探検の歴史
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探検者に関して見方を変えれば、それは侵略者のさきがけとも言える。 >>129
それら地名は、一体何語でどういう意味だったんだろうな? プトレマイオス地図じゃ中国まで行ってんのにアフリカは北部のみだ。
アフリカ南下してプトレマイオスに情報を与えられた人はいなかったんだなあ イスラーム以前は、サハラ以南とは交流が少なかったのかな >>133
まあ、海岸沿いじゃフェニキア人がアフリカ大陸一周したって話をヘロドトス
が載せてる。大げさな話が大好きなヘロドトスがあまり信じてないんだけど、
内容が思い出せないけど、たしか、ヘロドトスがおかしいと言ったことが、逆
に丁度当てはまるってことで、案外本当だったんじゃないかという話がある。
ちなみにゴリラの名称は、このときにフェニキア人がアフリカで見たって言う
「毛むくじゃらの人間」をそう呼んだことに由来してる。 >>136
>ヘロドトスがおかしいと言ったこと
太陽が北にあり、右手から昇ったってことだなあ。
当時でも地球丸いって知ってそうなもんだと思えるけど
ざっと検索したらアリストテレスが地球丸いって言っててヘロドトスはそれ以前だから
地球がまるいことは思いついたとしても太陽が北に行くとか右手から昇るとかは想像付かなかったのだろうか。
ゴリラの目撃報告、太陽の話からフェニキア人のアフリカ周航はホントっぽい感じ >>138
ゴリラを見たという、フェニキア人のハンノの記録じゃ、湾の中に島があって、
その島の中に湖があって、さらにその中の島に「女が毛むくじゃらの野蛮人」
がいたということになってる。現地の人間がそれを「ゴリラ」と言ったと言う
だけで、現在言う所の「ゴリラ」かは分からない。ひょっとすると現地人を
ゴリラと言ったのかもしれないし、ボノボのような種だったかもしれないし、
絶滅種の可能性もあれば、単なる法螺話なのかもしれない。
逃げ回るのを何人か捕らえることができたくらいだから、現在のゴリラとは
言いがたいかもな。
ただ、その記録から、今のゴリラをそう名づけただけ。 山海経も異形の者を報告してるがそれと認定できる者がいるのか単なるホラかは謎 ヘロドトスって言ったら、スキタイの章で草原の道を記録しているよな。 フェニキア人検索したら毛深い女を捕まえて背中から皮をはいだとか。
暴れたんで殺したのか アポロニウスの行伝も面白い。けど、あれは探検記というよりも旅行記か・・・。 シナイの北にはセレス人の国とその首都があり、それよりも東は、沼沢地帯を抱えた未知の世界で、
沼には大きな葦が隙間もなく生い茂り、それにつかまって対岸に渡れるほどだという。
また、そこ(セレス人の国)から石の塔を経てバクトリアナへ道が通じているばかりでなく、
パリンボトラ経由でインドへ行く道もあると聞いた。
ところで、シナイの都からカッティガラ港への道は南西を向いているということなので、
この都は、マリノスの言うごとく、セラやカッティガラを通る子午線上にあるのではなく、もっと東にあるのである。
プトレマイオス第1巻17章 第3章・シナイ人の位置
シナイ人の北を限るのは、セリカの説明済みの部分である。
東と南は、未知の世界によって限られる。西を限るのは、大湾に至る確定済みの線を挟んだ、
ガンジス河の外側のインドと、大湾そのものと、それに続く諸湾、すなわち野獣の湾とシナイ湾とである。
この湾の周りにはエチオピア系イクチョオファゴイ族が住む。西側の記述は次の通り。
大湾内のインドとの境界の次に
アスピトラス河河口 170° 16°
ブランマ町 177° 26°
アムバトス川河口 177° 12°30′
ラバナ町 177° 8°30′
シノス川河口 176°20′ 6°30′
南の岬 175°15′ 4°
野獣の湾湾頭 176° 2°
サチュロス岬 175° 赤道
シナイ湾内にはカッティリアデス川河口 177°20′ 7°S
カッティガラ、シナイ人の泊り 177° 8°30′S
この地方の最北部を占めるのは、同名の山脈の上にあたりセマテノイ族、
彼らおよび山脈の下にアカドライ族、残りの湾沿いにはシナイ人のイクテュオファゴイ族。
シナイ人の内陸の町として挙げられるものは次のもの。
アカドラ 178°20′ 21°15′
アスピドラ 175° 16°
コッコサナゴラ 179°50′ 4°S
首都のティナイ 180°40′ 3°S
この町には銅の城壁もないし、その他、特筆すべきことも何もないという。
カッティガラからは西方へ、未知の世界がプラソデス海を囲みつつ延々と広がり、
プラソン岬に連なっている。既に述べたように、この岬から浅い海という湾が始まり、
未知の世界をプラソン岬およびアザニア地方南部につないでいる。
プトレマイオス第7巻3章 日本の南極探検隊の白瀬中尉ってさ、
良く見たら南極大陸の陸地まで到達できなかったんだね。
まあ、それでもすごい探検だったと思うけど >>136
ヘロドトスならむしろエジプトの冒険好きな若者たちがナイルをさかのぼってみた話が面白い
たしかワニのいる巨大な湿地までいったらしいから、スーダン南部まで到達ってことか 旧約聖書やコーランには、凶悪な蛮族ゴグとマゴグが登場するが、
彼らは世界の終末に大地の果てから殺戮のために襲来するだろうとの言い伝えがあった。
アレクサンドロス大王は、東方遠征の途中で彼らを封印するために防壁を築いたという。
842年、アッバース朝のカリフ・ワースィクは、
ある晩、その防壁が壊れる夢を見て不安になり、
その防壁の状態を確認するために、探検隊をアジア北東部に派遣した。
その報告書は、イブン・ホルダードベの地理書に引用されており、
防壁の様子、谷の両側に立つ柱、尖塔、扉、錠と鍵などの寸法、材質が記されていたという。 >>142
あれはナイジェリアあたりのメスゴリラという説もある どうして19世紀のヨーロッパ人はアフリカの探検に馬を使わなかったのだろう。
確かに密林へ入るなら馬は不適だが、アフリカにはサバンナだってある。 何かマルコポーロがモガディシオとマダガスカルを混同して記述したって聞いた。 イタリア語話者のマルコ・ポーロが
ワシャワシャとしか聞こえないアフリカの地名を聞き取れなかったとしても不思議ではないな。 人類の秘境探検で最後まで人跡未踏と言われていた南極大陸に
最初に到達したのは“本当は”誰でいつ頃なんだろうか?
氷山と陸の区別が難しいので南極大陸一番乗りの判定は微妙。 マンガはじめて物語で
半裸の土人風の人が丸木舟で南極に行ったような描写があったけど。 >>158-160
一応、マオリの昔話で「白い島がある寒い海」が出てくるものがあるそうだが、
千年も遡るかどうかだな。 南極の周りは風と海流が西から東へぐるぐる回っている。偏西風と南極周極流だ。
そして南半球の高緯度の海域は強風で海は物凄く荒れる。丸木をくりぬいたような
船じゃすぐに沈むし、仮に沈まなくても凍死か餓死を迎えるまで南極のまわりを
回り続けるだけじゃね。 >>162
回るだけじゃなくて、ちょっと右に舵を取って辿り着ければ死ななくて済むだろ。
食糧は現地に豊富にあるんだし♪ 吠える40度→狂う50度→絶叫する60度・・・と緯度が高くなるほど嵐はレベルアップし、
気温は急激に低下していく。
こんな状況で先に陸があるかも分からないのに、南に舵を取るやつがいるとすれば、
正真正銘のキチガイ・・・ フエゴ島あたりの住民は南へ向かったりしないか。寒いし フエゴ島自体かなり寒いですよね。
そもそも、ヤーガン人は一年中暴風の吹き荒れる氷原のパタゴニア高原を
わざわざ越えてまでして最果ての地まで辿り着いたのでしょうね。
近代以前であそこまで過酷な環境に定住した民族って他に無いでしょうね。 ヤーガン族って寒いところに暮らしているのに、やたらと薄着だったみたいね。
彼らに出会ったヨーロッパの探険家たちはみなびっくり。 フエゴ島の住民マゼランが会った時寒かったのに裸状態だったというが
って思ったらそれがヤーガン族だったのだなあ >>169
なぜヨーロッパ人が出会ったフエゴ島の
ヤーガンたちが半裸で暮らしていたか。
きっと、人体の耐寒性を高めて、さらに寒い
南極に移住する準備をするための適応キャンプ
だったに違いない。 >>169
何の本で読んだかもう忘れた話なんだが、
「船の近くに先住民の女がいたんだが、ほぼ全裸の状態で
ハンカチ大の毛皮を風の向きに合わせて移動させるだけだった」
とか言うのが書いてあったな。
何ヶ月も女断ちする先の見えない辛い探検航海。
でも地球の裏側の島にたどり着いて目にしたものは半裸または全裸の美女たち。
船員たちの喜びは想像に難くない。生きててヨカッタ。 フランスの探検家ブーガンヴィルの航海記には、
船に乗り込んできたタヒチ島の美女がいきなり腰布をはずして
船上でオールヌードを披露したりなんてことが書かれている。
禁欲生活を強いられてきた船乗りには刺激が強すぎますわ。
こんな感じで探検家が報告した太平洋諸島のフリーセックスな社会風俗は、
キリスト教的倫理観に縛られていたヨーロッパ人に衝撃を与えたらしいね。
もしかしてオレらの方が異常なんじゃないの?って疑問がヨーロッパの知識人の
間に生まれて、比較文化的な思考へと繋がっていくわけだ。 宮城県にはベーリング探検の記念碑があるが、
この前の津波でどうなったんだろう。 >>172
>ハンカチ大の毛皮を風の向きに合わせて移動させるだけだった
随分と小さい人だね、身長20センチぐらいか? まぁ船乗りってジュゴンだのマナティだのが人魚に見えるくらい、おかしくなってたんだよ。
>>180 そんなものがあること自体はじめて知った
ベーリングは日本に来てないのに・・・
実際に来たシュパンベルクの記念碑を建ててあげようよ エスパニョーラ島にはコロンブスがジパングと思い上陸したジパング記念碑とかなかろうか >>184
マジですか。それは探検と言うより環境テロでは。 >>187
汚染せずに掘り抜く事が出来るようになったそうだけど、なにせ
ロシアだからね・・・ >>188
ロシアは掘削孔に灯油を流し込んでると報道されている
「環境保護に関する南極条約議定書」違反は明らかじゃ
>>183
その名前じゃ「誰?」て話だろw
ベーリングが人名だと知らない人もいるし。 >>191
そういう人に広く知ってもらうため正確を期して記念碑を立てるんだよ。
来てもいない探険家の記念碑を立てるなんてヘンだ。 大航海時代関係の記念碑って、日本国内でほかに何かあったっけ? 探検と関係ないけどザビエルの記念碑があるんじゃないか? ウィキペディアのベニョフスキーの項目を見ると完全に犯罪者扱いだな。
なんか見方が偏ってる感じがする。
この記事だけ見ると「犯罪者の記念碑を建てるのか」って反対が出そうw シュパンベルグ
ベニョフスキー
ラクスマン
レザーノフ
ゴロブニン
リコルド
彼らの記念碑を建てよう 南極あたりまで行ったとき、巨大な氷は陸地とはみなされなかったのだろうか?
だとしたら南極大陸発見はむき出しの陸地を見てはじめて陸地発見とされたのか >>197
ロシア南下の脅威を警告してくれた恩人に対してあんまりな仕打ちだろ。Wikipediaの[[ベニョフスキー]]を書いた奴には言っておく。恩を仇で返すのは畜生の所業だぞ? ロシアの脅威ってw
ベニョフスキーがロシア憎しでつくりあげた幻であることは常識ですよ。
林子平も自分で自分の影におびえただけ。 >>200
実際に南極が発見される前から、
「あの辺に、大きな大陸があるんじゃないかな?」
と、予想はされていたけどね。
>>202
実際問題として、露西亜は西比利亜をものすごい早さで併呑し、阿拉斯加を押さえて千島と樺太へも勢力を伸ばしてたよ。
海防意識を高めてくれた人間がいたおかげで、ようやく日本は蝦夷地を露西亜に取られずに済んだんだよ。話に多少の誇張があることぐらいは問題じゃない。 では光太夫などを送り届けてくれたロシアの行為はなんなのよ。 大体、シベリアもアラスカも日本に関係ない土地だし、
クリルやサハリンですら満足に実効支配できてなかった時代に、
ロシアの脅威もへったくれもあるのかと・・・ >>205
日本からの食糧調達と貿易を打診する布石。
>>206
その次に北海道を取りに来た可能性はある。 レザーノフの来日だって通商の樹立が目的だよね。
はんべんごろうの警告が本当なら最初から攻め込まれてなきゃおかしい。
1806年のはレザーノフの個人的報復、ロシア政府が日本に攻める気なんてみじんもないよ。 >>197
見たところ、みなもと太郎の「風雲児たち」の内容そのまんまのようなので、悪人扱いも仕方ない。 >>208
海防論の高まりが日本側の対応を促し、幕府が蝦夷地を直轄領にし北辺の探検と防備を行なって、結果として北海道と択捉以南の千島列島がなんとか日本の手に残ったんだよ。
もう少し日本側の対応が遅れれば、どちらもロシア領になるところだった。それに攻め込むだけが勢力拡大の方法じゃないことを忘れてはいけないね。現地人を手なずけ商館を建てて勢力を増してくのが基本だ。ロシアにしてみればそこまでは日本との交易に平行して進められるし、
交易が実現すればネックだった食料供給が解決して進出をよりスピードアップ出来る。
>>209
マンガの丸写しとはとんでもない話だな。 いや実際のところ、松前藩は蝦夷地を自領と称していたが、全く実質を伴っていなかった。
当時の蝦夷地は基本的にアイヌの土地で、松前藩が押さえていたのは渡島半島の一部のみ。
この和人地を拠点にアイヌと通商していただけだな。
http://www22.atpages.jp/kakibaku/yum_wd_ma.html
日本側が北海道全体を掌握するのは、幕府が松前藩から蝦夷地を取り上げて天領にしてからだね。
【関係年表】
1771年、ベニョフスキー来航「はんべんごろう事件」
1781年 工藤平助「赤蝦夷風説考」刊行
1785年 幕府が最初の蝦夷地調査隊を派遣
1787〜1791年 林小平「海国兵談」刊行
1792年 ラクスマンが来航
1789年 東蝦夷のアイヌが一斉蜂起「クナシリ・メナシの戦い」
1799年 幕府が東蝦夷地を直轄化
1804年 レザノフが来航
1806年〜1807年 レザノフの部下が樺太と択捉を襲撃「フヴォストフ事件」
1807年 幕府が西蝦夷地を直轄化、ロシア船打ち払い令
1811年 「ゴローニン事件」 >>196
北の守りに注意を喚起してくれた功労者ベニョフスキーの記念碑をぜひ建てよう!
宿敵ロシアの船を奪って流刑地を大脱走、すんでのところでマダガスカル王になるところだった波乱万丈な人生、
そして世界を股にかけたビッグスケールなウソツキ冒険記・・・彼は映画の題材にも最適だ! 仲間を食べ続けながら達成した
アムンゼンの偉業は黒歴史にしたい気配はないか? >>214
犬を仲間というならな。
公式、と言うか
アムンゼンの手記を信じるなら、用済みになった犬を食ったのは
まだ働いてもらう必要のある犬だよ。
まぁ、アラスカやカナダにいる先住民は、
普通に犬を食うけどな。
植村直己の手記にも書いてあった。 世界の最後の探検はアポロ17号。
国際宇宙ステーションやスペースシャトルは地球が近すぎてちゃちに見える。
月面車持って行ったり、ド派手な探検だった。
13号はこれまた世界が固唾を飲んだ。
去年各着陸点の上空写真が公表されたが、まだイカサマ説を唱える人がいて、滑稽だね。 あの白瀬矗も千島探検の時に愛犬を食べてる。背に腹は代えられぬ。 よくもわるくも歴史に名を刻んだ人は
一生生きているのと同じかもな
受け継がれていくから
そうなると寂しくなさそう >>219
スコット隊の運が悪かったんだ・・・
スコット隊がたどったコースが、たまたま天気が悪かったんだ。
それと、燃料缶が油漏れしたのも拙かった。
アムンゼン隊は、前人未到のコースを辿ったのに
たまたまなだらかなコースだったんだよ。
冬営キャンプも氷の上だったのに、その年は
流される事もなかったし。 南極で馬に橇を引かせるってスコット隊のやり方も、今から思えば無謀だったが。
まあ後知恵ではあるけどね。 >>222
いくつか言いたい。
・そもそもスコット隊は、ロス氷棚が終わる所で馬ソリを使うのをやめる予定だった。
南極大陸へ登る場所は、馬ソリが越えられない地形である事は
以前の南極旅行からわかっていた。
そもそもこのルートは、以前英国隊が通過している(シャクルトン隊とか)ルートだし。
・以前スコット隊は、犬ぞりでひどい目に遭ってるとかいう話だ。
・馬ソリの不調のせいで、物資の貯蔵所の場所が
若干北側になったのは認める。
もしもこの貯蔵所の場所が予定通りなら、スコットと部下の2人は
生還できた可能性はある。 スコットがあと20km物資貯蔵庫を前進させておけば、帰路にたどり着けたんだよな。
デポ作りにあと1日がんばってれば、ってところが生死をわけちゃった。
教訓とすべきことだ。 アムンゼン隊の不利な点。
・ルートがすべて前人未到だった。
途中に犬ぞりが使用不可能な地形があった可能性もあった。
・冬営地が浮氷の上。
冬のさなかに、冬営地が流れ出した可能性も十分にあった。
実際、スコット隊の冬営地は現在でも残ってるが、アムンゼン隊の冬営地は
数年後には存在を確認できなくなったそうだ。 おっと、これも書かなきゃまずいか。
両探検隊共通の問題。
・燃料缶の油漏れ
アムンゼン隊の手記でも、燃料缶の油漏れに
悩まされている事が読み取れます。
スコット隊でも、デポした食料が
漏れた燃料で使用不能になった可能性を
指摘してる手記もあります。
この時使われていた燃料缶は一斗缶を
縦に半分に切った様な物らしく、今存在する物としては
エンジンオイルの缶に似たものだと思われます。 太平洋の海底で世界最大の火山を発見か ナショナルジオグラフィックニュース
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20130906003
そんな大物が今まで見つかっていなかったなんて・・・地球は探検し尽くされたなんて
浅墓な思い込みだったわ。 今となっては、探検できる場所は深海か宇宙しか残されてないんだな・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています