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最後の夜
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0001世界@名無史さん
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2012/12/08(土) 13:21:37.400
最後の夜
地球 宇宙
全ての生命を破壊殺戮
何千何万何億年
宇宙の歴史一夜

数と命
全ての命を救う為に一つの命を殺す
全ての命を救う為に一つの種を殺す
全ての命を救う為に を殺す
0047世界@名無史さん
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2015/08/28(金) 02:18:54.950
おおのじょうの伝説
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/edu/rekishi/densetsu.html
 これからご紹介する民話は赤司岩雄著「大野城市の伝説とその背景」から転載したものです。お住まいの地域にはどんな民話が残っているでしょうか。
 大野城市の昔を懐かしむ方、昔の風景や生活を想像する方。楽しみ方はいろいろです。ぜひ、私たちの町「大野城市」に思いをはせてください。


盗人の宮(ぬすっとのみや)(下筒井)

 下筒井のお宮は、九郎天神社または黒男神社とも言いますが、別名「盗人の宮」とも呼ばれています。


黒男神社

創建の時期は不明であり、祭神にも種々の説があります。
しかし、元禄元年(げんろくがんねん)(1688)に着手し、
宝永(ほうえい)六年(1709)に完成した貝原益軒(かいばらえきけん)『筑前続風土記』(ちくぜんしょくふどき)に、
上で紹介した伝説が載せてあるので、それ以前の創建であることには間違いありません。

 盗人の宮と呼ばれる理由にはもう一説あります。

 太宰府安楽寺の寺務を統轄(とうかつ)する最高の職は別当(べっとう)といって、
菅原氏一族の中から選ばれていましたが、平安後期頃になると京都で任命されても、
太宰府に赴任しない人もあり、鎌倉時代には完全に名目だけとなりましたので、
安楽寺に含まれる太宰府天満宮の留守職(るすしょく)が、寺務をとり行うようになったといわれています。

その留守職が筒井の天神社の祭祀も司っていましたので、
留守殿(るすどの)の宮と言っていたのがなまって、ぬすとの宮というようになったとも言われています。
0048世界@名無史さん
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2015/08/30(日) 10:19:23.670
太歳星君
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%AD%B3%E6%98%9F%E5%90%9B

太歳星君(たいさいせいくん)は、中国の道教に伝わる太歳(木星の鏡像となる仮想の惑星)の神。
太歳、太歳元帥、太歳神とも。

祟り神でもあり、中国の天文官達は太歳星君のもたらす災いをさけるため、とりわけその年の太歳の方位に注意したという。

太歳を恐れる信仰は長く、古くは後漢の王充が『論衡』で取り上げている。
太歳は天上の木星と呼応して土中を動く肉の塊として考えられ、住居を建設するときは決してこれを犯してはならないとされた。
『太平広記』には、太歳の祟りを信じず地下から掘り起こしたために一族滅亡となった家の説話が記されている。

この太歳信仰を人格化したのが太歳星君であり、首に多くの髑髏を下げ、金鐘を手にした三面六臂の姿で語られることが多い。
またその名は『道法会元』や『三教捜神大全』他、多くの文学資料で殷郊または殷交(殷元帥)だとされている。

『三教捜神大全』には太歳殷元帥の項があり、それによると殷の紂王の子で、
母親の姜皇后が巨人の足跡を踏んだことで孕み、産み落とした肉球を切り裂いたところ誕生したという。
後に周の武王が紂王を討つのを援けたため、玉帝によって太歳神の位に封じられた。

同様の説話は元代の歴史小説『武王伐紂平話』にも登場する。また明の神怪小説『封神演義』では、
易姓革命の際に殷に加勢し周に討たれた殷郊が姜子牙(太公望)によって太歳に封じられたとされている。

民間においても太歳星君は凶神の代表格とされ、その意味でももっとも恐れられた神格である。
0050世界@名無史さん
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2015/09/13(日) 15:08:36.690
クロス
サザンクロス
サザンブレード
ダブルブレード

ひじりころも
ヘラクレスの結び目
0051世界@名無史さん
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2015/09/16(水) 01:31:06.420
The Temple of Kukulcan(El Castillo)
Chichen Itza in Mexico

チチェン・イッツァとククルカンの降臨
http://www.world-mysteries.com/chichen_kukulcan.htm


<雨の神の花嫁(チェチェン・イッツア)その2>
http://415100.blog50.fc2.com/blog-entry-1674.html?sp

◎ククルカンの墓

 今迄のお話は、ランダ神父の著作に記された事柄ですが、この記録を信じ、聖なる泉を調査、探検しようと志す者も居ます。
1885年から25年間に渡り、この地方のアメリカ領事を務めた、E・H・タムスンは、
40年以上をユカタン半島で過ごし、精魂を傾けてマヤ族の遺跡を調査しました。

その長い期間の内に、彼は原住民の仕掛けた、毒ねずみの罠に係り足が不住となり、
聖なる泉の調査では水中に潜って耳が不住になり、しかも幾度も風土病に悩まされ続けました。
彼は、チェチェン・イッツアを訪れた時、聖なる泉の伝説を知り、その真偽を確かめ様と考え、
友人を口説き落として資金を集め、浚渫機器を揃えスキンダイビングを習得しました。

 タムスンは聖なる泉の最も有望と予想される位置に、浚渫機を設置し、泉の底を浚い始めました。
最初は、汚泥や木々の枝等が殆どで、この状態が長期間に及び流石に楽観主義者のタムスンも、
自分の考えに誤りが有るのではないかと疑い始めたます。

しかし、ある日の事、浚渫機は香料の塊をすくい上げ、それから数ヶ月の間に、
花瓶、香炉、矢尻、槍の穂、斧、金製の盤、玉の飾り等が次々と発見され、
花嫁の伝説を裏付ける若い男女の遺骨も発見されました。
タムスンは潜水服に身を委ね、毎日聖なる泉の底に潜り、調査を続け結果、その発見した黄金の品々は、
水鉢と杯、40枚に上る平皿、指輪20個、鈴100個、無数の金塊、金細工300個と膨大な価値のもので、
泉の伝説を立証するに十分な発見でした。
0052世界@名無史さん
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2015/09/16(水) 01:32:45.520
>>51

マヤの聖なる泉で“特別な日”に起きること(2/2)

2013年8月12日
聖なる泉、「セノーテ」の謎に迫る

http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20130805/159142/?P=2&;ST=life&n_cid=nbpwol_else&rt=nocnt

 太陽とセノーテは、チチェンイツァの有名なピラミッド「エル・カスティージョ」の位置と方位を決定づけた可能性もあるという。

 春分と秋分の日、このピラミッドの中央階段の側面には、太陽の光と影によってヘビのようなシルエットが浮かび上がる。
この現象を見に、毎年多くの観光客がやって来る。

 考古学者のデ・アンダはこのピラミッドが、周辺にある四つのセノーテから見てちょうど真ん中に位置することを発見した。

 太陽が天頂を通過する5月23日の早朝、モンテロはエル・カスティージョを訪れ、太陽がピラミッドの北東稜の延長線上から昇るのを確認した。
太陽はその後、天頂を通ってピラミッドの北西へと移動し、西側の階段の延長線上にあるオルトゥン・セノーテの方へ沈んでいった。

 マヤの人々の信仰や世界観に、セノーテはどのような役割を果たしていたのだろう。
洞窟とセノーテが、雨の神チャクが住む異界への入り口だと考えられていたことはわかっている。
だがその事実と、マヤ文明を代表する都市遺跡、チチェンイツァの建造物や都市計画との関連性は、ここへ来てようやく解明され始めたばかりだ。

(※ナショナル ジオグラフィック8月号特集「セノーテ マヤの聖なる泉」より)
0053世界@名無史さん
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2015/09/20(日) 16:46:25.580
第17回 豊穣の女神デメテル
http://www016.upp.so-net.ne.jp/tsukiyonokagami/novel/greece/greece17.html

そんなデメテルが娘を探して地上を放浪中の間、いくつかエピソードがあるので、それを紹介しましょう。

アッティカのエレウシスの地を訪れた時のことです。
デメテルは老婆の姿に身をやつして、泉の側に座り込んでいました。
そこにエレウシスの領主ケレオスの娘たちが水を汲みにやってきました。
泉のほとりに座り込む老婆に、娘たちは優しく声をかけました。

デメテルは娘たちに伴われて、ケレオスの屋敷にやってきました。
そこでデメテルは領主の妻メタネイラと会い、その幼い一人息子デモポンの養育を任されるようになりました。
デメテルはデモポンに愛情を注ぎました。そして、この赤子を不死の存在にしてやろうと考えました。
昼間は神々の食べ物であるアンブロシアーを肌に塗り込み、夜になると、赤子を火にくべて、人間として「死」の部分を焼いていたのです。
ですがこの行為も、中断せざるを得なくなりました。

ある日の夜のことです。
デメテルがいつもの通り、デモポンを不死にするために火にくべようとした時のことです。
突如、女性の悲鳴が轟きました。
何事かと、デメテルが視線を送ると、扉のところに領主の妻メタネイラが驚愕の表情で叫んでいました。
メタネイラにしてみれば、かわいい我が子が老婆の手によって焼き殺されるように見えたのです。
デメテルはメタネイラの悲鳴に大層立腹しました。
「わたくしがこの子を不死の存在にしてやろうとしていたのに、おまえの悲鳴ですべてが台無しになってしまいました」
老婆はたちまちのうちに女神デメテルへと変貌しました。

その神々しい姿にメタネイラは呆然と座り込んでしまいます。
「わたくしは女神デメテル。わたくしへの不作法の償いとして、このエレウシスの地にわたくしの神殿を築きなさい」
そう言い残して、デメテルは館を去っていきました。
メタネイラはすぐに夫であるケレオスに事の次第を述べ、急遽神殿を作り上げました。
・・・ちなみに。
デメテルがペルセポネーと再会したのは、このエレウシスの神殿であったようです・・・。
後に、このエレウシスの神殿は、「エレウシスの秘儀」の中心地になったようです。
0054世界@名無史さん
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2015/09/22(火) 10:36:14.260
リムフィヨルド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%83%89

リムフィヨルド(デンマーク:Limfjorden)は、ユトランド半島北端にある海峡。
ユトランド半島とヴェンシュセルチュー島を分けるものであり、カテガット海峡と北海を結んでいる。
長さは約180km。細長く入り組んだ形状をしており、海峡の中にはモース島がある。
また、複数の橋が架けられており、半島とヴェンシュセルチュー島・モース島を結んでいる。

リムフィヨルドの西端、北海に面した部分は砂州が発達している。
ここでは、歴史時代に海峡が閉塞した記録が残されている。
古くは北海とバルト海を結ぶ波浪が穏やかな航路として利用され、西暦1027年にはクヌーズ2世が通行したとされている。
中世デンマークの歴史家のサクソ・グラマティクスは西暦1200年頃に閉塞したことを記している。

1825年2月3日に嵐により、砂州の北端が崩壊し、アガ水道が形成された。
1862年の嵐の際にはアガ水道より南へ約10kmの地点が侵食され、チュボレン水道が形成された。
アガ水道は1877年までに再び閉塞された。

現在は北からアガ地峡(アガ・タンゲ Agger Tange)の砂州が、
南からハーボエア地峡(ハーボエア・タンゲ Harboor Tange)の砂州が南から伸び、
中ほどにチュボレン水道が開けている地形となっている。

リムフィヨルドに面した町としては東部にオールボー、西部にニュークビン・モースがある。
0055ジャック・クールの生涯
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2015/09/26(土) 15:20:19.350
ジャック・クールの道
http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-24cc.html

その1 http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-06b8.html

その2 http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/--4624.html

その3 http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/--9a0f.html

その4 http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/--7d80.html

その5 http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--cc20.html

その6 http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--fa72.html

その7 http://sorintei.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--3950.html
0056ジャック・クールの生涯
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2015/10/21(水) 00:27:06.460
馬王堆漢墓

馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)は、湖南省長沙にある紀元前2世紀の墳墓。利蒼(- 紀元前186年)とその妻子を葬る。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E7%8E%8B%E5%A0%86%E6%BC%A2%E5%A2%93

帛画の上部は天上界を表す。
まず、上端中央に人身蛇尾(上半身が人間、下半身がとぐろを巻いた蛇)の神人が座している。
ひとり神で蛇身部分が赤いことから、『山海経』の燭竜と推測される。
神人の右側、赤い太陽の中には黒い鳥が、左側の三日月の中にはひき蛙が描かれている。
これらは『淮南子』の「日中に?烏(しゅんう)有り、而して月中に蟾蜍(せんじょ)有り」をその通りに描いている。

太陽の下にいる竜の傍らには8個の赤い円が描かれている。
これは?が9個の太陽を射落とした伝説に関係すると考えられる。
従って竜と絡み合う樹木は『山海経』にある扶桑であろう。
三日月の下にいる竜の傍らには、1号墓の帛画では飛翔する女性が、3号墓の帛画では飛翔する上半身裸の男性が見られ、被葬者の昇仙図となっている。

竜の下の天門(天上界と現世の境)には2人の役人[8]が向かい合って座り、
その後ろの柱には豹がしがみついている。これは『楚辞』の「招魂」を思わせる。

現世界に入り、天門直下の華蓋の上には一対の鳳凰が、下には人面の奇怪な鳥が飛んでいる。
その下の左右には竜が描かれ、下の方で璧を貫き交竜になっている。
その竜に挟まれる形で被葬者の出行の場面が描かれる。
1号墓の帛画では、曲裙の長衣を着た老婦人(被葬者)が杖をついて立ち、
後ろには女性3人(腰元であろう)が従い、前に男性2人(天からの迎えの使者か)が跪いている。
3号墓の帛画では、劉氏冠と朱の長衣をまとい、腰に帯剣した男性が袖に手を入れて歩み、周囲に9人の人物が従っている。

その下にある宴の図は、被葬者を見送り、霊魂を導き昇天させる意味を持つ。
あるいは被葬者が死後の世界で食事を楽しむ様子を描いている。
料理や酒をふんだんに供えた[8]その供宴の席を、2匹の大魚(海を象徴する奇獣)の上に立った裸身の力士が支え上げている。
彼は『楚辞』の「招魂」にある土伯(幽都(冥界)の怪物)かもしれない。
彼の周囲には霊亀、鴟?などの霊鳥が描かれている。これら璧から下の部分は地下界を表す。
0057世界@名無史さん
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2015/10/21(水) 00:29:10.620
>>56

帛画の名称は、議論はあるものの[32]、遣策(副葬品リスト)にある「非衣」と考えられる[5][35]。
これは、衣の形をしているが衣ではない旌幡、といった意味合いだが[8]、
「非」は漢代には音通で「飛」と解することもでき、「非衣」即ち「飛衣」として霊魂の飛翔、昇天を願った名称であろう[5]。
帛画全体の主題も被葬者の「引魂昇天」と言えるものである[34]。
0060世界@名無史さん
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2015/11/05(木) 00:24:15.450
LESSON 1 ビーカーは「くちばし」!? ?理科室のカタカナ語?


理科は、調べる対象の状態や変化を「はかる」ことが大切。ここにもカタカナ語があります。

計測機器の「メーター」も、単位の「メートル」も、ともに語源は古代ギリシャ語のmetron(測る)。
メスシリンダーはドイツ語で、この「メス」も測るという意味。メスフラスコやメスピペットという器具もありますね。
ピペットは、英語では「パイペット」と発音し、パイプ(管)から来た言葉です。
ピペットは目的に応じて種類を使い分け、
イラストの駒込ピペットは日本人が開発したもので、計量ではなく、主に溶液を移すときに使います。

http://sciencewindow.jst.go.jp/html/sw46/sr-katakana

●メーター (meter)/古代ギリシャ語「測る」が語源。
●コイル(coil )/英語で「巻いた状態」。
●エナメル(enamel)/陶磁器の釉ゆうやく薬を意味し、七宝焼のやり方で金属表面を被覆し絶縁する。
●ルーペ(loupe)/英語で拡大鏡という意味で、最初はドイツ語として日本に入ってきたが、そもそもはフランス語。
●レンズ(lens)/レンズマメの種の形に似ていることから命名。
●プレパラート(Pr?parat)/ドイツ語で「準備」。観察の準備が整ったものという意味から。
●クォーツ(quartz)/二酸化ケイ素の結晶「石英」。水晶とも呼ばれ、電圧をかけると振動する。「硬い」の意味を持つチェコ語に由来。
●アルコール(alcohol)/アラビア語で「ワインの性質を与える精霊」という意味(諸説あり)。
●リトマス(litmus)/生物のリトマスゴケから名付けられた。
●アルカリ(alkali)/もとの意味は「植物の灰」。
●イオン(ion)/古代ギリシャ語で「行く」。イオンが電極に向かうことから、マイケル・ファラデーが名付けた。英語では「アイオン」と発音。
●ビーカー(beaker)/猛禽類の「くちばし」という意味から名付けられたという説と、ギリシャ語の「杯」に由来するとの説あり。
●ピペット(pipette)/小さなパイプ(管)という意味。
0061世界@名無史さん
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2015/11/05(木) 23:29:45.440
この後に全滅したかと思ってたが、
屈辱的な講和で助かったらしいペルシャの曹操


ペーローズ1世と砂漠
http://heartland.geocities.jp/zae06141/iranhistory17.html

 ペーローズの土地が再生し、彼の支配が打建てられたと き、
そして、彼が彼の敵に処罰の暴力を振るい、彼らを征服した時、
また、彼が3つ の町を建設したとき、彼は彼の軍隊とともにホラサーンへと赴いた。

エフタルのアクシュンワル王との戦闘を開くことを目的とし て。この知らせがアクシュンワル王に達したとき、彼は恐怖に打たれた。
アクシュンワルの家来の一人は彼の為に彼の人生を捧げ て彼に言った、 「私の両手と足を切って、私をペーローズのもとに送りなさい。
しかし、私の子供と家族の面倒はみてくださ い」 彼はこれによってペーローズを罠にはめるつもりだった、といわれている。
アクシュンワールはこれを行い、彼をペーロー ズのもとに送り届けた。

ペーローズが彼のもとに現れたとき、ペーローズは男の言うことに緊張を解いて、何が起こったのだと尋ねた。
その男は これはアクシュンワールにされたの だ、何故なら 彼はアクシュンワールにペルシャ軍にはかなわないだろうと言った為だ、と答えた。
ペーローズは慈悲と共感を覚 え、彼についてくるように命じた。 

男はペーローズに言った、これは助言なのだが、
彼は彼と彼の従者に近道を示すことが出きる、それはまだ誰も使ったこ となく、エフタルの王のもとへと至る道である、と。

ペーローズはこの罠にはまり、彼と彼の軍隊は不具者のいう道筋に沿って進軍した。
彼らは一つの砂漠から次の砂漠へともがきつつ進み続け、
彼らが渇きを訴え ると必ずその男は彼らは水の近くにいる、殆ど砂漠を横切っている、と言うのだった。

最終的に男が彼らをある場所に連れて行っ たのだが、その場所は彼らが知っている場所であり(元の場所に戻ってきたという意味)、
彼らは前進も後退も出来なかった。 ペーローズの家来は言った、「我々はこの男に関してあなたに警告しました。
恐れながら陛下、しかしあなたは警告をとらなかっ た。今我々は敵に遭遇するまで進軍するしかありません。例え環境がどうあれ」
0063世界@名無史さん
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2015/11/09(月) 02:14:50.690
ぎょしゃ座の伝説。
http://www.pleasuremind.jp/ASTRO/ASTROwinter008A.html

ぎょしゃ座はアルファ星カペルラを中心にした五角形とカペラのわきの小さな三角形で出来た星座です。

ギリシャでは、「ヘニオクース(たずなを取る者)」と呼ばれ、ぎょしゃの名はそこから出て来ていますが、
星図絵では、三匹のヤギをだいた優しそうなおじいさんの絵として描かれています。
アルファが母ヤギでギリシャ名カペルラ(英名カペラ)、その近くの三等星と四等星が、
二匹の子山羊でハェディ(ヤギの子)と呼ばれ、英名をギャップ(ヤギの子)と言うそうです。

ぎょしゃ座は五つの明るい星があるため、
日本では「互角星」と呼ぶ地方があちこちにあり、中国では「五車星」と呼ばれていたそうです。

ぎょしゃ座の一等星のカペルラは、一等星の中でもっとも天の北極に近く、光度0.2度、距離四十二光年、クリーム色の光の星です。
カペルラは、ギリシャ神話ではゼウスに乳を飲ませ育てたヤギ「マルテア」とされています。

古代バビロニアでは、カペルラはディルガン、またはイクと呼ばれ、最高神マルドゥクの星とされました。
この星が新月と西の空に並んでかかる日が元旦で、天文僧がトランペットを吹いて人民に新年を告げたと伝えられているそうです。

エジプトでは、世紀前五千三百から千八百五十年の間に立てられたカルナックを初め五つの神殿は、
カペルラの光を神像の目に導くようになっていたそうです。

また、デンデラー神殿に残る星図には、冠をいただいた男が、手を広げて持っている猫のミイラとなっています。
またインドでは「プラーマの胸」の星としてあがめられているそうです。

アラビア人は、この星が他の星に先んじて北の空高く輝くので、カペルラを「星の長」と呼びました。
また、ほとんど同時に昇るプレアデス星団(昴)をラクダの群れと見て、
カペルラをその列の前に立って、ハドウの歌を歌うラクダ使いと見たそうです。
0064世界@名無史さん
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2015/11/10(火) 22:48:57.470
デルベント要塞(アランの門)について

http://heartland.geocities.jp/zae06141/central2.html

 ロシア連邦ダゲスタン共和国のカスピ海沿岸都市にデルベントという都市がある。 
ここはトランスコーカサスを抜けて西アジアと南ロシア平原を行き来する回廊の一つとして古来から利用されてきた。

カスピ海とコーカサス山脈東端の間に位置している為、狭い回廊をなし、
その地形的特性は、北方南ロシア平原から西アジアへ略奪目的に押し寄せる遊牧民族防衛の要衝となった。

 歴史に記録の残るところでは、キンメリア人が紀元前6世紀にここを通過して西アジアに入ったと推測される、
ペルシャ人もこの回廊を通過して中央アジアから南西イランへ至ったと推測される。紀元4世紀末の民族移動は 
ここを通過してササン朝へ侵入する民族(フン、アラン、ブルガールなど)が後をたたず、
歴代ササン朝王はトランスコーカサスの防衛に腐心し、ビザンティン皇帝から借金をして防衛線を維持する事態にまでなった。 

特に4世紀北方遊牧民アラン族の侵入が激しくなり、438年にはササン朝によって「アランの門」と呼ばれる要塞が築かれ、
後代更に拡張を続け、ホスロー1世治下で巨大な規模に拡張された。城壁は内陸46キロ地点まで延びていたとされ、
これはカスピ海東岸に やはりホスロー1世によって築かれた160キロに達する長城と一体となって北方民族防衛の為の機能を担っていたと言える。
0065世界@名無史さん
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2015/11/10(火) 22:52:57.200
>>64

  要塞は非常に堅固で 切石で覆われており、エフタルや突厥の侵入を防ぐことに成功した。
もっとも626年のヘラクレイオスと突厥の共同作戦ではデルベントは突破され、ティフリス(現グルジアの首都トビリシ)を包囲した。

 ササン朝滅亡後は ハザールとイスラム帝国がデルベントを巡って攻防を繰り替えすことになる。 
713年イスラムのハビーブ・イブン・マスラマが要塞を攻略し、
更にアルメニア総督ジェラーフ・イブン・アブダラーフ・アル・ハカミが
721年〜737年に渡ってハザールと攻防を繰り返した時期、数度デルベントにおいて攻防が繰り返された。

 イスラムではこの城塞を「門中の門」と呼び、トルコ人も「鉄門」と呼んだらしい。 
イスラム勢力はついにこのデルベントを超えることなく1828年トルコマンチャーイ条約によってロシアの支配下に入った。

  現在では南北にある2つの城壁と塔、ササン朝に起源を置く丘の上にあるNarin Kala城の他、大浴場と貯水タンク、共同墓地、6世紀のアルメニア教会などの遺構が残っているらしい。
0066世界@名無史さん
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2015/11/10(火) 22:54:38.280
>>65

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Derbent_winter.jpg

デルベントはコーカサス地方において戦略的に重要な場所に位置している。カスピ海とコーカサスの山々との間では、幅が3キロメートルしかない。
歴史的にデルベントは、ユーラシア草原と中東を結ぶ交通の要衝であったため、様々な民族の衝突の舞台となってきた。

現在のデルベントの町はカスピ海の西岸に位置し、タバサラン山頂からの傾斜面に位置する
。デルベントは交通の便がよく、港湾施設を持ち、アゼルバイジャンの首都であるバクーとは鉄道とロストフ・ナ・ドヌ道路で結ばれている。


デルベントにおける最初の住居は、紀元前8世紀に遡る。
紀元前6世紀には、ペルシャの王によって支配されていた。
紀元前4世紀までには、カフカス・アルバニア人(en:Caucasian Albania)が建国した国の首都として機能していた。
現在のデルベントの名前の由来はペルシャ語の「閉じられた門」に由来する。

5世紀の終わりかあるいは6世紀の始まりには使用されるようになっており、この頃は、サーサーン朝の皇帝カワード1世(en)によって統治された時代であった。
カワード1世の子供であるホスロー1世の時代に、デルベントの北を臨む監視塔を備えた高さ20メートルの城壁が建設された。
アルメニア人の7世紀の歴史家であるモヴセス・カガンカトヴァツィ(Movses Kaghankatvatsi)が叙述した年代記にも、驚嘆の言葉を添えての記述がなされている。
ホスローの建設の結果、デルベントは、サーサーン朝の強固な要塞、港として機能した。

5世紀から6世紀の間には、デルベントは、カフカス地方におけるキリスト教布教の拠点となった。
0067世界@名無史さん
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2015/11/10(火) 22:56:28.080
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD


カフカス・アルバニア王国( - おうこく)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/Caucasus03.png/800px-Caucasus03.png

紀元前2千年紀末にカフカス南東部、およびアゼルバイジャン領域に存在したアルバニア人によって建国された古代王国である。
紀元前3世紀から紀元前2世紀ごろにかけて首都をカバラ(英語版)に置く国家として明確な形成がなされ、犂耕作、放牧、種々の工芸、コブスタンなどの文化を築いた。
紀元前1世紀ごろにはクル川(アゼルバイジャン語: Kur)での戦いにおいてポンペイウスと戦闘した記録が残されている。
なお、このアルバニア人は現代のバルカン半島のアルバニア人とは全くの別民族である。

3世紀から5世紀ごろにかけてはキリスト教が国教となるとともに封建的な国家が形成された。
6世紀にサーサーン朝の支配下に入るも、7世紀メフル朝の時代に独立を回復する。
8世紀にカリフ領となりイスラム化が進むとともに国家としての存在は消滅した。
0071世界@名無史さん
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2015/11/12(木) 01:22:20.870
アナレンマ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/74/Analemma_pattern_in_the_sky.jpg/564px-Analemma_pattern_in_the_sky.jpg

アナレンマ(Analemma)とは、均時差によって1年のうちに太陽の位置が8の字型を描いて運動すること。
1年を通して同じ場所で同時刻に太陽を撮影し、画像を合成してはじめて浮かび上がる。

フィルム時代には1枚のフィルムに露光しなければならないため撮影には手間がかかったが、
デジタルカメラ出現以降は複数の画像をコンピューターで合成すれば出来る。
それでも、撮影に時間がかかることには変わりがないため、撮影された例は少ない。

赤道では8の字は真横になると考えられているが、気象上の問題からか撮影された例はない。
0072世界@名無史さん
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2015/11/19(木) 01:29:56.260
アポピス Apophis、Apepi(仏語:Apophis)
古代名:アーペプ/ギリシア名:アポピス/別称・別綴り:アペピ、アペプ

http://www.moonover.jp/bekkan/god/apophis.htm
より抜粋させて頂いております


エジプトにおける「ヘビ」は、畏怖の対象とされ、王権の守護者であるコブラ以外のヘビは、すべてアポピスの眷属とされ、忌まわしいもの、恐ろしいものだった。
アポピスはその代表にして、最も恐れられた最大の存在である。基本的には忌まわしいものだったにも関わらず、「名」と「姿」がよく知られている。

古代エジプトの宗教観では「描かれたものはそのままの姿で存在するのと同じ」であったため、
壁画などでアポピスが描かれる場合は、自由に動き回る姿ではなく必ず「縛り付けられている」か「調伏されている」姿となる。

[右図]ざっくり
http://www.moonover.jp/bekkan/god/apopis_2.jpg

テーベ西岸、デイル・エル・メディーナにある貴族インヘルカの墓(第20王朝)より。
太陽を象徴する聖なる木、シカモア・イチジクあるいはペルセアの樹をとりまくアポピスを倒す「ヘリオポリスに住む太陽神ラーの大いなる雄猫」。
太陽神ラーの分身というか使い魔的な猫が蛇を倒す姿は、これ以外にもいくつか残されている。上部の文章は死者の書17章。


・第二中間期にエジプトを席巻したヒクソス人による王朝の王の一人はアポピスの名を持っていた。
この王と、エジプト土着人の王セケエンラーの、
エジプト再統一ををかけた戦いが「アポピスとセケエンラーの戦い」というエピソードで残されている。
0075世界@名無史さん
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2015/11/19(木) 23:19:09.230
ラクダが干支の入られなかった理由(inモンゴル)
http://blog.goo.ne.jp/yanzaga/e/89cbb1aef2a96328de4d75efde5cf164

 仏様が十二支を決めることになり、動物たちが争った後13匹の動物が選ばれました。
最後のイノシシから決めていき、1匹あまったので、先頭はネズミか、ラクダか、という議論になりました。
そこで仏様は、明日の朝日を最初に見た者にこの座を与える、と言いました。

 ラクダとネズミは一緒に朝日を待つことになり東の空を眺め始めました。
ところが、ラクダがネズミを脅かし、西へ向いてろ!さもなくば踏み潰すぞ!と。
 ネズミは仕方なく、日が沈む西へ見ていました。

ところが、「日が出た!」とネズミが。
俺が西向いているのにそんなはずがないと振り返ったラクダがやっとわかりました。
東の地の果てに日がまだ見えないけど、西の山の天辺に日の最初の光が差していました。
これで十二支の先頭がネズミに決まったとさ。

 先頭ところか、干支にも入れなかったラクダが落ち込んでいると、仏様が慰めて言いました。

 「ラクダはその身に十二支全部の特徴を持っている。
子の耳、丑の目、寅の脚底、卯の鼻、辰の顎鬚、巳の首、午の鬣、未の毛、申のコブ、酉の冠、戌の腿、亥の尻尾を持っているから」
0076世界@名無史さん
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2016/01/08(金) 06:48:17.710
【技術】スーパーコンピュータ「Shoubu(菖蒲)」がGreen500で世界第1位を獲得 理研など [転載禁止](c)2ch.net
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1438744082/617

617 名前:名無しのひみつ@転載は禁止[sage] 投稿日:2015/09/24(木) 21:41:43.18 ID:xak3zhHS
>>459  SC3からは3次元積層メモリを使う、磁界転送で大幅に転送レートが上がる。 磁界転送はインターコネクトにも使う。

   SC          SC2         SC3         SC4
1.5TFLOPS    8.2/16.4TFLOPS   20/40TFLOPS   50/100TFLOPS     
DDR4/custum HMC/HBM/CustumTCI CustumTCI/TSW CustumTCI/TSW
Gen3 32GB/s  Gen3/4 48-96GB/s  500GB/s?     500GB/s
 1,024core      4,096core      8,192core      16,384core
  28nm        14-16nm        10nm        7nm
  60W         100W          TBD        TBD
  2014年       2016年        2018年       2020年
http://n.mynv.jp/articles/2015/03/02/exascaler_pccluster/images/005l.jpg
0077世界@名無史さん
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2016/01/08(金) 06:49:37.260
【技術】スーパーコンピュータ「Shoubu(菖蒲)」がGreen500で世界第1位を獲得 理研など [転載禁止](c)2ch.net
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1438744082/632

632 名前:名無しのひみつ@転載は禁止[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 12:50:27.74 ID:K1aOo2U9
ワークショップ資料が面白い。
菖蒲の命名由来の一つに、菖蒲が扁平で積層になってる事から名付けたとある。 似鳥は【にたどり】なんだ
------
Shoubu(菖蒲)ワークショップ配布資料および関連情報
http://accc.riken.jp/shoubu_info/
本ページでは2015年8月25日に開催しましたShoubu(ワークショップ)の資料およびその他の関連情報を公開しています。
0078世界@名無史さん
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2016/01/08(金) 06:49:53.270
>>77
ワークショップ資料(PDF)

Shoubu(菖蒲)プロジェクトの共同研究について
黒川 原佳 (理化学研究所 情報基盤センター)
http://accc.riken.jp/wp-content/uploads/2015/09/kurokawa1.pdf

PEZY-SCの紹介
石井 敬 (PEZY Computing社 プロセッサ開発部長)
http://accc.riken.jp/wp-content/uploads/2015/09/ishii.pdf

ExaScalerシステムの紹介
鳥居 淳 (ExaScaler社CTO)
http://accc.riken.jp/wp-content/uploads/2015/09/torii.pdf

「Shoubu(菖蒲)」でのLINPACK実装
似鳥 啓吾 (理化学研究所 エクサスケールコンピューティング開発プロジェクト)
http://accc.riken.jp/wp-content/uploads/2015/09/nitadori.pdf

「Shoubu(菖蒲)」におけるTOP500/GREEN500初期測定の実際
木村 耕行 (ExaScaler社代表取締役会長)
http://accc.riken.jp/wp-content/uploads/2015/09/kimura.pdf

「Shoubu(菖蒲)」のUpdate計画と次世代システム開発構想
齊藤 元章 (PEZY社代表取締役社長、ExaScaler社代表取締役会長)
http://accc.riken.jp/wp-content/uploads/2015/09/saito.pdf
0080世界@名無史さん
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2016/01/20(水) 00:47:21.570
>>79
へんなとこ見つけましたねww

山車彫刻にみる聖獣
http://www.nakanoprint.co.jp/chitanokaze/4seijyu/seiji_05.html

中国の山東省にある山西陶寺遺跡から龍山文化晩期の彩色陶盤が出土、そこに龍が描かれていた。実に紀元前2000年のことである。その起源はさらに遡るであろう。
 龍は元来は水の中に棲む水怪とされた。天に昇る力を備えているという。天高く飛翔して死者の霊魂を天界に運ぶ霊獣なのだ。
竜巻は龍が天と地を結ぶものとされた。日本では水の神として龍神と呼ばれた。龍は雲をよび雨をもたらすと雨乞いの神様となる。

 龍の形態は蛇体を基本とする。
角は鹿、頭は駝、眼は鬼(または兎)、頂は蛇、腹は蛟(みずち)、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛、翼あるものは蝙蝠(こうもり)に似るという。
 蛇が500年たつと鱗が出てきて、さらに1000年で龍となる。それから500年で角が生え、1000年で翼が出るとされる。その度に龍は変化するので、その名も様々に呼ばれる。

 一般には、鱗のある蛟龍(こうりゅう)、翼のある応龍(おうりゅう)、角のある蚪龍(きゅうりゅう)、角のないあま龍(あまりょう)、
天に昇ったことのない蟠龍(ばんりゅう)、水を好む蜻龍(せいりゅう)、火の好きな火龍(かりゅう)、鳴くことを得意とする蜥龍(せきりゅう)などがある。

 最古の龍があま龍で、雨竜ともいう。「みずち」のことで、形は蛇体で蜥蜴(とかげ)に似ている。
角がないのが特徴で、尾は細く蒼黄色をなし、濁水に棲む水霊という。この龍が5000年の後に蛟龍となる。
0081世界@名無史さん
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2016/01/20(水) 00:50:57.720
>>80

 蛟龍には鱗がある。この龍が鯤鮫(こんこう)を生み鯤鮫がすべての魚を生んだとされる。
蛟龍が龍巻をおこし天に昇るのである。この時にはじめて龍に角が生じ、長くて鋭い爪が生えてくる。
この天に昇る龍を表現した昇龍、または登龍が、立身出世の関門とされた「登龍門」のめでたい姿である。

 多くの龍の長が蚪龍で角と鱗があり、四脚を踏ん張り雲に乗る姿は有名である。力の主権者として畏敬され神聖視された。

 翼がある龍を応龍というが、応龍が麒麟を生み、麒麟がすべての獣類を生んだとされる。

同じ翼がある龍に飛龍(ひりゅう)がある。常に天に在って、雲に乗じて天地の間を飛翔する。
飛龍が鳳凰を生み、鳳凰がすべての鳥類を生んだとされる。大きく翼を拡げた飛龍は山車彫刻によくみられる。

 元亀を生んだ先龍(せんりゅう)がある。
この元亀がすべての虫類を生んだとされる。先龍の形態については定かでない。

 これまで述べたように、龍が地球上の生物すべての祖とされた。

 神社仏閣の装飾彫刻に様々な姿の龍が登場するが、神社建築に見られる火龍は、この龍がいくところ必ず火焔をおこすといわれる。
禅宗寺院の天井絵に円形の龍が描かれている龍は「八方にらみの龍」と称すが、
角と鱗と爪がある蟠龍で、まだ天に昇ったことのない龍という。波と雲を伴って描くのを特徴とする。

 剣に絡みつき今にも剣先を呑み込まんとする龍を倶利迦羅龍(くりからりゅう)で黒竜ともいう。
不動明王が右手に持った利剣の象徴ともいう。黒竜は火焔を吹き凄じい形相で黒く描かれる。
知多市岡田の山車の古い水引に黒竜が刺繍されていたのを見たことがある。おそらく雨乞いの祈りがこめられていたものであろう。

 蒼龍(そうりゅう)という龍がある。
春の龍にして、春分に天に昇り秋分に淵に入るとされる。この龍は四神のひとつで東方を守護する青龍のことである。

 鳴くことを好む龍に蜥龍がある。石龍ともいう。日本では蜥蜴を意味する。
この龍を天井画として描き、手をたたくと龍がそれに応えて唸るというものだ。
「鳴き龍」はこのことから始まったとされる。日光東照宮の「鳴き龍」は蜥龍ではない。
0083世界@名無史さん
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2016/01/30(土) 09:29:23.670
>>82

calであそぶ
http://www.asahi-net.or.jp/~hi5k-stu/compt/calendar.htm

 1700年はうるう年なのである。1700年はグレゴリオ暦ではうるう年ではないはずなのに、なぜこのように表示されるのだろうか。
グレゴリオ暦は1582年以後カトリック系諸国では大幅に導入が遅かったのである。
グレゴリオ暦がイギリスとその植民地に導入されたのは、1752年であった。

calコマンドをつくったのはイギリス系の人だったのである。
0084世界@名無史さん
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2016/01/31(日) 11:31:18.820
【神仙】
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index187.htm

仙人にも上中下の優劣があります。
屍解仙(しかい。尸解とも)というのは、『抱朴子』によりますと、魂だけが仙人となって死体はそのまま地上に残ることをいいます。
つまり、仙人になれない下位の道士が死後、魂だけが天界の仙人になったのを屍解仙といいます。

中位の道士が山中で仙人になっているのを地仙といい、上位の道士が生きたまま天界の仙人になった者を天仙といいます。
未完の練丹を飲用して死んだときは、魂は仙人になったと遁辞します。
古い時代には屍解仙の肉体が、蝉の抜け殻のようなものとされました。しかし、時代が下ると、死体が生気を取り戻し仙人として蘇るとされました。

中国には死人の口の中に蝉形の玉を入れる風習があります。
蝉は地中に潜り数年経ってから再び地上に戻り脱皮を行います。こういう生態から復活を象徴しています。

これは葬玉といい、目・耳・鼻・口・後陰・前陰の九竅(きゅうきょう。穴)に葬玉を入れました。
呪術的信仰から玉が肉体の腐敗を防ぐとされ、また、九竅に邪悪のものが出入りしないためでした。
玉蝉は蝉の孵化のように、死体もまた屍解仙になることを願ってのことです。
ですから、屍解仙として蘇る途中に墓を暴いて棺を開けてしまうと、二度と屍解仙になることはできず、ただの死体に戻ってしまうとされました。
昔の中国の法律では、墓あばきは即日死刑だったという所以がうかがえます。

しかし、天仙、地仙というのは葛洪がのべた概念で、尸解仙が仙人の原型であるといいます。(大杉徹著『不老不死―仙人の誕生と神仙術』)。
0086世界@名無史さん
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2016/02/11(木) 17:54:04.720
古代エジプト 巨大墳墓の謎
 地下3階分のスペースにある22の部屋、全長数百メートルにも及ぶ回廊、複数の深い吹き抜け、埋葬文書が大量に刻み込まれた壁…。
そこは、古代エジプト最大級の巨大墳墓だった。建てたのは、古代エジプトの王ファラオではなく、ペタメノフィス(別名パディアメノペ)と呼ばれる神官だったと考えられる。
ペタメノフィスの人物像を通して、古代エジプトに根づいていた豊かな文化を探る。
0087世界@名無史さん
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2016/02/11(木) 17:55:39.550
『図説・古代エジプト人物列伝』>目次
http://www.yushokan.co.jp/%E5%88%8A%E8%A1%8C%E6%A1%88%E5%86%85-1/%E4%BA%BA%E6%96%87-%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E6%B0%91%E4%BF%97-%E5%AE%97%E6%95%99-%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%BB%E3%81%8B/lives-of-the-ancient-egyptians-contents/

第Z部 神々の黄昏:第三中間期、末期王朝時代、プトレマイオス朝時代 

84 ウェンジェバエンジェデト:王の寵臣 
85 オソルコン:熾烈な権力争いに巻きこまれた王子 
86 ピイ:最初の黒人ファラオ 
87 ハルウァ:「神を礼拝する婦人」の家令 
88 モンチュエムハト:混乱期のテーベを支配した実力者 
89 パディアメンオペ:エジプト最大の私人墓所有者 
90 ニトイクレト(ニトクリス):神妻として生涯を捧げた王女 
91 セマタウイテフナクト(1世):王の船隊指揮官 
92 アハモセ2世(アマシス):ギリシア人と和解した王位簒奪者 
93 ウァジホルレスネト:ペルシアに協力した提督 
94 ウェンネフェル(オンノフリ):政変をくぐり抜けた蛇医者 
95 ナクトホルヘブ(ネクタネボ2世):エジプトで生まれた最後のファラオ 
96 セマタウイテフナクト(2世):アレクサンドロス大王による征服の目撃者 
97 パディウスィル(ペトシリス):故郷の神の信仰に一生を捧げた神官 
98 プトレマイオス1世:王朝を創始したマケドニアの将軍 
99 マネト:エジプト史の父 
0089世界@名無史さん
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2016/02/11(木) 18:08:30.060
>>86
500年前のラムセス朝的な懐古主義的宗教文書らしい

「編むんの主任朗唱神官」
「神の書の書記たちの監督官」
「自らの神の秘密の番人」

出世はしなかったらしいが、下の称号からすると
「(王の)最愛の唯一の友」 ふつうは「最愛の」は入らないらしんので
実はもーほーなんじゃないだろうか、、、
0091世界@名無史さん
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2016/02/18(木) 03:21:07.590
エラム絵文字 Elamite pictogram
http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_middleeast_17.html

最古の資料は,かつて古代エラム王国の都であったスーサ(Susa,現 Shush)の
考古学上 Susa II Ch, ‘Uruk 第 III’ と呼ばれる地層(前 2900)から出土した粘土板上の絵文字である。
文字数は数百あり,経済文書が多い。資料はすべて,何らかのリストまたは登録簿,目録名簿の類と考えられる。
文字はいずれも絵画的で,動物,容器,壷等の文様のほかに,数字を示すと考えられる文様も多い。

〈図 1〉は,現存する,人類最古の,馬に関する記述である。発掘にあたったフランス考古学隊のシャイル(Vincent Scheil)の解釈によれば,
たてがみが上に立っているものは牡馬,たてがみが垂れ下がっているものは雌馬,
たてがみのかかれていないものは子馬であろう。
さらに,馬の左側に描かれている親指様のものは数字の 1,小さい円は数字の 10 を示す,と考えた。


〈表 1〉Andis Kaulins によるファイストス円盤文字とエラム文字との対照表

テペ・ヤヒヤ(Tepe Yahya テペ・ヤフヤー)は,青銅器時代にインダス文明とシュメール文明を結ぶ重要な交易都市であった。
このテペ・ヤヒヤでは緑泥石の瓶が数々発見されただけでなく,この緑泥石の採石場とも思われる遺跡も発見されている。
原エラム語で書かれたパレット〈図 4〉も数多く出土していて,テペ・ヤヒヤが自立した高度な文明をもっていたことをうかがわせる。→ Damerow
0092世界@名無史さん
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2016/02/18(木) 03:59:56.340
1.古代宇宙論  2.周転円宇宙  3.太陽中心の地動説宇宙  4.ケプラーの法則  5.参考文献
http://fnorio.com/0015Classical_Astronomy1/Classical_Astronomy.htm

4.ケプラーの法則
(1)火星の会合周期の決定
(2)火星の公転周期の決定
(3)地球軌道の決定
(4)地球軌道上の時間関係を決定
(5)火星軌道の決定
(6)火星軌道上の時間関係を決定

星軌道が決まれば地球から見た任意時刻の火星の緯度・経度データはあるので火星の軌道上での時刻を決めるのは簡単である。
火星軌道を求めたことにより以下の法則を見つけた(1609年)

第一法則・・・・・・惑星は太陽を1つの焦点とする楕円軌道を描く
第二法則・・・・・・面積速度一定の法則

(7)以上の手法で他の5惑星の軌道を決定

火星の方法を他の5惑星に適応した。その軌道半径と公転周期を比較することから以下の法則を見つけた(1619年)

第三法則・・・・・・(半長軸半径)3/(公転周期)2=一定

(8)ケプラーの法則に対する補足
(9)ケプラーの天体力学 [2015.6.28追記]
0093世界@名無史さん
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2016/02/18(木) 04:04:41.910
科学の歩みところどころ
https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/kori/science/sci_index.html

大阪教育大学名誉教授 鈴木 善次
大阪教育大学教授 森  一夫
枚方市立桜丘北小学校教諭 児島 昌雄

“人間にとって科学とは何か”という根本問題が問われる今、もう一つの科学史として科学と社会との関わりにおいて考えるべきことをいくつかの事例を通して紹介する。
0094世界@名無史さん
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2016/02/18(木) 04:05:21.140
>>93

2004.09[30] 人間にとって科学とは何か
2004.08[29] 物質文明の歩み―含炭素物質を中心にして―
2004.07[28] 生態系とは何か
2004.06[27] 原子は不変か?
2004.05[26] 人類の先祖は何か
2004.04[25] 電気分解とイオン
2004.03[24] 天気現象研究の足跡
2004.02[23] 1メートルはどうして決めた?
2004.01[22] 太陽系の解明
2003.12[21] 原子の構造
2003.11[20] 地震とは何か
2003.10[19] スペクトルの謎
2003.09[18] 大陸は移動したか
2003.08[17] 原子は実在するか
2003.07[16] 化石とは何か
2003.06[15] 近代原子論の形成
2003.05[14] 遺伝子発見への道
2003.04[13] 電子の発見
2003.03[12] 光合成の発見
2003.02[11] 落下運動の解明
2003.01[10] 酵素とは何か
2002.12[9] 電気と磁気の関係
2002.11[8] 呼吸とは何か
2002.10[7] 気体の発見
2002.09[6] 細胞説の成立
2002.08[5] 酸とアルカリ
2002.07[4] 生物を分類する目的は何か
2002.06[3] 熱とは何か
2002.05[2] 神経を伝わるものは何か
2002.04[1] 大気圧の発見からボイルの法則へ
0095世界@名無史さん
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2016/02/20(土) 11:36:59.430
マニラ・ガレオン(またはアカプルコ・ガレオン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3

航路の発見
マニラ・ガレオンの貿易は、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ提督麾下のアンドレス・デ・ウルダネータによって創始された。
フィリピン諸島への航路は、スペイン王カルロス1世の援助を受けたマゼラン艦隊によって1521年に開拓されていた。
復路となるセブ島からメキシコへの航路は、ウルダネータが1565年に切り開いた。


積荷はアカプルコからメキシコを横断し、カリブ海に面した港ベラクルスまで陸送され、そこからスペイン王国のインディアス艦隊に積み込まれスペインに至った。
この航路では、インド洋を渡り喜望峰を回るという危険な行程を避けることができた。
喜望峰はオランダ制海権下にあった。スペイン人は、メキシコを横断するよりも、パナマ地峡の方が遙かに陸路が短距離で済むことを知っていた。
彼らはパナマ地峡に輸送路を整えようとしたが、うっそうと茂るジャングルとマラリアに阻まれた。
0096世界@名無史さん
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2016/02/20(土) 12:16:03.510
航海技術の歴史物語−帆船から人工衛星まで−
飯島幸人 著
http://www.seizando.co.jp/shop/?main_page=product_info&;products_id=571

1. 航海術の概要
2. コンパス
3. 速力と航程の測定
4. 測深装置
5. 高度測定装置
6. ノクターナル
7. 海図と水路誌
8. 日本における航海術とその発展
9. 通信システム
10. 電波航法
11. 航海に関連する単位
0100世界@名無史さん
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2016/03/20(日) 09:07:06.780
ハザール王国の謎
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/_floorA4F_ha.html

「ハザール王国」は7世紀にハザール人によって
カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家です。
9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない
ユダヤ人以外のユダヤ教国家となりました。

この謎に満ちた「ハザール王国」の実態を
探っていきたいと思います。
0101世界@名無史さん
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2016/03/20(日) 09:35:28.140
地理学者アル・ヤクービー

Ahmad al-Ya'qubi,
https://en.wikipedia.org/wiki/Ya%27qubi

アラビア版「7つの海」
https://en.wikipedia.org/wiki/Seven_Seas

中世アラビア人は、彼らが帆船で航海した全ての海を7つに数え上げた。これが本来の「七つの海」であると言える。

ペルシャ湾(アラビア湾)
the Persian Gulf ? The Sea of Fars

アラビア海the Arabian Sea ? The Sea of Larwi (Zanj)
ベンガル湾the Bay of Bengal ? The Sea of Harkand
the Strait of Malacca ? The Sea of Kalah (Between Sumatra and Malaya)
the Singapore Strait ? The Sea of Salahit
the Gulf of Thailand ? The Sea of Kardanj
南シナ海the South China Sea ? The Sea of Sanji
0103世界@名無史さん
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2016/03/20(日) 09:49:40.200
イブン・フルダーズベ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99

または イブン・フルダーズビフ(ペルシア語: ??? ???????? / Ibn Khurd?dhbih または Ibn Khurd?dhbeh、820年頃 - 912年)は、
アッバース朝で活躍したペルシャ系の地理学者・官僚。

アラビア語によるものとしては現存最古の地誌『諸道と諸国の書』[注釈 1]を著した[1]。
全名はアブル=カースィム・ウバイドゥッラーフ・イブン・フルダーズビフ(????????? ???????? ??? ??????? / Abu'l Q?sim ‘Ubaid'All?h Ibn Khurd?dbih)。


イブン・フルダーズベは、中国の東方にある「ワークワーク(al-W?qw?q)」という土地について、二度明確な形で言及している。
ワークワークは金を豊富に産出するといい、住民は犬をつなぐ鎖や猿の首輪を金で作っており、
また、チュニックを金糸を用いて織っているという。
ワークワークはすぐれた黒檀の産地であり、「黄金と黒檀はこの地から輸出される」と記している[4][5]。
0104世界@名無史さん
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2016/03/20(日) 10:04:45.340
マスウーディー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC

アラブ人の歴史家、地理学者でアラブのヘロドトスとして知られている。
西暦896年バグダード生まれ、956年9月カイロにて死去。


『時代の諸情報( ????? ?????? Akhb?r al-Zam?n)』
百科全書的な世界史で、政治史だけではなく、人類の知識と行動の起源を記載している。

「黄金の牧場と宝石の鉱山 ???? ????? ?????? ??????? Mur?j al-Dhahab wa Ma??din al-Jaw?hir (The Meadows of Gold and the Mines of Gems)」
947年に完成させ(132章)、956年に修正(365章まで増補)しているこの著作は600ページ程度とのこと。

実際に各地に赴いて情報を収集した点が、同時代の歴史家と大きく異なる彼独自の特徴である。
915年頃から917年 イラン(ニーシャプール、イスタフルなど)、シンド、西デカン
917年 イラクに戻る。
919年頃 イエメン、オマーン(この時ペルシア湾のシーラーフ出身の商人アブー・ザイド・アル=シーラーフィーから中国の情報を得た)
920年頃 バスラに滞在し、Abu Khalifa al-Jumahiの元で学ぶ
921年 シリア、ビザンツとイスラームの境界付近で情報収集、イスラームに改宗したビザンツ官僚トリポリのレオと会う
926年 パレスチナ(エルサレム、ナザレ)にてユダヤ人のトーラー学者Abu Kathir Yahya ibn Zakariyaの元で過ごす
927年頃 パルミラ、ラッカ、ハッラーン
      (アブラハム誕生地で、マームーン治下の翻訳事業に携わったギリシア科学の翻訳者の供給地のひとつで、
      アレキサンドリアの医学者が、ウマイヤ朝のウマル2世によって移住させられた地といわれている)
930年代 カスピ海沿岸(コーカサス、ハザール、スラブ、ブルガールに関する情報収集)
その後、エジプトとシリアに居住
0105世界@名無史さん
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2016/03/21(月) 17:24:20.710
田中航著「蒸気船」毎日新聞社刊 より引用
http://fnorio.com/0103heat_engine(steam_cycle)1/Steam_Ship1.html

1.蒸気機関(P101〜110)

(1)形式の発展
  1.ビーム・エンジン
  2.サイド・レバー・エンジン
  3.直動機関
  4.倒置堅型式蒸気機関
(2)多段膨張式往復動蒸気機関
(3)ボイラーの発達
  1.箱型ボイラー
  2.煙管式ボイラー
  3.水管式ボイラー
(4)復水器

2.船舶用蒸気タービン(P191〜199)
(1)タービンの開発
(2)タービニア号
(3)タービン船の時代
(4)減速装置
(5)組み合わせ蒸気機関(P212)

3.船舶用ディーゼル機関(P216〜225)
(1)ルドルフ・ディーゼル
(2)船舶用ディーゼル・エンジン
(3)煙突
(4)ディーゼル・エンジンの特徴
0106世界@名無史さん
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2016/03/21(月) 17:25:10.670
ポイントはタービソが開発されてるところです
>>105

4.まとめ(P233〜238)
(1)主機関の変遷
(2)燃料の変遷
0107世界@名無史さん
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2016/03/24(木) 00:30:11.710
帆船航海史大全集
http://hobbycom.jp/workshop/library?series=hansen_kokai

01.西洋の大航海時代〜インドを目指して
02.コロンブスの航海 その1〜黄金の国・ジパングを求めて
03.コロンブスの航海 その2 〜執念で探し続けたインドへの航路
04.帆走軍艦とガレオン船の誕生〜海上での覇権争いの時代へ
05.スペイン無敵艦隊の敗北〜イギリス海軍の興隆
06.偉大なるヴァーサ号の悲劇〜後世に影響を与えたスウェーデンの巨大帆船
07.17世紀の航海術の進歩〜新たな海図・四分儀・対数理論
08.17世紀の海戦〜巨大軍艦の登場と“世界の造船学校”オランダの勃興
09.新しいスタイルの軍艦の登場〜逆風でも前進するための新装備「ステイスル」
10.ネルソン提督のヴィクトリー号〜トラファルガーの海戦での激闘
11.フリゲート艦の登場と活躍〜アメリカ海軍・コンスティテューション号
12.帆船終末期の輝き〜高速帆船クリッパー船の登場と帆船時代の終幕
0109世界@名無史さん
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2016/04/03(日) 09:02:43.700
ウシュマル

ユカタン半島西よりに位置するウシュマル
750年ころから1100年ころに栄えた都市です。
建築家ライトが絶賛したプウク様式と言われる建築物が素晴らしい。

http://isekineko.jp/tyubei-uxmal.html

ケツァルコアトルは元々中央アメリカの神で、マヤにもたらされたのは10世紀ころと言われています。
マヤと中央高原の文化の融合としてはチチェン・イツァーが有名ですが、ウシュマルにも「ウシュマルの女王」像だけでなく様々な中央高原の影響が認められます。
そうなるとウシュマルの歴史が知りたいところですが、ウシュマルはマヤの遺跡でありながら、何故か文字がほとんど発見されていないため、その歴史には不明な点が多いのだそうです。

グアテマラのティカルやメキシコのパレンケに代表される古典期マヤが栄えたのは紀元250年から900年ころにかけてのことで、900年ころには多くのマヤ中部の都市が謎の終焉を迎えます。
しかし、ウシュマルは古典期マヤの都市が衰退し始めた750年ころから栄え始め、多くのマヤの都市が崩壊した900年ころから一気に人口が増えた、というちょっと変わった都市です。
このため、マヤ中部の人達がウシュマルに移って来たのではないかと考える説もあります。


また、この地の伝承では、元々雨神チャークを祀っていたこの都市に10世紀ころメキシコ高原出身のシウ家が入ってきて、
人々にケツァルコアトル(羽毛のある蛇)の信仰を強制するようになったとか・・・。

ウシュマルのシウ家、チチェン・イツァーのイツァー家、そしてマヤパンのココム家という3つの家を巡っては、
ウシュマルの王子に嫁ぐこととなったマヤパンの王女がチチェン・イツァーの王子と駆け落ちしたため、
マヤパンとウシュマルがチチェン・イツァーを倒したとの伝承もあるらしいのですが、時代が合わないこともあって真相は闇の中。
0111世界@名無史さん
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2016/04/06(水) 02:37:11.210
アリヤバータ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%BF

アリヤバータ(??????, ?ryabha?a、476年 - 550年頃)は5世紀末に生まれたインドの数学者、天文学者である。
アリヤバータの研究は、ヴァラーハミヒラやバースカラ1世、ケーララ学派など後世の研究者たちに影響を与えた。


生涯

アリヤバータが活動したのは、バラモン教の王朝で北インドを統一し、西暦320年から550年頃まで栄えたグプタ朝においてである。
アリヤバータの数学、天文学の著書は11世紀のアラビアの歴史家アルベルニによって研究された。
アルベルニの研究によれば、同名の二人の数学者がおり、年長のアーリヤバタが天文学、
数学の優れた著作を残したとされるが、近年の研究では同一人物とする説もある。

現在のビハール州のパトナに近いクスマプラで、天文学書『アーリヤバティーヤ(英語版)』を著したとされる。
この3章には、カリ・ユガ暦の3600年に23歳でこれを書いたという記述がある。
0112世界@名無史さん
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2016/05/08(日) 12:48:37.030
偉大なる天体の周期 (第3回)
上原 貞治
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueharas/seiten/gt47/idaishuki3.htm

1.内惑星の会合周期
2.「8年」周期
3.金星太陽面経過の周期
4.マヤの「金星暦」
5.マヤの暦の周期と金星の会合周期
6.マヤの金星暦の超絶技巧
0113世界@名無史さん
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2016/05/14(土) 09:27:40.470
レバチベドゥ遺跡とバドゥイ族ー西ジャワの石積基壇遺構ー
江上幹幸
社会文化研究 5(1) 1-32 2001年12月

古代における塔型建築物の伝播
?ボロブドゥールと奈良頭塔の関係について?
坂井 隆
http://ntur.lib.ntu.edu.tw/bitstream/246246/232602/1/08%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%B8.pdf
1 はじめに 2 頭塔と関連遺構のあり方 3 塔型建築物の伝播 4 ボロブドゥールの位置 5 インドネシアの石積基壇遺構 6 アジア東部の古代海上交流と仏教伝播 7 まとめ?交流の意味

A 頭塔の形態とレリーフ 頭塔は奈良市高畑町字頭塔
B 大野寺土塔 大野寺土塔は大阪府堺市土塔町
C 熊山石積遺構と円筒形陶器

5 インドネシアの石積基壇遺構
A 原初的様相

1) ピラミッド型?南スマトラの遺跡群
 ミンキッ(Mingkik)遺跡
 サルンティン・サクティ(Sarunting Sakti)

2) 斜面テラス型?グヌン・パダン遺跡 (Gunung Padang)
3) 統合型?レバッ・チベドゥ遺跡  レバッ(Lebak)地方のバドゥイ(Baduy)山中にあるレバッ・チベドゥ(Lebak Cibedug)遺跡

B ヒンドゥ・仏教伝来後の様相
インド文化の影響が明らかに認められる石積基壇遺構で、紀元後 4 世紀より確実に新しい要素があるものである。

1) プグン・ラハルジョ遺跡 (Pugung Raharjo)遺跡
2) ジャゴ寺院・スクッ寺院
 ジャゴ(Jago)寺院は、東部ジャワのマラン Malang 近郊にあり、シンゴサリ王朝のヴィシュヌワルダーナ(Wisnuwardhana)王(在位 1248?68 年)の仏教徒としての墓廟である。

C 石積基壇遺構としてのボロブドゥール
0115世界@名無史さん
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2016/06/04(土) 06:01:16.180
トンパ文字
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%91%E6%96%87%E5%AD%97

トンパ文字(トンパもじ、中国語:東巴文)またはトンバ文字とは、中国のチベット東部や雲南省北部に住む少数民族の一つナシ族に伝わる、象形文字の一種である。
ナシ語の表記に用い、異体字を除くと約1400の単字からなり、語彙は豊富である。現在、世界で唯一の「生きた象形文字」とされる。
0117世界@名無史さん
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2016/06/25(土) 11:53:12.080
中国・日本古代日食によるΔTの検証
(推古天皇36年の日蝕は皆既か?)
http://www.wagoyomi.info/suiko/suiko.html

2.ΔTの計算

 地球の自転は過去から較べると年々遅くなっていることが分かっている。
従って太陽、月、地球の力学関係だけで古代の日食の計算をしても現在と地球の自転速度が違うので実際に何処に日食の影が落ちたか分からない。
この力学関係だけで計算した結果と実際に日食の影が落ちた場所の差(時間の差)がΔTとなる。

Stephenson(1997)12)は過去の日食記録などを利用してΔTを計算している。
筆者の作成した日食シュミレーションソフトEmapwin23)もStephenson(1997)のTable 14.1のデータを使用している。
この検証で使用するΔTも同じである。

 例えば推古36年(AD628)の日食は現在と地球の自転速度が同じ(ΔT= 0 sec)とすると図1の様に朝鮮半島上に皆既日食帯が通るが、
Stephenson(1997)の値ΔT=4473 secで計算すると図2の様に日本を通り越して太平洋上に皆既日食帯が通ることになる。
0119世界@名無史さん
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2016/07/02(土) 22:19:16.650
サービト・イブン・クッラ

サービト・イブン・クッラ(Th?bit ibn Qurra、826年?901年2月18日)はアッバース朝時代のバグダードで活躍した天文学者、数学者。
サービトは、メソポタミア北部の町(現トルコ領)であるハッラーンに生まれた。
当時のハッラーンはギリシア系文化の中心地であり、サービトの一族は星辰崇拝者(偽サービア教徒)だった。成人後は両替商だった時期があったといわれる。

http://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%83%E3%83%A9

翻訳
サービトは数学、天文学、占星術、魔術、工学、医学、哲学に通じており、母語はシリア語であったがギリシア語にも堪能であった。
そのためバグダードで翻訳家として活動し、ギリシア科学の文献をアラビア語に翻訳した。
その中には、アポロニオスやアルキメデス、エウクレイデス、プトレマイオスの著書がある。
また、フナイン・イブン・イスハークによってアラビア語訳されたエウクレイデスの『原論』を改訂し、
やはりイスハークが翻訳したプトレマイオスの『シュンタクシス』を再書した。
翻訳家を養成する学校を創設し、優れた翻訳家を輩出した。

数学
数論の分野では、友愛数の組を求める数式の発見者とされる。
サービトは『友愛数の定義についての書』という著者の中で、公式を説明した。
代数問題を幾何的に解く価値に注目した最初期のアラビア数学者でもあり、
『代数問題についての正しい幾何学解』という著書で、エウクレイデスの定理を用いて方程式に幾何学上の証明を与えた。
また、当時はピタゴラスの定理が直角二等辺三角形にのみ適用されていたが、
それを全ての三角形に適用できるように図形を分割して一般化した。
この他に球面三角法、エウクレイデスの平行線公準の証明、アルキメデスの放物線の求積法などを研究した。

天文学
天文学では、歳差運動を分点の秤動で説明しようとする「トレピダチオ説」 (trepidation) がサービトに帰されると考えられている[2]
ほか、ニコラウス・コペルニクスによれば、恒星年を非常に精度よく求めたとされる。
0120世界@名無史さん
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2016/08/03(水) 22:34:12.670
ダメぽ
0125世界@名無史さん
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2016/08/09(火) 02:16:19.740
貿易用ドル銀貨
http://blog.livedoor.jp/kuro_kutushita/archives/65352700.html

hongkong_Bhongkong_Aイギリス貿易用ドル銀貨(Trade Dollar)とは、
1895年より香港やシンガポール(マレー半島)及び海外植民地などで流通用に製造された(対外貿易の決済用的な性格も備えた)銀貨である。
尚、1903年に各海外植民地ごとに専用の貨幣が製造されるようになると、他の植民地では流通されなくなるが、
以降は主に香港向けとして1935年まで製造が続けられた。(※但し、流通は1937年まで。)

「規格」
重量は420grains(約27.21g)、品位は銀90%:銅10%、直径は39.0mmである。
尚、重量が420grainsと、同時期に発行されていた日本(417grains≒27.02g)やメキシコ(417grains)、
アメリカ(412.5grains≒26.73g)の貿易用銀貨に比べて重くなっているが、
これは国際貿易において流通の優位性を狙った為と言われている。(※但し、後にいずれの国も420grainsに改鋳が行なわれている。)


hongkong_Dhongkong_C尚、
「香港ドル」自体は1863年に既に発行されており(当初は、1香港ドル=銀24.44g)、
銀貨と並行して紙幣(※政府紙幣ではなく民間銀行による。)も発行されていた。(※但し、銀貨の製造は1866年からである。)

しかしながら、当時の香港経済圏では外国貨幣の勢いが強く、製造から2年余りで市場から姿を消す事となってしまった。
また、この時不要になった貨幣製造機械はジャーディン・マセソン商会(ロスチャイルド系)を通じて日本政府に売却されている。
(※資料により、売却を仲介したのはグラバー商会(または、トーマス・グラバー)とするものもあるが、
グラバー商会はジャーディン・マセソン商会の日本代理店である。)
0126世界@名無史さん
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2016/08/20(土) 22:59:19.080
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB

ベネ・イスラエル(Bene Israel)とは、
インド原住のユダヤ人を指す言葉である。
ヘブライ語では『イスラエルの子』を意味する。

最も有名なアジア系ユダヤ人は、
「ブナイ・イスラエル(B'nai Israel)」と呼ばれるボンベイのユダヤ人である。
この共同体は約1500年前のインドまで遡る。
その中心はボンベイ(ムンバイ)とコーチン(コチ)であった。

今日インドのユダヤ人は軍、政府、産業で重要な位置にあることが多い
(例:インド人民党の安全保障顧問と、ゴア州・パンジャブ州知事を務めたJ. F. R. ジェイコブ中将など)。

ブナイ・メナシェ

別のブナイ・メナシェは、ユダヤ遺産の古代インド人の集まりであるとされる。
大半はイスラエル(アリヤー)に移住し、再びユダヤ教に改宗するための試練にあった。
ブナイ・メナシェは自分たちが古代イスラエル人の子孫であると主張し、
古代イスラエルの12部族の一つ、メナシェ(メナセ、マナセ)族の名前に触れている。
0127世界@名無史さん
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2016/11/10(木) 03:19:29.560
スタバのロゴは結構有名だったかな
アレなせいで変更になったんだっけか

実はスタバのあのロゴも!フリーメイソンと共通する古代文明シンボルの関係とは
http://world-fusigi.net/archives/8596344.html

アジアとあるのはインドネシアっぽいが
ジロフトとある気がしたのは蠍なんだろうか、、、
0128世界@名無史さん
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2016/11/21(月) 21:14:50.460
1 名前:ぷらにゃん ★[sage] 投稿日:2016/10/15(土) 02:44:36.21 ID:CAP_USER9
http://www.sankei.com/images/news/161014/wst1610140072-p2.jpg

昨年4月に兵庫県南あわじ市で見つかった紀元前3〜前2世紀(弥生時代前期末〜中期初頭)の松帆銅鐸7個のうち1個が、直線距離で
約200キロ離れた島根県雲南市の加茂岩倉遺跡で20年前に出土した銅鐸39個の中の1個と同じ鋳型で作られた「同笵(どうはん)銅鐸」
であることが14日、南あわじ市教委などへの取材で分かった。

関係者は「銅鐸の製作地や当時の流通ルートを知る手がかりの一つになる」とみている。

 同笵銅鐸と判明したのは、松帆銅鐸の3号銅鐸(高さ31・5センチ)と加茂岩倉遺跡の27号銅鐸(同31・4センチ)で、
3号銅鐸の胴体部分の左下に「王」、27号銅鐸には同じ部分に「土」という漢字に似た盛り上がった記号があった。
同じ鋳型で作られた際についたとみられ、鋳造時につく細かな傷の位置なども一致した。

加茂岩倉遺跡は、1カ所での銅鐸出土数が全国最多。大半が中型(高さ約45センチ)の内側に小型(同約30センチ)の銅鐸を収めた「入れ子」状態での埋納法だった。

松帆銅鐸も3組6個が入れ子状態で見つかった。今年2月には2号(高さ22・4センチ)と4号(同22・6センチ)が、江戸時代に淡路島で発見され、
南あわじ市の日光寺が所蔵している「中の御堂銅鐸」と同笵銅鐸であることが判明している。

難波洋三・奈良文化財研究所客員研究員は「当時から広い範囲で銅鐸が流通していたことが明らかになった。銅鐸の製作地を考える上でも重要だ」と話している。

http://www.sankei.com/west/news/161014/wst1610140072-n1.html
0129世界@名無史さん
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2016/11/21(月) 22:02:44.510
マヤ最古の天文表、見つかる

Nature ダイジェスト Vol. 9 No. 7 | doi : 10.1038/ndigest.2012.120702
http://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v9/n7/%E3%83%9E%E3%83%A4%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%A4%A9%E6%96%87%E8%A1%A8%E3%80%81%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%82%8B/36761

マヤ文明のシュルトゥン遺跡から、王や書記の絵とともに最古の天文表が描かれた壁画が見つかった。

壁に描かれた天文表は、ドレスデン・コデックス(ドレスデン絵文書ともいう)の表に似ている。
ドレスデン・コデックスは、西暦1300年頃から始まるマヤ文明の後古典期に作成された、天文学や予言、神事などが記された樹皮製の冊子である。
マヤ文明の古典期(西暦250〜900年)の天文情報を記したものは、現時点ではシュルトゥンのこの壁画しか発見されていない。



調和した数字

分析により、27行の数表は177日または178日間隔の日付を示していて、各行の上にはそれぞれ異なる月の神が描かれていることが明らかになった。
マヤ人は、177日と178日、すなわち6朔望月(1朔望月は月の満ち欠けの1周期)の月の動きを記録していたことが知られている。
この数表は、ドレスデン・コデックスの月食表に付随する掛け算表とよく似ており、5月10日の記者会見でStuartは、
「特定の日に、どの神が月の守護者になるかを計算するために使用されたのかもしれません」と述べている。

北側の壁の表には4つの数字が書かれていて、それぞれが決まった間隔の日付を表している。
その間隔は、短いものでも935年、長いものでは6703年あった。
研究チームによると、4つの数字は、いずれも52年周期のマヤ暦の倍数であり、
金星、月、火星、そしておそらく水星の周期に関連して繰り返し起こる出来事を表している可能性があるという。
0130世界@名無史さん
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2017/01/07(土) 06:55:36.670
Bitcoinの採掘報酬が半分になった
2016年7月11日 by Fitz Tepper
http://jp.techcrunch.com/2016/07/11/20160709the-reward-for-mining-bitcoin-was-just-cut-in-half/



設立当初、報酬は採掘された1ブロック当たり50 bitcoinだった。そしてプログラムは、21万ブロック採掘される毎に報酬を半分にし、64回の半減期の後、ゼロになるように作られた。
この指数的半減は、最後の半減期が来るのは100年以上先だが、全bitcoinの75%が既に採掘され流通していることを意味している。
そして今日は、Bitcoinの歴史上2回目の半減期だ。最初の半減期(報酬が50から25 bitcoinsに切り下げられた)は2012年11月のことで、当時の価値は12ドルくらいだった。
0133世界@名無史さん
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2017/02/25(土) 20:46:39.830
【考古学】17世紀の英ペスト大流行、DNA鑑定で初めて原因を特定 [無断転載禁止]©2ch.net
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1473670531/1

1 名前:もろ禿HINE! ★@無断転載は禁止[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 17:55:31.36 ID:CAP_USER
CNN.co.jp : 17世紀の英ペスト大流行、DNA鑑定で初めて原因を特定
http://www.cnn.co.jp/fringe/35088909.html
http://www.cnn.co.jp/storage/2016/09/12/def0b7220a47b2c81d598cbec7a5f344/plague-skeletons.jpg


(CNN) 1665年に英ロンドンで大流行して年間7万5000人超を死亡させたのは、
ペスト菌が引き起こす腺ペストだったことが、DNA鑑定を通じてこのほど初めて実証された。
ロンドン考古学博物館などの研究チームが発表した。

この年の大流行では当時のロンドンの人口のほぼ4分の1が死亡。
ピークだった9月には1週間だけで8000人が死亡した。
原因は腺ペストとする説が有力だったが、これまで確認はできていなかった。

しかしロンドン市内で地下鉄の延伸工事中に見つかった集団埋葬地を2015年に発掘調査したところ、
1665年の大流行で死亡したと思われる17世紀の遺骨42柱が見つかった。
0134世界@名無史さん
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2017/02/25(土) 21:10:46.660
アマルフィ手漉き紙
Carta Amalfitana
http://www.capriblue.com/pagina_cbdb.php?211055122

 2世紀に中国で発明された製紙法が、いつどのようにヨーロッパへ導入されたかは定かではないが、
海洋共和国の内でも歴史の古いアマルフィが、東方貿易に伴いアラブ諸国から最初に持ち帰ったと考えられている。

 交易先の港々に商館を持ち、多くの取引があったアマルフィにとって、
それまでの堅く重かった羊皮紙に比べ、扱い易く軽い紙は魅力的であっただろう。
その技術をなんとか取り入れようとしたことは想像に難くない。

 13世紀にはムリーニ渓谷でアマルフィ独自の紙づくりが始まり、18世紀には11の製紙工場が稼働していた。
水車の動力で綿花などを打った細かな繊維を水に溶き、手作業で漉きとる方法で上質な紙が生産されていた。
0135世界@名無史さん
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2017/02/28(火) 00:54:36.500
以下から抜粋

GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史
http://yamanatan.hatenablog.com/entry/2016/12/30/232628

アメリカの経済分析局がGDPを「20世紀でもっとも偉大な発明のひとつ」と称したのも、あながち誇張とはいいきれないだろう。

国の経済全体の大きさを測る、という試みが初めて本格的に行われたのは、17世紀の戦争の時だった。
1665年、イギリスの学者で役人もあったウィリアム・ペティが、イングランド及びウェールズの収入、支出、土地、その他試算の推計を作成した。
戦争に必要な資源が足りているか、そして徴税で戦費をまかなえるかどうかを見積もるためだ。
・・・彼は、国全体の経済の記録に複式簿記を導入するという功績も残している。

同じく初期の経済統計に着手していたチャールズ・ダヴナントは、1695年に『戦費調達論』というタイトルで研究結果を発表した。
経済統計の目的をずばりと言い表したタイトルである。
英語の「statistics」という単語は「state」と語源を同じくし、もともとは国に関する数値、特に税金関係のデータを指す言葉だった。

・・・フランスが同様の情報を手に入れたのは1781年になってからである。
財務長官のジャック・ネッケルがフランスの経済力についてまとめた『王への報告書』によって、
フランスの王はようやく戦略的に重要な経済・財政データを手に入れることができ、新たな国債発行も可能になった
(それでも結局、1789年のフランス革命を避けることはできなかったが)。
0136世界@名無史さん
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2017/03/04(土) 21:16:10.650
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9B%B8%E7%B4%80%E5%B9%B4

竹書紀年(ちくしょきねん)とは、中国の編年体の歴史書。
伝説時代から魏の襄王に至るまでを著述している。作者は不明。

この書物は漢代には既に散逸していたが、
西晋の279年に現在の河南省にあった魏の襄王の墓を盗掘した際に大量の文字を記した竹簡が出土し、
整理した中の一つがこの本である。竹に書かれていたことから『竹書紀年』の名がある。

『史記』などには登場しないエピソードも見えており、またこの書物を元に『史記』の年表における誤りの修正が為されている。

北宋代には再び散逸し、はるか後世の中華民国の時代になってから
唐の司馬貞の『史記索隠』から引用された文献から『竹書紀年』を復元する試みが行われ、
大きな成果を上げ、現在でも続いている。

明代に別の『竹書紀年』が出現したが、これは偽作であり、本来の方を「古本」・偽作のほうを「今本」と呼んでいる。
0138世界@名無史さん
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2017/03/15(水) 01:00:55.890
「現代の国際銀行家」は古代バビロンの神殿の高利貸・両替商に遡る
http://www.project-vega.org/2013/11/blog-post_722.html

 アッシリアが撤退しメソポタミア文明も終盤の新バビロニア時代に入ると、民間の銀行活動が盛んになってくる。
英国で発達した金融機関の起源ともいわれるのが、
バビロニアのユダヤ人のエジビ家(The Egibi family)や、ユダヤ系のムラッシュ家(The Murashu family)などの大地主である。
資金の貸付け、小切手、為替手形、さらには不動産ローンの買い取り、ベンチャー投資なども広く行われていた。
しかし預かった資金を貸し出しに回すということは行っていなかったようで、その為に彼らは銀行の起源としては扱われていない。
また奴隷自身がお金を借りて主人から自分自身を買い戻すローンもあった。

 ユダヤ人のエジビ家は5世代に渡り、ネブカドネザル2世の時代からアケメネス朝ペルシア王クセルクセスの支配まで続く。
エジビ家の第一世代は、ナブ・ゼラ・ウキンの息子のスラジャである。
彼らのほとんどの関心ごとは、バビロン周辺の農村地区での大麦などの商品の卸売業である。
スラジャは数人のパートナーと、利益と損益を共有して、長期的なベンチャービジネスに取り組んでいる。
そして資金と人脈も同時に構築している。後に彼の息子のナブ・アッヘ・イディンが、さらにそれを発展させていく。
0139世界@名無史さん
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2017/03/15(水) 01:12:17.040
>>138

第一世代は、ナブ・ゼラ・ウキンの息子のスラジャ
第二世代のナブ・アッヘ・イディン
第三世代のイッチ・マルドゥク・バラツ
第四世代マルドゥク・ナシル・アプリ
第五世代その息子ニディンチ・ベル

 エジビ家の第二世代のナブ・アッヘ・イディンは文字の読み書きと法律を学び、裁判所の筆記の職を得ることになった。
王ネブカドネザルの晩年、ナブ・アッヘ・イディンは時々、王室の行政の中心地のオピスで時間を過ごした。

第4代王ネリグリッサルの死後、彼は次の王で新バビロニア最後の王でもあるナボニドスの下で、バビロンの王室裁判官として影響力のある立場につく。
ナブ・アッヘ・イディンの多くの仕事は、彼の長男か実力があり最も信頼できる奴隷へと引き継がれた。

紀元前542年、王ナボニドスの13年目の年、ナブ・アッヘ・イディンは亡くなった。
エジビ家の第三世代のイッチ・マルドゥク・バラツは、紀元前522年のカンビュセス2世の王位が失われる時までエジビ家の事務的なことを取り扱う。

 しかし紀元前522年にアケメネス朝ペルシア第3代の王ダレイオス1世が即位してまもなく、
イッチ・マルドゥク・バラツは彼の長男のマルドゥク・ナシル・アプリと共に突然亡くなる。彼の長男は結婚もし、父の仕事を引き継いでいた。
イッチ・マルドゥク・バラツの野望は、妻の父親イディン・マルドゥクによって達成される。妻の父親は商売上、近い関係にあった。
 マルドゥク・ナシル・アプリは14年間、家族の事業を受け持ったが、彼の2人の若い兄弟は分け前の受取を要求した。

 紀元前486年、ダレイオス1世の36年目の年、マルドゥク・ナシル・アプリの息子ニディンチ・ベルは父親の死後、仕事を引き継いだ。
アケメネス朝ペルシア王クセルクセス1世の初期の頃で政情が不安定な時である。
よってニディンチ・ベルは仕事に必要な証書であるタブレットを守るため移動させておいた。
それらを慎重に瓶(びん)に入れ、廃棄場に埋めたことによって、その記録が1000年以上保管され続けた。
0140世界@名無史さん
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2017/04/05(水) 22:04:01.430
牛発射!−−投石機に関して−−
http://crazyhis.web.fc2.com/ahund/bun2.htm

弓形投石機
紀元前399年にシラクサで発明されたのが最初だが、最初は少々大きめの弓を台座に固定した程度だった。
最大射程は500メーターくらいだと考えられている。紀元前360年にウィンチが取り付けられて引っ張る力が増大した。
このクラスのものになってくると最大で162キロの石を飛ばすことができた。


捩り式投石機
 前353から341年頃にマケドニアの技術者が捩り式投石機を開発した。
アレクサンドロスの東征で活躍したのはこの時開発された投石機である。
アレクサンドロスの死後にローマやカルタゴなどに広くこのタイプの投石機が普及し、長い間、ヨーロッパの投石機の主力の地位を保つことになる。
 ローマでこの投石機は大きく変化する。まず、以前に比べて小型になった。
これは破壊力や射程よりも扱い易さと機動力を重視した結果だった。
ローマは投石機を攻城戦の道具としてだけでなく野戦時の支援兵器としても利用したのだ。
この手の投石機をバリスタとか、スコーピオンとか呼んでいる。


牽引式天秤型投石機
 この投石機は中国で発明され、7世紀頃にイスラーム世界を通してヨーロッパに伝えられた。
初期のタイプはだいたい1から59キロの石を85から133メートル飛ばすことができた。
構造が極めて単純で捩りタイプなどに比べて故障も少なく、速射生にも優れていた。
例えば、1147年にリスボンを攻撃したキリスト教徒軍は10時間の間に2台の投石機で五千発の石を発射している。
十五秒に一発のペースで十時間ぶっとうしで撃ち続けたのだ。十五秒に一発という速射性と、十時間使い続けても壊れない耐久力がウリなのだ。


カウンターウェイト式天秤型投石機
牽引式から発達したタイプがカウンターウェイト式の投石機である。
このタイプの投石機は12世紀中頃に地中海岸に現れ、そこからヨーロッパや北アフリカ、中東へと広がっていった。
 牽引式との大きな違いは人が引っ張る紐の代わりに紐が付いていた場所に重しが付いたところである。
平均的なもので、重しは4500キロから13600キロになり、45から90キロの石を300メートルくらい飛ばすことができた。
0141世界@名無史さん
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2017/04/08(土) 23:36:12.640
 現代欧州の金融と通貨の起源(3)

デ・ローヴァー「為替手形発達史−14世紀から18世紀−」の目次
5.レイモンド・デ・ローヴァー「為替手形発達史―14世紀から18世紀―」(楊枝,嗣郎氏訳)の目次の紹介。

http://heartland.geocities.jp/zae06141/bill_of_exchange_origin3.html

序文 (フェルナン・ブローデル執筆)
 謝辞

第1章 14世紀の為替手形の起源
第2章 14、15世紀の為替手形と貨幣市場の発展
第3章 16世紀における貨幣市場の転換
第4章 手形裏書の生成
第5章 割引業務
0143世界@名無史さん
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2017/06/07(水) 01:59:38.950
 マッカ・ムカッラマ(メッカ州)(サウジアラビア王国西部地方)
その1 悠久な東西交易の中継港ジェッタ(1-4大航海時代とジェッダ)

5. 大航海時代に使われた帆船
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Jeddah-4-5.html

5.1 アラブ船(Arab Ship)
5.1.1 バッガラ(Baggalah)
5.1.2 ブーム(Boom)
5.1.3 サンブーク(Sambuk)
5.1.4 ザルク(Zaruk)
5.1.5 その他のアラブ船
5.2. ガレー船の系列
5.2.1 バイリーム ガレー船(bireme galley)
5.2.2 トライリーム(trireme galley)
5.2.3 フスタ船(fusta)
5.3 西洋式帆船
5.3.1 キャラック船(carrack)とナオ船(nao)
5.3.2 キャラベル船(carvel)
5.3.3 ガレオン船(galleon)
5.3.4 コルベット艦(corvette)
5.3.5 スクーナー(schooner)
5.3.6 ブリガンティン型帆船(brigantine)
5.3.7 スキフ(skiff)
5.3.8 バーク帆船(barque)

大航海時代に使われた帆船は姿が美しく、浪漫を感じさせられるが、その種類は多く、全てを網羅するのは難しい。
その上に呼称や定義も様々であるので、ここでは1970年にルイーズ E. スウィート(Louise E. Sweet)が編集した
「中東の人々と文化(People and Cultures of the Niddle East)」でのアラブ船の分類を参照しながら私なりに理解した範囲で
ガレー船および西洋式帆船についても分類して参考資料として掲載した。
0145世界@名無史さん
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2017/08/21(月) 08:26:19.560
Paper(紙)とBook(本)の言葉ができるまで:古代フェニキアとギリシャがからむ英語の裏話2
http://jack8.at.webry.info/201311/article_1.html

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
Paper紙とbook本について、調べてみると、それぞれ単独で詳しく書いてあるものは多いのですが、
そのつながり、関連話を面白く書いてあるものは少なく、ちょっと余分目に書いてしましました。
もっともこのブログの特徴は、現在、そのような傾向にあるネット上の記事の隙間を埋めるものですので、
余分、余談もいいかなと思っています。これを見ている皆さん、紙(Paper)や本(Book)に親しんでいますか?
0146世界@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 08:52:37.320
インドの起源は古代ギリシャ文明
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/whis/1349157813/137

137 名前:パピルス[] 投稿日:2015/02/18(水) 21:51:12.20 0
パ・エン・ペアルルで「ファラオのもの」しかしこれは俗説

結局のとこ古代エジプトでは
メヒトmehyt→湿地に生える植物の総称
あるいは以下のようによばれたようだ
チュウフィイtjufy→特定の植物
0147世界@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 12:33:15.570
世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

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