>>25
とどのつまり、需要ですよ。
あくまで歴史上の一例ですが、鎌倉末期の『沙石集』にこんな話があります。

『ある老僧が亡くなった後、経は読めるが字の読めない弟子と『金光明最勝王経』
十巻が残された。弟子の一人は十巻の内二巻を「これは『金剛般若経』としてい
ただこう」と取り、もう一人は「ならば残りを『法華経』として取ろう」と言った。

字が読めず、書いてある字ごとに種類があることも知らなかった無知を批判した
内容ですが、肝心なのは経典の内容・教理ではなく、信者たちの前で経が読まれ
ることであり、経典が存在することであったともとれる話です。
そして『金剛般若経』に求められたのは田畑の実りであり、『法華経』に求めら
れたのは追善や治病でした。

治病を求める衆生に、与えるべきは「正しい知識」でしょうか、呪文でしょうか。
変に原理に拘り、求められてもいないものを与えることが正しいとは思えません。
少なくともそれ「だけ」では、大衆を無視した独りよがりになろうと思います。
だから雨乞いのための念仏を自分の思想から止めた五木寛之版親鸞は嫌いです。