探検の歴史
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トルデシリャス条約によって関西はポルトガル支配下となったため大阪気質はポルトガルの影響か… フエゴ島の裸族は体に動物の油を塗り寒さをしのいだというが
動物園の象の足に防寒のためにオリーブオイルを塗ってるとサンデーモーニング 油か・・・九州の住人なので全然実感がわかないが
そういや「八甲田山死の彷徨」でも、冬山の予備知識がある生還者は
防寒対策で足に油紙を巻いてたりしてたって話があったな。 後漢のころ、現在の旧満州に住んでいた挹婁と呼ばれる部族はとんでもなく不潔だった
竪穴式住居の中にションベン溜めを置き、その尿で手足や顔を洗っていた。
冬には肌の上に直に豚の脂を数センチもの厚さに塗って寒さを防いだ 栄光のローマ帝国ではオシッコで洗濯してたんだから(有効成分:アンモニア)
尿だから不潔というのは世界史板的にいかがなものか アリュートやエスキモー、西海岸のネイティブアメリカンにも小便で洗濯する風習はあったんだよね。
特に今のワシントン州あたりの原住民は食事の後にどんぶりにおしっこして洗顔してる。
あとシベリアのヤクート族なんかは牛のふんを壁土代わりにしてたよ。 >>720
脂肪分を防寒に使うのは生活の知恵だし別に汚くはない
尿での
・洗髪
・洗濯
・皮なめし
などもけっこう広い範囲で見受けられるな 江戸時代にロシアに行った仙台漂流民の記録『環海異聞』巻之二(アリューシャンに関する記事)
「小便を溜め置き、洗濯水に用ゆ、皮衣の汚れたるもの、その溜め小便に二三日ひたし置きて洗ふに、
皮衣至つて清く、垢落ちてきれいになるなり、頭髪をも小便にて洗ふなり」 昔はロシアのオバチャンも
冬には顔のシワにバターをすりこんだそうだし コロンブスが最初に出会ったのはアラワク人で、カリブ海の大アンティル諸島から
小アンティル諸島の島々に広く散在していた。 飲尿療法と言って日本には尿をじか飲みする民間療法がある
また、風俗のプレイの一つに聖水といって嬢のオシッコをごくごく飲むものがあるのだが
お父さんたちには大変好評で現在では、どのヘルス店でも標準オプションとなっている
CS放送のチャリティー番組「24時間テレビ エロは地球を救う」の企画の一つ、おしっこビアガーデンでは
AV女優の尿が無料で参加者に振る舞われた ちなみに聖水プレイは2000円から5000円の追加料金が相場である 排泄直後の尿が無菌に近いとはよく言われる話。
ぶっちゃけた話、前近代の住環境で菌がうようよしている
未殺菌の水をすくって飲むより、出したてのおしっこを
飲む方がはるかに衛生的であったのは言うまでもない。 >>701
大航海時代の船員ってほとんど10代後半から20代ぐらいだからオジサンとは言わんだろ
小学生以上はジジイみたいな異常性欲者なら知らんが 聖水やブルセラ売りって究極の錬金術だよな
大航海時代の胡椒なんて目じゃねえ
需要があって産業として成り立ってるのが日本ぐらいってことだが 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
7K8RE ムーミン、バイキングの問題が話題なんで参考書にも変な問題あるかな−って見てみたらあったかな。
俺は変な問題てか問題文間違ってんじゃないの?って思った。それがこの問題
>1500年には、フィレンツェの( 1 )により、コロンブス以来探検されてきた地域は
>「インド」ではなくヨーロッパ人にとって未知の大陸であったことが報告され、
>その後も西回りインド到達の可能性が探求されることになる。
ムーミン問題も出題者の意図を汲めば正解できると思えるがこれもそんなもんだろう… >>735
このレベルの正解に影響しない?レベルの問題ミス?はいっぱいありそう >>735
アメリゴ・ヴェスプッチじゃないん?ちがうん? >>737
正解。でもアメリゴは1500年に「インド」ではなく未知の大陸であると報告してないだろう。
1490年にアメリカを発見したイタリア人は?みたいな問題というか >>738
なもんで出題者の意図を汲めば一応アメリゴと正解は導き出せるが年は違うだろうみたいな。
1500年にインドではないと報告してないから正解わからんとか書けばどんなもんか 案外世界史教科書ではアメリゴが1500年にインドではないと報告したことになってんのか 正しくは「1500年代」だったのが、問題文を作るときに書き落として「1500年」になったとか。 by 1500(1500年までには) の翻訳ミスだと思う インドではないって報告は1500年より後だからそれでも間違いじゃないか とある大学教授が書いた参考書?立ち読みしたら
「アメリゴの1501年からの航海によってインドではないと」
とか書いてた。こっちのほうがらしいぽい これも妙かな…
>しかし、その境界線ではポルトガルのアジア航路の中継地ブラジルがスペイン領に入ってしまうため、
一九四九年(ママ)、再度「トルデシリャス条約」が結ばれて境界線は西側に移動されました。
1949年が1494年としても妙じゃないか >ブラジルがスペイン領に入ってしまうため、
>境界線は西側に移動されました。
ブラジルの発見年は? 1500年に発見される地のために1494年に境界線を定めるのが変か
もう発見してるやん みたいな >>745のは、もともと間違い探しの問題じゃないの >>751
>>745は問題文じゃなくて世界史の本に載ってた >そして一四九四年には、西半球で新たに発見されたこの大陸に、「新世界」という名称がはじめてもちいられることになります。
って書いてる本を見つけたが1494年に発見された大陸とは?誰が発見したどこのことだろう。
新世界という名称が初めて用いられたって誰がどこをさして言ったのだろうと フランクリン隊の悲劇はイギリス政府のくだらないプライドがなければ回避できたかもしけない 「スペインは日の沈まぬ太陽と呼ばれた」とか書いてる本があった… ニューファンドランドは、1481年頃にイギリス(イングランド)人によって「発見」され、中世末の地図の想像上の島名である「ブラジル島」と呼ばれていた。
て書いてる本があった。なんかコロンブスより先ってぼちぼちあるというかあいまいというか ラス・カサスが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で
犠牲者は一億人と告発しているとか書いてる本があったが一億人はないだろと思ったら
1500万人とか報告してるとか書いてるサイトがあった…
一億て誤記誤訳かなんだろう
http://kyukyo-do.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-9561.html オスマン帝国も探検航海を計画したことがあるようです、お流れになったが。 探検航海ってくらいで西方探検を試みたか…
オスマン帝国ウィキ見たら1299〜1922なんで
アフリカ南方でもいいな…
しかもスエズもおさえてるんで西回りでも東廻りでもアフリカ周航できたか…
いちどに東西まわりでだして落ち合えばとかロマンチック ただ、オスマン海軍の主力はアルジェ海賊、
アイツらならず者だから探検先で絶対トラブル起こすぞ…。と懸念したことで探検事業実行にはならず、結局歴史は動かなかった。 >>762
とは言え、初めて普通に世界一周した英国の船団も
”私掠船許可証”
を女王陛下から渡されてたんだよな・・・
(マゼラン艦隊は、マゼランが途中で死んでる) >初めて普通に世界一周
マゼランは異常な状態で世界一周か… >>764
異常と言うかなんというか、マゼラン自身は
途中で死んでるし、最終的に国へ戻れたのは1隻
だけだった、とか言う話でしょ? スペイン人主流の中でマゼランはポルトガル人だったんで反発されてたんだっけ
めんどくせーな もしもまだ新大陸が見つかってなかったらまだ戦国時代みたいな時代だったか… 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GBR >>37
ネトサヨシナカスだけな(笑)どっちもどっちガイジ死ね >>21
ネトサヨシナカスがムキになって張り合っているだけ 南と北とは季節が逆転していることに
始めて気が付いた人は
やっぱりマゼラン船団の人だったのだろうか、、、
それともイスラム商人や中国人とかも知ってたのかなぁ
もしかして、さらに進んで島の土人でも気が付いたんだろうか エジプト人やフェニキア人とかの可能性もあるのか、、、
歴史記録上はフェニキア人が最初とみました エジプトのファラオ・ネコ2世が
フェニキア人にアフリカ周航を行わせたのは
何が目的だったのだろう。
アフリカが案外小さかったら、
地中海とインド洋を行き来する航路が見つかる
かもしれん、と思ったのだろうか。 確かあの時代はかなり複雑な情勢だったので
いろいろと考慮すべきことがあるかも知れないっすねぇ とりあえず記述が錯綜してるなぁ>>775>>776
https://jama103dajo.at.webry.info/200604/article_2.html
より
フェニキア人のアフリカ一周
ヘロドトス(BC484〜425)の記述によると、エジプト第26王朝のファラオのネコU世(在位BC610〜595)は、
名高い海洋民族フェニキア人(カナーン人)の船団に、行きはエリトリア海(現在の航海)から出て行き、
帰途は「ヘラクレスの柱」(現在のジブラルタル海峡)から地中海を通って戻るよう命じてアフリカ沿岸を探検させたという。
船団は途中、涼しくなると陸に上がって穀物の種をまき、その穀物が実って収穫すると船に乗り、
船を先へ進めるという方法で、3年がかりでアフリカを廻って地中海からエジプトに戻ったという。
途中船乗りたちが、「太陽を右手に見た」と報告していることが、注意深いヘロドトスは記録している。
しかし、「太陽を右に見た」と報告されたことで、ヘロドトスはフェニキア人のアフリカ一周を疑っている。
現在のわれわれの知識からすれば、北半球で見れば太陽は南に南中するが、
南半球での太陽は日中北に高く昇る。オーストラリアやニュージーランドを旅行した人は思い出してください。
したがって赤道を越えれば、フェニキア人の船乗りが報告したことは、船が南半球おり、
アフリカの南端を廻る時には船の進行方向の右に太陽が高く昇ることは当然で、フェニキア人が紀元前7世紀にすでにアフリカ一周を
した可能性は強いといえるだろう。 >>781
「エリュトゥラー」(?ρυθρ?) とはギリシア語で「赤」の意味。
すなわち、「エリュトゥラー海」とは「紅海」という意味である。
ネコさんとエジプトの方の情勢も複雑
そんでカナンはもっと複雑な気がします ネコ二世陛下は、いわゆるスエズ運河を最初に構想したお方です。
運河を掘るかアフリカを回るか、どちらが経済的か見積もりを出す、
そういう深謀遠慮から出た探検計画だったのではないでしょうか。 猫がファラオだったのか
玉座で寝てる猫ちゃん可愛い 古代エジプト語ではネカウでネコはギリシャ語訛りの言い方 『ブッシュマン』のニカウさんのほうが読みとしては近いな >>781
スエズ湾とアカバ湾辺りまたはエジプト側の港から出航して3年ほど
時間軸的には何時頃に該当するんだろうなぁ
何処のフェニキアの都市が関与して、
船はどうやって用意したんだろうか フェニキア諸都市を競わせたら面白かったろうな。
一番先にアフリカ周航して帰ってきたチームの都市には
向こう3年間関税を免除して遣わすぞ。 >>788
いわゆるフェニキア都市は基本的に地中海側にあるんですよね
競争するときは丸太持参なんでしょうかww
>>783
この説はけっこうおもしろいと思いますね >>790
パナマックスがパワーアップしたのはみかけてたけど
スエズもパワーアップしてたのかぁ、、、ふむぅ
https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/e/2/-/img_e220bdab199fd4d9a1587d825bf6825c204994.jpg
第2スエズ運河計画は、従来の運河の一部を拡張、あるいは従来の運河と並行して新たな運河を掘削することにより、
滞船なしの双方向同時運行を可能にする
「第2スエズ運河」開通!
エジプト経済再興の陰に“剛腕大統領”の存在
https://diamond.jp/articles/-/76169
工期5年の青写真を1年に短縮させたシーシ大統領の決断
?エジプトのシーシ大統領の肝いりで始まった第2スエズ運河の工事は順調に進み、
予定通りに2015年8月6日、盛大に開通式が挙行される。 >>778
これが前々からの疑問なのですが
どうして地中海側から出発して
紅海側に行かなかったのだろう、、、
そこがむちゃくちゃひっかかりますね >>792
そうしてたら今度は
どうして紅海側から出発して地中海側に行かなかったのだろう?ってなるかも >>793
それは別に問題にならないのですよ
文字どおり解釈するなら地中海沿岸の都市民であるフェニキア人が
どうやって紅海側に船を仕立てたのかから
そもそも考える必要がある訳で
タルシシュへの航海とオフィルのときもそうなんすけど
https://wol.jw.org/ja/wol/pc/r7/lp-j/1200004775/3554/1
ここに同じような疑問が載ってますね
さてさて一番合理的な解釈はなんでしょう しかし本当に古代にアフリカ周航が行われていたというのならプトレマイオス図でアフリカとアジアが南側で繋がっていることにはなっていなかった筈
なんか怪しいな >>797
大昔のことなんでプトレは知らなかった? >>798
日本はど田舎未開の地世界の最果てで知られてなかった?
マレー半島は燦然と輝いて存在し描かれているというのに >>798
反日ですね、日本海もないですし
プトレマイオス図ってオリジナル残ってるのかなぁ >>778>>783
一番ありそうなのは
潜在的(というより直接的)脅威のクシュ王国に対して
南方にあるプレスタージョンを探しに行かせたんじゃないでしょうかね >>802
トレミさん日本に住んでたんですか、、、
>>757
ちなみにおいら調べによると
ブラジル島は世界で一番探検した島ですね エンコーは探検する動機としては十分
あとはいつどうやってしたか、、、 >>783
おいら調べによると
運河開削の中止の後に
紀元前610〜594年のどこかフェニキア人航海が行われたらしい、、、 >>799
トレミさんはアフリカ周航には否定的な見解だったらしいですね
>>792>>795
地中海側はギリシャに任せて
紅海側はフェニキアに任せるつもりだったのかもしれないなぁ >>808
>トレミさんはアフリカ周航には否定的な見解だったらしいですね
それはもしかしてプトレマイオス世界図でインド洋が塞がれてることだけが根拠なんですか?
それ以外になにか否定的な記録ってあるんでしょうか? >>809
トレミさんもストラボンさんも
原本なくなってるけど他の作者が引用してて
内容は部分的にわかるんじゃなかったかなぁ
地図の方は座標系から復元されてたはず >>810
ストラボンさんの
17巻の『地理学(ゲオグラフィカgeographica)』は
大部分が現存とのこと プトレマイオスはインド洋を陸封したか否かは議論されてるみたい。
彼の著書ではインド洋は陸地に囲まれてるとか書いてるだかだが
後世の人が書き足したみたいな説もあるみたいな話だっけ >>812
ざっくり推測で書くと
本から地図が失われた後に再現される過程で、
おおまかな系統として
イスラム系で作られたものと
東ローマ系で作られたものの二種類があって、
後者はギリシャの伝統にもとづいて海を別けたのではなかろうか、、、 >>569
汪大渊さんはどのルートでモロッコまで行ったのかなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています