共感性羞恥心という言葉を最近よく聞くが
最近共感性羞恥心という言葉をよく聞くが、共感性羞恥心だからと言うことによってあたかも自分には何の責任も無く、共感性羞恥心を引き起こした物事に全ての原因があるかのように捉えられがちだがそれは違うと思う。
もちろん共感性羞恥心を引き起こした物事にも原因はあるが、自分が恥ずかしく思ってしまったというその感情にも原因があるわけで。
特に日本語は周りとの雰囲気や空気感を大事にする言葉が多く、より共感性羞恥心が引き起こされやすい。そしてこの共感性羞恥心は本来乗り越えるべきものだと私は考えているのだがどう思いますかね?
共感性羞恥心を乗り越えた先に新しい物事や価値観があると思うのだがなかなかここまで考える人はあまりいないのだろうか? 共感(性)という心理学の専門用語を正しく理解しないまま、日本社会に馴染みやすい共感性?という言葉を使い始めたのがそもそもの誤り。
もはや、共感という言葉は本来の意味を持たず、そこいら中で安っぽく使用されている。
共感という言葉を正しく理解すれば、それが羞恥心と結びつくはずがないことも、スレ主が言う"乗り越える"ものでもないことがわかる。
専門用語としての「共感」は主体とは別のものとして感じるものであるから 共感性羞恥は恥かいた本人を更に馬鹿にするために使われている そう
言葉と言葉の持つ実際の意味を知らずによくスレを立てられたもんだ
日本語ネイティブの人じゃないのか?思考が甘々なのか?