空を覚る・極無自性心・秘密荘厳心
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テーラワーダや現代の分別論者への教化として、おそらく大変適切と言える言葉を見つけました。
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それは
「自分がそうだから他人もそうだろうとは思わない方がよい」
という言葉です。これは知恵袋の次の質問
諸法空相と色即是空の違いをわかりやすく教えてください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10224252255
に対するsam********さんという方の回答(BA以外)です。
確かに、空について自分らがよくわからないからといって、誰しもがわからないと思い込むのは変
だと思いますし、それこそ妄分別です。龍樹も
「行為と煩悩を滅すれば解脱に到る。行為と煩悩は誤った認識から生じ、それらの妄分別は戯論から生じる。そして
戯論は空によって滅される」と
いうようなことを言っています。空を否定しようとして攻撃している分別論者らの妄分別さえもが空によって滅されてしまうのです。
また先に挙げたsamさんによれば、「正解が分かりにくい時、分かりやすく誤解するくらいなら、分からないままにしておいた方がよい」
とのことですが、しかし、それも一理はありそうではあるのですが、これまでに空について説かれた膨大な論書、
現代にいたる学術書や出版物等によるディスクールはどう扱えばよいのでしょうか? 近年でも
スマナサラ長老や苫米地氏による極めて粗雑な誤解に基づく本が出版されたり、あやしげな動画が氾濫しており
今更分からないままにしておける状況にあるとは思えません。
そこで、先の質問には他に大変示唆に富む回答やコメントが満載されているように思えますので
今後、引用させていただきたく存じます。
質問者さんは
(λ+涅槃寂静)÷ℏ➡零≒Λ×∞さん
というユニーウなHnの方で、まだそんなにQA数は多くないようですが、QAともに解決率が100パーセントで
刺激的なコメントを繰り出しておられる人のようなので、とても参考になります。
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202009300001/ 諸法空相と色即是空の違い
カテゴリ:カテゴリ未分類
色即是空とは、大変有名な四字熟語で、皆さんも目にされたことはあると思います。
これは、五蘊という人間の身心を構成する五つの要素のうち
身体(人によっては、身体の成長に影響を与える意識原理の一つと捉える方もいるようです)を指す
色蘊というものには実体が無い といったことを言っているのですが、
諸法とは一切の事物という意味ですから、二つの語は同じことを述べているのですが、色即是空のほうは色蘊だけに限定して
説いた語といえます。
また諸法実相という仏語もあり、実はこちらの解釈も多々あって、
般若波羅蜜とするもの、
言語や思考を越えた絶対否定の理とするもの、
あるいは空・有を越えた絶対肯定の中道の理とするものなどと
辞書では説明されています。
心経では、諸法空相のあとに不生不滅 不垢不浄 不増不減 と続きますが、究極的には皆平等で差別の無いことと
説明されたりしますが、実際、現代科学の視点から見ても
エネルギーの水準で考えれば
エネルギー保存の法則などは誰でもわかり、そうした解釈も可能かも知れません。
全ては相対的で総体としては増減も無く、時間の概念すら幻想と悟れば、長い年月に亘る変化の全体より見渡した時に
目先の現象が生滅するありようも一瞬の幻と変わるものではない。
と書きましたが、実に様々な表現が有り得ます。
心経については、いくら解説しても尽きない気がします。弘法大師が
真言は一字に千理を含み・・・
と書いたのは、まことに真実であり、それは心経全体にも言える言葉のような気がしています。
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202009300001/ 色即是空の「色」の解釈について
>色蘊について
人間の身体とあっさり書いてしまいましたが、物質や形態、さらには
物自体というより
道教で陰の気に属し肉体の成育を司るとされる「魄」に近いと見る人もいます、
また4ヵ月ほど前ですが5chという掲示板に
色即是空の誤りというタイトルのスレッドが立てられたそうです。その冒頭部に
色即是空の解釈として「有は無」というような話が書き込まれていたようですが、
有という解釈も変ですし、空を只の無と捉えるのこそ誤った解釈の典型例で論外だと思います。
また色即是無といった誤解も幼稚な誤訳からの逆輸入と言われ、
仏教は数学では無いので、即是を単純に等号として捉えるのも奇妙だと思います。
空の多様な解釈については先に行って細かく論じる予定ですが、
これだけ低品質で冗談を通り越した只のデマみたいな逆宣伝的言説の羅列は、
何か日本人の伝統的文化や宗教心を破壊しようとでもいった陰謀さえ疑いたくなるほどです。
またコメント中で
「心経は空と大乗仏教における菩薩のさとりについて説かれたお経」
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202009300002/ 続き
「現代科学でもエネルギーと物質の上位階層にある何ものかを想定し始めている」
「ヤコブ・ベッケンシュタインが現代科学のトレンドを要約した記事では
科学者たちが"物理的世界は情報でできており、エネルギーと物質は副次的なものであるととらえる"ようになるとの示唆が含まれていて、
Eとmのより上位に位置づけるべきものとしての「情報」や
大乗仏教的に想像すると、一つには「一心縁起」とか考えられます」
「色蘊も原因と条件から成立し、何かの要素が少しでも欠ければその形にはなれなかった無実体な現象」と教えているのは結構鋭い。
2番目に回答されているzidさんは、
「玄奘三蔵法師が、般若心経を編纂するさい、物、物事への執着という意味で、「色」という漢字を使った」と
書いていますが、それの否定こそが、こうした般若経典の眼目でもあり、(恐らくは日本語に付着した多義性から)質問者さんが
性的なニュアンスを連想した気配的なものも、当然、物や形に含まれる筈だと思います。
若い真面目な僧が性に纏わる煩わしき悩みを克服しようと
「女性の魅力などというのは幻であって実体無きものだ」と奮闘している様子は
微笑ましくもありますが、実際問題として、
「化粧品業界がビジネスとして成立し隆盛を極めたりしているのを考えると、性はつくられた幻想で、その想いじたいも実体の無いものである」
のは真実かも知れず、人は種や社会、家系等の存続のため、あえて文化の中に仕掛けとしての幻を組み込んで来たといえるかも知れません。
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202009300002/ >アナートマンという方便に執着し過ぎた仏教
インド哲学が専門の国学院大の宮元啓一名誉教授は「無我説などというゴータマブッダが聞いたら
びっくりするような」説は理論として成り立ちそうにない
といったことを書いています。
それら低い無我観に基づくスリランカの現代の長老も、自我は幻想と
実は五蘊皆空と或る意味近いことを言ってもいるのですが、空の解釈と
それらを繋ぐことはできません。どうやらこれは政治的なもの、旧来のブッダゴーサ以降に形ができたドグマへの固執に
基づく大乗仏教全体への感情的な反発に由来する攻撃なのだと気付いて来ました。
しかし筆者の立場としては、あくまでもまず、
ブッダの中の道、
単純にアートマンに固執するのでもない真諦の立場をとりたいと思惟しています。
「アートマンを、どのように捉えてますか。」「尊師よ、意なるもの、法界の我と捉えます。」
「遍行者よ、滅想受定は、無色界を越えてます。」
「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、つまり、真我なるものは、存在するのですか。
それとも、真我なるものは、存在しないですか。」
「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。無我を観じられないと、真我を感じられない。
これは、確かめるべきであり、語るべきではない。」
ブッダはアートマンを語るべきでないと説いただけで
否定したわけではない。
しかし非仏教徒の方便としては、マハルシのように「私は誰か?」と問うことを教え、真我の探究を説く教えもあります。
方法論が逆なだけで、行きつくところは同じかも知れません。
テーラワーダは何故、空が理解できないか?
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202009300000/ 天台本覚思想のルーツは法華経と十住心論か?
アートマン思想の大乗仏教・密教における発展形として、心真如や
如来蔵、本覚思想があると考えられます。(言葉としては円成実性や心王、一心など種々存在します)
道元など大変ユニークな問題意識を含み、庫を開く秘密荘厳住心の深秘釈
はじめ、後世に影響したと目される秘密の教えもあります。
先の質問のBAの中でも
>我空法有は阿含経、我空法空は大日経等の方等部の経典です。
般若経は、さらに中道を示した経典で空・仮(色)・中(中道)の三諦を示しています。
華厳経はこの空仮中の円融を説いていますが、唯識の立場から「心が造る」としています。
法華経では空仮中の円融をさらに深く示して、「造る」のではなく、元々「具わっている」と説きます。
このことにより、即身成仏の法理が示されたことになります。
>空海は
大日経の「秘密主、云何なるか菩提。謂はく実の如く自心を知る」
を以って、法華経と同等と言っている
と説明があります。また「一念三千」について、大事な話だと示唆を与えようとしていますが、一つの見解です。
これについては、他に譲ります。 本覚に戻ります。本覚とは
一切の衆生に本来的に具有されている悟り(=覚)の智慧
衆生は誰でも仏になれる
という本来の覚性(かくしょう)を言い、
修行の進展によって諸々の煩悩をうち破って悟りの智慧が段階的にあらわになる「始覚」 に対し、
智慧のより根源的なありかたと説明されるのですが、
ある方によると、普段は表にあらわれないけれども臨死体験や深い瞑想時にだけあらわれる至上我=仏性なる
意識は右脳にいて、日常的な欲やエゴに支配される五蘊は左脳にいる意識と説明されます。
筆者も最近、その説明に説得力を感じることが多くなっています。それで説明できると思うようになりました。
自分が仏と同じ存在であることがわからなくなっているのも、ブッダの教説を十二縁起などの狭い解釈に限定し過ぎているからとも
考えられ、本来の仏説では二支縁起であったのが後代発展されたものとも捉えられ、ただそれは因縁の相関について
論じたものに過ぎず、それらを超越する解脱への道こそが本意なのだと考えられ、妨げるものは五蘊=左脳のエゴと見做せれば
簡単な話になのです。 ブッダの四聖諦とパッション(キリストの受難)
パッションという英仏等の単語が意味するものは、ブッダの四つの聖なる真理のうち
苦諦と集諦の関係を示唆してるのかも知れません。
passionは情念、熱情を意味すると伴に受苦、受難などを意味しているのですが、
それは、語源的にギリシア語のパトスpathos,ラテン語のパッシオpassioに由来し,元来,他から働きかけを受けることを意味している
とされます。
キリストの受難劇は、まさにブッダの”執着という原因によって苦という結果を受ける”という苦・集の諦(真理)を示してるとも
とれるのです。しかし、キリストは、あえて苦を受けてまで神の道を、危険な情熱を示してまで説いたともいえます。
そしてブッダは、そこから更に先へ進み、道諦の実践によって、一切のものに執着しない心境に到れば、涅槃という滅諦の境地に到る
ことができる
と説いたわけです。
ここに西洋と東洋の二つの教えの違いがあらわれているともいえます。
ブッダは、内なるパトスによって人々に教えを説いたのではなく、それらパトスも綺麗に吹き消し、
衆生に説くのを寧ろ躊躇いながらも、天部に請われ、法を説くに至ったのです。その辺りの経緯は梵天勧請伝説と呼ばれています。
人生、なにごとも意の儘には成らぬもの。我欲を通そうとすれば、周囲の抵抗、他からの意に沿わぬ働きかけを受けることもあります。
それら五蘊や諸法を苦と見て、一気に捨て去って行くのが東洋的な解決策かも知れません。
ただ、その場合、闘う相手は外ではなく、内なる五蘊に住む我執や我欲という悪魔になります。
この悪魔はなかなか手強く、容易に調伏することは出来ません、しかしその悪魔を
真の自己たるブッダ=(五蘊に非ざる)我が
完全に調伏し尽くした時、無上のさとりが訪れると言えるかも知れません。 真の自己や「我」の意味を考えさせてくれる
ユニークな投稿がありましたので掲載させていただきます。
>自我を越えて大我にいたるを梵我一如や即我宇宙や真我や眞如(さとりの真理)という
>五蘊もエゴも空と悟ることで悪魔は我に調伏され、
神も我に帰依すると説かれている
>釈尊が無限の前世はだれであろう
あなたや私である。
これが真実のブラフマンの奥である。
意識の形態は上に行くほど一つに集約され、
下に行くほど分裂をする。
>宇宙は三界の頂点の一つの存在が一度に観ている夢である。
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010010000/
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010010001/ ┏━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┓
┃仏説摩訶般若波羅蜜多心経
┃観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
┃色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。
┃是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中無色、
┃無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
┃無眼界、乃至、無意識界。
┃無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。
┃無智・亦無得。以無所得故。
┃菩提薩陀、依般若波羅蜜多故、心無掛礙、無掛礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、┃
┃究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
┃故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、
┃能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。
┃即説咒曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
┃般若心経
┗━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┛
為 開運招福 心願成就 諸願成就 満願成就 也 >執着をもって仏教を語ったりしたら、どういう報いがあるのだろうか
少なくとも、何か著作権も主張できない四字熟語を
使ってスレ立てしたら、犬のマーキングみたいにそこは自分のテリトリィだみたいな妄想は
犬の中でしか通用しないのに犬は所有観念を持つ
>犬がマーキングした電信柱とかを
自分の領土だと思い込むのを所有観念と呼ぶのは変ですかね?
動物行動学でも動物の観念とはいわないような気がしますが、しかし
犬は勝手に領土だと思ってるのです
>ただその彼らの思いというのが
言語的なものでないことは確かといえる
ただ前意識的で情動的な執着
だけがある
>だから執着というのは
言語以前に、他の動物も持ったりするパトス的なもので
猫でも、ある場所がいいとなると、そのエリアに居座ったり、他者が近づくと
偏執病的に情熱を顕わにして威嚇攻撃し苦痛を及ぼす
阿含厨について
>外野が自分を監督みたいに錯覚してたら
と書いてるって、ちゃんと気付いてるのに。監督のつもりになれるのは、最初のスレ
主という所有の誤解、妄執があるから >言うまでもないことですが、電信柱は犬のものではありません。
しかし実は人も暴力によって地球上を支配してるだけで、社会が崩壊し
人類滅亡したら 犬のものになってしまう
のかな?
>(その妄想は空だよと教えてもわかんないのが厨房で)
外部の対象も、犬にとっては
色即是空 という自分所有の印のついた字形が見える電信柱なんですよ、
きっと
>色即是空とは、犬と関係無く、外部にある対象となる形であり、
”の誤り”が、犬が付着させた小便であったが、それはサーバの外部記憶装置に
残っている古い情報に過ぎず、実体は無い。同様に犬の内部に付着してたらしき妄
執にも実体は無い。
>犬の法というものがあるとするならば(法有の立場)、電信柱に便を付けるという行為に
実体があると犬には思え、便を付けることで柱をものにしたと思い、自分所有の意識に執着する。
しかし我々には、犬の世界は関係無い(法空)。というか、そもそも犬という種全体が妄想を抱いているに
過ぎない。そのように五蘊によってプログラミングされた通りに行動している。
>わかったのは、犬には空が理解できない、ということ
テーラワーダも空が理解できない。
南伝には悟りがちゃんと伝わっていない。
酢魔や豚魔も同じ 先に多義的ということを書いた空の意味ですが、
筆者なりの見解を述べますと
1)執着に価せぬもの(と観ずべきこと)
これは「色即是空の「色」の解釈について」で触れた
「玄奘三蔵法師が、般若心経を編纂するさい、物、物事への執着という意味で、「色」という漢字を使った」
という話に鍵があります。つまり、そうした五蘊に付着した苦の起源を一つずつ否定する動機が
色即是空という熟語の根底にあったと考えられます。
また龍樹によれば。ものの存在を前提にしない只の空は無く、
2)ものの欠如した状態をあらわす
3)戯論、妄分別、誤認識を滅するもの
と説かれ、
それらから、ブッダの四つの真理のうち、道諦と滅諦を示す
との解釈もあります。
上記1)とする動機、また2)、3)より
「煩悩と輪廻の因たる妄執を滅尽するための方便」
と解きます。 >「色即是空」と般若心経の深義 というスレッドに
様々な解釈が挙げられていて感心したのですが、その中で
これは と感じたキーワードを一部挙げますと、
無実体、幻想・虚妄、非我、人法二無我、(一即)一切、全、不二一元、虚空、エネルギー、
真実には存在しない、般若の浅略釈、本質、仮のものは仮の現象と観察できる事、四諦を直観で見る事、
五蘊を悪魔と見て遠ざける事、識を越える事、妄分別の滅、世間のいかなるものへも執取しない態度、
依他起性、苦の因を滅し安楽(涅槃)に変える智慧、無戯論、感官から完全に悪魔を締め出した状態、
理法、清浄、無所有、平等性智、彼岸に渡った菩薩の心身のあり方、一切の顛倒夢想を遠離した境涯、現象の三世に亘る全相貌、
万物の実相、非相、般若を世間法即涅槃と悟る為の方便、菩薩乗(菩薩の生き方)、左脳の初期化・右脳のロック解除、究極的な物のあり方、
法則、宇宙の最上位階層に位置する「情報」、一境性、無色定で感得する微細な意識、主客無分別な現量、
無執着、一切に囚われない心境、完全に執着を離した状態の実現、 心解脱、如来の智慧が遍在する処、寂滅、一心縁起、宇宙全体、仏がいる処
色即是空の解釈も膨大な例文が挙げられていますが、その中で、(少しアレンジしますが)
執着を離れ、束縛から解放されるため、「全ての現象は幻の如きもの」
と観察する事が、この四字熟語の良い解釈例と言えるかも知れません。
確かに禅定における一境性や無色定を体験しないと理解しようのない世界との意見もあり、
上記に挙げた以外にも、まだ有得るでしょうが、ここまでのお話を 詳しく根拠や典拠をあげて解説したら
本一冊ぐらいでは説明できそうにありません。ここでは大雑把なアウトラインといいますか
一つの見解に基づく方向性を示したに過ぎません。
真実は、ご自身の体験を通して
確かめていかれますよう御願い致します。
空についての見解
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202010030000/ 0=1-1
0=∞-∞
if -1 → 0 then
0 → 1
>それは無記
無駄な質問はしないように。
>仏教は数学じゃないから。そういう禅問答みたいな謎解きは
釈迦は無記といって斥けてる。己の脳に刺さった毒矢をまず抜けと
>それでもしつこい害虫のために説くなら、左脳のマイナスの個我をゼロクリアしろ。
そうすれば自ずと右も視界ゼロから一元へ上がる
>早い話。左脳といってるのは諸法のことで、これは自分の小我を通そうとすれ
ばするほど不如意が増大し、やがて主体性まで消えて唯の客体にされてしまう。
ナンミョ〜などと害虫みたいに執着すればするほど苦が増大しただろ?
だから、それゼロにしなさいと
創価厨
数学史における「ゼロの発見」
>ブラフマグプタと言う方もいたのですが、実は起源は曖昧だった
>3年程前に、オックスフォード大学の研究者によって、インドの3〜4世紀頃のバクシャーリ写本の中に、数字のゼロに言及
した最古の記述が特定された、というニュースが配信されていました。また、
もっと古い時代の文化でも、マヤ(貝の記号)やバビロニア(二つの楔)など、似たような代用語が用いられていた事がわかっています。
さらに四千年以上前の古代文明でも、その通りだったかについては疑問が残ります。
というのも、高度な数学の概念無しに
例えばギザのピラミッドなどが作れたか(人間が作ったのだとすれば)は謎です。
建造物の方位の誤差も限りなくゼロに近く、
>正四角錐をなす4斜面は東西南北の基本方位に正確に正対しており、平均誤差はわずか0.05度しかな
く、同様に東西南北に正対して17世紀に建造された世界最古のパリ天文台の誤差が0.25度ある のに
対して平均2.5トンの石灰岩ブロックを二百数十万個も積み上げて誤差を0.05度内に収めることは、
現代の最新建築技術をもってしても不可能とされています。
以上の事からも、実はもっと大昔から概念は判っていたのでは
と考える人がいても自然 要するにグラビアアイドルのfカップとかgカップっちゅうのんが
栄進的に言えば、シューニャ=膨れ上がったゼロ
な訳だな。たとえゼロが7個つく利益を得たとしても。つっつけばすぐ破裂
してしまう風船のようなものだな
153栄進軍曹2020/10/14(水) 15:57:09.66ID:pTCSpRXY
なら、なんで韓国人の慰安婦像の粗製乱立を日本人は非難するんだ?
慰安婦は日本軍の誇り高い伝統であり人類の模範とすべき遺産やん
どんどん慰安婦像を世界中に建てまくって日本軍の厳正な規律正しさをアピールしたらええがな
皇居の隣に全高100メートルの巨大慰安婦像のモニュメントを建てるべきです >日本は年間に15万体以上の変死体がでるけど解剖数は5000体程度、結構他殺体の見逃しありますか?
1時間ぐらい前にやっていた相棒で
変死体(実際は薬物による他殺体)を病死として片づけられた事件を
右京さんがほりかえして他殺を疑い、他殺が発覚した。
そこで、最後に右京さんが
「 日本は年間に15万体以上の変死体がでますが、解剖されるのは5000体程度で
残りは表面しか調べない、この国のシステムはよくない 」 みたいに語ってました。
竹内も薬物による殺害?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14232616529?__ysp=6Jas54mp44CA5LuW5q66 広告などもそうだが、実際以上に外見を良く見せる人がいた時に、
その外見は見せかけだけのものだよ、という事。で、そうじゃなく素のままだよ、と
いった感じのイメージを売りにしてたとしても、メディアを通しての露出である以上、
それも虚構であって、演出された上辺のみの表層的な物という話
ニカーヤだろうと 法華経だろうと
キリストだろうと女だろうと
執着させる形ある物というのは、悉く
皆空なり。と説く
それ取る五蘊も亦、
空なり。 >>121
日本は、資本主義的自由主義国家体制だからな。
不正競争防止法
第21条
2 次の各号のいずれかに該当する者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、
又はこれを併科する。
五 商品若しくは役務若しくはその広告若しくは取引に用いる書類若しくは通信にその商品の
原産地、品質、内容、製造方法、用途若しくは数量又はその役務の質、内容、用途
若しくは数量について誤認させるような虚偽の表示をした者(第一号に掲げる者を除く。) >現代において「唯幻論」を説く論者
>岸田秀など。
源流? それは吉本の共同幻想論。
戦前戦中の日本人が洗脳教育で叩き込まれた価値の崩壊から悟った真実や
動物行動学などの知見から岸田氏が「人は他の動物と違って本能が壊れている」と気づいたことを
「ものぐさ精神分析」の中で
人が幻想に踊らされる存在だという精神分析の視点から書いていた。
アーサーケストラーのホロン概念ともどこか通底する問題意識がある。
さらには仏教の空観やヴェーダが先駆
二千五百年の間に消えてしまった教説もあったかもしれません。
また影響を与え合ったヒンドゥーには
はっきり残っているけれども
仏教には少ししかないというようなものも。
>歴史は意地悪で歪め放題かも知れないのです。
インドでは一旦仏教は滅びましたし、
生き延びた一部の派閥は、よその国の
もともと文化も宗教観も違う人々によって作られた集団でしたし、
そもそも言語の問題もあった
今あるパーリ五部について
たまたま分別説部がまとめて所持していたものが残ったにすぎず、
実際には部派ごとに所持している経典は違ったのだから、
原始仏典にしろどこまで仏説かわからないし、失われた原始仏典もたくさんあった
と言う人もいるようですが、失われたと思われている部分の一部が大乗経典に流入している可能性は・・・ >実は何も無い空間こそが物事始まりと終わりなんだけどね
其処から生まれた物事が暫く存在して消えて元の何も無い空間へと戻るだけ
本質は生み出された物事にではなく 生み出す空間そのもの
>その空間は縁起で成り立ち、「空」と称された、
スタートを自覚した時点で中観で生きることの実践へコミット 喜びをあたえようとして、した行為が実は相手は喜んでない
それどころか逆に迷惑がってて、悪影響もある。それでも仏教は
動機が重要だから、俺がよかれかしと信じれば、それは善という理屈は
屁理屈で、唯の悪業だな 唯識では、種子が蔵されるのは、あくまで蔵識である阿頼耶識です。
蔵識に蔵することにおいて「能蔵・所蔵・執蔵」が言われます。
「所蔵」は末那識を含む前七識によって種子が薫習される蔵だよという概念。
「執蔵」は、末那識という自意識によって「虚像」が描かれる場所
という概念なので、蔵される場所はあくまで阿頼耶識ですが、
末那識の働き(現行)した結果の蔵だよという意味です。
>末那識は種子が現行される場で薫習(蔵される)場ではありません。
で正解です。
「執蔵」をごくわかりやすく説明すると
「執」=末那識 「蔵」=阿頼耶識 です。
末那識「執着という自我意識」が働くと、その汚れた結果が
種子となって、「蔵識」である「阿頼耶識」へと蔵される
という意味です。
>ダライ・ラマのチベット密教では、
空=智慧
と見ているようなので、
やはり、瞬間的に現れる四智から、
マナ識を把握するというのか、正確 >末那識というものがあるのではないので
阿頼耶識というのがあるのでもないし
種子があるのでもないですよ。
すべての識(八識すべて)がわれわれの心のシステムをわかりやすく
佛教用語でアナライズしている際の仮称です。
で問題は、自我意識が我々を惑しているので
それを末那識と名付けて、その自他差別する自我意識である末那識自体が
自他を平等に見るように転換されると平等性智になると
唯識が考えている フロイト的に捉えても
第七識は前意識や無意識で、意識に覆いかぶさって精神活動に影響を与えるものですから、
志向作用など人の意思決定に最も強い影響を及ぼす領域と言えますね。
また精神分析的用語ではエスとも呼ばれ、古典的には性欲が大きな動機と見做されましたが
構造主義以後では性だけでなく、欠如した何かを埋め合わせる、ー誰かも言ってたーオフセットの傾向も重視されるようになりました。
よく話題にされる方については、他人からのリスペクトへの渇望が
己の経験内での欠如の埋め合わせとして現れてるのかも知れませんね
仏教的には行蘊、カルマの作用が大きいのかも。過去世・無始の貪瞋痴による身に染み付いた垢といったところでしょうか
しかし過去世からの習気と言ったり、客塵煩悩と言ったり、色々ですが、識の汚れによって、それに相応する汚いものが寄って来るという
ような妄想っぽい見方もあるみたいです。
衰退グッソーに関しては、何か屈折した虚栄心が
この手のスレで思慮不足で聊か調子こんだ書き込みをさせる動機になってるのはわかった。
もう一匹の自演魔については、幼児的な自惚れと
痴呆老人特有のせん妄症状が合わさったようなストレスや傲慢さがあり、禅をしてたとかいっても
それはただ妄想を好き勝手に飛ばしてただけで、正しい内省で自心の根を客観視する取り組みは全くしてこなかったのはわかり、
つまり究極的なさとりどころか、顕教での塵を払う取組みすらしてこなかったのだと知れる。 >阿頼耶は現量
末那識は非量
意識は現量・比量・非量
阿頼耶識
↓ ↓ ↑
↓ 末那識
↓
意識
新しい情報は
意識
↓
↓
↓
阿頼耶識
>角川ソフィア文庫の『唯識とはなにか 唯識三十頌を読む』が末那識を解説して
「彼に依りて転じて彼を縁ず」の
「縁ず」とは「認識する」ということとし、
「末那識は阿頼耶識を拠り所として出てきた転識であり
そして阿頼耶識を認識の対象としている」と説明しているわけだが、
「末那識は阿頼耶識に依って生まれた識だが
同時に末那識は転じて、阿頼耶識を対境として働き
阿頼耶識に種子を蔵する」 455神も仏も名無しさん2020/11/06(金) 11:23:20.54ID:vjh9Ilsx>>460>>472
「TU選書3『唯識三十頌』を読む」 廣澤隆之を薦めておく。
サンスクリット・チベット・漢訳と現代語訳が対照されている
さて大山君お勧めの法相宗の多川俊映どんは 『唯識入門』 春秋社 p33で
「初能変の心とは, 阿頼耶識のことです。
過去のあらゆる体験・経験の痕跡をかならずとどめているという阿頼耶識が,
私たちが事物を認識するとき, まず, ものを言うというというのです。
経験の深さというものは, やはり, ぬきがたいものなのです。
第二能変は, 末那識です。 自己への激しい執着が認識対象を能変する―。
そして, それらの影響のもとで, 意識・前五識が具体的な了別作用, すなわち, も
のを知り分けるはたらきを起こすのだというのです。
しかし, その時, たとえば気持ちを集中して見・聞きしている時とそうでない時とでは,
見えるもの・聞こえるものがおのずと違ってきます。 注意するということは意識などの了別境識
のはたらきですから, 意識が認識対象を能変しているわけです。 これが第三の能変です。 」
と書かれておる。
末那識が、自己執着で阿頼耶識を能変して、その能変させられた阿頼耶識が
意識・前五識に影響して、ものを知り分ける働きを起こすと一連のものとして
理解されていることを指摘しておく。
大山君は全体像を理解せず、断片だけを見て絶対化して
誤読しているのである。 >よいレスがあったので掲載するよ
無明・・・マスクをしてて、よくわからないけど美人かも知れない。わからないという無知と煩悩から好奇心もそそられ魅力を感じるという迷いが生じた
行・・・無始の貪や業による身垢離より生じた潜在的形成力、習気から醸成される志向作用によって、対象に誤ったアプローチをしたくなる、し始める
識・・・識別作用が働き、妄分別により、選別を行い、対象に好きという感情を持つ
名色・・・肉体と心について、様々な形態面での属性や名前を知る
六処・・・眼耳鼻舌身意という感覚器官で対象を捉え、受けとめる。相手の情報が入って来る
触・・・六個の感覚器官によって対象と接触が為される
受・・・接触による感受が発生する
愛・・・対象に 渇愛、妄執を起こす
取・・・対象に執着するようになる
有・・・生存のための様々な苦しみを実感する。さらには存在すること自体が苦であると、遍在的な苦の認識を持つに至る
生・・・子供が生まれる。
老死・・・わぁ、こんな恐ろしい婆だったのか!! と気づいたり色々老いに直面したりして、無常・苦・非我を悟る。やがて死ぬ。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1604670002/ 意識が第七識を意識して言語化したものが
「自我執着」だよ。そしてほんとうに一たび覚ったなら
以後は平等と見て、エゴは醜い幻でしかない
>阿頼耶識
↓ ↓ ↑
↓ 末那識
↓
意識及び前五識
護法の成唯識論によると、阿頼耶識そのものが執着の根本とするのは安慧の説であるといわれています。
これに反して、護法では阿頼耶識は無覆無記であって、有覆(=有執着)は転識にあるとされています。
ここでいう転識とは、我執の心であるマナ識、法執の心である意識(manovijnana)です。
これらの転識に依る限り阿頼耶識は無覆無記でありながら世俗界に縛られるということになります(第八前七相依起)。
真諦派の人達は阿頼耶識自体を執着の本として、第九識(アマラ識)を立てます。
無著も世親も「アマラ識」という言葉は出さないのですが、無著は「摂大乗論」で、根本識そのものが執着の根である、といった内容の事を言っています。
その故、真諦派の人達は「摂論派」とも言われます。
ところで八識唯識に於いての阿頼耶識ですが、これは菩薩道十地の七番目だか八番目(最後地だったかも)で、大円鏡智へと「転依」します。
この転依説ですね、唯識学者の大田久紀さんはこの「迷いの世界がそのまま清浄の世界になる」というアイデアが好き 私たちは元来仏である。仏と凡夫の違いは、水と氷のようなもので,
氷が溶けたものが水であるように,自我の妄執が融ければ仏である。
私たちは自らが仏であることを知るべきである たとえば犬と同水準にしか見えない変なおじさんが、昔の偉い学者さんとかを持ちあげる
言い回しで何か書いても、それを見た人は、「ああ、仏教とは、いぬが飼主に尻尾
ふるようにして、大昔の人に媚びるだけの情弱のすることか」と、仏の法まで
軽視しかねません 五蘊(色)の中に我非ずと照見するなら、即ち真理を体得し、是により生死の迷い(執着、苦の起源)を 空じる(消滅させる)事が出来る
1160 五種の構成要素(五蘊)を、[アートマンとは異なった]他のものであると見て、アートマンであるとは見ない人々は、
微妙なる真理に通達する。――毛の尖端を矢で射るように。
1161 またもろもろの形成されたもの(諸行)を[アートマンとは異なった]他のものとして見て、アートマンであるとは見ない人々は、
精妙なる真理に通達した。」
(「テーラガーター 仏弟子の告白」中村元訳 岩波文庫) >塩素はアルコールより強力な滅菌作用がある
アルコールを手につけたらガサガサになる程度
しかし、ハイターを手に付けると皮膚がヌルヌルと溶ける。
つまり細胞が破壊されている。
細胞破壊されずに滅菌作用があるのはイソジン
イソジンは細菌内のミトコンドリアに作用して細菌が死んでしまう。
だからうがいや手の消毒には適してる。 白隠禅師座禅和讃
https://youtu.be/Oxs2A9cwTDw
衆生本来仏なり
水と氷の如くにて
水を離れて氷なく
衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は
己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏み添えて
いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は
称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜
念仏懺悔修行等
其品多き諸善行
皆この中に帰するなり
一坐の功をなす人も
積みし無量の罪ほろぶ
悪趣いずくに有ぬべき 浄土即ち遠からず
辱なくも此の法を
一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は
福を得ること限りなし
いわんや自ら回向して
直に自性を證すれば
自性即ち無性にて
すでに戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ
無二無三の道直し
無相の相を相として
行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として
うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく
四智円明の月さえん
此の時 何をか求むべき
寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国
此の身即ち仏なり 存在とは言語である。 ???
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1604882433/59
67神も仏も名無しさん2020/11/11(水) 08:16:41.74ID:GUX3XcS5
空海さんは『声字実相義』で
1.「如来の説法は必ず文字」に依っている
2.その文字という体には実相を備えている
と考えるわけですが
世親は真逆です。
倶舎論でupacāraと言っている
upacāraとは、「仮説」と訳されるが、非有なのに有と遍計すること
と規定されている。
第一偈は
我々が、「我」と「法」とを、自分のものではないのに
自分のものであるかのように考えているという意味ではないでしょうか?
それは心の働きによって色んな種類がある。大きくわけると三つだと
言われている いぬやまが持ちだした現代語訳というのが
聊か稚拙であって浅い真言理解というか誤解による訳 と思われる。
お大師さまも、そこまでキリスト教徒並のアフォじゃなかっただろうと思う。でなければ、
弘法も筆の誤り
どうも
お大師さまも折角、中観を通りながら
また実在視に戻ったと錯覚してるのか、中といいながら深の解釈が「浅」なん
だよそれ
空海さんが言う実相とは
「ありのままの真実」という意味です。
空仮中が実相というのは、天台教学です。
でprajñāpti の訳です。
upacāra(言説or仮説)と同類の概念ですが別語です お大師さまが言う「言語」は
世俗の言ではなくて、手垢に塗れたマントラでもなく、
勝義の「真言」なんだと観察します。
たとえばブッダの苦、無常・非我・不浄を
そのまま仏の世界とは呼べません。そんなのは哀れなる凡夫の
癲倒夢想と言えます。「言語」の用い方がキリスト狂犬の戯論に過ぎず、
勝義のそれではない。
すぐに出来るかどうかというより
それがあればこそ、煩悩を滅ぼそうとして仏道を歩める訳で、
つまり煩悩は燃料、動機付けで、それ「煩悩即菩提」
と観察致します。
或る達者の三昧体験上からの見地からすると、
密教は、
現在南方仏教から言うと、生滅智、
物事が刹那に、生滅するのをとらえる智慧、
これは、大乗仏教と異なる点ですが、
この生滅智である、光の感覚と快楽を
滅せずに、三昧として活用して、肯定の認識システムを空海はやっていたのでしよう
全肯定の無分別なんでしよう
赤ちゃんの泣き声をお母さんがお腹がすいたなとかお尻が汚れたな具合が悪いと聞き分けるみたいな
言語の概念ではなくて阿吽の呼吸とか以心伝心的な一体感かなぁと思いました >存在とは言語
?確かに、言語によってつくられた存在もあり、言語によらず、つくられたのではないものも存在する。
言語=縁起と解釈するなら、その言い様は正しいとも呼べるが、しかしそれでは「言語」を拡大解釈し過ぎだな。
しかし例えば人のファッションや作為的環境は言語としても問題はない。
>弟子たちよ、生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
構成力から発生したのではないもの、が存在する。
もし、この生じないもの、成らないもの、創造されないもの、
発生しないものが存在しなかったとすれば、生じたもの、成ったもの、創造されたもの、
構成力から発生したものを認識することができないであろう
言語や思考を越えた絶対否定の理
というのが理解できないから
言語に執着してしまう とも言えますね。
或いは、聖書の解釈の誤り とか
キリスト教的洗脳を
引きずってるとか >存在とは言語 とかいう言が、たとえば声字義の深秘釈の誤解に基づくものだと
すれば、弘法大師の世界観は聖書から来てたともいえませんか? 宇宙万有が
言語と言い切るか、真言だけは諸法を包み超えた理というかで全然
違って来る訳だけど
>般若思想に、その萌芽があります、
大般若経典に。
聖書は、イスラエルの民の選びですから、
無条件です。
空海は仏教なので無条件ではありません。
空即是色の
色、すなわち、事、世俗諦、の扱いを
真言を用いて成立させようとするもので、
鹿野園君のような中途半端な西欧哲学かぶれのようなものではありません。 今更なんだけど、聖書の「はじめに言ありき」の言を、
縁起とか情報とか宇宙の根本原理とかと解釈し得るとするなら、キリスト教も
仏教や現代科学やインド哲学と同義といえなくもないと思うが、少なくともそういう
言の解釈はあまり見られなかったよね
結論を書いて締めますが、キリストは兎も角として
弘法大師にとっての「文字」とは、まさにそうした
縁起とか情報とか宇宙の根本原理とかに直結し、全て包摂する真言だったと
考えられる。 >真言といえども、因果応報を知り、うまくこなしていくための真言
>空海の文字は、聖書の意味
よりも、
仏の人格的智慧と作用を現したものです。
その智慧、すなわち真言をもって、迷いをなくし、仏の智慧を体現するものです。
鹿野園の創作学問は真に受けてはいけません。
>聖書(ヨハネ1:3)
「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。」
空海(声字実相義)
「名の根本は法身を根源となす。彼より流出して稍く転じて世流布の言となるのみ。」
聖書は言によって万物が創造されたと説き
空海さんは、世間に流布している言は、法身より流出したものだと仰せですので
類似点がありますが、
空海さんは更に『声字実相義』真妄の段で
「九界の文字は虚妄であるが,仏界の文字は真実であり,
これを真言とも秘密語ともいうのである」と言ってますので
言に真妄の別を設けられています。
>真言と聖書は、本来役割が違うからね。
空海死後の日本密教は、
キリスト教に近付いてきた面もある。
空海救済信仰は。高野山の学問僧ではなく。
勧進する、浄土信仰を持つ高野聖が広めた、と言っても過言ではない。 一つ、声字義の深秘釈の相違釈だったかで疑問に感じたのは、
「いかなる相も虚妄」に抵触する部分があるとすれば、その点はどうなのか? という事
で、それはマントラや曼荼羅の三摩地で、仏界に関わる事だからで終わりなのか、やはり
初期仏教や般若経典とは全然別という事なのか?
117神も仏も名無しさん2020/11/11(水) 20:44:18.90ID:Q7o/zE2o>>119
つまり「いかなる相も虚妄」とブッダや般若経典の論師から説かれておき
ながら、像法の時代以後(いつから?)ストゥーパや仏像を拝むようになった理由とか、
或いは大乗経典で3世紀以後仏像を作れと言い出した理由と絡む
話なのかも。。
>大般若経典には、ア字で、悟りを現すとかあるので、それが、ルーツでしょう、理趣経も、
真言でない方の大般若の方の理趣経があります、禅門でよまれているらしいです。
ただし、密教の欲望肯定要素に関しては別物で
やはり如来蔵思想が出てこないと無理でしょうね。
>>117
玄奘三蔵の旅行記では、玄奘がみたらしい仏の幻が仏教の聖地で見たらしいので、
その頃に理論とか 121神も仏も名無しさん2020/11/11(水) 21:24:40.98ID:WJWVEDMS
>>116
密教、華厳、天台などの
総合化、上位思想のシステムを作り出した動機は、修行者の内面のみならず、外側の他者存在を導く利他として発達したと思います。
禅になると、理論は包摂しながら、理論言語化を捨てるという方向に行くのでしょうね。
122神も仏も名無しさん2020/11/11(水) 21:40:54.09ID:Q7o/zE2o
単純化し過ぎかもですが、華厳や密教の基本教理で
諸法=毘盧遮那佛 と解釈し得る表現がされる事があると思うのですが、
そうした場合、諸法無我と抵触せず、毘盧遮那佛も無我で実体無しでしょうか? ただ
実在性を説くのが真言蜜という人もいます。
123鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/11/11(水) 21:59:40.01ID:gvRdjAZ8
それは仏教が未完の宗教……というよりどこまでも完成を許さない性質を内包した宗教だからじゃないですか。
124神も仏も名無しさん2020/11/11(水) 22:13:56.59ID:Q7o/zE2o
仏教には色々な世界観があって、だから面白いということですね。
チベットでも大日経は伝授されてるようなので、そちらも調べてみようと思いま
す。中観派の影響が強いので、また解釈は別と思いますが、真言密教での
圧倒的実在性はユニークです。
125神も仏も名無しさん2020/11/11(水) 22:20:20.31ID:Q7o/zE2o
その実在感というか、
大師の六大無碍常瑜伽とか文字の話を米国の心理学説の言語観と混同すると
色々妄想も膨らんで逝くといったところ
でしょう。 >諸法無我と抵触せず、毘盧遮那佛も無我で実体無しでしょうか?
>まず華厳となると、全てが無我という
華厳三昧になり、
次に、世界そのものが、真実の姿を現す、
という、海印三昧と
下層構造の三昧と上層構造の組み合わせとなっています。
次に真言密教になると、その華厳思想の延長線上で作られており、
海印三昧がベースとなっていると見てもいいでしょう。真言密教は、真言の文字に、
上位の欲望の肯定がありますが、
下位に、諸法無我を現す、真言の文字を当てはめているようです。
三昧体験上で、恐らく、真言密教の無我は、
南方仏教の瞬間に生滅する構成要素が復活してきているように感じます。
すなわち、真言密教の無我は、六大の構成要素込みの無我=大日如来
と見ている感じがします。 146神も仏も名無しさん2020/11/12(木) 22:37:50.25ID:5daVYV9d
大乗起信論に阿頼耶識に関して「この識に二種の義ありて、よく一切の法を摂し、一切の法を生ず。いかんが二となす。一には覚の義、
ニには不覚の義なり」と語っているらしい
つまり、阿頼耶識には不覚の迷いも含んでるみたいどすな
147神も仏も名無しさん2020/11/12(木) 22:45:08.42ID:5daVYV9d
樗伽経では阿頼耶識と如来蔵の同一性を説いてるらしいが、誰かその理由について詳しい人はおらんかな
148神も仏も名無しさん2020/11/12(木) 22:58:36.41ID:5daVYV9d
参考になる情報をみつけた
入樗伽経の如来蔵説に ついて
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/22/2/22_2_622/_pdf/-char/en
善 ・不善 の因 であり、 白性 清浄 であ る如来蔵 が現実態 としては無始以来 の戯論 の習気 に 薫習さ れて アー ラヤ識と名づけら れている という のであ り、
いま、 ここでは詳論する暇がないので要点 のみをあげれ ば、おおよそつぎのようになるであろう。
その所説からし て、まず、 この経典 の成立 した当時 にお いては、如来蔵 が空 を究寛したも のであると いう主張 はす でに確 立されおわり、
いいかえれば、善 ・不善、浬架 ・生死の所依たるdhatUとし ての基本的な意味 あ いにお いて如来蔵と いい、それが無 始以 来 の戯論 の習気 に蕪習されて相続し て行く面を アーラヤ識 と
つぎの段階 とし て、如来蔵 が 一種 の実在的なものとして、 イ ンド 一般ではアートマン・プラダーナ ・イーシュヴァラなど と同様 の性格をも つも のと理解 されるに いた つたのではな い かと考えられる。
149神も仏も名無しさん2020/11/12(木) 23:02:58.06ID:5daVYV9d
少し余談になるが、アートマンと如来蔵や真如の類似性とその差異についても上では触れているが、やはりどうもしっくりこない
少なくとも読む限りはアートマン「への執着」を危惧してそれとの差別化を図り、空を空のままに語る道のほうが安全で正しいと語ってるようにしか読めないんだよな
150神も仏も名無しさん2020/11/12(木) 23:03:59.37ID:5daVYV9d
仏教はこんな感じで悟り「への執着」にも警輪を鳴らし続けるが、同じ方便なのではないか、と思ってしまう >動物には末那識はない ことないでしょ? 犬も猫もしっかり自我執着
意識持ってるでしょ? 縄張り意識とか、同じスピーシーズ間では凄いですよ
ただ家族はまた別で、また飼主には、人が雇い主やカルトの親玉に調教される
のと同様、なついたりはする
あとね70年代に死んだ米国の生態心理学者の説なんて
もう全然古くて時代遅れだよw
まだ最近流行りのヌーソロジーとかのほうがマシ。それもあんま好きや
ないけどね
第7識は自我執着意識と捉えてます。我執の素。
で、動物もそれあるのは、しっかり飼ったことある人ならわかると思うよ。自己所有や
テリトリの意識しっかりある。無我じゃない
201-224
井筒俊彦 高野山での特別講演「言語哲学としての真言」 は確かにいい感じで要約できてる感もあるものですが、
聊か不要なおべんちゃらが混じってるようにも感じられ、それは文字とか言語の意味をある部分拡大解釈し過ぎ、
ある部分(ヴェーダやユダヤ・イスラムからの影響も)過小評価し過ぎている
風に思われます。 米国の生態心理学者の説の受け売りは、
何ものかにマインドコントロールされたか
又は 洗脳しようと企む者による押し売り
っぽい感じがするな
言葉というのは人を誤解させるものでもあるのです。
たとえば、実際にしたら凄く気持ち悪いことなのに、表の表現上は それを恰も美しいこ
とのように変質させて伝えることも可能なもので、実際洗脳で良くやられています。
本来の仏の教えとは、そうした嘘に気付き、戒めるものではないですか?
唯識は悪くはないけども、古臭いカビのはえた生態心理学とか
何か実体視しなくていいものを
わざわざ実体視させようとする錯視強制観察のように
感じられる 犬や猫だって言語化されてないだけで
意識があるのはまちがいないです。だからヒトのような
言語的な知性はない。概念というのはないけれども前意識的、無意識的なものが強く、
おそらく遺伝的に具えている本能的行動ができてしまう
人間も本能はあったんだけれども、言語でそれは抑えられ、
別の言語的誘導因子や幻想というトリガーがないと
うまくリリースされなくなってるらしい。まあ
色んな人はいるだろがね
>末那識が動物にはないって はっきり言った仏教屋って誰?
動物行動学や精神分析でも広く学んだ人なら、もう刺激反応とか、そんな時代じゃない
ってわかる筈
>あのねたとえば性にしても、人は
必ずしも異性の自然の性質や形態に性欲をリリースされるわけじゃないでしょ。たとえば
いつも下着もつけずヌードでいたら、ヌード写真とかも価値
なくなるでしょ? さて阿頼耶識は不可知であると言う。
不可知なのは、『成唯識論』ではミクロであるからと解説する。
阿頼耶識の働きは富士山のように大きいというより、
電子顕微鏡でも見えないくらい極微小だそうである。
具体的に何がミクロなのか。
「執受」と「処の了」とが不可知だという。
■執受…1.種子…行動(業)によって生み出されたもので、次の行動を生む可能性となる
2.有身根…五根という感覚器官
簡単に言えば「わたし」という心と身体とを統合的に虚構する能力。
■処の了…1.処…自然界一般のこと
2.了…知ることであるが、言葉によつて、他と区別して
「限定」して認識するあり方なので「了別」と解釈されている
阿頼耶識は、自分の心の中では
行動することで種子を生み出し、生み出された種子に影響されて次の行動が為され、
また自分の心の外の世界に対しては
分別していくことで、事象を概念化された言葉というイメージによって
常に矮小化しているのだが、その働き全体が不可知なのだという。
つまり気づかないままにやつている ということみたいだ それ、結局、習化とかカルマを実体視することだよね。
業自性というか、つまり、識のゴミを浄めるために、まず明るくして穢れを見ろと。
唯識に比べると現代の理論はパラダイムの狭いもの 生物の集団行動を説明する場合、過去の遺伝情報とかだけでは説明し難く、
現在の集合的無意識や共通感覚的能力を想定しないと、集団行動における同調性を説明できない場合がある。
複数の個体が集まって一つの個体のように行動するケースがある。
アカシックレコードというと過去の集団的記憶ということになるだろうが、
それと伴に 現在の集団を綺麗にまとめる作用が、現在進行形で働く。
それは種のレヴェルでの識があるということで、言語は、それへのアクセスを妨げる
とも言える。 アフォダンスなんたらスレの心理学説は全く説得力を欠くが、もし少しでも騙される人がいるとすれば、
それは「多義の虚偽」のせいであって、たとえば聖書と同様、
「言語」という名辞の定義が曖昧だから
である。 >禅なんてどーでもいいがwww
公案は昔中国では法(屁理屈)だったwww
武力で屁理屈を言い、悟れと言うwww
要するに、達磨の公案は悟りを逆にとった強迫であるwww
達磨は暴力的で威圧的でインドには居られなかったwww
そして、未開地の中国へ行って武力をおせーたwww
まあ、今の中国を見れば分かるじゃろうwww
インドもとんでもない奴を中国に移民させたものだwww 明恵の夢にまつわる記録はフロイト夢判断の先を行く。神秘体験もしてる。 明恵の時代には精神病院がなかったから、精神病院がかかわりすぎて間違ったり失敗したところを考えておくといいと思う。そうすると精神心理体験がよいものとして残されるだろう。もちろん後世の精神病院や精神障害施設も貢献はあるが、過保護に設営して薬を過剰に飲むために体験がつまらないものになっている可能性が在る。 僕は精神分裂病(統合失調症)で急性期には精神保健センターや精神病院
デイケアにいかなかったけど、その時期でもスペシャリストが帯同すると、
外出が制限されてなかったら、もっとリアルな体験になって間違いがなかった
可能性はあると思う。 兵役はチャンスがあるとさぼらないほうがいいし、社会が情報を共有して
いいほうに患者を送り出す社会になるといい。 余裕があったら教会やモスク神社寺など宗教施設に相談してみろ、俺は急性期は増上寺にいったが空が鮮やかで異様な雰囲気だった。 人の嫉妬とは醜いもので体験を阻害するだろう体験が台無しにならないように、精神分野とかかわること。 心理分野も忘れずに。びょうんにもあやしいのがいたりかかわったりするし。 「執受に入る種子は五纏種子といってよくその中で肉体として現行する色根を同時に
執受する。その種子より七転識を現行する。現行において第七識が全体としての
依止識であり、アラヤ識はこれを支持する。その識の中で、六転識が働き、色根が肉
体として明確になってくる」(真田英範『成唯識論における種子と根について、執受の考察を通して)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/32/1/32_1_180/_pdf/-char/ja >>161
>一見よさげでも 実は
そういうのって、全部よろしうないものだった
ってのも 空の意味の一つとして
入ってきますか
たとえば 芸能人という着ぐるみに実体は無く、
もし中に実体らしきものを認めるとすれば、
それはゴキブリのようなものだという風な
ことですか?
それから、そうした対象に何らかの魅力を感じたり、さらに進んで
執着する・とらわれるということが起きたとしても、それは元を正せば
実態がわからない=無明だったからということで、その主観じたいが間違いであり、
妄想であり、虚妄のまよいということですかね。
つまり対象もインチキデタラメ、主観も誤り ということは、人の判断というのは
眼くらが雲を掴むような有様である場合が本当に多く、
芸能界ばかりじゃなく、世間のことというのも、えてして同じように見る・見られる
双方ともに幻影というような感じなんすかね。 キリスト教も正宗や学会の教義も
所詮は共同幻想だということ
社会の中で一人だけ他人と違う幻想を持って生きてたら
それは妄想であり、場合によってはキチガイ認定される。
ただそうした精神異常や脳の病気に侵された者の妄想を、複数の人が共有したらどうなるか?
現にその手の共同幻想が広まっているのだとしたら?
実際精神病の教祖もいたし。
ニーチェやヒトラーやミシマやスターリン、犬作君や犬川隆法がそうでない
と言えるか?
彼らはキチガイだったかも知れないが、
しかし文章能力が抜群にあって、(もしくは演技力もあり口も十二分に巧い)天才だった訳で
狂人と天才は紙一重と言われる如く、天才側に転んだものの(今のところ)カルト教祖以外は
非業の死を遂げたとされている
5chでだけ言えて、それ以外では
はっきり言い難い話の中にこそ真実が潜んでいるという法則は
実際に働いてる
かな
つまり学会とかでは恥ずかしくてとても言えないことが、
実は真実
共同幻想というのが、どのように形成されたか、それを分析するのは意義深いことだ。
多くは、伝言によって細部が削られ、尾ひれが付き、言葉の魔力で全体的に美化される。
売春婦と遊んで一緒に自殺未遂しただけでも、伝承としては純愛物語に化けるような
ケースもある。 識というのが、ものごとを切り刻んで限定し、特定する分別なのに対して
鏡のようにあらゆるものをあるがままに映し出す智慧の状態なので
華厳経に説かれている悟り
の状態だ 宝鏡などについて。
ブッダが問う
世間を空なりと観ぜ
よ💕 そもそも有部の『阿毘達磨大毘沙論』が、
「前五識」及び「禅定に入っている意識」を【無分別】であるとしている。
【無分別】なのだが、問題は
「前五識」は三慧を持たないので、煩悩を引き起こすだけとされ
「禅定意識」は解脱に至るための必須条件とされていて、別物なのである。
だから『阿毘達磨大毘沙論』は、「前五識」は無分別であるが
【尋vitarka】【伺vicAara】という思考があるとしているのである。
問,此六識身幾有分別,幾無分別。答,【前五識身唯無分別】,第六識身
或有分別,或無分別。且在定者皆無分別,不在定者容有分別。
計度分別遍与不定意識倶故。此中,且説眼識後起分別意識。
此中,略有三種分別。一自性分別,【謂尋伺】。二随念分別,謂意識相応
念。三推度分別,謂意地不定慧。欲界五識身唯有一種自性分別。
縁名,縁義者,【此三慧皆縁名義。……。在意地,在五識身者,唯在意
地。以五識中無加行善故。】 法相宗は衰えたが、他の宗派は法相唯識を熱心に学んだのだが、
それが法護(ダルマパーラ)⇒戒賢→玄奘系統の有相唯識。
江戸時代までは、この系統の『成唯識論』の解説を元に世親の唯識を学んでいたのだ。
で、近代になって、サンスクリット本が発見され、安慧(スティラマティ)の釈が訳されると
安慧の解釈の方が世親に近いやんというのが常識になったので
大学仏教学で世親を学ぶ際は、サンスクリットテキストと安慧釈の無相唯識を学ぶのだ。
で、近年、あまりやられていないので法相宗系が『成唯識論』を一般向けに
やりだしたのだが、そんな事情を知らん大山君は、それが正解と信じたわけだ http://www.dalailamajapanese.com/news/2015/20151112
>「15年から20年ほど前に出席した会議で、インドの物理学者ラジャ・ラマンナ氏が私にこのような話をしてくれました。ナーガールジュナの著作を読んでいて、自分の量子物理学の知識と通じるところが非常に多いことに驚いた、というのです。さらに、1年前にコルカタのプレジデンシー大学を訪問した際には、副学長のバッタチャリヤ教授が、量子物理学では、それ自体で成立している物質は存在しないと述べておられました。私はこれにも大変驚きました。唯識派と中観派の見解、特に、一切の現象は他の条件に依存することによってのみ存在するというナーガールジュナの主張と合致していたからです」
>「また、ここで、この会議の開催を実現するためにご尽力いただいた皆さんに心よりお礼を申し上げておきたいと思います」
〜中略〜
>会議の第一部はN・ムクンダ教授が司会を務め、フランス人研究者ミシェル・ビットボル教授が「量子物理学:相互依存とその見解を持たない立場」と題する科学の哲学についての論文を発表した。論文は、これまで提示されている形而上学的見解と本質主義という最も顕著に異なる二つを比較し、量子物理学のひとつの特徴である「量子もつれ」または「分離不可能性」は、仏教の相互依存の概念にきわめて類似していると述べた。また、古代の書物にも、空の概念は予備知識のない者には理解しがたいと書かれているように、量子論に驚かない人は、量子論を理解していないのだと、デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアを引用して述べた。
>発表の途中で法王は、一切の現象はそれ自体の力で独立して存在しているように見えるばかりか、私たちはそれらが実体を持って固有に存在していると捉えてしまう傾向にあると補足して説明された。
>ムクンダ教授はさまざまな見解を述べたが、その中で、イギリスの理論物理学者ポール・ディラックが哲学的な議論を拒んだことを述べて、アメリカの物理学者リチャード・ファイマンの、鳥類学が鳥類に有益なように哲学は科学に有益であるという言葉を引用した。
>聴衆からの質問内容は、量子物理学の「単一性」や「分離不可能性」、「量子もつれ」などの概念に及んだ。 具体例に即した質問です。
たとえばエーシンの書き込みを見た時の印象が
阿頼耶識に種子として残り、後でそれが何かの縁によって発芽することも
あるのでしょうか?
445神も仏も名無しさん2020/11/20(金) 12:20:02.45ID:QTUMKOVD
誰かの書き込みを見て、学んだり、喜んだり、腹を立てたりすると
それが種子となって阿頼耶識に種子として蔵されて、
縁ずれば、その種子が発芽して、種子の種別に応じて
善い行動や悪い行動になるらしいですよ
446神も仏も名無しさん2020/11/20(金) 13:29:44.73ID:xDkl1KXV
ありがとうございます。やはり 変な書き込みは
あぼ〜んしたほうがよいということですね。あの方が
「公明党へ一票お願いします」等と書いてたのも、そこまで計算に入れて
のことだったのでしょうかね 思想とか悟りの水準は今のじぶんで佳し と思えるなら、まずはそれでよいかもだ。
あとは健康面、経済面、対人面や経歴など、もう一回やり直せても
今生より上手にできるか保証はないし、万一まだ輪廻があるとしても、何かの教訓めいたものは
習化の中に残しておきたいものです。 >人間の欲望は欠如したものへ向けられる
欲望充足した者、いや、空を覚った者には執着は綺麗に消えて残らず、
もはや低級な欲も望みも
生じない 書くことで満腹中枢がオンになるという風な現象はあるかもしんない
たとえば掲示板でウンコを描写した書き込みをするだけで
食欲がなくなる。もう食わんでいいやとなる。
それって智慧の瞑想というか不浄観
かもな。 195神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:46:14.83ID:XC+2sMwI>>196>>201
あと南伝系、テーラワーダにしろ、日本の大乗系にしろ、インド思想も
きちんと学んでないのに、なんでわかったフリして梵我一如を否定できるのか? 敬意を
払ってるのは、インドにいるダライ・ラマくらいで、ブッダは本来バラモン教で修行した人。
元を辿らねば、実はわからん事がある。
201神も仏も名無しさん2020/11/24(火) 11:55:10.09ID:Yi8bBlCS>>203
>>195
釈尊がアンアートマンと言ったので
お約束として「梵我一如」が否定されているだけで
実は、形を変えて「梵我一如」が肯定されている。
唯識では、「我」が「阿頼耶識」と言い換えられ数々の複雑な過程を経て
転識得智されて「大円鏡智」となるし、
禅でも無分別になって、すべてと一体化すると悟りとなる。
つまりは「梵我一如」や。
念仏でも最終的に「自然法爾」が説かれている あまり一般に知られていないが
>初期仏教が否定した三定型は
・etaM mama, それはわたしのものである
・eso ham asmi,それはわたしである
・ eso me attAそれはわたしのアートマンである
つまり真我じたいを否定したのではなく、それへの執着ですね
それなら、現代の南伝も日本の諸大乗も全て自分らの「見解」に執着してる訳ですから
ブッダの戒めに背いているのは同じで、醜いことです。 『華厳経』(八十巻本)第三十八、離世間品の本文に
「三界所有唯是一心」
『華厳経』(六十巻本)第三十六、夜摩天宮菩薩説偈品の本文に
「心仏及衆生是三無差別」
三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別
華厳からインスパイアされた道元の解釈。
『正法眼蔵』三界唯心の巻
仏の教えが一心であることも知らず、一心がすなわち仏の教えであることも学ばな
いから、一心のほかに仏の教えがあるなどという。その汝がいう一心は、まだ一心
ではあるまい。また仏の教えのほかに一心があるなどという、その汝がいう仏の教
えとは、けっして仏の教えではない。」(正法眼蔵・仏教)
増谷文雄の訳だから注意が必要
道元さんにとっての「三界唯一心」は「心仏及衆生、是三無差別」
という仏教の本懐の表明
福音伝道 2020/11/25(水)さんより >法相宗で採られてる十二支縁起も「おかしいな?」と思って調べると説一切有部のものみたい 生じるものは必ず滅するものである(無執着)
(五蘊を越える)
諸法非我 → 空(無我)・不生不滅、プルシャ=プラクリティを覚る(梵我一如)
→ 虚空、涅槃(勝義)の「我」一心、如来 空(あらゆるものを包含する虚空)と色(現象)の関係は、海の中の波のようなものである
密教と量子力学
https://youtu.be/t6PfEsogz_k?t=1331 宇宙の森羅万象一切は大日如来の働きであり、顕われであり、
大日如来から発し、大日如来に還るという事を
仮に諸仏諸菩薩・様々な仏で表わしたのが曼荼羅 妙覚度九十八%まで来た自覚はある。
もはや五蘊に残された煩悩も燃料や栄養として消費しかかり、消火・消化されて昇華され神の域に達し、
貴重な絶滅危惧種子に感じられもする。それらは衆生を救うため、大衆の心性を正確に理解するために必要な糧だったのだ。
煩悩・因縁を如実に知らねば衆生から離れた空のままである。 5ch等の読み難い書き込みも
「凡夫衆生とは、このように自説に固執するものか」とか
「何ゆえ虚偽のドグマに騙され、邪教が跳梁跋扈するかの理由は是」と見るな
ら、全ての情報は資糧となり得る。 色の無常・非我・不浄を観じ、
一切皆苦と見て、
愛着心や執着を厭い離れる それが苦滅より涅槃寂滅に到る
解脱への道である 空とは
>囚われを捨て、一切を静観すると達するであろう
精神状態
? なんか今一甘い説明のようにも感じるが。。。
>潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成 人間の欲望は欠如したものへ向けられる
欲望充足した者、いや、空を覚った者には執着は綺麗に消えて残らず、
もはや低級な欲も望みも
生じない 六神通とは、たとえば漏尽通とかです
あなた、まだ漏れてるよね? 有漏ですか?無漏ですか?
漏れなくならないと
ダメなんです
悟ると
その証として、
煩悩が消えるんです。なにか少し変わって来たなと思ったら、書いてみてください。
真言宗の若い坊さんで、
滅諦ということは有り得ない的な法話をしてる方がいましたが、それはそもそも
違うということです。煩悩があるならあったで、それを滅するのが動機になるので、自分が滅せそうにないからムリだと諦めるのは逆だということです スリランカもそうだが、大乗発展以前の部派も真我や無我の解釈がおかしい。今の真我否定者の真我理解が錯誤である。
現代言われる真如や一心と同じ意味で捉えて問題ない。五蘊を越えた世界なのである。
所謂、大乗におけるそれらの文言は、行き過ぎた無我観の修正としての意味もある
4ニカーヤと呼ばれるものは、かなり変形されたものである。
>「空」も古代インドで
とうに説かれている。他にも大乗で復活したキーワードはあるが、
空も実は焼き直しなのである。 大乗涅槃経は不純要素が沢山混じっていて
お薦めできませんが、しかし常楽我浄などはよいと思いますよ。
というか、あれこそ大乗における正しい真我観と
言えるでしょう >>201 ただ常楽我浄って表看板も仏教として奇異に見えるのは確かで、また無我
というのは禅定の中での実践面の話であって、
それを表看板みたいにドーンと外に宣伝すべきことじゃないだろって事です。
したくなるのはわかるけど >良く存在とか言われてるの、仏教的な解釈だけでは本質は掴めないよ、
特に唯識はマナ識に対してアラヤ識を立てるけど、
ヨガでは我執(マナ識)を挟んで貯蔵庫で、大我執(アラヤ識)と真我(真の
鑑賞者)の3つをたて、真我の上にブラフマン(宇宙的存在意識)を
おきます、
そして、臨済が言った面前を出入りする生き物(悟りの当体)と、展開する
世界をも含めたものを真我とするのです、般若心経はこのことを言って
います、
素領域理論でも同じことを言っていますね、自分の見ている世界はその個人
だけの世界空間であって、それを素領域と言い、その素領域は他の素領域と
部分的に重なりながら全体の無限個の意識空間の塊を形作っていると、
サーンキャでも無限個のアートマンの総体がブラフマンであると言ってて、同じです。
金剛般若経の否定の否定とか、最後の最後に解るのが、存在そのものを
在らしめる「多次元空間=多次元意識」この空間だけでは無いので、光と同じこと、紫外線赤外線は目で見えないが、それ用のカメラでは像として映ります、同じ理屈で色界の上に無色界が説かれていて、それが多次元宇宙です、
そして、釈尊の悟ったものとは、この多次元宇宙を在らしめている、
一つの空間意識であって、これを神の命、大生命とも言います。
非常に広大で深く高い無限ではありますが、空にして無でもあり、名状しがたく、これを如とし、如来と言います。 77年前の祈願後、2年で戦況悪化の一途辿り
原爆2発で無条件降伏。遠縁のワルの官僚は特攻隊出撃直前で助かったそうだが
終わるの遅かったよな。今では意識も変わった。戦後よい国になったと素直に喜んで
よいのだろうか?
高野山真言宗総本山金剛峯寺(和歌山県高野町)は11月23〜30日に大元大法(大元帥御修法)を金堂で営み、病魔退散と国家鎮護を祈願した。
(中外日報)
第1結集の時の内容が、南伝や北伝として
そのまま残ってる訳じゃないよ。ま、律ぐらいなら、あんま差異は
ないかもだがね。
いま残ってる阿含にしろ南伝にしろ、かなり後で手が加わったもの
>異部宗輪論で言われるところのいわゆる小乗と呼ばれる伝統的部派仏教の部派の話と、スリランカ上座部と称しているものと、
現代上座部と称しているテーラワーダを分けて考える必要があります。
ご存知かとは思いますが、そこは同じではないです。
>スリランカ上座部は「島史」による伝承が根拠なので、あくまで自称の話であって、分からないことだらけです。
また、テーラワーダも途中2度途絶えたものを復興したもので、これらを根本分裂時代に遡り一連のものとして考えるのは、
そもそも無理があります。
>部派の系譜に関しては、テーラワーダの主張は違うということ。
>テーラワーダは、根本分裂時の上座部の直系ではないです。
それをブッダゴーサ教と呼ぶ人もいます。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1607282090/ 明恵 の 耳 とかのほうが統合失調症などに関係あるかもね、
公開はしてないかも、だけど天使や妖精の音を聞くとか、
空海派はビジョンだけで、過去の統合失調症、預言者の女性荒らしてる。
般若の空のほうが大事だ。だけどそれも下だろ
。投薬も無能な空海の精神構造なみではだめだ。 空海モデルるなんて密教のていをなしていないよ。
もっと本気出せよ。 空海モデルなんて密教のていをなしていないよ。
もっと本気出せよ。 精神分析では、人間の精神構造をイド、自我、そして超自我の3つの領域ないし機能に分けて理解するのですが、
こうした自我、イドは当然五蘊に含まれると思います。イドは「色」蘊や利己的欲求に基づく衝動を起こす根源で、
悪いことでもよくても無関係に、兎に角「やりたい」のですが、それに対し、自我はそんなことしたら捕まるとか
みっともない、とか自分のポリシーにあわないとか色々理由をつけて、行動を規制する主体で、或いは規制する
ばかりでもなく、現実原則に則って最終的に判断を下します。それに対して超自我は、
一応意識上に上る場合においては五蘊に属するのですが、そうした最善な命令を下す大元で統御する真の主体者であり、
観照者であり、それこそが頼るべき真我なのだと思います。
この真我は上記の低次元での葛藤など遥かに超えており、自帰依の対象になる真の自己で、敢えて言葉にするなら
「我はブッダなのであるから、そうした低級な欲に指図されることなど本来的に有り得ないのだ」といった感じになります。
しかし五蘊にいる自我に毒矢が刺さっていてイドより弱くなっていたり、自分という真我を信じれていないと
正しい判断ができない場合も有り得るのです。
このように考えると、誰だかのように
もし無我の境地で欲の言いなりになっていたなら大変なのです。
フロイトなど初歩の精神分析と大般涅槃経、五蘊非我などを繋いだ
「五蘊と真我の関係」でした。 129神も仏も名無しさん2020/12/06(日) 22:30:21.47ID:PeQuiA6p
5ちゃんねるに凄まじい量のレスをつける或るコテの方がいてー自称43歳で統合失調症
の方でーそうした書き込みをもとに分析したところ、真我が全くわかっていない方の心
の状態についてデータが得られました・
もちろん掲示板の書き込みが全て事実だと見るのは危険ですが、仮にそうだとした場合
の話で、しかし当人が病気だと主張するのが嘘でもなさそうだという見解への裏付けも
得られ、辻褄が合いました。
130神も仏も名無しさん2020/12/06(日) 22:57:20.60ID:PeQuiA6p
その方の場合、イドが凄く強い方だとわかりました。
また自我もイドの言いなりになっていることがかなり多いらしいというのもわかりました。
問題は超自我なのですが、心の中にある筈のスーパーエゴの出向者の席ー真我からのメッ
セージを伝達してくれる役割の人の座るべき場所ーが
何ものかに乗っ取られ、占有されている様子なのです。
そのためベストな判断をするための、真っ当なメッセージが全然受け取れなくなっています。
そうした邪魔者が居座り、占拠しているため、真我が統御できず、結果心の統合に
変調をきたしてる状態とも解釈できます。
ただ「ナンミョ〜」とか「釈尊が0を発見した」とか
うわごとみたいなセリフを発する”侵入者”が居座っているだけに見え、
それを毒矢とも呼べるかも知れませんが、脳の病気であるならば仕方ありません。
しかし結構筋の通った話を書くこともあり、動画の投稿もしていて、
聞いた感じでは失調状態との印象は受けません。ニコチン中毒、依存症はありそうですが。 究極的には
さとりは言葉ではない
ということになる
勝義諦 空と涅槃は裏と表
現象世界の空を理解しないと、涅槃も知解できない
物質的なものに心がとらわれていたのでは涅槃寂静になれません
それだけ。シンプルでしょ 健康な男性は入眠時に充血するのは自然な生理現象
ただ覚者は、たとえ現象をキャッチしても色から無明が除かれてるため
行→識へと縁起しない そもそも
画像見てええな〜 という想が起きない 大小便にまみれた汚物とか
観察し、一切は苦しみであるとの真理を思う。大小便をする時にも気をつけている
と経にありますよね 702福音伝道2020/12/17(木) 07:06:35.41ID:J3h+uf/S
>>689
陳那(Dignāgaディグナーガ)は馬鹿である。あるいは陳那を誤解している。
現量は「pratyakṣa現-pramāṇa量」のことだが、
五識は「直接知覚によって得られた知識が正しいかどうかを判断する規範」ではない。
五識自体は色を見、聞、等するだけで、意味づけをしないのだから判断力はない。
インド哲学の認識論でpramāṇaが立てられたのは「認識手段」という意味なのである。
「判断する規範」ではない。情報収集する「認識手段」にすぎない。
1認識主体(pramātṛプラマートリ)が
2認識手段(pramāṇaプラマーナ)によって、
3認識対象(prameyaプラメーヤ)を認識し、
4.認識結果としての知識(pramitiプラミティ)を得る。
という構成になっていて、pramātṛがアートマンなのである。
陳那(Dignāgaディグナーガ)自体は、pratyakṣa知覚とanumāṇa推理の二つだけを
正しい認識手段としたにすぎないのだが、有相唯識派によって
pratyakṣa知覚は現量とされ、anumāṇa推理を比量とされてしまったのである。
ちなみに鹿野園おばさんの好きなapoha排除の理論は、
陳那が確立した理論である。竜樹ではない。 >古唯識の世親や、正統の無相唯識派は
能取と所取の二取の相、つまり見る主体と見られる客体の相を実在しないと
考えたが、陳那(Dignāgaディグナーガ)の論理学を吸収した有相唯識派は、
二種の相を実在するものであるとした。
つまり佛教を棄て、インド哲学に埋没してしまったのである。
この間違いの系統の正嫡が法相唯識なのである。
なので中国では華厳宗からコテンパンにやっつけられ
日本に来ると天台最澄にとどめを刺された。
その後、唯識自体は各宗が研鑽を積み重ねたが
法相宗は落ちぶれ細々と奈良の片隅で存続していたにすぎないのである。
近代に入っても再び、宇井白寿によって法相唯識は一刀両断されているのである。
いわば伝統仏教界の創価が法相唯識なのである。
各宗各派のほうが法相宗より唯識研鑽の歴史と伝統を持っているのである >>214
少しでも医学的知識があれば判ることです。男性にも生理はあります。
女性と同じ。ただ血行が悪く不健康だったり高齢だったり成人病など病名がつく
症状がある場合はその限りではありません。 >>218
男性にも生理があるという説を真っ向から否定する医者の文章も見たことがある
自分の経験からも男に生理があるとは思えないのだが 真言の十識、天台の九識などのほうが、
より洗練されてるといえるでしょうね。しかし、インド思想においては、世界を
マーヤーとする世界観がベースにあり、そのリバイバルが空の思想と捉えるなら、
ブラフマンを実在視した?との解釈は無意味
密教においても、空を教学的には説きつつも
この世は毘盧遮那仏の顕われであり、自らもその一部と覚る事を目的とする等、実態は
圧倒的実在世界と法界を見做す思想もあって、実在非実在の見解は理論上のもの
に堕してるきらいもありそうです
仏教においても涅槃と虚空は常住です。中観帰謬論証派は別かもですが。
で、ブラフマンやヴィシュヌが解脱して
涅槃に趣いたらブッダと成る で、衆生救済しに
毘盧遮那如来が実在界に来たら
梵天にも諸天神にも化ける
覚った釈尊に法を説かせて衆生救済させたのは梵天だと見るなら
大乗の見地からは梵天のほうが殊勝で
毘盧遮那仏の化身だと見れます どういう立場にあっても子供の意思や他人の人生を制御しようとするのはいかん
と思うね。
一つ想像したことですが。竹内結子さんも、もし長男から、何故歌舞伎俳優への
道をふさいだの?的なことを例えちらりとでも言われたとすれば、離婚訴訟で頑張ったことを悔やんだかも知れない。が、
私は他殺だと理解している。
何事もなるようにしかならない
自然が一番
ムダな作為によったことは、どこかで無理した分のツケを払うハメになる ┏━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┓
┃仏説摩訶般若波羅蜜多心経
┃観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
┃色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。
┃是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中無色、
┃無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
┃無眼界、乃至、無意識界。
┃無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。
┃無智・亦無得。以無所得故。
┃菩提薩陀、依般若波羅蜜多故、心無掛礙、無掛礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、┃
┃究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
┃故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、
┃能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。
┃即説咒曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
┃般若心経
┗━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┛ 集諦と苦諦
識別作用とそれから生じた妄執こそが
苦しみの素なのである。
道諦と滅諦
識別作用を残りなく離れ止滅するならば
再び苦が生起することはない。 欲情の対象が汝の心を損なわぬよう
執着の無い境地に安住するよう
怠らず勤め励め 全生類への慈悲の心
によって ・無眼界乃至無意識界
の方なら
・眼識界(目で認識する世界)には不変の実体(本質、自性)はない
・無眼耳鼻舌身意
は
・見る機能には不変の実体(本質、自性)はない 分別
南伝 相応部経典12-2 分別
漢訳 雑阿含経12-16 法説義説
(前略)
また、比丘たちよ、有(存在)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには三つの存在がある。
欲界すなわち欲望の世界における存在と、色界すなわち物質の世界における存在と、無色界すなわち抽象の世界における存在である。
比丘たちよ、これを有というのである。
比丘たちよ、また、取(取著しゅじゃく)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには四つの取著がある。欲に対する取著、見(けん 所見)にたいする取著、戒(戒禁)にたいする取著、我(が)にたいする取著がそれである比丘たちよ、これを取というのである。
比丘たちよ、では、✽愛(渇愛)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには六つの渇愛がある。物にたいする渇愛、声にたいする渇愛、香にたいする渇愛、味にたいする渇愛、感触にたいする渇愛、✽法にたいする渇愛がそれである。
比丘たちよ、それを愛というのである。
(後略)
分別(Vibhanga=division)とは、分かつこと、分析である。十二縁起の各支を、一つずつとりあげて説明しているのである。
したがって、そこには、仏教術語の基本的なものが、簡明に説かれている。珍重すべき経である。
✽愛(tanhâ=thirst) 渇愛と訳する。欲望の激せるありようを喉の渇きに比していうことばである。
✽法(dhamma) 観念というほどの意。
✽名色(nâmarûpa=name and shape) 五蘊すなわち人間存在である。
五蘊のうち、受・想・行・識の四は、ただ名をもって知られる。ただ、色蘊は物質であって形をもって知られる。人間はそれらの構成するところである。
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html 確かに勝曼経とかも良くできた経典だとは思うのですが、
しかし得体の知れない在家のおばさんが釈迦に説教する等というお話を
そもそもお経として認めてよいものか違和感を覚えるし、他の大乗経典もそれと似た
おふざけなのでは? との疑問も起きます
しかし大乗でも、般若経典の空の思想や
華厳経の
一の中に「一切」が蔵されるという思想は
深遠な理を孕むとは
感じています 十二支縁起説は、後代の仏教徒が男女のいやらしいカルマの進み具合や事後の成り行きなどを、ある部分細かく、
また肝腎な点は端折って要約したものですか? 医者の中には、
解脱者の観察ができていて、実質ある種の正しい認識に達しているものもいるらしい
勿論、煩悩にまみれたままのものも多い
ようだがね 医者よりシャーマンが優秀。睡眠不足と催眠考えると男性医師は疫病神。 睡眠不足からほとんどの病気が起こり、催眠で殆んどの病気が治る。睡眠余して貯めることさ。 ファッションや食事スケジュールや睡眠信仰がシャーマンのほうが健康。 空海様のエネルギーを感じてみてください #空海様は日本最強の能力者です #高野山は真言密教の聖地です
【弘法大師】真言密教の聖地「高野山」
https://youtu.be/uJEdiIWMzVM?t=151 ものごとは見えている通りにあるのではない。
「対象物」の実際とその本質は
写真で見るほど良くも有意味でも無い。真実の相は、
また違ったものであろう 空海より明恵のほうがフロイトの先を行く。空海は前座。 精神的な世界がある。
それは物質界を超えた世界である。
そして欲界・色界、無色界の三界から解脱したところが無余依涅槃界
である 心の安寧とは外部から得るものではなくて
自ら、或る種の決意と忘却によって生じるものである。
弘法大師は、解脱を「のがれ」とも
表わしている。 “魔術師”のように数式を発見する「ラマヌジャン・マシン」【理系通信】(2021年2月9日)
https://youtu.be/R_RN7P606w0 如実に観察するなら
いいと思ってた女とかも髭を剃ったゴリラと大差なく
只のウンコ製造機。幻想に騙され、惑わされてただけ
と気付く 九次第定の滅尽定とは
無想定とは異なる。正しく五蘊を空にして
我に如来を実現する行法
である ムダな作為によったことは、どこかで無理した分のツケを払うハメになる 物質存在とは
宇宙の中で
そのモノが存在できる確率
のことである イタチの君戦死。今日通夜明日葬儀 5chも弔問参列受付。増上寺祐天寺。 ”因縁”なるものを実体視し何か固定したもので逃れられないものと
思わせようとし、また思わされている点こそが
迷信であって、空によって滅されるべき妄分別であり、
戯論なのです。 只の在家信者でしかない勝曼夫人が仏陀釈迦牟尼に説教してしまう勝曼経の問題点に触れるまでもなく
中期大乗の涅槃経も創作経典なのであって、
仏滅後七百年あたりで仏教は根本的に変質してしまった 極無自性心とは
完全に自分が無い
という事では
ないかな 5ch宗教板のさとりスレに出没する栄進軍曹や鹿野園や「真言」などの書き込むレスは
誤りの混じった内容が殆どである。
きっと、何かの本に間違った話が書いてあった
のでしょう 秘密荘厳心 とは、
自ずから本源を知る一心のことでは
おのずから(‥づ‥)【自ずから】
〔副〕(「己(おの)つ柄(から)」で、「つ」は「の」の意の格助詞、「から」は、その物に本来備わっている性質の意)
1 もとからあったそのままに。また、物事が行なわれて行くうちにひとりでに。おのずと。「隠しても自ずから知れる」*源氏‐行幸「この女御殿など、をのづから、つたへ聞えさせ給てむ」
2 たまたま。偶然に。まれに。*枕‐八「おのづから端つ方、局などに居たらん時も言へかし」*徒然草‐二五「おのづからいしずゑばかり残るもあれど」
3 (仮定、推測の語句につけて)もしかして。万一。*源氏‐桐壺「をのづから若宮など生ひ出で給はば、さるべきついでもありなん」
4 自分自身で。みずから。*嵯峨本方丈記「もしすべきことあれば、すなはちをのづから身をつかふ」 我というにも二義あり
一つには勝義の我であり
もう一個は五蘊に巣食う妄分別たる見解に縛られた世俗の自我である
戯論は妄分別を生む 自我=エゴを捨てることで心が変わる。
妄想のほうがレアな世界だよね。だけど現実のこともおろそかにしないで。 妄想体系などを立てて戦術を練るとか。戦いだよなあ。 信にも迷信盲信妄想信心狂信などある。
カルト信者、奉公者の言う信とは、全部その類なのである。
それらはすべて、迷界の自我が沈淪する無明が為せる
業なり。 極小値から「零」に向かって縮んでも
どこまで行っても零には辿り着けない
絶対的な零は存在しない。宇宙に真空なるものは存在しない。
概念としてのみ人は夢想する 絶対的に不変の状態、
固有の実体的性質をもったものは存在しない
という程度の意味では? それは我体がない
つまり無我、無常という意味でしょう すべての物質は 力によってのみ始まり
存在する
この力の背後に
意識と知性を持つ精神が
存在すると仮定しなければならない
この精神が
全ての物質の母体なのだ
-マックス・プランク(量子論の創始者) 煩悩のエネルギー自体は(それがエネルギーである以上)
消えないので、それを逆に燃料として利用し、
質的転換させる事が必要
となる それが妄想と気付いてしまえば
もはや煩悩とは呼べない 真空は実用的には次の二つに大別されます。
絶対真空:物質・圧力が 0 の仮想的状態(全くなにも無い状態)。
負圧:標準大気圧より圧力が低い状態。JIS によって圧力の段階ごとに区分されている。
絶対真空とは空間中に分子が一つも無い状態を示しますが、地球の表面上の圧力(1気圧)は
100 kPa時に1 cm3中の気体分子は0 ℃時で
2.69×1019個も存在します。人工に作り出せる真空状態は10-11 Pa程度が限界で、この圧力下でも1 cm3に数千個の気体分子が存在
することになります。外宇宙と呼ばれる銀河と銀河の間でも気体分子は存在するとされています。 負圧は、しばしば俗に「真空度が
良い」「真空度が悪い」「真空度が駄目」などという使い方をされる。真空度とは圧力でも表されるがその場合は言葉のイメージと
表現が逆になるので注意が必要である(例:真空度が良い=圧力が低い)。真空ポンプを用いて真空を得ることができる。真空度
の単位は Torr(トル)が用いられてきたが、SI単位系への統一に伴い、Pa(パスカル)に移行しつつある。
1 atm=1.01325×105 Pa=760 Torrである。 宇宙に絶対真空は存在しない。外宇宙と呼ばれる銀河と銀河の間でさえ気体分子は存在するとされる。
また仮に絶対真空状態が実現できたとしても、
空間自体は(観測不能なほど微小な構成要素である)ひもの振動やプランク振動子などによって作られるエネルギーに満ちた場
だという認識で現代の物理学は一致している。(一般相対論も重力を「時空の歪み」として捉える)
いかなる意味でも真空は空っぽではないのだ。 電子光子相互作用
光は電磁場の波であるため、電荷をもつ粒子との間でエネルギーの授受が発生する。
たとえば、電子がエネルギーを失うとき、そのエネルギーは光に変換されうる(発光)。
また、光のエネルギーが電子へと受け渡されたとき、電子のエネルギー準位が変動し、光の色が変化する。光から
全てのエネルギーが電子へと受け渡されたとき、その光は消滅する。 現代の禅師は答える
猫にも仏性ありと解く
猫の態度は、接する者の本性を映す鏡なのである。
猫にかぎらず、自然一切万事みな己のすがたを示す神鏡なり
猫も自ら空腹にあっても食さず子に食を与える
また阿吽と鳴こうとして、人に菩提と涅槃の因果の理を教える
見る人が見、聴く耳ある者聞けば、およそ此の世の全てに
仏性無きもの一つも在らず 中期大乗以降、仏教はほぼカルト化した
だが、密教に関しては、純粋な仏教ではない点には注意を要するが、
また別の宗教の一つの完成形として
見るべきものもある 初期仏教も創作ですよ。創作でない可能性の少ないのはスッタニパータの4,5,1やダンマパダの一部
釈尊が輪廻を説いたというより、前提としてあったもので、解脱への道を示したものが本来の仏教
私見では、そうした前提まで釈尊が説いたという風に、わかり易く児童文学っぽく仕立てたのが大乗
心経は「死後の世界を説いてる」と見る人もいますよ 密教空手の真言空手とかは話題になるといい、蛮族脱出しておいたほうが。 葦原や明恵のほうが人物的にいいかもしれないけど。歴史考証まだですか? >大乗では完全に五蘊を去った状態を五蘊皆空と言ってるだけです。
原始仏典流に簡潔に言うなら
五蘊は悪魔の棲家と明らかな智慧により如実に見て、しかもそれを完全に遠ざける
という事は大変な事だと思いますよ。それを無我、皆空と呼んだのでしょう。ブッダもその境地に到るために出家後
まず仙人について(九次第定でいえば七番目に当たる)無所有処定を学び、次に先生を変えて非想非非想処定を学び
さらに長い年月をかけて孤独な修行の末に滅尽定に至って初めて成道となった訳です。
ですから、その境地まで達しなければ本当の無我、皆空とは呼べないし、涅槃もまだ浅いものなんでしょう。
その段階に行くには菩薩の十地の六〜八番目にならないと、と論書にも書かれていますね。
ただ人によっては、像法の時代以降で菩薩の初地に至ったのはナーガルジュナとアサンガだけと言う人もいます。
そこまで厳しくは無くて、有名無名の解脱者は大勢いたとは見ています 全体(エネルギー)としては波
部分(個物)としては粒子
粒子性は光子一つだけに着目した時に意識される性質で、光の一側面に過ぎない
相補性すなわち是、一即一切 >相応部の経において、片方では五蘊は苦であり、もう片方では五蘊を空としている。
また相応部の他の経では五蘊は無常であり、また他の経では五蘊は無我(非我)であり、また別の経では五蘊を悪魔と観じるのが正しい
観察とし、
五蘊を厭い離れることによって、貪りを離れる。
貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである
五蘊は苦の因を集める器であり
悪魔の棲家と見做されるべきもの。
苦の因を集めるのが我執。それを晴らすのが
空=道諦
釈尊が悪魔を降伏して成道したという伝説は
完全に五蘊を去った
という境地の比喩
心経は
識を超えて欲界も色界も消えている菩薩が説法者の設定ですから
とうに彼岸に渡った解脱者による説法です。 特異点を乗り越えようとすれば、科学を超えた宗教の問いが復活する いやね、他スレ)848-849みたいな幼稚園児がしてることは禅定のレヴェルに全然達してないと思うんです。
普段の生活で心念処とか、客観的に自分を観察できる段階では全くなくて、
禅のマネごとか何だか知りませんけど、オ坐りした時だけ、自身の五蘊を見て「ああ無常だ」とか思った
そうしたプアな世界と己の観察結果を園児は書いてるんですね
>ただ坐ればいい なんてかくのは幼稚園生です。ここは、そんな初歩的なことを学ぶ場
ではありません。禅定の奥義を知る人々が集う処であって、幼稚園児レスでは、対象が異なりますよ
また坐らずとも瞑想はできます。
そのほうが大事 如実に観じることが出来ていない
なんかいいものじゃないかとか、幻想を持って、色眼鏡を通して
対象を見ている 生死問わずエネルギーである点では同じで
よく考えてみると
全てのものに差別はない。無常といいつつ本質は空で、その空すら空であって、
物質界、三界から解脱できると解く 般若を空と解くは浅略で、世間法即ち涅槃と解くのが深義である 般若波羅蜜多とは
迷信の呪縛を解体して
真のさとりに導く方法論
でもある
迷信=有部や分別説部の教義への妄執
ということ
欲界・色界・無色界は見せかけだけの幻だという事ですね
凡夫衆生に説く場合は基本、物質界とは虚妄ですよ。解脱しない限りはね
その虚妄とは、華厳経や般若経でいう虚妄であって
中国仏教や臨済宗などの虚妄とは
違います
あと原始仏典で言う「世間は泡沫」なども同じ意味でした
三界は ただ縁起の理法に従い転変するのみ(依他起性) というか
色に捉われがなければ 空なる対象も唯 空としか見ず、空即是空とか。
さらに言うと円成実性という涅槃を知解する境地まで進んで行ければですね。 臨済禅かぶれの蛙が納得し得る解答は、蛙自ら見つけるより他には無いでしょう
また答えは一つではない。だが、敢えて一つ選ぶなら、増支部「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」に
あると言い得るでしょうが、
仏性自体が客塵煩悩によって汚される訳ではないのです。
また如来蔵とか仏種とか「仏陀になる可能性」とか幾らでも言い方はあるでしょうが、臨済禅オタクが気に入る表現が何かはわかりません。
ここにおいて
ほんの数例を挙げましたが、他人に教えを請う前に
まず「私はこう思う」と己の見解を示すべきではないでしょうか
いかなる意味でも、5ちゃんの質問者などに弟子入りする気は全くないですし、
意味不明なテストをされる理由がある人もいないでしょう。
どう見ても悟っているようには見えない方が意味不明なレスをつけても「何様だ?」と思われるだけでしょう 後からわかることで若者の恋愛を取り上げる低次元の憎しみ復讐が仏陀。
反抗しないと恋愛抜きの青春時代。 恋愛の酸いも甘いも知ったが仏陀は失恋を過度に恐れている。 若い恋愛性欲を抜き取って使っている悪の徒党は成敗する。 >>293
725神も仏も名無しさん2020/12/25(金) 17:53:49.51ID:vwKRlKQH
九次第定を最後まで極めた聖師として、日本に於いては五井昌久聖師と油井眞砂禅尼の御二人しか知りませんが、御二人とも残念ながら故人です、
五井昌久聖師の修行過程は著書の「天と地をつなぐ者」に詳しく書かれていますし
油井眞砂禅尼の著書は以下で読むことが可能です、
「信心と坐禅」
https://www.cbeta.org/node/5388
https://drive.google.com/file/d/11Lu76K8JNhXO1ZQYVOhAfpVYxJzLsBJo/view?usp=sharing
油井眞砂禅尼は生前に作家の今東光氏によって、現代の魔女として紹介されていた方で、数々の奇跡を神通力で現されていたようです、
情報はここに少しあります。
「K大師からのメッセージ」
http://blog.livedoor.jp/mysticart/lite/ 毘盧遮那仏の慈悲心を知り、
自身の大日如来を覚知する。 【養老孟司】嘘だと思うなら1度聞いてみて!恐らくこの音声を聴ける人は非常に限られた人間。この動画に辿り着いた特別な人だけが聞ける超高度な話
https://youtu.be/IUorgmS9v70?t=1 物質やエネルギーより、究極的には「情報」が上位に位置付けられるべきだという考えは
現代科学でいえば間違いではないかも知れないが、
空の意味を「情報」とだけ限定してしまうのは、仏教と無関係な
皮相なる解釈でしょうね ブッダは輪廻からの解脱の道を説きました。言うまでもなく輪廻は前提としてあるもので、当時のインドにおいても、
大乗仏教や伝統的な日本の仏教でも、ほぼそれを踏まえ、教義がたてられています。
その前提を無視した教義が、もしあったとするなら、それこそ異端であり、唯物論的世界観を被せたような邪説を教えるなら、
それこそインチキと呼べるでしょう
現代テーラワーダ流の見解が残ってることと その上さらに追随者が出てくること自体が
唯物論的世界観が被った仏教解釈蔓延の影響であって、
そこに(有部から破門された)分別説部のスタンスが如実に表れていると
観察する
信者の文字への執着もさることながら、そもそもそんな経は
第一結集の時には無かったもんだろうしね
つい百数十年前まではブッダの実在自体が議論のタネだったのに、アジアの原始人の言い伝えを無批判に受け入れるとか、あまりに
盲信が過ぎるな。 密なる覚りは開示できない
言葉では伝えようがない
本人が気付くよりほかにない。浅略のtrailerを
読んで判る事とは違う 老婆がまた若い女として登場し、
ダライラマが金髪のおてんば娘として再登場する。
これが見えないと、空即是色の真義は
解けない 天地間の一切の事物はすべて因縁より起こるものであって
その実体も自性もない 心によって
為されたことが形となって現れている
それこそ空即是色
なり 多くの人が空の実感を持っている時代は良かったのだが
今はそれがわからない方が多いから
話が通じなくなっている
のである。 言葉塵や うわべだけの形という空無のものの下らなさがワカル
という意味ならば
それはそれ として
又よし 昨日負け、明日勝つも
いつか同じ目に遭う。とかいうのもある。
全ては相対的なのであって、総体としては
不増不減 一見綺麗に見えたとて、中身は決して綺麗なものでない
一見、弱々しく見えたとて、中身は決して弱々しいものでない
実態は、外見とは裏腹な、主体側の五蘊(色→受→ )により妄分別された印象(想←行←識)など一瞬で裏切る、恐るべきモノ。
ソレが「色」の正体である。←中身は色即是有。表層から受ける印象は夢の如し 顕教の最高、三界虚妄、華厳経の覚りの世界を説く宗派の立場です。 物質界とは空無、虚妄なるものだという覚りから、
さらに深化させ、その上を行く密教の世界へ
どうぞ。 秘密荘厳心とは
一即一切、一滴の中の大海を
真実覚った心の位
でしょう 秘密荘厳心とは
真如を悟る心、則ち一心である
一心は是れ本居なり >色を結果と捉える解釈も面白いと思います。
そうすると、
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
の現代的訳としては、次のような例も挙げ得るでしょう。
(根本的には)
結果は原因と異ならず(一即一切) 原因と結果は同質なものとも呼べる(原因は
既に結果を裡に含んでいる)
結果は根源から生じ 根源は結果を生じる
色即是空の「色」の解釈について
https://plaza.rakuten.co.jp/brahmanbuddha/diary/202009300005/ 実は自然界に色なるものは存在せず
あるのは周囲の総体に当たって
様々に反射した電磁波だけである
人が色と感じるのは
色々な波長の波が
網膜の夫々の受容体を刺激して
それら全てが脳内で処理された結果
生じた個体内の主観的印象でしかない 【衆院選】自民・森下千里氏は比例区でも落選
宮城5区 森下千里氏が落選 敗戦の弁【完全版】(2021年11月1日)
https://youtu.be/-KLjAyjlLlo?t=3 精神は破壊できない
ブッダが遺した質や水準は
ここに残る 理法として生き続ける
涅槃 正理 仏智 物質界の諸事には執着する
に価するものはない
空虚なものが色となって表れている
だけである 空とは欲界のカルマから自由になること
欲界においては無為が最勝である HDを例にとると
空き領域が大きく、emptyに近いほど作業をする上での余裕=徳があると言えます
つまり空とは徳なのです 空とは有無を包摂し
且つ
それらの皮相なる概念を超えた真実相
なり 立派な人格を完成させるのが仏法である
と見るなら、
カルトをやっても立派な人格にはならず、逆に下賤になるのだから
カルトは仏法ではない。という事になる キリスト教のいうサタンは本当に存在するのか
悪化した魂をサタンと呼ぶのか?違う違う
5割の魂を必ず地獄に落とすルールにしているのがキリストの霊界なんだろ?
むしろキリストの霊界がサタンに惑わされた善悪界じゃないか
永遠に語るほど霊的真実は存在しないだろ
サタンも存在しないだろ hell is made by some buddhi
buddhi is heavenly bird sprits
buddhi mantra is ridiculous shit 角川ソフィア文庫の法華経読んでみたけどなんとなく頭がクラッシュする
悪の概念=悪のイデア=悪霊、悪魔、犯罪者、ネガティブな事
それらが頭の中でストレスを作り出して、やる気や性欲を起こさせたり
行動を規制したりして道徳心を保っている
法華経を熱心に読み込む事によって、脳内のすべての悪霊や神が悟りを開いて仏教界に旅立つ
すると、頭の中で何かが起こって、頭の中に住む深層心理の悪霊が悟りを開き、ストレスを軽減する
また、神社やオカルト的な霊感もゼロになる
それらは深層心理に潜む悪の概念がもたらしてた事
無料で配ってるから新約聖書がもてはやされ、法華経は基本的に仏教の寺から門外不出で出てこないものなのでマイナーだが
このお経の本は読む価値がある
ただしかなりのマインドコントロール力があると思う
特に仏教的多神教的価値観で過ごしてる日本人には、新約聖書より頭に入りやすい >>339
サタンとはようするに生まれ持っている不快感だね
生まれたときに感じてる、泣きたい衝動、寂しい衝動、食欲の衝動
また、はじめの神である親との愛情や叱責などの教育によって生じてしまう、悪の概念
悪の概念が恐ろしいから人間は真面目に道徳的にふるまう 救済なのかそれは?
結局気分次第じゃないか
仏教徒らしい傲慢さと狂った判断基準
飢えた動物
ノラネコに餌をやらなかっただけで仏界の地獄に落とそうとしたり
神聖視しているのは鳥の属性とその脳みそ これでは悪人に指定された方が心外だな
ありもしない仏自慢がそのままホラー以外の何物にもならない
と気づかないレベルの脳みそ