探検の歴史
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
>そして一四九四年には、西半球で新たに発見されたこの大陸に、「新世界」という名称がはじめてもちいられることになります。
って書いてる本を見つけたが1494年に発見された大陸とは?誰が発見したどこのことだろう。
新世界という名称が初めて用いられたって誰がどこをさして言ったのだろうと フランクリン隊の悲劇はイギリス政府のくだらないプライドがなければ回避できたかもしけない 「スペインは日の沈まぬ太陽と呼ばれた」とか書いてる本があった… ニューファンドランドは、1481年頃にイギリス(イングランド)人によって「発見」され、中世末の地図の想像上の島名である「ブラジル島」と呼ばれていた。
て書いてる本があった。なんかコロンブスより先ってぼちぼちあるというかあいまいというか ラス・カサスが『インディアスの破壊についての簡潔な報告』で
犠牲者は一億人と告発しているとか書いてる本があったが一億人はないだろと思ったら
1500万人とか報告してるとか書いてるサイトがあった…
一億て誤記誤訳かなんだろう
http://kyukyo-do.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-9561.html オスマン帝国も探検航海を計画したことがあるようです、お流れになったが。 探検航海ってくらいで西方探検を試みたか…
オスマン帝国ウィキ見たら1299〜1922なんで
アフリカ南方でもいいな…
しかもスエズもおさえてるんで西回りでも東廻りでもアフリカ周航できたか…
いちどに東西まわりでだして落ち合えばとかロマンチック ただ、オスマン海軍の主力はアルジェ海賊、
アイツらならず者だから探検先で絶対トラブル起こすぞ…。と懸念したことで探検事業実行にはならず、結局歴史は動かなかった。 >>762
とは言え、初めて普通に世界一周した英国の船団も
”私掠船許可証”
を女王陛下から渡されてたんだよな・・・
(マゼラン艦隊は、マゼランが途中で死んでる) >初めて普通に世界一周
マゼランは異常な状態で世界一周か… >>764
異常と言うかなんというか、マゼラン自身は
途中で死んでるし、最終的に国へ戻れたのは1隻
だけだった、とか言う話でしょ? スペイン人主流の中でマゼランはポルトガル人だったんで反発されてたんだっけ
めんどくせーな もしもまだ新大陸が見つかってなかったらまだ戦国時代みたいな時代だったか… 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GBR >>37
ネトサヨシナカスだけな(笑)どっちもどっちガイジ死ね >>21
ネトサヨシナカスがムキになって張り合っているだけ 南と北とは季節が逆転していることに
始めて気が付いた人は
やっぱりマゼラン船団の人だったのだろうか、、、
それともイスラム商人や中国人とかも知ってたのかなぁ
もしかして、さらに進んで島の土人でも気が付いたんだろうか エジプト人やフェニキア人とかの可能性もあるのか、、、
歴史記録上はフェニキア人が最初とみました エジプトのファラオ・ネコ2世が
フェニキア人にアフリカ周航を行わせたのは
何が目的だったのだろう。
アフリカが案外小さかったら、
地中海とインド洋を行き来する航路が見つかる
かもしれん、と思ったのだろうか。 確かあの時代はかなり複雑な情勢だったので
いろいろと考慮すべきことがあるかも知れないっすねぇ とりあえず記述が錯綜してるなぁ>>775>>776
https://jama103dajo.at.webry.info/200604/article_2.html
より
フェニキア人のアフリカ一周
ヘロドトス(BC484〜425)の記述によると、エジプト第26王朝のファラオのネコU世(在位BC610〜595)は、
名高い海洋民族フェニキア人(カナーン人)の船団に、行きはエリトリア海(現在の航海)から出て行き、
帰途は「ヘラクレスの柱」(現在のジブラルタル海峡)から地中海を通って戻るよう命じてアフリカ沿岸を探検させたという。
船団は途中、涼しくなると陸に上がって穀物の種をまき、その穀物が実って収穫すると船に乗り、
船を先へ進めるという方法で、3年がかりでアフリカを廻って地中海からエジプトに戻ったという。
途中船乗りたちが、「太陽を右手に見た」と報告していることが、注意深いヘロドトスは記録している。
しかし、「太陽を右に見た」と報告されたことで、ヘロドトスはフェニキア人のアフリカ一周を疑っている。
現在のわれわれの知識からすれば、北半球で見れば太陽は南に南中するが、
南半球での太陽は日中北に高く昇る。オーストラリアやニュージーランドを旅行した人は思い出してください。
したがって赤道を越えれば、フェニキア人の船乗りが報告したことは、船が南半球おり、
アフリカの南端を廻る時には船の進行方向の右に太陽が高く昇ることは当然で、フェニキア人が紀元前7世紀にすでにアフリカ一周を
した可能性は強いといえるだろう。 >>781
「エリュトゥラー」(?ρυθρ?) とはギリシア語で「赤」の意味。
すなわち、「エリュトゥラー海」とは「紅海」という意味である。
ネコさんとエジプトの方の情勢も複雑
そんでカナンはもっと複雑な気がします ネコ二世陛下は、いわゆるスエズ運河を最初に構想したお方です。
運河を掘るかアフリカを回るか、どちらが経済的か見積もりを出す、
そういう深謀遠慮から出た探検計画だったのではないでしょうか。 猫がファラオだったのか
玉座で寝てる猫ちゃん可愛い 古代エジプト語ではネカウでネコはギリシャ語訛りの言い方 『ブッシュマン』のニカウさんのほうが読みとしては近いな >>781
スエズ湾とアカバ湾辺りまたはエジプト側の港から出航して3年ほど
時間軸的には何時頃に該当するんだろうなぁ
何処のフェニキアの都市が関与して、
船はどうやって用意したんだろうか フェニキア諸都市を競わせたら面白かったろうな。
一番先にアフリカ周航して帰ってきたチームの都市には
向こう3年間関税を免除して遣わすぞ。 >>788
いわゆるフェニキア都市は基本的に地中海側にあるんですよね
競争するときは丸太持参なんでしょうかww
>>783
この説はけっこうおもしろいと思いますね >>790
パナマックスがパワーアップしたのはみかけてたけど
スエズもパワーアップしてたのかぁ、、、ふむぅ
https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/e/2/-/img_e220bdab199fd4d9a1587d825bf6825c204994.jpg
第2スエズ運河計画は、従来の運河の一部を拡張、あるいは従来の運河と並行して新たな運河を掘削することにより、
滞船なしの双方向同時運行を可能にする
「第2スエズ運河」開通!
エジプト経済再興の陰に“剛腕大統領”の存在
https://diamond.jp/articles/-/76169
工期5年の青写真を1年に短縮させたシーシ大統領の決断
?エジプトのシーシ大統領の肝いりで始まった第2スエズ運河の工事は順調に進み、
予定通りに2015年8月6日、盛大に開通式が挙行される。 >>778
これが前々からの疑問なのですが
どうして地中海側から出発して
紅海側に行かなかったのだろう、、、
そこがむちゃくちゃひっかかりますね >>792
そうしてたら今度は
どうして紅海側から出発して地中海側に行かなかったのだろう?ってなるかも >>793
それは別に問題にならないのですよ
文字どおり解釈するなら地中海沿岸の都市民であるフェニキア人が
どうやって紅海側に船を仕立てたのかから
そもそも考える必要がある訳で
タルシシュへの航海とオフィルのときもそうなんすけど
https://wol.jw.org/ja/wol/pc/r7/lp-j/1200004775/3554/1
ここに同じような疑問が載ってますね
さてさて一番合理的な解釈はなんでしょう しかし本当に古代にアフリカ周航が行われていたというのならプトレマイオス図でアフリカとアジアが南側で繋がっていることにはなっていなかった筈
なんか怪しいな >>797
大昔のことなんでプトレは知らなかった? >>798
日本はど田舎未開の地世界の最果てで知られてなかった?
マレー半島は燦然と輝いて存在し描かれているというのに >>798
反日ですね、日本海もないですし
プトレマイオス図ってオリジナル残ってるのかなぁ >>778>>783
一番ありそうなのは
潜在的(というより直接的)脅威のクシュ王国に対して
南方にあるプレスタージョンを探しに行かせたんじゃないでしょうかね >>802
トレミさん日本に住んでたんですか、、、
>>757
ちなみにおいら調べによると
ブラジル島は世界で一番探検した島ですね エンコーは探検する動機としては十分
あとはいつどうやってしたか、、、 >>783
おいら調べによると
運河開削の中止の後に
紀元前610〜594年のどこかフェニキア人航海が行われたらしい、、、 >>799
トレミさんはアフリカ周航には否定的な見解だったらしいですね
>>792>>795
地中海側はギリシャに任せて
紅海側はフェニキアに任せるつもりだったのかもしれないなぁ >>808
>トレミさんはアフリカ周航には否定的な見解だったらしいですね
それはもしかしてプトレマイオス世界図でインド洋が塞がれてることだけが根拠なんですか?
それ以外になにか否定的な記録ってあるんでしょうか? >>809
トレミさんもストラボンさんも
原本なくなってるけど他の作者が引用してて
内容は部分的にわかるんじゃなかったかなぁ
地図の方は座標系から復元されてたはず >>810
ストラボンさんの
17巻の『地理学(ゲオグラフィカgeographica)』は
大部分が現存とのこと プトレマイオスはインド洋を陸封したか否かは議論されてるみたい。
彼の著書ではインド洋は陸地に囲まれてるとか書いてるだかだが
後世の人が書き足したみたいな説もあるみたいな話だっけ >>812
ざっくり推測で書くと
本から地図が失われた後に再現される過程で、
おおまかな系統として
イスラム系で作られたものと
東ローマ系で作られたものの二種類があって、
後者はギリシャの伝統にもとづいて海を別けたのではなかろうか、、、 >>569
汪大渊さんはどのルートでモロッコまで行ったのかなぁ >>815
アベル・タスマン
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/50/Tasmanroutes.PNG
赤:1642-43年の航路(反時計回り)
青:1644年の航路(時計回り)
1642-43年の航海
16世紀後半にはオランダによって現在のオーストラリアの西海岸が発見されており「New Holland(新オランダ)」と名付けられていたが、
そこが「テラ・アウストラリス(Terra Australis)」という大陸であるかという調査をオランダ東インド会社によって依頼された。
11月24日に現在のタスマニアの西海岸に到達し[3]、オランダ東インド会社総督の名前アントニオ・ヴァン・ディーメンにちなんで
「Anthoonij van Diemenslandt(ヴァン・ディーメンズ・ランド)」と命名した。
1856年には、イギリスにより発見者タスマンに因みタスマニア島と改名された。 >>815
ウィレム・ヤンスさんの中の人は日本語ページなし、、、
http://seesaawiki.jp/w/emiliano/d/%A5%A6%A5%A3%A5%EC%A5%E0%A1%A6%A5%E4%A5%F3%A5%B9
1606年2月26日、オーストラリア大陸のクインズランド州のヨーク岬半島に上陸したと、英語版ウィキペディアに書かれてある。
32km もの海岸線を調査し、ニューギニア島と同じ島の続きと考えていた。
その土地の名前を Nieu Zelandt と名づける。意味は、「新しいゼラント」と意味である
そこの土地の住民と敵対関係となり引き返し、1606年6月に、ジャワ島のキャンプに戻る。
その後も、インドネシアで、東インド会社社員そして、オランダ海軍提督として、名をはせる。
1619年には、イギリスの東インド会社の船を、オランダに敵対してインドネシアの民衆を援助しているとして、拿捕する。
1630年に、死亡する
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Karte_Expedition_Willem_Jansz_1605-1606.png >>815
ルイス・バーエス・デ・トーレス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/ba/TorresStraitIslandsMap.png/450px-TorresStraitIslandsMap.png
ニューギニア南岸とトレス海峡
1606年6月26日に、「サン・ペドロ」号と「3人の王たち」号はトーレスの指揮の下、マニラへの針路を取った。
逆風のため、彼らはニューギニア北岸に沿う最短経路を取れなかった。
プラドの報告によると、彼らは1606年7月14日に陸地を見つけている。
それはおそらくニューギニアの南東に位置するルイジアード諸島のタグラ島であった。
航海は2か月以上も続けられ、幾度もの上陸により、スペイン領に行き着けるだけの水と食料が補充された。
スペイン人たちは、時には原住民と暴力的な接触をもった。
プラドとトーレスは妊婦を含む20人を捕虜にしたことを記録している。
プラドはパプア湾での停泊地の海図を多数スケッチしており、何枚かは現存している。
長年の間、トーレスはニューギニア寄りの航路でトレス海峡(150kmの幅がある)を通過したのだと考えられてきた。
しかし1980年にオーストラリアの歴史家ブレット・ヒルダーが論証したところでは、トレスの航路はもっとオーストラリア寄りであり、
彼が通ったのは現在エンデヴァー海峡(プリンス・オブ・ウェールズ島とオーストラリア本土の間)と呼ばれている海域だという[9]。
この探検航海によってニューギニアが大陸の一部ではないことが証明された。
10月27日、トレスはニューギニアの西端に達し、ハルマヘラ海へ向けて北上した。
1607年1月初旬にスペイン領のテルナテ島に到達した。3月1日にマニラに向けて出帆し、3月22日に到着。 おいら自身はトーレスさんが最初かと思っていたが
この中の人が最初の発見者とする説があるらしい
>>587
ペドロ・フェルナンデス・デ・キロス
1563 - 1615年)は、ポルトガル出身の航海者、探検者。
スペインの太平洋航海:
1595 - 1596年アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの航海、
1605 - 1606年のテラ・アウストラリス調査に参加。
1603年3月、ペルーへ帰還、南太平洋のテラ・アウストラリス調査への許可を受諾
1605年12月21日、カヤオを出航:航海士 160名、船 San Pedro y San Pablo(150トン)、San Pedro(120トン)、Los Tres Reyes[3]
1606年5月、ニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)到達、南部の島(現エスピリトゥサント島)をオーストリア系のフィリップ3世を讃え、
La Austrialia [4] del Espiritu Santo (The Austrian Land of the Holy Spirit) と命名。植民地「ノヴァ・エルサルム」建設開始
1606年6月11日、沿岸調査に出航したキロスは悪天候により、エスピリトゥサント島帰港が不可能になりアカプルコ(メキシコ)を目指す
1606年11月、アカプルコ到着
キロスの副官を務めていたルイス・バーエス・デ・トーレスはエスピリトゥサント島でキロスを調査後、難破したと推定される。
1607年5月、マニラに到達。ニューギニア南岸の海峡(現トレス海峡)を通過し海図に記す。 >>815
はたしてクックさんの中の人には
オーストラリアに取り分が残っているのだろうか、、、 今年もコロンブス・デーが近づいてきました。
最近はワシントンもコロンブスも駄目とかなんかあるだっけ。今年は一体どうなることやら…!? ポリコレにホイホイと従ってたらなんでもかんでも難癖つけられてもうなんにも祝えないな
とりあえずクリスマス中止にしようぜ! >>812
「世界地図の誕生」って本に
「インド洋の陸封は後世の誤謬」説――それへの反論
てのが載ってる コロンブス・デーて第二月曜とかなんだな。今年はぜんぜんニュースにならなかった気が。
数年前ちょっと話題になってた気がするが。コロンブスは侵略者だから祝うまいみたいな なぜならコロンブス・デーを廃止する自治体や学校が増えているから。
廃止されたところはこれ以上抗議が起きないのでニュースネタが減る。 カセイ探検はかなり昔から計画されてて
シャトルも1733年に開発済み
特許で会社も作られてるとなると
けっこう本格的に探検するつもりだったのだろうか、、、 マルコポーロさんて本当に中国に行ったのかね?
実際に行った行かなかった色々な説があるらしいが
もし行ったならシルクロード通って帰りはインド周り海路とは命が幾つあっても足らないんじゃね 東方見聞録には、「箸」「万里の長城」「纏足」の記述が無い
だからマルコポーロは中国に行ってない!という説もある >>828
情報が無いことを根拠にして否定するのはいかがなものかとは思うな…
纏足に関しては纏足は恥部であり身分の高い女子がしていたものであるからおいそれと外人が知ることはなかったであろう。
しかしマルコは中国女の歩幅が狭いことを記しておりこれは纏足女性に見られるものであるから
知らずに報告していたとする解釈も可能である、みたいな反論もあったな >>827
インド周り回路ってむしろ交易船が行き交ってて安全そうな気がするがそうでもなかったか… マルコにとって興味の対象外だったから記さなかった程度のことかもしれない。
万里の長城や箸について触れるのならば同様に他地域での同レベルのことにも触れねばならず
東方見聞録はさらに何割か増しの厚さになったかも。
ところで東方見聞録ってタイトル、原題はマルコポーロの旅程度のものなんだな。
こういう勝手な訳は本来の意味をそこなうからやめるべきではないか 東方見聞録は複数人の情報をまとめてるとかいうっけ。
東洲斎写楽が複数人によるプロジェクトだった、みたいなのもあったな… モンゴル側の外国人名にマルコポーロの名がないんだっけ
ジンギスカンに仕えたなら名前が記録されているはずなのに?みたいなことが >>828
なんかの本で「陶磁器に触れてないから中国にいってないと言われる」とか書いてあってわけわからなかったな。
東方見聞録には当時規制法まで書いてたんじゃないかと思ったらウィキでもそう書いてるし。
>中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。 >陶磁器に触れてないから中国にいってない
そんな奇説は初耳ですな。単なるあなたの記憶違いでは?
中国の「茶」に触れていないから、マルコは中国に行っていないという見解ならありますが。 調べてきた。否定説の根拠いくばくか。茶もあげてる。
>実は、『東方見聞録』には、いくつもの不審な点がある。マルコは、万里の長城についてなにも触れていない。
>また、宋代から盛んになった茶を飲む習慣についてもなにも語らず、同じく宋代から始まったといわれる纏足についての言及もない。
>中国の特産品である絹織物、陶磁器、竹細工などについてもまったく触れず、中国特有の芸術である書や絵画などもいっさい無視している。
「図説大航海時代」40ページ
>中国の特産品である絹織物、陶磁器、竹細工などについてもまったく触れず、
陶磁器をまったく触れずとまで書いている。絹も書いてないんだっけ。
否定するために書かれてないものを探しまくったら書かれてる陶磁器まで見落としたのか。
というわけで書かれてないものは探せばいくらでもでるんだから書かれてないものを根拠にするのは妙な感じ 書いてあるのに書いてないって単に間違いだろうが東大の先生、弘法も筆の誤りといったところか 最近スペインの探検航海に興味があります。
いまのサンフランシスコやロサンゼルスあたりを発見したのも
スペイン人の航海者だったんですね。 東方見聞録なんてタイトルにするからあたかも東方、アジアに主眼をおいたかのように思われ否定されるであろう。
英語版みたいにまるこの旅くらいでいいだろうに 「世界の歴史を変えた日1001」って本を読んでたらマゼランがホーン岬を回ってとか書いてた。あれ?と思ったら
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3-136309
世界大百科事典でも「マゼランの船隊がホーン岬を回って太平洋に出て」とか書いてるようだ。
マゼランはホーン岬回ってないだろう もう少し南に行けば広い海に出られたのにわざわざ入り組んだ海峡を抜けて行ったマゼランはひねくれてるな
どんだけ世界一周誰よりも先にやりたかったんだよ >>841
俺も以前南米南端にマゼラン海峡とか聞いてホーン岬の先がマゼラン海峡と思ったしな。
マゼラン海峡がまさかあんな世界地図上だともはや見えないレベルの細い海とは知らず。
文字情報と世界地図上でのイメージの違いとによってドレーク海峡をマゼラン海峡認識するという。
偉い大学の先生らでもそのくらいの認識の人がいるということか… フエゴ島の大きさが分かっていない。マゼランには無理。 ひょっとすればマゼランペンギンではなくてドレークペンギンだったか? ホーン岬って尖端みたいなイメージなんでフエゴ島の尖ったあの先っぽかと思ったらさらに南にある孤島の岬だった… マゼラン艦隊が、通り抜けられそうな地峡を端から入って見て、たまたま抜けられた場所が
”マゼラン海峡”だったんでしょう。 アメリゴはアメリカの名になったがマゼランは星雲の名になったってすげーなぁ。
いくつもの星の集まりにの名になって。しかし行くことは出来ない場所の名 >>841>>844
タイトルが「世界の歴史を変えた日1001」という本みたいなので
むしろ、ぜんぶどこかにちょっとだけ
間違いが仕組まれている構成になんていのではww 間違いといえば「おもしろ世界史大全」て本で太宗の画像が始皇帝みたいだと思ったら間違って始皇帝の画像にしてたようだ。
記述間違い発見スレがあれば。あったっけ以前 立ち読みした本に「東方見聞録が書かれたときには知り得なかった情報が平然と書かれている」とかあった。
その情報とは!?と検索したら
http://hon.edoblog.net/
>1298年に完成したはずの旅行記の中に、1298年の時点では絶対に知り得ない情報が平然と述べられている。
また、検索したら「決定版歴史の闇ファイル」て本でも
>さらに、『東方見聞録』は1298年に完成したはずだが、その時点では知り得なかった事実まで記述されているというのだ。
と、同様の書き方でその情報が何なのかは書いてないという。その情報とは何だ!? 1298年に完成したは「はず」
つまり後代の推測にすぎない
東方見聞録は異本が多数あり
後代の改変の多さが伺える >>828
マルコポーロは「見たことの半分も話していない」とか言ったから話していないことに含まれてるんだろう マルコはモンゴルの文化で暮らし、箸で食わず手づかみで、茶を飲まず馬乳を飲んだのではないか。
また、万里の長城は当時は小規模だったからとか「再見マルコ・ポーロ」とかいう本に書いてたな。
なるほど、ウィキによると万里の長城の大部分は明代(1368年 - 1644年)に作られたという。
ならばたしかにマルコは万里の長城を驚異的なものとして見ることはなかったということになろうか 戦艦バウンティ号の叛乱で反乱起こして船長一派を死刑のつもりでボートで追い出したが
船長優秀なもんでそのまま帰還したってシーンを見て
マゼランが反乱起こしたやつをパタゴニアあたりで置き去りにしたのを思い出した。
置き去りにされた人らがそのまま北上し西洋人の支配下にたどり着いて帰還してたら…とか思ったが
歴史はそれを記録していない、んだろうな >>856
>なるほど、ウィキによると万里の長城の大部分は明代(1368年 - 1644年)に作られたという。
ならばなぜマルコは万里の長城を報告してないとか言われるのだろう。
当時すでに相当巨大だったはずとかなのかとかよくわからん オーストラリアで探検隊の再現ドラマを制作していたら金属探知機が反応…明王朝の仏像が発掘される(動画)
http://labaq.com/archives/51905968.html
ドキュメンタリー番組を撮影で、探検家の痕跡を発掘するリハーサル中に見つかった由。
なおこの探検家というのは19世紀初頭にオーストラリア沿岸を探検したフランスの
二コラ・ボーダン船長。まさかはるかむかしに中国人に先を越されていたとは・・・ >>859
どう見ても粗悪な現代中国製の土産物人形で草
鄭和の船団がどこどこにも到達していたとか典型的なトンデモやん 1368〜1644年て幅があるな。しかも百科事典でも中国が15世紀に漁に行ってたとか書いてるっけ 中国人の漁師が直接オーストラリアにというより、スラウェシ島のマカッサル族の漁師が
オーストラリア北岸にナマコ漁で来て、獲ったナマコを中国人に売っていたという話は
むかしからあったね。
しかし、上の記事にある中国の仏像が本物だとすれば、明朝時代の中国人が直接、
それもオーストラリア北岸でなく西岸のかなり南まで進出していた可能性が出てくる。
結構な発見となるね。 いやいや
どう見てもインチキだろあれ
仏像ですらないぞ その名も「世界の探検大百科」て本見たら1513年のピーリー・レイースの地図にブラジルが描かれているってことについて
>これは西洋人のブラジル発見より13年も早い。(99ページ)
て書いてるが誤解してないか?西洋人のブラジル発見てカブラルの1500年てことでしょ?
なんかうっかり計算違いしてるぽい またまたやっちゃいましたね、、、
オーパーツ好きのおいらとしましては
ピーリー・レイースの地図を
ちゃんと眺めたことがないということに
今さらながら気が付きましたよっと >>867
いやどう見ても粗悪な模造品だろ
指が再現されてないしどこなのかも分からん砂地にゴッドハンドみたいに埋めてあるのを掘ったのを動画で撮っただけだし
そもそも本物ならきちんと放射年代測定とか詳しい出土地をまず挙げて論文のタイトルや学者の名前を出すもんだ 【科学】古代南欧で謎の「男性大量流入」、一体何が? イベリア半島の古代人DNAを調査、4500年前から男性のY染色体が置き換わる
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1553005474/ >>868
オーストラリア現地の記事を読めば、ちゃんと専門家の意見も載っているが、
年代の疑問はあれ、これが釈迦の赤子時代を示す仏像であることに誰も異議を唱えていない。
誕生釈迦仏を知らない人間が、脊椎反射で仏像でないなどと騒いでもただ滑稽なだけだ。 >>870
釈迦誕生仏を模った粗悪品だろ
指が天上天下を指してなくてなんか淫夢くんみたいなポーズになってるし
仏像のことよく分からないで外面だけ似た風に適当に作ったよくあるコピー品じゃん
中国人はよくこういう模造品を遺跡から出たものと偽って観光客に高く売りつけるんだぜ >>872
指あるじゃん
オーストラリアの釈迦誕生仏(笑)は指ないし
悔しかったら指で天地を指してないほんまもんの釈迦誕生仏出してこいやハゲアスペwwwwww 指がないのもさることながら、ポーズに奥行がなくて手が体と平行になってたり全体的に掘り込みが浅いのも
前後に分かれた鋳型に溶けた金属を流し込んで作る粗悪な量産品特有の造形だね
どう見ても鑿なんかを使って手作業で作った形ではない
骨董的価値ゼロの安い中国土産だ >>873
面白いな。今度は指があるか無いかが基準なわけかw
細かい部分が欠損してるという、出土物にありがちな可能性は思いつきもしなかった訳だね。
実際には両手とも人差し指以外の4本があるのが見て取れるから、
目が悪いか頭が悪いかその両方でない限り、人差し指は取れたと思うのが普通だけどねww
https://cdn.newsapi.com.au/image/v1/9b164c8a4fdbafdaf3d6d43e24ac205c >>876
欠損じゃなきゃ半端な知識で見た目だけ真似て作ったおもちゃじゃねーかバーカwwwwww
どう見ても鋳型に流し込んで作った量産品なのにしつけーんだよウンコウンコ! http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/1/d/1d11ab73.jpg
よく見たらこの完全勝利した淫夢くんUC人形最初から指4本しかなくて草
細かいディテールが作れない時点で丹精込めて一つ一つ作ってない機械任せのMade in Chinaだってはっきりわかんだね >>877
君のように目と頭が悪い人間に、この像の真贋判定は不可能だよ。
明の時代の鋳造品と現代の鋳造品の違いを全く説明できていないし
理解も出来ていないが、根拠なく後者に思考が固着している。
指が欠けている釈迦誕生仏は日本国内にもあるが、キャプションを
伏せて、これがオーストリアで見つかったと中国の仏像だと君に
見せたら、同様に土産物だおもちゃだと騒いだのだろうねww 明時代の像としたら船乗りがもってたストラップが落ちたようなことが… オーストラリア西岸を調べながら南下していって嵐などで難船。
生存者が陸路で戻ろうとする途上で、サバイバルに寄与しない持ち物を
順次捨てていった・・・そんな感じかな。 >>879
しつこいでゴミガイジ
具体的な論文や鑑定結果が出せない時点でお前の完全な負けンゴwwwwwwwwwwwwwwww >>617>>860
鄭和さんはアフリカには行かなかったけど
日本には着ていた説みたいなのもありますね 仮にオーストラリア西岸になんかあったとしても東南アジアからの漂着物でしょ
日本だって日本海側に中韓のゴミが流れつきまくってるし >>885
比重が重い金属製のモノは普通は海岸に「漂着」しない。
船のような形になっていれば別だがな。 >>887
中が空洞だったり(比重が低くなる)おわん型だったり(浮力がある)すれば
金属が漂着する可能性があるけど、中までみっちり詰まった金属の塊だと無理だね。
海岸を歩いてみれば分かるが漂着ゴミの9割9分は水に浮くもの(比重1内外)。
銅の塊(比重9)が海岸に流れ着くなんてちょっと無いな。 >>888
あのあたりならよく津波で掻っ攫われたり流れ着いたりするで
みっちり詰まる言うたら魚の死体とか転石とかあるしな
えーかげん妄想でなく現実を見ろンゴwwwwwwwwww ガイジがまだ淫夢くんスタチューに執着してて草
1キロの代物なんて比重がどうだろうと海流に簡単に運ばれるってそれ一番言われてるから >>890
苦し紛れで今度は海流ときたかw
オーストラリアの西側を洗っている西オーストラリア海流は「南から北へ」
流れているんだが。何か奇跡が起きて金属塊が海流に流されてきたとしても
南から仏像が流れて来たってことは、中国がさらに南に進出していたって意味に
なってしまうんだがww >>890
中国というワードに反発するのはまあよいが、何も頭を使わずに思い付きを並べるだけでは、
君自身が恥を晒す以外に何の効果も期待できまい。
反論すべきポイントとしては、仏像が明代のものであり実際に現地から掘り出されたとしても、
いつの時点で現地に持ち込まれたかは不明な点で、現地の報道でもそこを疑問点としている。
(こんな仏像は無いとか、オーストラリアまで流されてきたはず、とかいう君のような頓狂な
意見は見当たらない。なぜなら自分の無知を表明するだけだからね) ブロンズ像が海流で運ばれるとかは論外としても、中国の探検隊の遺物
という線も今のところ積極的な証拠がないわけだけどね。
一応発見者のフェイクでないとすれば、19世紀や20世紀の漁師が持ち込んだ
可能性や、ヨーロッパの探検隊の持ち物だった可能性すらあるにはあるな。
1600年代の可能性を追求するなら、オランダ東インド会社の商船に積まれて
いたと仮定することもできそう。
たとえば1629年に今回仏像が見つかった所から南に200kmぐらいのところで
バタビア号という大型船が座礁して沈没している。そして船長以下数十人は
艦載ボートを使って北上し、ジャワ島のオランダ商館まで辿り着けているし、
そこから残りの生存者を救出する船が出されている。
要するに当時のオーストラリア西岸はけっこうVOCの行動範囲なんだな。
この船は別に中国に寄っていないが、VOCの商船はけっこう行方不明が多いから、
ほかに中国の品を買った船がオーストラリア西岸で沈んだケースはありそう。 オーストラリア西岸はオランダの得意技ですけど
往路だからあんまり中国の商品持ってる可能性は低い気がしますね
大西洋岸で作ってそれを中国に輸出しようとしてたなら別ですがww >>891
あの塗装のハゲ具合なら数年は海を漂ってるから
1周以上してても不思議じゃないってはっきりわかんだね
アスペ兄貴はこんなとこでファビョってないでもっとなけなしの想像力を使ってさ、どうぞ
>>893
あんなのが一彫り一彫り手作業で作ったものな訳ないんだよなあ(仮に手作業の行程があるとしたら最後はみ出したバリをヤスリで削るぐらい)
淫夢君像の正体を知りたからまず粗悪な仏像の大量生産の歴史を洗ってみたらどうだろう(提案) 像の指が取れる位なら表面の細かい線なんか真っ先に削れてなくなるんだゾ >>895
木像か何かと勘違いしているようだね。浮力の無い銅の塊は沈んだら沈んだままで
海を流れたりはしない。君が寿命の尽きるまで海岸を探し回っても、漂着した銅像
などは見つかるまい。
だいたい銅の塊というのは鋳鉄の塊よりも重い代物だ。それがインド洋を1周するさまを
思い浮かべているのなら、初心に帰って小学校の理科から勉強をやり直すべきだww >>894
確かにオランダ船は南アフリカの喜望峰から緯度を保ったまま東へ進み、オーストラリアの
手前で北上する、いわゆるブラウウェル・ルートで東南アジアに到着するのが通例。
便利で早い反面、油断するといつの間にがオーストラリアで、サンゴ礁に激突し沈没というのが、
オーストラリア西岸の難破で多いパターン。往路だから帰路より中国の物を積んでいる可能性は低い。
ただしヨーロッパへ戻る際にオーストラリアに漂着してしまった船も実際にあって、
1628年に西オーストラリアで座礁したフィアーネン(Vianen)号の場合だと
バタビアで中国から荷物を積み込んで帰路についたものの、強い向かい風で南に流され、
西オーストラリアのバロー島で座礁。船を軽くして離礁するため、せっかく仕入れた
香辛料や銅のインゴットを大量に投棄したという。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vianen_(ship) >>894
まあフィアーネン号の場合は沈没したわけではないのだけれど、中国の産品を積んだ
オランダ船が、今回話題の仏像が見つかった近辺のオーストラリア西岸まで来ることが
実際にあったわけ。
中国船がそこまで来た可能性も面白くはあるけど、それよりもオーストラリアの西側を
頻繁に行き来していたオランダ船の方が可能性としては高いんじゃないかな。 吼える45度ぐらいの認識でしたが
3段活用が、、、ほんまかいな
しかも40→60度で低減している気がww
「吼える40度,狂う50度,叫ぶ60度」 オランダはなぜオーストラリアの内陸を探検しなかったのだろう?
あるいは沿岸に中継基地を作るとか・・・ >>897
ソース莫きは害兒也(嗤)
糞喰ひ自閉小父さんは幼稚園から遣り直せ(嗤) >>897
ガイジップさあ。プロパンガスボンベが漂着しているがこれはなんなんだい?
充填状態でもプロパンガスは空気より重いし、空の状態でも水より遥かに重い頑強な金属の塊が漂着しないなんて出まかせこいて恥ずかしくねーの?ww
https://blog.goo.ne.jp/ysaino11jp/e/b82217d8bc81b6dd559d4ef1c0d2deff どれ、奥の車庫さ行って、ワイヤー持ってくるべぇか、四輪駆動出してくるべぇか。
瘋癲患者の>>897の片足さにワイヤーば繋いで、村はずれの一本松さ縛り付ける。
もう片びっこの足さ四輪駆動の後ろ側に繋いで…
アクセルばグィーーーン!
オオゥ!
股がベリッと裂けるゥ!
骨盤がわれるぅ!
断末魔の絶叫がこだまするなかで
長さ17尺のハラワタがズンズルズンズルズンズルリンと引き出されるゥゥゥゥゥウ!
さてと
クソまみれの腸さキレイに洗って、ミンチ肉さ詰め込んでソォセェジに仕立てて食うべぇか >>902
南西部に緑があるが、入植するにしても既にケープ植民地があったからなあ
遠すぎる >>894
仮にオーストラリアに中国の物があったとして殆どは割と最近になって入ってきた中国系移民が持ち込んだもんでしょや >>902
>>816のタスマンさんの中の人を調査に出したところ
大陸からお金の予感がしなかったので
調査そのものを中断したらしい、、、
タスマンさんの中の人はめっちゃ怒られてましたww >>904
浮力についてはすでに>>888で指摘済みだが、君には小中学生レベルの
話が理解できないようだね。ちゃんと理科の授業を受けていれば理解
できる事だが、プロパンガスのボンベはガスが充填されていようが
いまいが水よりもずっと軽いのだよw
https://www.lpgpro.go.jp/guest/learning/basic/02_02.html
つまりプロパンガスが充填されたボンベを同容積の水と比較すれば、その7割
ほどの重さだから浮いてあたりまえ。さらに中身を使い切って空のボンベを
海に捨てたのならそれは水の3割の重さでしかなく、いずれも海岸に打ち寄せ
られるのが自然というものだ。
水の9倍の重さの銅像は水に沈むのが当然と言う話をいつまでたっても
理解できず、見当違いにも水より軽いモノを例に挙げて反論したつもりになる
君の頭には果たして中身が充填されているのかいなww ところで前回はオーストラリア西岸に中国の品がもたらされる可能性として
オランダ東インド会社の船を例に考えてみたが、ジャワ島あたりから
西オーストラリアまで流された船が実際にあったことを考えると、
意図的な探検航海でなかったとしても、中国船もオーストラリアまで事故で
流される可能性は皆無ではない。鄭和の航海でも鄭和以後でも明とジャワ島
(マジャパヒト王国やバンテン王国など)の間には船の行き来があったわけで、
ちょっとスンダ海峡を通ってみようと思いついた中国船があれば、
季節風につかまってオーストラリアの北西岸に吹き寄せられる可能性はある。 >>909
摩擦係数とか回転も知らないホイ卒は呼んでないんで
科学的根拠のない話はオカルト板に行って、どうぞ >>876
はいガイジ
そのサイトにこれが明代のものを真似た19世紀のコピー品の疑い濃厚って書いてあるわwwwwwwwwwww
しかも明代のって言った鑑定、写真で比較しただけじゃねーか
死んどけ!
A former curator at Melbourne’s Chinese Australian History museum, Paul Macgregor, told The Australian that even if the discovery was genuine it would not prove the Ming-era treasure fleets theory.
“They could have bought something like that from an antique market or on a website,” he said, adding Deschamps and Thomson had not provided evidence of the statue’s authenticity.
He suggested 19th century copies of Ming-style statues could have been brought to Australia by Chinese pearlers in the late 1800s or early 1900s.
Thomson and Deschamps are having the statue “studied by experts”, but said one “expert from overseas in Buddha statues” had already dated the statue from photographs as Ming dynasty. >>911
「みずにしずむ」「みずにうく」の小学校理科を理解できない君が
その無知を晒した後で、中学校理科の学習内容である摩擦係数に
チャレンジするのは、はっきり言って無謀というものだなw
インド洋の海底が真っ平ですべすべしてしているというならともかく、
山あり谷ありというのが現実である。それに対して、深海の微弱な
海流では重い銅像をして僅かな段差を登らせる事も絶望なのだよ。 >>912
理科だけでも十分恥を掻いたというのに英語でも恥を掻こうと言うのかな君は。
君がろくに理解できないまま引用したこの記事には、ひとりの元学芸員が
19世紀のコピー品かもしれない可能性述べ、ひとりの専門家が写真を元に
明王朝の仏像と年代決定したと書いてあるのだよw
つまり専門家の間の議論ですら真偽の議論は決着を見ていないのに
誕生釈迦仏すら知らず「仏像ですらない」と断言する無知な君が、
思い込みを元に即断する有様が甚だ滑稽であると指摘しているわけ。 どれ、奥の車庫さ行って、ワイヤー持ってくるべぇか、四輪駆動出してくるべぇか。
中卒発達障害者の>>914の片足さにワイヤーば繋いで、村はずれの一本松さ縛り付ける。
もう片びっこの足さ四輪駆動の後ろ側に繋いで…
アクセルばグィーーーン!
オオゥ!
股がベリッと裂けるゥ!
骨盤がわれるぅ!
断末魔の絶叫がこだまするなかで
長さ17尺のハラワタがズンズルズンズルズンズルリンと引き出されるゥゥゥゥゥウ!
さてと
クソまみれの腸さキレイに洗って、ミンチ肉さ詰め込んでソォセェジに仕立てて食うべぇか
>>914
赤ちゃん仏陀像が明代に発祥したことはオーストラリアのゴミが骨董品であることを意味しないぞゴミガイジ どちらにしろ豪州にある中国製とみられる古そうなモノは19世紀以降に移住してきた華人によって持ち込まれた可能性が最も高い 海岸に古物屋が海外製のゴミを投棄したのを拾うだけで考古学的大発見になるんだったらなんでも鑑定団なんていらないンゴwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww まあ>>915の中身のない頭から中身のない意見が出てくるのは理の当然ではあるが、
今回西オーストラリアから発見された仏像の年代決定に必要なのは愚か者の思い込み
ではなく専門家の鑑定である。
「仏像でない」で無知を晒し、「指がない」で観察力の無さを示し、鋳造品だから本物では
ないという不可解な意見を表明したかと思えば、ブロンズの塊がインド洋を一周して
オーストラリアに漂着するというトンデモ説に走る>>915の一連の書き込みは、真贋判定
とは全く無関係であるし、むしろこの仏像の真正性を否定するサイドの足を大いに引っ張って
いるだけだろうw さて>>898などでは、中国産の物品として購入された品がオランダ船によって
オーストラリアに運ばれた可能性を考えてみたが、類似の可能性としては
西洋船の乗船者の私物としてオーストラリアへ運ばれたパターンも考えられる。
とくにオランダ東インド会社の船は中国出身の船員を多く雇用し、1600年代には
日本出身の傭兵も使っていたから、VOCの船に仏教徒の乗船者がいるのは
自然なことと言える。時代が下ると中国人船員の活動領域はさらに広がり、
英国海事博物館の記録ではトラファルガーの海戦に参加した船員にも中国
出身者が居たという。こうした背景と、オーストラリアで難破した船舶は
1600年代から現代までの間に1400隻に上る(※1)ことを考え合わせると、
オーストラリア西岸に仏教徒が仏像を携えて上陸した可能性は意外とある。
※1 「西オーストラリアの難破船」(英語版Wikipedia)
https://en.wikipedia.org/wiki/Shipwrecks_of_Western_Australia >>918
中身のない言葉を使うなガイジwwwwwwwwwwwwww
お前はあガガイのガイ♪ ガイジに言わせるとチュクチで日本製の銅銭が見つかっただけで前近代の日本人がチュクチ人と交易していたことになるらしい 仏像の歴史について調べてみない時点で負けを認めてるようなもんなんだよなあ >>919
ほへぇえ、まさか中国人がネルソン提督の中の人だったとは、、、
むしろ飲んじゃってたら
中国人の中の人がネルソンさんになってしまいますww >>923
個人名が判明している広州出身のHampoo Hangさん(34歳)は
ネルソンの旗艦ヴィクトリーでなく、もう一方の艦隊を率いた
コリングウッドの旗艦ロイヤルソヴリンの乗組員だった模様。
https://www.dailymail.co.uk/news/article-2457433/Nelson-relied-hundreds-foreign-sailors-Battle-Trafalgar.html
まあネルソンの艦にもチャイニーズ水兵はいたかもしれないが。 1800年以降にオーストラリアに渡った中国人の数(非常に多数)>>>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>>>>>>1800年以前にオーストラリアに渡った中国人の数(実在するか怪しい)
なのだから中国産とおぼしき怪しい骨董品がオーストラリアにあったなら決定的な証拠を証明できない限りそれを持ち込んだのは前者であると推定するべきである 1800年以降にオーストラリアに渡った中国人の数(非常に多数)>>>1800年以前にオーストラリアに渡った中国人の数(可能性はある)>>>(絶望的な壁)>>>金銅仏がオーストラリアに漂着する可能性(可能性ゼロ) 津波で押し寄せられてきたりするし
船などに乗っかって漂着する可能性もある
どちらにしろトンデモ自閉ガイジの言うことよりガリバー旅行記の方がまだ当時の人間が書いてる分信憑性や学問的価値がある訳だが 2004年クラスの地震はあのあたりではめったに発生しないのでは? ガリバー旅行記の方がよっぽど現実に即した部分多いわwwwwwwwwwwwwwwwww いやーガリバー旅行記読んでた方がまだ当時の地理感やイデオロギーが分かってためになるし
よっぽどこのスレのテーマに即している 西遊記とか聖ブランダン航海譚とかユートピアとかマンデヴィル旅行記とか >>931が空想の世界に逃避するのは勝手だが
探検とは身を危険にさらしても事実を探求することであって、
ベクトル的には相当に異なると思う。 根拠なき隣国のウリナラファンタジーよりも幻島や空想冒険譚の方が人に夢を与えるだけ有益やで リチャード・イヴリン・バードて米軍人は飛行機で北極の大穴から地球の中の空洞に入ったんだっけ そういえば飛行機行方不明ネタ繋がりでバミューダトライアングルってガチなん?それとも単なる嘘松? >>938
その名で検索するとそういう話が出るがウィキにはその人は載ってるが飛行機で北極から地下世界行ったって話は載ってないような。なぜだ わかんない?ヒントてかちなみにマゼランがマゼラン海峡通過する場面 理屈の上で正しいってことだから案外オリジナルが逆の可能性もあるという >>943
そうなん?
じゃあ火の出てる側の岸がティエラ・デル・フエゴ(火の大地)ってことにすれば
それが船の進行方向(帆の張ってる方向=西)に対して左に向かってる(南にある)下の方の画像が正しいことになるな >>945
そう。それでいいと思う。象をぶら下げた巨鳥はアジアのやつだろうしそれで辻褄が合うだろう… >>941
同じ絵かと思ったら雲上の神?とか鳥、象とかよく見ると違う絵なんだな >>941
理屈の上では
船に乗ってる人の縮尺がおかしいし
人が空トンでるし
UMAがうろうろしてるし
両方とも正しくないんではw こんな大昔のスレがまだ完走しないのか
落ちない方が凄いな >>949
ほぼオワタ中のおいらのレスを確認しましたが
非常にしょうもなくて最高でした 「コロンブス黄金と神と栄光を求めて」て本読んだがコロンブスの航海日誌は改ざんされていた!?
とか言う話だったがなぜ改ざんしたのかがよくわからないというか説明がないような…
誰か読んだ人います!?いないか… 距離短く記入してたんでしたっけか
二重帳簿制だった気がしますが >>953
「コロンブス黄金と神と栄光を求めて」だとそれだけじゃなくて大西洋横断時とアンティル諸島以西突入時を入れ替えたのだ、
とかあって、航海日誌に記録された減少と比較した時、なるほどそうかも、とは思えるのだが、
では、なぜそんな入れ替えをしたのか?ってとこがさっぱりわからない。説明がない感じ ふむぅ、、、
同志社大学人文科学研究所第9研究会
人文科学研究所第30回 公開講演会
(1992年6月19日 於 同志社大学田辺校地視聴覚教室
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/hirotate/920619-Colon-Doshisha.pdf
大航海時代のスペイン――コロンブスの思想と行動を中心に
立石博高
(抜粋)
さて、コロンブスに西廻り航海の確信を生み出したもう一つのものは、その精神的執よ
うさとも絡むことですが、アジアに対して彼が抱いていた大きな「期待」でした。彼の書
簡、航海日誌、そしてとくに未完に終わった『予言の書』を読みますと、コロンブスがい
かに強く終末論的・至福千年主義的観念に囚われていたかが分かります。この終末論とい
うのは、聖書のなかのヨハネの「黙示録」に記されているものですが、この世にはいつか
キリストの第二の復活があって、至福なる千年期が訪れる、その後は再び地上は混乱して
やがて最後の審判を迎える、というものです。このキリストの再来、至福千年期の到来と
いう願望は、ヨーロッパの中世末の宗教運動のなかに強く現われていました。そして『予
言の書』の序文にあたる書簡(1501年9月から翌年3月にかけて書かれたもの)で >>955
コロンブスは、この世の終わりが創生の年より数えて第七千年期におこるという「聖なる神学
者たち」の意見に同意して、「世界が終わる七千年に達するまでおよそ155年しか残され
ていない」と述べて、この世に福音を伝えることを急がなければならないと言っています。
さらに、第四回航海のときにカトリック両王に宛てた書簡では、「エルサレムとシオン山は、
神がその預言者の口から『詩篇』一四で宣言なさったようにキリスト教徒の手によって再
建される」であろうが、「これを行なうべきものは、スペインからやってくるであろうとホ
アキン修道院長は言った」のということが書かれています。このホアキンとは
13世紀に活躍したフィオレのヨアキムと呼ばれる人物で、彼の終末論思想はその後のフランシスコ
会聖霊派の人々に大きな影響を与えています。聖霊派自体は15世紀半ばに弾圧されますが、
その精神と終末論はフランシスコ会厳修派に受け継がれたとされます。後でまた述べ
ますが、実はコロンブスは、このフランシスコ会厳修派と深い関係をもっていたのでした。
コロンブスが聖フランチェスコにどれほど帰依していたかは、彼が航海から戻るとフラン
シスコ会士の着る粗末な服を身につけたということや、フランシスコ会第三会員(在俗会
員)の修道服に身を包んで葬られたということからも分かります。 コロンブスの第三航海についてこういうのを見かけたがなかなかによくわからない。
>コロンブスが率いる三隻はエクアドルの南を通過する針路をとり、大陸があるらしいという噂をたしかめに行った。
>提督はギネアの緯度まで南下し、ベルデ岬諸島に達した。
>ここの海域では、なぎで船が進まず、うだるような暑さのため、ワインや水の樽が膨張して壊れ、食料が腐った。
>乗組員は初めて体験するきびしい試練に、疲れはててしまった。
>そこで、提督は針路を北に変え、よく知っている海域に入ることにした。
>最初の針路をそのまま進んでいたら、コロンブスはアマゾン川の河口と南アメリカ大陸を発見したはずである。
「コロンブスは何をもたらしたか」ほるぷ出版224ページ
第三航海航路ってこんななんだけど。
http://co-smart.net/wp-content/uploads/e87e92e0b87345d317fcb53ed9d3f3e7.jpg
エクアドルの南を通過するとかベルデ岬諸島から北へ向かったとかそのまま進んだらAmazon河口、南米大陸発見したはずとか変な感じ。
第三航海で南米大陸発見してるし… 資料探検の世界は
どこまでも分け入れそうで
遭難の危険がありますねww
しかし皆さん間違い発見スキルが高いのか
むしろ資料がヤバイのか、、、 >>957
>アメリカという名前は最初、南の大陸につけられた。それから一世紀後、地理学者ゲラルドゥス・メルカトールが描いた地図と地球儀では、
>その名前は北アメリカにもつけられている。(『コロンブスは何をもたらしたか』ほるぷ出版p.261)
てのも見つけた。一世紀じゃないだろう?北米にアメリカと付けた最初は1538年といわれてるし >>960
一世紀後はそういう意味で言ってるんじゃないだろ
ウンチクの暗記より日本語の読み方をがんばれよ >>961
おいらもそう思って調べたんですが
1538年の良くできた世界j地図は南北アメリカに
ちゃんと両方とも書いてありましたね
メルカトル図法と世界地図が
ごっちゃに また途中でいっちゃいましたが
ごっちゃに考えちゃったんじゃないかと
ちなみにメルカトル図法は
メルカトルさんじゃない方が発明者でございました
それどころかメルカトルさんは中の人ですらなかった、、、 >>961
>一世紀後はそういう意味で言ってるんじゃないだろ
他にどういう意味で言ってるのかわからない… http://chikyugi-pro.com/OW-0001.html
メルカトルの地球儀1541年だって。
2019年でもすでにメルカトルの地球儀の北アメリカにはアメリカとつけられている とはいえそうではあるが >>962
メルカトル図法の栄誉は
おいら的にはペドロさんにあげたいところですね
分割した地図を重ねる条件は
おなじ大円だけで大丈夫なんだろうか、、、 >>823
もうスレも落ちちゃうので
これがどんな内容だったのか
教えていただけませんでしょうか、、、 >>654>>656
意外と虫さん食べてたら
壊血病に対抗できたりしなかったのだろうか、、、 >>969
やっぱ分割に強かったっすね
スクロールできる地図として優秀
すごく巻物です
Googleマップの投影法
インターネット時代におけるメルカトル図法の再評価
佐藤 崇徳
http://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/tsato/document/mapcenter460/
そこで、Googleマップでは、あらかじめ縮尺(ズームレベル)ごとに1枚の巨大な世界地図を描いておき、
それをタイル状に細かく分割した画像ファイルをサーバー上に用意している。
利用者から「ここの地図が見たい」というリクエストがあるたびに、その範囲の地図画像を送信しているのだ。
「1枚の世界地図で、しかし、どこの狭い範囲を抜き出しても地表の形状が正しく描かれている」という条件を満たすのは、メルカトル図法ということになる。 北極星からのこの腕の角度で時刻を知ることができるし、時刻がわかれば緯度を計算することができる。「コロンブス提督伝」97ページ
てあるけど北極星見てる時点で緯度知ることができるし時刻がわかれば緯度を計算できるっていっても
北極星見えてる上で時刻で緯度計算って聞いた覚えがないので経度とごっちゃになってる?
しかし経度も現地時刻知ったところで計算できるわけではないしでいろいろごっちゃになって間違ってるのか 北半球なら、北極星が見える角度で緯度はわかるよ。
経度は難しいんだよな・・・ >>973
この腕というのが
北斗七星とかカシオペア座の話で
前段に書いてあったりしませんかね?
北斗の腕の角度がわかれば秘孔もつけますが
現地時がわかっても緯度を計算する必要はありませんね、、、 まずコロンブスの時代には精巧な時計がないだろ
経度はどんぶり勘定にならざるを得ない たしか時代が下ると天体観測だけから
時計なしで経度を測ることができるようになります
このスレにコピペしてたかな >>977
以下ににありました
ジョシュア・スローカムさんの中の人が利用したことも書いてありますね
さすができる男は違います
時代は1767年からとありますのでコロンブスさんの中の人はやはり利用できません
1767 年度版から航海年鑑が公刊とのこと
月からの距離 (ナビゲーション)
http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/navigation/lunar_distance.htm
天測航法 (celestial navigation) においては、「月からの距離」(lunar distance) とは月と他の天体の角度である。
ナビゲーターは月からの距離と航海年鑑 (nautical almanac) を使用して、 グリニッジ時間 を計算することができる。
これによりナビゲーターは 海洋クロノメーターを使用せずに経度を決定できる。
月からの距離を測定する理由
天測航法では正確なグリニッジ時間と一個もしくは複数の天体の位置が結び付けられており、 注意深い観測から緯度と経度を計算できる。
信頼できる海洋クロノメーターは 18 世紀まで利用可能ではなく、 また 19 世紀まで手頃な価格ではなかった。
およそ 100 年の間 (1767 年から およそ 1850 年に至るまで) クロノメーターを持たない船乗りは 「月からの距離方式」を使用して、
グリニッジ時間を決定した。これは経度を決定するための重要な一歩であった。
クロノメーターを持っている船乗りは「月からの距離方式」を使用してグリニッジ時間をチェックし (クロノメーターの) 時刻合わせをすることができた。 北極圏は北緯66度33分より北、南極圏は、南緯66度34分より南の地域。緯度にして1分、北極圏が広い。
とか「海の地図帳」て本に書いてあったが百科事典とか辞書とかウィキ見てもそんなこと書いてないな >>623
>何度もいうが、オーストラリアを最初に発見した白人はオランダ人だ
異説として、最初にオーストラリアに達したのはポルトガル人という主張も一部にある。
1547年に描かれた地図には、オーストラリアに相当する位置に大陸が既に描かれてたり。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/Harleian.jpg
ウィレム・ヤンスが初めてオーストラリアに達したとされるのは1606年だから、
その半世紀以上前に、オーストラリアライクな土地が地図に載っていた事に。
(名前は「大ジャワ」だが) >>981
明らかにテラ・アウストラリス・インコグニタ(南方大陸)の一種だな 次々壊スノ重死路レオパレス今モット上手ニ殺ッテルンダロダンパー問題ソノ他急速ヴェノム物件・銀行問題業界ゴト潰レル?利凍ル公害重イル?
虐待死刑スタッフ以外ニグループマイナス経常ケタチガイ万死葬災熱湯強烈薬害毒死多繋ガル看後死
1000件以上介護保険税金ムダ泥棒マダゴーン今環境殺ッテマス100オツムオムツ兆死ニ乗ッタ割ニ祖ノ程弩借金漬ケ棺桶型国家
森友ノロウイルス焼肉嘔吐虐待スイッチ押死耶手後ノ損害ゲローン戦争ソンポ部死テルン盗難
郡大老害山林焚書死テa麻薬王振戦違反重々ヤットストレス足ダシ若竹口爆発害ヤンキーノ種死ネ世
https://anago.5ch.net/test/read.cgi/welfare/1441750123/ 英語版のウィキペディアには独立項目があるね。
「ポルトガルがオーストラリアを発見した説」
https://en.wikipedia.org/wiki/Theory_of_the_Portuguese_discovery_of_Australia
この「Jave la Grande」大陸をよく見ると、90度回転させたオーストラリアにそっくりじゃね?
というのがその根拠のひとつ。 オーストラリアには「マホガニー船(Mahogany Ship)」という
古い難破船に関する伝承があって、その正体はオランダ以前に
オーストラリアに来たポルトガル船だという主張もあった。
まあ可能性は高くないが、それなりに面白いね。
日本語版のウィキペディアにもこれに触れた箇所がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウォーナンブール_(ビクトリア州)#歴史 >>986
それってサラゴサ条約の線引きでぎりぎりポルトガル側?
自分たちの土地だぜって宣伝すればいいのになんで黙ってたんだろ。 >>987
トルデシリャス条約なのにフィリピンをスペインにとられたんでどうせとられるなら黙っとけってことにしたんだろう ポルトガル視点だとインド洋から東南アジア、東亜にかけて商業都市がずらりと並ぶエリアを獲得してて
オーストラリア行ったら都市がないのでわざわざ行きたくなかったとかいうこともありえるかな ブラジルの本に「カブラルがブラジルを発見した カルナバールの2ヶ月後に」とか歌があったとかって
カルナバールってなんだと思ったらカーニバルが2月21〜26なんで4月22日発見ってことか >>571>>569>>813>>812
たいへん申し訳ありませんが
イドリースィーさんの中の人の世界地図は
インド洋の南方は大陸で封鎖されておりました
ここに慎んでお詫び申し上げます
あと東ローマやイスラムのプトレマイオス図は
http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/mathematics/geography.htm
中世イスラム世界
イスラム世界の地図製作者は 9 世紀にプトレマイオスのアルマゲストとゲオグラフィアを継承し、 地理学と地図製作における興味を刺激されたと言われている。
しかしながら、地図製作ではゲオグラフィアを直接使用することはほとんどなかった。
イスラム世界の科学者達は地理学と地球科学 (earth science) に自ら多大な貢献をした。
ルネッサンス
プトレマイオスのテキストは 1400 年頃に コンスタンティノープル からイタリアに到来した。
最初の印刷版は、恐らくは 1477 年の ボローニャ で印刷されたもので、又これは彫刻された挿絵が付いた最初の印刷物でもあった。
多くの版がこれに続き (初期には木版を使用することが最も多く)、 あるものは伝統的な地図に従い、またあるものはこれを更新した。
ウルム (Ulm) で印刷されたものはアルプスの北を印刷した最初のものである。
又 1482 年には、フランチェスコ・ベルリンギエリ (Francesco Berlinghieri) はイタリアで印刷した。 コロンブスが「アジア目指したが途中の障壁となる知らない陸地見つけてしまい残念」みたいな手紙を王に書いているみたいなこと
書いてる本があったがそんな話聞いたことないな… かつてボジャドール岬を越えると海は沸き人は黒焦げになるなどといわれたとかいうが
今やインドが50度行くとかいいまさにそのような世界が近づいているということか… アフリカ最南端の岬を見つけた航海者は結局誰だったのだろう。
少なくとも15世紀の初めには知られていたようなのだが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/フラ・マウロの世界図#アフリカ >>957
カナリア諸島から西へ日本までの実際の直線距離は、二万六六〇〇カイリあるいは四万九三〇〇キロメートルである
「コロンブスは何をもたらしたか」ほるぷ出版90ページ
地球円周以上を出すとは。どうしてこうなった… >>995
>>569の朝鮮製地図ですでに描かれてるんでイスラムが探検しててそれが東西(朝鮮、フラマウロ)に伝わったんだろう >>999
混一疆理歴代国都之図は後の偽作とかってこと? このスレッドは1000を超えました。
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