スコットランドの歴史
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今話題のスコットランドについて語ろう!
1707年から2014年までの大英帝国時代を含みます! イギリスの歴史は複雑すぎて日本人には理解できない
アングロ人がサクソン人に勝って併合同化したとかなんとか・・
民族や宗教が入り混じってどれが本当に王なのかもわからない そもそも王家の基準も
あいまいw どうせ現ウィンザー朝はドイツ人だし
ドイツ丸出しのハノーバー朝という王朝名を変更して
ドイツ系とわかりにくくするという姑息なことやったが その前の王朝はフランス系だしデーン系だし
向こうは王様がどこ系でも国民国家以前は気にしない
貴族はコスモポリタンだしな
ドイツは小国が多いから婚姻関係結びやすいから欧州中で重宝されたな だが全く気にしないってことはないだろう
もしそうなら王朝名を変更なんかせずハノーバー朝のままでよかったはず ハノーヴァー朝は1901年に断絶して、以後はサクス=コバーグ=ゴータ朝
ウィンザー朝はこっちが改名した
理由はドイツ帝国が敵国になったため国民感情に配慮して 20歳の女子大生、英最年少議員に 労働党「影の外相」破り当選
http://www.afpbb.com/articles/-/3047778?ctm_campaign=topstory
7日投票が行われた英総選挙で、スコットランド民族党(SNP)から立候補した
20歳の大学生、メアリー・ブラック(Mhairi Black)さんが、最大野党・労働党
の「影の内閣」外相で選挙戦略主任を務める前職のダグラス・アレグザンダー
(Douglas Alexander)氏(47)を下して当選し、1667年以来で最年少の国会議
員に選出された。
→もしかすると、バーナテッド・デブリン以来の年少記録? ハドソン湾会社は奉公人としてオークランド諸島出身者を優先したので
スコットランド系が3/4ほど占めていた。 1318年アイルランドでスコットランド軍とイングランド軍が戦っている(ダンドークの戦い)。
アイルランドにも兵を送っていたんだね。 イングランドの貿易独占権などの特許が及ばない地域として、
ロンドン以外の都市の商人達や東インド会社の独占に対抗した
ロンドンの商人が、スコットランドに投資した。
おかげで、18世紀発展の基礎を築くことができた。
一方、選ばれなかったアイルランドは発展するチャンスを失った。 エリザベス一世がメアリー・スチュワートを殺したが自分たちも親父が殺しまくり姉妹で殺しまくりだったから、
血統が途絶えて、メアリーの息子を後継者にしてスコットランド系のスチュワート朝になる。
でも、王権の時代じゃなく、王の首が切られたり、おんだされたり。
そうまでしても、王位を得ればやっぱり君臨すれば統治もしたいなで安定しなかったが断絶してドイツから親戚連れてきてハノーバー朝になった。
そうすると英語が話せないから統治丸投げでやっと政治は安定し、大英帝国の発展が確立した。 中期英語から分かれたスコットランド語と、先住民のゲール語を公用語に
国歌:蛍の光 英紙ガーディアンによると、スコットランドのスタージョン行政府首相は24日、同地域の投票では欧州連合(EU)残留が多数を占めたことを受け、
「スコットランドの人びとはEUの一部で有り続ける意思を明確に示した」と述べ、EUに残留するため英国からの独立を求める意向を示唆した。 スコットランドが独立してもタックスヘイブンはイングランドのものだよな?
いや、そこでも揉めるのか 実はイングランドの方が立場が下だったとか >>276
スポーツ大会などでスコットランドのアンセムとして歌われる曲は
Scots Wha Hae (スコッツ・ワー・ヘイ)
だよ
Auld Lang Syne (オールド・ラング・ザイン いわゆる「蛍の光」)
ではないよ ごめん、近年の状況を調べてみて訂正。
近年、スポーツ大会などでスコットランドのアンセムとして歌われる曲は
Flower of Scotland (スコットランドの花)
になってるそうだ。 イングランド、スコットランド、アイルランド、アイスランドで緩い合衆国になればええやん 連邦構成国だと思わずイングランドの一地方だと思えば問題ない スコットランドはアイルランドと共に欧州文明の一翼を担い、アングロサクソン文明
と対峙してきたけれど、1603年に死去したエリザベス一世に子供がいなかったため、
スコットランド国王のジェームス六世がジェームス一世としてイギリス国王に就任し、
爾後スコットランドとイギリスは同君連合状態が続き、1707年に両国は合邦するも、
その実態は、イギリスによるスコットランドの併合以外の何者でもなかった。
イギリスへの反発から、1745年にはスコットランドで大反乱が起きるが失敗した。
このスコットランドとイギリスの微妙な関係は現在も続いています。
韓国では、日韓併合を推進した李朝末期の政治家達を売国奴呼ばわりしていますが、
実は、1707年のスコットランドのイギリスとの合邦に賛成したスコットランドの政治家達も、
これまでスコットランド人から売国奴呼ばわりされてきたのです。
すなわち、スコットランド人達は、当時のスコットランド議会の議員の多数はイギリス側
から賄賂をもらうとともに、イギリスの植民地へのアクセスが可能になるという経済的
利益に目が眩んで合邦に賛成したと思い込んできました(※)。
(※)
イギリス側は、政治的理由でスコットランドとの合邦を望んだ。ルイ14世率いる
フランスとの戦争が続く中、フランスがカトリック・シンパであった旧スチュアート朝の
王位継承権者(フランス亡命中)を送り込んで、スコットランドで反乱を起こすことを
回避する必要があったからだ。
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,,1928281,00.html
しかし、合邦後の1745年に、皮肉にも上述の大反乱が起きてしまう。 しかし、最近、そうではなかった、という説が有力になってきました。合邦に賛成した
議員達の大部分は、合邦のかなり以前から、(経済的・政治的理由もなかったわけでは
ないけれど、)主として宗教的理由から合邦に賛成していたことが分かったのです。
ですから、そもそもイギリス側は、議員達を買収する必要などなかったのです。
具体的には、英国のイギリスのアン(Anne)女王(兼スコットランド女王)から
スコットランドの議員の30人の人々に、合計で2万ポンド相当の金の賄賂が支払われた
とされてきたものの、このうち4人は議会での投票権さえ持っておらず、かつ、4〜5人を
除いて、残りの大部分の議員はずっと以前から合邦賛成派であった事が判明したのです。
しかも、支払われた金は、賄賂ではなく、補償金だったことが裏付けられました。
それまで支払われていなかった給与のバックペイ、それにダリアン事件(Darien disaster)
の正当な補償金だったというのです。
ダリアン事件とは、パナマ地区にスコットランドの植民地をつくる計画が失敗に帰し、
生命財産が失われた事件であり、この計画を推進したイギリス王(兼スコットランド王)
ウィリアムがその補償に熱心でなかったことから、スコットランド人達の多くは、今日まで、
この計画は、スコットランドの独立を妨げるためにイギリス人によってつぶされたと信じ、
だからこそイギリスは、スコットランドの議員達に賄賂を贈ってだまらせる必要があった
のだと信じ込んできました。
しかし本当のところは、ダリアン事件は、植民地予定地のロケーションが悪かった等の
原因で起こったのであって、スコットランドの議員達は、交渉の結果、イギリスから
拠出金の元本に5%の利子をつけた額を取り戻した、というだけのことだったらしいのです。
http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,,1879769,00.html イギリス人は、スコットランドとの合邦を喜びませんでした。
ブート伯爵(John Stuart, 3rd Earl of Bute。1713〜92年)がスコットランド人として
最初の英国首相になった頃(1762〜63年)、優遇措置を求めて次々にロンドン入りする
スコットランド人を見てイギリス人は反感を抱いたといいます。
しかし、やがてこの種の反感は消えていきます。
スコットランド人が、英帝国の拡大と経営の中心的な担い手となったからです。
このことにスコットランド人も悪い気はせず、こちらでも、合邦への反感は薄らぎました。
スコットランド人のイギリスに対する反感がぶり返したのは、英帝国が瓦解し、
スコットランドが再び貧しくなった頃からです。
カトリシズムとプロテスタンティズムを折衷した国教会の信徒の多いイギリス人に比べ、
スコットランド人には純粋なプロテスタンティズム(Presbyterianism)の信徒が多く、
道徳的に優れていて神に選ばれた民である、といった観念が首をもたげてきたのです。
http://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1543486,00.html ひょっとしたらスコットランドのイギリス残留派の政治家が、今後のEUとの関係に影響を与えたりして もうさ、イギリスだけ特例で
個人で独立国民・英連合国民か選べて、さらにEU加盟民か非加盟民か選べれるようにしたらいいよ
家族でロンドンの動物園行くにも嫁と夫でパスポートが必要だったりいらなかったり、キュウリ1本買うにも関税かかったりかからなかったり、支払いも右の店はポンドで左の店はユーロだったり楽しそう スコットランド出身の映画俳優ショーン・コネリーが米国のタータン記念日(Tartan Day)
にロサンゼルスタイムスにコラムを寄せ、その中でスコットランド独立を、と叫んでいます。
http://www.latimes.com/news/opinion/la-oe-connery5apr05,0,7865820,print.story
スコットランド独立宣言とは、1320年にスコットランドの数十人の貴族達が時の法王宛に
発出したアーブロース(Arbroath)宣言のことです。この宣言のさわりの部分は次の通りです。
・・我々は<スコットランドにやってきて(※)からというもの、>あらゆる束縛から自由で
あり続けた。我々の王国は我々の高貴な血筋・・その中には外国人の血は一滴たりとも
交じっていない・・の113人の歴代国王によって統治されてきた。・・<中略>・・仮に国王が、
自ら始めたことを諦め、我々の王国をイギリス国王またはイギリスに臣従せしめることに
同意するようなことがあれば、我々は彼を、彼自身と我々の権利の敵かつ転覆者として
ただちに放逐し、我々を守ることができる他の男を国王にすべく取り計らうであろう。
たとえ100人しか生き残っていない状況になろうとも、我々はいかなる条件の下であれ、
イギリスの支配に服するつもりはない。我々が戦っているのは栄光の為でも、富の為でも、
名誉の為でもなく、ただただ自由の為めなのだ。そしてこの為には、およそ誠実なスコット
ランド人であれば、命がかかっていたとしても決して諦める事は無いのだ。・・
http://www.constitution.org/scot/arbroath.htm
(※)この宣言の前の方で、スコットランド人が、東方から地中海経由でイベリア半島に
やってきてそこに長期間滞在してから、スコットランドの地に渡り、(ケルト人である)
ブリトン人を放逐し、(同じくケルト人の)ピクト人を粉砕し、ノルウェー人、デンマーク人、
そしてイギリス人の侵攻を受けつつもスコットランドの地を守り抜いてきた、という趣旨
のくだりが出てくる。最新の学説では、イギリス人も、アイルランド人も、そしてスコット
ランド人もすべて、イベリア半島からやってきたバスク人であって、後にケルト人が少数、
そして更にゲルマン人が少数、渡来して混血したということになっている。
伝承は結構史実に沿っていたことになる。 この独立宣言が発せられた背景は次の通りです。1296年に当時のスコットランド国王
ジョン・バリオル(John Balliol)がイギリス国王エドワード1世に対する臣従を撤回した
ことを受け、エドワードはスコットランドに侵攻し占領します。
しかし、スコットランドの貴族達が叛乱を起こし、ここにスコットランド独立戦争
(後に第一次独立戦争と呼ばれることになる)が始まります。
ウィリアム・ウォレス(William Wallace)らの英雄的な抵抗、活躍を経て、ロバート・ブルース
(Robert Bruce)が1314年のバノックバーン(Bannockburn)の戦いでイギリス軍に大勝利を
収め、スコットランドは事実上独立を回復し、彼が1316年にロバート1世としてスコットランド
王に就任するのですが、イギリスとの戦争は1328年に平和条約(Treaty of Edinburgh-
Northampton)が結ばれるまで続くのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/First_War_of_Scottish_Independence
では、どうして1320年の時点でこの宣言が発せられたのでしょうか。
それは、キリスト教国の貴族達がこぞって十字軍に参加すべき時であるにもかかわらず、
どうしてイギリスとの戦争を続けているのか、しかも、どうして法王ヨハネ14世(John14)が
スコットランドが独立国家であることを認めていないにもかかわらず、よりにもよって
(王位を争っていたコミン(John Comyn)を1306年に教会内で殺害したため)同法王が
破門していたロバート・ブルースを「国王」にしてイギリスとの戦争を続けているのか、
そして更に激高した同法王がイギリス国王に臣従しなければスコットランド国民全員を
破門すると言い出していたにもかかわらず、どうして戦争を続けているのかを、スコット
ランドの貴族達が申し開きをするためです。
この宣言は功を奏し、同法王はイギリス国王を法王庁に召喚しますが、国王がこれに
応じなかったこともあり、法王が介入し、1328年に、イギリス国王にスコットランドへの
権利をすべて放棄させる形の平和条約が結ばれるに至るのです。 イギリスによって退位させられ、イギリスの囚われ人となったスコットランド国王
ジョン・バリオルに代わって、王家の血筋につながるとはいえ、国王を僭称するに
至ったロバート・ブルースの立場を、スコットランドにおいて、そして対外的に
より確固としたものとするために、貴族達はこの宣言の中で、我々がロバートを
選んだと表現したと考えられるのです。
スコットランド人は、イギリス人やアイルランド人同様、その後に渡来したケルト人の
慣習を採用し、(イギリス人のように、更にその後に渡来したアングロサクソン人の
慣習を採用してケルト人の慣習を捨て去るようなことなく、)アイルランド人同様、
この慣習を堅持し続けたわけですが、ケルト人の慣習の中に、貴族全員が集まった
集会で、指導者の血筋の中の年長者でかつ有能な者を指導者を選ぶという
タニストリー(tanistry)という慣習があり、
http://www.1911encyclopedia.org/Tanistry
スコットランドの貴族達が我々がロバートを選んだと記したのは、突然国王が退位
したため、この古からの慣習を久方ぶりに援用して新しい国王を選んだということを
述べたもの以上でも以下でもありません。
しかし、やがてこのくだりは、貴族主権ならぬ人民主権、すなわち近代民主主義を
宣言したものと、スコットランドの人々によって受け止められるようになります。
その結果として、人民主権ないし民主主義のスコットランドに対するに、議会主権
(King in Parliament)ないし自由主義のイギリス、がブリトン島において北と南で
対峙するという歴史が始まるのです。
16世紀にドイツで始まった宗教改革がスコットランドにも波及すると、やがて
カルヴィン派のスコットランド版である長老派(Presbyterian)にスコットランドの人々の
大半が改宗するに至り、長老派教会はスコットランド人民の教会として、国王に対する
優位を宣言し、この宣言を実行に移すことになります。
ここまで説明すればお分かりでしょう。
どうして米国でタータン記念日が制定されたかが・・。 そうです。英領北米植民地は、人民主権ないし民主主義を掲げて、議会主権ないし
自由主義を旨とする英本国から独立すべく、スコットランド独立宣言と瓜二つの
フレーズをちりばめた米独立宣言を456年後の1776年に発し、独立戦争に勝利し、
独立を達成したという経緯があるからです。そもそも、米独立宣言に署名した
英領北米植民地の指導者達の半数以上は、スコットランド系であったのです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Declaration_of_Arbroath
http://www.bbc.co.uk/history/scottishhistory/independence/features_independence_arbroath.shtml
http://www.scotclans.com/scottish_history/medieval_scotland/1320_arbroath.html、http://www.bellrock.org.uk/arbroath/arbroath_declare.html
スコットランド由来の人民主権の考え方を採用した米国は大統領制を創設する一方、
議会主権を堅持し続けたイギリスは議院内閣制に移行します。
米国に一貫してキリスト教原理主義的傾向が見られ、他方イギリスに一貫して
世俗主義的傾向が見られるのも、米国がスコットランドの影響を強く受けているからだ、
と言えそうです。
また、スコットランド由来の近代民主主義は、1707年のスコットランドとイギリスとの
合邦の後、変化を厭うイギリスにめずらしくも大きな影響を与え、やがて自由主義
イギリスは自由民主主義イギリスへと変貌するのです。
このイギリス発の自由民主主義は今では世界中に広まっています。
しかし、自由民主主義国家の政体として、いまだに世界中で米国、ひいてはスコット
ランド由来の大統領制とイギリス由来の議院内閣制の2種類の政体が並存し続けて
いるのは興味深いことです。
また、米独立革命の後、この米独立革命の影響をも受けて大革命が起きたフランスに
おいて、人民主権の名の下、スコットランドの長老派ならぬ、新しい宗教(イデオロギー)
である「ナショナリズム」がひねり出されることによって、欧州における最初の民主主義
独裁体制が誕生することとあいなるわけです。このように見てくると、スコットランドは、
良い意味でも悪い意味でも近代民主主義の祖であると言えそうですね。 >>291 EUをAPEC程度の仲良しクラブにまで弱体化させればいいんだよ
でもロシアの思うつぼか 通貨発行権のないのに自治してますって・・・
EUって、カナダやオーストラリアより条件悪いじゃん・・・ >>298 本来は連邦制国家への移行の前段階という建前だからかな >>299
そもそも西欧はそんなにロシアを恐れている訳ではない
西欧人はスコットランド人もバスク人もカタロニア人もスイス人もスウェーデン人も
自分の所が欧州最強だと思ってるだろ 戦前はNATOもEUもなかった
皮肉にも列強国が多かった西欧より旧東側だったロシアの隣国の方がむしろNATOの必要性を感じてると思う 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) ロンドンの委託型に対して、グラスゴーはストア型でタバコ貿易で繁栄。
しかし、アメリカ独立でグラスゴーのタバコ貿易が衰退する。 日本のお雇い外国人の影響かスコットランド人というと技術家のイメージが強いけど
トーマス・リプトンなどもいる。生涯独身で遺産はグラスゴーに寄付 https://www.youtube.com/watch?v=B4Dx1_KZCP4
これはモルモン教会が、半年に一回行っている総大会の映像である。
「勇敢なスコットランド」が予言者ジョセフ・スミスをたたえる歌になっている。 国王の特許(勅許)でロンドンに独占権を与えられていることがままある。
このためロンドン以外のイングランドの商人達は、これを打ち破ることができない。
しかしスコットランドは適用外なので、スコットランドで組織をおこしたり、資本を投下して、スコットランドで特許を取得して
独占を打ち破る。 ウォルター・スコットの歴史小説が1820年代にフランス語に訳されて、その後のフランスの小説に影響を与えた。
1820−30ごろにデュマ、メリメ、バルザック、ユゴーなどが歴史小説を次々発表。 タウザー
スコットランドのグレンタレット蒸留所のネズミ取りの名猫。ウィスキーキャットの一匹。
誕生日はエリザベス2世と同じ。
生涯(24年)で28899匹の鼠を捕まえた。平均年間千匹ほど。
こんなにネズミがいるのか? ドイツ語読みのカール,イタリア語読みのカルロ,スペイン語読みの
カルロスに相当する名前を英語圏にもたらしたのはメアリー・スチュアート
との事(R.G.スチュアート『アメリカ人名事典』)。
一時期フランス王室に嫁いでたけど,帰国後にフランス王室の伝統名
であるシャルルを英語発音にしたチャールズを自分の息子(チャールズ・
ジェームズ,スコットランド王ジェームズ6世のちにイングランド王
ジェームズ1世)に付け,息子も同じくこの名を自分の子(イングランド王
チャールズ1世)に付けたとか。
でもシャルルの名を英語発音にしたチャールズを国王の名として名乗った
のは息子ではなく孫の代になってからなのね。 >>316
メアリー・スチュアートがいなかったらラテン語名をカロルスとする
汎ヨーロッパ(正教圏除く)的な名前が英語圏で使われてたんだろか。
いなくてもどっちみち英語圏で使われてた? >>316
ドイツで18世紀くらいのカールという名の王様
気さくな王様で
旅の巡業中に、道端で王様と気付かない農夫が
「おいそこの人、あんた名前なんていうの」
王様「カールだが」
「じゃあカールちょっとこのランプを持っていてくれ、ションベンするから」
王様は気前よく引き受けて
後になってから農夫は王様だったと聞かされて青くなったとか
ゲルマン系でカールは古来からの男子名「太郎」みたいな名前なんだって 葡萄を栽培してワイン製造を試みたが商業レベルではなかった。
今後、品種改良に期待か? イングランド=ロシア=カスティーリャ
スコットランド=ウクライナ=カタルーニャ
ごめんなさいorz ペール・ギュントで知られる作曲家グリーグはスコットランド系ノルウェー人だっけ アイルランドに渡ったスコットランド人の子孫だけど
北アイルランドに根を下ろしたほうはアルスタースコッツ
として南アイルランドに根をおろしたほうは?
イングランドから南アイルランドに渡った人達同様アングロ
アイリッシュとして扱われてんのかな。それともイングランド
からの移住組の子孫とは別カテゴリー? ただアングロアイリッシュは国教会の信者をさすらしいけど(うろ覚え)。 スコットランのロバート・ブルース一世の時代について、ユーチューブで面白いドキュメンタリーを観ることができます。
英語を分かる方は、「バノックバーンの戦い以後のアイルランドにおけるイングランドとの戦い」に関して、「War of the Three Kings」(三国王の戦争)というドキュメンタリをぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=LRQUIo55Nww&t=681s
ロバート・ブルース国王の弟、エドワード・ブルースは、イングランドが占領しているアイルランドに侵攻して、イングランドの勢力に対抗しました。アイルランド諸侯の支持とロバートの支援を受けて、アイルランドの上王になりましたが、最終的に殺されました。
14世紀の大流行が始まった時代だった。 >>326
アルスタースコッツは英国王の軍勢が
現地にいた豪族を追い出して集団移民させたロウランド人の子孫だが、
同時期に南アイルランドにも集団移民したスコットランド人がいたの?
同時期なら長老派などプロテスタントの筈だからそこにも宗教対立があるだろうね イングランドがEUから脱退した後に、スコットランドがいつまでそれに付き合うか? ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ スコットランドって世界の表舞台に出てこないけどやけに優秀な人材多いよな 料理も酒もチングランドより断然うまいって言われてるな スコティア人とピクト人が混じり合って区別できなくなったにせよ、
その気質の違いはハイランドとロウランドに引き継がれているのではないだろうか ≪カロデンの戦いについて≫
かつてのステュアート朝の嫡子チャールズ王子は、1720年にローマに生まれ、
ヨーロッパ大陸で育ったが、イギリス国王の継承権を主張する形でブリテンに
渡ってきた。そしてスコットランドの西、イリスキー島に上陸し、以後、急速に
支持者を集めていった。
チャールズ王子はスコットランド各地の勢力をあっという間に糾合し、さらには
イングランド内部の不平分子をも取り込んで、遠くイングランド南部へと進撃を
続けていった。そしてついにはロンドンの北、わずか190qのダービーまで到達
したのである。
このとき、ロンドンの宮廷は上を下への大混乱で、国王ジョージ2世はロンドンを
放棄し、国外へ亡命することを真剣に検討したと伝えられている。
さらにその時、イギリスと対立するフランスは、「敵の敵は味方」という戦略から、
チャールズ王子を支持することを決め、数千人の軍隊を応援のために派遣しようと
していた。 しかしこれらの有利な情報は、チャールズ王子の耳には届かなかった。悩みぬいた末、
彼はまず自分たちの地盤を固めようと、いったん兵をスコットランドへ引き揚げることを
決定した。
しかしこうなれば、事態の流れは一変してしまう。今まで勝ち馬に乗ろうと彼の下に
集まってきていた軍勢はたちまち四散していき、逆の雪崩現象が起こった。
しかも戦いが長期化すれば、スコットランドとイングランドの経済的格差が表面化
してくることは明らかだった。時代は18世紀も半ばに達し、戦争は単なる局地的な
戦闘から、その背後にある経済力、兵站能力など、すべての社会的要素を含んだものへと、
その性格を大きく変えつつあった。
ダービーを引き揚げたスコットランド軍は、その後、敗北を重ね、ついに1746年4月16日、
スコットランド、インヴァネスの南、カロデン・ムアで、カンバーランド公率いる
イングランド軍の前に惨敗を喫するに至る。 カロデンの戦いについては、「内部対立、指導力の欠如、軍事的知識の欠如、食糧・
物資の欠如」と酷評されている。純軍事的に見ても、この場所を会戦の場として
選んだこと自体、スコットランド側の軍事的知識が貧弱だったことを示していると
いえるだろう。当時イングランドでは、急速に大口径の火器が普及し始めていたが、
このような何の遮蔽物もない場所で戦いを行ったら、それらの武器の効果が存分に
発揮されるであろうことは、火を見るより明らかであった。
事実戦闘に参加した士官の一人は、戦いの直後、その様を故郷にいる妻に書き送って、
「戦場はまるで、新しい兵器の効果を確かめる実験場のようだった」と記している。
さらに損害を倍加させたのは、スコットランド軍内部の指揮・命令系統の混乱だった。
戦闘の火ぶたをいつ切るのか、明確な命令のないまま、スコットランドの兵士たちは、
草原の中で何時間も立ち尽くし、その間多くの兵士が空しく、イングランドの砲火に
よって倒れていった。 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ZX19V 一口にスコットランドといってもハイランドとローランドではかなりの違いがあって、
ローランドは親イングランド。 18〜19世紀のハイランドでは、土地を有効活用するために、地主がその土地の居住者を
一掃した。これを「ハイランド・クリアランス」という。
一掃された住民には沿岸部の比較的肥沃な土地があてがわれ、小規模の耕作農業を
しながら別の産業で働くことが前提となっていた。
この点では「ハイランド・クリアランス」は住民の配置転換といえ、一方的に
住民をホームレスにしようとしたものではない。 「ハイランド・クリアランス」に暴力的なイメージがあるのは、19世紀になってから
始まったサザランドにおけるクリアランスのためであろう。サザランドはハイランドの
中でも北部に位置している。ハイランド南部ではクリアランスが徐々に進んでいった
のに対し、サザランドでは短期間で住民を内陸部から沿岸部に移動させようとした。
転居に抵抗する住民に暴力的手段が用いられ、一掃されたのである。
このため、初代サザランド侯爵の評判は良くない。 少し前までハイランドと言えばゲール語の土地だった
ローランドはスコット語の土地だった
スコット語は英語と同系統とはいえ通じない別言語
それが今ではゲール語は西部の漁村と島嶼部に追いやられ、
スコット語は細かな方言に分かれつつもハイランドのほぼ全域を覆っている
そしてローランドは英語の変種である「スコットランド英語」の土地になっている スコットランドにはいまだに貴族がいる。大地主である貴族と、貴族から土地を購入した
超富裕層が、土地の大部分を所有している。私有地の約半分を約430人が所有しており、
先進国の中でも土地所有の集中度が最も高いとされている。 スコットランド史は王族間、貴族間、氏族間の対立抗争の歴史といってよく、
ハイランドの部族がイングランド軍と戦っているとき、ローランドの部族が
イングランド軍に味方して戦うという、スコットランドの国益よりも部族の利害が
優先する例が珍しくなく、あげくにイングランドに味方した部族が、やがては
そのイングランド軍に滅ぼされる愚も少なくなかった。 >>346
それを言うなら弥生人と渡来人でしょうが 6世紀の初めに、アイルランド北東部にあったダルリアダ王国から、スコット人と呼ばれる
部族がスコットランド南西部のアーガイル地方に侵略してきた。そして、先住民族の
ピクト人と争いを続けながらこの地にもダルリアダ王国を建設し、のちにブリテン島の
北部一帯が「スコット人の国」すなわち「スコットランド」と呼ばれるようになるほどに
その勢力を拡張した。
このころ渡来したスコット人の中にキリスト教の宣教師聖コロンバがいた。
彼はインナー・ヘブリディーズ諸島の小島アイオナ等に住居を定めてキリスト教の
布教をはじめ、スコットランドから北イングランドにかけて広範囲なキリスト教圏を
確立した。スコットランドは、異教徒であったアングロサクソン人が定住した
イングランドよりも早くキリスト教国になっていたのである。 R1bの特徴を持つのは、ガリアからイベリア半島にかけての広い地域と、
東トルキスタンのトカラ語地域
印欧語の中緯度地域の東西の「両端」と言っていい
ケルトでは最も早く西に向かったグループ(Qケルト)で、トカラは東の端で古い特徴が残留した
R1bはQケルトで、対するPケルトは千年単位遅れて中央からガリアに入った後続組でR1aその他
大陸ではアルプスから東と北イタリアのケルトがそれ
(あとラテン語は古い時代に分離した「イタリアのQケルト」の一派と思われる特徴がある)
ブリテン諸島では、アイルランドとのちにスコットランドに移住したスコティア人がQケルトでR1b、
ブリテン本島に先住していたのとカエサルの時代までボートで大陸から移住を続けていたブリトン人がPケルトでR1aほか
ブリトン人は島の中央部をアングロサクソンに奪われて分断させられ、
それぞれピクト人、ウェールズ人、コーンウォール人に分かれていき、
うちピクト人は移住してきたダルリアダ王国のスコティア人と混合して「スコットランド人」になっていく(8Cごろ) 一つだけ357で言ったつもりで言っていなかったことを付け足す。
トカラ語の民族が「東のR1b」であることが重要なのは、
この言語が印欧語といえばサテム語ばかりの地域で「東のケントゥム語」でもあるからだ
印欧語連続体の西端(Qケルト語)と東端(トカラ語)で、この2つの特徴が共通しているのは
どちらもその後「中央部で」起こった変化をこうむっていない、より古いグループだからだと考えられる サテム化はあくまで言語の変化で、それと遺伝子の非R1b化が
時期的・地域的に重なっているということ スコットランドでは8世紀末ごろからヴァイキングの襲来が相次ぎ、シェトランド諸島、
オークニー諸島、ヘブリディーズ諸島、スコットランド北部と西部の沿岸が
ヴァイキングに掌握された。
その後、15世紀半ば過ぎまでシェトランド諸島とオークニー諸島はノルウェー/デンマークの
支配下にあった。
これらの地域に住む人々は、現在もスコットランド本土より北欧諸国のほうに
親近感を抱いているという。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています