探検の歴史
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>>797 大昔のことなんでプトレは知らなかった? >>798 日本はど田舎未開の地世界の最果てで知られてなかった? マレー半島は燦然と輝いて存在し描かれているというのに >>798 反日ですね、日本海もないですし プトレマイオス図ってオリジナル残ってるのかなぁ >>778 >>783 一番ありそうなのは 潜在的(というより直接的)脅威のクシュ王国に対して 南方にあるプレスタージョンを探しに行かせたんじゃないでしょうかね >>802 トレミさん日本に住んでたんですか、、、 >>757 ちなみにおいら調べによると ブラジル島は世界で一番探検した島ですね エンコーは探検する動機としては十分 あとはいつどうやってしたか、、、 >>783 おいら調べによると 運河開削の中止の後に 紀元前610〜594年のどこかフェニキア人航海が行われたらしい、、、 >>799 トレミさんはアフリカ周航には否定的な見解だったらしいですね >>792 >>795 地中海側はギリシャに任せて 紅海側はフェニキアに任せるつもりだったのかもしれないなぁ >>808 >トレミさんはアフリカ周航には否定的な見解だったらしいですね それはもしかしてプトレマイオス世界図でインド洋が塞がれてることだけが根拠なんですか? それ以外になにか否定的な記録ってあるんでしょうか? >>809 トレミさんもストラボンさんも 原本なくなってるけど他の作者が引用してて 内容は部分的にわかるんじゃなかったかなぁ 地図の方は座標系から復元されてたはず >>810 ストラボンさんの 17巻の『地理学(ゲオグラフィカgeographica)』は 大部分が現存とのこと プトレマイオスはインド洋を陸封したか否かは議論されてるみたい。 彼の著書ではインド洋は陸地に囲まれてるとか書いてるだかだが 後世の人が書き足したみたいな説もあるみたいな話だっけ >>812 ざっくり推測で書くと 本から地図が失われた後に再現される過程で、 おおまかな系統として イスラム系で作られたものと 東ローマ系で作られたものの二種類があって、 後者はギリシャの伝統にもとづいて海を別けたのではなかろうか、、、 >>569 汪大渊さんはどのルートでモロッコまで行ったのかなぁ >>815 アベル・タスマン https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/50/Tasmanroutes.PNG 赤:1642-43年の航路(反時計回り) 青:1644年の航路(時計回り) 1642-43年の航海 16世紀後半にはオランダによって現在のオーストラリアの西海岸が発見されており「New Holland(新オランダ)」と名付けられていたが、 そこが「テラ・アウストラリス(Terra Australis)」という大陸であるかという調査をオランダ東インド会社によって依頼された。 11月24日に現在のタスマニアの西海岸に到達し[3]、オランダ東インド会社総督の名前アントニオ・ヴァン・ディーメンにちなんで 「Anthoonij van Diemenslandt(ヴァン・ディーメンズ・ランド)」と命名した。 1856年には、イギリスにより発見者タスマンに因みタスマニア島と改名された。 >>815 ウィレム・ヤンスさんの中の人は日本語ページなし、、、 http://seesaawiki.jp/w/emiliano/d/%A5%A6%A5%A3%A5%EC%A5%E0%A1%A6%A5%E4%A5%F3%A5%B9 1606年2月26日、オーストラリア大陸のクインズランド州のヨーク岬半島に上陸したと、英語版ウィキペディアに書かれてある。 32km もの海岸線を調査し、ニューギニア島と同じ島の続きと考えていた。 その土地の名前を Nieu Zelandt と名づける。意味は、「新しいゼラント」と意味である そこの土地の住民と敵対関係となり引き返し、1606年6月に、ジャワ島のキャンプに戻る。 その後も、インドネシアで、東インド会社社員そして、オランダ海軍提督として、名をはせる。 1619年には、イギリスの東インド会社の船を、オランダに敵対してインドネシアの民衆を援助しているとして、拿捕する。 1630年に、死亡する https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Karte_Expedition_Willem_Jansz_1605-1606.png >>815 ルイス・バーエス・デ・トーレス https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%82%B9 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/ba/TorresStraitIslandsMap.png/450px-TorresStraitIslandsMap.png ニューギニア南岸とトレス海峡 1606年6月26日に、「サン・ペドロ」号と「3人の王たち」号はトーレスの指揮の下、マニラへの針路を取った。 逆風のため、彼らはニューギニア北岸に沿う最短経路を取れなかった。 プラドの報告によると、彼らは1606年7月14日に陸地を見つけている。 それはおそらくニューギニアの南東に位置するルイジアード諸島のタグラ島であった。 航海は2か月以上も続けられ、幾度もの上陸により、スペイン領に行き着けるだけの水と食料が補充された。 スペイン人たちは、時には原住民と暴力的な接触をもった。 プラドとトーレスは妊婦を含む20人を捕虜にしたことを記録している。 プラドはパプア湾での停泊地の海図を多数スケッチしており、何枚かは現存している。 長年の間、トーレスはニューギニア寄りの航路でトレス海峡(150kmの幅がある)を通過したのだと考えられてきた。 しかし1980年にオーストラリアの歴史家ブレット・ヒルダーが論証したところでは、トレスの航路はもっとオーストラリア寄りであり、 彼が通ったのは現在エンデヴァー海峡(プリンス・オブ・ウェールズ島とオーストラリア本土の間)と呼ばれている海域だという[9]。 この探検航海によってニューギニアが大陸の一部ではないことが証明された。 10月27日、トレスはニューギニアの西端に達し、ハルマヘラ海へ向けて北上した。 1607年1月初旬にスペイン領のテルナテ島に到達した。3月1日にマニラに向けて出帆し、3月22日に到着。 おいら自身はトーレスさんが最初かと思っていたが この中の人が最初の発見者とする説があるらしい >>587 ペドロ・フェルナンデス・デ・キロス 1563 - 1615年)は、ポルトガル出身の航海者、探検者。 スペインの太平洋航海: 1595 - 1596年アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラの航海、 1605 - 1606年のテラ・アウストラリス調査に参加。 1603年3月、ペルーへ帰還、南太平洋のテラ・アウストラリス調査への許可を受諾 1605年12月21日、カヤオを出航:航海士 160名、船 San Pedro y San Pablo(150トン)、San Pedro(120トン)、Los Tres Reyes[3] 1606年5月、ニューヘブリディーズ諸島(現バヌアツ)到達、南部の島(現エスピリトゥサント島)をオーストリア系のフィリップ3世を讃え、 La Austrialia [4] del Espiritu Santo (The Austrian Land of the Holy Spirit) と命名。植民地「ノヴァ・エルサルム」建設開始 1606年6月11日、沿岸調査に出航したキロスは悪天候により、エスピリトゥサント島帰港が不可能になりアカプルコ(メキシコ)を目指す 1606年11月、アカプルコ到着 キロスの副官を務めていたルイス・バーエス・デ・トーレスはエスピリトゥサント島でキロスを調査後、難破したと推定される。 1607年5月、マニラに到達。ニューギニア南岸の海峡(現トレス海峡)を通過し海図に記す。 >>815 はたしてクックさんの中の人には オーストラリアに取り分が残っているのだろうか、、、 今年もコロンブス・デーが近づいてきました。 最近はワシントンもコロンブスも駄目とかなんかあるだっけ。今年は一体どうなることやら…!? ポリコレにホイホイと従ってたらなんでもかんでも難癖つけられてもうなんにも祝えないな とりあえずクリスマス中止にしようぜ! >>812 「世界地図の誕生」って本に 「インド洋の陸封は後世の誤謬」説――それへの反論 てのが載ってる コロンブス・デーて第二月曜とかなんだな。今年はぜんぜんニュースにならなかった気が。 数年前ちょっと話題になってた気がするが。コロンブスは侵略者だから祝うまいみたいな なぜならコロンブス・デーを廃止する自治体や学校が増えているから。 廃止されたところはこれ以上抗議が起きないのでニュースネタが減る。 カセイ探検はかなり昔から計画されてて シャトルも1733年に開発済み 特許で会社も作られてるとなると けっこう本格的に探検するつもりだったのだろうか、、、 マルコポーロさんて本当に中国に行ったのかね? 実際に行った行かなかった色々な説があるらしいが もし行ったならシルクロード通って帰りはインド周り海路とは命が幾つあっても足らないんじゃね 東方見聞録には、「箸」「万里の長城」「纏足」の記述が無い だからマルコポーロは中国に行ってない!という説もある >>828 情報が無いことを根拠にして否定するのはいかがなものかとは思うな… 纏足に関しては纏足は恥部であり身分の高い女子がしていたものであるからおいそれと外人が知ることはなかったであろう。 しかしマルコは中国女の歩幅が狭いことを記しておりこれは纏足女性に見られるものであるから 知らずに報告していたとする解釈も可能である、みたいな反論もあったな >>827 インド周り回路ってむしろ交易船が行き交ってて安全そうな気がするがそうでもなかったか… マルコにとって興味の対象外だったから記さなかった程度のことかもしれない。 万里の長城や箸について触れるのならば同様に他地域での同レベルのことにも触れねばならず 東方見聞録はさらに何割か増しの厚さになったかも。 ところで東方見聞録ってタイトル、原題はマルコポーロの旅程度のものなんだな。 こういう勝手な訳は本来の意味をそこなうからやめるべきではないか 東方見聞録は複数人の情報をまとめてるとかいうっけ。 東洲斎写楽が複数人によるプロジェクトだった、みたいなのもあったな… モンゴル側の外国人名にマルコポーロの名がないんだっけ ジンギスカンに仕えたなら名前が記録されているはずなのに?みたいなことが >>828 なんかの本で「陶磁器に触れてないから中国にいってないと言われる」とか書いてあってわけわからなかったな。 東方見聞録には当時規制法まで書いてたんじゃないかと思ったらウィキでもそう書いてるし。 >中国の陶磁器はセラミック・ロードと呼ばれる南海ルートでイスラム商人が8 - 9世紀頃からヨーロッパへ持ち込んでいたが、マルコは製造工程も見聞している。 >陶磁器に触れてないから中国にいってない そんな奇説は初耳ですな。単なるあなたの記憶違いでは? 中国の「茶」に触れていないから、マルコは中国に行っていないという見解ならありますが。 調べてきた。否定説の根拠いくばくか。茶もあげてる。 >実は、『東方見聞録』には、いくつもの不審な点がある。マルコは、万里の長城についてなにも触れていない。 >また、宋代から盛んになった茶を飲む習慣についてもなにも語らず、同じく宋代から始まったといわれる纏足についての言及もない。 >中国の特産品である絹織物、陶磁器、竹細工などについてもまったく触れず、中国特有の芸術である書や絵画などもいっさい無視している。 「図説大航海時代」40ページ >中国の特産品である絹織物、陶磁器、竹細工などについてもまったく触れず、 陶磁器をまったく触れずとまで書いている。絹も書いてないんだっけ。 否定するために書かれてないものを探しまくったら書かれてる陶磁器まで見落としたのか。 というわけで書かれてないものは探せばいくらでもでるんだから書かれてないものを根拠にするのは妙な感じ 書いてあるのに書いてないって単に間違いだろうが東大の先生、弘法も筆の誤りといったところか 最近スペインの探検航海に興味があります。 いまのサンフランシスコやロサンゼルスあたりを発見したのも スペイン人の航海者だったんですね。 東方見聞録なんてタイトルにするからあたかも東方、アジアに主眼をおいたかのように思われ否定されるであろう。 英語版みたいにまるこの旅くらいでいいだろうに 「世界の歴史を変えた日1001」って本を読んでたらマゼランがホーン岬を回ってとか書いてた。あれ?と思ったら https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3-136309 世界大百科事典でも「マゼランの船隊がホーン岬を回って太平洋に出て」とか書いてるようだ。 マゼランはホーン岬回ってないだろう もう少し南に行けば広い海に出られたのにわざわざ入り組んだ海峡を抜けて行ったマゼランはひねくれてるな どんだけ世界一周誰よりも先にやりたかったんだよ >>841 俺も以前南米南端にマゼラン海峡とか聞いてホーン岬の先がマゼラン海峡と思ったしな。 マゼラン海峡がまさかあんな世界地図上だともはや見えないレベルの細い海とは知らず。 文字情報と世界地図上でのイメージの違いとによってドレーク海峡をマゼラン海峡認識するという。 偉い大学の先生らでもそのくらいの認識の人がいるということか… フエゴ島の大きさが分かっていない。マゼランには無理。 ひょっとすればマゼランペンギンではなくてドレークペンギンだったか? ホーン岬って尖端みたいなイメージなんでフエゴ島の尖ったあの先っぽかと思ったらさらに南にある孤島の岬だった… マゼラン艦隊が、通り抜けられそうな地峡を端から入って見て、たまたま抜けられた場所が ”マゼラン海峡”だったんでしょう。 アメリゴはアメリカの名になったがマゼランは星雲の名になったってすげーなぁ。 いくつもの星の集まりにの名になって。しかし行くことは出来ない場所の名 >>841 >>844 タイトルが「世界の歴史を変えた日1001」という本みたいなので むしろ、ぜんぶどこかにちょっとだけ 間違いが仕組まれている構成になんていのではww 間違いといえば「おもしろ世界史大全」て本で太宗の画像が始皇帝みたいだと思ったら間違って始皇帝の画像にしてたようだ。 記述間違い発見スレがあれば。あったっけ以前 立ち読みした本に「東方見聞録が書かれたときには知り得なかった情報が平然と書かれている」とかあった。 その情報とは!?と検索したら http://hon.edoblog.net/ >1298年に完成したはずの旅行記の中に、1298年の時点では絶対に知り得ない情報が平然と述べられている。 また、検索したら「決定版歴史の闇ファイル」て本でも >さらに、『東方見聞録』は1298年に完成したはずだが、その時点では知り得なかった事実まで記述されているというのだ。 と、同様の書き方でその情報が何なのかは書いてないという。その情報とは何だ!? 1298年に完成したは「はず」 つまり後代の推測にすぎない 東方見聞録は異本が多数あり 後代の改変の多さが伺える >>828 マルコポーロは「見たことの半分も話していない」とか言ったから話していないことに含まれてるんだろう マルコはモンゴルの文化で暮らし、箸で食わず手づかみで、茶を飲まず馬乳を飲んだのではないか。 また、万里の長城は当時は小規模だったからとか「再見マルコ・ポーロ」とかいう本に書いてたな。 なるほど、ウィキによると万里の長城の大部分は明代(1368年 - 1644年)に作られたという。 ならばたしかにマルコは万里の長城を驚異的なものとして見ることはなかったということになろうか 戦艦バウンティ号の叛乱で反乱起こして船長一派を死刑のつもりでボートで追い出したが 船長優秀なもんでそのまま帰還したってシーンを見て マゼランが反乱起こしたやつをパタゴニアあたりで置き去りにしたのを思い出した。 置き去りにされた人らがそのまま北上し西洋人の支配下にたどり着いて帰還してたら…とか思ったが 歴史はそれを記録していない、んだろうな >>856 >なるほど、ウィキによると万里の長城の大部分は明代(1368年 - 1644年)に作られたという。 ならばなぜマルコは万里の長城を報告してないとか言われるのだろう。 当時すでに相当巨大だったはずとかなのかとかよくわからん オーストラリアで探検隊の再現ドラマを制作していたら金属探知機が反応…明王朝の仏像が発掘される(動画) http://labaq.com/archives/51905968.html ドキュメンタリー番組を撮影で、探検家の痕跡を発掘するリハーサル中に見つかった由。 なおこの探検家というのは19世紀初頭にオーストラリア沿岸を探検したフランスの 二コラ・ボーダン船長。まさかはるかむかしに中国人に先を越されていたとは・・・ >>859 どう見ても粗悪な現代中国製の土産物人形で草 鄭和の船団がどこどこにも到達していたとか典型的なトンデモやん 1368〜1644年て幅があるな。しかも百科事典でも中国が15世紀に漁に行ってたとか書いてるっけ 中国人の漁師が直接オーストラリアにというより、スラウェシ島のマカッサル族の漁師が オーストラリア北岸にナマコ漁で来て、獲ったナマコを中国人に売っていたという話は むかしからあったね。 しかし、上の記事にある中国の仏像が本物だとすれば、明朝時代の中国人が直接、 それもオーストラリア北岸でなく西岸のかなり南まで進出していた可能性が出てくる。 結構な発見となるね。 いやいや どう見てもインチキだろあれ 仏像ですらないぞ その名も「世界の探検大百科」て本見たら1513年のピーリー・レイースの地図にブラジルが描かれているってことについて >これは西洋人のブラジル発見より13年も早い。(99ページ) て書いてるが誤解してないか?西洋人のブラジル発見てカブラルの1500年てことでしょ? なんかうっかり計算違いしてるぽい またまたやっちゃいましたね、、、 オーパーツ好きのおいらとしましては ピーリー・レイースの地図を ちゃんと眺めたことがないということに 今さらながら気が付きましたよっと >>867 いやどう見ても粗悪な模造品だろ 指が再現されてないしどこなのかも分からん砂地にゴッドハンドみたいに埋めてあるのを掘ったのを動画で撮っただけだし そもそも本物ならきちんと放射年代測定とか詳しい出土地をまず挙げて論文のタイトルや学者の名前を出すもんだ 【科学】古代南欧で謎の「男性大量流入」、一体何が? イベリア半島の古代人DNAを調査、4500年前から男性のY染色体が置き換わる https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1553005474/ >>868 オーストラリア現地の記事を読めば、ちゃんと専門家の意見も載っているが、 年代の疑問はあれ、これが釈迦の赤子時代を示す仏像であることに誰も異議を唱えていない。 誕生釈迦仏を知らない人間が、脊椎反射で仏像でないなどと騒いでもただ滑稽なだけだ。 >>870 釈迦誕生仏を模った粗悪品だろ 指が天上天下を指してなくてなんか淫夢くんみたいなポーズになってるし 仏像のことよく分からないで外面だけ似た風に適当に作ったよくあるコピー品じゃん 中国人はよくこういう模造品を遺跡から出たものと偽って観光客に高く売りつけるんだぜ >>872 指あるじゃん オーストラリアの釈迦誕生仏(笑)は指ないし 悔しかったら指で天地を指してないほんまもんの釈迦誕生仏出してこいやハゲアスペwwwwww 指がないのもさることながら、ポーズに奥行がなくて手が体と平行になってたり全体的に掘り込みが浅いのも 前後に分かれた鋳型に溶けた金属を流し込んで作る粗悪な量産品特有の造形だね どう見ても鑿なんかを使って手作業で作った形ではない 骨董的価値ゼロの安い中国土産だ >>873 面白いな。今度は指があるか無いかが基準なわけかw 細かい部分が欠損してるという、出土物にありがちな可能性は思いつきもしなかった訳だね。 実際には両手とも人差し指以外の4本があるのが見て取れるから、 目が悪いか頭が悪いかその両方でない限り、人差し指は取れたと思うのが普通だけどねww https://cdn.newsapi.com.au/image/v1/9b164c8a4fdbafdaf3d6d43e24ac205c >>876 欠損じゃなきゃ半端な知識で見た目だけ真似て作ったおもちゃじゃねーかバーカwwwwww どう見ても鋳型に流し込んで作った量産品なのにしつけーんだよウンコウンコ! http://livedoor.blogimg.jp/laba_q/imgs/1/d/1d11ab73.jpg よく見たらこの完全勝利した淫夢くんUC人形最初から指4本しかなくて草 細かいディテールが作れない時点で丹精込めて一つ一つ作ってない機械任せのMade in Chinaだってはっきりわかんだね >>877 君のように目と頭が悪い人間に、この像の真贋判定は不可能だよ。 明の時代の鋳造品と現代の鋳造品の違いを全く説明できていないし 理解も出来ていないが、根拠なく後者に思考が固着している。 指が欠けている釈迦誕生仏は日本国内にもあるが、キャプションを 伏せて、これがオーストリアで見つかったと中国の仏像だと君に 見せたら、同様に土産物だおもちゃだと騒いだのだろうねww 明時代の像としたら船乗りがもってたストラップが落ちたようなことが… オーストラリア西岸を調べながら南下していって嵐などで難船。 生存者が陸路で戻ろうとする途上で、サバイバルに寄与しない持ち物を 順次捨てていった・・・そんな感じかな。 >>879 しつこいでゴミガイジ 具体的な論文や鑑定結果が出せない時点でお前の完全な負けンゴwwwwwwwwwwwwwwww >>617 >>860 鄭和さんはアフリカには行かなかったけど 日本には着ていた説みたいなのもありますね 仮にオーストラリア西岸になんかあったとしても東南アジアからの漂着物でしょ 日本だって日本海側に中韓のゴミが流れつきまくってるし >>885 比重が重い金属製のモノは普通は海岸に「漂着」しない。 船のような形になっていれば別だがな。 >>887 中が空洞だったり(比重が低くなる)おわん型だったり(浮力がある)すれば 金属が漂着する可能性があるけど、中までみっちり詰まった金属の塊だと無理だね。 海岸を歩いてみれば分かるが漂着ゴミの9割9分は水に浮くもの(比重1内外)。 銅の塊(比重9)が海岸に流れ着くなんてちょっと無いな。 >>888 あのあたりならよく津波で掻っ攫われたり流れ着いたりするで みっちり詰まる言うたら魚の死体とか転石とかあるしな えーかげん妄想でなく現実を見ろンゴwwwwwwwwww ガイジがまだ淫夢くんスタチューに執着してて草 1キロの代物なんて比重がどうだろうと海流に簡単に運ばれるってそれ一番言われてるから >>890 苦し紛れで今度は海流ときたかw オーストラリアの西側を洗っている西オーストラリア海流は「南から北へ」 流れているんだが。何か奇跡が起きて金属塊が海流に流されてきたとしても 南から仏像が流れて来たってことは、中国がさらに南に進出していたって意味に なってしまうんだがww >>890 中国というワードに反発するのはまあよいが、何も頭を使わずに思い付きを並べるだけでは、 君自身が恥を晒す以外に何の効果も期待できまい。 反論すべきポイントとしては、仏像が明代のものであり実際に現地から掘り出されたとしても、 いつの時点で現地に持ち込まれたかは不明な点で、現地の報道でもそこを疑問点としている。 (こんな仏像は無いとか、オーストラリアまで流されてきたはず、とかいう君のような頓狂な 意見は見当たらない。なぜなら自分の無知を表明するだけだからね) ブロンズ像が海流で運ばれるとかは論外としても、中国の探検隊の遺物 という線も今のところ積極的な証拠がないわけだけどね。 一応発見者のフェイクでないとすれば、19世紀や20世紀の漁師が持ち込んだ 可能性や、ヨーロッパの探検隊の持ち物だった可能性すらあるにはあるな。 1600年代の可能性を追求するなら、オランダ東インド会社の商船に積まれて いたと仮定することもできそう。 たとえば1629年に今回仏像が見つかった所から南に200kmぐらいのところで バタビア号という大型船が座礁して沈没している。そして船長以下数十人は 艦載ボートを使って北上し、ジャワ島のオランダ商館まで辿り着けているし、 そこから残りの生存者を救出する船が出されている。 要するに当時のオーストラリア西岸はけっこうVOCの行動範囲なんだな。 この船は別に中国に寄っていないが、VOCの商船はけっこう行方不明が多いから、 ほかに中国の品を買った船がオーストラリア西岸で沈んだケースはありそう。 オーストラリア西岸はオランダの得意技ですけど 往路だからあんまり中国の商品持ってる可能性は低い気がしますね 大西洋岸で作ってそれを中国に輸出しようとしてたなら別ですがww >>891 あの塗装のハゲ具合なら数年は海を漂ってるから 1周以上してても不思議じゃないってはっきりわかんだね アスペ兄貴はこんなとこでファビョってないでもっとなけなしの想像力を使ってさ、どうぞ >>893 あんなのが一彫り一彫り手作業で作ったものな訳ないんだよなあ(仮に手作業の行程があるとしたら最後はみ出したバリをヤスリで削るぐらい) 淫夢君像の正体を知りたからまず粗悪な仏像の大量生産の歴史を洗ってみたらどうだろう(提案) 像の指が取れる位なら表面の細かい線なんか真っ先に削れてなくなるんだゾ >>895 木像か何かと勘違いしているようだね。浮力の無い銅の塊は沈んだら沈んだままで 海を流れたりはしない。君が寿命の尽きるまで海岸を探し回っても、漂着した銅像 などは見つかるまい。 だいたい銅の塊というのは鋳鉄の塊よりも重い代物だ。それがインド洋を1周するさまを 思い浮かべているのなら、初心に帰って小学校の理科から勉強をやり直すべきだww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる