探検の歴史
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>>762 とは言え、初めて普通に世界一周した英国の船団も ”私掠船許可証” を女王陛下から渡されてたんだよな・・・ (マゼラン艦隊は、マゼランが途中で死んでる) >初めて普通に世界一周 マゼランは異常な状態で世界一周か… >>764 異常と言うかなんというか、マゼラン自身は 途中で死んでるし、最終的に国へ戻れたのは1隻 だけだった、とか言う話でしょ? スペイン人主流の中でマゼランはポルトガル人だったんで反発されてたんだっけ めんどくせーな もしもまだ新大陸が見つかってなかったらまだ戦国時代みたいな時代だったか… 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方 興味がある人はどうぞ 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 GBR >>37 ネトサヨシナカスだけな(笑)どっちもどっちガイジ死ね >>21 ネトサヨシナカスがムキになって張り合っているだけ 南と北とは季節が逆転していることに 始めて気が付いた人は やっぱりマゼラン船団の人だったのだろうか、、、 それともイスラム商人や中国人とかも知ってたのかなぁ もしかして、さらに進んで島の土人でも気が付いたんだろうか エジプト人やフェニキア人とかの可能性もあるのか、、、 歴史記録上はフェニキア人が最初とみました エジプトのファラオ・ネコ2世が フェニキア人にアフリカ周航を行わせたのは 何が目的だったのだろう。 アフリカが案外小さかったら、 地中海とインド洋を行き来する航路が見つかる かもしれん、と思ったのだろうか。 確かあの時代はかなり複雑な情勢だったので いろいろと考慮すべきことがあるかも知れないっすねぇ とりあえず記述が錯綜してるなぁ>>775 >>776 https://jama103dajo.at.webry.info/200604/article_2.html より フェニキア人のアフリカ一周 ヘロドトス(BC484〜425)の記述によると、エジプト第26王朝のファラオのネコU世(在位BC610〜595)は、 名高い海洋民族フェニキア人(カナーン人)の船団に、行きはエリトリア海(現在の航海)から出て行き、 帰途は「ヘラクレスの柱」(現在のジブラルタル海峡)から地中海を通って戻るよう命じてアフリカ沿岸を探検させたという。 船団は途中、涼しくなると陸に上がって穀物の種をまき、その穀物が実って収穫すると船に乗り、 船を先へ進めるという方法で、3年がかりでアフリカを廻って地中海からエジプトに戻ったという。 途中船乗りたちが、「太陽を右手に見た」と報告していることが、注意深いヘロドトスは記録している。 しかし、「太陽を右に見た」と報告されたことで、ヘロドトスはフェニキア人のアフリカ一周を疑っている。 現在のわれわれの知識からすれば、北半球で見れば太陽は南に南中するが、 南半球での太陽は日中北に高く昇る。オーストラリアやニュージーランドを旅行した人は思い出してください。 したがって赤道を越えれば、フェニキア人の船乗りが報告したことは、船が南半球おり、 アフリカの南端を廻る時には船の進行方向の右に太陽が高く昇ることは当然で、フェニキア人が紀元前7世紀にすでにアフリカ一周を した可能性は強いといえるだろう。 >>781 「エリュトゥラー」(?ρυθρ?) とはギリシア語で「赤」の意味。 すなわち、「エリュトゥラー海」とは「紅海」という意味である。 ネコさんとエジプトの方の情勢も複雑 そんでカナンはもっと複雑な気がします ネコ二世陛下は、いわゆるスエズ運河を最初に構想したお方です。 運河を掘るかアフリカを回るか、どちらが経済的か見積もりを出す、 そういう深謀遠慮から出た探検計画だったのではないでしょうか。 猫がファラオだったのか 玉座で寝てる猫ちゃん可愛い 古代エジプト語ではネカウでネコはギリシャ語訛りの言い方 『ブッシュマン』のニカウさんのほうが読みとしては近いな >>781 スエズ湾とアカバ湾辺りまたはエジプト側の港から出航して3年ほど 時間軸的には何時頃に該当するんだろうなぁ 何処のフェニキアの都市が関与して、 船はどうやって用意したんだろうか フェニキア諸都市を競わせたら面白かったろうな。 一番先にアフリカ周航して帰ってきたチームの都市には 向こう3年間関税を免除して遣わすぞ。 >>788 いわゆるフェニキア都市は基本的に地中海側にあるんですよね 競争するときは丸太持参なんでしょうかww >>783 この説はけっこうおもしろいと思いますね >>790 パナマックスがパワーアップしたのはみかけてたけど スエズもパワーアップしてたのかぁ、、、ふむぅ https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/e/2/-/img_e220bdab199fd4d9a1587d825bf6825c204994.jpg 第2スエズ運河計画は、従来の運河の一部を拡張、あるいは従来の運河と並行して新たな運河を掘削することにより、 滞船なしの双方向同時運行を可能にする 「第2スエズ運河」開通! エジプト経済再興の陰に“剛腕大統領”の存在 https://diamond.jp/articles/-/76169 工期5年の青写真を1年に短縮させたシーシ大統領の決断 ?エジプトのシーシ大統領の肝いりで始まった第2スエズ運河の工事は順調に進み、 予定通りに2015年8月6日、盛大に開通式が挙行される。 >>778 これが前々からの疑問なのですが どうして地中海側から出発して 紅海側に行かなかったのだろう、、、 そこがむちゃくちゃひっかかりますね >>792 そうしてたら今度は どうして紅海側から出発して地中海側に行かなかったのだろう?ってなるかも >>793 それは別に問題にならないのですよ 文字どおり解釈するなら地中海沿岸の都市民であるフェニキア人が どうやって紅海側に船を仕立てたのかから そもそも考える必要がある訳で タルシシュへの航海とオフィルのときもそうなんすけど https://wol.jw.org/ja/wol/pc/r7/lp-j/1200004775/3554/1 ここに同じような疑問が載ってますね さてさて一番合理的な解釈はなんでしょう しかし本当に古代にアフリカ周航が行われていたというのならプトレマイオス図でアフリカとアジアが南側で繋がっていることにはなっていなかった筈 なんか怪しいな >>797 大昔のことなんでプトレは知らなかった? >>798 日本はど田舎未開の地世界の最果てで知られてなかった? マレー半島は燦然と輝いて存在し描かれているというのに >>798 反日ですね、日本海もないですし プトレマイオス図ってオリジナル残ってるのかなぁ >>778 >>783 一番ありそうなのは 潜在的(というより直接的)脅威のクシュ王国に対して 南方にあるプレスタージョンを探しに行かせたんじゃないでしょうかね >>802 トレミさん日本に住んでたんですか、、、 >>757 ちなみにおいら調べによると ブラジル島は世界で一番探検した島ですね エンコーは探検する動機としては十分 あとはいつどうやってしたか、、、 >>783 おいら調べによると 運河開削の中止の後に 紀元前610〜594年のどこかフェニキア人航海が行われたらしい、、、 >>799 トレミさんはアフリカ周航には否定的な見解だったらしいですね >>792 >>795 地中海側はギリシャに任せて 紅海側はフェニキアに任せるつもりだったのかもしれないなぁ >>808 >トレミさんはアフリカ周航には否定的な見解だったらしいですね それはもしかしてプトレマイオス世界図でインド洋が塞がれてることだけが根拠なんですか? それ以外になにか否定的な記録ってあるんでしょうか? >>809 トレミさんもストラボンさんも 原本なくなってるけど他の作者が引用してて 内容は部分的にわかるんじゃなかったかなぁ 地図の方は座標系から復元されてたはず >>810 ストラボンさんの 17巻の『地理学(ゲオグラフィカgeographica)』は 大部分が現存とのこと プトレマイオスはインド洋を陸封したか否かは議論されてるみたい。 彼の著書ではインド洋は陸地に囲まれてるとか書いてるだかだが 後世の人が書き足したみたいな説もあるみたいな話だっけ >>812 ざっくり推測で書くと 本から地図が失われた後に再現される過程で、 おおまかな系統として イスラム系で作られたものと 東ローマ系で作られたものの二種類があって、 後者はギリシャの伝統にもとづいて海を別けたのではなかろうか、、、 >>569 汪大渊さんはどのルートでモロッコまで行ったのかなぁ >>815 アベル・タスマン https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/50/Tasmanroutes.PNG 赤:1642-43年の航路(反時計回り) 青:1644年の航路(時計回り) 1642-43年の航海 16世紀後半にはオランダによって現在のオーストラリアの西海岸が発見されており「New Holland(新オランダ)」と名付けられていたが、 そこが「テラ・アウストラリス(Terra Australis)」という大陸であるかという調査をオランダ東インド会社によって依頼された。 11月24日に現在のタスマニアの西海岸に到達し[3]、オランダ東インド会社総督の名前アントニオ・ヴァン・ディーメンにちなんで 「Anthoonij van Diemenslandt(ヴァン・ディーメンズ・ランド)」と命名した。 1856年には、イギリスにより発見者タスマンに因みタスマニア島と改名された。 >>815 ウィレム・ヤンスさんの中の人は日本語ページなし、、、 http://seesaawiki.jp/w/emiliano/d/%A5%A6%A5%A3%A5%EC%A5%E0%A1%A6%A5%E4%A5%F3%A5%B9 1606年2月26日、オーストラリア大陸のクインズランド州のヨーク岬半島に上陸したと、英語版ウィキペディアに書かれてある。 32km もの海岸線を調査し、ニューギニア島と同じ島の続きと考えていた。 その土地の名前を Nieu Zelandt と名づける。意味は、「新しいゼラント」と意味である そこの土地の住民と敵対関係となり引き返し、1606年6月に、ジャワ島のキャンプに戻る。 その後も、インドネシアで、東インド会社社員そして、オランダ海軍提督として、名をはせる。 1619年には、イギリスの東インド会社の船を、オランダに敵対してインドネシアの民衆を援助しているとして、拿捕する。 1630年に、死亡する https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Karte_Expedition_Willem_Jansz_1605-1606.png >>815 ルイス・バーエス・デ・トーレス https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/ba/TorresStraitIslandsMap.png/450px-TorresStraitIslandsMap.png ニューギニア南岸とトレス海峡 1606年6月26日に、「サン・ペドロ」号と「3人の王たち」号はトーレスの指揮の下、マニラへの針路を取った。 逆風のため、彼らはニューギニア北岸に沿う最短経路を取れなかった。 プラドの報告によると、彼らは1606年7月14日に陸地を見つけている。 それはおそらくニューギニアの南東に位置するルイジアード諸島のタグラ島であった。 航海は2か月以上も続けられ、幾度もの上陸により、スペイン領に行き着けるだけの水と食料が補充された。 スペイン人たちは、時には原住民と暴力的な接触をもった。 プラドとトーレスは妊婦を含む20人を捕虜にしたことを記録している。 プラドはパプア湾での停泊地の海図を多数スケッチしており、何枚かは現存している。 長年の間、トーレスはニューギニア寄りの航路でトレス海峡(150kmの幅がある)を通過したのだと考えられてきた。 しかし1980年にオーストラリアの歴史家ブレット・ヒルダーが論証したところでは、トレスの航路はもっとオーストラリア寄りであり、 彼が通ったのは現在エンデヴァー海峡(プリンス・オブ・ウェールズ島とオーストラリア本土の間)と呼ばれている海域だという[9]。 この探検航海によってニューギニアが大陸の一部ではないことが証明された。 10月27日、トレスはニューギニアの西端に達し、ハルマヘラ海へ向けて北上した。 1607年1月初旬にスペイン領のテルナテ島に到達した。3月1日にマニラに向けて出帆し、3月22日に到着。 おいら自身はトーレスさんが最初かと思っていたが この中の人が最初の発見者とする説があるらしい >>587 ペドロ・フェルナンデス・デ・キロス 1563 - 1615年)は、ポルトガル出身の航海者、探検者。 スペインの太平洋航海: 1595 - 1596年アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの航海、 1605 - 1606年のテラ・アウストラリス調査に参加。 1603年3月、ペルーへ帰還、南太平洋のテラ・アウストラリス調査への許可を受諾 1605年12月21日、カヤオを出航:航海士 160名、船 San Pedro y San Pablo(150トン)、San Pedro(120トン)、Los Tres Reyes[3] 1606年5月、ニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)到達、南部の島(現エスピリトゥサント島)をオーストリア系のフィリップ3世を讃え、 La Austrialia [4] del Espiritu Santo (The Austrian Land of the Holy Spirit) と命名。植民地「ノヴァ・エルサルム」建設開始 1606年6月11日、沿岸調査に出航したキロスは悪天候により、エスピリトゥサント島帰港が不可能になりアカプルコ(メキシコ)を目指す 1606年11月、アカプルコ到着 キロスの副官を務めていたルイス・バーエス・デ・トーレスはエスピリトゥサント島でキロスを調査後、難破したと推定される。 1607年5月、マニラに到達。ニューギニア南岸の海峡(現トレス海峡)を通過し海図に記す。 >>815 はたしてクックさんの中の人には オーストラリアに取り分が残っているのだろうか、、、 今年もコロンブス・デーが近づいてきました。 最近はワシントンもコロンブスも駄目とかなんかあるだっけ。今年は一体どうなることやら…!? ポリコレにホイホイと従ってたらなんでもかんでも難癖つけられてもうなんにも祝えないな とりあえずクリスマス中止にしようぜ! >>812 「世界地図の誕生」って本に 「インド洋の陸封は後世の誤謬」説――それへの反論 てのが載ってる コロンブス・デーて第二月曜とかなんだな。今年はぜんぜんニュースにならなかった気が。 数年前ちょっと話題になってた気がするが。コロンブスは侵略者だから祝うまいみたいな なぜならコロンブス・デーを廃止する自治体や学校が増えているから。 廃止されたところはこれ以上抗議が起きないのでニュースネタが減る。 カセイ探検はかなり昔から計画されてて シャトルも1733年に開発済み 特許で会社も作られてるとなると けっこう本格的に探検するつもりだったのだろうか、、、 マルコポーロさんて本当に中国に行ったのかね? 実際に行った行かなかった色々な説があるらしいが もし行ったならシルクロード通って帰りはインド周り海路とは命が幾つあっても足らないんじゃね 東方見聞録には、「箸」「万里の長城」「纏足」の記述が無い だからマルコポーロは中国に行ってない!という説もある >>828 情報が無いことを根拠にして否定するのはいかがなものかとは思うな… 纏足に関しては纏足は恥部であり身分の高い女子がしていたものであるからおいそれと外人が知ることはなかったであろう。 しかしマルコは中国女の歩幅が狭いことを記しておりこれは纏足女性に見られるものであるから 知らずに報告していたとする解釈も可能である、みたいな反論もあったな >>827 インド周り回路ってむしろ交易船が行き交ってて安全そうな気がするがそうでもなかったか… マルコにとって興味の対象外だったから記さなかった程度のことかもしれない。 万里の長城や箸について触れるのならば同様に他地域での同レベルのことにも触れねばならず 東方見聞録はさらに何割か増しの厚さになったかも。 ところで東方見聞録ってタイトル、原題はマルコポーロの旅程度のものなんだな。 こういう勝手な訳は本来の意味をそこなうからやめるべきではないか 東方見聞録は複数人の情報をまとめてるとかいうっけ。 東洲斎写楽が複数人によるプロジェクトだった、みたいなのもあったな… モンゴル側の外国人名にマルコポーロの名がないんだっけ ジンギスカンに仕えたなら名前が記録されているはずなのに?みたいなことが >>828 なんかの本で「陶磁器に触れてないから中国にいってないと言われる」とか書いてあってわけわからなかったな。 東方見聞録には当時規制法まで書いてたんじゃないかと思ったらウィキでもそう書いてるし。 >中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。 >陶磁器に触れてないから中国にいってない そんな奇説は初耳ですな。単なるあなたの記憶違いでは? 中国の「茶」に触れていないから、マルコは中国に行っていないという見解ならありますが。 調べてきた。否定説の根拠いくばくか。茶もあげてる。 >実は、『東方見聞録』には、いくつもの不審な点がある。マルコは、万里の長城についてなにも触れていない。 >また、宋代から盛んになった茶を飲む習慣についてもなにも語らず、同じく宋代から始まったといわれる纏足についての言及もない。 >中国の特産品である絹織物、陶磁器、竹細工などについてもまったく触れず、中国特有の芸術である書や絵画などもいっさい無視している。 「図説大航海時代」40ページ >中国の特産品である絹織物、陶磁器、竹細工などについてもまったく触れず、 陶磁器をまったく触れずとまで書いている。絹も書いてないんだっけ。 否定するために書かれてないものを探しまくったら書かれてる陶磁器まで見落としたのか。 というわけで書かれてないものは探せばいくらでもでるんだから書かれてないものを根拠にするのは妙な感じ 書いてあるのに書いてないって単に間違いだろうが東大の先生、弘法も筆の誤りといったところか 最近スペインの探検航海に興味があります。 いまのサンフランシスコやロサンゼルスあたりを発見したのも スペイン人の航海者だったんですね。 東方見聞録なんてタイトルにするからあたかも東方、アジアに主眼をおいたかのように思われ否定されるであろう。 英語版みたいにまるこの旅くらいでいいだろうに 「世界の歴史を変えた日1001」って本を読んでたらマゼランがホーン岬を回ってとか書いてた。あれ?と思ったら https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3-136309 世界大百科事典でも「マゼランの船隊がホーン岬を回って太平洋に出て」とか書いてるようだ。 マゼランはホーン岬回ってないだろう もう少し南に行けば広い海に出られたのにわざわざ入り組んだ海峡を抜けて行ったマゼランはひねくれてるな どんだけ世界一周誰よりも先にやりたかったんだよ >>841 俺も以前南米南端にマゼラン海峡とか聞いてホーン岬の先がマゼラン海峡と思ったしな。 マゼラン海峡がまさかあんな世界地図上だともはや見えないレベルの細い海とは知らず。 文字情報と世界地図上でのイメージの違いとによってドレーク海峡をマゼラン海峡認識するという。 偉い大学の先生らでもそのくらいの認識の人がいるということか… フエゴ島の大きさが分かっていない。マゼランには無理。 ひょっとすればマゼランペンギンではなくてドレークペンギンだったか? ホーン岬って尖端みたいなイメージなんでフエゴ島の尖ったあの先っぽかと思ったらさらに南にある孤島の岬だった… マゼラン艦隊が、通り抜けられそうな地峡を端から入って見て、たまたま抜けられた場所が ”マゼラン海峡”だったんでしょう。 アメリゴはアメリカの名になったがマゼランは星雲の名になったってすげーなぁ。 いくつもの星の集まりにの名になって。しかし行くことは出来ない場所の名 >>841 >>844 タイトルが「世界の歴史を変えた日1001」という本みたいなので むしろ、ぜんぶどこかにちょっとだけ 間違いが仕組まれている構成になんていのではww 間違いといえば「おもしろ世界史大全」て本で太宗の画像が始皇帝みたいだと思ったら間違って始皇帝の画像にしてたようだ。 記述間違い発見スレがあれば。あったっけ以前 立ち読みした本に「東方見聞録が書かれたときには知り得なかった情報が平然と書かれている」とかあった。 その情報とは!?と検索したら http://hon.edoblog.net/ >1298年に完成したはずの旅行記の中に、1298年の時点では絶対に知り得ない情報が平然と述べられている。 また、検索したら「決定版歴史の闇ファイル」て本でも >さらに、『東方見聞録』は1298年に完成したはずだが、その時点では知り得なかった事実まで記述されているというのだ。 と、同様の書き方でその情報が何なのかは書いてないという。その情報とは何だ!? 1298年に完成したは「はず」 つまり後代の推測にすぎない 東方見聞録は異本が多数あり 後代の改変の多さが伺える >>828 マルコポーロは「見たことの半分も話していない」とか言ったから話していないことに含まれてるんだろう マルコはモンゴルの文化で暮らし、箸で食わず手づかみで、茶を飲まず馬乳を飲んだのではないか。 また、万里の長城は当時は小規模だったからとか「再見マルコ・ポーロ」とかいう本に書いてたな。 なるほど、ウィキによると万里の長城の大部分は明代(1368年 - 1644年)に作られたという。 ならばたしかにマルコは万里の長城を驚異的なものとして見ることはなかったということになろうか 戦艦バウンティ号の叛乱で反乱起こして船長一派を死刑のつもりでボートで追い出したが 船長優秀なもんでそのまま帰還したってシーンを見て マゼランが反乱起こしたやつをパタゴニアあたりで置き去りにしたのを思い出した。 置き去りにされた人らがそのまま北上し西洋人の支配下にたどり着いて帰還してたら…とか思ったが 歴史はそれを記録していない、んだろうな >>856 >なるほど、ウィキによると万里の長城の大部分は明代(1368年 - 1644年)に作られたという。 ならばなぜマルコは万里の長城を報告してないとか言われるのだろう。 当時すでに相当巨大だったはずとかなのかとかよくわからん オーストラリアで探検隊の再現ドラマを制作していたら金属探知機が反応…明王朝の仏像が発掘される(動画) http://labaq.com/archives/51905968.html ドキュメンタリー番組を撮影で、探検家の痕跡を発掘するリハーサル中に見つかった由。 なおこの探検家というのは19世紀初頭にオーストラリア沿岸を探検したフランスの 二コラ・ボーダン船長。まさかはるかむかしに中国人に先を越されていたとは・・・ >>859 どう見ても粗悪な現代中国製の土産物人形で草 鄭和の船団がどこどこにも到達していたとか典型的なトンデモやん 1368〜1644年て幅があるな。しかも百科事典でも中国が15世紀に漁に行ってたとか書いてるっけ 中国人の漁師が直接オーストラリアにというより、スラウェシ島のマカッサル族の漁師が オーストラリア北岸にナマコ漁で来て、獲ったナマコを中国人に売っていたという話は むかしからあったね。 しかし、上の記事にある中国の仏像が本物だとすれば、明朝時代の中国人が直接、 それもオーストラリア北岸でなく西岸のかなり南まで進出していた可能性が出てくる。 結構な発見となるね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる