ゲルマン人の大移動と彼らが建てた諸王国
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古代末期に始まったゲルマン人の大移動、および彼らが各地に建国した
諸王国について語りましょう ドイツ人と日本人着る礼服
冠婚葬祭の時はダブルブレスレットのブラックフロックコートのダブル6つの2掛けか3掛けタイプを着たらかっこいい。
冠婚葬祭の時は、ダブルブレスレットの黒色のフロックコートのダブル6つ2掛けか3掛けタイプを着たらかっこいい。 ゲルマン人とスラブ人とフィン人はタトゥー(刺青)を入れるのが好きな民族である。
オランダ人とスウェーデン人とドイツ人とノルウェー人とフィンランド人とロシア人と
ボスニア人とクロアチア人とセルビア人はタトゥー(刺青)を入れる。
ドイツ人とロシア人はタトゥー(刺青)を入れる。
ゲルマン人とスラブ人はタトゥー(刺青)を入れるのが好きな民族である。 ブルグント語て、今のドイツ語の「方言」のどれかの基層になるかまたは影響を与えたりしてるのかな DAKSのダブルスーツとダブルジャケット タイト目の英国調クラシック
1920年以来の新型のブリテッシュスタイルのダブルボタン6つ2掛けタイプと3掛けタイプで襟はワイドピークドラペル(襟の広さ9cm〜13cm)と
ハイゴージ(ゴージラインは高い)と肩はコンケープショルダーと胸ポケットはバルカポケットとウエストラインはボディにフィットさせるため締まり込むタイプと
袖ボタンは4つの袖本開き(本切羽)とVゾーンはDAKS定番デザインのもっと狭いタイプとボタンの位置が高いタイプと第一ボタンは胸についたボタンと両玉フラップチェンジポケットと
紐無しのボタン止めと上着が短いタイプ(丈の短さ64cm〜69cm)と長いサイドベンツ(ベントの長さ26cm)と背中はプリンセスライン(S字ライン)と裏地は総裏仕立てである。 DAKSのスラックス
ブリティッシュタイプのスラックはノータックとワンタックと前閉じはボタン式と
副幅は細め(21cm〜23cm)と帯付き35ミリと40ミリと持出しの付1ボタンと35ミリと1ボタン40ミリとベルトレス40ミリと帯付き40ミリとループなしと
トップループと裾はダブル(4.5cm〜5cm)とポケットはナナメとまっすぐと後ろポケットは片玉左右クモフタ付きと片玉左右ボタン付きと両玉左右ボタン付きと
フラッシュベース型フタ付きとフラッシュクモフタ付きとサスペンダーボタン式と
ハックストラップとサイドストラップとVカットである。
英国調スタイルのスラックスは前閉じはボタン式とサスペンダーボタン式である。
英国調のスラックスはズボン吊りである。 ゲルマン人とスラブ人とフィン人とリトアニア人は長身至上主義者である。
オランダとスウェーデンとドイツとフィンランドは長身至上主義国です。
旧ユーゴは長身至上主義国です。
ゲルマン人は長身至上主義です。
ドイツとオーストリアは長身至上主義国です。
オランダ人とスウェーデン人とドイツ人とフィンランド人は長身至上主義者です。
ヨーロッパは長身至上主義です。
白人は長身至上主義者です。
ナチスドイツは長身至上主義国です。
ゲルマン人は長身至上主義者です。
ゲルマン人の社会はチビは劣等人種の国である。
ゲルマン人は背が低い人を嫌がる。 ゲルマン人は背を伸ばす手術をしたらしい。
オランダでは、骨延長手術があるらしい。
オランダ人は身長を伸ばす手術があるらしい。
オランダ人が背を伸ばすイリザロフ法があって身長を伸ばして手術するらしい。
オランダ人は日本人を嫌うらしい。
オランダ人は反日運動をしている。
オランダ人は日本人を馬鹿にするらしい。 ゲルマン人とスラブ人は身長が命である。
オランダとスウェーデンとドイツとフィンランドは背が命である。
ゲルマン人とスラブ人は背が命である。 >>545
アルミニウスは、ローマ軍が攻めて来ると言う危機を
利用してゲルマン人の統一を図ろうとした面もあるんでしょうね。
ローマでの人質生活では、学問を学んでいるから、こういう政治的な野心を
顕在化させた面があるのかなとも思える。ローマとしては、ローマで学ばせて
シンパに育てる心算だったのだろうが、アルミニウスは、学んだ知識やノウハウ
を使ってローマ帝国と戦い始めてしまった。更にはゲルマン人の統一も目指し始めた。
そういう意味では、ローマでの人質生活によりアルミニウスを親ローマ派に
仕立て様としたローマ帝国側の意図は、完全に大失敗していると言う事になる。 >>546
>ローマ軍が攻めて来ると言う危機を利用してゲルマン人の統一を図ろうとした
と言うかですね。
アルミニウスは、虚偽のゲルマン人の反乱をでっち上げて、
ローマ帝国のゲルマニア総督が侵攻するように仕向けている訳です。
アルミニス自ら、ローマ軍の侵攻を呼び込んでいるんですよ。
もちろんゲルマン人の団結や統一の機運を盛り上げる為に、ワザとそうしている訳ですがね。
そういう意味では、かなりの策士なのかなと。
もしかするとローマの人質生活で、そういう統治テクニックを身に着けたのかも知れませんけどね。
ローマ帝国の人質ってのは、今で言うところの留学に近いモノだったみたいです。 アルミニウス陣営の部族は…
ケルスキ族、マルシ族、カッティ族、
カウキー族、ブルクテリ族、シカンブリ族などなど。
ブルクテリ族とシカンブリ族は、
後にフリーセン族と一緒に フランク族 を結成する。 トイトブルグの森の戦いで、ローマ軍団が全滅します。
つまり、ライン川を防衛するローマ帝国の兵力が丸ごと無くなりました。
これは、ゲルマン人からガリアを防衛する手段が、ローマ帝国に無くなった事を意味します。
その為にガリア地方が、パニック状態になり、アウグストゥス帝は、ガリア全土に
戒厳令を布告し、州総督の任期を延長します。相当な混乱が有ったと予想されます。
ガリアでは、住民の集団疎開や暴動みたいな事態が多発したのでしょう。
これを見ると、アルミニウスは、ゲルマニアの統一が最終目標ではなくて、
もしかすると全ゲルマン人を率いて、ガリアに侵攻する事を考えていた可能性が有ります。
アルミニウスは、ローマ帝国との戦争中にその様な発言をし、
ゲルマン人の部族に対ローマの団結呼びかけていたのかも。
ローマ帝国側もそれを察知していたのかも知れません。
ガリアのパニックを見るとそんな感じに見えます。
400年後には、クローヴィス王が、シアグリウスが統治するガリア(ソワソン管区)に侵攻します。
これは、西ローマ帝国が崩壊した後に行った侵攻なので成功した訳ですが、もしかするとかなり
早い段階から古代ゲルマニアの貴族(従士)階級には ガリア征服 と言う政治目標があったのかも
知れません。 カエサル征服前の時点でガリアに侵入して混乱させてたろ
アウグストゥス時代にはまだその頃の記憶もあったろうし、十分予想される反応だわ >>550
あくまでも想像ですがね。
それにゲルマン人の特定の一部族だけでのガリア侵攻は、大体失敗していますから。
それでゲルマン人の団結や統一と言う政治目標が出てきたのかな?と。
カエサルのガリア征服が比較的上手く行ったのも、ローマ(カエサル)に
ゲルマン人から守ってもらおうと言うガリアのケルト人部族の切実な要望がありました。
ウェルキンゲトリクスの対ローマ同盟が、簡単に崩れたのも、ゲルマン人の
脅威からガリアのケルト人を守る事をカエサルが保障したからでもあります。
カエサルは、終身独裁官に就任した後に親ローマ派のガリアのケルト人部族長を
ローマの元老院議員に任命しますが、この事が、カエサル暗殺の直接の原因に
なっていると言われます。 スエビ族とヘルウェティイ族のガリア中央を目指す移動とは別に
ゲルマニア北部からベルギカを経由してドーバー海峡から
ブリタニアを目指す北方民族移動ルートがあった。
スエビ族とヘルウェティイ族を放置するとガリア中央の部族が
追い出されてローマ領に侵入しようとするから阻止するのは
当然だったけど、ベルギカも征服したのでブリタニアに移住
するはずの諸部族がライン河以東に滞留し続ける事になり、
ローマにとって新たな脅威が生じてしまった。 アルミニウスの持っていた宝剣はオーディンに授けられたという先祖伝来のもので
誰にも製法が分からず軽くて錆びなかった。
アルミニウムの名前の由来である。
アルミニウスはローマの捕虜となった妻子の身代に宝剣を渡したが、
ローマは約定を破り息子は剣闘奴隷にされて殺された。アルミニウムの宝剣を手に持っていたという。 >>552
>諸部族がライン河以東に滞留し続ける事になり
アルミニウスが、オランダからドイツ中西部にかけての部族を
反ローマ陣営に引き入れる事が出来たのも、これが背景なんでしょう。
ローマ帝国が必死にゲルマン人の貴族(従士)層を人質と称して、
ローマやギリシャで留学させていたのも、親ローマ派に教育して、
ゲルマン人のガリア侵攻を防ぎたかったからだと思います。
>>553
まだこの頃は、ゲルマン神話が、物語調に体系付けられてないと思います。
それにゲルマン神話の主神は、当初は、オーディンではなくてテュールでした。
ゲルマン神話の主神が、オーディンに変わるのは、紀元2世紀頃だと言われています。
火曜日(チューズデイ)の語源ですね。 ベルギカがローマの属州とならなかったのならば、
帝政時代も民族移動が継続したはずだろうから、
ブリタニアがフランスになりベルギカがザクセンで
ラインラントがイングランドになったのかもしれない。 ローマがエルベ河以西とボヘミアを属州化していたのならば、
おそらくさらにブリタニアも属州化する余力はないだろうから、
5世紀以前にブリタニアはイングランドになったかもしれない。
ザクセン族はエルベ河以西のローマ領で定住化しただろうから、
アングル族とユート族だけがブリタニアに入植する事になり、
ウェセックスとかは存在しなかっただろう。 >>552>>555-556
アウグストゥスが、国境をライン川から
東進させてエルベ川にしようとしたからね。
ライン川とエルベ川の間に居住するゲルマン人部族は、そりゃ〜怒るだろう。
アルミニウスとローマ帝国の戦争の根本原因は、これだよ。 アウグストゥスが派兵したローマ軍が
マルコマンニ族をボヘミアへ追い払った。
マルコマンニ族がボヘミアに移住しなければ
ローマはボヘミアを征服してイタリア本国が
より安全になった事であろう。 フン族に圧迫される前の移動の理由がわからない
バルト海沿岸に居住してた部族(ゴート人ヴァンダル人?)は、
元は現ポーランド付近に居住してたそうだけど、
なぜ北方のバルト沿岸に移動?
ポーランドあたりの方が温暖で豊かなように思えるんだけど
あと、バルト沿岸から黒海方面へ南下したのは気候変動のせいなのかな 黒海北岸が肥沃な黒土地帯だけどサルマタイらが遊牧していて
農地として活用されていなくて人口希薄だったからだろうな。
同時にローマがライン河で防いでいたから西に進めなかった。
西ゲルマンがガリアやブリタニアに移住していたのならば、
ゴート族らもライン河まで前進していたかもしれない。 >>559
想像だけどわざわざ寒いところへ移動するのは
・資源を求めて 鉱物か獣か魚といった食料・衣料の材料になる生き物など
・敵に追われて逃亡 他部族か内紛による分裂かで移動、行く先を選べなかった
などだろうか
あと「いい女がいる」といった下世話な噂も動機になる可能性はある
自分たち自身が欲するだけでなく前者の一種として奴隷は交易や貢納の資源にもなるから マルコマンニ族、スエビ族、アレマンニ族は、最近はケルト人と言われている。
それにヴァンダル族は、スラブ系と言われている。
サルマタイ人やアラン人は、もろにイラン系の騎馬民族だ。
ここら辺の部族は、他のゲルマン人部族への同族意識を持たなかったのかもね。 >>559
>フン族に圧迫される前の移動の理由が判らない
理由のほとんどが、人口増による食糧調達や生活圏確保の為。
当時のゲルマン人は、半農半猟の生活様式で、
当時の技術では、ゲルマニアの森を開墾して農地にする事ができない。
また、森を開墾してしまうと狩猟もできないと言う悪循環。
それ故に、部族の人口が増えると、手狭になってしまい易い。
ゲルマンの森の中だと、居住可能地域が以外と狭い。
もともとゲルマン人の原住地であるスカンジナビア半島から出て来て南下し
ゲルマニアに定住したのも、人口増加でスカンジナビア半島押し出されたからでもある。
バイキングが、大々的に遠隔地との交易に乗り出したのも同じ理由からだ。 >>562
ケルスキ族も名前からしてケルト人だったのかも
スコルディスキ族やタウリスキ族はケルト人 >>562
マルコマンニ族がアルミニウスの同盟に加わらなかったのは、ケルト系だったから?
ライン川上流域の南ドイツ地域の部族は、
アルミニウスの対ローマ同盟には、加わってないケースが多い。
>>564
そんな事を言ったら、何々スキーは、スラブ人っぽいネーミングじゃんか!?
ケルスキ族は、実はスラブ系って説があっても良さゲだけど、聞いた事は無い。 >>565
-sk-はスラブ語以外にもよく見られる形容詞派生接辞で、
ラテン語でもエトルリア人をエトルスキーと言ってる
ドイツ語では-sch、英語では-shの形になり、Englishの-shもそれ skはスウェーデン語にもデンマーク語にもノルウェー語にもある
まあそもそもゲルマン語とスラヴ語は互いに最も近い言語だから別に普通
おそらく紀元前5世紀頃にグリムの法則が発生してそれによりゲルマン語とスラヴ語との分化が少しずつ広がったとされるので、タキトゥスの時代はそれから数百年しか発っていない 紀元前5世紀なら数千年前にゲルマンとスラブは分離していて言語としては全く別物だったのが
一時的に数百年間隣接してちょっと接近していたという時期
喋っても通じないが、通婚や通商を通じて知らず知らず構造や発想法が接近するという「傍層」の関係 ヴェネチアとヴェンドとヴァンダル、
ゲタイとゴートとか同じ語源かな? ヴァンダルのヴァンは、ヴィスラ川が語源だとか。
その様な書き込みが、2chに有ったと思う。
ローマ系住民への暴行が一番多かったのは、ヴァンダル人だった。 >>569
いや、それは古い説。また熱力学を誤用した説。
ゲルマン語とスラヴ語は紀元前5世紀から紀元後5世紀という、非常に新しい時代にかけて分化したのが正しい。
ヨーロッパ言語の中で最も近縁。
ただしスラヴ語はスキタイとの混血によってイラン系の訛りがある。 紀元5世紀って新しすぎるだろ
ゴート語聖書が4世紀ぐらいだからとっくにいろんなゲルマン諸語が成立してる時期 古代イリュリア語(?)というかラウジッツ文化の言語はゲルマン語とスラブ語を橋渡ししている
一説には現代の西スラブ諸語の基礎言語とも言われている >>572
白樺文書の発見が従来の説を全部ひっくり返してしまったな
これでスラブ語とゲルマン語がかなり新しい時代まで実は同一言語だった可能性が濃厚になった
ゲルマン+スキタイ+サルマタイ=スラブ >>576
バルカンがスラブ化したのはイリュリア語とスラブ語が近縁で
イリュリア人がスラブ語を覚えやすかったからだろうか?
ケルト語とイタリア諸語が近縁なので
ガリア人らはラテン語を覚えやすく
西欧がラテン化したとされる。
ガリア語とブリトン語&ゲール語よりも
ガリア語とラテン語の方が近縁なので
ガリアやスペインがラテン化したのに
ブリタニアはラテン化しなかったらしい。 >>577
スラブ語の白樺文書なんてせいぜい10世紀頃のノヴゴロドのものだろ
北ゲルマンのルス族が現地のスラブ人を占領して言語の混合が起こりかかっていたとして
それがなぜ両者が分岐する以前の年代を示唆する証拠になるのだろう
もっと前のものがあるというならソース出して
>>578
ガリア人のラテン化に関してはそうだけれど
同化の方向や早さや起こり易さには「言語が元々近かった」以外の要因もある
「文明の発達度の差」「人口の差」「政治的関係の上下」など
ガリアでのガリア人は人口はラテン人より多かったが政治的には被支配者で文明も低かった
ゲルマン人はゲルマニアでの人口は多く、ローマに完全支配もされないまま徐々にその文明を受け入れた
ブリタニアのケルト人の大半は後者に近い状況で、ローマとラテン語の影響はあったが
ケルト語も文字化されキリスト教布教にも使われた
ブルターニュのブルトン人はその子孫で、新たにキリスト教化されたケルト語を大陸に逆流させたことになる
ちなみに分類上はウェールズやコーンウォールなどのケルト語はPケルト(ブリトニック)で大陸ケルト語に近く
アイルランドほかのゲール語はQケルト語で、ガリア語とはだいぶ距離がある
イリュリア語に最も近いと言われている現代語はアルバニア語で、スラブ語とはだいぶ違う
スラブ人のバルカン西南部への移住は何度も起こっているのでやがて圧倒したのだろう イリュリア語→アルバニア語ではなく
イリュリアもイタリアやアナトリアのように
多言語地域だったのかもしれない。
イリュリアの大部分ではスラブ語に似た言語
が話されていたのかもしれない。
そもそもローマ時代にバルカンは遠くダキアまで
ラテン化していたのにイタリアに近いアルバニア
に原住民の言語が残った事は謎。
ウェールズとバスクは辺境だけどアルバニアは
イタリアからギリシャへ向かう玄関だった。 >>580
ダキアは飛び地の駐屯地だとわかってるし、
そこまでの間をラテン語話者の植民者で埋め尽くしたなんて話はない
アルバニアは山岳地帯だからイリュリア語の方言が残ったんだろ
多言語地帯という証拠もないし、
そうまでしてスラブ語に似た印欧語が最初からそこにあったとする根拠はない イリュリアは多くの将兵と皇帝を輩出したから
かなりローマ化ラテン化していたのでは? ゲルマン人→地球外高度知性生物が創造した新人類だったのであ〜る その10世紀頃のノヴゴロドのスラヴ語が第二次口蓋化を起こしていなかったから従来の全ての説がひっくり返ってしまったわけで イリュリア語≠古アルバニア語。
まあ西スラブ語独特の訛りはイリュリア語起源だとすればヴァンダル人は古西スラブ諸族だな。
要はいまの西スラブと南スラブの基層。
そのうちルギイ族はレック族で結局は古ポーランド人なんだろう。
現在の西スラブ諸国の先祖に第二次口蓋化が広まって定着したのは6世紀頃からだな。
それはサーメシア人のうちのアラン人あたりの影響だろう。
その後もノヴゴロドのような北の方では第二次口蓋化が広がっていなかったとなる。 今の時代ってひょっとしたらゲルマン民族の大移動に匹敵する時代かもしれない。
イスラム教徒が続々とヨーロッパ大陸に移住してきてる。
イスラム系は多産な上に白人は少子化だからそのうち
ヨーロッパはイスラムに乗っ取られるだろう。
後世の歴史家は今の時代を「イスラムの大移動」って名づけるかも。 その論理なら、
東アジアでは、日本も中国人に乗っ取られるだろから、
「中国の大移動」と呼ばれるだろうね。 今のチュニジアにヴァンダル王国の痕跡ってあるのか? >>590
分化的には全くない。
ただし、明色の髪の色を持つ割合が2%あるから、そのあたりはヴァンダルの影響かも。 アルプス以北で今のフランス以外にいたケルト人及びローマ化したケルト人って、なんでゲルマン人に同化されてしまったんだろうな
農業とかいろんな面でゲルマン人より進んでたはずなのに
これを中国に置き換えたら、史実と違って満州語が漢語にとってかわってしまったようなもん
文章化のしていなかったケルト語が残るのは無理にしても、ブリタニア・ロマンス語など各種のロマンス語が今に至るまで西北ヨーロッパの主要言語でもいいはずなのに 時代を通じた漢語なるものが設定出来るかどうか
現在の北京語って大清国の宮廷で話されていた北京官話が元になっているはず
日本に留学した漢人達も互いの言語が通じず、日本語で意思疎通していたというし ある意味、フン族とアッティラこそがヨーロッパの父なんだろうなと
彼らのおかげでゲルマン人達は自分達部族の結束がもたらす軍事力とその政治的意味を自覚することが出来た
目覚めたといっていい
戦い方も大いに教えられたことだろうしな >>592
後期ローマ軍は歩兵からカタフラクトとか騎兵が主力になり、
将兵の多くをドナウ河属州出身者が占めるようになったけど、
これはドナウ河属州が牧畜が盛んで乗馬に慣れた者が多いからで、
牧畜が盛んという事は農業が盛んではなく人口が希薄なので、
ゲルマン人やスラブ人にドナウ河属州が同化されてしまった。
一方ガリアやイスパニアはローマ支配により農耕定住化が進んで
人口が増大したので侵入してきたゲルマン人らが同化吸収された。 今のドイツやオランダに当たる地域は最初からゲルマン人の土地だったのかな だとするとガリアのケルト人(ローマ化してたけど)と後のゲルマニアのケルト人の運命を分けたのは何だったんだろう
ゲルマン人を飲み込んだのとゲルマンに飲みこまれたのと。ドナウ川属州とはまた事情が違っただろうし ケルト人はケルト人どうしの争いやゲルマン人に押されて移動した。
ゲルマニアからガリアに移住してガリアにいた部族らが押されて
ブリタニアやイベリアへ移住していった。
イタリアに南下してローマと戦ったりバルカンに南下して
ギリシャ人と戦いアナトリアへ移住してガラティア国を建国した。 元々居た未開のケルト人が後から来たより野蛮なゲルマン人に追い払われたり飲み込まれただけの事。
カエサルが騒がしいガリアを鎮めに行った時も原因はライン川の向こうからゲルマン人が侵入してくる
所為だったので、これを討ってライン川を越えてこないように言いつけた。ちなみにゲルマン人が進出してきた
目的はガリアよりゲルマニアの方が土地がやせていて貧しい生活を強いられたから。
民族大移動後のゲルマン人がローマ化したガリア人に飲み込まれたのは中華に侵入した遊牧民族が
中華文明に飲み込まれたのと同様。モンゴル人だけはモンゴル高原に帰ったけど。 ヨーロッパ側のフロンティアって
カエサルのガリア遠征以来、
カール大帝のザクセン戦争まで全く東に進んでないんですよね? >>603 ちょっとくらい農業が進んでて人口が多いくらいじゃ屁のツッパリにもならないってことか >>604
アウグストゥスがエルベ河まで併合しようとした。
ローマ支配を避けてマルコマンニ族がボヘミアへ
南下移住したので、討伐しようとイリュリアで
徴兵したらイリュリア人が反乱したので鎮圧した。
イリュリア人の反乱を見習いゲルマン人らも反乱、
こちらは鎮圧に失敗してゲルマン人は再独立した。 >>604
そもそもそのヨーロッパなるものはカール大帝の頃に現在にまで続く基本形が出来たんだろ
キリスト教、ゲルマン的要素、ローマ的要素からなるヨーロッパという ゲルマン人の大移動は気候変動が大きく関わってるってよく聞くね 375年フン族の襲来
376年:前秦、前涼を制圧・併合
前秦の圧力で玉突きじゃないのか? 草原の道の情報伝達速度は速そうだしな
それによる政治変動への反応も敏感そうだ >>607
でも一番の主要要素は「ローマ」であり、
キリスト教はローマのシンボルかつローマ文化の媒介のような気が
ゲルマン人はローマのフロンティアに入っただけ ローマが存在しなければイタリアと
イベリアはケルト化していたのだろうな カルタゴの動向しだいじゃないかな
なんとなく、ローマとの衝突がなければ内陸深くまで行くことはなかった気もするが >>614
言語からしてラテン語じゃないんだし、サリカ法典等のゲルマン法の影響も強いから、
そりゃないだろ
キリスト教がローマ文化のシンボルとかあり得ないでしょ
ローマの国教になったのは西ローマの終わりの方じゃないか >フン族の西進による玉突き現象
1世紀後半に後漢が北匈奴をやっつけて西方に追い払ったのが発端ってことになるな 東から西へ、北から南へ
というのが遊牧民のトレンドなのかね
西から東へ、というパターンはあまりないような気がする
アーリア人達が東に行かなかった理由も、この文脈の中にありそう アラビアの遊牧民たるベドウィンは、完全にセオリー違反だな 元々モンゴルと隣り合ってたのがレナ川流域に移動したヤクートは北へ行った遊牧民の一つに数えられるな アーリア人ではないけど匈奴と月氏は西からやって来たみたい
アーリア人とかに押されて周や匈奴は華北に侵入したらしい
月氏と烏孫が匈奴の配下になる事を拒んで西へ移動したので
東から西に逆流した >>617
日本や朝鮮では仏教が中国のシンボルかつ、
中国文明の媒介だったのと同じじゃね >>619
アレクサンドロスのマケドニアに圧迫されて東へ逃げた遊牧民も居たんじゃない >>622
マッサゲタイに圧迫されてスキタイが黒海北岸に到達したんじゃないのか?
どっちも広義の"アーリア人"だけど マッサゲタイは東から来てスキタイを追い出したのだろうか?
東からきた大月氏にサカ族は南へ追い出されたけど
スキタイが南ではなく西へ追い出されたという事は
南がふさがれていたという事でありマッサゲタイは
南から北上したのかもしれない 河西回廊で遊牧してるやつらがヒャッハーするときは、東へ向かうな スキタイが移動したのはアッシリア時代で
ペルシャがイランを統一していなかった >>619
突厥
そもそも遊牧そのものが黒海周辺で発生して日本海近傍まで伸びて来てるだろ いや、日本海に近づくと気候がやや湿潤になるから、
ツングース系諸族みたいに半農半猟みたいな生活が優勢になる
遊牧はやはり乾燥地帯で優勢だな
もちろん半農半猟部族でも遊牧民に匹敵するくらい好戦的な連中もいたが まさにゲルマンとかか
ゲルマンや女真を考えると、アイヌも大躍進する可能性はゼロではなかったと思うけど
実際樺太ではあのモンゴルを撃退したそうだし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています