【プロイセン】フリードリヒ大王【啓蒙専制君主】
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今年で生誕300周年を迎えるフリードリヒ大王。 18世紀を代表する卓越した君主である大王を語り尽くそう。 また大王に関する伝記・書籍についても情報あればお願いします。 ユダヤ人を排斥したナチスドイツもそうだけど それじゃ勝てないよね。戦争。 クービエール元帥のように母語がフランス語のフランス系移民なのに、 本国が陥落後してもなおナポレオンの軍に抵抗するような人が出てくる くらいだからな。宗教対立の弊害は深い。 でも仏軍は北米東岸植民地では先住民をうまく使った。 英軍は植民地の味方民兵の技量さえ馬鹿にしていた。 フレンチ・インディアン戦争の結果としてイギリスの北米植民地に 重税が課され、ひいてはアメリカ独立戦争に繋がっていくのだから イギリスにとっても良いことばかりではなかったな。 欲張らなければ良かったのにね。 でもまあ末代まで戦争では味方してくれるから良かったじゃないか。 イラク戦争みたいなのまで。 欲張らずに済めば良かったんだけど、戦争には金がかかるからなあ プロイセンが意外にしぶとくて戦争長引いたしなあ まさか突然ロシアの女帝が亡くなってプロイセンに運が向くとは思わんかっただろうし >>363 伍長「おかしい…ルーズベルト死んだのに停戦できない…」 日本ではルーズベルトが落選して講話ムードになるんではと レイテ戦の頃期待していたらしいね。四選しちゃったけど。 ザクセンとかバイエルンみたいな近隣諸国よりプロイセンが躍進できるような地理的な利点はあったの? それとも他のドイツ諸国でもプロイセンと同じ政策取ってたら軍事大国として将来的にドイツを統一できる可能性はあったの? 地理的利点はないような。 領地が飛び地だらけだったからなんとか くっつけようと懸命だったんじゃないかな。 それにいち早く王国になったし、人口を増やすのにいろんな政策をとったし? >>367 368さんも言ってるが領土がばらばらなので それを維持管理するため強力な軍隊が必要だったという説はありますね 他には東方に進出できたのも大きいような 一応東方は野蛮な土地ですから あとは30年戦争での惨状ををふまえた武装路線に 兵隊王の遺産をいかしたフリードリヒの冒険的政策も重要かと あれで戦争による成功体験という快楽と 土地を奪われた敵に対して軍備を備える必要性という恐怖 この2種の感情が君主から臣民にいたるまで広範に共有してたのではないでしょうか この感情云々は個人の推測ですが ブランデンブルクとプロイセンの間ってどうやって埋めたの ブランデンブルクとプロイセンの間にどんな国があったの ポーランドだよ。 ロシア・オーストリア・プロイセンの三カ国分割で東プロイセンの間埋めた。 大王はジャガイモ畑にしかならない貧しい土地だと自嘲していた。 ポーランドだけか?じゃあ西方のラインラントとヴァストファーレン はプロイセン領有前はどいつがもってたんだ >>372 ドイツ西部は、北の方にハノーファー選帝侯国、あとは無数の聖俗諸侯の領邦。 普墺戦争でなんで同じプロテスタントのハノーファーは併呑したのに、 ザクセンとかバイエルンは存続を許されたんだろうか 西方領土をプロイセン中央部とくっつけるのに邪魔だったからか 普墺戦争では、ザクセンも国土の半分くらい取り上げられてた。 ザクセンの領土没収はナポレオン戦争後のウィーン会議じゃね いやいや アンスバッハ始め西方にも領土持ったからそれをいじする必要あったんだぜ ブランデンブルク選帝侯が相続によって得たプロイセンの地を利用して(プロイセン)国王になる前に ザクセン選帝侯はポーランド国王になってるからねえ。 領土云々は地理的なものではなく、ザクセンより長子相続を家臣団と共に厳格に行った ブランデンブルク家の政策によるね。 田分けは、洋の東西を問わず国力を弱める。 そのいい例がアンハルト候で、アンハルト・デッサウは類まれなる軍事的天才だったけど 家がアンハルト候領の3分の1か4分の1のデッサウ(地方)しか継げなかったので フリードリヒ大王の頃にはもはやプロイセン王国の属国としてしか生きられなかった。 30年戦争の時には、皇帝軍とプロテスタント(特にスウェーデン軍)の蹂躙に任せるしかなかったブランデンブルク選帝侯が プロイセン国王となることを認めてもらうために出した 8000人の援軍でスペイン継承戦争を戦い抜き、デッサウ候に鍛えられた。 その精強陸軍とケチのフリードリヒ・ヴィルヘルム(1世)父さんの遺産で フリードリヒ大王は豊かなシレジア地方を手に入れて国力2倍になった。 7年戦争終結時のプロイセンは、尾張美濃2国を支配した時点の織田信長状態じゃないかな。 トマス・カーライルのフリードリヒ大王伝 未だに邦訳が出版されてないんだよな。 オーストリアにとってプロイセンっていうかブランデンブルクっていうか ホーエンツォレルン家をあんなに強大になる前に葬るチャンスはなかったのか 大王以前の話なら当時の認識としてはオーストリア帝冠国家には ブランデンブルク辺境伯、プロイセンは単独では到底勝てないってことだろう ドイツ統一の試みは幾度もなされたが30年戦争で決定的に失敗してあとはズルズル 後退を続けたのがハプスブルク家だろ >>380 30年戦争 それ以前だとそもそも叩き潰す正当な理由がない なお30年戦争ではおおむねハプスブルク家は負け続けた模様 いやハプスブルク家って前半勝ってるぞ? 勝って油断して妥協的和平案を撤回して超強硬和平案で交渉開始したので 皆が敵に回ってフルボッコにされることになるだけ デンマークはバイエルンがいなかったらあかんやん 白山の戦いは順当にかってるが 大選帝侯から兵隊王の間、両国の間に波風を 立てるような要素はフリードリヒ3世による 王位の承認要求と、兵隊王によるユーリヒ=ベルク公国の 継承問題への介入くらいか?それ以外では例え損してでも ハプスブルク家に忠実に仕えてたんだから、プロイセンを 叩く理由なんてなかったよ。 ハプスブルク家って男系断絶してハプスブルク・ロートリンゲン家になったらなんか急にありがたみなくなるよね プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世までは忠実なハプスブルクの犬だったのに 息子(フリードリヒ2世)がスウェーデンのカール12世に傾倒しちまうところが悪い。 大王がカール12世ファンになったのってヴォルテールの伝記が原因だよね。 しかもアンチ・マキャベリなんて本も出したのに そのマキャベリズムを最大限に活用してハプスブルク家に歯向かうとは。 389ではないがプロイセンとオーストリアの領地がそれぞれ点在してて しかも戦争協力してくれたらプロイセンに譲るという約束も たしか百年前だったか二百年前だったかwにしてたはず プロイセンが領土をドイツ内で拡大できたのに対して、オーストリアの領土拡大は専らドイツ外だった プロイセンは周辺の弱小諸侯を食いまくってドイツ内で領土を拡大しまくることができたけど、 ドイツ方面でオーストリアが国境を接していたのはバイエルンとザクセンという有力諸侯だったので プロイセンみたいに周りの雑魚を食ってドイツでの領土拡大ができなかったってことでOK? 実際バイエルン継承戦争でバイエルン併合寸前まで行ったけど果たせなかった >>387 マリア・テレジアこそが帝国時代の最大のアイコンだから その子孫となるとむしろ威厳が増す >>392 okじゃないよ 周りの雑魚食いまくってドイツで拡大した結果があのオーストリア チロルやシュタイエマルクを筆頭にあの辺り一帯の諸侯はハプスブルク家に結構飲み込まれてる バイエルンも内紛につけこまれて遺産継承戦争の時にはクーフシュタインをごつく分捕られてる それも後背から殴り付ける類の分捕りじゃなくて 協力したるからクーフシュタインちょうだい、という正攻法 結婚と戦争で伸びて伸びて、バイエルンとザクセンまで到達した、というのが正しい 大王の時代の「マダムは少しお太りになったようだ」ってどれくらいデリカシーがない言葉なの?「今日体調悪そうだな、生理か?」レベル? 奥さんにかける言葉としては冷酷すぎることはわかるけどなぁ 嫌味じゃないとしたらマダムって言い方からして自分の結婚相手って意識が皆無だよね ヴォルテールと同じペンフレの1人だと思ってそう ホモというより女が汚くて信用できないものにしか見えないだけじゃないの?そういう人って家族の女の人(母、姉妹等)は別モノってダブスタの事が多いし 多分小さい頃にでも自分達の前でペコペコしたり仲良く喋ってる女官が裏で悪口言いまくってるとか浮気の話を聞いたとかさ 農奴解放の検討を始めたのは兵隊王ことフリードリヒ・ヴィルヘルム1世。 農奴解放を含むプロイセン一般ラント法の編纂を命じたのはフリードリヒ大王。 でもフランス革命の影響で内容に手が加わり、実際に施行されたのは次の フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代になってから。 >>401 大卒がパチンコ、風俗しか興味ねぇ高卒と話が合うわけねえし 関わりたくないだろ あれは、ああいう人たち と距離取る そんな感覚だったのであろう なんでこの人こんな時代に十字軍起こしてエルサレムまで行ったの? >>405 十字軍 ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1329745911/ >>406 確かに十字軍スレは建ってるけど個別スレがあるみたいなので聞いてみました >>407 節子、それホーエンツォレルン家やない。ホーエンシュタウフェン家や。 この人の生涯ってすごい映画映えしそうなのに扱った作品がないよね、なんでだろう >>409 全部が大王主役ってわけでは無さそうだけど ttp://de.wikipedia.org/wiki/Liste_von_Filmen_zu_Friedrich_II._(Preu%C3%9Fen) フリードリヒ大王が当たり役のオットー・ゲビュール ttp://de.wikipedia.org/wiki/Otto_Geb%C3%BChr >>398 旦那が繁殖期の鹿のようにならないと妻だけじゃ産めないお >>405 フリードリヒ○世って君主はドイツ圏には何人もいてな… それは多分中世の神聖ローマ帝国の方のフリードリヒ2世 このスレは近世のプロイセン王国のフリードリヒ2世(大王)のスレ 川で溺れた人には心当たりあるけど、煮られた人など知らん >>396 太るって時代によっては誉め言葉だけど このばあいはどっち? 「マダム」って普通じゃないか? フランスなら、オルレアン公でも一般の呼びかけは「ムッシュ」だし。 >>396 日本でも90代の老人などは全く悪意無く他人に「太ったね」と言う。 考えてみれば戦中戦後などは太っていられるのが富の象徴だったわけで。 >>399 ルイ16世もマリー=アントワネットには「マダム」。 但しルイ16世は、家臣にもさん付け敬語で話すような人だったが。 妹のアンナ・アマーリエって極秘結婚して出産したらしいけど、その子はどうなったのだろう 結婚相手の男も投獄、脱獄、フランス革命に巻き込まれギロチンとか、波乱の人生だったみたいだけど テレジアと結婚したらハプスブルク=ホーエンツォレルン家誕生だったのか。 これは子供を作らざるをえないね。 フリードリヒはテレジアの好みのタイプじゃないけどね。テレジアの恋愛結婚の夫は フリードリヒと正反対のタイプ。女の3歩後を歩けるタイプだから。 カトリックの守護者を自任するハプスブルク家が家臣筋で、しかも プロテスタントを信仰するホーエンツォレルン家から婿を迎えるなど 当時の感覚から言っても無理がある。実際、王太子フリードリヒは オイゲン公の意を受けたオーストリア大使ゼッケンドルフ伯の工作で、 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯家から嫁を迎える ことになった。 フリードリヒ大王の本を最近調べてるんだが 全部作家によって書き方違う謎 ホモだったり、性病だったり、自分の血を憎んでたり、単純に人間嫌いだったり どれが本当なんだろ それとも全部歴史家の主観の空想で真実は不明なん? バッハとフリードリヒ大王って本で、イギリスのカーライルのフリードリヒ大王伝を 考察すると ザクセンの強健王の城に招かれた時に性病に感染して女恐怖症になったとか書いてあったが それの根拠をいくら探しても出てこない (そもそも、性病になったなんか、あのプライドの塊が自分で言うか?) そもそもカーライルのフリードリヒ大王伝って歴史書なのかフィクション小説なのかも分からん 誰か分かる人教えて ベートベーンがデマで性病の疑いかけられてたみたいなもんか? ホモ説は女性嫌いで美しい妻と同衾せず犬と寝てたから その状況証拠から推測されている 美男の将校にハンカチを投げて夜のお相手をえらんだ俗説はある 梅毒説は彼の姉の日記がソース 売春婦に移され男性機能に障害があったという話 人間嫌いの傾向はあるとおもう 哲学や音楽をともに語れた姉や妹とは仲が良かったから、 妻とは有り体に言って趣味が合わなかったのが粗略な扱いの 理由じゃないかと思う。 妻のエリザベート=クリスティーネは当時の宮廷人として、 申し分ない人物だったけど。 弟や甥が腐るほどいたから、無理に自分の血筋残す必要性 感じていなかったのかも。 大王本人の偉大さが突出しすぎて兄弟や配下の将帥の影が薄くて困る。 プロイセンのイメージを安易に軍国主義と結びつけた弊害で、ドイツ人でも プロイセン王国時代に詳しい人は多くない(ただ史跡を守ってる人たちは 本当に真摯)。でも日本じゃ旧プロイセン領内におけるフリードリヒ大王や、 将軍たちの往時の人気を測ろうとしてもフォンターネの著作の和訳さえ 手に入り辛い。 >>426 ありがとう でも 梅毒説は彼の姉の日記がソースって話なんだけど 弟が子供できないのに対して 弟の妻が悪い(姉自体はオーストリアの元帥の娘より、イギリスの王族の女と再婚させたかった) って世間に言いふらす為に、弟ヤリチンでマジ困るわー程度のものだったと 聞いた事あるが 大事な弟が性病で不能なんて言うだろうか? ちなみに、その本ではフリードリヒは16歳くらいの初体験で淋病かクラミジア程度の軽い性病にかかり ナイーブな少年の心が汚され女性恐怖症になったって書いてあった・・・死後、医者が体調べた所異常なしだったらしいし そもそも・・・一回妻のエリザベート=クリスティーネが妊娠した騒動あった時、大王が「おめでとう」って手紙書いたの残ってる事から性交渉はしてたと推測されるし矛盾 そして当時の梅毒なら鼻もげたり、脳に回ったりする不治の病だと思うんだけどなぁ もし、その姉の日記のソースがあったら教えていただけないでしょうか? 何か気になってしまってすいません。 >大王本人の偉大さが突出しすぎて兄弟や配下の将帥の影が薄くて困る。 兄弟と元帥とか幹部の本って売ってないのかなぁ ガセ情報かもしんないけど、昔見た本か何かで、 @フリードリヒ2世はマリア・テレジアに恋をしていた Aマリア・テレジアはフリードリヒ2世が大嫌いで、袖にした Bマリア・テレジア夫妻は、最初子供に恵まれず、宮廷の誰かの助言で セックスの際にバック(後背位)を勧められたら、あまりにもはまってしまって いっぱい子供ができた… って話を知った。 マジ?? マリア・テレジアのバックって、何だか萌える… ハンス・フォン・ヴィンターフェルト本 ttp://am zn.to/1AloZ6v ヤーコプ・フォン・カイト本 ttp://am zn.to/1cT3SNJ ハンス・フォン・ツィーテン本 ttp://am zn.to/1emeAxf フリードリヒ・フォン・ザイトリッツ本 ttp://am zn.to/1Bi3AG0 デッサウ老侯本 ttp://am zn.to/1Lov7uN あることはあるのよ……ドイツ語できないと読めないけどな! ヒトラーは死ぬ寸前にトマス・カーライルの大王伝を読んでいたそうだ。 七年戦争でロシアのエリザヴェータ女帝が死んだ所を アメリカのルーズベルト死亡に結び付けて プロイセン様式を受け継ぐ南米チリ騎兵隊 http://m.youtube.com/watch?v=ACE0JNVcQOA& ;itct=CBIQpDAYBiITCOn9qvuq6MUCFcI8aAodtBoAATIGcmVsbWZ1SNPTm-nf4v_cxgE%3D&gl=JP&client=mv-google&hl=ja プロイセンのフリードリヒ2世とパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペスは 共に軍事によって国を拡大しようとした野心家で、同時に三か国を相手に戦った 外交音痴という共通点がある。 だが運の善し悪しで、その結果は大きく異なるものになった。 毛沢東がスズメの絶滅運動を行わせて、却って害虫が大発生し、 農業生産が深刻な打撃を受けたことがあったが、 フリードリヒ大王がこれと全く同じ失敗をしていた事を最近知った。 >>439 フリードリヒ大王と言えば1763年には生産性の阻害要因だった 農奴制を王領内で廃止してるんだが。その失敗があるとすれば、 せいぜい貴族の抵抗にあって農奴解放をプロイセン全土に波及 させられなかったことくらいだろ どこかで書いた気がするが その手の話なら水がなくなった水車の使用料を 賃貸と見るか小作でみるかという有名な判例が合って 小作であるから果実から使用料を取る よって収益がない状況なら只という判決だした話がある フリードリヒ大王はオーダー川とヴァルテ川沿いの沼地を 開発して農地にし、穀物の収穫量を増やした功績もある。 ドイツは一旦プロイセン主導で統一したが、世界征服に失敗して連合国に取り潰し、 抹殺されると首都はベルリンのままでも、経済は再び南ドイツが主導になった感じだな >>447 ベルリンを支える富裕州は実際には東部以外の全土に分散してる感じ。 ハンブルクは北部、ノルトライン=ヴェストファーレンは西部、ヘッセンは 中部の州だ。 >>440 が書いている 1763年の王領内における農奴解放というのは 何の本に出てくる話なの? >>449 『ツァイト』紙オンライン版とか↓ ttp://goo .gl/3Mx37k 「Nach dem Ende des Siebenjaehrigen Krieges 1763 hatte Friedrich angeordnet, es sollten »absolut und ohne das geringste Raesonieren die Leibeigenschaften gaenzlich abgeschafft werden«. 「七年戦争後の1763年、フリードリヒは勅令を発し、『絶対に、そしてわずかも議論を 弄することなく農奴制を全面的に廃絶する」こととした。」 「Preussen Leibeigenschaft 1763」でググれば他にも色々出てくるよ。あ、「ss」は エスツェットの方が良いかな。 >>450 ここで論文や研究書でなく、新聞記事がでてくるのかよくわからないね。 実際問題として農奴制はその後も残っているからねえ。 1763年にフリードリヒ2世は王領内の下僕奉仕の廃止に着手しているが、 これを>>440 乃至はその依拠する新聞記事は農奴制の廃止と間違えたのでは なかろうか。 「フリードリッヒ大王の統治について」矢田俊隆 http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/17049/1/4_p112-140.pdf 「下僕奉仕に関しても、フリードリッヒは一七六三年以来王領地では農民との 契約満期毎にその底止に努め、一十六七年の法令でそれを成文化した」 むろんこれは農奴制を構成する要件のごく一部に過ぎない。 言う事とやる事が天と地ほど違うのが大王クオリティ・・・ 学術論文のソースもあるよ。ポツダム大学のフランク・ゲーゼ博士の論文、 『Friedrich und Leibeigenschaft』より。 「Die am 23. Mai 1763 den Kriegs- und Domaenenraeten in Kolberg gegebene Anweisung: "Sollen absolut und ohne das geringste Raisonniren alle Leibeigenschaften sowohl in koeniglichen, adeligen als Stadteigenthums-Doerfern von Stunde an gaenzlich abgeschaffet werden", könnte von ihrer Diktion her als Muster eines Regierungsaktes eines "allzustaendigen" und "allgegenwaertigen" Koenigs interpretiert werden.」 「1763年5月23日、コルベルクの軍事および民事議会に発せられた勅令、『絶対的に、かつわずか にも議論を弄することなく全ての農奴制を国王、貴族および都市が所有する全ての農村で即刻廃止 するべし』は、その言葉遣いから『全てに権限を持ち』、『偏在的である』国王の統治活動の模範 と解釈できる。」 Webでも読める。(ttp://goo .gl/gDGtYy) >>454 プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの治世であった1567年から農奴解放は 試みられ、兵隊王の時代、1719年と1723年にも農奴制、農民の世襲的臣従や 農場領主制の廃止が領土の一部で命じられてる(ttps://goo .gl/DBe4m9、 44ページ目)ものの農奴制の全廃は1807年の十月勅令まで待たなければ ならない。フリードリヒ大王の後継者、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代だね。 プロイセンに限った話じゃないけど、当時は貴族の協力がなければ軍が動かせない。 つまり>>440 が書いた「1763年に農奴制を廃止した」というのは間違いなわけね。 法令の公布と実施の両方が揃って初めて「廃止した」と言える。 公布だけで実施が伴わなければ、「廃止しようとした」という表現が中正。 >>456 >王領内で廃止してる >プロイセン全土に波及 させられなかった これらにキチンと言及してるから間違いとは言えない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる