【プロイセン】フリードリヒ大王【啓蒙専制君主】
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今年で生誕300周年を迎えるフリードリヒ大王。
18世紀を代表する卓越した君主である大王を語り尽くそう。
また大王に関する伝記・書籍についても情報あればお願いします。 大王って言うほど偉大なのか?このホモ犬は
大王っつたらアレクさんとカメハメハとデデデがいるが
それに伍する格があるのだろうか ロシアのウスラ馬鹿ピョートル3世のおかげで命拾いしたラッキーボーイw 親友と二人で逃避行 しかし、捕縛されその死を生涯悔いた。
美人の嫁さんをもらったが、子供どころか全く手を出さなかった。
姉以外の女を見下し、馬鹿にしまくっていた。
士官の膝枕で仮眠をとったりしていた
導き出される結論は・・・・・・・・・・? >>3
けどピョートル3世は大王ファンだったんだよね。
ラッキーってだけじゃなくカリスマ性で助かった部分もあると思う。
けどピョートル3世といいヨーゼフ2世といい大王ファンはあんまりぱっとしない印象。
大王様∩( ・ω・)∩ばんじゃーい
ピョートル3世は、エカテリーナ2世が自分達を正当化するために貶めたせいもあるんだろう。 ドイツじゃこれといった大英雄がいないから相対的に持ち上げられてる感
赤髭皇帝は情けない最後だし、白ひげ兜は戦争指揮してないから派手さにかけるし、ちょび髭伍長はユダヤが怒るし
結果的に髭無し大王がドイツ屈指の英雄ということになっている エカテリーナ2世をロシアに輸出したホモを語るスレはここですか? 大王「カッテよ、ピョートルとヨーゼフの両手に花となっても
君のことを忘れたことはないぞ」 アレクサンドロス大王にせよ、フリードリヒ大王にせよ、
偉大な人物は何故たいてい男色家なんですか? アレクサンドロス大王は寵妃もいたし
アケメネス朝ペルシャの王女とも政略結婚をしているよ
男色もしていたならホモではなくバイでしょ このゲイ術家王は、王なのに子供を残せとかそういう声はなかったのだろうか
このシスコンホモがマリア・テレジアと結婚して
男子をもうけていたら歴史はめちゃくちゃ変わったな 男子をもうける以前に、その夫婦仲が良好だったらっていうだけでも歴史が
というか当時のヨーロッパ地図がすさまじく変わったろうな。 2人が結婚したらオーストリア継承戦争時に
フリードリヒ2世VSフランス大元帥モーリス・ド・サックスの
ドリームマッチが見られたな >>16
当時どころか後世にも相当な影響あっただろうな。
フランス革命が起きなかった可能性も結構ある。
少なくとも王妃があのマリー・アントワネットでなかったら、
ああいう形にはならなかったと思う。 フリードリヒ大王とマリア・テレジアが結婚してたら、18世紀中にドイツは統一されていただろ。 今、歴史群像の7年戦争とこ読んでる最中やけど、凄まじいな(笑)
コリーンの敗戦で俺なら気持ちがおれてるw けどコリンの後に有名なロイテン・ロスバッハで勝ってるんだよね。 >>20
フリードリヒ大王は大の女嫌い。
女と結婚なぞ政略上も無意味! 王のそういう偏見を矯正するだけで、5桁か6桁の数の兵隊が死なずに済んだと思われ >>25-26
私はそもそも彼が言われるほど女嫌いだったかに疑問持ってるけどなあ。
兄弟で一番仲良かったのは姉だと言うし。
ホントに女嫌いだったら姉も嫌いだろう。
マリア・テレジアに関しては「父親が死んだら周辺諸国が戦争始めるのも読めずに
先祖代々の領土も持てない男と恋愛結婚した女」
という意味で見下していた可能性が高いと思う。
彼の合理主義的精神からすれば「よりにもよってフランツと」だろう。
フランツ自体は良い奴だと評価していたとは思うけど、
現代流に言うと「恋愛と結婚は別」みたいな。
より正確には「自分との結婚のために、フランツに先祖代々の領土を捨てさせた女」
だからな、マリア・テレジアってのは。
父親の方はフランツに帝王学の教育受けさせたがマリア・テレジアには受けさせず、
ならば父親が死んだらフランツに権力持たせるかというとそうはならなかった。
実際にはフランツからの又聞きで勉強していたらしいが、
プロイセンという遠方からでは分からない。
君主としてのまともな教育を受けていないという認識の女が権力握ったら、
十八世紀当時としては見下したくもなるだろう。
当の女性がいる宮廷ではそれを言ったら自分の首が危ないが、
フリードリヒはプロイセン国王だから。
恐らく、内心で彼に喝采送ってた男もいただろうと思う。 面白いの見つけた
ネットの占いで大王の生年月日とタイムゾーンをドイツに設定
で出てきたのがコレ
あなたは外見からは強さを感じる人ではありませんが、非常に自尊心が高く、頭ごなしの命令や指図を嫌います。
また愛情面に薄い傾向があります。
弟か妹の生まれか、もしくは分家の生まれになります。
また、独立精神が旺盛で、たとえ長子であっても親のあとは継がず、仮に継いだとしても、
自分なりの方法で親とは別の方向へと転換させていきます。
最初は苦労や試練が多い傾向にありますが
努力によって二十代後半から次第に順調となり先天的な金運の弱さをカバーして、
安定した生活を営むことができます。
生家を離れ独立することが多く、養子となる場合もあります。
たいへんな 努力家でがんばり屋ですので、 何ごとも自分が納得するまでやらないと気が済まないところがあります。
発展気運を備えていますが、どちらかといえば金運につきがあるとは言えない方なので、
本業以外に手を広げると失敗することもあるようです。 ↑↓啓蒙に合わない単なる占いです。ネタスレと思ってください。
同じくマリアテレジアさん タイムゾーンはオーストリア設定
クールな印象で、あまり目立つタイプではありませんが、
内面には激しさを秘めています。
知謀に優れており、表舞台よりは裏方で活躍する傾向があります。
また、自分に同調する人には非常に親切ですが、
反発する人に対しては、徹底して反撃をする傾向があります。 彼が最も愛した男色相手は何という人物ですか?
少年時代ではなく、即位してからの話だけど。 マリア・テレジアとポンパドゥール夫人はともかく、ロシアのエリザヴェータ帝はなんで
あんなに大王が嫌いだったんだろう。単なる感情の問題か?
・元々プロイセン人の貴族だから幼少の頃から評判を聞いていた
・プロイセン貴族時代に王宮のサロンとかで女嫌いの大王に嫌味を言われた
・夫が大王大好きで戦争止めて講和までしちゃって周囲から突き上げくらって肩身の狭い思いをした
このへんだと思ってるが真相は知らない ってエカテリーナさんの事じゃなかったのかごめん見間違えた 「フリードリヒ」は受験生の最大の敵
つか何で外人はあそこまで個人名に無頓着なんだろね
「東洋と比べると、家名よりも個人名を大切にする〜」
みたいな事習ったけど絶対嘘だわ >>37
何でも先祖との連続性を確認するために
先祖と同じ名前にするんだとか。
ハノーヴァー朝のジョージ王連続とか
ブルボン朝のルイ王連続も原因はこの辺でないかと。
日本で言うなら徳川氏が歴代「家」の字を引き継いだのと似てる。
古代ローマに比べたら個人名増えた方だから文句なしな。
あっちには個人名8つしかない。だから姓やあだ名で呼ぶ。 >あっちには個人名8つしかない。
プロイセン王の個人名フリードリヒとヴィルヘルムの2つじゃないですかー 中国じゃ、皇帝と同じ発音の字まで変えさせられるのにw ドイツの貴族で、一族全員同じ名前の家ってあったよね。 >>41ロイス家だね
男子は全員「ハインリヒ」と名付けられる
一族のハインリヒ72世は序数が最も大きい君主としてギネスブックにも掲載されている
ちなみにヴィルヘルム2世の後妻がロイス家の姫 カーライルの『フリードリヒ大王伝』って邦訳ないの・・・? >一族のハインリヒ72世は序数が最も大きい君主としてギネスブックにも掲載されている
もう個人名の意味をなしてないじゃないかw ハインリヒロイス家にしちまえよ!! >>37
フリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝候
フリードリヒ1世
フリードリヒ=ヴィルヘルム1世
フリードリヒ2世
フリードリヒ=ヴィルヘルム2世
フリードリヒ=ヴィルヘルム3世
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世
ヴィルヘルム1世
フリードリヒ3世
ヴィルヘルム2世
こんなに受験生にとって覚えやすい王朝もそうそう無いですよ そのリスト内で友達になりたいのは
大選帝侯、ヴィルヘルム1世皇帝、フリードリヒ3世くらいかな
後は戸塚ヨットスクールの校長、ドイツ版9代将軍、ゲイ(2人)、女たらし(2人)、ドン・キホーテ…
どれもヒドイ性格だ
エリザヴェータはピョートルの娘だけど
フリードリヒ大王たちは(北ドイツ諸侯)はドイツ系の君主を帝位につけたくていろいろ画策してたし
アンナ女帝なんかにも軍事顧問団(マンシュタインやヴィンターフェルト)を送って影響力を及ぼそうとしてた。
つまりロシア宮廷内では反エリザベータ勢力を支援してたのさフリードリヒ(大王)は
だからエリザベータに好かれるわけがない。
>>38
それエカティリーナのことだからエリザヴェータはその姑。
エリザヴェータを売春婦呼ばわりしたとどっかで読んだ記憶が、
まあ私生活はかなり乱れきっていたらしいけど。
7年戦後には懲りて後釜のエカティリーナにはお世辞を言いまくったって、
中公文庫「世界の歴史・専制君主の時代」に書いてあった。 エリザベータは両親共にロシア人。
エカテリーナはアンハルト・ツェルプスト家令嬢で
プロイセン軍騎兵大佐ゲオルグ・ルードヴィヒ(・ヘルツォーク)
フォン・ホルシュタイン・ゴットルプ公爵に嫁ぐはずだったのに
フリードリヒ2世自体がロシア皇帝(この人もホルシュタイン・ゴットルプ家)に嫁入りするように
計らったんだから態度が違って当然だわ。 大王より兵隊王の方が君主としては優れてると思うがな ロシアのお人好しに助けられたのも
戦術で絶対的危機を7年間凌いだからこそ >>54
志向も才能も違うけど有能な親子だった、というだけでは?
どっちが有能かなんて本格的によくわからんし、特にこの2人 >>47
同じ名前ばかりでも、かえって区別がつかないような…。 >>54
でも名実ともに「プロイセン王」にしたのも、
肥沃なシレジアを手に入れたのも大王だからなあ。 シレジアの貴族層にプロテスタントが多くて、
さらにカトリック貴族もすこぶる日和見主義だったのが功を奏したね
鉱山を制した邦がドイツを制したのだね どう考えても大王の方がすごいだろ
ちょっと斜めに構えてるだけな意見はいくない つか兵隊王の功績も大選帝侯のレールの上だからな
それは大王も同じだけど プロイセンがドイツを統一できたのも、シュレジエンとラインラントという2大工業地帯を押さえていたのが大きかったし。
オーストリアもベーメンがあったけど、あそこはチェック人が多い被支配地域だったからな。 >>59
シュレジエンの場合、ハプスブルク家はそこまで先祖代々の主君ということでもなかったからね。
もともとホーエンツォレルン家によって領有されていたり、相続される予定だった諸侯領を、
ハプスブルク家が三十年戦争やその後の法令違反を理由に分捕ったという話なんだよね。
そこがベーメンと違うところで、だからプロテスタント貴族も多かったんだと思う。 15世紀まではポーランド王とベーメン王とブランデンブルク選帝侯その他で飛び地だらけの分割してた土地を
ハプスブルク家が時間を掛けて聖ウェンセスラスの王冠の元に回収、統合してるから
ブランデンブルク家にも相応の取り分返せって主張は存在してるんだよね >>66
だからフリードリヒも、オーストリア継承戦争の最初は
というか途中までは、シュレジエンの一部である
「もともと自家所有だったり相続協定結んでたりする諸侯領」しか要求してないんだよね。
恐らくシュレジエン全体からすれば半分行かない程度。
オーストリア宮廷で「その程度なら譲ればいい」という声が多く出たのも
一理あるという微妙なライン。
緒戦で負けた時点でマリア・テレジアが当面の奪回を諦めてれば、恐らくプロイセンも
当初の要求領土しか取らずに終わって、史実よりオーストリアが取られた面積は
少なかったと思う。 それなのに自国でも後代の宰相にシュレジエン泥棒扱いされる大王カワイソス うん、重要
プロイセン王国の人口のがシュレジエン獲得で1.6〜1.7倍程に膨れ上がったし
シュレジエンは鉱工業が盛んで単なる人口増ではなく鉱工業力まで一気に手に入れたことになる
以降のプロイセンの拡大はシュレジエンによって大いに支えられた >>67
財布に三万円+色々カード持ってる金持ち相手に、一万円恐喝しようとしたら拒否されたんで,
ぶん殴ってカードとか含めて財布ごと持ってったみたいなもんだからなあ。
言うなれば恐喝から強盗に変わったみたいなもんで、泥棒呼ばわりも無理ないとは思う。
ただ、相手の方も恐喝時点で応じてれば、被害が少なかったってのも事実。
これ以上の話については、その協定結んでた諸侯領が
シュレジエン全体でどれくらい重要だったか、ってのにも寄るから
どっちがどうとかは言いづらいと思ってるけどね。
ただ、フリードリヒの当初の要求に関しては、オーストリア側にも交渉の余地は
あったはずだと思ってる。
父親同士の話になるけど、プロイセンが要求していたユーリヒ=ベルクを
オーストリアがフランスに獲得させた事情もあって、
フリードリヒの当初の要求は「ユーリヒ=ベルクの代わりを寄越せ」的な
意図が含まれていたという見方も出来るんだよね。 フランツ1世とフリードリヒ大王との間で、妥協案がまとまりかけていたのに、マリア・テレジアがプロイセン相手に
妥協は不要とか言って、ぶち壊したみたいな話を聞いたな。 確かに文化人、戦術家としては一流だけど
外交・戦略は二流
ホモで子が無かったため、他国の王室と閨閥関係を築け
なかったのは国王失格 いや男の愛人もいないからホモですらないだろ
性的に不能だっただけなんじゃ? 若いころ女遊びでやらかして不能になったとかいう説がけっこう信憑性ある啓蒙専制君主様 >>73
ヴォルテールは愛人じゃなかったの?
同棲までしたのに。
>>1
大王を扱った映画では「Mein name ist Bach」
(日本未公開。DVDはPALしかなく、英語字幕で見た)
J.S.バッハが「音楽の捧げもの」を作曲するいきさつをあたりの話。
大王はバッハに構ってほしくて仕方ないオーラが出まくり。
愛に飢えた子供状態でした。 たしかにラッキーボーイだけど運も実力の内なんでセーフ ヴォルテール 1694年生まれ
大王 1712年生まれ
同棲するようになるのって大王が40代、50代の頃じゃなかったっけ? >>73
性に関して淡白だっただけかと。
英国人の高級娼婦あてがわれたときに「言葉のわからん相手とやっても仕方ないし」的な理由で断った、という逸話があるらしいしな。
嫁に冷たかったのも、ピロートークを交わす相手としてつまらんかったからだと思う。 ぶっちゃけ、女性に構うのが面倒ってだけだよね
もしくは自分の脳内に描いていた理想の女性像と現実の女性に折り合いつけれなかったか
現代でも「何でこの人が?」って感じで独身貴族やってる人もいるわけだし
でも、弟の方はガチで同性愛者なんだっけ? >>71
それは例えば北海道をロシアに占領されて、どうしようもないからそのまま和平条約を結ぼうか
と言うようなもの。納得できるかよ。 >>73
愛人はいないけど、年上の男性と妙に親密じゃね?
まあシスコンだったから女を嫌いではないと思うけど。 幼少期に親との関係が上手くいかなかった人は、虐待の連鎖を恐れて親になるのを避けることがある。
若いうちから母親の子作り要求にはぐらかしたり、子供をほしがってなかった様子があったし、
女に興味なかったから子供を作れなかったんじゃなく、
子供を作りたくないから女と距離を置いていたのかもしれないな。 >>83
何らかの理由あって女性を遠ざけてるだけで
基本的には気さくでいい人なんだろ >>73
家出事件で処刑されたカッテ少尉とできていたという説を聞いたことがある。 フランスとロシアの糞ビッチを糞ビッチだと本当のこと言ったら女嫌いってことにされましたとさ
まぁ国際舞台で暴言しまくるってどうかと思うけど
ビスマルクにも受け継がれてる暴言DNA >>87
七年戦争史の自己弁護は割と面白い
つーか、ロシア女帝ってあそこまで無能扱いされるような人だったのか? ペチコート同盟に追い詰められて自殺寸前まで行った男の恨みつらみ、と理解するが。 フリードリヒは女性を遠ざけてはいない
家族とかでも親しいのはお姉ちゃんや妹や姪っ子ばかり
にも拘らず女に手を出すことはしないから、「女っぽい性格」だと思われた
まあ別にホモでもいいんじゃね、もうだいぶ前に死んどるし エリザヴェータが急死せずあと1年でも生きていれば、
プロシアは戦争に敗北して分割され、フリードリヒは
無用に女の恨みを買って国を滅ぼした道化として史書
に記されたろう。
まちがいない。 >>88
グレート・ブリテンが島だと知らなかった >エリザヴェータ 幼少期のトラウマといい女を敵にまわすといい
漫画の悪役キャラが成り立っているのに
生き残ってるとこがすごい >>91
そう、だから親父の兵隊王の方が堅実で、王らしい王なんだよ
何故かこのスレでは兵隊王の偉大さが支持されて無いけど
自作自演とは違うからね ランク的に
大王>大選帝侯>>>兵隊王>>>>>その他よくわからん 大選帝侯の時のプロイセンはアフリカ植民地まで持ってたしな 軍人王は王子時代の大王への虐待と、友人の処刑が有名だからなあ。
国王としての評価と個人的な行動のと評価は別なんだろうけど、
後者への嫌悪感から全社へも厳しくなるって人は多いよな。
逆も良くあるけど。 >>96
言葉が足りなかった、偉大さにおいて
兵隊王>大王 が支持されて無いと云いたかった
大王が功績を残せたのは最終的に幸運、大博打を打って大勝ちしたようなもの
兵隊王の功績は着実に積み重ねた、運に左右されない堅実なもの
君主として必須の内政外交の素養は明らかに兵隊王の方が優れている
大王が優れている、戦術や文化的素養は君主必須のものじゃない その意見はあまり支持されないだろうね
やっぱり大王でドイツ帝国のレールが敷かれたと思う
事態を大きく動かすには博打も必要なわけで
兵隊王の路線じゃ中堅の雄邦どまりだ >>101
運頼みでも、一歩間違えばプロイセンの滅亡だったとしても、
結局は最終的に残した功績が一番大きな評価のし所じゃないかね。 >>100
カッテ処刑は当然だろ、王位継承者である王子を
潜在的敵国である英国に連れ出そうとしたんだから
国家反逆罪が適用されて当然
兵隊王自身は妾も持たず、夫人一筋子供14人も作った愛妻家
大王への虐待も多少過剰なスパルタ教育ってだけで、問題視する事じゃない
ケチで巨人兵好きは御愛嬌 >>101
オーストリアからシュレジエンを分捕り幸運まで含めて七年戦争を生き抜き
さらには大国ポーランドを分割した大王の功績を考えると
軍人王は所詮と言ったら語弊があるかもしれないが、所詮自分で戦わなかったからな
準備はしたが、最終的に物事を成すことの出来る人じゃなかった
礎になる人は尊いけど、実際に成功させる人はもっと偉いと思うよ
その成功の礎を作った人を忘れべからず、という警句は必要だが
成功者より準備者の方が偉い、というのは当時の欧州の状況考えると
より有名でない方を評価する楽しさで公平性を欠いた視点だと言わざるを得ない >>104
軍人王なんだけどちょっと軍事苦手かもしれないんだよなぁ
軍を養うだけの基盤を用意するのは得意だったのだろうけど
軍を組織することはともかくその中身がgdgd
完全に内政の人だったんじゃないかと思える
巨人兵もさることながら通常部隊もオーストリア継承戦争で
軍人王の整備したものをそのまま使ったら問題続出
戦争初期に大王が刷新して何とか戦える形にしてったわけだし >>104
いや、カッテの件はともかく子供への虐待は多少過剰ってレベルじゃないぞ。
大王は首を絞められて窒息しかけたことまであったし、軍人王自身が自分が父親にこんな目にあわされたら自殺すると息子を皮肉ってる。
大王の姉も満足に食事も与えられなかったとか一日中罵られたとか言ってる。
カッテのしたことは確かに罪だが、逃がさないと王子が死ぬと思ったとしても不思議のないレベル。 >>104
子供が多いことや妾がいないことと、愛妻家ってのは違うぞ。
子供の数の多さはぶっちゃけセックスの回数の多さだが、
セックスの回数が多いからって相手への愛が不快とは限らない。
愛はなくても子供はできるからな。 >>102、103
そうそう、大博打の成功体験が忘れられずに
20世紀なってからもドイツは2回もやらかしたんだよ
大王やビスマルクは英雄で
ヴィルヘルム2世やヒトラーは愚か者
7年戦争で大王が取った戦略は
ヴィルヘルム2世やヒトラーの取った2正面作戦に比べようも無いほど
無茶苦茶、勝てたのは幸運 軍人王の王妃、大王姉弟の母親は、大王と同じように音楽や文学を好んでいた。
息子の芸術への傾倒をあそこまで虐待で抑えつけた軍人王が、
同じ趣味の王妃と愛情を育めるはずもない。
王を恐れた民衆を杖で打つといった奇妙な行動もあった。
確かに軍人王は大王が残した功績の土台を作りはしたし、王として評価できる点も多々あるが、
だからって過剰に美化するのもどうかと思うぞ。
欠点が多い人だったのもまた事実だろう。 >>109
幸運だろうと勝てば英雄、負ければ愚か者ってのはなんだってそうだろう。
戦略が上か下かなんてて過程の話よりも、結果として勝ったか負けたか、
何を残したかの方がよっぽど重要。 >>107
文官化した江戸時代の武家教育でも
虐待としか思えないぐらい鍛えるのはよくあったと聞く
あの時代、親父に殴られるずに大人になる男なんぞいないわw ゾフィー・ドロテアは趣味から夫婦生活、息子の教育問題に至るまで
フリードリヒ・ヴィルヘルムとは正反対で対立しまくってたぞ。
愛妻家だなんて話がどっからでてきたんだ。 >>109
いや戦略自体は正しい
ただオーストリアは正しい戦略で容易に屈服させられるほど柔弱な相手ではなかっただけだ 子供の教育問題で対立するのは夫婦仲の良い悪いは関係無いぞ >>112
教育として殴るのと虐待、ある程度の暴力と過剰な暴力とは全く違うだろう。
軍人王のそれは明らかに行き過ぎ。
暴力に関して異常な話は大王以外に対しても残っているし、
後年に至るまで娘から批判されている。
軍人王を褒めるなら、大王にも認められている東プロシアの件とか、
実際に残した他人にも認められている功績がちゃんとある。
欠点や暴力的な面を、無理に美点にして褒めまくっても反感買うだけだぞ。 この時代の王侯貴族にとって子供の数は駒の数。
子供を沢山作るのは別に愛情からだけじゃなく、性欲処理と駒製造のためもある。
フリードリヒ・ヴィルヘルムはケチで、聖書を息子に読ませまくってた人間だから、
愛人という信仰に反し、金もかかる存在を疎んじたためだろう。
それでも性欲はあるし、子供という駒は必要だから、それが妻ひとりに向けられた結果が子沢山。 息子に散々暴力を振るった後に、
「父からこんな目にあわされたら、私なら自殺するだろう」なんていう父親が、
息子を教育のために殴っていたなんてよく思えるな。
自殺しかねないような酷い暴力だっていうのは、暴力振るった本人すら認めてるぞ。 完璧な人間なんて歴史上の人物にひとりもいないんだから、
長所と短所、良い話と悪い話と両方ある人間を、
無理に短所や悪い話を消してまで評価を上げようとする必要はないだろう。
長所と良い話を上げれば良いだけ。
短所や悪い話を無理に長所や良い話にしようとすると、
余計に悪い所がよく見えて逆効果だよ。 >>115
ゾフィー・ドロテアがフリードリヒに授けようとした教育は、
彼女自身の育ちと趣味を反映したフランス語とフランス風のもの。
そういうのを全否定する態度は、息子の教育問題のみならず、
妻の育ちや性格、趣味といったものを
フリードリヒ・ヴィルヘルムが嫌悪していたことに端を発してる。 >>116
なりゆきで軍人王の暴力性について擁護したんだが
まぁ、家庭人としては確かに問題があった人だけど、君主必須の素養じゃないし問題無い
農奴解放とか魔女裁判廃止、ユグノー難民の植民とか民政家としても良い事やってんだよね
殖産興業にも成功してるし、一方で軍政改革もしてるに国庫を閏わせてる
王室費を大幅カットしたりして兵隊王自身も国や国民の為日々苦労してるのに
その国民達からは怖がられて嫌われるなんて、チョット兵隊王が可哀想でさ >>117
そう、王侯貴族の子作りは国家間の閨閥作りの駒作りだよ
だからそれを放棄した大王は君主足る資格は無い まあ、あの時代の民衆は国王がどんな政治してたかなんて知らないんじゃね?
東プロシアの方は当時は飛び地だからもっとベルリンっ子には遠い話だっただろうしな。 >>120
兵隊王のフランス嫌いは父親の影響だろう >>122
子作りの放棄は君主として「欠点」ではあるけど、「資格喪失」じゃないだろう…。
大王にしろ軍人王にしろ、いくらかの欠点があるからといって国王としての資質が全否定される訳じゃない。
歴史も人間も、0か1かでは図れないよ。
特に大王は、子作りの件では失敗しても、他の点で沢山成功して功績も残してる人物だし。 >>125
子供を作れない、出来ないじゃなくて
子供を作らない、作ろうとしない、だからなぁ
自らの意思で正統な王位継承者を作らず
閨閥による外交戦略にも貢献しようとしないんだから
王としての資質は無いよ >>126
いや、だから子供を作らない、作ろうとしないなのも知ってるし、
王として欠点のも同意なんだが、全否定することはなくね?ってこと。
王としての資質も功績も、大王は他に沢山残してる。
子作り放棄は欠点のひとつだけど、
子作り放棄してたからって他の資質や功績がなくなる訳でもない。
子供作らなかったけど有能な為政者もいれば、
子供は沢山作ったけど凡庸や無能な為政者もいるだろうし、
王としての資質も功績も、ひとつじゃなくて様々だよ。
それをいうなら軍人王が、せっかく作った大事な正統な王位継承者を、
「父からこんな目にあわされたら、私なら自殺するだろう」
なんていうほど暴力を振るっていたことだって、子供の駒の保持には問題だった訳で。
子供作っても死なせてたらいかんだろ。 子供を作らなかったけど有能な為政者・・・・
マムルーク朝のような世襲を行わなかった王朝以外で
そんな為政者って誰がいた?
同性愛寄りバイだったアレクサンドロスでさえ子供は作っただろ >>127
多少手荒な教育に耐えられないような心身虚弱な世継ぎならそれまで事
何の為に14人も子供を作ったのかと 政治よりも軍事よりの人物だけど、アレクサンドロス繋がりで「北方のアレクサンドロス」
スウェーデン王カール12世を挙げてみる。
生涯独身で王妃すら娶らなかったんで、王位は妹が継いだ。
まあクラウゼヴィッツに酷評された人なんで、そんな第人物でもないのか? >>129
だから軍人王の虐待は「多少手荒な教育」じゃなかったと言ってるだろう。
軍人王本人が私なら自殺するようなふるまいだと言ってるし、
カーテンの紐だかで首絞められるようなこともあった。
当時の教育が厳しかったことを容れても教育のとしては常軌を逸している。
これに耐えられなかったとしても、それを心身虚弱というのは無理がある。
つーか現代の話を持ち出すのはなんだが、今の児童心理学の方でいうと、
虐待や暴力を伴う教育は子供の心を強くはしないし、逆に心身虚弱の原因になるぞ。 北方の流星王か、あれこそ戦争マニアだな
戦争以外に功績あったか?
本家アレクサンドロスにしろ、カール12世にしろ、大王にしろ
共通する匂いがするわ >>129
フリードリヒ・ヴィルヘルムは確かに14人の子供を作った。
しかし子供が幼児のうちに死ぬことが多いこの時代の常として、
長男、次男、次女、四男は早世した。
そのうち男子は三男のフリードリヒの他、四男、五男、六男の4人。
しかも六男はかなり遅く生まれていて、例の逃亡事件の年の生まれ。
自殺しかねない暴力や紐で首絞めるような意味不明な危険な暴力を繰り返せるほど、
王位継承者としての持ち駒は多くなかった。
六男はその頃産まれてないし、フリードリヒが死んでいたら残りは二人程度しかいない。 すまん。
三男のフリードリヒと、五男、六男、七男の三人だった。
七男か逃亡事件の年の生まれな。 大阪商人の話だが
無能な息子を世継ぎにするくらいなら
娘に有能な番頭手代(部下)を入り婿に迎えるんだそうだ
血統も守られるしな >>135
だから、虐待に耐えられないことと無能は全く違うだろう。
軍人王が加えていた虐待は耐えられないことが弱いというには過剰すぎるたし、
自分が父親からこんなことされたら自殺するっていったのは虐待した軍人王本人だぞ。
息子を虐待していたからって別に難民植民とかの功績がなくなる訳じゃないから全否定にしならないと前もって言っておくが、
それでも軍人王がしていた虐待は教育しして擁護できるレベルじゃなかったし、
そういうところはまぎれもなく欠点だよ。
人間全否定もできないが、全肯定だってできるものじゃない。
擁護できない欠点を擁護して完璧人間のように曲げても意味がない。 >>135
日本の大阪商人と、ヨーロッパの国王とじゃ違うだろう…。
男子が早世して、娘しか生き残らなかったオーストリアはどうなったよ。 >>135
無能じゃなかったから大王と呼ばれてるんだろう。
何言ってるんだ? 話は逸れるけど
剣術道場とかも代々弟子の中から実力者を選んで入り婿にし
剣術家としてのDNAを精錬していったって話を聞いたな
だから子供は息子よりも娘が望まれたんだとも
天然理心流なんかが代々道場主は養子だった 「殴られた」方に問題があるから「殴った」方は悪くない。
こんな論法で擁護して、本当に軍人王に好意的になると思ってるのか?
そういう庇い方は、庇う意見だけじゃなく庇われている軍人王にまで嫌悪感が増すぞ。 江戸時代の日本では養子相続は盛んで、元々跡継ぎがいなければ養子という寛容な文化だった。
しかも民間の商人や剣術家なら、もっと血統には拘りが薄い。
だからって欧州の血統重視の王族を同列にするのは無理過ぎるぞ。 大王が自殺して他の王子や入り婿が国王になってたら、
プロイセンは列強入りすることもなく小国のままだった件について。 >>137
ハプスブルグの話? あれ血友病だろ
>>136
兵隊王が民衆なんかにもよく暴力振るったって話は聞くけど
それで人が死んだって話は寡聞にして聞かないな
大体こういう話はオーバーに伝わるんだよ
兵隊王が確実な意思を以て殺したのはカッテだけだろ
息子に対する虐待紛いの過激な教育ぐらいなんだ、オーバーな
一方、7年戦争でどれだけの兵士が死んだよ、負けてたら無駄死にだぞ >>121
フリードリヒ・ヴィルヘルムの虐待は暴力暴言だけじゃなく食事にまで及んだ。
ヴィルヘルミーネ王女は「私たちは痩せこけていました。満足に食事を与えられなかったのです」と言っている。
子供たちの身体が虚弱になっていたとすれば、それは逆に虐待のせいでは。
フリードリヒ・ヴィルヘルム自身が、性格も趣味も正反対の父王とは不仲だった。
父親と不仲で親子の愛情を構築できなかった子供が、自分が親になった時にも子供とは上手くいかないのも、
元々の暴力的な性格から、それを暴力で発散したり息子を抑えつけようとしてしまうのも、
現代でもあるような、悲しい虐待の連鎖の形のひとつだろう。
無理に殴られる息子が無能だったとか死んだとしても弱い息子が悪いみたいに擁護するのは
それこそフリードリヒ・ヴィルヘルムが哀れに思える。
完璧でない人間を無理矢理完璧にしようとすれば、どんどんフリードリヒ・ヴィルヘルムの真実から遠くなるぞ。
フリードリヒ・ヴィルヘルムのために擁護してやりたいと思ってるなら、ちゃんと本当の姿をみてやりなよ。
無理矢理完璧にしちゃったら、それはもうフリードリヒ・ヴィルヘルムじゃなくて別人だぞ。 最近流行りの体罰批判かよ
「殴られる」方にもそれなりの理由はあるだろ
兵隊王が禁止してるのにも拘わらず
隠れて文芸書読んだり、フルート吹いたり、フランス語学んだり
現代の俺らから観れば理不尽な理由かもしれないけど
兵隊王は父であると同時に国王だからな
国王命令に対する不服従・拝命拒否ならムチ打ち刑くらいじゃ済まないぞ >>143
本当に1か0かしかないなあ…。
誰も殺すまで殴ってたとか民衆を虐殺してたなんて話はしてないだろう。
殺意がなくても死ぬほど殴られた人間はいなくても、
死なないまでに殴られた人間はいたんだろう。
でも死ぬほどの傷じゃなかったり、殺意がなかったとしても、
殴ってた事自体に変わりはない訳で。
人が死ぬ=1 死なない=0って訳じゃないだ。
中庸とか清濁混合ってものが人間と歴史には付き物。 >>146
流行りって、当の大王の姉と当時の大王本人が父王を批判してるんだが。
そして軍人王自身が、自分なら父親にこんな目にあわされたら自殺すると言ってるなら、
自分で自分の教育を正常だとは思ってなかったんじゃないのか。
少なくとも、自分が父親から同じ目にあわされたいとは思ってないことを息子にしていた訳だ。
大王の姉は王の不機嫌の理由を病気の苦痛のためだろうと言っているし
首絞められた一件は朝呼ばれて部屋に入るといきなり起きている。
大体死に至るほどの暴力が、教育としては問題だったわけで。 確かに当時の教育は現代よりも厳しかったし、時に体罰を伴うものもあったが、
だからって暴力全てが当時容認されてた訳じゃないぞ…。
物事にはなんだって範囲とか程度ってものがある。
一部やある程度が容認されるからって、全てやそれ以上のものまで容認されてるってことにはならない。
だかロシアの皇帝と息子の話にはヨーロッパでもどん引きしてた訳だ。 >>135
サリカ法の影響が色濃く残るドイツでそれやれってか?
なあ、ここは世界史板だぞ?
直前に女性が相続やったオーストリアがどうなったかわかってるよな? あの時代、国王が国民に対し、父親が息子に対し
多少暴力的な手荒な指導をしたからと云ってそれが何だと
他の欧州諸国ではもっと理不尽な事が平然と行われていた
確かに兵隊王は完璧な人間じゃない、大王に対する教育にも問題があっただろう
でもそうした教育があったからこそ、あの大王を形成したんだろう
政治を顧みない、フランス被れ文人王だったかもな(結局ifの話になるけどな)
まぁ、今の時代の俺らの基準では判らん
寝るわ 自演もここまでやるとほめたくなるな
無駄な努力乙。 なんだ自演か、プロイセンなんかに興味を持ってる人間が
同時間帯に鉢合わせる事などまずないものな 誰が自演だ
兵隊王の君主としての偉大さを
このスレ住人に啓蒙してやろうとしただけだ >>155
啓蒙なんざしなくても皆知ってる
その上で、大王の方が優れていると評してる 止せ、つーかタイミング良く出てくるなw
また自演と疑われるわ 大王>大選帝侯>兵隊王
兵隊王のやってることって大選帝侯のレールの上だからな
徴税権強化、常備軍強化、ユグノー優遇
これ全て大選帝侯がはじめにやったことを兵隊王がなぞってるんだよ
しかも大選帝侯は最強時のスウェーデンに勝ってる上植民地までもってた ホーエンツォレルン家の歴代当主で家運を傾けたのってほとんどいないんだよねえ
無能でも時の運とか有能な家臣に支えられて乗り切れてる
ただしヴィルヘルム1世帝とビスマルクのタッグ以降は、
「ホーエンツォレルン家」自体を繁栄に導いたとは言えんような気がする
ヴィルヘルム1世帝自身がそのことをよく自覚していたようだが
しいてあまりに無能というか、ガバナンス能力が欠如していたのを挙げれば
ゲオルク・ヴィルヘルム選帝侯(大選帝侯の父)くらい? 大選帝侯がユンカー達に大幅な自治を認める替りに軍税徴収を認めさせて
はじめて常備軍の設置が可能になった
それまでは安定的な軍事力をもってなかったからね >>92
それは、麻生の漢字の読み間違いをあげつらうのと同じレベルじゃないか。
道徳的な君主が名君では無いように、知性と教養は政治手腕や業績とは関係ないよ。 >>108
不快とは限らないw
ここでこの誤返還は意味わかんなくなるだろ >>135
大阪に限らんが、まさしく商人風情だから許される話。
第一子に継承権とか、女系天皇など、形を変えた共和政運動。 >>126
ホーエンツォレルン朝が断絶するリスクが高ければ、義務からしかるべく
行動したと思うが。 ひどい自演にリアルタイムで遭遇したけど
自演がバレてる理由を親切に教えてもらったのに
また同じ失敗を繰り返すアホだってことが証明されたね
ファビョってまた集中投下すればいいよ >>159
ゲオルク・ヴィルヘルムを無能だとするのは後知恵過ぎる
かの人は単に三十年戦争の当事者としては極一般的な物の見方をしていただけだ
つまりは戦争がそんなに長く続くとは思っていなかったってだけなんだ 三十年戦争に巻き込まれたこと自体で非難する気はないけどね
シュヴァツルツェンベルクみたいな皇帝派を大臣にしてバランスを取る、的な優柔不断な政治観の方が問題な気がする
現に内憂外患状態になったし だから戦争がそこまで長引くとは思ってなかったってことさ
皇帝派との外交チャンネルは開けとかないと
破滅的な殲滅戦でもするわけでもあるまーに >>159
欠点があっても、別の所で有能だから無能なだけの君主ってのもいなかったしなあ なんか大王の番組やる予定っだったと思ったけど
覚えてないわ 国を擬人化した漫画のおかげで最近腐女子の人達に人気みたいだね ドイツ語鉄十字元騎士団国家を持った軍隊等
元々厨二に受ける要素満載だったのに
例の擬人化漫画で銀髪赤目左利きまでプラスされたからな ピョートルにエリザヴェータ暗殺を教唆した説があるらしいけど…
エリザヴェータが死んだ時に「娼婦が死んだ!」って手紙書いて大喜びしてたからそれはないか 230 世界@名無史さん sage 2013/08/06(火) NY:AN:NY.AN 0
ジンプリチシムス(Simplicissimus)って当時のドイツの有名な風刺雑誌のイラスト
http://25.media.tumblr.com/tumblr_me4b3pkMMO1qzfmh5o1_500.jpg
同じ雑誌のヒトラ−のイラスト
後ろにいるのは・・・・あのフリードリヒ大王
当時のドイツ人がヒトラーに抱いてたイメージがわかるかも >>177
それは昔のバイエルンの風刺雑誌だからな。
プロイセンに否定的なイメージを重ねるのは、ごく自然なこと。
旧プロイセン領の人なら、こういう表現に同意したかは分からないな。
(もっとも後から、ヒトラー自身が自分の国をプロイセンに繋がる国で
あるかのように宣伝したりもしたが。その一方で武装SSに、プロイセン王国の
伝統に連なる部隊名など存在しないのも事実だし、ホーエンツォレルン家の
人間がナチス政権に冷遇された事実もある。) >>180
でもヒトラーの出身のオーストリアはプロイセン王国とガチバトルした国なのであった >>181
でもバイエルン王国とオーストリアは同じカトリック圏で、
プロイセン王国に苦杯を嘗めさせられた過去も共有しているのであった。 >>173
元騎士団ってよく言われるけど、実際の中心はブランデンブルクの方って話も聞くな
最初はともかく王国時代の殆どの首都もそっちだし、元騎士団領のプロイセンはそこから(ポーランド分割まで)飛び地だったし しかしドイツ語カッケー中二すぐるwwって良く聞く割に、
プロイセンと、バイエルンとか他のドイツ語圏では
中二層ですら大差があるような気がする不思議 国名こそプロイセンだけど、ブランデンブルクがプロイセンを吸収したのが実状
王を名乗りたかったからブランデンブルクじゃなくてプロイセンにしたんだろう >>180
フリードリッヒ大王時代のバイエルンってオーストリア継承戦争ではプロイセンと組んでなかったっけ
バイエルン公が神聖ローマ皇帝になりたかったかなんかで。 バイエルン公カール・アルブレヒトはプロイセンと組んで帝位奪って皇帝カール7世になったはいいものの
結局マリア・テレジアにフルボッコにされた挙句バイエルン全土占領食らった
かろうじてミュンヘンだけは奪還したもののバイエルンの他の地域は占領食らったまま病死
後継者も土下座外交で完全にオーストリアに屈服しちゃってるよ 七年戦争でバイエルン軍は神聖ローマ帝国軍の一翼を担い、
10個歩兵大隊を派遣してる。
そして1757年にシュヴァイトニッツ(スフィドニツァ)、ブレスラウ(ヴロツワフ)、
ロイテン(ルテュニア)で戦い、その翌年にはトロッパウ(オパヴァ)、オルミュッツ(オロモウツ)
そしてナイセ(ニサ)を転戦し、どこでもプロイセン軍にボコられた。 >>190
性格破綻は間違い
むしろ異常な程に理性的 軍人としては優秀過ぎ・戦略家としては融通がきかな過ぎ・国王としては愛され過ぎ
自己弁護が多くて、意外と人間臭い
弟はガチホモ >>192
残ってる文章とか見ると自己愛が強い感じはするよな 理想主義者
現実主義者
人間嫌い
啓蒙主義者で現代にも通じる価値観を持っていた一方、
プロイセン王国の現状を見て神聖ローマ帝国の藩屏に留まることを潔しとせず、
戦争も辞さなかった。
また年齢を重ねるにつれ、どんどん人間嫌いになっていった。 >>192
>国王としては愛され過ぎ
なんで国民から愛されたんだろう?
7年戦争なんて無茶な戦やって、人的被害も大きかっただろうに
反対に、兵隊王なんて殆ど人的被害を出さずに国威発揚させたのに
国民から嫌われてるし、理不尽だ >>195
当時の戦争の勝利は君主の栄光であるとともに国民の栄光でもある
さらにフリードリヒ大王は「国王は国家第一の僕」と言って滅私の精神で国を運営したし
当時の貴族権力や様々な既得権益持った連中を啓蒙専制君主らしくぶっ叩いたり
裁判でも(同時代的なレベルでは)非常に公平に行った人なので人気あった
実利的な話を言うと戦後は国庫から財政出動で公共事業とかしまくって
国家経済は非常に景気良くなったというのもある
兵隊王は逆にケチって国に金は残したし、その金が大王の戦費になったのは事実だが
国民経済にとっては微妙な国王だった(不況ではないので悪いというわけでもないのだが) 当時の戦争は、30年戦争のころと違って、非戦闘員にはほとんど被害は出ないし、兵隊は傭兵なので一般市民は
あまり関係ない。
それに、7年戦争が終わった後はずっと平和だっだし。(バイエルン継承戦争は戦闘は起きなかった) ※197
バイエルン継承戦争では、「会戦」が起きなかったというべきだね。
双方の軽騎兵部隊や軽歩兵部隊が至る所でゲリラ戦を繰り広げてる。
でもそれ以上のことは起きなかったから、後の史料に「何もしないまま
推移した」とか書かれることになった。
あと七年戦争の頃は略奪や戦災による農村の荒廃が、兵士の帰農を
妨げたよ。それが原因で、以後は貧民の都市への流入が問題となった。 さらに言えば、プロイセンの兵士はカントン制度で徴募した自国民と、
その不足を補うために周辺国で勧誘して来た人たち(プロの傭兵である
必要はなく、一般人は多かった)。
兵隊王の時代は前者が全軍の2/3を占めていたけど、七年戦争の
進行とともに自国民を農業生産力の維持に回したため、同戦争直後
には外国出身者が半数以上を占めるようになってる。 ここまで読んでの兵隊王の評価
政治家 中の上
軍人 中の下
父親 下の下 典型的なクズ 兵隊王ってアレだっけ
国民に「私を愛せ!」とか言って殴りかかったヤツだっけ せやで。
息子がフランス語の本を読んでたらぶん殴ってその本を破り捨てたりしてた奴やで。 先に世継ぎを云々ってレスがあったけど、世継ぎを残さなくても大王で王朝が途絶えた訳じゃないから問題ないだろう。兄弟が継げばいい話なだけなんだし実際継いでるし。
本当にまずいのはスペイン・ハプスブルグみたいなケース スペイン・ハプスブルクは国内問題を国際問題にされて戦争になったからなぁ
同じケースでも小国なら普通に親族が継げるのにね 7年戦争が終わった後傷病兵を全員ベルリンから叩き出したんでしょ? 逆。フリードリヒは兵隊王の時代からベルリンに存在した
廃兵院を拡張し、周辺の土地528モルゲン17ルート(面積の単位ね)を
廃兵院に収まらない軍人に貸し出した。1771年には廃兵院の増築も行われた。
www.militaermuseum-brandenburg-preussen.de/Templates/Artikel%20Das%20Berliner%20Invalidenhaus.html
その後には他の街区も傷病兵に割り当てられてる。 そもそも元の廃兵院には士官13名と下士官兵631名しか入らなかったので、
シュレージエン戦争から七年戦争後にかけて廃兵の流入が問題になっていたのは
事実。廃兵院に収まりきらない傷病兵には月1ターラーの恩給が支給されたけど、
それはベルリンで食っていくには到底足りない額でしかなかった。大王も問題の
解決には骨を折っただろうなあ。 そうか……どこで見たのかと思ったら知恵袋のフリードリヒ大王の人柄についての質問に対するレスだった。単にあの人が間違ってたのか 知恵袋は善良だがうっとおしい教えたがりがいるところ
ここはうっとおしいオタクの巣窟
オタクのほうが知識はあるぜ! >>208
大王関連で調べてると、予算の都合で不徹底だったり頓挫したりする改革がちょくちょくあるからね。
刑務所改革とか。 言えない……フリーゲームではじめてこの人知ったなんててん 俺は著名なホモとして知ったぜ!
きちんと調べるとたんなる疑惑だったが >>211
そうだね。この廃兵院の拡充問題だって、廃兵自身の労働で
自給させ、なるべく公費の出費を抑えようとしたところ、
危うく失敗しかけてたりする。廃兵にも労働意欲はあったんだけど、
なんと言っても怪我人だからねぇ。 この人割と童顔だしホモってよりルイ16世的な理由だったんじゃないだろうか 某動画でETWのプロイセンプレイを上げていた人がいてそれをきっかけにプロイセン、大王と……>大王を知ったきっかけ なんか七年戦争を扱った某動画で結果は戦争前と何も変わらず、何も得る所がなかったって結論づけられてたなあ オーストリアにとってはそうかも知れないけど、
プロイセンにとってはそうじゃない。 イギリスだけが大もうけ
得るとこないってのはない
プロイセンを単独で軍事的に敗北させることができる列強は存在しないということがわかった
列強三カ国でも大苦戦
仏との同盟は最後のカードだったがそれでも無理だった ザクセンって戦後どうなったんだっけ?プロイセンの衛星国? いんや、普通に神聖ローマ帝国を構成する一公国のまま。
ただ戦争で土地が荒廃し、財政も借金漬けになってしまったので
その後の10年は復興に費やされることになる。1806年には王国になった。 じゃあ国土的にはシュレージエンが増えただけなんだ。プロイセンの国力は2倍になって影響力も増えたけど そう。何よりも1742年のブレスラウ条約および1745年のドレスデン条約の
合意内容が再確認された。細かいことを言えばフベルトゥス条約後も
シュレージエンにはわずかにオーストリア領が残ってるな。さらに
ザクセンとプロイセンの間で発生していた二か所の小さな領土問題や
関税の争議も、さりげなーくプロイセン側に有利に解決してる。 当時のシュレジエン地方は手工業の一大中心地やしな。
工業化が進んだ19世紀ではそのアドバンテージを失ったけど、
その頃のプロイセンはウィーン会議で、次世代の工業地域であるラインラントを手に入れてたけど。 大王とか持ち上げられてるからドイツ統一でもしたのかと思ったらちょびっと領土増やしただけでしかもまぐれ勝ちやんw
あともう少しエリザヴェータが長生きしてたらフリードリヒは城門に首を晒されて馬鹿な王様の見本となってただろwww >>225
戦術的にはほぼ常に倍くらいの相手と戦って
高い勝率で勝ち続けてる軍事指導者が君主ってのは
この時代では異常なことだよ
しかもシュレジエン獲得で人口で見るプロイセンはほぼ倍になってる
あとポーランドも分割してるから領土ちょびっとではないよ
まあ大王と言っていいでしょ 西プロイセンはダンツィヒ含んでるからかなり重要だよね
いい土地ばっかりとってるよ ググったらダンツィヒは第二次分割の時かw
まぁ東プロイセンとつながったからよかったんじゃないか 東プロイセンって戦争中ロシアにレイプされてたけど全土占領されなかったの? 全土占領されたよ。それどころかノイマルク(Neumark)と
ヒンターポンメルン(Hinterpommern)まで占領された。
だけどこれらの地方を、ピョートル3世はあっさり返してくれた。 >>226
でもダウン将軍相手にはほぼ全て負けてるじゃん。 >>231
ダウンさんは無能じゃないけど七年戦争の終盤はツキがない。
トルガウでもブルケルスドルフでも負け、ライヒェンバッハでも
敗れたせいでせっかく占領したシュフィドニツァ要塞をプロイセン軍に
奪還されてるじゃん。 >>232
プロイセンの古参兵は最初の二三年で消えたのに不思議だな。オーストリアも相当苦しかったのか? >>230
まさかそれが大戦後ソ連領になった根拠とかだったり? >>233
プロイセン軍もオーストリア軍も兵の待遇が悪くて脱走が後を絶たなかった上、
オーストリア軍の場合はプロイセン軍に比べて教練のマニュアル化が遅れてたからな。
どちらの軍も戦争の全期間を通じて、良質な兵の確保や育成に腐心してるよ。
>>234
ケーニヒスベルクがソ連領になったのは、第二次世界大戦中のポツダム会談の
結果による。バルト海に面した不凍港が欲しいって理由があった。
七年戦争時代の戦果が要求の根拠かは分からないけど、帝政時代からずっと
ロシアの為政者がそういう関心を抱いていたのは本当。 >>231
まともに戦わなければ物量で勝る大国が勝つって事を実践できたダウンは名将だが
この当時はそれだとあんま評価にならんのが可哀相だな ローマのファビウスみたいなもんだ
国民に増税を強いる戦略は不評すぎる >>236
そういう地味な勝ち方が評価されない時代背景があったのはもちろんだろうけど、
そもそもテレジアの目的は「堅実に勝って有利な条件で講和」じゃなくて「派手に勝ってシュレジエンを取り返す」だからねぇ。
多少ボコられたくらいじゃ、絶対にフリードリヒはシュレジエンを交渉のテーブルにのせないだろうし。
後年、シュレジエンからの収入だけ別会計で管理するくらいに重要視してたしな。 バリー・リンドン見てプロイセンに興味持ったんですがフリードリヒ大王に関する書籍や映画で何かお薦めはありますか?宜しければ教えて下さい 日本語文献だとこれしか思い浮かばない。
『フリードリヒ大王の歩兵―鉄の意志と不屈の陸軍 (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ) 』
煽るでもなく言うけど、「良書が読みたければドイツ語を学べ」と言いたくなるのが悲しい。 村岡氏の『フリードリヒ大王の研究』は、いい本なんだけど古くて手に入りにくい…
屋敷氏の『紀律と啓蒙ーフリードリヒ大王の啓蒙絶対主義ー』は新しいし、ついでに当時の政治文化を知るきっかけにもなる。
どっちも一般書じゃないので、気にいるかどうかは別だが。
新書にも大王関連あるけど、正直微妙…まあ、生涯の流れを見通すのにはいいかな。 そもそも戦列歩兵自体が日本だとマイナーだからなんで目の前で撃ちあってるの?馬鹿?みたいな話になる >>241
フリードリヒがフレデリック、ヴィルヘルムがウィリアム、
ブランシュヴァイクがブランズウィックになってる時点で
ちょっと気分が出ないんだよな、ゼイタクを言えばw
あと、大王やその他の人物の言葉を追う際にも転訳を読まされてる
というのがもどかしい。まあ、当時のドイツ語や言葉遣いは微妙に
現代のものと違うから、現代ドイツ語が出来るからって大王の言葉が
スラスラ読めるなんてことはないけどさ。
>>243
あるある。当時の銃の命中精度や装填方法、発射速度を調べれば
ああ見えて合理的なのは理解できるはずなんだがな。 >>240
>>242
ありがとうございます。近所の図書館探してなかったら買ってみます。 >>245
>>242の二冊は大王の大まかな生涯とか知らないと読んでもつらいかもな。 フリードリヒが王太子だった頃の逃亡事件で
父子の仲を取り持つため、たくさんの臣下が
多大な努力を払ったとは聞くけど「誰が」
「誰に」「何と言って聞かせたのか、はたまた
どうしたのか」ということさえ日本語文献のみでは
見えて来ない……。 王太子駆け落ち事件の顛末や如何に?
男色相手との逃避行だったんだよナッ! 何か急にプロイセン研究がブームになって、大王の著作とかがまとめて翻訳されんかな 日本語の情報源が不足してるから、話題が広がらないもんね。 新規の翻訳本宛てにするより
相応規模の図書館で廃刊になった既刊本探した方が早い 日本語訳を探すと石原莞爾に行き着く
防衛研究所の図書館で昔読んだ、意外と読みやすい でも大王が書いた喜劇とか読みたい。フランス語とかほぼ読めへん。 石原莞爾監修の『我が時代の歴史』は近代デジタルライブラリーにあったよ
近代デジタルライブラリー - 我が時代の歴史 フリイドリヒ 著[他]
//kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042731 >>222>>225
七年戦争後じゃなく大王没時だが、即位時と比較すると
国家収入は700万ターレルから2300万ターレルへ、
人口は230万人から550万人に増えてる。
ポーランド分割や他の政策含めての総括だと、国力は倍を超えている。 そもそもまぐれ勝ちでなかったからこそ大国相手に7年も戦争やれてたわけで ロシア女帝の崩御がなかったら破滅していたかも
それを考えたらマグレまで行かずともラッキー フリードリヒ大王の恋人(もちろん男性)で、有名な人は誰と誰ですか? 戦術的勝利の積み重ねが戦略的劣勢を覆すことは無いってのを地でいったわけだが
最後に戦略的劣勢をひっくり返したのは文豪として本人の実力だわな >戦術的勝利の積み重ねが戦略的劣勢を覆すことは無い
つー元寇 >戦術的勝利の積み重ねが戦略的劣勢を覆すことは無い
つー日露戦争 そもそもフリードリヒ大王は、勝ったり負けたりで、ナポレオンみたいに勝ち続けていたわけではない。 >>263
戦略的勝利ですよ、日露は
満洲の主戦場での短期決戦を志向して(戦力の集中競争で辛うじて日本側が勝てそう)
伸びきった敵の後方連絡線の背後で革命煽動
大英帝国と結託してとりあえずロシアを孤立化(ロシアが満州で傍若無人にふるまい
主戦場地域で嫌われまくったという点も大きいが)
戦略的な態勢は日本が有利、基盤面ではロシアが有利(だからその基盤を封じるような
戦略で戦ったわけだが)
戦術的な勝利で大番狂わせだったのは旅順くらい、あれが数か月で落ちるとはロシアも想定してなかった
それ以外は、日本が圧倒的な火力と人命つぎ込んでひたすら戦術的勝利を積み重ねていった感じ
WWTを先取りしてんだよねえ
ロシア人の感想で「日本人弾薬多すぎ、いくら持ってんだよ、卑怯だ」というのには笑った >大英帝国と結託してとりあえずロシアを孤立化
スレ違いだが、英との同盟は対露戦で有用だと断言できるほど強固ではないし
露は独・仏と同盟していたわけで…
あと戦略的に優位だったのは露 >>266
スレ違いごめんなさい
国内の人的・物的資源を「短期間」で「満洲」まで投入できればそうかもしれないが
実際はできなかった、さらに現地の満洲人、中国人との関係も日本と比較して悪いものであった
「戦争の基盤」ではロシア圧倒的有利に決まっているが、日本は短期決戦の戦略を構築して
態勢的な有利を獲得したんだよ
ロシアの長期戦志向、満洲奥深くまでの誘致導入、戦力集中してからの包囲殲滅という
戦略は圧倒的な火力とうっとおしい機動を弄する満洲軍によってのっけから破たんさせられた
そりゃ短期間での戦力集中競争では日本有利なんだから、緒戦は後れとるわな
手堅い戦略はロシア側だけど、最終的に勝利を収めた戦略は日本側
戦術的な話は些末でしかない(ぶっちゃけ物量多くて士気が高い方が勝つ)
あと、日英同盟のご威光で独・仏の表立ったロシア支援も制約されたという側面は存在している
(独はそもそもロシアとは対立しつつあった情勢だったわけで)
フリッツも仏・墺を凌ぐロシアの膨大な物量には勝ち目がないと分かってたから、短期決戦を
志向したんだけど、同盟国は当てにならず戦略眼が微妙な1760年代のイギリスだったからなあ
勝手に戦闘おっぱじめたり、勝手に同盟離脱したりする、最悪な同盟相手
ロシアが中立化しなかったら完全に詰んでたもんなあ 君の妄想を否定するのに相応しいスレへ移動してね
続きはそっちでやってやるから >>262
内応の仕込みも何も無い元寇のどこに戦略的劣勢が? >>261
「戦術的勝利の積み重ねが戦略的劣勢を覆すことは無い」
とはよく言うけどさ
戦略的劣勢下で勝ち続けたけど最後に敗北した例自体あんまり思い浮かばんのだが
楚漢戦争の項羽なんて劉邦を撃破しきれてないから戦術的勝利の積み重ねと呼ぶには
ちょっと違うし >>271
そもそも戦略的という意味をはっきりさせないで使っているから。
戦略というのは、本来はその外交とか軍事とか内政とかを含めてマクロな戦争指導といういみだけど、
国力とか、国際的な大勢とか言う意味で言っている人もいるから、議論がかみ合っていない。
国力とか、国際的な大勢で劣っていても、優れた戦略を取ることは可能だし、
逆に優っていても、稚拙な戦略をとることもある。
前者を戦略的に勝っているといっている人と、後者を勝っているといっている人がいるから、
話が平行線をたどっている。 >>273
「戦略」に幅があることには同意するけど(政治分野や作戦領域まで含める人もいる)
後者の国力、国際的な態勢は戦略とは違う話だと思う
ドイツなんて地理的要件からしょっちゅう広義の内線作戦やるしかなかったのかと言われれば
ビスマルク時代のように複数正面作戦を徹底して排除するという戦略がとられることだってあった >>274
その用法が正しいかどうかはともかく(というか自分としては間違った用法だと思っているが)、そういう意味で使っているやつが
このスレにいるのが、今までのレス読んで分からないの? >>277
それはスレ違いの論議を続けている、>>261-270に言えよ。
オレはやめさせるために、不毛さを指摘しただけだ。 >>128
バシレイオス2世がいるじゃん。
軍事、外交、内政、いずれにおいても偉大な実績を残している。 創元社のフリードリッヒ大王の本は、いつ頃刊行されるんだろう。
気になっているんだけど。 >>266
1890年、再保障条約が終焉してからドイツとロシアの間に同盟関係は無くなってる。
ヴィルヘルム2世は自ら壊したロシアとの同盟関係を再構築しようとしたけど、
果たせなかった。日露戦争におけるドイツの対露姿勢は好意的中立といったもので、
同盟関係にはない。ドイツは当時、オーストリアやイタリアと同盟していてロシア、
フランスやイギリスと対立していた側面もあったしな。 同じ奴だか通りすがりか知らんが別スレに誘導する気は全くないのか?
まじめに相手をしても文句を言われるだけで何の益も俺にはないのだが…
取り敢えず君の根本的な思い違いを指摘しておくと
266で俺が書いた事の過半は岩波講座日本歴史からの抜粋
>ドイツは当時、オーストリアやイタリアと同盟していてロシア、フランスやイギリスと対立していた側面もあったしな。
君が望むほど世の中は単純ではなく、なんでもかんでも白か黒で塗りつぶせると思い込んでいるなら、君は学問より先に世の中にでて世間を知るべきだ
日露戦争におけるドイツの対露姿勢は下関条約から筆をおこさねばならない
『ウイルヘルム二世とニコライ二世の往復書簡』1923 8p >>283
>>282を否定するならもっと具体的な話をして欲しい。
>>282の挙げる日露戦争中の外交関係(英仏協商+露仏同盟 vs 独墺伊三国同盟)
に間違いはない。英独関係なら1896年、ヴィルヘルム2世がトランスヴァール共和国
の独立を支持した時点で悪化してるしな。 スレチだといい続けているのに改めようともしないマナーの悪い子に参考文献を指し示してやったことへの御礼も言えないの?
君はまともに相手をする価値もないよ ページ数まで挙げてながら引用もしないんじゃ、
参考文献を紹介したってまるで無意味……
いずれにせよ、「日露戦争中に独露が同盟してた」なんて
事実誤認をまき散らしてる奴よりゃスレチでもツッコミ入れる奴のが
親切だね 大王の誕生日にろくに書き込みがないこのスレの存在意義とは ロシア女帝が健康管理に気を遣うだけで大王は終わりだからな
外交で敵を絞ることを知っているビスマルクの方が遥かに上 ビスマルクはフリードリヒ2世について
戦略家というよりは冒険家じゃね? みたいなことを確か言っていた
危ない橋を渡りやがって・・・みたいな印象を持っていたんじゃないかな まあビスマルクも大概危ない橋渡ってるし。
両者の共通点はパワーオブバランスと正戦論じゃね。戦争対象を限定する手腕は確かにビスマルクの方が上だけど。 この人って「ぼくのかんがえたさいきょーのさくせん!」が毎回裏目に出て気付けば不利になってるよね
そこから逆転してくるから凄いんだけど 大王の決断力は長所でもあり短所でもあるからな。
その辺はお隣に住むライバルのテレジアさんも同じだけど。
その是非はともかく、プロイセンの勇躍はこういう人じゃないと無理だったと思う。 戦中のドイツ映画、「Der grosse Koenig」で
大王がオーストリアに対する見通しの甘さを、
弟のハインリヒ公子から責められるシーンは名演だった。
モノクロ映画なのに、額に青筋が浮かんでるのが分かるくらいの
公子のブチ切れぶりは一見に値する。 王の弟でも王子だろうに
バイロイト龍騎兵連隊指揮官はビスマルクの曽祖父アウグスト・フリードリヒ・フォン・ビスマルク大佐だったんだが、
コトウジッツの戦いで戦死。
次のホ−エンフリートベルクの戦いで指揮官がフォン・シュヴェーリン大佐になって
オーストリア軍中央の突破が大成功するんだな。 ドイツ語の「Prinz」は「王子」よりも意味が広くてだな……この場合は「王子」って
訳でも良いんだろうけど、ハインリヒを指して「公子」って訳例もよく見る。 >>302
一般人がゲイでも問題ないとは思うけど
王族がゲイだと血筋途絶えちゃうじゃん、そういう王室への貢献と言う意味でアカンと評した
まあ、兄貴が子無しなのが一番の原因だが 兄貴はホモだったのか不能だったのか
俺はあえてケモナー説を唱えよう 姉や姪との親密さ、王妃を放置はしても虐めたりはしてなかったの見ると、
女嫌いってことはないような気がするな 地味に妹とも親密。その人は自ら作曲もこなすような才媛だった。 妻は善良だけど平凡だったらしいから(容姿には諸説あり)、才媛じゃないと興味がわかないとか?
マリア・テレジアか、芸術的才能に恵まれていたらしいマリア・アンナ、
ナポリ王国の政治の実権を握ったマリア・カロリーナ辺りの才女と結婚としてたら別だったんだろうか?
まあ政治の興味のなかったフェルディナンド4世と違って、
フリードリヒ大王は妻が政治に関与しようとしたら衝突しそうだが 才媛でも哲学とか音楽とか、同じ趣味を語れる女性が好きだったんじゃないのかな。
エリザベート王妃だって、公務はしっかり果たせてたようだし。 >>312
エリザベート王妃の公務ってどんなことやってたんだろう?
政治からは遠ざけられてそうだから福祉とか? >>313
確かベルリンで養蚕やってなかった?
王妃としてそれなりに仕事をこなしてるけど
大王の家族からの評価では
容姿と才能に恵まれなかったみたい。 そういえば大王って士官しようとしたバルト系だかの軍人を、
顔が気に入らないって拒否して、後にオーストリアに仕官したその将軍は
七年戦争で大王を苦戦させたって話があったな…
何処まで信憑性ある話か知らんけど、面食いだったのか
それにしてはフランスみたいに美女の愛妾を抱えた訳でもないしなあ ノブレスオブルージュ(高貴な者の責務)って
フリードリヒ大王の国王は国家第一の下僕(奉仕者)
の考え方を体系化したものだよね 国家第一の下僕
国家第一の奉仕者
受けるイメージかなり違うな
元は下僕だったんだっけ? 元の言葉は「Diener」。この名詞は「dienen」(仕える、奉仕する)という
動詞から来ている。だから直訳すれば「奉仕者」だね。
ちなみに「召使」とか「下僕」って意味でも使う言葉。 >>314
それ公務なのか?
王妃個人の趣味じゃなくて? 週に二回の謁見の他、大晩餐会、舞踏会、オペラの上演、大使の接見や
王家の祝典では王じゃなくて王妃が国の代表を務めてた。
この立場はフベルトゥス条約以降、フリードリヒがサン・スーシ宮殿に
引きこもってからなおさら強まる。その一方で、ベルリンの外でフリードリヒが
主催した催事に王妃は招待してもらえてない。 男から女への好意も興味もないけど、王妃としての尊重と信頼はあったってことなのか
妻としての扱いも求めず文句も言わずに公務をこなしてくれるのは、
ある意味大王にとっては「王妃」としては理想的だったのかもな… てかフリードリヒ2世と軍人王って、結局死ぬまでに和解?とかってしてたの?
誰か知ってる? 脱走事件で自分の騎兵連隊取り上げられたけど
1732年2月29日に改めて歩兵連隊もらってるから一応形だけは和解してるよな。
でも兵隊王が死ぬと3個大隊編成の王(フリードリヒ・ヴィルヘルム1世)
の連隊を1個大隊だけにして後の2個大隊を別の連隊新設に使ったりしてるから
ある程度のわだかまりはあったわな。 >>325
英語の情報源だと歩兵連隊の指揮権をもらったのは2月29日だけど、
ノイルッピン博物館のサイトの記述(ttp://www.kronprinz-friedrich.de/neuruppin-kuestrin.html)
ではキュストリンから2月に釈放された後、大佐に昇進して4月に第15ゴルツ歩兵連隊をもらってるね。 前任者の連隊長クリストフ・ハインリヒ・フライヘア・フォン・デア・ゴルツは
2月6日にマクデブルクの連隊をもらってマクデブルク司令官になってるから
王太子の連隊長就任は2月29日でよかろ。 ここだとはっきり2月29日って書いてあるな
ttp://www.preussenweb.de/regiment1.htm 最近プロイセンの歴史関係の本を読んだり
つべで行進曲を聞いたりするんだけど、
こういう中国語字幕をつけたのがかなりヒットする。
ttps://www.youtube.com/watch?v=j2gDdaF0D6w
軍拡というか勢力拡張の気運でこういうのが流行ってんのかな。
漢字字幕がデカくて少なからず不愉快だ。 中国もWW2後のドイツみたいに解体されりゃいい。
そうなるためには日本も巻き込んで大々的に核戦争でもやらかすか、
無政府状態にならなきゃダメだろうけど。
新疆・チベット・満州は独立、内蒙古はモンゴルへ、
残りは揚子江で南北に分断、台湾は晴れてUN入り、と。 満州は独立って、もう満州の住民の大半は漢人で満州人の多くも
すでに漢人に同化していて、満州人と呼びうるのはほとんどいないぞ テレビに出ていた張とかいう女、満州族の出とか言ってたけど
完全に中国語訛りの日本語でアグネスと同じようなしゃべり方だったな なんでフリードリヒ大王のスレで中国の話してんの?
それ直接関係あんの? マリア・テレジアは漆器や伊万里焼などアジアの芸術品を好んだそうだけど、
同じ芸術趣味のあるフリードリヒ大王は、アジアの芸術品に興味あったんだろうか?
日本は鎖国中とはいえオランダ経由で貿易していたし、
オーストリアに渡るならプロイセンに渡ることもありそうだけど サン・スーシ宮殿の庭に中華風の喫茶室が今も残ってるよ。
とはいえ、リアルなものじゃなくて想像上の中国を再現した
ものだけど。 それは中華風ってんじゃなくてシノワズリーだろ
フランス文化だよ フランス人の考える中華風か
まあ日本でも中華料理だと思ってたら中国になかったとか
イタリア料理だと思ってたらイタリアになかったとかあるしな ドイツ人から見ればなぜ挽き肉のステーキが
日本で「ハンバーグ」と呼ばれているのか
分かりづらいだろうな。ほぼ同じ料理なら
ドイツにも「フリカデレ」とか「ブーレッテ」とか
色々な名前で各地に存在するんだけども。 >>341
その通りだから、なおさら分かり辛いに違いない 商品名だがソーセージがバイエルンとかいってるがアレは
日本に直すと「スシブランドオオサカ」みたいなもんだろうか ナポリとは関係ない
スパゲティナポリタンと同じことだろ。
ボロネーゼはボローニャ由来だろうけど。 >>341
日本ではハンバーグが1853年のニューヨーク万博の頃にアメリカで広まった、
という説が流布している。その理由として、当時は料理の由来として
ハンブルクから来た船員がこの料理をもたらしたのだという噂があったと
されてるんだけど、こんな話は英語圏で見たことがない。
わずかに信憑性を添える要素としては、1847年からドイツのHAPAG社が
ハンブルクとニューヨークの間に客船を就航させていたことと、ハンブルクには
「ラプスカウス」と呼ばれるタルタルステーキが地元の料理として存在することだな。
余談だけど、ハンブルク市庁舎の地下にあるレストランで供されるラプスカウスは絶品。 ……と思ったら"Hamburg steak"で検索したら由来にまつわる
英語のサイトもヒットするな。 一応英語うぃきぺでも一説としてハンブルク港から来たという説があるのか フリードリヒ大王の時代のプロイセンはフランス人が凄い多かったらしいけど、
プロイセン文化と混ざって魔改造文化が生まれたりしたんだろうか?
食事では大王はイタリア料理も好んでいたらしいが 当時最先端だったフランス軍から流入した人材のおかげで、
早くも大選帝侯の時代から軍が魔改造されたって話は聞いたことがある 大王より前の時代からだと思うけど、
ユグノー (カルヴァン派新教徒) の迫害が本国で再開された時、
こっちに来て住むように勧誘したらしいね。
ベルリンの人口の1/3が仏語を話していたって。
ベルリン女が尻軽女の代名詞になったのはそのせいに違いない。 優秀な人材ゲットウマー、人材喪失したフランス哀れw
って皮肉ったプロイセン人ってフリードリヒ大王だっけ? ユグノー追放で、工業・経済力は落ちたが安定度は上がった。 >>354
その前に、自ら追放した軍人たちによって強化されたプロイセン軍に、
七年戦争でボコられる。プロイセンの盟約者、イギリスによって海外
植民地もかなり失うオマケ付き。 仏領インドも無くしたし、ケベックもなくしたし‥‥。 ユダヤ人を排斥したナチスドイツもそうだけど
それじゃ勝てないよね。戦争。 クービエール元帥のように母語がフランス語のフランス系移民なのに、
本国が陥落後してもなおナポレオンの軍に抵抗するような人が出てくる
くらいだからな。宗教対立の弊害は深い。 でも仏軍は北米東岸植民地では先住民をうまく使った。
英軍は植民地の味方民兵の技量さえ馬鹿にしていた。 フレンチ・インディアン戦争の結果としてイギリスの北米植民地に
重税が課され、ひいてはアメリカ独立戦争に繋がっていくのだから
イギリスにとっても良いことばかりではなかったな。 欲張らなければ良かったのにね。
でもまあ末代まで戦争では味方してくれるから良かったじゃないか。
イラク戦争みたいなのまで。 欲張らずに済めば良かったんだけど、戦争には金がかかるからなあ プロイセンが意外にしぶとくて戦争長引いたしなあ
まさか突然ロシアの女帝が亡くなってプロイセンに運が向くとは思わんかっただろうし >>363
伍長「おかしい…ルーズベルト死んだのに停戦できない…」 日本ではルーズベルトが落選して講話ムードになるんではと
レイテ戦の頃期待していたらしいね。四選しちゃったけど。 ザクセンとかバイエルンみたいな近隣諸国よりプロイセンが躍進できるような地理的な利点はあったの?
それとも他のドイツ諸国でもプロイセンと同じ政策取ってたら軍事大国として将来的にドイツを統一できる可能性はあったの? 地理的利点はないような。
領地が飛び地だらけだったからなんとか
くっつけようと懸命だったんじゃないかな。
それにいち早く王国になったし、人口を増やすのにいろんな政策をとったし? >>367
368さんも言ってるが領土がばらばらなので
それを維持管理するため強力な軍隊が必要だったという説はありますね
他には東方に進出できたのも大きいような
一応東方は野蛮な土地ですから
あとは30年戦争での惨状ををふまえた武装路線に
兵隊王の遺産をいかしたフリードリヒの冒険的政策も重要かと
あれで戦争による成功体験という快楽と
土地を奪われた敵に対して軍備を備える必要性という恐怖
この2種の感情が君主から臣民にいたるまで広範に共有してたのではないでしょうか
この感情云々は個人の推測ですが ブランデンブルクとプロイセンの間ってどうやって埋めたの
ブランデンブルクとプロイセンの間にどんな国があったの ポーランドだよ。
ロシア・オーストリア・プロイセンの三カ国分割で東プロイセンの間埋めた。
大王はジャガイモ畑にしかならない貧しい土地だと自嘲していた。 ポーランドだけか?じゃあ西方のラインラントとヴァストファーレン
はプロイセン領有前はどいつがもってたんだ >>372
ドイツ西部は、北の方にハノーファー選帝侯国、あとは無数の聖俗諸侯の領邦。 普墺戦争でなんで同じプロテスタントのハノーファーは併呑したのに、
ザクセンとかバイエルンは存続を許されたんだろうか
西方領土をプロイセン中央部とくっつけるのに邪魔だったからか 普墺戦争では、ザクセンも国土の半分くらい取り上げられてた。 ザクセンの領土没収はナポレオン戦争後のウィーン会議じゃね いやいや
アンスバッハ始め西方にも領土持ったからそれをいじする必要あったんだぜ ブランデンブルク選帝侯が相続によって得たプロイセンの地を利用して(プロイセン)国王になる前に
ザクセン選帝侯はポーランド国王になってるからねえ。
領土云々は地理的なものではなく、ザクセンより長子相続を家臣団と共に厳格に行った
ブランデンブルク家の政策によるね。
田分けは、洋の東西を問わず国力を弱める。
そのいい例がアンハルト候で、アンハルト・デッサウは類まれなる軍事的天才だったけど
家がアンハルト候領の3分の1か4分の1のデッサウ(地方)しか継げなかったので
フリードリヒ大王の頃にはもはやプロイセン王国の属国としてしか生きられなかった。
30年戦争の時には、皇帝軍とプロテスタント(特にスウェーデン軍)の蹂躙に任せるしかなかったブランデンブルク選帝侯が
プロイセン国王となることを認めてもらうために出した
8000人の援軍でスペイン継承戦争を戦い抜き、デッサウ候に鍛えられた。
その精強陸軍とケチのフリードリヒ・ヴィルヘルム(1世)父さんの遺産で
フリードリヒ大王は豊かなシレジア地方を手に入れて国力2倍になった。
7年戦争終結時のプロイセンは、尾張美濃2国を支配した時点の織田信長状態じゃないかな。 トマス・カーライルのフリードリヒ大王伝
未だに邦訳が出版されてないんだよな。 オーストリアにとってプロイセンっていうかブランデンブルクっていうか
ホーエンツォレルン家をあんなに強大になる前に葬るチャンスはなかったのか 大王以前の話なら当時の認識としてはオーストリア帝冠国家には
ブランデンブルク辺境伯、プロイセンは単独では到底勝てないってことだろう
ドイツ統一の試みは幾度もなされたが30年戦争で決定的に失敗してあとはズルズル
後退を続けたのがハプスブルク家だろ >>380
30年戦争
それ以前だとそもそも叩き潰す正当な理由がない なお30年戦争ではおおむねハプスブルク家は負け続けた模様 いやハプスブルク家って前半勝ってるぞ?
勝って油断して妥協的和平案を撤回して超強硬和平案で交渉開始したので
皆が敵に回ってフルボッコにされることになるだけ デンマークはバイエルンがいなかったらあかんやん
白山の戦いは順当にかってるが 大選帝侯から兵隊王の間、両国の間に波風を
立てるような要素はフリードリヒ3世による
王位の承認要求と、兵隊王によるユーリヒ=ベルク公国の
継承問題への介入くらいか?それ以外では例え損してでも
ハプスブルク家に忠実に仕えてたんだから、プロイセンを
叩く理由なんてなかったよ。 ハプスブルク家って男系断絶してハプスブルク・ロートリンゲン家になったらなんか急にありがたみなくなるよね プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世までは忠実なハプスブルクの犬だったのに
息子(フリードリヒ2世)がスウェーデンのカール12世に傾倒しちまうところが悪い。
大王がカール12世ファンになったのってヴォルテールの伝記が原因だよね。
しかもアンチ・マキャベリなんて本も出したのに
そのマキャベリズムを最大限に活用してハプスブルク家に歯向かうとは。 389ではないがプロイセンとオーストリアの領地がそれぞれ点在してて
しかも戦争協力してくれたらプロイセンに譲るという約束も
たしか百年前だったか二百年前だったかwにしてたはず プロイセンが領土をドイツ内で拡大できたのに対して、オーストリアの領土拡大は専らドイツ外だった
プロイセンは周辺の弱小諸侯を食いまくってドイツ内で領土を拡大しまくることができたけど、
ドイツ方面でオーストリアが国境を接していたのはバイエルンとザクセンという有力諸侯だったので
プロイセンみたいに周りの雑魚を食ってドイツでの領土拡大ができなかったってことでOK?
実際バイエルン継承戦争でバイエルン併合寸前まで行ったけど果たせなかった >>387
マリア・テレジアこそが帝国時代の最大のアイコンだから
その子孫となるとむしろ威厳が増す >>392
okじゃないよ
周りの雑魚食いまくってドイツで拡大した結果があのオーストリア
チロルやシュタイエマルクを筆頭にあの辺り一帯の諸侯はハプスブルク家に結構飲み込まれてる
バイエルンも内紛につけこまれて遺産継承戦争の時にはクーフシュタインをごつく分捕られてる
それも後背から殴り付ける類の分捕りじゃなくて
協力したるからクーフシュタインちょうだい、という正攻法
結婚と戦争で伸びて伸びて、バイエルンとザクセンまで到達した、というのが正しい 大王の時代の「マダムは少しお太りになったようだ」ってどれくらいデリカシーがない言葉なの?「今日体調悪そうだな、生理か?」レベル? 奥さんにかける言葉としては冷酷すぎることはわかるけどなぁ 嫌味じゃないとしたらマダムって言い方からして自分の結婚相手って意識が皆無だよね
ヴォルテールと同じペンフレの1人だと思ってそう ホモというより女が汚くて信用できないものにしか見えないだけじゃないの?そういう人って家族の女の人(母、姉妹等)は別モノってダブスタの事が多いし
多分小さい頃にでも自分達の前でペコペコしたり仲良く喋ってる女官が裏で悪口言いまくってるとか浮気の話を聞いたとかさ 農奴解放の検討を始めたのは兵隊王ことフリードリヒ・ヴィルヘルム1世。
農奴解放を含むプロイセン一般ラント法の編纂を命じたのはフリードリヒ大王。
でもフランス革命の影響で内容に手が加わり、実際に施行されたのは次の
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代になってから。 >>401
大卒がパチンコ、風俗しか興味ねぇ高卒と話が合うわけねえし
関わりたくないだろ
あれは、ああいう人たち と距離取る
そんな感覚だったのであろう なんでこの人こんな時代に十字軍起こしてエルサレムまで行ったの? >>405
十字軍
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1329745911/ >>406
確かに十字軍スレは建ってるけど個別スレがあるみたいなので聞いてみました >>407
節子、それホーエンツォレルン家やない。ホーエンシュタウフェン家や。 この人の生涯ってすごい映画映えしそうなのに扱った作品がないよね、なんでだろう >>409
全部が大王主役ってわけでは無さそうだけど
ttp://de.wikipedia.org/wiki/Liste_von_Filmen_zu_Friedrich_II._(Preu%C3%9Fen)
フリードリヒ大王が当たり役のオットー・ゲビュール
ttp://de.wikipedia.org/wiki/Otto_Geb%C3%BChr >>398
旦那が繁殖期の鹿のようにならないと妻だけじゃ産めないお >>405
フリードリヒ○世って君主はドイツ圏には何人もいてな…
それは多分中世の神聖ローマ帝国の方のフリードリヒ2世
このスレは近世のプロイセン王国のフリードリヒ2世(大王)のスレ 川で溺れた人には心当たりあるけど、煮られた人など知らん >>396
太るって時代によっては誉め言葉だけど
このばあいはどっち? 「マダム」って普通じゃないか?
フランスなら、オルレアン公でも一般の呼びかけは「ムッシュ」だし。 >>396
日本でも90代の老人などは全く悪意無く他人に「太ったね」と言う。
考えてみれば戦中戦後などは太っていられるのが富の象徴だったわけで。 >>399
ルイ16世もマリー=アントワネットには「マダム」。
但しルイ16世は、家臣にもさん付け敬語で話すような人だったが。 妹のアンナ・アマーリエって極秘結婚して出産したらしいけど、その子はどうなったのだろう
結婚相手の男も投獄、脱獄、フランス革命に巻き込まれギロチンとか、波乱の人生だったみたいだけど テレジアと結婚したらハプスブルク=ホーエンツォレルン家誕生だったのか。
これは子供を作らざるをえないね。
フリードリヒはテレジアの好みのタイプじゃないけどね。テレジアの恋愛結婚の夫は
フリードリヒと正反対のタイプ。女の3歩後を歩けるタイプだから。 カトリックの守護者を自任するハプスブルク家が家臣筋で、しかも
プロテスタントを信仰するホーエンツォレルン家から婿を迎えるなど
当時の感覚から言っても無理がある。実際、王太子フリードリヒは
オイゲン公の意を受けたオーストリア大使ゼッケンドルフ伯の工作で、
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯家から嫁を迎える
ことになった。 フリードリヒ大王の本を最近調べてるんだが
全部作家によって書き方違う謎
ホモだったり、性病だったり、自分の血を憎んでたり、単純に人間嫌いだったり
どれが本当なんだろ
それとも全部歴史家の主観の空想で真実は不明なん?
バッハとフリードリヒ大王って本で、イギリスのカーライルのフリードリヒ大王伝を
考察すると
ザクセンの強健王の城に招かれた時に性病に感染して女恐怖症になったとか書いてあったが
それの根拠をいくら探しても出てこない
(そもそも、性病になったなんか、あのプライドの塊が自分で言うか?)
そもそもカーライルのフリードリヒ大王伝って歴史書なのかフィクション小説なのかも分からん
誰か分かる人教えて
ベートベーンがデマで性病の疑いかけられてたみたいなもんか? ホモ説は女性嫌いで美しい妻と同衾せず犬と寝てたから
その状況証拠から推測されている
美男の将校にハンカチを投げて夜のお相手をえらんだ俗説はある
梅毒説は彼の姉の日記がソース
売春婦に移され男性機能に障害があったという話
人間嫌いの傾向はあるとおもう 哲学や音楽をともに語れた姉や妹とは仲が良かったから、
妻とは有り体に言って趣味が合わなかったのが粗略な扱いの
理由じゃないかと思う。
妻のエリザベート=クリスティーネは当時の宮廷人として、
申し分ない人物だったけど。 弟や甥が腐るほどいたから、無理に自分の血筋残す必要性
感じていなかったのかも。 大王本人の偉大さが突出しすぎて兄弟や配下の将帥の影が薄くて困る。 プロイセンのイメージを安易に軍国主義と結びつけた弊害で、ドイツ人でも
プロイセン王国時代に詳しい人は多くない(ただ史跡を守ってる人たちは
本当に真摯)。でも日本じゃ旧プロイセン領内におけるフリードリヒ大王や、
将軍たちの往時の人気を測ろうとしてもフォンターネの著作の和訳さえ
手に入り辛い。 >>426
ありがとう
でも
梅毒説は彼の姉の日記がソースって話なんだけど
弟が子供できないのに対して
弟の妻が悪い(姉自体はオーストリアの元帥の娘より、イギリスの王族の女と再婚させたかった)
って世間に言いふらす為に、弟ヤリチンでマジ困るわー程度のものだったと
聞いた事あるが
大事な弟が性病で不能なんて言うだろうか?
ちなみに、その本ではフリードリヒは16歳くらいの初体験で淋病かクラミジア程度の軽い性病にかかり
ナイーブな少年の心が汚され女性恐怖症になったって書いてあった・・・死後、医者が体調べた所異常なしだったらしいし
そもそも・・・一回妻のエリザベート=クリスティーネが妊娠した騒動あった時、大王が「おめでとう」って手紙書いたの残ってる事から性交渉はしてたと推測されるし矛盾
そして当時の梅毒なら鼻もげたり、脳に回ったりする不治の病だと思うんだけどなぁ
もし、その姉の日記のソースがあったら教えていただけないでしょうか?
何か気になってしまってすいません。 >大王本人の偉大さが突出しすぎて兄弟や配下の将帥の影が薄くて困る。
兄弟と元帥とか幹部の本って売ってないのかなぁ ガセ情報かもしんないけど、昔見た本か何かで、
@フリードリヒ2世はマリア・テレジアに恋をしていた
Aマリア・テレジアはフリードリヒ2世が大嫌いで、袖にした
Bマリア・テレジア夫妻は、最初子供に恵まれず、宮廷の誰かの助言で
セックスの際にバック(後背位)を勧められたら、あまりにもはまってしまって
いっぱい子供ができた…
って話を知った。
マジ??
マリア・テレジアのバックって、何だか萌える… ハンス・フォン・ヴィンターフェルト本
ttp://am zn.to/1AloZ6v
ヤーコプ・フォン・カイト本
ttp://am zn.to/1cT3SNJ
ハンス・フォン・ツィーテン本
ttp://am zn.to/1emeAxf
フリードリヒ・フォン・ザイトリッツ本
ttp://am zn.to/1Bi3AG0
デッサウ老侯本
ttp://am zn.to/1Lov7uN
あることはあるのよ……ドイツ語できないと読めないけどな! ヒトラーは死ぬ寸前にトマス・カーライルの大王伝を読んでいたそうだ。
七年戦争でロシアのエリザヴェータ女帝が死んだ所を
アメリカのルーズベルト死亡に結び付けて プロイセン様式を受け継ぐ南米チリ騎兵隊
http://m.youtube.com/watch?v=ACE0JNVcQOA&itct=CBIQpDAYBiITCOn9qvuq6MUCFcI8aAodtBoAATIGcmVsbWZ1SNPTm-nf4v_cxgE%3D&gl=JP&client=mv-google&hl=ja プロイセンのフリードリヒ2世とパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペスは
共に軍事によって国を拡大しようとした野心家で、同時に三か国を相手に戦った
外交音痴という共通点がある。
だが運の善し悪しで、その結果は大きく異なるものになった。 毛沢東がスズメの絶滅運動を行わせて、却って害虫が大発生し、
農業生産が深刻な打撃を受けたことがあったが、
フリードリヒ大王がこれと全く同じ失敗をしていた事を最近知った。 >>439
フリードリヒ大王と言えば1763年には生産性の阻害要因だった
農奴制を王領内で廃止してるんだが。その失敗があるとすれば、
せいぜい貴族の抵抗にあって農奴解放をプロイセン全土に波及
させられなかったことくらいだろ どこかで書いた気がするが
その手の話なら水がなくなった水車の使用料を
賃貸と見るか小作でみるかという有名な判例が合って
小作であるから果実から使用料を取る
よって収益がない状況なら只という判決だした話がある フリードリヒ大王はオーダー川とヴァルテ川沿いの沼地を
開発して農地にし、穀物の収穫量を増やした功績もある。 ドイツは一旦プロイセン主導で統一したが、世界征服に失敗して連合国に取り潰し、
抹殺されると首都はベルリンのままでも、経済は再び南ドイツが主導になった感じだな >>447
ベルリンを支える富裕州は実際には東部以外の全土に分散してる感じ。
ハンブルクは北部、ノルトライン=ヴェストファーレンは西部、ヘッセンは
中部の州だ。 >>440が書いている
1763年の王領内における農奴解放というのは
何の本に出てくる話なの? >>449
『ツァイト』紙オンライン版とか↓
ttp://goo .gl/3Mx37k
「Nach dem Ende des Siebenjaehrigen Krieges 1763 hatte Friedrich angeordnet,
es sollten »absolut und ohne das geringste Raesonieren die Leibeigenschaften
gaenzlich abgeschafft werden«.
「七年戦争後の1763年、フリードリヒは勅令を発し、『絶対に、そしてわずかも議論を
弄することなく農奴制を全面的に廃絶する」こととした。」
「Preussen Leibeigenschaft 1763」でググれば他にも色々出てくるよ。あ、「ss」は
エスツェットの方が良いかな。 >>450
ここで論文や研究書でなく、新聞記事がでてくるのかよくわからないね。
実際問題として農奴制はその後も残っているからねえ。
1763年にフリードリヒ2世は王領内の下僕奉仕の廃止に着手しているが、
これを>>440乃至はその依拠する新聞記事は農奴制の廃止と間違えたのでは
なかろうか。
「フリードリッヒ大王の統治について」矢田俊隆
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/17049/1/4_p112-140.pdf
「下僕奉仕に関しても、フリードリッヒは一七六三年以来王領地では農民との
契約満期毎にその底止に努め、一十六七年の法令でそれを成文化した」
むろんこれは農奴制を構成する要件のごく一部に過ぎない。 言う事とやる事が天と地ほど違うのが大王クオリティ・・・ 学術論文のソースもあるよ。ポツダム大学のフランク・ゲーゼ博士の論文、
『Friedrich und Leibeigenschaft』より。
「Die am 23. Mai 1763 den Kriegs- und Domaenenraeten in Kolberg gegebene Anweisung:
"Sollen absolut und ohne das geringste Raisonniren alle Leibeigenschaften sowohl
in koeniglichen, adeligen als Stadteigenthums-Doerfern von Stunde an gaenzlich
abgeschaffet werden", könnte von ihrer Diktion her als Muster eines Regierungsaktes
eines "allzustaendigen" und "allgegenwaertigen" Koenigs interpretiert werden.」
「1763年5月23日、コルベルクの軍事および民事議会に発せられた勅令、『絶対的に、かつわずか
にも議論を弄することなく全ての農奴制を国王、貴族および都市が所有する全ての農村で即刻廃止
するべし』は、その言葉遣いから『全てに権限を持ち』、『偏在的である』国王の統治活動の模範
と解釈できる。」
Webでも読める。(ttp://goo .gl/gDGtYy) >>454
プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの治世であった1567年から農奴解放は
試みられ、兵隊王の時代、1719年と1723年にも農奴制、農民の世襲的臣従や
農場領主制の廃止が領土の一部で命じられてる(ttps://goo .gl/DBe4m9、
44ページ目)ものの農奴制の全廃は1807年の十月勅令まで待たなければ
ならない。フリードリヒ大王の後継者、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代だね。
プロイセンに限った話じゃないけど、当時は貴族の協力がなければ軍が動かせない。 つまり>>440が書いた「1763年に農奴制を廃止した」というのは間違いなわけね。
法令の公布と実施の両方が揃って初めて「廃止した」と言える。
公布だけで実施が伴わなければ、「廃止しようとした」という表現が中正。 >>456
>王領内で廃止してる
>プロイセン全土に波及 させられなかった
これらにキチンと言及してるから間違いとは言えない >>457
1763年に王領内について農奴制を廃止できたという
証拠は未だに提示されていないね。
それが無い限りは間違いとしか言えないだろう。 >1763年に王領内について農奴制を廃止できた
ついでに言うと、そのような記述はドイツ語版のWikipediaにも英語版のWikipediaにも記載がないな。
大王が実際にそんな素晴らしい成果が収めていれば、特筆大書すべきことであるにもかかわらずね。
実際には、大風呂敷な勅令を発したにも関わらず、現場の反対でわずかしか実現できなかったという
黒歴史なのではないかな。 >>458
学術論文にも記述があるんで証拠がないってのは言い過ぎ。
Wikipediaに載ってる情報なんて断片的で、たまには間違いもあるほど。
そんなもんがソースとか言われたら却って信じられんよ。
それに
>実際には、大風呂敷な勅令を発したにも関わらず、現場の反対でわずかしか実現できなかったという
黒歴史なのではないかな
とまで悪しざまに言う理由が分からない。全然関係ない故人を嫌う理由でもあんの? 私には君が主張する
「1763年に王領内について農奴制を廃止できた」について
それが実現したという肝心の証拠を提示しようとしない理由がよく分からないね。
御触書が出たとしても、実現しなければ全く無意味なのだから、まずはそれが
確かに実現されたと、証拠を出して主張すれば良いだけだろう。
実現できないマニフェストを発表して、結局実現出来なかったとなれば、
古今東西誰であっても批判されて仕方がないよ。
このことは別に件の「大王」の事が好きでも嫌いでも関係が無いね。 干拓事業やジャガイモの普及を成功させ、収穫量を増大させた業績に比べれば
施行後すぐ撤回されたスズメ駆除の失敗など大したこっちゃない 雀の話はもう終わってるよ。
今の話は農奴制を廃止する!と大見得を切って実現できなかった事案ね。 で結局、フリードリヒ大王は農奴制を廃止できなかったの? 部分的に開放された農奴はいたんだが、大王とやらの軍隊に入れられて、戦争に狩りだされた。 プロイセンの場合は都市部の住民なら募兵の対象にならなかったからまだいい。
戦争中でも経済活動が麻痺しないよう、その原則は基本的に保たれていた。
同時期の英陸海軍なんてパーティーとかを開いて、都市部でも農村でも募兵に
努めたけど目標数が集まらず、海軍のみならず陸軍にも浮浪者や酔っ払いを
強制的に入営させる権限を与えてた。
この他の募兵の手段として、請負人の手を借りるという方法があったけど、それは
ヨーロッパのどこでも酷いもの。中には誘拐同然の手で入営させられた者もいた。 フリードリヒ大王が男色家だったことは
欧米では周知の事実だ。
日本は後進国だから、出来る限り「ゲイでは無かった」
ということにしたがるやうだがな。
恥知らずな後進国に成り下がったもんだ。
まったく >>471
証拠が何一つないけどな
明白な事実と言うからには物証くらい出してみろボケ 欧州では結構ホンマモンのケモナーがいるからな。
ありえる。 >フリードリヒ大王が男色家だったことは
>欧米では周知の事実だ。
第二次世界大戦後
フリードリヒ大王が何時時代の人間かもしらない無知な人権団体がばら撒いてたんだよな
同様に、ヒトラーとフリードリヒ大王を結びつけた学生が
女とヤリまくりの変態とかドイツの学生運動でデマ糾弾してたりしてるから
何故かヤリチンっていう認識のドイツ人も多い
判断基準になる証拠は、側近(スパイ)からの手紙で「それらしい傾向はあるが、事実はない」がある程度
実際関係は歴史の闇の中 単に不妊カップルだったのかも
男子が生まれていたらいたで、偉大な父となにかと比較されて大変だったろうな 奥さんにかんしては美人なのに
全く相手にしていなかったことが知られてる
かなりひどい扱いよ
なんらかのトラウマで女性嫌いなのかも
また弟にホモがいる
そういう状況証拠はある 世継ぎの大切さはもちろん解っていたはずだろうから
やっぱり身体的問題じゃないかな 姉の日記に病気で男性機能なくなったとかあるけど真偽不明
それとは別に女への扱いがひどいんだよなw
弟がいるから跡継ぎは何とかなるとおもったのかも ハインリヒが次男だったら、子供をつくっていたかもね
兄に次いで優秀だったし、なかなかのイケメンだったし、もったいない あの一族はかなりチートだよなw
名君や優秀な王子が結構いた
優秀だが大王含めよく言えば個性が強すぎる
悪く言えばおかしい奴が多すぎる 話が変わるんだけど、日本語版ウィキの大王やプロイセン関係の記事を更新してくれる方、ありがとう
記事によってはドイツ語版より詳しく分かりやすく、興味深く読ませていただいています 兵隊王の方が君主として優れていた。
単に運が良かっただけの大王 フリードリヒ1世からフリードリヒ・ヴィルヘルム1世までの時代にかけて
神聖ローマ帝国がプロイセンにどんな負担をかけ、どれほど見返りを
与えてこなかったか調べれば「そんな国の風下に立ちたくない」と
大王が考えたとして全く不思議ではない。
そして大王が無茶をしなければ、プロイセンがハプスブルク家を押しのけ、
その後の地位を築くことなどできはしなかった。 只のまぐれ勝ちにすぎん。100ある並行世界のうち99までは
無茶な戦争で国を滅ぼしたフリードリヒ大馬鹿王と呼ばれているだろう。。 まー、結局“もってる”ってことだなぁ
歴史上の名声をえるにはそのへんも重要な要素 ただのまぐれ勝ちだったら、ばくち打ち続けて破滅していただろうな。
下りるときをきちんと心得ていたな。 奇跡の連続が人類史だぞ
そもそも生命が生まれたことやお前の精子が勝ち抜いたことも天文学的確立なんだ
大王の奇跡なんてたいしたこと無い その偉人のことがどれだけ気に入らず、博打の結果がどれほど
気に食わなくても史実は史実なのだよ。 たいして評価する気にもなれない史実だけどなw
彼を評価するような人間は、確率というものを計算できないんじゃないか?
ヒトラーもそうだったが、大王とやらに憧れて博打を打つと身を亡ぼすぞw wwww
確立なんて後世の人間の妄想だわw
大王は成功した
その成功確率は観測上100%
494は学問レベルの知識ないだろw
底辺高校の高卒かFラン大卒いがいありえんw
論理のもって行きかたがアホ以外ありえない
煽りにやるにしろ脳みそがまともならもっと論理的にやる >>495
いわゆる「大王」が敗死して国を滅ぼさずに済んだのは奇跡なんだろ?
「大王」当人が奇跡だと認めるような低確率の勝利だというのに、
信者はそれを必然だと叫んでやまないのだからなw
歴史と言うのは本当に面白い。
まずはブランデンブルクの奇跡でもググれよ >>497
その認識に根拠がないんですよw
当人の奇跡という認識があってもそれが奇跡だという証拠はありませんよね?
そういうことを言ってるんですw
この論理で私を論破するのはまぁ無理ですよw
基礎的な論理力のないやつが敗北必至の論争を挑んでいるので
どうせアナタは罵倒しかできなくなりますw ヨーロッパ列強対自国の形に持ち込まれて失脚しなかったという歴史上の事例を見ればよい
ナポレオンは島流し、ヒトラーは自害、皇帝ヴィルヘルムは亡命
その原因となった闘争を始めた当人の代で破滅というわけではないがシュタウフェン家の命運も同様
などの惨憺たる結果と比較して大勝利して列強にのし上がった大王とプロイセンというのは
歴史的に確率の低い成功であったというのはまあ間違いのない事実だな 政治の評価は結果次第。
だからフリードリヒ2世は、誰に憚ることなく「大王」と呼ばれて
差し支えない。 でその根拠は?因果関係はありますか?相関関係でなく
我々は観測しかできないのです
確立が低いというのはあなたの個人的感想にすぎません
ラプラスの魔がいればすべては必然なのです
あなたが勝手に妄想するのは勝手ですが根拠がありません 世の中の評価で大王と呼ばれてるのに違う違う喚かれてもなあ…。
どうせなんとなく気に入らないとかが理由のアマノジャクなんだろ? >>501
観測して他の類型となる事例ではやはり破滅してるのに対して
フリードリヒ大王の成功は逆の結果となったのだから
「歴史的に見て確率が低い勝ち方」だね
低いの定義?基準より下回れば低い、上回れば高いということになるんで
私は基準を必ず成功するのと必ず失敗するの間に置いて、50%として
それ未満であれば低いとさせていただきますわ >>503
その類型があなたの妄想にすぎません分類の基準そのものが根拠が無いんですw
分類学というものは権威がくともいいますが歴史に類型を持ち込んでもいみがないですw
ラプラスを仮定すればすべて必然ですw
根拠を述べよ
逃げててもいみないよw >>504
ラプラスの仮定とは何ですか?
またそれが歴史学に適用できる論拠は何ですか? >>505
物質全てを観測でき、物理法則がすべてわかれば未来がわかるという仮定ですよ
そんなこともしらんのですか
未来がわかるなら確立もクソもないよね
ただこれは量子論なんぞからみておそらくむりなんだけどね
まぁ頑張りましたがもうあなた無理ですねw
当たり前に観測できないものをアナタが主張したからいかんのですよw 大穴狙いで万馬券を取った人間を見かけたら、
観測確率100%と喜び勇んで、全財産つぎ込みそうなたわけが居るわ。 おおw
ラプラスではない私の予言が的中
罵倒しかしなくなるw >>510
その数学的概念は「ラプラスの仮定」じゃなくて「ラプラスの悪魔」だし
そもそも仮定なのでそれを前提にした議論の展開をするには
仮定の証明が終わってからでないとまともなものにはならないよ 実際には下手な軍事的冒険に出て失敗した軍事的指導者は多いのに、
成功した場合しか目に入らないんだろうな。
本人は100パーセントの観測確率と思って居るが、それがタダの錯覚なんじゃね。
上の方で出ていた南米のなんとか言う好戦的な大統領も、
その軍事的冒険が万一成功したら、たとえまぐれ勝ちでも後世そのファンが、
成功確率は観測上100パーセントとか言って擁護してくれていたろうね。 戦争なんて所詮はバクチ。
意思の勝利だとか、悲しく哀れな思い込み。
サイコロの目に操られるマリオネットさ。 そうか?
みんなミスしまくりの中、如何にミスを少なくした奴が勝つかってだけな話な気もするが。 フリードリヒ大王が男色家だったことは
常識の域に属するが、
最も大王の寵愛を受けた人物は誰だったんだろう? >>518
フリッツの場合は、戦争以前に外交で敵を絞れなかった時点でダメダメ >>519
このスレは低能児ぞろいだから
まともに返答できる者なんて
いないよ。 ブランデンブルクの奇跡って、日本でいえば神風みたいなもんだよ。
そういう確率が低い事象の再現を期待するから、リアルな情勢判断ができなくなるw >>520
絞ったんだよ、これでも当時の情勢が許す限りに。その結果、イギリスは終始プロイセンの見方だったし、神聖ローマ帝国の領邦も一様に反プロイセンで結束することは出来なかった。
ヘッセンなんて姻戚関係もないのにプロイセン側についたしな。 >>519
そもそもそれ常識でもなんでもないぞ
証拠も何もないし >>524
少なくともロシアを中立化しないと、
オーストリアとの戦いに夢中になっているうちに
東から攻め込まれるのは目に見えている。 オーストリア継承戦争やバイエルン継承戦争ではうまくやっているし、7年戦争では外交には失敗したが粘り強く戦って最終的には
勝利した。
ブランデンブルクの奇跡にしたって、1回目はプロイセン側がロシア軍の状態を知らなかったから奇跡に思えただけで、
当時のロシア軍の状態を考えたら必然だった。
2回目もオーストリアとロシアの思惑が最初からずれていただけで、劇的に奇跡とか言っているだけで、実際には奇跡と言うほどではない。 またまた、幾多の戦陣をくぐったフリードリヒ2世当人が奇跡だと明言しているのに、
生まれてこの方、実際の戦争など全く見たことも無い、平和ボケオタクが
こたつの中でぬくぬくしながら、必然の勝利だとのたまう。
滑稽もここに極まれり。 >>528
つまり、内容についてはまったく反論できないから、大王が言っているから軌跡に決まっているだろうって言っているわけね。 自分で判断できない腐女子歴女は、ルイ16世(笑)とかタレーラン(笑)とかにでも萌えていればいいんじゃないのか。 >>527に反論するほどの中身は無いな。
ロシアやオーストリアの内情など、
フリードリヒ2世が全くコントロールできない事象であって、
それがたまたまプロイセン側に有利に働いた。
偶然の組み合わせで命拾いしたのだから、フリードリヒ2世が
それを奇跡と呼んだのは全く正しい。 >>531
クーネルスドルフの戦いで、ロシア側が大損害を負ったことはフリードリヒ大王がやったことで、まったくコントロールできない
事象ではないし、単にフリードリヒ大王がロシア側の損害が大きかったことを知らなかったので、奇跡に思えただけ。
2回目にしても、ロシアとオーストリアの不協和音は、それまでのプロイセンの粘り強い善戦が招いたことなので、
フリードリヒ大王の戦争指揮によって引き寄せたんだから、まったく関係ない幸運が舞い込んだわけではない。 まったくコントロールできない事象ではない、という二重否定は
つまるところ殆どコントロールできないという事の言い換えに過ぎず、
フリードリヒ2世が、奇跡的に命拾いしたことに何ら違いない。
○○信者というのは、得てして自分の脳にある理想像を崇め奉ることに熱心で、
現実の崇拝対象の発言でも、自分が理想像を崇拝し続けるのに差支えがあれば、
それを無視する傾向があるな。 あんたが具体的な内容にはまったく踏み込めないことは分かった。
後、必死に言い回しを変えているようだが、かえって不自然になって丸分かりだから。 一行要約:まぐれ勝ちを必然の勝利と思うのは死亡フラグである。 仮にまぐれ勝ちだったとしても、だからといってフリードリヒ2世を評価しないのも
視野狭窄だと思うがね。兵隊王の路線に忠実なら、プロイセンはいつまでも神聖ローマ
帝国の藩屏でしかなかったよ。1772年にポーランド王領プロシアを併合し、プロイセンを
名実ともに「プロイセン王国」にしてその外交的地位を補強した功績は、フリードリヒ2世に
求められる。 7年も戦争していて、戦闘のまぐれ勝ちはあっても、戦争自体のまぐれ勝ちなんて無いな。 「大王」とやらが戦争捕虜になってプロイセン分割となるのが
七年戦争の順当な成り行きだったのにな。
その流れで仮にドイツ帝国やらナチス第三帝国やらが成立しなければ、
第一次世界大戦も第二次世界大戦も起きなかったかな。 ロシアとフランスは勢力均衡の立場から、プロイセンを消滅させる気は最初から無かったけどね。 >>539
どちらかが総取りすれば、勢力均衡は取れないだろう。
だから仲良くプロイセンを分割すればいい。史実で中欧の大国ポーランドが分割されたのと同じ事さね。 プロイセンを3国で分割すれば、結果的にはオーストリアが神聖ローマ帝国内で強くなりすぎる。
プロイセン無しでは、後のバイエルン継承戦争も起きず、オーストリアがすんなりバイエルンを併合していたし。 プロイセンを評価するかどうかに関係なく、
「こうすれば良かった」、「こうなっていれば良かった」
なんて仮定ほど不毛な話はないな。 プロイセン?評価に値する国なのか?
何か人類の進歩に寄与したか? >>544
つまり、居なくても別に構わなさそうな名前しか思いつかなかったとw >>545
誰の名を挙げてもそう言ってれば良いんだから楽なもんだ >>544
国の問題を個人の問題にすり替えられてもな・・・ その国が育んだ偉人が人類に貢献したと考えれば、個人の問題に留まらない そもそも国と言う単位で人類に貢献するなんてことはあるのか? >>548
早く、一つの国と言う単位で人類に貢献した例を上げてくれよ プロイセンは他の国から逃げてきたユダヤ人や新教の技術者を活用してたから強いんだよ。富国強兵が信教より優先されるなんて当時の他にはないだろ。 >>514
もっと前のレスに魔ってかいてるが何の突込みだ
無意味にもほどがある >>528
論破されたアホが根拠無くただ罵倒W
予知したとおり「罵倒しかできなくなった」ねW >>557
しらんかったW
マックスウエルの悪魔とラプラスの悪魔は理系の本にいきなり出てくるファンタジー プロイセンなんて無くてもよい国だったな。
そしてドイツはバラバラなままが良かった。 >>560
早く、一つの国と言う単位で人類に貢献した例を上げてくれよ >>561
そんなことも知らぬとは、ゆとり世代よのう・・・ プロイセンがなかったらロシア帝国がもっと西に影響伸ばして中欧が地獄になってたかもな >>564
ドイツ自体が西欧をスラヴの蛮族から守る防波堤で、プロイセンはその尖兵だからな。 >>566
名声じゃない。国が肥沃な土地を欲するから戦争をしただけだ。 >>568
何も知らん奴だな。大王ご本人が戦勝による名声を求めたと言っている。 それは吹かしただけだろ。
如何な絶対王政の国とはいえども、個人の名誉で戦争は起こせない。 >>569
お前物事が起きる時は1つしか理由はないと思ってる系? >>570
人口で自国の30倍にもなる国々に対して同時に戦争を吹っ掛けるなど、
一国の指導者として正気の行動ではない。
しかし病的な名誉欲というか自己承認欲求を持つ人間の行動と捉えるなら
それは説明がつく。 >>572
お前無知すぎるなぁw
大王はうまく外交をやったんだがマリアテレジアがそれ以上の傑物だった
フランスとオーストリーが組むなんて誰も思ってなかった
結果的にそうなったが最初からそうしたわけではない >>573が素っ頓狂な事を言い立てているが・・・
オーストリアとフランスが結んだ外交革命は1756年5月、
フリードリヒ2世が開戦したのは同年8月のことだ。
オーストリアとフランスが手を組んだことは分かった上での
開戦なのだが。 >>574
オーストリア継承戦争の時点でもうプロイセンとオーストリアの対立は決定的になってるわけで
プロイセン側としたらその後に外交革命でフランスとオーストリアが組もうが何しようが
オーストリア側の戦争準備が出来た瞬間にもう殴り掛かる以外の外交オプションはねぇよ? >>575
盗んだものを持ち主に返して謝ればいいだけのことだろ?
それをしたくないために人口30倍の相手に殴り掛かる。狂人だわなw >>576
何でオーストリアの立場で語るんだろ
歴史的にニュートラルであれば「盗んだ」なんて評価してるのは単なる間違いなんだが 別にフリードリヒ大王は、フランス・オーストリア・ロシアを倒そうとしたわけではなく、シュレジエンを確保すればよいと言う目的で
勝算があって戦争を開始し、実際に目的を達成した。
特にもならない戦争に首を突っ込んで戦費を浪費した挙句イギリスに植民地で負けたフランスや、国を疲弊させただけで
目的を達成できなかったマリア・テレジアのほうがよっぽど間抜け。
フルボッコに論破されて1週間たって戻ってきてその程度のことしか言えない>>576がその100倍くらい間抜けだが。 >>574
www
あのな外交革命おきたから機先を制するいみで仕方なく七年戦争やったが
それ以前にオーストリア継承戦争とその他外交があったんだよ
大王はシレジア確保するため英に接近しその結果として仲良かった(ハプスブルクの敵)フランスと敵対したんだ
俺の話は七年戦争前の話だよw >>576
ちなみにお前は知らんようだがシレジア保有の法的根拠は一応あったんだぜw >>580
法的根拠なんて無いんじゃね?
この件ではマリア・テレジアのいう「シレジア泥棒」が大王に対する正しい評価と思われ。 >>581
そりゃ本気でお前が知らないだけだな
シュレジエン周辺の入り組んだベーメン王、ポーランド王、ブランデンブルク選帝侯の権利関係は
実は先にハプスブルク家支配確立の過程で無視され、強引に奪われてきたという来歴があるから
「法的根拠がない」というのは相当に無理がある
正しい評価って思うのは歴史的に中立でもなければ史料も無視したただの贔屓目だよ >>582
しょうもない言い訳はいいから、
プロイセン王国が持っているシレジア保有の法的根拠というのを早く示してくれよ。 >>582
>>583
シレジアはいろんな家の権利が入り乱れてたんだが
一時協力の見返りとしてハプスブルクからホーエンツォレルンに渡す約束があったんだぜw
勿論他の家の都合は知らんw
でもどっちもどっちでうやむやになった
大王は百年前の微妙な約束をもちだしたんだぜw >>583
?
ブランデンブルク選帝侯がプロイセン王も兼ねててかつてシュレジエン地方
普通に請求権持ってるんだが
https://de.wikipedia.org/wiki/Erster_Schlesischer_Krieg
これwikipediaのオーストリア継承戦争だけどプロイセン王国がどのように請求権を主張したかが
結構しっかり書いてある
と言ってもドイツ語なので俺も英語に自動翻訳してから読んだので理解は万全ではないから
他人にあんま強く読めとも主張できないんだが >>585
歴史を勝手に歪曲してもらっては困るな。
かつては領有権を持っていたがそれを失って長い年月が経っている。
例えば君が住んでいる家土地について、100年前は俺のモノだったという
人間が現れて君を追い出したら、君はその人間について泥棒だと主張
するのではないか? よこからだが法的には100年前であろうが権利はあるぜ
スペインの沈没船に四百年前の権利認められた品 そもそも7年戦争開戦当時のプロイセンのシュレジエン領有の根拠は、1748年のアーヘンの和約だからな。 まぁなんとか大王をたたきたいアホがいるが知識不足と論理力不足でなんもできてないという >>590は>>586への回答になっていないねw
さあ、君は100年前に無効になった古証文の持ち主に家を追い出されても
何も文句を言わんのかね?そいつはまごうかたなき泥棒じゃないか? 具体的に成果ってなにをあげたんだ?
マイナスの点をあげるとするならばなに? >>591w
あ。
自分の間違いに気付いて修正しやがったw
100年前だろうが本件は法的に有効なんだよw無効になってませんw
以上w論破終了
あとおれはお前の相手してた奴ではないからな >>593
やっぱり答えられないかw ダブルスタンダードの盲目的大王信者乙ww
法的に有効だと主張するならその根拠を早く示せよ。
泥棒の肩を持つからにはそれくらいすべきだろw >>594
オーストリア継承戦争の終結時にはもう法的にシュレジエンはブランデンブルクに属するとされてるから
むしろこれ以降に戦争準備したらオーストリア側の侵略だよねw >>594
586の論点
「領有権をもっていて100年後有効か」
答え「100年後でも有効ですw
はい反論なしで話題を二回にわたってそらしたのであんたの完全敗北w
594の論点は蒸し返しですでに584、584、588など複数人で反論してる
でこれに反論無く586に逃げてさらに未だに反論が無いのでこれまたあんたの完全敗北w 論旨に突っ込む気はないんだが普通は「領有権」じゃなくて「請求権」って訳語が入る箇所だよね
領有権って実効支配を表す言葉だから領有権を持ってたら普通に統治してることになるし 請求権があれば戦争で奪ってよいかと言うとそれは違うけどね。
王位請求権があるからと言ってクーデターを起こすぐらいの見当違い。
そもそもてめーが持ってるのは何番目の請求権だって話にもなるわな。 一度領有を認めますと言って和約を結んだのに、あれは取られたものだといって戦争を吹っかけるのは、更なる見当違い 領有権は権利だから実効支配とはちがいまっせ
権利は実際に確保してるかは問わない
請求権でも領有権でも競合したら上位の統治機関があれば裁判に
無ければ自力救済になる
シレジアは民族自決的にはオーストリアでもプロイセンでもなくポーランドだが
結局大王が勝っただけの話 「国民国家」という概念も確立されていない七年戦争の時期、
民族自決を判断の拠り所にはできないがな。
現代の物差しで過去を測る過ちを犯すことになる。 判断というのがなにをさすのか意味不明だが
民族自決を何らかの占領根拠にはしてないぞ
自力救済の世界で大王がかったというだけだ
民族のはなしはむしろ民族含む様々な要因がなんの役にもならんことの例としてあげてるんだ ああ、何の判断かと言えば請求権や領有権の正当性に関する判断ね。 フリードリヒ2世が暗愚とは一概に言えない。
確かに軍事的には抜けており外交は下手だったが、
指導者としての信念を持っていた事は否めない。 プロイセンが軍事的に抜けてたら、それに負けた同盟各国の軍は
なんだってんだ……。
ハプスブルク家がホーエンツォレルン家の奉仕に報いることの
いかに少なかったかを思えば、大王の行動原理だって理解できなくはない。 勝てば官軍、負ければ賊軍だろ。
別に悪いとかいいとか無いだろ。 良し悪しは無いな
効率的だったか、結果がどうかの判断基準はある
大王がなきゃ世界史はかなり変わってたことは確実
大ドイツというアメリカに並ぶ強国が欧州亜大陸にあったかもしれんw オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子がどんな目にあったかと
思えば、異民族に加えてプロテスタント圏(北ドイツ)まで抱え込んだ
ドイツ人国家なんてどれほど難治の国になってたか……。
アメリカと違って、ヨーロッパは移民を送り出す方だったし。 >>607
フリちゃんの戦闘の勝率を知ってて書いているのか?
どうお世辞を書いても名将ではない。 なんかしらんが各国の名だたる専門家が老フリッツは名将といってるので
あなたが一生懸命釣ってもキチガイのたわごとやで >>613
そんな愚かな自称専門家の本は早く捨てた方がよいな。
人生は短いぞ。もっと為になる本を読みたまえ。 フリードリヒより世宗大王の方が大王の称号に相応しいのに >>614
ww
では大王を名将としていない著作wと名将としてる著作の作者を列記してくれw
名将としてないひとはどんなものがあるんですかねぇ
ナポレオンみたいなビッグネームはあるかねw? >>616
その前に君はフリくんの戦闘の勝率について答えてみたまえ。
知らなければ調べてみるといい。笑えること請け合いだ。 >>617
逃亡おつw
話題そらししたなw
はいあんたの負けw >>618
おいおい、君が大好きな「大王」の勝率すら答えられないの?
そんな事で本当にファンなのかよw
それと名将と呼ばれるにはどれぐらいの勝率を挙げればよいのか
君の考えを合わせて書いてみたまえ。やさしい宿題だろw >>619
オーストリア継承戦争 勝利
七年戦争 勝利
アナタの恣意的評価での戦争の勝敗を並べてもかまいませんよw
まぁ二回にわたってすでに逃亡済みですがアナタの根拠はあなたの妄想以外あるんですかなぁw クレフェルトは『補給戦』でフリードリヒ二世の事を
「ケチな支配者」とか書いていたよね
日頃は啓蒙とか言いながら、攻め込んだ土地から略奪して
その軍隊を養ってたから
まあ現地調達は当時は普通のことだけど、理想主義者
みたいな事を言いながらえげつない事すると、偽善な
感じがするよ フリードリヒ大王は、将軍ではなく君主なのだから、戦闘の勝率よりは戦争に勝つ、それもバイエルン継承戦争みたいに、実質戦わず
して勝つことが重要だからな。 >>620
宿題の回答としては零点だが、興味ぶかい回答ではあるw
戦闘の勝率を問う問題だというのに見当はずれな戦争の勝率で答える。
これは戦闘の勝率を答えてしまうと、とうてい名将とは呼べない数字で
あることを、君自身が認めてることを意味しているわけだww
(「戦闘」でなく「戦争」についての話なら、上の方で何度も出ているが
単に運に頼ったまぐれ勝ち。名将とは似ても似つかない)
大王信者の墓穴を掘ってくれて、あんがとさんw 大体18世紀の戦争で、戦闘の勝ち負けだけを見ても全然意味ない。
戦闘を含めた全体の流れで、どのように行軍して拠点を押さえていくかが重要だから。
当時の戦争は将棋みたいなもので、駒の効かしでいかに相手を詰ませるかが勝敗を決める。 >単に運に頼ったまぐれ勝ち。名将とは似ても似つかない
これこそまさにフルボッコに論破されて逃げ出した主張じゃん。 昼行灯タイプが好きなのはかまわんが、有能な人間に嫉妬するのは恥ずかしいね。 >大体18世紀の戦争で、戦闘の勝ち負けだけを見ても全然意味ない
また墓穴が増えたw
戦争についてはまぐれ勝ちだと既に散々書かれている。
そこで戦闘について聞くと、大王信者は言を左右し目を白黒させて答えられないw
もういちどやり直すチャンスをあげようかなw
フリードリヒ2世の「戦闘」の勝率は? >>627
>戦争についてはまぐれ勝ちだと既に散々書かれている。
あんたが必死に書いただけで、片っ端から論破されてんだろ。 私が真実だと思い込んで何回も書けば、それは真実なんだ!(笑) >>627
きみは、君の大好きななすすべも無く首チョンパされた木偶の坊のスレでもたてて、オナっていなさい。 >>627
戦闘も色々あるから君が納得するように基準を聞きたいな
それの基準に沿って集計するから
まず君の考える戦闘とは何で、具体的にはオーストリア継承戦争では何に当たるか
七年戦争では何に当たるかを理由も含めて全て列挙して貰いたい
次に勝率の計算は勝利回数対総戦闘回数比なのか1-敗北対総戦闘回数比等色々あるが
それもどのように行うべきであると考えてるかを表明して欲しいね 小戦闘に全勝しても決戦に勝てなきゃ終わり。
小戦闘に全敗しても決戦に勝てればそれでオッケー。
そんなものだろ。 >>623
ええ
では自分基準の勝敗をならべてくださいなw
ところで著作もならべてねw
三度にわたって逃亡してるようようですがw あなたは40代ですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか? ここの大王信者は、大王が戦闘でどれくらい勝ったかも言えないのかよ。
選手の打率が何割か聞かれて答えられないようじゃ、とてもファンとは言えないだろ。 >>637
だから君の基準に合わせてやるから基準を言えってば >>637
逃亡してた馬鹿が再戦か^^
ところで戦争に勝って目的が果たされたならどうでもいいだろうにな
まぁ頑張って戦闘の定義を考えて敗北必至の論争をがんばって始めてくれ >>638は、戦闘の勝ち負けは人によって基準が違うと言い立てるつもりらしい。
そんなせこい時間稼ぎをしても、結局答えられないのでは意味がないよw >>640
逃亡キタコレw
まず戦闘になにを入れるかとその勝利の基準を言おうねw 打率の定義をしろと白目を剥いて言い立てる自称ファンクラブ 君は、大好きな糞こと足萎えのイカサマ師のことでも考えてオナっていなさい 後から難癖を付けられたり、話がかみ合わなくならないように前提を共有
するのは議論の基本のキ。
だから基準を問われてるのにのらくら逃げるなんて、最初からマトモに議論する
つもりなんかないんだろ。 そら突っ込まれると逃亡するしかないアホだしなw
すでに何回も逃亡済みw >>640
基準が違うとか言いたいんじゃなくて君の基準で集計したるからって言ってるやんw
文章読めない子やなぁ >>643-646
気色悪い独り言はいいから、
早く「大王」がどれくらいの割合で戦闘に勝利したか答えてみろよ。
3週間も時間を与えたのに、こんな単純な質問に答えられないなんて
こりゃよっぽどのことだなw 結局突っ込まれるのが怖くて基準を示せないとw
だせぇw >>647
君の言う戦闘の定義は何で、その勝敗判定の定義は何?
君の思う基準でいいから提示してもらえないとこっちも答えようがないんだよなぁ
別に基準にケチ付けたいとかそういう低レベルな事考えてるわけでなく
君の納得いく説明してあげたいからなんだけど何でそれをしてくれないのだろう 徳とか意味不明の寝言ばかり言っていたやつだからな。
まともな論争には勝てなくてすぐ逃亡するのも無理は無い。 >>649
人に教えて貰わないと「大王」が戦闘に勝ったか負けたかもわからないのかw
大王信者というのは、平均以上の知能を持つ人間にはつとまらないな。
ファンをやってる以上は人より知っているかと思ったが正反対だったな。
「大王」がどれくらいの割合で戦闘に勝利したか1ヶ月経っても答えられないとは、
さすがに想定外だったわw >>652
「お前が何を基準にしてるのか不明瞭なので明らかにしろ」と言ってるのに基準提示出来ない時点で
「基準無く思い込みで言ってるだけです」という告白になってるよ しかしこの釣り師はしょうもないなぁ
なんだこれとしかいいようない NHKの「らららクラシック」のフルート特集
大王がちょこっと取り上げられてた
大王の頃のフルートって、現在のものより低音で哀愁が感じられる音色だったんだね 大王のフルートと言えばフラウト・トラヴェルソだね
ここにそのうちの一本の写真がある
ttp://www.museumsportal-berlin.de/de/magazin/friedrich/seine-flote/ 大王のフルート、サンスーシ宮殿とホーエンツォレルン城
そして意外にも日本の浜松市楽器博物館にあるようですね
どれも行ったことないけど 軍事的才能には恵まれたが芸術の才は無かったからなぁ
家臣たちはどこかの落語の主人公みたいになってたはず >>659
普通に何曲も作曲してるし、自分で演奏もしてるよ?
中には現代でも評価の高い曲もあって、色々な演奏家がCD化してたりする。 ×軍事的才能には恵まれたが芸術の才は無かったからなぁ
↓
○軍事的才能には恵まれなかったが芸術の才は趣味としてまあまあだったからなぁ といっても比較対象が作曲家ならバッハ一族やヘンデル、
フルート奏者ならクヴァンツといった、当時の音楽が
好きな人なら今でも普通に耳にするような大家ばかり。
(てか、フルート好きなら大王が作曲家で奏者だったこと
くらい初耳ではないと思う)
素直に称賛に値すると思うね、今に残る曲を聴いても。
これ(https://goo .gl/ZeYUeV)とか好きだな。 伊藤若冲って、大王と同じ時代を生きた人なんだね
ぜんぜん関係ないけどさ
強いていえば異端児なところが似てるかな 関係なさすぎw
あえて言えばベロ藍(プルシアンブルー)を使ったことが確認される国内最古の事例が動植綵絵ってくらい 最近やってる国貞展でもプロシアブルー使った浮世絵あったな 大王のイメージカラーwはプルシアンブルーだよね
当時の日本の蘭学者たちは大王のことを知ってたかなあ 飯塚信夫の著作「フリードリヒ大王」に
「王はいかにもロココの人間らしく、編み物も嗜んだ」とあるんですけど
大王の編み物作品って、残ってるんでしょうか
レース? セーター? 見てみたい 1740年12月16日
フリードリヒ2世率いるプロイセン軍、オーストリア領シュレージエンに侵攻 大王の7年戦争勝利が、後にドイツが2度も大ポカやった遠因だな
ある意味大王の呪縛だわ 僥倖の勝利が後に禍根を残すという例。
日本人にも身に覚えがある。 百数十年もあとのことまで責任負えんわ
その間に意思決定できる指導者がどんだけいたと思ってんだ
そもそも大王がいなかったらナポレオンに初っ端ボコられるだけでなく、完全に消滅させられてたかもしれん >>675
ナポにはきれいさっぱりプロイセンを潰してもらい、ナポが自滅した後で
別の領邦国家が中心になってドイツを形成した方が、遥かに人死にの
少ない歴史になったろうがな。
フリ2が戦争で勝ちゃいいみたいな流れを作ってしまい、その安易な行き方を
誰も止めることが出来なかった。 >>675
後世、ドイツを破滅に導いた指導者であるヴィルヘルム2世、ヒトラーは共に熱烈な大王信者
特にヒトラーとは夢想的虚無主義者という点で同類タイプ。
正反対は合理的現実主義者のビスマルク >>676
プロイセン抜きじゃドイツ統一は無理だろ。
精々同盟や連合レベルの緩い連合がオーストリアの保護国としてずっと続いて、第一次で解体かな。
まぁ第二次世界大戦には列強の草刈り場だ。 >>676
神聖ローマ帝国第二の規模だったプロイセンを潰して
>別の領邦国家が中心になってドイツを形成とかその方が
人死にが多くなるわ
神聖ローマ帝国やオーストリア=ハンガリー同君連合内部の
民族・宗教的対立とか、神聖ローマ帝国の領域を跨いだ旧教国と
新教国の抗争を甘く見過ぎ。オーストリアが神聖ローマ帝国新教圏
最大の軍事大国だったプロイセンの代わりになれるなら、普墺戦争や
普仏戦争なんて勃発するどころか火種さえ生まれないわ。
で、プロイセンにもオーストリアにも無理となればドイツを形成できる
領邦なんて一つもない。 >>681
バイエルンとかもあったけどな
実際ドイツ帝国はバイエルンに滅茶苦茶気を使ってるし >>682
そらオーストリアを排除した後なら、オーストリア以外ではドイツ圏
最大の旧教国だったバイエルン(のみならず他の南独諸邦)に配慮くらいする。
だがバイエルンはオーストリアにもプロイセンにも成れなかったよ。
その両国ほど軍事に注力しなかったからね。 逆にバイエルンは、南ドイツはどうすればドイツ統一の中心になれたんだ?
軍事に注力するかしないかは、その時々の指導者による気もするが。 とりあえずランツフート戦争の辺りでハプスブルク家が総会議とかやってるのに先駆けて
とっととまとまっとけって話ではある ザクセンがポーランド王位を1697年に、プロイセンがプロイセン公領における王位を
1701年に、ハノーファーがイギリスの王位を1714年に手中にして外交上の地位を
強めていた一方、バイエルンは1806年まで選帝侯領であり、王位もナポレオンから
授けられたものだったからなあ。神聖ローマ帝国で幅を利かせるには遅すぎたし、
地位の向上もドイツ人受けしない方法で実現してしまった。軍事を抜きにしても、
神聖ローマ帝国内部における外交的アプローチも良いとは言えなかったな。 バイエルンの選帝侯位も三十年戦争におけるライン宮中伯への制裁で剥奪して浮いた選帝侯位を
皇帝が同じヴィッテルスバハ家の別流のバイルン公に与える形で獲得したもので
17世紀中盤近くまではただの公爵なんだよな タシロ3世前後の時代はカール大帝にメンチきったり王国になったりしてたのに、さびしいもんやな タシロ3世の頃だって、アギロルフィング家がバイエルン大公として
持っていた地位をカロリング家に奪取されたっていう寂しい経緯だからな。
で、カール大帝やロタール1世が西ローマ皇帝として帝国の頂点に君臨する中、
「Unterkoenig」(下王)が治める王国となった。 オーストリアが中心になってドイツを統合する歴史SFがあったな。 シュマルカルデン同盟を鎧袖一触で葬れたらその目もあったがな >>691
なんて題名の本?
ひょっとしたら30年戦争で旧教軍が勝ってたら目があったかもな。 プロイセンが軍事力の強化を志向したのは、三十年戦争でスウェーデンに
好き放題にされたことが原因とするなら、プロイセンの台頭を防ぐ鍵はスウェーデンが
握ってたのかも知れん。ただそのスウェーデンも、プロイセンに転仕した自国の人材や、
フランスから亡命したユグノーの指導もあって強化されたプロイセン軍にボコられる模様。 昔は「プロイセンは三十年戦争の被害が最も少なかったから発展できた」とか書いてあったが、
まさかあれは飛び地の方のプロイセンのことか ブランデンブルク=プロイセンの領土は1626年以降、スウェーデンと
神聖ローマ帝国の双方から荒らされてるよ。
西方領土もラーヴェンスベルク伯領の各城砦は三十年戦争中、なんども
攻められてる。 >>694
スウェーデンに好き放題されたんじゃなくて
スウェーデンが来るまで旧教軍に好き放題されたんだが >>697
そうだったね。正確には、1626年まで戦禍に晒されないで済んでた。その後、
→デッサウの戦いでマンスフェルトがヴァレンシュタインに敗北
→敗軍がクールマルクを略奪→その後、ヴァレンシュタインも
クールマルクを略奪→1630年、グスタフ・アドルフが襲来して
プロイセンと同盟を強制→1634年にグスタフ・アドルフがネルトリンゲンで敗北して
同盟が瓦解→プロイセン、皇帝軍に復帰→以後、クールマルクが皇帝軍と
スウェーデン軍の間で取り合いになる。
つまり、一番先に来たのはマンスフェルト+デンマーク軍、次に皇帝軍、それから
スウェーデン軍だった。 スウェーデンはあんなに寒くて人口もメチャクチャ少ないのによく進歩できたと思う
スペインとは大違い
どちらもヨーロッパの後進国で戦争だけが強かったみたいだが >>696
プロイセンの被害が大きかったというのは最近になって発見されたの? 1824年の『Real-Encyclopädie oder Conversations-Lexicon』という本に、
すでに「彼(ゲオルク=ヴィルヘルム)の試みは上手くいかなかった。
プロイセン西方の諸邦はネーデルラント軍とスペイン軍によってその所有権を
争われ、プロイセン地方はスウェーデンとポーランドの戦争によって荒らされた。
ポンメルンの諸公は断絶したが、ゲオルク・ヴィルヘルムだけは領有権を主張
できなかった。なぜなら、その地はスウェーデン軍が占領したからである。彼の
親戚たちも領土を失った。そして終戦を(生きて)迎えず、その国土を言い表せない程の
混乱の中に残した。」とある。
ttps://go o.gl/ax1aaE
ドイツ語版Wikipediaの「ブランデンブルク=プロイセン」のページに「1626年以降、
ブランデンブルク辺境伯領は目に見えて荒廃した」とあるのは根拠のないことではない。
和書の著者が、それでも「プロイセンの被害は小さかった」と書くならそれは不見識と
言えるな。 >>699
スウェーデンは人口を考えれば贅沢なくらいに土地が豊かで広大だろ
寒いという欠点はあるが寒いからこその小人口 >>699
夏が6月止まりの東北地方北部並み
平均最低気温
ストックホルム −3.9から14.5℃
マルメ −3から13℃
カルマル −3.5から12.4℃
青森 −3.9から19.8℃(6月13.5℃)
秋田 −2.5から21.3℃(5月14.6℃)
八戸 −4.2から19.3℃(6月12.8℃) >>703
鉱物資源に恵まれているという意味では豊かだけど、土地は肥沃じゃないよ。
その上、寒くて作物が育ちにくいから人口が少なかった。ジャガイモと言えば
ドイツってイメージがあるが、北欧諸国はいずれもドイツ以上にジャガイモに
依存してる。ましてや三十年戦争の頃なんて、ジャガイモの伝来前だしなあ。
他の国では飼料や非常食にしかならないルタバガを、普段でも食べてた地域だったり。 何を食べていたのかがかなり不思議だよな
一粒まいても二つぶくらいしか実らない穀物を植えてそう フリッツ爺さん「俺の本が出たらしい。作者は塩野七生とは?あれ皇帝?」 >>706
ジャガイモの到来前だと痩せた土地に植えられていたのはルタバガ以外じゃ豆や
ライ麦、大麦、燕麦、ソバとか。んで食糧事情は得てして都市部より農村部の
方が良い。 >>707
アンタじゃマッチョ好き塩野の触手は動かない ホモで草食系でチビガリだっけ?
英雄だが、無理だろうな。 ヘタリア好きの塩婆じゃ、当然ボンクラ皇帝のほうだろ >>711
シュタウフェン朝のフリードリヒ2世と言えばボンクラどころか、
生まれてくる時代を間違えたってくらいの英傑だぞ。
ほとんどシチリアで過ごしてたから、治世の間にアルプス以北の
諸侯の権限が増大したという一面はあるが。 >>712
ならシチリアだけの王になって、
ドイツは他の一族に任せるべきだった 地中海帝国建設の夢想にふけり、神聖ローマ帝国の分裂を決定的にした駄目皇帝。
ハインリヒ6世がシチリアのババァと結婚したのが運のツキで、フリードリヒのようなボンクラが生まれた。
ハインリヒ獅子公のような人物だったら、神聖ローマ帝国を強大にしていただろうに。 >>712
生まれてくる時代を間違えたんじゃなくて、生まれてきたこと自体が間違い >>716
宗教的出自を問わぬ人材の活用と、それを通じたイタリアの効率的な統治と、
後の西欧世界にも影響を残したほどの学問の振興なんて、本当にボンクラなら
できんことだ。
それに神聖ローマ帝国の分裂を問題にするなら、ハインリヒ獅子公を引き合いに出すのは
不適切だろ。帝国に分裂や混乱を招いた、という点では獅子公も引けを取らんぞ。 スペインといいシチリアといい、中世には先進的だったのになぜかヨーロッパの更新国になるのはなぜか >>718
フェデリーコ2世の治世末期にそれまでシチリア王に従順だった
半島南部、島嶼部に点在していたイスラム教徒このコミュニティが
「何故か」反乱を起こしたことがシチリア衰退の直接的な切欠
鎮圧と同時に大規模移住の強制が行われて雑居していたキリスト教徒とイスラム教徒が分離することになった
イスラム教徒とキリスト教徒に限らず多文化の混在が
科学と文明の進歩、交易の発展のエンジンとして存在していたシチリア王国は
この事で統治の安定以外の多くを失った
フェデリーコ2世は大好きな面白い王にして皇帝なんだが
結構ダメなこともやってるんだよなぁ >>720
スペインもイスラム教徒とユダヤ教徒の扱いを間違えて、ヨーロッパ中の後進国に逆戻り >>720
でもフリードリヒはアラブ人、ギリシア人への偏見はなかつたんだよね 奴隷が減って奴隷経済が崩壊すれば腐り始める。
アラブ土人テクノロジーは中世止まり。 >>717
フリードリヒ1世がハインリヒ獅子公の忠告に耳を傾けて、イタリア問題に拘泥しなければ、帝国の混乱は無かった。
ハインリヒ獅子公はヴェンド十字軍に見られる様に、Drang nach Ostenを推進し、東方に生存圏を拡大しようとする等
先見の明があった >>723
だから「何故か」と強調してるわけ
教皇とガチで殺し合いしてるところで後ろからムスリムに刺されるとか
性質の悪いジョークみたいな話 共通の敵や目的があれば宗教の事は小事として忘れれるかもしれない そういや近世のオランダではトラブル防止のため、商売の時は宗教の話禁止だったと聞く 忘年会を半強制することはハラスメント
男社会のクソ文化
ダウンタウンの松本気取りのくだらない奴
街中みんなのお笑い草だぜ バカヤロ様がいる
弱い奴には強く出て 強い奴には媚びへつらい
店長崩れのニセモノは
仕事も人望も紛い物
人には厳しく自分には甘く ケジメも無しとする
何でもすべての事が人任せで それでも良しとする
大学行ってもクズだから 常識なんかは通じねェ
相手を選んでハラ立てて
得意の火病はお手のモノ
今は君のために飲もう 僕も風と共に行こう
すべての人に 懺悔しな!!
https://www.facebook.com/katsuyuki.kida.923 >>728
そもそもオランダで主流だったカルヴァン派が予定説を採ってて
主流派が商売と宗教切り離してるからオランダで商売する人はそれに倣ってただけという話ではある シチリア王国でも屋外で宗教の話を禁じる「フリードリヒ二世勅令」みたいのを出して
(宗教的な美術とかは可、ただしイエスやマリアはダメ)、
各民族の融合に努めるべきだった。
融合がうまくいけばそれがシチリアのオンリーワンの文化となる。 >>732
同じフリードリヒ二世だから多少は多目に >>725
ハインリヒ獅子公がフリードリヒ1世に対し軍役を拒否して帝国の混乱を招いてるんだから、
そらないわ
しかもそれは、自分も大いに関わったヴェンド十字軍の結果でもあるんだし >>726
シチリア王国のイスラム教徒はシュタウフェン家最後のシチリア王、
マンフレーディの時代まで従順だよ。1266年、ベネヴェントの戦いでも
マンフレーディ側について戦ってる。フリードリヒ2世からマンフレーディの
治世でイスラム教徒が反乱を起こしたことなんてあったっけ?
あったらすまん。
マンフレーディをイスラム教徒の兵ともども敗死させ、シチリア王を継いだ
アンジュー家のシャルル1世は教皇と親密だったし、イスラム教徒どころか
シチリア王国の住民からも人気がなかったから不思議でもなんでもない。
シチリア晩祷戦争でシャルルの相手になったのはマンフレーディの遺領を
継ごうとしたペドロ3世であって教皇じゃない。
「教皇とガチで殺し合いしてるところで後ろからムスリムに刺される」って
何を指してるん? >>734
結局ロンバルディア都市同盟に破れてすべてを失ったんだから、ハインリヒ獅子公のほうが正しかったんだよ。 >>736
獅子公の協力があったらロンバルディア同盟に勝ってたかも知れんから、
そうは言い切れん。 >>735
イスラム系の官僚、軍人、もしくは諸侯等で組織立っての反抗というのはないが
シチリア島の農業を支えたイスラム系の農民はフリードリヒ在世中継続的に何度も反乱して
シチリア島から半島南部への移住させられてる
この移住政策が始まるのは破門十字軍と同時期か少し後で何度か行われてる
フリードリヒ2世はイスラム系農民の反乱に継続的に苦しめられてるんだが
移住後のイスラム系農民から官僚や軍人が排出されたりもしてて
フリードリヒ2世は反乱起こしたイスラム系農民にかなり温情的でもあったと言えると思う でもシチリアではラテン人、ギリシア人、アラブ人の住むところは別れていたらしい
一方トレドはモサラベ、カスティーリャ人、フランク人、ユダヤ人、イスラム教徒は同じ >>741
なるほど、ルチェーラに移住させられる前の話か。
その後はパルマの敗戦後、ロマーニャのギベリンがゲルフに寝返った後も
シュタウフェン家にイスラム教徒が反旗を翻したって話は聞かなかったんで
変だな、と思ってた。 大王が死んだとき、甥のルイ・フェルディナントは14歳くらいだが、すでに才能の片鱗を見せていたのだろうか。
そうであれば、ルイ・フェルディナントを養子にして、王位を継がせたらよかったのに。 >>742
雑居状態でちゃんとオリジナルの融合文化が創造できるだろうか?
町の中に違う様式の建物が並ぶだけで終わるかもしれん >>733
多少なんてレベルは超えてるな。
失政続きの無能皇帝の話はいい加減にしろ >>748
そうやって釣り針垂らし続けた結果がこの爆釣だってことを分からないお前は
さらに無能だなw 見当はずれの現実離れしたイタリア中心の政策のせいで、ホーエンシュタウフェン家の力を失わせ、
王権失墜の原因となり大空位時代を招いたフリードリヒ2世とか言うボンクラはいくらけなしてもけなしすぎと言うことはない。 >>748
フリードリヒ二世一代目が放棄したドイツ統一路線を、
フリードリヒ二世二代目が復活させた >>750
シュタウフェン家の力も、ドイツの王権も獅子公が二代にわたってドイツ王の足を
引っ張ってる時点でもう失墜してるわ。なんでもかんでもフリードリヒのせいに
すりゃ済むってほど単純じゃない。 帝国諸侯には特権をばら撒く無定見な政策、財政は借金でしのぐ、その場しのぎの統治を続けた結果、
後には焼け野原のような帝国を残した。 実の息子に反乱された挙句、眼を潰して自殺に追い込むようなクズ皇帝によって、ホーエンシュタウフェン家は滅亡した スレ違いってことも分からん荒らしが湧いてるせいだよ プロイセン王国も多数のポーランド人がいた
プロイセンとオーストリアは薩摩藩や松前藩に近い プロイセンは開拓時代のアメリカの西部みたいなものだな。 >>749
爆釣だ?ふざけろ
てめぇ一人で自演やってるだけじゃねぇか >>760
そう言ってもっと釣るつもりなのかw
浅はかなこった しかし薩摩藩や松前藩は
「俺達はあくまで日本人であり、異民族を支配しているだけ」という認識だったと思うが
プロイセン王国はそのへんも怪しい
スラブ人だと思っていたわけもないが、どの辺までドイツ人意識があったことやら >>762
本当、見えない敵と言うか自演は大変だよ
一人将棋を楽しめる人間じゃなきゃ出来ない >>764
分かるよ!
見えない敵が独り相撲を取ってると思わないと、やってられないもんなw フリードリヒ大王が指揮した戦いじゃないけど、七年戦争でのミンデンの戦いは
なんでプロイセンが勝てたのか戦闘の経緯がよくわからん
プロイセン連合軍のうっかり突出してきた兵団をフランス軍が騎兵で包囲攻撃という圧倒的有利なはずの展開で
全部跳ね返されて敗北ってどういうこと? まず一つ訂正せにゃいけんが、ミンデンの戦いにプロイセン軍は参加してない。
指揮官はプロイセン軍出身で、それまでに実績もある人だけどね。
フランス軍にとっての誤算はシュペルケン師団が増援を得ながら予想外に持ちこたえ、
正面からの攻撃にもどうにか耐え抜いたこと。そして騎兵を援護するべき歩兵集団が
連合軍の砲撃で阻止されたこと。また敗走した騎兵が友軍まで混乱に巻き込んだのも
痛かった。
ゆえに「定石通り歩兵集団を正面から、騎兵を側面からぶつければ良かったのに」と
批判されている。 あ、間違えた。ミンデンの戦いならプロイセン軍も参加してたわ。
ホルシュタイン=ゴットルプ中将とフィンク・フォン・フィンケンシュタイン中将指揮下の
竜騎兵9個中隊、この他フザール3個中隊が投入されてた。 なるほど、詳しい解説ありがとう!
フランス軍はこの戦いであえて定石を外して騎兵を中央に配置したってのは知ってたけど、
それが裏目に出ちゃったってことか
歩兵戦列の撃破は戦力優勢であっても騎兵だけではなかなか難しいんだな
なんか双方戦列が整わない状態で戦闘になっちゃって
戦力が逐次投入になったような記述だったけど NHKの「名曲アルバム」
今月はバッハの「音楽のささげもの」が放送されてます ヴォルテールと喧嘩別れした話なんかは
フリードリヒUの人間性を考える上で興味深いな ヴォルテールはフリードリヒ2世の宮廷で聞いた内部情報を使って金儲けをしていたからな。 大王様の好きだけど下手糞な自作の詩というプロイセンの最重要機密を漏らしたことでしょうな 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
0GYXD 主人にコーヒー禁止を言い渡し、自分は朝昼晩とコーヒーを愛飲。
18世紀のプロイセンにはそんな迷惑な下僕がいました。 国家第一の下僕ちゃんは国民がコーヒー買うとお金が国外に流出しちゃうから禁止してるだけで
自分がちょっとだけ買う分には大丈夫だと考えてるわけ
皆がやったらだめってだけだよ 国家の下僕であるが臣民個人の下僕ではないので問題ない 他の領邦やスウェーデン、スイスといった他国でも出てた禁令だから問題ない コーヒーを飲みながらジョルダーノ・ブルーノやベアトリーチェ・チェンチの首を切ったクレメンス8世こそ極悪人 大王様のおかげで我々臣民はどんぐりコーヒーを飲むことができるのですよ。
うん、おいしい。 あの手の代用コーヒーでプロが作った本気の奴のみたい 後のナポレオンもヒトラーも誤解ないし曲解しているがこの人の戦略目的はあくまでシレジアの領有と飛び地の連結だけ >>788
そらオーストリアとの国力差を縮めないと先代のユーリヒ=ベルク継承問題
みたいにさんざん神聖ローマ帝国から良いように扱われちまうからね。
「そんなこと」じゃ片付かないんだよ。 >>790
いや、シュレージエンの領有と飛び地の連結は結果として
オーストリアとの国力差を縮めるべ。
戦略目的、言い換えればやりたいことは変わってない。 >>791
つまり、オーストリアとの国力差を縮めるのが目的で、
シュレージエンの領有と飛び地の連結はその手段という位置づけになるな。
そうなると目的を達するための手段としては不足しており、
当然のようにさらなる征服活動が必要とされる。
事実、ポーランドを分捕るチャンスがあればすかさず食いついているしな。
(第二次・第三次ポーランド分割) ナポレオンやヒトラーとの大きな違いは、七年戦争を除けばオーストリア継承戦争、バイエルン継承戦争、ポーランド分割と
外交的にうまく立ち回って、おいしいところだけうまく頂くのを達成できたところ そういう勝ち逃げは真似できるもの、という錯覚を長きにわたり与えた。
石原莞爾もその一人だったな。 >>792
いや、だから大王が関わったポーランド分割は1次だけ。
あとはアホーな後継者がしでかしたことで、大王のせいじゃない。 大王だったなら緩衝帯としてのポーランドくらいは残したか否か そもそもポーランド分割は、ほっといたら全部ロシアの領土になりそうだから三国で分割することにしたのだから、
どっちみちポーランドは消え去る運命 >>793
ただし当時と後世を幻惑したのはむしろ七年戦争の奇跡の方という皮肉 >>799
ビスマルクのように外交センス抜群の指導者がいたことを考えると、
皮肉の対象になるのはあくまでも七年戦争じゃなくて、七年戦争に
幻惑されたヒトラーに絞られるがね。 フリードリヒとビスマルクの時代には超大国化したアメリカ合衆国がいなかったからなあ
ただこの二人ならもちろんそこも考慮に入れただろう。たぶん 七年戦争についてはむしろロスバッハやロイテンのような戦術的勝利の方が取り沙汰されたからな
むしろ外交的な不利を戦術的勝利の連続で挽回するという志向が一般的になってしまった
流石にビスマルクはそれに乗らず妥協も後退も辞さなかったがそれもまた当時の彼の不人気の理由の一つだったような その土壌の延長に登場するのが当然にシュリーフェンプラン >>802
7年戦争も、実際には戦術的勝利よりは、粘り強く戦い続けたことで、ロシアとオーストリアの不和を引き出せたことが
大きい。
フリードリヒ大王も、ザクセンを押さえて長期戦に耐える資力を蓄えるという目論見で開戦したし >>785
検索したら越谷にあるようだよ。
どんぐりコーヒーを飲めるお店が。
http://www.coen.co.jp/deli/ ナポレオンやヒトラーには目標や目的の限定性が無い
それこそ進める限りどこまでもで
スターリンはまだ「止まる」事も知っていたが >>806
ナポレオンはトラファルガーで敗戦したせいで
イギリスにどう足掻いてもトドメを刺せなくなったから
イギリスが経済的に終わるか、ナポレオンがどっかで負けるかのチキンレースをするしかなかった
だからイギリスが音を上げるまで一生終わらない
実際イギリスも青息吐息でナポレンは後一歩だったからロシア遠征さえしくじらなければな
フリードリヒ大王も同じようなもんでペチコート同盟が止めるって言うまで
一生内線作戦でモグラ叩きするしかなかった
大王の場合、幸運にもロシアが一番最初に脱落してくれたのが助かった >>807
ドームシュタットルで勝ってオルミュッツを陥落させ、オーストリア軍に
決戦を迫れたら対オーストリア戦は1762年まで長引かなかったかもね。 ナポレオンは、ロシア遠征以前にスペインでゲリラ戦に巻き込まれた(自業自得だが)のが痛かった イギリスにトドメさせなかった結果だよなぁ
スペインに延々と海上からゲリラに支援繰り返されたのが本当どうしようもなかったな >>807
イギリスより先にフランスが大陸封鎖にギブアップして実質的な通商を再開させてたんだよな
ただし他の国には以前以上の封鎖を強制して不公平感をも倍増させていたわけで |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
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)人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/
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|;:;:\;:;:;:// /< 二二)(二二): : : : : :\▲/:_・:/: :_: : : :ヽ__
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ヾヽニニ/ヽ--'/: : : : : :\: : : :| | | < ___) (__)
反 知 性 主 義 者 (フリードリヒ2世は)まるで何ら戦術の知識がない者のように
行動することがしばしばであった。
─── ナポレオン 戦術的なセンスに欠けていたのは、残念ながらナポレオンくんの指摘通り。 ホッホキルヒなど負けた戦闘の指揮には酷いものがあるが、
ロスバッハの戦いにおける指揮は他ならぬナポレオンも賞賛してる
ロイテンの戦いも見事な采配だった 知識が弱いというか頭でっかちで実地の知識が足りてないというか
何ていうか文人肌だから現場を結構無視して
ぼくのかんがえたさいきょうのせんじゅつ
やってる時がある しかしツォルンドルフ、リーグニッツにトルガウのいずれも
果敢な攻撃が多勢な敵からの勝利をもぎ取っているので、
結局誰もが結果次第で後からあーだ、こーだと言ってるだけ。 >多勢な敵から勝利を
いや、会戦の場で敵より少数になってしまうというのが
そもそも指揮として拙いわけよ。 >>819
プロイセンとオーストリア一国のみでも人口差が大きいのにそんなこと言ってたら始まらない。
兵力差の背景にある動員数や軍の配置なんて語りだしたらもう戦略レベルの話だし、それなら
そもそも戦争すんなと言うのが正解で終わる。だが今の話題は戦術だ。いざ戦場に臨んだ時、
手持ちのカードをどう切るかって話だ。その観点でフリードリヒ大王を見ると、極端な兵力差の
前に順当に敗れることもあるかと思えば、倍以上の敵に勝ったりもする。兵力差が1.5倍未満の
戦いでもだいたい勝ってるな。 それ言い出すと、プロイセンの王だったことから戦略ミスじゃないか? >>821
戦術レベルの話をしてるのに戦略レベルの話を持ち込むのが間違い
それも大王を批判するなら、「負けた会戦の指揮が拙かったです」なんて
至極当然な話にしかならないんだがな >>813
ナポレオン1世の言うことを信用するなら、足萎えのイカサマ師タレイランのことを絹の靴下の中の糞といったのも正解なんだな? ナポレオンは確かフリードリヒのことを、戦力集中がヘタみたいな事を書いてた気が。
まあナポレオン自身、人の事を言えるとは思わんが。 フリードリヒ大王のころの戦争と、ナポレオン戦争とではそもそも戦争の質が違うからな
戦争は王侯のスポーツといわれていた。
敵であるヨーゼフ2世やピョートル3世からも尊敬されたフリードリヒ大王と同国人からもコルシカの食人鬼といわれた
ナポレオンの違い >>822
はあ
戦略の話が検討外れだと思ったから出自から間違ってるって皮肉言ったつもりだったんだが >>826は>>819に向けた言葉だよね?
そもそも>>813以降、戦術が話題なのに戦略レベルの蹉跌を持ち出した
>>819の方が見当違いなのであって、>>820も>>822もそれを指摘する側だろ。 >>820
フリードリヒ大王の頃とナポレオンの頃で違うのは、戦争の質じゃなくて徴兵の質。
プロイセンはカントン制を敷き、少なくとも国内では都市部からの徴兵を控えた一方、
フランスは王政時代から都市部の住民を含めてほぼ無軌道に徴兵していた。
連隊所属の募兵部隊が応募者を甘言と深酒で勧誘したり、徴兵請負人が民家や教会に
まで侵入して男を拉致したりすることまでやってた (ttps://go o.gl/HUyJ3f)。
フランス革命期、カルノーの改革で国民皆兵となり、後の時代に悪影響を及ぼすほどの
動員が達成され、フランス一国で周辺各国を圧倒するまでになる。
プロイセンは第六次対仏大同盟戦争の時期にはラントヴェーアを導入して同様の傾向を
辿るが、同時代のフランスほどの根こそぎ動員はやってない。てか、やりたくても
そこまではできなかった。 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
K8Q 七戦争のプロイセンは、軍隊の損耗率が100パーセントを越えたと何かで読んだが・・・
そんな戦争をする王も王なら、それにつきあう国民も国民だ。
呆れるしかない。 先代がそのためだけに国家を保有する軍隊とまで揶揄されるような
プロイセン王国を長年かけて作り上げたからな >>830
何で読んだのか言えないようじゃ鵜呑みにできん
だいたい大王の時代は現代に通じる啓蒙思想がようやく芽生え始めた頃で、
一般人、特に軍人は日本の体育会系を煮詰めたような精神性の持ち主ばかりだぞ
しかも、それはプロイセンに限らずヨーロッパのどこでもそうだった そもそもフリードリヒ大王の時代の兵隊は傭兵だから、一般国民とは何のかかわりも無い >>835
大王の時代のプロイセン兵はカントン制で集められた農村出身者と
徴兵請負人が国外から連れてきた傭兵の二本立てでございます。 さらに都市の守備隊は民家に分宿してたんで、一般国民とはめっちゃ関係がある。
兵士は薄給だったから、市内で内職にも励んでいたし。 迷惑な兵隊を街から連れ出して
戦場で大量に磨り潰してくれる
我らが大王様ばんじゃーい。 そういやなんでプロイセンが国家を持つ軍隊なんだ?
意味がよく分からん >>823
どちらも本質を捉えたコメントだと思うね。
ナポレオンには評論家の素質がある。 確か前スレあったよね
URL判る人いたら貼ってくんない 定期的なレスになるが
フリードリッヒ2世の功績としてはオーストリア継承戦争とシュレージエン領有は確かに評価される。
しかし7年戦争の窮地に嵌まったのは明かなフリードリッヒ2世の外交的失策つーか、外交以前の自身の舌禍が原因だ。
戦術的勝利で戦略上の窮地を7年凌いだのは立派だが、最終的に勝てたのはたまたまの幸運だ。
大王と呼ばれる程の王ではない、明かに過大評価だろ。
むしろ抑止力としての軍事力育成に徹した父の兵隊王こそ評価されるべき。 七年戦争勝ち抜いた後の内政面に大王の手腕って父親よろしく盛大に発揮されてる
というかむしろそっちのが後のプロイセン雄飛の礎と言ってもいいくらいに成功してたりする
単純に勝ったから大王というわけじゃないってことはちょっと抑えとくべきだな 7年戦争時の状況を作ってしまった反省を戦後に生かしてるよね >>845
確かに総合的には兵隊王の方が君主として評価に値すると思うが
後継者の教育には成功したと言い難いのでそこが減点 天才の業だった(ジョミニ「戦争概論」)
ジョミニの評価は高い >>848
ハァ?
兵隊王の後継者が他ならね大王だろ
兵隊王の「あの教育」が無ければフリードリヒ2世は唯の芸術好きな文人王に終わってたかもな >>850
兵隊王は最晩年、ユーリヒ=ベルク公国の継承を巡ってハプスブルク家と
決裂し、王太子に自らの言葉で外交に関する遺訓を残してたりするんだよね。
かなり大雑把に言うと、諸外国に決して気を許すなというもの。
日本だとフリードリヒが恩あるオーストリアにいきなり牙を剥いたかのように
言われることもあるが、兵隊王の最晩年にも神聖ローマ帝国に対する遺恨があった
点に注目する人はあんまり居ない気がする。
(「にも」と言うのは兵隊王に限らず、大選帝侯もフリードリヒ1世も神聖ローマ
帝国に煮え湯を飲まされてきたから) シュレジェンの領有確定については現地が新教人口が多くプロイセンの統治を歓迎していた面も大きい >>853
だからと言って侵略が正当化されるわけでもない。 >>859
当時もフリUさんは非難されていましたが・・・ >>860
その3代前、大選帝侯に皇帝レオポルト1世が与えたシュヴィーブス(シフィエボジン)
一帯をフリードリヒ1世(ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世)から再び召し上げた
経緯も非難されてるがね。
大選帝侯はシュヴィーブスを代償として、父祖がレグニツァ公と結んだ相続契約の放棄に
同意したのにレオポルト1世は、侯世子だったフリードリヒ3世が納得できない形で同地を
取り戻した。
これが巡り巡って、フリードリヒ大王の宣戦理由になってる。 フリードリヒ大王のような人はプロイセンの政治風土の中では異端なんだよな
彼のような人が彼の地にもっと多くいれば、ドイツが軍国主義に染まることもなかっただろうし、
その夢と熱から醒めるのに二回も頭を激しくぶつけて出血多量になる必要もなかっただろうに 彼のような人が居たから、ドイツは軍国主義に染まって
二回も頭を激しくぶつけることになったのではないかな ビスマルクがどれくらいフリードリヒ大王を参考にしていたか
知らないけど、ビスマルクであれば「外交的に孤立したらドイツは詰む」って
教訓を引き出していたと思う。自身も外交畑だしな。
一方ヴィルヘルム2世やヒトラーは、この点を甚だしく軽視していたとしか
思えない。政治は結果責任だから、大選帝侯からフリードリヒ・ヴィルヘルム2世
までの歴代君主の功績は否定しようがないが、あの二人は「ブランデンブルク家の
奇跡」があくまでも「奇跡」であることを重く見てなかったのではないかな。 僥倖で戦争に勝つと、将来の戦争でそのツケを払うことになる。
日本も身に覚えがある話だ。 フリードリヒ大王については、なぜかオーストリア継承戦争とバイエルン継承戦争は無視される。
また、七年戦争でもイギリスからの経済援助の影響は大きかったし、ハノーファーの兵力もあったのだが、
なぜか単独で戦ったかのように言われる。 史実でもギリギリで勝った(生き残った)のだから
イギリスが早々に援助を切り上げてたら
プロイセンは自分でしかけた戦争で自滅した可能性が高いね。
イギリス様様だよ。 イギリスは金さえ出しておけば、フランスの力を大陸に引き付けられるのでプロイセンを利用しただけだし、
大王はそれを承知で、ザクセンを兵站基地化することで長期戦に耐えられるようにする目的で、自分から敢えて戦端を切った イギリスはイギリスで、途中で単独講和したからプロイセンからは裏切ったと思われ、他の国からは
皆が大陸で戦っている間に上手いことをして勢力を広げたと思われ、実利は大きかったが他国からは警戒されるようになった >>870
イギリスにはハノーバー朝の故郷をフランスから守りたかったという重要な
理由があるぞ。そこには金だけじゃなくて兵も出してる。 プロイセンをつぶしておけばナチスに悩まされる未来も無い。
タイムマシンに乗ってイギリスに教えに行きたい。 その分フランスかロシアが拡張してめんどくさくなりそう 正に>>874の言う通りで、>>873は大陸に突出した国家が
できないよう立ち回ってきた、というイギリスの基本政策を
理解できてない。
ヴィルヘルム2世と、もはやプロイセンと関係もないヒトラーの
時代が例外的だっただけで、プロイセンは基本的に親英だったし。 >>864
第一次世界大戦が終わるまでは、どこもかしこも軍国ばかりだった件 >>873
そのときどきで弱い方を助け、強い方を叩くのが、バランスオブパワー政策の基本
その結果、強い方を叩きすぎてバランスが壊れるのは、よくあること アメリカが、ロシアとのパワーバランスを目指して中国をテコ入れしてきた結果が、現在の状況
今度は中国が強くなりすぎて、米中冷戦が始まった
その一方で、アメリカとロシアの関係は急速に改善へと向かっている >>876
軍事作戦上の都合のためにかねてから中立国の侵犯すら織り込んでいたような戦争馬鹿と一緒にされたら、
他の国も堪りませんわ 戦争馬鹿と言うのは、戦争をやりたいばかりに、中立法を無視しまくったルーズベルトだろう >>879
「おう、イギリスの悪口はもっと言ったれ」ってアイスランドとノルウェーが
言ってたぜ 絶頂期のフェリペ2世、ナポレオンやヒトラーでさえ英国侵攻は出来なかった
フェリペ2世はアルマダ海戦で負けてスペイン斜陽が始まった
ナポレオンとヒトラーはある意味英国を孤立化させようとロシアに手を出して破滅した
「平時には神に祈り、戦時には海軍に祈れ」の伝統は伊達じゃない >>884
カエサル「オッスオッス」
ザクセン人「ちぃーっす」
クヌート大王「ハァーイ」
ギョーム2世「よっ」
チャールズ・ステュアート「うっす」 色々知っててすごいねw
チャールズさんがそこにあるのは不勉強で分かんなかったから教えて >>886
「若僭王」ことチャールズ・エドワード・ステュアートが1745年、ジャコバイトの蜂起に乗じて
フランスからスコットランドに上陸した。
てか、英国侵攻(主にフランス発)って歴史上、結構あるのよ。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Invasion_of_England
↑には計画も込みだけどな。 >>885
884はイングランドの国家アイデンティティーが確立した絶対君主制テューダー朝以降の話ね
それ以前の封建領主制時代に受けた侵攻は国家に対する侵攻というより単に王朝交代だから
特に100年戦争前のイングランドとフランスなんて互いに国家のアイデンティティーが確立して無いから、国境はあって無いような物やし
後、チャールズ・スチュワートの場合、侵攻ってより侵入にして現地のジャコバイトを蜂起させたけど、結局凹られて逃げ帰ったんじゃん >>888
ゴールポストが動いたね。
それはさておき、若僭王の侵攻は鎮圧されるまでの間にスコットランド全土と
イングランドの一部を切り取るほど大規模な侵攻だったと評価できるし、それ以前の
1690年にはイギリス海軍の敗北に終わったビーチー・ヘッドの海戦の余波で
フランス軍の上陸を許し、ティンマスの町を焼き払われてたりするが。
翌年の名誉革命も、集結まで戦闘が起きなかっただけでウィレム3世率いるオランダ軍
によるイギリスへの侵攻だぞ。 >>889
ゴール動かすも何も、最初からフェリペ2世以降の話しかしてないし
カエサルなんて紀元前の話されてもな
あと英海軍が不敗だとは言ってない
ただ大陸からの大規模上陸は許してない、100年戦争時だって戦場は大陸だし
反対に英国は大小の遠征軍を大陸に送ってナポやヒトラーを締め上げたりしたけどね
チャールズ・スチュワートのはあれは実質ブリテン内の反乱だろ
フランスもコソコソと800人しか上陸軍送れてないし
名誉革命は確かにオランダの侵攻とも言えるけど、英軍は戦意なくて殆ど戦ってないから実体はクーデターに近い
ノーカウントだわな 「絶頂期のフェリペ2世さえ」という表現では、その前後の時代を除外したと受けとる読み手はいない。
ジャコバイトの蜂起もフランス軍まで侵攻してきた事実は否定できない。
名誉革命も、直後にそのままウィリアマイト戦争が勃発している経緯を考えると無血の看板に味噌が付く。
そもそも争われているのは、英国侵攻の可否だろ。
なら、昔っから千客万来でFAだわな。 名誉革命ねぇ……ステュアート朝の視点から見れば内憂外患の果てに
国王が外国軍によって玉座から追われた一方、自国軍は王のためにほとんど
動いてくれなかったなんて果てしなくgdgdな事件だよなw 釣られて途中論点多少ずれちまったけど元々は王立海軍(Royal Navy)の話をしたつもりでね
だからカエサルやノルマンの話されてもな(まぁ当時から海軍はあったけど)
英国侵攻の可否ね
王立海軍となったテューダー朝以降では英国へのゲリラ的上陸は出来ても、英国を追撃できるような大規模侵攻は無理だね(ビーチーヘッド海戦なんて初めて知ったわ、町を焼き払ったぐらいで、それが何か)
本格的な英国侵攻可能ならナポやヒトラーがやってるだろ
大陸欧州制覇した(ロシア除く)ナポやヒットラーが出来ないのに誰がやれるのさ ノノヽ、
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_ノ/ \ノノノ
ヽ ヽ、
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ヽ ./ `, |
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ヽ ( c、_,っ ) | `'lヽ./
ヽ .` ´ | .|ノノ
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| ヽ___/ / | 何止めたん?
勝った!勝った勝った、はい論破!
とでも言えば良いのかな ノノヽ、
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| ヽ___/ / | つーか最初の条件設定が甘過ぎる。
後付けで
-テューダー朝以降
-大規模侵攻(何をもって「大規模」とするのかも主観的だが)
でないと駄目だと言うくらいなら、最初からそう明示しないとツッコミ放題だわ。
そこまで条件を緩和しても、名誉革命は繕いようがない内憂外患と、
それに起因する外国軍の侵攻による政権転覆だがな。
しっかしプロイセンスレで、なんでこんな話になったのやら。 歴史マニアはめんどくせえのが多いからな
プロイセンには内戦状態になるようないざこざってないよね
いや神聖ローマ帝国内では揉めてるからそれどころじゃないないのか 歴史学も科学だからな。
何かを論じる際、条件設定はそれなりに厳しい。
「史上初の」、「史上最大の」、「歴史上、存在しない」などの言葉はウカツに使えない。 884は単にRoyal Navyマンセーで書いたのに、カエサルまで持ち出されて突っ込まれてさ、挙げ句に条件設定が甘いとかさ
本当歴史マニアは面倒くさいわ
だいたい884はナポレオンスレにレスする積もりのを間違えて大王スレにレスしちまった奴なのに 今のナポスレはイギリス海軍を語る流れじゃないし、
そもそも誤爆したのに違うスレに居残るとかこれもうわかんねぇな 大王の本当に偉大なところは一時的に優勢になっても本来の戦略目標を見失わなかった事 フリードリヒ2世の悪名は後世にも轟いている
マリア・テレジア皇后陛下、万歳万歳万々歳! 大王様は、ヨーゼフ2世やピョートル3世など、敵国の皇帝さえファンになってしまうほどの人気者 同時代に生きてたらそりゃファンになるよな
とベタ褒めすると鋭いツッコミが入りそう(期待の目) ファンがいました、という意見に対して
「いや、アンチもいたぞ」なんて言っても
当然過ぎてツッコミにもならん 政治家や軍人はファンになるだろうけど
音楽家や詩人はクソ味噌にけなすであろう フリードリヒ2世の悪行は後世にも轟いている
マリア・テレジア皇后陛下、万歳万歳万々歳! >>909
フリードリヒの宮廷から去ったC.P.E.バッハのような音楽家がいる一方で、
クヴァンツやベンダ、グラウンなどその宮廷こそが活躍の場だった音楽家も
少なからずいる
てかフリードリヒ2世の宮廷って、その庇護下でギャラント様式が開花した
舞台だしね
音楽史の観点から見ると、どちらかと言えば高評価だよ 真に偉大な王は兵隊王だよ
己の信じる道を邁進してプロイセン勃興の礎を築いた >>911
えーと
大王がへぼ詩人だったことをおちょくるネタやでw >>913
中にはわざわざ元のフランス語からドイツ語に訳された上で、本にまとめられるくらい
評価の高い詩を人生のどの段階でも詠んでるぞ
ttps://www.schoeningh.de/katalog/titel/978-3-506-77307-4.html
音楽家としての評価も決して低くなく、多くの演奏者が大王の曲を再演してる 音楽に関しては低い評価なんてありえんわな
フルートの名手だったし、作曲した曲はCDにもなってて、俺も持ってる 大王へぼ詩人説ってどっから出たんだろうな
反君主論辺りの論評由来な気もするがよくわからんな 大王にとっての詩作は極々個人的な趣味であって、人に見せるものではなかった。
ただし心から信頼している相手には詩を贈ることもあり、相手への信頼が失われた
時には贈った詩の返却を求めていた。
大王の詩を悪く言ってるのはヴォルテールが大本だろう。彼は大王のフランス語の
添削を任されていた。詩のように繊細に言葉を扱う芸術で、そもそも文法に間違い
があったとしたら、そりゃ評価も高くはなるまい。
ただ、大王にもセンスはあったんだろうな。でなければ後世の人も、わざわざ
ドイツ語に訳そうとはしないし、現代に至るまで賛辞とともに出版しようとはしない
だろう。
無論、どの詩も名作ってわけじゃないが。例えばエリザヴェータ女帝の没後に捧げた
哀悼詩とか、故人への辛辣な悪口でしかない。大王が女帝をどのように思っていたのか
伺い知ることはできるけど。 >>916
プロイセンの君主がプロイセン語を蔑ろにして、敵国フランスの言葉で詩作などにふけっていれば
とうぜんカチンとくる臣下の方々がいらっしゃるだろう。 フリードリヒ2世の悪政は後世にも轟いている
マリア・テレジア皇后陛下、万歳万歳万々歳! プロイセン語って何だよ
大体当時の王侯貴族はフランス語で生活するのが当然
不定詞王なんて、ドイツ語がまともに話せなかったし プロイセン語はドイツ騎士団に侵食される前のバルト語派の言語
大王たるもの、国名のルーツになる人々の言葉を蔑ろにしちゃいけないよねw プロイセン王がプロイセン王を名乗ったのは、プロイセンが神聖ローマ帝国外で王号を名乗るのに問題なかったからで、
本質的にはブランデンブルク王。
ユンカーもほぼブランデンブルクかポーランド系で、プロイセンの主流だった自由農民もドイツ人
プルーセン語なんて誰も知らない ちょうど大王が生まれた頃に死語になったんだな
兵隊王の幼少期あたりが今のアイヌ語みたいな感じだったのかな フリードリヒ2世にとってはドイツ語なんて田舎言葉もいいとこで、
とうていボクの文化的素養を生かせる言語じゃないねフン、って態度。
まあ実際に文化レベルはフランスに及ばないがw 大王様が有能とはいっても、ヘルダーやゲーテやシラー並みの能力を要求してはいけない >>921
不定冠詞王は話し方が特徴的(不定冠詞の連発ってぇと軍隊的と言えるな)
だっただけで、文法的におかしかったわけではないよ
>>925
フリードリヒ2世は身分を問わず、兵士や平民と当たり前のように
話したり、市民からの訴状を自ら受け付けたりする人だったから
ドイツ語を軽視してたわけじゃないぞ >>923
>本質的にはブランデンブルク王。
いや、ブランデンブルクにおいては神聖ローマ皇帝の臣下である選帝侯。
なお1772年、ポーランド王領プロイセンを併合し、プロイセン全土を領有して
以降は名実ともに「プロイセン王」になる。
余談だが神聖ローマ帝国が滅んだ後も、同帝国が滅ぶ前から認められていた
ブランデンブルク辺境伯その他の称号は歴代プロイセン国王に継承された。 フリ2は日常生活でドイツ語をつかわずフランス語を使っていたというが、
まあ天皇が日常生活で中国語や韓国語を使うようなもので、
周りにはイラっとくる人も結構いたろうな。 >>927
不定詞王は、動詞が人称変化してない原型の不定詞を使って話していたのであって、文法的に目茶苦茶だぞ
例えば、私はプロイセン王であるというのは、正しくは Ich bin koenich von Preussen.だが、
一人称単数のbinではなく、原型のseinを使って Ihc sein koenich von Preussen.と言っていたんだぞ >>928
そんな話をしているのではなく、フリードリヒ3世(プロイセン王としてはフリードリヒ1世)は王号が欲しかったが、
帝国法ではベーメン王以外の神聖ローマ帝国内での王号を禁じられているため、すでにポーランド王の宗主権から
離れていたプロイセンの王として、プロイセン王と名乗った。
ただ、配下のユンカーの領土や農奴の大半が存在するのはブランデンブルク領内であり、逆にプロイセン領内は
土地を持った自作農である自由農民が多く、プロイセン王に対して必ずしも従順ではなかった。
実質的といったのは、家臣を含めた王国の本体はブランデンブルクだったという意味だ プロイセンって元々ドイツ騎士団領だったんだろ
どういう経緯でブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家がそんなものを手に入れたんだったっけ? >>927
正確には主語をつけないので、sein koenich von Preussenだな。
例えば、読むという単語は辞書には不定詞で載っているからlesenだが、
一人称単数の人称変化をするとleseなので、Ich lese das Buchとか普通なら言うが、
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、lesen das Buchと言っていた。
>>929
18世紀に、それまでのラテン語に代わってフランス語が各国の宮廷で使われるようになり、
どこの国の宮廷でも君主も貴族もフランス語で話すのが当たり前 >>933
宗教改革で当時の騎士団長のホーエンツォレルン家のアルブレヒトが配下の騎士ごとルター派になったとき、
ドイツ騎士団領は世俗のプロイセン公国になった。
アルブレヒトは、ブランデンブルク選帝侯であるホーエンツォレルン家の分家出身だったが、アルブレヒトの子孫が絶えたので、
本家のブランデンブルク選帝侯家が相続した >>934
どの国の宮廷でもフランス語とまで言うと言い過ぎ。
マリア・テレジアは主にドイツ語だったというから皮肉。 >>936
いや、テレジアもフランス語を好み、宮廷でよく話していた。
それどころか、子供たちへの手紙までフランス語で書いてる。 >>934
なるほど、分かった
lesen を lese にもしなかったとしたら、確かに文法的におかしいわ
教えてくれてありがとう フリードリヒ2世はマリア・テレジアと結婚して、
ハプスブルク=ホーエンツォレルン家の祖になれば良かった。 >>939
ハプスブルク=ホーエンツォレルン家
名前からして恐ろしい… 女嫌い(シスコン除く)の大王と、男勝りでラブラブ大好きっ子の女帝
うまくいきそうな気配が微塵もねえ・・・ 昔河野洋平と田中真紀子との間に縁談があったと聞いて
思い出したのがフリードリヒ2世とマリア・テレジアだったw
どっちも実現してたらどうなってたか怖いもの見たさで興味ある >>940
ハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト3世はホーエンツォレルン家
出身のニュルンベルク城伯、フリードリヒ5世の娘であるベアトリクスと結婚して
次代のオーストリア公、アルブレヒト4世を儲けてる。
その子、神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世の娘エリーザベトはヤギェウォ家に嫁ぎ、
そのヤギェウォ家のアンナはオーストリア系ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝、
フェルディナント1世に嫁いでいる。
つまり、ホーエンツォレルン家とハプスブルク家はアルブレヒト3世とベアトリクス
が結婚した1375年以降は姻戚関係にある。 ハプスブルク家にとって、ホーエンツォレルン家の支配するドイツ(第二)帝国は、かつて臣下だったニュルンベルクの城伯一家に簒奪された国とうつるのかな?
ドイツ国内でもバイエルンのヴィッテルスバッハやザクセンのヴェルフェン(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)といった王家はホーエンツォレルンより古くからある名門だからこんなのに支配されるのは苦々しく思っていただろうな >>944
どうだろうね。1806年に神聖ローマ皇帝位を退位した時点で、ハプスブルク家はホーエンツォレルン家の
主君ではなくなったから。
そしてホーエンツォレルン家の主君たる地位を失わせた責めは、プロイセンじゃなくてライン同盟を結成させた
フランスが負うべきものでしょ。
あとブラウンシュヴァイク=リューネブルク家も、ヴィッテルスバッハ家もホーエンツォレルン家とは姻戚よ。
特に前者は、プロイセン軍の将官となった者を幾人か輩出してる。 >>943
姻戚とかじゃなくて結婚によってハプスブルク=ロートリンゲン家のように
王家が合同した場合のことを言ったんじゃないの? >>946
トップ同士で合同なんてしなくても、ハプスブルク家は代々ホーエンツォレルン家の
軍事力を利用し尽くして来てたんだよなあ。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の治世最末期に決裂し、息子のフリードリヒ2世に
離反されるくらいならもっと臣下を大事に遇してやれば良かったのに。 フリードリヒ大王とは関係ないけど中世のザクセン公国って現在のニーダーザクセンとかノルトラインヴェストファーレンの事でしょ?
何で現在のザクセンアンハルト州やザクセン州がザクセンを名乗ってるの? >>948
大雑把に言うと現在のザクセン=アンハルト州の州域はプロイセン王国が
1802年に設置したザクセン県、現在のザクセン州の州域は1806年から
1918年まで存在したザクセン王国に由来する。 そもそもブランデンブルク辺境伯領自体がザクセン公が東方植民で得た領土だろ?
ドイツ騎士団領もそうじゃなかったっけ? >>950
プロイセン地方におけるドイツ騎士団の最初の領域は、
マゾフシェ公コンラート1世が与えたクルマーラント。
ttps://de.wikipedia.org/wiki/Kulmerland#/media/Datei:Altpreu%C3%9Fische_Landschaften_im_13._Jahrhundert.png
ドイツ騎士団は以後、クルマーラントをキリスト教化されていない諸族から防衛しつつ、彼らの土地を攻めて切り従えていった。 >>939
しかもそれを推していたのがプリンツ・オイゲンだったというのも凄い
おそらくはプロイセンの脅威を見越していたからだろうが >>952
Ludwig ReinersやGiles MacDonoghなどの研究者によると、オイゲン公こそ
駐プロイセン大使ゼッケンドルフ伯フリードリヒ・ハインリヒに指示して
王太子フリードリヒにブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家出身の
妻をあてがった張本人だよ。
ウィーンの宮廷においてテレジアとフリードリヒをくっつけようと考えた者は、
少なくともオイゲン公ではない誰かだろう。 フリードリヒ 金貨というのは
現在価値としては,幾ら位なんでしょうか ? しかし大王の青年時代のなよっとした感じのエピに比べ
君主になってからの繊細さは残しつつもぐう畜生っぷりはなんだろう
トラウマでサイコパスにでもなったんだろうか ナヨっとした印象を受ける人もいるかも知れんが、俺らと違って
帝王学を学び、軍人としての英才教育も受けてるからね?
それはさておき、父親からさんざん虐待されてきたんだ。
シニカルな性格にもなるってもんでしょ。 ホーエンツォレルン家は子供を自分達で育て上げてたんだな
欧州には家臣を守役にして子供を育てさせる風習は無かったんのか >>958
傅役はいないが貴族にも教師は付く。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が定めた王太子の教育に関する指示書に、
たびたび名前が挙がるのはジャック・エジード・デュアンという人物。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Jacques_Duhan_de_Jandun
他にも教育役は色々居るんだろうけどね。デュアンの担当は非軍事系の教育だな。 とにかく絶望的な状況にも堪え抜いた不屈の精神力には驚かされる フリードリヒ2世の悪政は悪名にも轟いている
マリア・テレジア皇后陛下、万歳万歳万々歳! 大選帝侯、兵隊王、大王ときて、以後はプロイセンって特筆すべき君主はいないよな
たいてい嫁の尻にしかれてるか優柔不断かみたいな感じで・・・
まだマシなのが有能な臣下に引っ張られてっていうパターンで、ヴィルヘルム1世が典型的 >>962
ヴィルヘルム1世・ヴィルヘルム2世は特筆大書 >>964
良くも悪くもフリードリヒ大王並みに目立ってると思う ヴィルヘルム2世って、ガイジなのに努力して色んなことができるようになったり、勉強とかも結構頑張っているのに、
トータルだとクソという印象いなってしまう >>967
ガイジという言葉を軽々に使ってはいけません。 大王の勝因の一つは新教地域だったシュレジェンがプロイセンの支配をむしろ歓迎していた点だろうな
マリア・テレジアとしては最も認めたくないだろうが >>962
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は先代の勘気を被って追放された有能な人物を
何人も復職させたり、プロイセンの外交的孤立を解消したり、農奴を解放したり、
領土を拡大したりと普通に名君なんよ。てかWikipediaって、歴代プロイセン君主の
悪いとこばかり挙げてるように見える記事が多い。
参考文献や注が細かくて充実してるのってフリードリヒ大王とヴィルヘルム1世&
ヴィルヘルム2世くらいじゃないか。 フリードリヒさんとヴィルヘルムさんとフリードリヒ・ヴィルヘルムさんの区別難しい プロイセンにとって「表の顔」に相当するのはベルリン王宮だしなあ。 >サンスーシ
侵略戦争中に趣味で宮殿建てるなんて、いいご身分だな >>987
だろ、そういう所が兵隊王に及ばないんだよ >>990
いや、及ばないどころか父を軽く凌駕してる。
兵隊王が没後に大王に残した資金は1000万ターラー、
大王が七年戦争後に国庫に残した資金は3000万ターラー、
そしてその後の経済振興策によってフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が
王位を継承するまでにそれを5000万ターラーまで増やしてるんだが。 >>991
マイナーなの好きな俺って異端でカッコいいという中二病患者に数字出して説明してあげる聖人 フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、貧しかった国を豊かにしたし、倹約家で大した戦争もしなかったけど、
大規模な常備軍を維持し続けたから、それなりに出費も多かったからな
先代のフリードリヒ1世は浪費家で借金も残していただろうし >>992
兵隊王がマイナー?
自分の無知さを自慢するかw
>>991
計画性の無い戦争など博打と同じ
国家を賭けて博打を打つなど君主として失格
たまたま博打で勝って得た資産など評価に値しない >>996
訳わからん事書いてる暇があるなら
さっさと次スレ立てろや >>997
きみはじつにばかだな(CV:大山のぶ代 >>997
偉そうに言ってるくせに肝心なことは人任せとな このスレッドは1000を超えました。
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