フランスの歴史
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古代から現代に至るまでのフランスの歴史について語るスレです >>658
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%B7%9E_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD%E4%BB%A5%E5%89%8D)
フランスの州 (フランス革命以前)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E7%94%BB
フランスの地方行政区画 日本でも有名なマドレーヌって、ありゃもともとロレーヌ地方のお菓子だったんだよな
それが鉄道網の整備により、地方と中央が結ばれると、地方の名産品がパリに集まり、
そこでブレークするようになる。
マドレーヌのほか、ボルドー地方のカヌレ、エクス・アン・プロヴァンスのカリッソン、
北ノルマンディーのブルドロ、リムーザン地方のフロニャルド、ブルターニュのクイニー・アマン、
アンジュー地方のプラム・パイ、ナンシーのマカロンなどもそうした地方菓子。
ttp://stundenbirne.jugem.jp/?eid=628
コメルシー駅のマドレーヌ売り、20世紀初めの絵葉書 オック語文学はこのころ発展し隆盛を極めた。12世紀から13世紀、
トルバドゥール達が宮廷恋愛を詠うようになり、
オック語はヨーロッパ全土に広まった。
オック語やオクシタニアの語が現れだしたのもこの頃である。
1102年にはトゥールーズ伯レーモン4世が第1回十字軍の際にトリポリ伯国を建てている。
トリポリ伯国にはオクシタニアやイタリアから住民が集まってオック語が話され、
オクシタニアの植民地とも呼べるものであった。 13世紀のアルビジョア十字軍の後、フランス王の支配力が及ぶようになったが、
完全にフランス王権下に入るのは17世紀である。
こうした流れのなか、住民は依然オック語を話してはいたものの
貴族やブルジョワジーがフランス語を学ぶようになり、
1539年、フランソワ1世はヴィレル=コトレの勅令で
行政上での言語をフランス語に限定するまでになった。
1789年のフランス革命では地中海地域の自治とオック語の復権が図られた。
しかしこの試みはジャコバン派の反対で挫折してしまう。
一方19世紀になるとオック語文学の巻き返しが始まり、
フレデリック・ミストラルがノーベル文学賞を受賞するなどしている。 しかし1881年、ジュール・フェリー内閣の時代から学校でのオック語の使用は禁止され、
結果オック語の地位は次第に低下していく。
フランス語によるマスメディアの影響もあってこの傾向はさらに顕著である。
1999年の統計によればオクシタニアの1400万から1500万人の人口のうち
オック語を母語とするのは600万人とされるものの、
その多くが高齢化を迎えており、オック語の維持発展を求める試みがなされている。 イギリス、ドイツ、イタリア、スペインなどと同じく、
フランスも、本当は北と南では別の国だったのを、
強引にくっつけて1つにしてしまった国家。
強力な中央集権が早くから進んだおかげで、南北対立は目立たないが。
南のオクシタニアは、中世においては一大勢力であった。 それにしても、ルアーヴルにマルセイユと、欧州でも最大級の港湾都市を
北と南にそれぞれ持つフランスだが、両方とも歴史には存在感ゼロ。
隣のドイツとイタリアには、ハンブルクとか、ヴェネチア・ジェノヴァ・アマルフィとかがあって
中世から海運の中心だったのに、やはりフランス人は、
近代になるまでは陸の民たったか。 しかし、マルセイユが発展したのは18世紀の後半
歴史の長さでは、ジェノヴァとは比べものにならない マルセイユの歴史は浅いが、近郊のエクス・アン・プロヴァンスは南仏の古都 コート・ダジュールといえば現在では観光地として有名だが、中世から18世紀末まではイスラーム海賊が、
またときにはスペイン海軍が出没していた。
この脅威に対抗するため、サン・トロペは強力な海軍を保持して、フレジュスやアンティーブへ
応援に駆け付けたりした。
観光産業が起こるまで、コート・ダジュールは辺境地帯だったのである。 全世界の風光明媚なところって大体辺境だったところじゃない?
人が多いところって近代〜現代でもれなく工業化してそう >>673
大昔のことだけに、大都市といっても、たかが知れている
現代の巨大都市とは、どっちにしても規模が比較にならない >>674
北京とかと同じで、発展したのは数百年前からだけど、
さかのぼれば古代ローマ帝国からの歴史がある アヴィニョンを中心とする教皇領は教皇庁が合法的に入手したものだったから、
「朕は国家なり」といったルイ14世の力も及ばず、フランスがここに主権を回復するのは
1791年9月、フランス大革命の混乱期においてだった。 >>672
18世紀の前半には、マルセイユでペストが大流行して十万人が死んだりしている。
18世紀のフランスっていったら、バリバリの近代国家に思えるけど、
まだ中世っぽさを色濃く残してたんだねえ。 地中海リゾートの中でも、南仏のフレンチリビエラ海岸は最高峰に位置づけられている ここをフランスに取り込んだのは、歴代フランス国王の功績 1804年、ニースは住民投票によってフランス帝国への帰属を決定したが、
1815年パリ条約によりニースはサルデーニャ王国に割譲された。
サルデーニャはイタリア王国の成立をフランスに承認してもらうため、
プロンビエールの密約に基づき1860年に再びニースはフランスに割譲された。
ニース出身の武人でイタリア統一戦争で活躍したジュゼッペ・ガリバルディは、これに激怒した。
その後もイタリアによるリソルジメント・失地回復の目標にされ、
第二次世界大戦期にはイタリア軍の進駐を受けたが、
その後はフランス領として現在にいたる。 モナコ公国、通称モナコ(Monaco)は、西ヨーロッパの立憲君主制国家。
都市国家であり、世界で2番目に小さいミニ国家で、国連加盟国の中では世界最小である。
フランスの地中海沿岸地方コート・ダジュールのイタリアとの国境近くに位置する。 カンヌ(Cannes)は、フランス南東部の、地中海に面する都市の一つ。
地中海に臨むコート・ダジュールで、ニースに次ぐリゾート地。ニース西南約30km。
中世から19世紀頭までは、農業、水産業を中心とする村落であったが、
1834年、イギリスのブルハム卿がイタリアへの途上滞在したのを
きっかけとして国内外の貴族がこの地域に別荘を建てはじめ、
次第に高級リゾート地へと発展。
毎年5月のカンヌ国際映画祭の開催地として、世界的に有名である。
目抜き通りのラ・クロワゼット通りには、世界から集まる著名人や
映画俳優が宿泊する超高級ホテルをはじめ、高級レストラン、ブティックなどが並ぶ。 プロヴァンスでは、秋になると、東西に走る中央山塊と地中海の上空は
北高南低の気圧配置となり、山肌を吹き降りるミストラルは
「吹くのではなく落下してくる」
とさえいわれ、自動車や列車も速度を緩めないとひっくり返されてしまう。
そして、この氷のような突風が一週間余りでぴたっとやむと、空は埃が一掃され、
まばゆいばかりの青さに返る。 やっぱり、ヨーロッパはいいね。
「白人崇拝」と言われようとも、魅力が違うのは認めざるを得ない(笑) 江ノ島 >>>>>>>>>>>> モンサンミシェル モンサンミシェルというか、江ノ島の近くの海岸はニースに似てるなとよく思う 最近は、広島が世界的な観光地として浮上している。
外人の旅行サイトなんかを見れば、もはや
「東の厳島神社、西のモンサンミシェル」
というくらいの位置づけ。 日本も、電柱を埋めるとか、ゴチャゴチャした街並みを本気で整備すれば、
ヨーロッパに勝るとも劣らないんだが。
しかし、日本人といえども、しょせんはアジア人なので、そこまでの秩序を求めるのは無理(笑) 隣の韓国では、百済の宮殿を新築したり、新羅の寺院を新築したり、
想像力を駆使して必死で観光名所を作っている。
まさに、「歴史と伝統は、ないのなら作るニダ」の精神。
日本の地方都市も見習うべきだ。 ニューヨーク・タイムズ紙が選ぶ「2017年 行くべき世界の場所52」
日本からは「大阪」「琉球諸島」が入ってる
http://fuandstyle.com/%E5%A4%A7%E9%98%AA/post-9973/ >>693
大阪は、韓国からの旅行客に大人気
グルメの街として「鶴橋」が筆頭に挙がってるあたり、なんか怪しい記事だな? 地中海世界との玄関口であるプロヴァンスの歴史は、フランスで最も古いといえます。
Provenceという地名が「プロウィンキア・ロマーナ(ローマの属州)
"Provincia Romana"」に由来しているように、
紀元前6世紀からギリシアやローマの植民地として様々な影響を受け、
中世においてはプロヴァンス伯の領地として独立性を保ち、
15世紀末にフランス王国に吸収されるまで、独自の歴史を歩み、
言葉や文化を培ってきました。
プロヴァンスだけでユネスコ世界遺産に5ケ所も登録されているなど、
多くの史跡に恵まれているため、思わぬところで様々な遺跡に出会えます。
つまり、歴史を知れば旅を数倍楽しめるはず。 >>694
大阪で外人観光客が一番多い所は戎橋筋と梅田スカイビルだけどな 「なぜ、日本には本物の歴史ある建築が多いのに、我が国には無いニカ?」
という話題になると、決まって持ち出される反例が大阪城
「日本の城だって、鉄筋コンクリート造のファンタジー建築ニダ。ホルホルホル」
という話の流れになる 南仏がフランス王国に併合された歴史としては、アルビジョワ十字軍が有名だけど、
結局はフランス王家とプロヴァンス伯家の結婚と領地相続で決まった フィリップ2世居なかったらフランス終わってたよな
それぐらい幸運と智謀に恵まれていた 終わってたというより、始まらなかったというべきではないだろうか フィリップ2世の次は聖王として有名なルイ9世が、ますます王領内の集権化を進め、
イングランド王から多くの領土を獲得。
彼はパリ高等法院と会計院も創設。 美男王ことフィリップ4世は、キリスト教徒には評判が良くないが、ものすごいヤリ手 >>705
立ち上がって鴨居に頭をぶつけ、そのまま死んでしまった人 フィリップ4世は、王国の行政の中央集権化をいっそう強力に推し進めた。
王国財政の改善に取り組み、新たな援助金を見つけようとフランスで最初の
「三部会」を開催し、三身分の代表を集めた。
また、彼は絶えずローマ教皇と対立し、ついに教皇庁をローマからフランスの
アヴィニョンに移させた。そのため教皇はその後、1378年まで、「虜囚」状態となった。 あのままずっとアヴィニョンに教皇庁があったら、
いずれ皇帝の座もフランス王に渡っただろうし、
名実ともにフランスが欧州の中心 それこそ、江戸に将軍、京都に天皇がいたように、
パリの皇帝、アヴィニョンの教皇という体制になっただろう その理屈ならイタリアに教皇庁があるならイタリアから皇帝が出ないならおかしいんだが
絶頂期ですら破門してもクビにできなかった教皇が神聖ローマ皇帝を承認しなくてもせいぜい嫌がらせ程度にしかならない フランス革命後、貴族の館に勤めていた料理人たちは自分で町中に店を出すようになった
それまでは、一つの大きなテーブルに決まった時間に決まった料理が出され、それを食べるしか
なかったのが、この時期からレストランではメニューの中から好きなものを選ぶことも、
開店時間中ならいつ行ってもよいという画期的なシステムができた
料理人たちが貴族の館を離れて、町中でレストランや仕出し屋を始めると、フランス料理は
いっそう洗練され、また民主化されていく >>657
むしろ逆だろww
こうして、自然的・地理的事情と深い関係を持ち、人文歴史的に長い歴史をもった地域区分が解体され、
これによって地方の土地に根付いたアイデンティティ・地方文化が、自治意識まるごと完全破壊され、
地方住民がパリの特権階級の「不可分一体の共和国」に隷属するという、近代フランス共和国の地方統治が成立することになる。 七年戦争後、フランスはカナダを諦め、カリブ海の砂糖を算出する島々を選ぶことにした。
この選択を、哲人ヴォルテールは、
「このいくばくかの雪の大地を高い維持・防衛費をかけて守るよりも、小さくても豊かな群島を
確保するほうがずっとよい」
と、熱烈にほめたたえている。 >>712
バルザックやスタンダールの小説を見ると、
19世紀前半のフランスは、まさしく近代国家そのものだ。
銀行とか郵便とか、ほぼ現代に近い。
江戸時代の日本がかなり近代的だったとはよく言われるが、
やはり同時期のフランスは圧倒的に先進国。 フランスで、現代的なデパートの創始者ブーシコーが「ボン・マルシェ」を開店したのは
第二帝政の始まる1852年のこと。
「定価販売」「出入り自由」という画期的な商法を打ち出して大成功をおさめた「ボン・マルシェ」は
女たちに消費の悦びを教えた。
かつてはショーウィンドーもない薄暗い店内に価格もわからずに入っていって買い物をしていたが、
いまやついふらふらと中に入っていっても、買わずに出てくるのも客の自由になった。
もっとも、たいていの客は商品の誘惑に負けて、つい「衝動買い」をしてまうが、
それこそがデパート側の狙いだった。 目の前の箱も使わず何も知ろうとしない
日本は駄目、白人様はすばらしいと今日もホルホル >>685
そんなもん、関東平野や仙台平野なら冬の日常のことだろうが…
おまえさ、明治時代のおフランスかぶれホルホルみたいな文章、それもコピペ臭いやつばっかりを書いて、
恥ずかしくないの?このネット社会で、ただ嘲笑されるだけだよ?
昭和時代の木村尚三郎ですら、おフランスかぶれと笑われていたのに。 フランス革命の時に
革命軍が流布したと言う「王族はフランク族で、正統原住民の俺らケルト人を支配してきた。(だから、ゲルマン野郎を追い出せ)」
ってのは民族的に正しい主張なの? >>719
ラテンやゲルマンの血も庶民に相当混じってるし正しいかは微妙
ちなみに他の地域と違ってほぼ(島)ケルト系のブルターニュは王党派が多かったそうな 混血が進み過ぎてるし、ケルトの末裔といえるほどケルト人を継承してるわけじゃないけど
文化的には先祖はケルトってことになっているらしい
でもその実はケルト人が好きというより、ゲルマン系が大嫌いなんだとさ 日本でいえば縄文人と弥生人みたいなもので、区別するのは不可能 ケルト人って世界史の資料だとヨーロッパ大陸に広がってたけど
ゲルマン人に押されて駆逐されて今やアイルランドなどハシッコにしか住んでないと思ってたけど
実はゲルマンと同化して残ってたってこと?
分からんもんだなあ インディアンとかアイヌみたいに人種隔離政策取られなかったら割と同化してくもんだよ
んでアイデンティティの強い種族が勝つ
中華王朝の場合も春秋・戦国じゃ秦なんて異人の国とか言われてたけど始皇帝後に別に取り上げられなくなる、みんな漢族になる >>725
イングランドだってノルマン人が来たからアングロサクソンが居なくなるという事はなかった。 というか、ドイツ第三帝国が「俺らゲルマン人は〜」とか言ってるの聞いたときは違和感しかなかった
つってもお前らの周り(イギリス、フランス、イタリア)だいたい大移動したゲルマンの末裔じゃん?
それでアイデンティティ気取ってるつもり?
そんなんじゃ甘いよ?
みたいな
フランス人に行ったら「一緒にするな」って怒られるのか
でも言語体系的に間違いなく同祖っちゅーか・・・・ >>728
フランスとイタリアはラテン化されている
ヒトラーは、イギリスについては高く評価していた フランスは、いろんな面で中国と似ている
国家規模は桁違いだが 東久邇宮稔彦王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E7%A8%94%E5%BD%A6%E7%8E%8B
フィリップ・ペタン元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(オレンジ計画も参照)」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。
フランス人親切ワロタwww オランダ人も親切だぞ
「ペリー提督のアメリカ艦隊が日本に向かっているから、気をつけろ」
というお手紙を、わざわざ国王が送ってくれた 気をつけろというか、オランダが仲介するから開国しろと言って自国の権益を守ろうとしたんだろ。 フランス史の原点、ガリアのヴェルキンゲトリクス
ウェルキンゲトリクス(Vercingétorix [1]、紀元前72年 - 紀元前46年)は、ガリア(現在のフランス)に住むケルト人(ガリア人)の一部族であるアルウェルニ族の出身で、古代ローマのガリア侵略に対して抵抗した人物である。
フランス最初の英雄と称される。ヴェルキンゲトリクス、ヴェルチンジェトリクス、ヴェルサンジェトリクス(フランス語読み仮名転写)とも表記される。 西洋史上、1、2を争う大英雄、ローマのユリウス・カエサル。
深紅の大マントをまとった常勝将軍カエサルは、無敵のローマ軍団を率いてガリアに攻めこんだ。
カエサル著「ガリア戦記」は、現代ならノーベル文学賞まちがいなしのスーパー名著。 しかし、楽勝かと思われたガリア侵攻で、カエサルは思わぬ大苦戦を強いられる。
なんと、バラバラで内部抗争に明け暮れていたガリア人は、若き族長・ヴェルキンゲトリクスのもと、結束してローマ軍団に立ち向かってきたのだ。
軍事技術において圧倒的に劣勢なガリア軍は、各地でゲリラ戦術を展開し、しぶとく抵抗した。 フランス人はゲルマン人嫌いだから自分たちの祖先はガリア人である!ってプロパガンダにしてるけど
正直フランク族ってゲルマンですよね 北イタリアもガリア人の国で、ローマ人からは異国と見なされていた フランスもイギリスもローマ帝国の版図であった事を誇りにしている
ローマの文明に浴した者VS野蛮人ゲルマンの構図 朝鮮人が、明や清の属国だったことを誇りにしてるようなものか? 市民権もらえたんだから話が違う
朝鮮人で例えるなら
日本国籍が取れた事を誇りに思う帰化組の方が近い >>747
イングランドによるアイルランド差別もそれに根差している だがちょっと待ってほしい。アングロサクソンはローマ化を拒否したゲルマン人のくせに。 中世中期初めの王権は、フランスよりむしろドイツのほうが強力だったのに、
カペー朝の歴代の王は比較的長命で個人的資質もあり、そのうえ、すべて男子後継者に
恵まれていたため、生前中に後継者を決めることができた。
この「カペーの奇跡」がなかったら、王位継承問題に諸侯がつけこみ、フランスは
ドイツのような状態になっていたかもしれない。 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
YW1OI >>752
つまりフランス人の生殖能力が優れていたということだな メロヴィング朝はフランスの歴史でカロリング朝はドイツの歴史という感じがするよな
政治の中心地がネウストリアからアウストラシアに移動したせいだろうか? >>752
ドイツはそういうのが原因ではなく選挙王制にあると思うぞ >>756
メロヴィング朝がフランスの歴史に見えるのは、パリが首都だったんだから当然だろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています