空を覚る・極無自性心・秘密荘厳心
大乗涅槃経は不純要素が沢山混じっていて
お薦めできませんが、しかし常楽我浄などはよいと思いますよ。
というか、あれこそ大乗における正しい真我観と
言えるでしょう >>201 ただ常楽我浄って表看板も仏教として奇異に見えるのは確かで、また無我
というのは禅定の中での実践面の話であって、
それを表看板みたいにドーンと外に宣伝すべきことじゃないだろって事です。
したくなるのはわかるけど >良く存在とか言われてるの、仏教的な解釈だけでは本質は掴めないよ、
特に唯識はマナ識に対してアラヤ識を立てるけど、
ヨガでは我執(マナ識)を挟んで貯蔵庫で、大我執(アラヤ識)と真我(真の
鑑賞者)の3つをたて、真我の上にブラフマン(宇宙的存在意識)を
おきます、
そして、臨済が言った面前を出入りする生き物(悟りの当体)と、展開する
世界をも含めたものを真我とするのです、般若心経はこのことを言って
います、
素領域理論でも同じことを言っていますね、自分の見ている世界はその個人
だけの世界空間であって、それを素領域と言い、その素領域は他の素領域と
部分的に重なりながら全体の無限個の意識空間の塊を形作っていると、
サーンキャでも無限個のアートマンの総体がブラフマンであると言ってて、同じです。
金剛般若経の否定の否定とか、最後の最後に解るのが、存在そのものを
在らしめる「多次元空間=多次元意識」この空間だけでは無いので、光と同じこと、紫外線赤外線は目で見えないが、それ用のカメラでは像として映ります、同じ理屈で色界の上に無色界が説かれていて、それが多次元宇宙です、
そして、釈尊の悟ったものとは、この多次元宇宙を在らしめている、
一つの空間意識であって、これを神の命、大生命とも言います。
非常に広大で深く高い無限ではありますが、空にして無でもあり、名状しがたく、これを如とし、如来と言います。 77年前の祈願後、2年で戦況悪化の一途辿り
原爆2発で無条件降伏。遠縁のワルの官僚は特攻隊出撃直前で助かったそうだが
終わるの遅かったよな。今では意識も変わった。戦後よい国になったと素直に喜んで
よいのだろうか?
高野山真言宗総本山金剛峯寺(和歌山県高野町)は11月23〜30日に大元大法(大元帥御修法)を金堂で営み、病魔退散と国家鎮護を祈願した。
(中外日報)
第1結集の時の内容が、南伝や北伝として
そのまま残ってる訳じゃないよ。ま、律ぐらいなら、あんま差異は
ないかもだがね。
いま残ってる阿含にしろ南伝にしろ、かなり後で手が加わったもの
>異部宗輪論で言われるところのいわゆる小乗と呼ばれる伝統的部派仏教の部派の話と、スリランカ上座部と称しているものと、
現代上座部と称しているテーラワーダを分けて考える必要があります。
ご存知かとは思いますが、そこは同じではないです。
>スリランカ上座部は「島史」による伝承が根拠なので、あくまで自称の話であって、分からないことだらけです。
また、テーラワーダも途中2度途絶えたものを復興したもので、これらを根本分裂時代に遡り一連のものとして考えるのは、
そもそも無理があります。
>部派の系譜に関しては、テーラワーダの主張は違うということ。
>テーラワーダは、根本分裂時の上座部の直系ではないです。
それをブッダゴーサ教と呼ぶ人もいます。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1607282090/ 明恵 の 耳 とかのほうが統合失調症などに関係あるかもね、
公開はしてないかも、だけど天使や妖精の音を聞くとか、
空海派はビジョンだけで、過去の統合失調症、預言者の女性荒らしてる。
般若の空のほうが大事だ。だけどそれも下だろ
。投薬も無能な空海の精神構造なみではだめだ。 空海モデルるなんて密教のていをなしていないよ。
もっと本気出せよ。 空海モデルなんて密教のていをなしていないよ。
もっと本気出せよ。 精神分析では、人間の精神構造をイド、自我、そして超自我の3つの領域ないし機能に分けて理解するのですが、
こうした自我、イドは当然五蘊に含まれると思います。イドは「色」蘊や利己的欲求に基づく衝動を起こす根源で、
悪いことでもよくても無関係に、兎に角「やりたい」のですが、それに対し、自我はそんなことしたら捕まるとか
みっともない、とか自分のポリシーにあわないとか色々理由をつけて、行動を規制する主体で、或いは規制する
ばかりでもなく、現実原則に則って最終的に判断を下します。それに対して超自我は、
一応意識上に上る場合においては五蘊に属するのですが、そうした最善な命令を下す大元で統御する真の主体者であり、
観照者であり、それこそが頼るべき真我なのだと思います。
この真我は上記の低次元での葛藤など遥かに超えており、自帰依の対象になる真の自己で、敢えて言葉にするなら
「我はブッダなのであるから、そうした低級な欲に指図されることなど本来的に有り得ないのだ」といった感じになります。
しかし五蘊にいる自我に毒矢が刺さっていてイドより弱くなっていたり、自分という真我を信じれていないと
正しい判断ができない場合も有り得るのです。
このように考えると、誰だかのように
もし無我の境地で欲の言いなりになっていたなら大変なのです。
フロイトなど初歩の精神分析と大般涅槃経、五蘊非我などを繋いだ
「五蘊と真我の関係」でした。 129神も仏も名無しさん2020/12/06(日) 22:30:21.47ID:PeQuiA6p
5ちゃんねるに凄まじい量のレスをつける或るコテの方がいてー自称43歳で統合失調症
の方でーそうした書き込みをもとに分析したところ、真我が全くわかっていない方の心
の状態についてデータが得られました・
もちろん掲示板の書き込みが全て事実だと見るのは危険ですが、仮にそうだとした場合
の話で、しかし当人が病気だと主張するのが嘘でもなさそうだという見解への裏付けも
得られ、辻褄が合いました。
130神も仏も名無しさん2020/12/06(日) 22:57:20.60ID:PeQuiA6p
その方の場合、イドが凄く強い方だとわかりました。
また自我もイドの言いなりになっていることがかなり多いらしいというのもわかりました。
問題は超自我なのですが、心の中にある筈のスーパーエゴの出向者の席ー真我からのメッ
セージを伝達してくれる役割の人の座るべき場所ーが
何ものかに乗っ取られ、占有されている様子なのです。
そのためベストな判断をするための、真っ当なメッセージが全然受け取れなくなっています。
そうした邪魔者が居座り、占拠しているため、真我が統御できず、結果心の統合に
変調をきたしてる状態とも解釈できます。
ただ「ナンミョ〜」とか「釈尊が0を発見した」とか
うわごとみたいなセリフを発する”侵入者”が居座っているだけに見え、
それを毒矢とも呼べるかも知れませんが、脳の病気であるならば仕方ありません。
しかし結構筋の通った話を書くこともあり、動画の投稿もしていて、
聞いた感じでは失調状態との印象は受けません。ニコチン中毒、依存症はありそうですが。 究極的には
さとりは言葉ではない
ということになる
勝義諦 空と涅槃は裏と表
現象世界の空を理解しないと、涅槃も知解できない
物質的なものに心がとらわれていたのでは涅槃寂静になれません
それだけ。シンプルでしょ 健康な男性は入眠時に充血するのは自然な生理現象
ただ覚者は、たとえ現象をキャッチしても色から無明が除かれてるため
行→識へと縁起しない そもそも
画像見てええな〜 という想が起きない 大小便にまみれた汚物とか
観察し、一切は苦しみであるとの真理を思う。大小便をする時にも気をつけている
と経にありますよね 702福音伝道2020/12/17(木) 07:06:35.41ID:J3h+uf/S
>>689
陳那(Dignāgaディグナーガ)は馬鹿である。あるいは陳那を誤解している。
現量は「pratyakṣa現-pramāṇa量」のことだが、
五識は「直接知覚によって得られた知識が正しいかどうかを判断する規範」ではない。
五識自体は色を見、聞、等するだけで、意味づけをしないのだから判断力はない。
インド哲学の認識論でpramāṇaが立てられたのは「認識手段」という意味なのである。
「判断する規範」ではない。情報収集する「認識手段」にすぎない。
1認識主体(pramātṛプラマートリ)が
2認識手段(pramāṇaプラマーナ)によって、
3認識対象(prameyaプラメーヤ)を認識し、
4.認識結果としての知識(pramitiプラミティ)を得る。
という構成になっていて、pramātṛがアートマンなのである。
陳那(Dignāgaディグナーガ)自体は、pratyakṣa知覚とanumāṇa推理の二つだけを
正しい認識手段としたにすぎないのだが、有相唯識派によって
pratyakṣa知覚は現量とされ、anumāṇa推理を比量とされてしまったのである。
ちなみに鹿野園おばさんの好きなapoha排除の理論は、
陳那が確立した理論である。竜樹ではない。 >古唯識の世親や、正統の無相唯識派は
能取と所取の二取の相、つまり見る主体と見られる客体の相を実在しないと
考えたが、陳那(Dignāgaディグナーガ)の論理学を吸収した有相唯識派は、
二種の相を実在するものであるとした。
つまり佛教を棄て、インド哲学に埋没してしまったのである。
この間違いの系統の正嫡が法相唯識なのである。
なので中国では華厳宗からコテンパンにやっつけられ
日本に来ると天台最澄にとどめを刺された。
その後、唯識自体は各宗が研鑽を積み重ねたが
法相宗は落ちぶれ細々と奈良の片隅で存続していたにすぎないのである。
近代に入っても再び、宇井白寿によって法相唯識は一刀両断されているのである。
いわば伝統仏教界の創価が法相唯識なのである。
各宗各派のほうが法相宗より唯識研鑽の歴史と伝統を持っているのである >>214
少しでも医学的知識があれば判ることです。男性にも生理はあります。
女性と同じ。ただ血行が悪く不健康だったり高齢だったり成人病など病名がつく
症状がある場合はその限りではありません。 >>218
男性にも生理があるという説を真っ向から否定する医者の文章も見たことがある
自分の経験からも男に生理があるとは思えないのだが 真言の十識、天台の九識などのほうが、
より洗練されてるといえるでしょうね。しかし、インド思想においては、世界を
マーヤーとする世界観がベースにあり、そのリバイバルが空の思想と捉えるなら、
ブラフマンを実在視した?との解釈は無意味
密教においても、空を教学的には説きつつも
この世は毘盧遮那仏の顕われであり、自らもその一部と覚る事を目的とする等、実態は
圧倒的実在世界と法界を見做す思想もあって、実在非実在の見解は理論上のもの
に堕してるきらいもありそうです
仏教においても涅槃と虚空は常住です。中観帰謬論証派は別かもですが。
で、ブラフマンやヴィシュヌが解脱して
涅槃に趣いたらブッダと成る で、衆生救済しに
毘盧遮那如来が実在界に来たら
梵天にも諸天神にも化ける
覚った釈尊に法を説かせて衆生救済させたのは梵天だと見るなら
大乗の見地からは梵天のほうが殊勝で
毘盧遮那仏の化身だと見れます どういう立場にあっても子供の意思や他人の人生を制御しようとするのはいかん
と思うね。
一つ想像したことですが。竹内結子さんも、もし長男から、何故歌舞伎俳優への
道をふさいだの?的なことを例えちらりとでも言われたとすれば、離婚訴訟で頑張ったことを悔やんだかも知れない。が、
私は他殺だと理解している。
何事もなるようにしかならない
自然が一番
ムダな作為によったことは、どこかで無理した分のツケを払うハメになる ┏━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┯━┓
┃仏説摩訶般若波羅蜜多心経
┃観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
┃色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。
┃是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中無色、
┃無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
┃無眼界、乃至、無意識界。
┃無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。
┃無智・亦無得。以無所得故。
┃菩提薩陀、依般若波羅蜜多故、心無掛礙、無掛礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、┃
┃究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
┃故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、
┃能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。
┃即説咒曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
┃般若心経
┗━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┷━┛ 集諦と苦諦
識別作用とそれから生じた妄執こそが
苦しみの素なのである。
道諦と滅諦
識別作用を残りなく離れ止滅するならば
再び苦が生起することはない。 欲情の対象が汝の心を損なわぬよう
執着の無い境地に安住するよう
怠らず勤め励め 全生類への慈悲の心
によって ・無眼界乃至無意識界
の方なら
・眼識界(目で認識する世界)には不変の実体(本質、自性)はない
・無眼耳鼻舌身意
は
・見る機能には不変の実体(本質、自性)はない 分別
南伝 相応部経典12-2 分別
漢訳 雑阿含経12-16 法説義説
(前略)
また、比丘たちよ、有(存在)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには三つの存在がある。
欲界すなわち欲望の世界における存在と、色界すなわち物質の世界における存在と、無色界すなわち抽象の世界における存在である。
比丘たちよ、これを有というのである。
比丘たちよ、また、取(取著しゅじゃく)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには四つの取著がある。欲に対する取著、見(けん 所見)にたいする取著、戒(戒禁)にたいする取著、我(が)にたいする取著がそれである比丘たちよ、これを取というのである。
比丘たちよ、では、✽愛(渇愛)とはなんであろうか。
比丘たちよ、それには六つの渇愛がある。物にたいする渇愛、声にたいする渇愛、香にたいする渇愛、味にたいする渇愛、感触にたいする渇愛、✽法にたいする渇愛がそれである。
比丘たちよ、それを愛というのである。
(後略)
分別(Vibhanga=division)とは、分かつこと、分析である。十二縁起の各支を、一つずつとりあげて説明しているのである。
したがって、そこには、仏教術語の基本的なものが、簡明に説かれている。珍重すべき経である。
✽愛(tanhâ=thirst) 渇愛と訳する。欲望の激せるありようを喉の渇きに比していうことばである。
✽法(dhamma) 観念というほどの意。
✽名色(nâmarûpa=name and shape) 五蘊すなわち人間存在である。
五蘊のうち、受・想・行・識の四は、ただ名をもって知られる。ただ、色蘊は物質であって形をもって知られる。人間はそれらの構成するところである。
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html 確かに勝曼経とかも良くできた経典だとは思うのですが、
しかし得体の知れない在家のおばさんが釈迦に説教する等というお話を
そもそもお経として認めてよいものか違和感を覚えるし、他の大乗経典もそれと似た
おふざけなのでは? との疑問も起きます
しかし大乗でも、般若経典の空の思想や
華厳経の
一の中に「一切」が蔵されるという思想は
深遠な理を孕むとは
感じています 十二支縁起説は、後代の仏教徒が男女のいやらしいカルマの進み具合や事後の成り行きなどを、ある部分細かく、
また肝腎な点は端折って要約したものですか? 医者の中には、
解脱者の観察ができていて、実質ある種の正しい認識に達しているものもいるらしい
勿論、煩悩にまみれたままのものも多い
ようだがね 医者よりシャーマンが優秀。睡眠不足と催眠考えると男性医師は疫病神。 睡眠不足からほとんどの病気が起こり、催眠で殆んどの病気が治る。睡眠余して貯めることさ。 ファッションや食事スケジュールや睡眠信仰がシャーマンのほうが健康。 空海様のエネルギーを感じてみてください #空海様は日本最強の能力者です #高野山は真言密教の聖地です
【弘法大師】真言密教の聖地「高野山」
https://youtu.be/uJEdiIWMzVM?t=151 ものごとは見えている通りにあるのではない。
「対象物」の実際とその本質は
写真で見るほど良くも有意味でも無い。真実の相は、
また違ったものであろう 空海より明恵のほうがフロイトの先を行く。空海は前座。 精神的な世界がある。
それは物質界を超えた世界である。
そして欲界・色界、無色界の三界から解脱したところが無余依涅槃界
である 心の安寧とは外部から得るものではなくて
自ら、或る種の決意と忘却によって生じるものである。
弘法大師は、解脱を「のがれ」とも
表わしている。 “魔術師”のように数式を発見する「ラマヌジャン・マシン」【理系通信】(2021年2月9日)
https://youtu.be/R_RN7P606w0 如実に観察するなら
いいと思ってた女とかも髭を剃ったゴリラと大差なく
只のウンコ製造機。幻想に騙され、惑わされてただけ
と気付く 九次第定の滅尽定とは
無想定とは異なる。正しく五蘊を空にして
我に如来を実現する行法
である ムダな作為によったことは、どこかで無理した分のツケを払うハメになる 物質存在とは
宇宙の中で
そのモノが存在できる確率
のことである イタチの君戦死。今日通夜明日葬儀 5chも弔問参列受付。増上寺祐天寺。 ”因縁”なるものを実体視し何か固定したもので逃れられないものと
思わせようとし、また思わされている点こそが
迷信であって、空によって滅されるべき妄分別であり、
戯論なのです。 只の在家信者でしかない勝曼夫人が仏陀釈迦牟尼に説教してしまう勝曼経の問題点に触れるまでもなく
中期大乗の涅槃経も創作経典なのであって、
仏滅後七百年あたりで仏教は根本的に変質してしまった 極無自性心とは
完全に自分が無い
という事では
ないかな 5ch宗教板のさとりスレに出没する栄進軍曹や鹿野園や「真言」などの書き込むレスは
誤りの混じった内容が殆どである。
きっと、何かの本に間違った話が書いてあった
のでしょう 秘密荘厳心 とは、
自ずから本源を知る一心のことでは
おのずから(‥づ‥)【自ずから】
〔副〕(「己(おの)つ柄(から)」で、「つ」は「の」の意の格助詞、「から」は、その物に本来備わっている性質の意)
1 もとからあったそのままに。また、物事が行なわれて行くうちにひとりでに。おのずと。「隠しても自ずから知れる」*源氏‐行幸「この女御殿など、をのづから、つたへ聞えさせ給てむ」
2 たまたま。偶然に。まれに。*枕‐八「おのづから端つ方、局などに居たらん時も言へかし」*徒然草‐二五「おのづからいしずゑばかり残るもあれど」
3 (仮定、推測の語句につけて)もしかして。万一。*源氏‐桐壺「をのづから若宮など生ひ出で給はば、さるべきついでもありなん」
4 自分自身で。みずから。*嵯峨本方丈記「もしすべきことあれば、すなはちをのづから身をつかふ」 我というにも二義あり
一つには勝義の我であり
もう一個は五蘊に巣食う妄分別たる見解に縛られた世俗の自我である
戯論は妄分別を生む 自我=エゴを捨てることで心が変わる。
妄想のほうがレアな世界だよね。だけど現実のこともおろそかにしないで。 妄想体系などを立てて戦術を練るとか。戦いだよなあ。 信にも迷信盲信妄想信心狂信などある。
カルト信者、奉公者の言う信とは、全部その類なのである。
それらはすべて、迷界の自我が沈淪する無明が為せる
業なり。 極小値から「零」に向かって縮んでも
どこまで行っても零には辿り着けない
絶対的な零は存在しない。宇宙に真空なるものは存在しない。
概念としてのみ人は夢想する 絶対的に不変の状態、
固有の実体的性質をもったものは存在しない
という程度の意味では? それは我体がない
つまり無我、無常という意味でしょう すべての物質は 力によってのみ始まり
存在する
この力の背後に
意識と知性を持つ精神が
存在すると仮定しなければならない
この精神が
全ての物質の母体なのだ
-マックス・プランク(量子論の創始者) 煩悩のエネルギー自体は(それがエネルギーである以上)
消えないので、それを逆に燃料として利用し、
質的転換させる事が必要
となる それが妄想と気付いてしまえば
もはや煩悩とは呼べない 真空は実用的には次の二つに大別されます。
絶対真空:物質・圧力が 0 の仮想的状態(全くなにも無い状態)。
負圧:標準大気圧より圧力が低い状態。JIS によって圧力の段階ごとに区分されている。
絶対真空とは空間中に分子が一つも無い状態を示しますが、地球の表面上の圧力(1気圧)は
100 kPa時に1 cm3中の気体分子は0 ℃時で
2.69×1019個も存在します。人工に作り出せる真空状態は10-11 Pa程度が限界で、この圧力下でも1 cm3に数千個の気体分子が存在
することになります。外宇宙と呼ばれる銀河と銀河の間でも気体分子は存在するとされています。 負圧は、しばしば俗に「真空度が
良い」「真空度が悪い」「真空度が駄目」などという使い方をされる。真空度とは圧力でも表されるがその場合は言葉のイメージと
表現が逆になるので注意が必要である(例:真空度が良い=圧力が低い)。真空ポンプを用いて真空を得ることができる。真空度
の単位は Torr(トル)が用いられてきたが、SI単位系への統一に伴い、Pa(パスカル)に移行しつつある。
1 atm=1.01325×105 Pa=760 Torrである。 宇宙に絶対真空は存在しない。外宇宙と呼ばれる銀河と銀河の間でさえ気体分子は存在するとされる。
また仮に絶対真空状態が実現できたとしても、
空間自体は(観測不能なほど微小な構成要素である)ひもの振動やプランク振動子などによって作られるエネルギーに満ちた場
だという認識で現代の物理学は一致している。(一般相対論も重力を「時空の歪み」として捉える)
いかなる意味でも真空は空っぽではないのだ。 電子光子相互作用
光は電磁場の波であるため、電荷をもつ粒子との間でエネルギーの授受が発生する。
たとえば、電子がエネルギーを失うとき、そのエネルギーは光に変換されうる(発光)。
また、光のエネルギーが電子へと受け渡されたとき、電子のエネルギー準位が変動し、光の色が変化する。光から
全てのエネルギーが電子へと受け渡されたとき、その光は消滅する。 現代の禅師は答える
猫にも仏性ありと解く
猫の態度は、接する者の本性を映す鏡なのである。
猫にかぎらず、自然一切万事みな己のすがたを示す神鏡なり
猫も自ら空腹にあっても食さず子に食を与える
また阿吽と鳴こうとして、人に菩提と涅槃の因果の理を教える
見る人が見、聴く耳ある者聞けば、およそ此の世の全てに
仏性無きもの一つも在らず 中期大乗以降、仏教はほぼカルト化した
だが、密教に関しては、純粋な仏教ではない点には注意を要するが、
また別の宗教の一つの完成形として
見るべきものもある 初期仏教も創作ですよ。創作でない可能性の少ないのはスッタニパータの4,5,1やダンマパダの一部
釈尊が輪廻を説いたというより、前提としてあったもので、解脱への道を示したものが本来の仏教
私見では、そうした前提まで釈尊が説いたという風に、わかり易く児童文学っぽく仕立てたのが大乗
心経は「死後の世界を説いてる」と見る人もいますよ 密教空手の真言空手とかは話題になるといい、蛮族脱出しておいたほうが。 葦原や明恵のほうが人物的にいいかもしれないけど。歴史考証まだですか? >大乗では完全に五蘊を去った状態を五蘊皆空と言ってるだけです。
原始仏典流に簡潔に言うなら
五蘊は悪魔の棲家と明らかな智慧により如実に見て、しかもそれを完全に遠ざける
という事は大変な事だと思いますよ。それを無我、皆空と呼んだのでしょう。ブッダもその境地に到るために出家後
まず仙人について(九次第定でいえば七番目に当たる)無所有処定を学び、次に先生を変えて非想非非想処定を学び
さらに長い年月をかけて孤独な修行の末に滅尽定に至って初めて成道となった訳です。
ですから、その境地まで達しなければ本当の無我、皆空とは呼べないし、涅槃もまだ浅いものなんでしょう。
その段階に行くには菩薩の十地の六〜八番目にならないと、と論書にも書かれていますね。
ただ人によっては、像法の時代以降で菩薩の初地に至ったのはナーガルジュナとアサンガだけと言う人もいます。
そこまで厳しくは無くて、有名無名の解脱者は大勢いたとは見ています 全体(エネルギー)としては波
部分(個物)としては粒子
粒子性は光子一つだけに着目した時に意識される性質で、光の一側面に過ぎない
相補性すなわち是、一即一切 >相応部の経において、片方では五蘊は苦であり、もう片方では五蘊を空としている。
また相応部の他の経では五蘊は無常であり、また他の経では五蘊は無我(非我)であり、また別の経では五蘊を悪魔と観じるのが正しい
観察とし、
五蘊を厭い離れることによって、貪りを離れる。
貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである
五蘊は苦の因を集める器であり
悪魔の棲家と見做されるべきもの。
苦の因を集めるのが我執。それを晴らすのが
空=道諦
釈尊が悪魔を降伏して成道したという伝説は
完全に五蘊を去った
という境地の比喩
心経は
識を超えて欲界も色界も消えている菩薩が説法者の設定ですから
とうに彼岸に渡った解脱者による説法です。 特異点を乗り越えようとすれば、科学を超えた宗教の問いが復活する いやね、他スレ)848-849みたいな幼稚園児がしてることは禅定のレヴェルに全然達してないと思うんです。
普段の生活で心念処とか、客観的に自分を観察できる段階では全くなくて、
禅のマネごとか何だか知りませんけど、オ坐りした時だけ、自身の五蘊を見て「ああ無常だ」とか思った
そうしたプアな世界と己の観察結果を園児は書いてるんですね
>ただ坐ればいい なんてかくのは幼稚園生です。ここは、そんな初歩的なことを学ぶ場
ではありません。禅定の奥義を知る人々が集う処であって、幼稚園児レスでは、対象が異なりますよ
また坐らずとも瞑想はできます。
そのほうが大事 如実に観じることが出来ていない
なんかいいものじゃないかとか、幻想を持って、色眼鏡を通して
対象を見ている 生死問わずエネルギーである点では同じで
よく考えてみると
全てのものに差別はない。無常といいつつ本質は空で、その空すら空であって、
物質界、三界から解脱できると解く 般若を空と解くは浅略で、世間法即ち涅槃と解くのが深義である 般若波羅蜜多とは
迷信の呪縛を解体して
真のさとりに導く方法論
でもある
迷信=有部や分別説部の教義への妄執
ということ
欲界・色界・無色界は見せかけだけの幻だという事ですね
凡夫衆生に説く場合は基本、物質界とは虚妄ですよ。解脱しない限りはね
その虚妄とは、華厳経や般若経でいう虚妄であって
中国仏教や臨済宗などの虚妄とは
違います
あと原始仏典で言う「世間は泡沫」なども同じ意味でした
三界は ただ縁起の理法に従い転変するのみ(依他起性) というか
色に捉われがなければ 空なる対象も唯 空としか見ず、空即是空とか。
さらに言うと円成実性という涅槃を知解する境地まで進んで行ければですね。 臨済禅かぶれの蛙が納得し得る解答は、蛙自ら見つけるより他には無いでしょう
また答えは一つではない。だが、敢えて一つ選ぶなら、増支部「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」に
あると言い得るでしょうが、
仏性自体が客塵煩悩によって汚される訳ではないのです。
また如来蔵とか仏種とか「仏陀になる可能性」とか幾らでも言い方はあるでしょうが、臨済禅オタクが気に入る表現が何かはわかりません。
ここにおいて
ほんの数例を挙げましたが、他人に教えを請う前に
まず「私はこう思う」と己の見解を示すべきではないでしょうか
いかなる意味でも、5ちゃんの質問者などに弟子入りする気は全くないですし、
意味不明なテストをされる理由がある人もいないでしょう。
どう見ても悟っているようには見えない方が意味不明なレスをつけても「何様だ?」と思われるだけでしょう 後からわかることで若者の恋愛を取り上げる低次元の憎しみ復讐が仏陀。
反抗しないと恋愛抜きの青春時代。 恋愛の酸いも甘いも知ったが仏陀は失恋を過度に恐れている。 若い恋愛性欲を抜き取って使っている悪の徒党は成敗する。