフスタイルが潜んでいる
そして競合的なライフスタイルは協力的なライフスタイルに代替することができる
それがわかってくると自分の感情に責任を持てるようになる マイスタ ー ・エックハルトは言います。
もし自分自身を愛するならば、すべての人間を自分と同じように愛している。他人を自分自身よりも愛さないならば、ほんとうの意味で自分自身を愛することはできない。
自分を含め、あらゆる人を等しく愛するならば、彼らを一人の人として愛しているのであり、その人は神であると同時に人間である。したがって、自分を愛し、同時に他のすべての人を等しく愛する人は、偉大で、正しい。 >>37上
アドラー心理学は、「目標があれば劣等感がある」といい、仏教は「渇愛があれば苦がある」といって、この点では平行している。アドラー心理学は、目標を取り除くことが可能だとは思っていないので、劣等感を完全に取り除くことも可能だとは思っていない。
これにたいして、仏教は、渇愛を完全に取り除くことが可能だと思っていて、その方法のひとつが八正道だ。だから、アドラー心理学と八正道は目的が違うのだ。 >>68
目的の違い
苦への対処法と、生き難い考え方への対処法
別段大きく否定する程の違いでは無いように感じますよ
もっと楽に考えてみては? >>70
もっとも、仏教徒やヒンズー教徒も、話を複雑にしすぎている嫌いはある。
要は、「私」の存在は虚妄であり、「全体」の一部であって、「私」を忘れて全体の流れの中で暮らせば、苦から解放される、というだけのことだと、私は思っている。
「悟り」は、超越的でもなければ神秘的でもなくて、ただ、「ああ、そうか、それだけことだったのか」というような体験であるにすぎない。そこを通りすぎるかすぎないかで、同じことをしていても、すべて違っている。
悟る前も腹がすけば食事をし、悟った後も腹がすけば食事をする。ただ、「私が食事をする」のではなく、「全体が私に食事をさせる」点が違う。そうなれば、そこに苦はない。
しかし、これでは簡単すぎて商売にならないので、僧侶たちは話を必要以上に複雑にしたのだろう。 >>70
それも違うと思う。仏教が究極的に目的にしているのは、普通の生活を普通に送りながら、しかもすべての苦から解放されていることである。
そのためには、「私」が行動するのではなくて、「私」を捨てて、「仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆく」という実感をもつことが必要だ。
それができれば、普通の生活をしながら苦から解放される。これはトランセンデンタル(超越的)というべきではなくて、ピュリフィケーション(純化)とでもいうべきプロセスだろう。いったん悟りに向かうが、悟り終わると日常へ帰ってくる。 岸見一郎さんは三木清の本を書いてるけど、
三木清といえば親鸞研究やってた人
やはり一郎さんは真宗の門徒だったね(外れてたらゴメンナサイ
嫌われる勇気はアドラーの浄土真宗的な解釈として理解することにするよ
一郎さんには親鸞についても書いて欲しいな ところで岸見さんは京都大学で浅田彰と同じ学年なのでは?
若い頃は劣等感に悩まされたことだろね…
二人とも秀才で背が低いしメガネかけてるし…
でも方や隠居の老人みたいになってて、もう一方は時代の寵児
やっぱり信念持ってる方が最後には勝つね^^ 孫がいるっていうところも勝ってるね
老人は孫の数で競い合う
見ていて滑稽なんだけど彼らは本気
一生涯賭けて競い合うのが孫の数
人生なんてそんなもん このレスで決め付けによる先入観って恐ろしいなと思いました >>77
どのレスを見た話か知らんけど、孫云々の話はガチだよ
ワテは介護施設で働いてたこともあるから70歳以降の人の価値観ならよく知ってる ついでにいうけど、子供すらいない老人はすぐ死ぬ
これはマジ
なんでこんな大事なこと、健康なんかよりもこっちの方が大事なのになぜ誰も触れないのか
ヤバすぎて単に触れられないのかw 日本人の寿命がどんどん延びているのは人々が孤独から解放されつつあるからなのですか? >>80
今8090の人らは当然のように孫やひ孫がいるから
そんな中で子供すらいない高齢者はバンバン死んでる
このことの意味を各人よく考えましょうw
マスコミは若い人に子供作らせたくないから
篠田東高先生のように、子供もいないけど100歳まで元気に生きれました!
みたいな話をやたら取り上げるけど、あれは例外 じゃあ今は子供いない結婚しない人たちもガンガン増えてるからこれからは平均寿命もどんどん短くなるの?
人生100年時代とか言うけどそんな時代は来ない? >>82
さあそれは私には分かりませんね
今のところ、100歳でイサクを授かったアブラハム(よくそこまで辛抱した!)
の頃から人の道ってのは大して変わってない
今後20、30年で何かが変わる可能性がないとは言い切れないけど、
でもないでしょうね
子供孫ひ孫玄孫のいる人たちの寿命だけがずっと延びて、それ以外の人たちは
年金受給開始年齢の前に死ぬでしょう 原因論の本を読んだら
毒親の子は主体性がなくなるらしい。
主体性なんていらないよな 自他の線引きをきっちりつけること。
自分の立場ですべきこと、する必要のないこと、すべきでないことのラインを明確に。 おまいら!結婚はコスパがどうとか言い訳してないで早く結婚して子供作って家族に囲まれて幸せに長生きしろ\(^o^)/ >>84
だからあれほど言っただろうに
聖書を嫁と
いや、このスレでは言ってないけど…
モーセ五書は小中高12年で学ぶことの数兆倍の価値ある言葉が書かれてるよ
quranだっておそらくそれに匹敵するぐらいの価値ある言葉が書いてある、はず
現代は嘘と偽物ばかりが持て囃される時代だからね、気を付けた方がいいよ 普通でいることへの勇気みたいに言うけどさ
最近、幸せって普通の中に満ち溢れてるなって感じる
普通、めっちゃ最高やん 自己啓発本にこう書いてあった
人に与えろ、とりあえず、募金してみろと
3万円、募金してみた。
貢献感よりも、自分で何か買えばよかったという後悔だけが残った。 何度でも諦めずに探すことが僕らの挑戦(ラブライブ) ま、全て心、内面、気の持ちようの問題だってことだよね
幸せかどうかってのは >>91
君は自分がもっと欲しいからという動機に基づいて施しをしている。それだと商売で宣伝のために無料で試供品やサンプルを配っているのと大差ない。
それでも出すもの出してるので受け取った側は何の足しにもならないということはないし何かお返しはあるかも知れないが、もっと効果的な方法がある。
それは一切見返りを求めずに施しをするという動機のみで施しをする事だ。
これは難しい感じがするかも知れないが実は無意識に誰もがやっている。苦に感じないからやっている自覚がないだけだ。
分かりやすい例では自分の子供に食事を与えたりする。これは無意識にそのようにしたくなるからそのようにしてしまうだけだ。
(食わせておけば後で何かが返ってくるなどと考えてやってる親は一部の病的な親だけで、それは病気なので別問題)。 >>96
それ結局返報性の原理を使ってるだけ
しかもアドラー関係ないし アドラー学者になりたいのかアドラー心理学の実践者になりたいのかが問われている。 >>91
3万円がお前にとって大きい金額だったって事だろう
こういうのは自分がまず満たされていて、痛くない金額じゃなきゃ意味がない
300円とかでいいんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています