月9ドラマ「流れ星」 凄すぎ
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脚本 演出 役者の演技力 全てがそろった奇跡の連ドラ
山田太一や倉本聰作品のように、深くて繊細な人間関係を描きながら、
野島信司作品のように、飽きさせないストーリー展開を兼ね備える。
テレビドラマ(しかも月9)にも関わらず、見苦しい過剰なストーリー説明を
見事なまでに廃し、観る者に作品と真摯に対峙させる姿勢。
「視線」と「声のトーン」に全てを語らせる演出と、
それに十二分に応える役者(特に上戸と竹野内)の演技力。
第7話ラスト前、手術のため入院する前日の上戸と竹野内のやりとりは、
日本ドラマ史に残る金字塔。 特にヒロインの上戸彩の見せる演技は、特筆に値する。
連ドラで高い評価を浴びた「最高の離婚」と比較しよう。
後者のヒロイン尾野真千子は、いわば「+の演技」をするタイプであり、
脚本の坂元裕二含め、演出も演劇を意識した「+の演出」をおこなう。
ドラマ中で、尾野が時折見せる「ーの演技」も、「ーに見せようとする+の演技」であった。 流れ星での上戸彩は、徹底的に「ーの演技」をする。
上戸彩は、そのまま「−」を演じ続ける。
相手を強く思い、見つめるシーンにおいても、目を見開きはしないどころか、力を入れることさえしない。
そのシーンまでに、しっかり視線を外したり、視線を泳がしたり(これも最小限度)という演技を終えているからだ。
そのため、対象を心のままに見つめるだけで、十分すぎる感情が観る者に伝わるのである。
そもそも、目を見開き身体を震わすなど、テレビのクローズアップでは、リアリティから最も遠い表現なのだ。 脚本は、ヤングシナリオ大賞佳作で、脚本監修は大御所の伴一彦 >>6
「流れ星」7話、手術のため入院する前日、夜のシーン
クラゲの水槽を見る上戸の顔は、自称上戸彩に似てるブスな中学生みたい。
洋服のアオキのアイドル顔と全く違う。
演技を目指すアイドルは、全員、「流れ星」7話が入ったDVD借りてきなさい。
上戸は、演技力をもっとも過小評価されている女優。 「流れ星」7話、手術のため入院する前日、夜のシーン とは、
お互いが永遠の愛を強く強く誓うシーンなのに、二人は部屋の両端に立ったまま。
上戸彩は、竹野内豊の顔も見ない(視線は、竹野内の胸くらいまでしか見ない)。
見ないと言うより、見れないのかもしれない。 「−の演技」とは、“演技”をしないで演じることである。“演技をしない”ため、
素人が出ていると観る側は思うのだ。
例えば、カンヌで主演男優賞の是枝監督の「誰も知れない」での柳楽優弥の演技。
また、昨年度のアメリカのアカデミー章を受賞したムーンライトで大人になった主人公
を演じたトレヴァンテ・ローズもーの演技である。 リアリティには、ーの演技が必要不可欠なのである。
現在、日本でもっともーの演技を理解しているのは、北野武ではないだろうか?
アウトレイジで韓国マフィアのボスに素人を起用したことからもそれは分かるし、
2作目でもっとも存在感があったのは台詞のない高橋克典であった。
(まぁやりすぎて滑ってしまうDollsのような作品もあるが) そのーの演技がお腹いっぱい繰り広げられるのが、カンヌ作品でも、アカデミー作品でも
キタノ映画でもなく、もっとも下世話である月9であったところに「流れ星」のすごみが
あるのだ。 「+の演技」とは、さまざまな演技を“技術的に”積み上げていくものを指している
(おそらく現代日本でこの演技の最高峰となるのは香川照之であろうか)。
どういう泣き方でも出来る、発声方法を何通りも習熟している、よろけ方・歩き方も何パターンでもできる…
それらを、惜しみなく“出してしまう”のが、+の演技である。
これも香川照之のように極めれば、ある種、舞台(能や歌舞伎)を観る感覚で観る者を十分に魅了する。
しかし、それは、リアリティとは全く別の次元の話である。 ドラマのようにもうかるお得情報
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ZJO42 >>6
どうみても韓流顔だよね
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