耐久の甲子園初出場を心から楽しみにしていた元同校吹奏楽部員がいる。
箕島が優勝した1970年のセンバツで、耐久の吹奏楽部部長としてアルプス席で友情演奏し、県勢戦後初の全国制覇に一役買った。
その時以来「次は母校が出場し、甲子園で在校生の吹奏楽部員にも演奏してもらいたい」と見守ってきた。
半世紀以上を経過して実現し「夢のようです」と本番の日を待ちわびている。
当時の耐久の吹奏楽部は部員も減少し、練習も停滞していたという。
3年生が卒業し、部長となった際「気持ちを新たに立て直そう」と部員に呼び掛け、定期演奏会やコンクールへの出場を始めた。
そんな時、センバツ出場を決めた近隣の箕島からスタンドで演奏するブラスバンド部員が不足しているとして「出場」の依頼が届いた。
「甲子園に行ける」と約20人の部員とともに箕島の校歌やマーチを必死で覚えて、箕島、友情演奏の向陽の部員と本番に臨んだ。