X



理論社会学・社会学理論・社会理論
0047名無しさん@社会人
垢版 |
2012/05/19(土) 02:12:19.30
>>45,46さんへ

わたしの駄文を読んで戴いて、さらにご意見と質問までくださってありがとうございます。
心底感謝しております。
以下にわたしの実に素朴で私的な意見を出来る限りあなたの質問に答える流れの中でで書きます。
あなたにとって足りないと感じる箇所もおありでしょうが、それはわたしが至らないだけです。全てをお答え出来るほど
出来た人間ではないから故の問題です。どうかご理解ください。

では、またさらなる駄文を 以下に・・・
0048名無しさん@社会人
垢版 |
2012/05/19(土) 02:24:05.97
私の考えの基本にあるのは、良い意味での偏見・偏頗心です。或いは、「お国柄」といっても良いのかも知れません。
ひとつの国なり文明圏に生まれ其処で生きてきた人々の考え方や思考様式は、その生きてきた社会や人生に大いに
左右されるものだろうということです。故に、「価値中立」という姿勢や、「俯瞰的な視点」という超越者然とした姿勢を
わたしは酷く嫌っています。そういう姿勢を取る人間は信用できないとすら考えております。
現実は猥雑物が多すぎるのだ、邪魔だから綺麗な理論だけ抽出しさえすればよいのだ。こういうのが一番嫌いです。
現実の泥臭さを大切にするべきです。地層のように折り重なったそのひとの人生の蓄積を丁寧に見ていくべきではないのか。
それが私の考えです。
 
 社会学のエッセンスを一括りに語ることはとても難しく感じますし、私自身もそういう資格はないだろうと思います。
ただ、確実に言えることは、社会に対してそれを知ろうとする各々の学問のアプローチはあくまでも個別的である、
ということです。一方で社会現象というものはそもそもがあまりに「総体的」なものです。その錯綜した現実に対しては、
私達は、所謂「群盲象を評す」という状況なのではないでしょうか。各々の社会に対する見立てや意見評論は百花繚乱。
出来るのは各々個別のアプローチからのアングルの切り取りであり、それが「鼻」なり「脚」なり「牙」に該当するだろう
ということです。それでも「三人寄れば文殊の知恵」ではないですが、こういう場合皆の意見をすり合わせれば全体像も
ボンヤリと見えて来はしないだろうか、という希望を持っているのです。それがわたしにとっては「社会科学全般」の知識を
「横断的に」吸収していったらいいのではないのか、の意味です。ひとりで多角的に見る姿勢をもてないだろうかと。

 
 
0049名無しさん@社会人
垢版 |
2012/05/19(土) 02:26:28.22


 一方で、社会学等の固有の方法論(あなたのいうパースペクティブですね)についてです。
わたしはその学問体系の生まれた系譜に眼をやるべきではないのか、と思っているのです。やむにやまれぬ必要に
駆られてその方法論(パースペクティブ)は生み出されたのです。元来はそれ以前の体系の限界を踏まえている
もののはずです。その上で新しい視点を新たにこさえたと見るべきなのではないでしょうか。なればこその「古典」です。
ひとつの「パースペクティブ」をたぐっていくことで、その発祥の由来から来歴に至るまで分厚い知識が得られるのではない
でしょうか。そう考えているのです。裏を返せば、わたしは知識の獲得に効率を求めては居ないです。
例え量に於いて少なくとも、ゆっくりと分厚い知識のエッセンスを身につけるべきではないかと考えているのです。

 入門書についてです。
恥ずかしい話ですが、実はわたしは入門書マニアに近いのです。それ故に感じるのです。各々入門書を標榜しながら
既にその入門書に著者個人の偏りや偏頗心、その著者の依って立つ学派の意見が反映されているじゃないかと。
それならば、何も入門書等と標榜することもなかろうと。業界特有の専門用語は避けるなり長めの注釈を添えるなり
しさえすれば良いだけの話です。そもそも「価値中立」の人間などいるとは思えません。それでいいでしょう。その中でも
「古典」は歴史の淘汰を受けてきた強い文章です。その古典を、ありのまま丁寧に読み込んでいけば良いのではないのか、
とわたしは言いたいのです。優秀な「古典」に、「信頼の置ける注釈」や、筆者の言及している事柄の「社会的背景」等を
丁寧に添えておけば、それでいいのではないのかと。

 
0050名無しさん@社会人
垢版 |
2012/05/19(土) 02:40:26.87

 大学の講義についてですが、実はわたしは非常に苦手です。虚弱体質と低血圧のおかげで恒常的に集中力を維持出来なくて
苦労していたからです。出来れば自分のペース配分で勉強したいなあと何時も考えていました。それに、欠席すると非常に焦るん
ですよね。講義の内容自体に関しては、教員次第なのではないでしょうか。わたしは勇敢な教官が好きです。自分の偏りを自覚した
上で、自分の信念をぶつけてくるような方々ですね。「巷間ではこういう意見もあるが間違いだ、自分の意見はこうである」と。
中途半端に各論を併記しているだけで、自分の姿勢や立場はつまびらかにしないままでいる教官の講義は困るのです。結局の
ところどうなのか、と訝りながら通年経過しかねないのです。どうにも事後に印象が残らないからです。収まりが悪いというか。
強引な意見表明は時に不快ですが、それに共感しないのであれば自分には合わないと割り切って捨てるべきではないでしょうか。
自分にとって極端な違和感を感じる意見は往々にして謬見でしょう。世間一般の「常識」のほうが大事です。庶民的感覚のほうが
信頼できるはずですから。
 私的な意見で恥ずかしいのですが、わたしは、こんな講義が受けたかったなあ、と思うことがあります。
立派な古典類を10冊程度チョイスして、その「前書き」と「目次」と出来れば「後書き」だけを抜粋して講義の材料にするのです。大概の
内容や著者の姿勢はそれだけでも伝わって来ると思うからです。「前書き」を丁寧に翻訳しながら教員が折に触れてその詳細について
説明を加える。その後「目次」を概観しながら教員がその単元につきどういう内容のことが書かれているのか大雑把に説明を加える、と
いう具合にです。そして教官自身がその著書に対する意見を述べる。其処まで手ほどきをしておけば、大概の場合、私のような不出来
の生徒でも、その「古典」を読むことくらいは出来るでしょうから。そして、じっくりと考えながら古典の独学をする時間を与えて欲しいの
です。そして、どう頑張っても理解の及ばぬ箇所は質問を許して欲しい。そんな感じです。
 
長文ホントに失礼しました。興味の無かった方すみません、無視してください。
お返事は期待してません。ホーこんな阿呆も居るのか程度に理解してくださればそれで結構です。
レスを投稿する


ニューススポーツなんでも実況