なぜ東ローマは西より1000年長持ちしたのか [転載禁止]©2ch.net
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マルマラ海にそれくらいは保つ経済的価値があったおわり 金があったから
それで敵や第三勢力のほほをひっぱたくことができた ソリドゥス金貨の束で頬をひっぱたいて、言うこと聞かせる凄惨な絵が浮かんだ 西も
ローマ教皇>ドイツ皇帝>フランス王>イングランド公爵
というゆるい建前の秩序でつづいたよ ならば地底ローマ帝国や空中ローマ帝国があってもおかしくはない ローマは滅びぬ!何度でも蘇るさ!ローマの力こそ人類の夢だからだ ゲルマン人に族滅されたわけじゃないから
古代ローマ人のDNAは断絶せずに続いているけどさ >>13 ならば四次元カルタゴか宇宙カルタゴが存在しててほしい 農業生産その他諸々
兄に東を与えて弟に西を与えた理由もそんなとこだろ ゲルマン人が攻めてこなかったからだろ?ゲルマン人はみんな西に行っちゃったし 西ローマは途中で首都をラヴェンナに遷したのが防衛の点から拙かった。
精神的中心地であるローマ市を蛮族に略奪され、負け癖がついてしまった。
つまり皇帝ホノリウスが馬鹿だった。 >>24
首都を変えたり有能な将軍を殺さなかった分だけ、マシだったとは言える。
この僅差が東西ローマの命運を分けたと言ってみる。 >>25
分かりやすいし、反論しようとも思わないが。
「アルカディウスはビザンツ千年の礎を固めた」という説は初耳だ。 西ローマも並の皇帝ならまだまだ保つはずじゃなかったかと思う。
ゲルマン人も一枚岩じゃないし、うまく同盟を組んでいけば
イタリア半島を守るくらいは余裕だった。
であるはずなのに、怪物的に無能な皇帝が出てきたせいで
国の命数が一挙に縮んだ、そんな感じ。 イタリアの東ゴート王国が実質的に西ローマだった
ユスティニアヌス1世が西ローマを滅ぼした ビザンツが中国だとすると西ローマわ満州
どっちかってーと蛮族寄り ガリアとヒスパニアとブリタニアからなるガリア道は満州みたい >>20
その「ゲルマン人はみんな西に行っちゃったし」という原因に
東ローマと西ローマの対応の違いがあるんじゃね。 アラリックの西ゴートもテオドリックの東ゴートも
東ローマに誘導されて西へ移住した
西へ移住せずにバルカンにゴート族らが定住したら
後のブルガリアのようなゴート王国が出来て
東ローマの脅威となっただろう >>26
アルカディウスはビザンツ千年の礎を
「固めた」とは言えなくとも
「固まる前に崩すことにつながる愚行はしなかった」
とは言える >>32
当時は、東の方が西よりも隙がなかった。
皇帝と大臣との関係がある程度は機能していたから。 >>33
今はただ待つべき、という時期ってあるよな。
そういう時期に在位した君主が「無能だった」「怠惰だった」と後世言われても、本人には言い分あるんじゃないか。 もしあの当時在位したのがまともな皇帝だったら少なくともアフリカ失陥とイタリア半島略奪は避けられたはず
有能なら上手く外交を駆使してその都度他の蛮族と連合しつつ、邪魔な蛮族を片っ端から撃破するのも十分可能だった
ホノリウスが世界史史上最悪レベルの暗君だったとしか言いようがない 東ローマとナチスドイツ以外に千年帝国を名乗っていい国ってあるかな?
神聖ローマ帝国か? たった12年しか続かなかったナチスドイツが千年帝国とか、ギャグか何かだろw
東ローマ(ローマ建国から数えれば2206年間)と神聖ローマ(カール大帝の西ローマ皇帝即位から数えれば1006年間)、あとはチャンパー(1640年間)くらいだな >>39
どっちにしろたった12年しか続かずに滅びたしょぼい国が千年とかほざいてる時点でギャグでしかないだろw
最低でも500年は続かないとな >>35
ニカの乱でユスティニアヌスがあっさり退位したのならば
バルカンがスラブ化したりしなかっただろうな
まともな皇帝ならば国を守る事を最優先にしたはず >>41
断絶度なら西より東側のが高そうだな
スラブ人はゲルマン人と違って
もともとローマ文化への理解も無さそうだし 西ゴート族は百年間ワラキアとモルダビアを支配していたから
すでにラテン化し始めていてスペインに移住したら同化した バルカン半島諸国のI1比率がゲルマン人遺伝子の残存比率として参考になる。 >>43
今のスペインポルトガルの金髪碧眼は西ゴート族の末裔? ゲルマン人よりも先にケルト人もイベリア半島に移住していた
ガリシアはその名のごとくケルト人に由来する >>45
ヴァンダル・スエヴィもいるけどね。
ちなみにガリシア人の1〜2%はスエヴィの子孫と言われている。 東ローマは結構アルメニア人の皇帝も即位しているし、フランク国王は800年にローマ教皇から西ローマ皇帝に認められたから
なりゆきいかんでは西ローマもオドアケル朝とか、東ゴート朝、ロンバルド朝、フランク朝と言う形で存続し続けたかも >>48
中国はまさにそんな感じだよな
「漢字一文字にする」と「ローマという名前にする」のでは
前者の方がハードルがひくいというかなんというか ニカの乱でユスティニアヌス1世が退位していたら
東ゴートが西ローマを再建したかもしれない ユスティニアヌス1世の東ローマはは北からスラブ人が南下
東から全盛期のササン朝に攻めれていて遠征する余裕が
なかったけど彼は遠征を強行した
彼以外の皇帝ならば遠征しなかったかもしれないし
同じく無理して遠征をしたかもしれない
遠征したのならばやはり東ゴートは滅亡しただろう というか西ローマの経済的凋落が激しかった。
主要産業である農業の空洞化。現代日本も他人ごとではない。 誰かギリシャ火薬の威力に言及してくれぇえ
おながいします >>53
4-5世紀東部の経済繁栄について詳細を書いた論文とか知りませんか?
ブライアン・ウォード=パーキンズ著『ローマ帝国の崩壊』では、西側に
ついては考古学的資料を多数提示して、西側の経済の衰退を証明しようとして
わりと説得力がありますが、
東側については、シリアの農村の事例がちょっと出てくるだけで、東側が
残った原因を「ヘレスポントス海峡があったから、ゴート人が小アジアに
進軍できなかったから」という理由しか書いてないので、隔靴掻痒の感じがしてます。 >>12
ロスケ < 北ローマの地位ははモスクワが貰ったわ! >>47
1500年も経ってりゃ、満遍なく行き渡ってるだろ
スペイン人やポルトガル人でスエヴィの血を引いてない人なんているのかよ? 現在の日本においては逮捕後の拷問による自白は証拠とはされず、
日本国憲法の第36条や第38条第2項においても拷問の禁止が明文化されており、
拷問を行った公務員は逮捕される(特別公務員暴行陵虐罪)制度も存在する。
しかし、それにも関わらず日本の警察は現在もなお非公式の場で拷問を行っている
疑いがあるとアムネスティ・インターナショナルなど人権擁護団体から指摘されることがあり、
冤罪事件の背景にも、警察による拷問同然の過酷な取り調べがあると指摘される。
踏み絵ならぬ踏み字などの事実上の「拷問」による事件そのものの捏造が表面化し、
捜査員が特別公務員暴行陵虐罪に問われることとなった。
その他にも、被疑者を突き飛ばす、身体を蹴る、頭髪を引っぱる、
体をつかみ揺さぶるなどの行為を一日あたり十数時間、数日間にかけて密室で行う、
事件や障害者団体向け割引郵便制度悪用事件を始め、検察庁特別捜査部の事件では、
被疑者を壁の前に長時間立たせて自白を迫ったり、「○○はもう自供した」
などと言って被疑者を精神的に追い込むなど、事実上の「拷問」が現在も代用監獄をもちいた
長期間拘留という密室において日常的になされていることが表面化している。 後継の神聖ローマ帝国を含むと東ローマよりも300年以上はもった >西ローマ 自称後継者が認められるなら東ローマの後継を名乗ったオスマンも、ロシア帝国ももっと長持ちしてんじゃん ローマを自称してた国ってロシア帝国とオスマン帝国が最後?
ソ連や現ロシア連邦やトルコ共和国はまさかローマを自称なんかしてないだろうし >>66
ナポレオンのフランス帝国は自称ローマ
ナポレオンの墓碑には「フランス人のローマ皇帝ナポレオン」とある
もっともロシアやオスマンより先に滅ぶが
ルーマニアはローマを自称するわけではないが
「ローマ人の国」という名乗りなのでこれも一応ローマと言えばローマか >>1
スレタイは「長持ち」でなくて「長続き」のほうがしっくりくる気がw
蚊取り線香じゃないんだからw まあ1000年停滞してただけだからゆるゆる長持ちしてただけとは言えなくは無い >>60
ロマノフ朝は「第三のローマ帝国」を自称してる
イヴァン3世はビザンツ帝国の最後の皇帝コンスタンティノス11世の
弟ソマス皇子の娘ゾイと結婚してるからって
だからロシア国章もビザンツ帝国と同じ、双頭の鷲 どうしてイスラム教のくせにローマの後継なんてオスマンが言うのか?
だいたいトルコ人はアジア人だろ、ヨーロッパ人じゃない。
その証拠にEUには結局入れて貰えなかったろ。 支配地の広がりからすると、オスマン王朝のルム・カイザリの方が後継として相応しいけどね >>74
アラビア出身のローマ皇帝が居たのだしイスラム教でもいいじゃない >>74
別にローマ皇帝位の継承に血統は必須条件でないしなー。民族もラテン人・ギリシャ人に限定しない
前皇帝の後継者指名(子、娘婿、甥、養子……という身内が割と多い)と、軍部・元老院の承認とで皇帝の推戴というのが慣例になっていたけれども、
これも必須というわけではなく、混乱期には有力者が力ずくで帝位を勝ち取っている。
アジア(アナトリア、シリア)からの皇帝選出、混乱期にニカイア帝国のようなアナトリアにあった乱立亡命政権からの帝位の回復の前例もある。
コンスタンティノポリス奪取前のオスマン王朝は、脅して金品をせしめとったり和蕃公主のような懐柔のされ方をしていたのが実際だとしても、名目的には
東ローマ皇帝の帝室からの降嫁があったり、歳費を貰ってエーゲ海・マルマラ海、アナトリアの防衛を任されていたりいたりした、東ローマの有力近親・藩屏な
わけよ。
皇帝の統治能力が衰えたときに、アナトリア出自の異民族ではあるが、皇帝近親の有力者が、統治機構の混乱したところを力で収めて、帝位に就いた
というふうに、前例を何一つ違えることなく、ローマ皇帝暗位を得られる状態にあるわけよ。
イスラム教のくせに、ったって、そもそも、ヴィーナス=アプロディーテーの末裔たるアイネイアス以下ユリウス氏族ひいてはラテン人=ローマ人が
オリンポス十二柱神への信仰を捨ててキリスト教に切り替えた前例に比べれは、瑣末な問題だし。 そもそもイエスキリストからしてアジア圏の生まれです ということは一応アジア人
世界で有名なアジア人の一人はイエスだな アジアでひと括りにされてもなぁ…
満蒙シベリア、極東特亜、東南アジア、インド、中東〜中央アジア
少なくとも5つぐらいに分けてもらわんと >>77
アラブ人やトルコ人らイスラム教徒にとってローマ帝国とは
コンスタンティノポリスを首都とするキリスト教徒の国
キリスト教徒ではないラテン人の古代ローマは知らない
西欧人にとってのローマ帝国と
ロシア人らスラブ人にとってのローマ帝国も異なる
スラブ人もイスラム教徒と同じくローマ帝国とは
キリスト教の東ローマ帝国 >>81
コーランに、ローマなんてまだずっと先の大昔のシバの女王についての言及やら、イーサー(ジーザス)についての記述もあるのに?
キリスト教時代に焚書されたグレコ・ローマン時代の書物もイスラム圏に保存されていて中世末期に再移入されたあれはなんだったんかの? 古代からローマ帝国の国境に接していたアラブ人は
古代ローマの事を伝えた続けていたかもしれないけど
スラブ人やトルコ人は東ローマになってから接触した
当時スラブ人達やイスラム教徒らの目の前に実在したのは
すでにギリシャ語が公用語となっていた東ローマだった
そもそもローマ東部はラテン化せずギリシャ語やアラム語
とかがイスラム征服時まで存続していた >>81
別にイスラムの法にローマの皇帝はキリスト教徒じゃなきゃあならんなんてものは無かったしなー
むしろ、イスラム教自体が、キリスト教・ユダヤ教の宗教改革を自称していていたくらいで、イエスやモーセが完全な形で伝えきれなかった
神の預言をマホメットによってようやく正しい形で伝えた、とか言ってるからな。
キリスト教国なんてイスラム教に塗り替えちゃるよくらいのものよ。 イスラムの法とローマの皇帝はそもそもまったく無関係だが
東ローマ帝国もオスマン帝国も大帝国の生き残りなのは共通
コンスタンティノポリスは最後の安住の地だった
ローマ帝国の本拠地は言うまでもなくイタリア
イスラム・トルコ帝国の本拠地はホラサン >>74
「アジア人」などという人種も民族も存在しませんよ阿呆 西欧文化圏ではローマ皇帝といえばカエサル(実際は皇帝ではないけどw)や五賢帝がイメージされる
ことが多いけど、ロシアではコンスタンティヌスなんだよなあ。昔話とかでも「昔々えらいツァーリがいて…」
なんて時にでてくるのがダビデ王、コンスタンティヌス、ウラジーミル聖公、ウラジーミル・モノマフあたり
だったりする。 8 名前:世界@名無史さん
京都大学学術出版会が出している
『西洋古典学事典』のI-PAD版が大変
役に立ちます。
有益この上ないツールですので、買わないと損をしますよ。
とくに古代ギリシャ・ローマに関心のある方々にとりては必携ですぞ。 NGワードに「西洋古典学事典」を入れましょう
こいつはマルチです コンスタンティノープルって日本で言えば小倉か博多、厳原を首都にしているようなものだ
あんな所に天皇陛下がおったら朝鮮半島から攻めて来たらあっという間やないかい
ニケーアやトレビゾントにしたって黒海沿岸だし、やっぱり首都はアンカラでないと
でもそこが首都になったのは1923年のトルコ共和国が成立してかららしい
日本の朝廷だったらあの辺なら絶対アンカラを真っ先に選ぶと思うけどなー >>93
新羅も百済も首都は海に近いな ベトナムもタイもミャンマーも海に近い
京都は防衛重視の都だな 多分アンカラだと地方への統制きかずに速攻で帝国が分解するぞ
アンカラが首都になったのは情報伝達や移送手段が確立したことと国の規模が縮小したこと
京都は大宰府さえ守れば外患に対処できることと大阪や敦賀の港が近いことで成立する コンスタンチノープルみたいな交通の要衝を押さえると、関税収入が確保できるというのも
大きそうだな。普通は税金取り立てるにも官僚機構の維持整備が必要で、それが肥大化しすぎると
担税民の不満が募るけど、こういう場所で関税取るなら最小限の官僚機構でできる。
とジョン・ヒックスが言ってた。 アナトリア高原って守りやすいか?
あそこを主拠点として長期に政権維持できてるイメージがない リディアがアケメネス朝に征服されたように
ニコメディアやアンカラが首都だったら
ササン朝やセルジューク朝に一撃で
東ローマは滅ぼされてしまったはず 寒いったって匈奴、柔然・・・が本拠地にしてたモンゴル高原より20℃以上も温暖だ バイキングの北欧は北大西洋海流のおかげで緯度は高いが旭川より暖かい スラブ人に政治的統一性がなかったのが延命の理由かな >>103
西ローマを滅ぼした蛮族連中はもっとバラバラだったろ >>97
首都はコンスタンティノープルだけど
皇帝と将兵の多くがアナトリア出身
バルカンがスラブ化する以前は
皇帝と将兵の多くがバルカン出身 けどコンスタンティノープルはローマじゃないんだよね
ローマを支配してないやつらがローマ帝国といってもね そんなこと言い出すなら今コンスタンティノポリスを支配してるトルコは
トルコ人の本拠地だったトルキスタンを支配してないのにトルコと自称してますが 元老院の存在が、西ローマ防衛の足を引っ張ったという側面はないだろうか。 >>108
東では元老院は足を引っ張らなかったのか? >>107
けど実態はコンスタンティノープル帝国だからな
結局本物のローマにはかなわんな >>107
その中に丁霊や突厥の末裔はどんだけいるんだか・・ まあドイツとかイギリスとか始祖の領地失った国はいくらでもあるしね ローマが地中海を統一していなければギリシャ人やアルメニア人の武将が皇帝を自称しても
国号はマケドニアとか本当にビザンティン帝国、ギリシャ帝国、アルメニア帝国等と称し、
ローマ帝国とはしなかったはず カルタゴが勝っていたら東カルタゴ帝国や神聖カルタゴ帝国が
出来ていたかも知れないし、欧州はバアル教圏になっているかも知れない
その並行世界の欧州でも文字はアブジャドから発展したアルファベットが使用されるだろう ギリシャ文字もアブジャドであるフェニキア文字から発展したアルファベットなのですがそれは フェニキア人にはやはり寒い欧州は無理そうなので
北アフリカとスペインとイタリアの西地中海帝国になりそう
欧州では東のダキアと西のガリアが強国になりそうかな
おそらくカルタゴはキンブリ族に徹底抗戦しないだろうから
イタリアにキンブリ王国が建国する事になりそう
バルカンは引き続きマケドニアが支配していそうだよね
アナトリアとシリアがパルティア領になった時代もあるはず
ポントスがパルティアから独立して東ローマのような帝国に
なったかもしれないね コンスタンティノープル帝国で充分
その後欧米キリスト教文化圏の基礎を築いた世界の首都ローマ様の名前を勝手に名乗るな
ローマのすごさは帝国が崩壊してボロボロになっても今度はキリスト教によって西欧世界を築き上げるからな
その西欧圏が今度は世界制覇するからな
すげー強運
地中海世界なんて今じゃゴミだし、北に目をやったのは完全に正解だったな ロムルスの子らが住んだからローマはローマなのだ
ロムルスの子とは即ちローマ市民であり東ローマもまたローマなのだ コンスタンティノポリス : 第二のローマ
モスクワ : 第三のローマ >>1
コンスタンティヌス朝が滅亡してアルメニア人が皇帝になっても国号をローマにし続けたから
決して歴代皇帝がアルメニア帝国とか後マケドニア帝国とか新マケドニア帝国とかにしなかったから イリュリア人とトラキア人が滅亡してアルメニア人とかが皇帝になっても国号をローマにし続けたから
決して歴代皇帝がアルメニア帝国とか後マケドニア帝国とか新マケドニア帝国とかにしなかったから てことはつまりオドアケルが皇帝名乗ってれば西ローマも存続したわけか オドアケルもテオドリックも皇帝を名乗らなかったので
名目的にイタリアは東ローマ領という事だった
すなわち476年にローマ帝国は滅んでいなかった オドアケルは西ローマの帝冠を返上してるから再統一された形だね というかそもそも西ローマ皇帝らは東から派遣されていた
実はローマは完全に分裂などしていない
ガリアとかで反乱を起こした対立帝は鎮圧されてしまった
ガリアでの反乱が成功していたのならば名実ともにローマは
分裂したと言えるだろうね マグヌス・マクシムスやアルボガステスを倒した
テオドシウス1世が西ローマ没落の張本人
西ローマの分離独立は阻止されてしまった ラテン人支配層のいないローマ帝国=ハンバーグのないハンバーガー=カレーのないカレーライス ラテン人支配層のいないローマ帝国=マウリキウス以降の東ローマ帝国 ローマ時代にアラブ人が皇帝になってるからな
皇帝の出自より元老院の存在が重要なんじゃねーの
元老院が東ゴート時代にまで残ってたとか記憶にあるけど 帝政後期の将兵と皇帝はイリュリア出身が多かった
イリュリア人はローマ時代にラテン語を話していた
イタリアのアドリア海沿岸はイリュリア人の居住地で
アドリア海はイリュリア人の内海だった 東ゴート王国はイタリアだけでなくイリュリアとパンノニアも支配していた
ゴート族だけでなくイリュリア人らも東ゴート軍の兵士となっただろうから
東ローマ軍が東ゴート軍に苦戦したのは当然と言えば当然と言えよう テオドリックがカトリックに改宗してテオドリクス1世として皇帝戴冠すればよかった テオドリックが西ローマ皇帝と称するとテオドリックの治世中に
東ローマがイタリアに攻めて来たかもしれない そこで勝てば完璧にローマ皇帝になれるな
カトリックに改宗すればラテン系も離反率も減らせるし てかアッティラもカトリックに改宗してアッティラヌスとか名乗れば
それでローマ皇帝になる資格はあるよな
ローマ人(≒ヨーロッパ人)になるにはアタナシウス派に改宗すればOK 東ローマが生き残ったというより ローマが腐敗していたから コンスタンチノーブルに
遷都したんだろ ローマ帝国全体を立て直すのは無理だから東と西に分けた
西が先に滅びるのは当然の結果だ >>137
皇女ホノリアとくっついていれば、立派なローマ皇帝だなアッティラヌスw マウリキウスとかロマノス4世とか婿入り皇帝って東ローマに多いよね もともと東の方が豊かだったからな
帝政が進めばローマが首都である理由もない ユスティニアヌス帝亡き後は軍事的には負け続きで軍隊はまさに烏合の衆のようだったとか
政治が安定してれば軍隊が弱くても大国は繁栄し続けるようだ アッティラの軍事力を取り込もうとしたホノリアの先見性 西欧ではなかったことになっていた西ローマ
コンスタンティヌスが教皇に寄進してコンスタンティノポリスに移ってから、
いきなりフランクとか東西ゴートが誕生したことになっていたのだろうか? コンスタンチノーブル
約 9,060 件 (0.28 秒)
コンスタンチノープル
約 114,000 件 (0.25 秒)
サヒーフ・ムスリム(http://hadith.main.jp/)
コンスタンチノーブルの開城について
http://hadith.main.jp/vol3-739.html イタリア・ギリシャは権力闘争繰り返したが、殲滅の徹底感なし
他の欧州諸国より民衆が若干傍観者に見える 他国の方がユダヤ人狩りも積極的
同じ現在ラテン的民族(言語は別)でもフランス・スペインの方がより凄惨な歴史あり >>139
テオドシウス1世がマグヌス・マクシムスやアルボガステスを倒すと
ガリアの軍事力が痛手を被り西ローマは再起不能となった
もともと軍事的には西の方が優勢でコンスタンティヌス1世や
ユリアヌスは西ローマから東ローマを征服した
ウァレンティニアヌス1世の治世には兄が西の皇帝で弟のウァレンスが
東の皇帝で西ローマはまだ充分に強大であった 東の方が豊かで先進的だったというが、
その豊かで先進的だった場所ってエジプトとシリアのこと? 東の方で豊かで先進的だった場所はギリシャ語圏
エジプトとシリアとアナトリアとギリシャ
東の方でもバルカン北部のモエシアとダルダニアは
ラテン語圏で牧畜が盛んな騎兵の供給源
アエティウス将軍やユスティヌス1世の出身地 ギリシャには陶器やらオリーブ油やら高付加価値な産業があるから衰退しても強いのな >>92
でも、その朝鮮半島の政治的立場を争って戦争していたときに、三度が三度、西に移ってきてんじゃん
一回目、仲哀天皇・神功摂政皇后
熊襲の反乱鎮圧、三韓征伐に際して、筑紫香椎宮(現・福岡市東区)
二回目、斉明天皇
白村江合戦に際して、筑紫磐瀬宮(現・福岡市南区もしくは博多区)、筑紫朝倉宮(現・福岡県朝倉市)
三回目、明治天皇
日清戦争に際して、第五師団を大本営とし第七回帝国議会を広島市にて召集
白村江のときには、30キロばかり後退したけれど、水城を主戦場と仮定しての戦術だったし、 Wikipediaに載ってるフン帝国の最大版図の地図を見て吹いたw
ローマ帝国よりも広いじゃん。 ゲルマン王朝がローマ名乗らなかったからだろ
シャルルマーニュじゃ時代空き過ぎだし
やはりテオドリックがカトリックに改宗してローマ皇帝即位で安定政権築く
これだな >>155
ギリシャ人や中東人は古代・中世的なものを良しとし、近代的大量生産的なものには否定的な感じがする
イタリア人はゲルマン系ほどではないが、近代大量生産時代にも最後尾でついていった感
日本はゲルマン圏同様寒い地域なので野良猫は冬に悲痛な声を上げ、過酷な生存競争を生き抜く為に
顔つきも地中海沿岸の野良猫に比べて極めて険しく恐いやくざ的形相を持つ
ギリシャでは野良猫は極めて穏やかに過ごしており、トルコでもホテルに侵入しても従業員はニコニコ笑いながらつまみ出す
人間に慣れ切った猫はクタッとされるがままにつまみ出される 日本みたいに人間を見て逃げだす事はない
エジプトでは猫は神のように崇められた 近代とは寒い所に住むギャング猫がぬくい所に住む猫を経済的に制圧した時代鴨 コンスタンティノープルが真田丸付きの大阪城並みに堅固だった
以上 堀を無力化されてあえなく陥落というところも、似てる マヌケな落城対決
騙されて堀を埋めてしまって陥落した大坂城
門の鍵をかけ忘れて陥落したコンスタンティノポリス
さあどっち >>163
堀は大して重要じゃないのです。カルバリン砲の数が増えてどのみち落城したことでしょう。 ローマ帝国の東西分裂というより西側切り捨ての方が実態に近い気がする >>165
そう解釈するのはヨーロッパ人のプライドが許さない >>166
ローマ帝国からしたら、5世紀の東西分裂と西帝国の滅亡って、寂れて金ばかりかかる西側の直接支配は諦め、豊かな東側に集中したってことだと思うけどね。そうやって紆余曲折しながら1000年続いたと。 テオドシウス1世が西ローマの自立を阻止した
もしアルボガステスが勝利していたのならば
ローマは完全に東西分裂していただろう 東西ローマはユスティニアヌス朝でほぼ同時に滅亡したとも言えそう
クラウディウス・ゴティクスからユスティニアヌス朝にいたる多くの皇帝は
バルカン出身で彼らの出身地がスラブ人に滅ぼされてしまったので
ヘラクレイオス朝以降はギリシャが公用語になった
ユスティニアヌス朝に婿入りしたマウリキウスはヘラクレイオスと同じく
カパッドキア出身で既にバルカンの将兵は枯渇していたのだろう
バルカンを守る為の戦争で反乱を起こした将兵らにマウリキウスは
殺されたけど将兵らは自らの故郷ではないから反乱を起こしたのだろう
まだユスティニアヌス1世の頃ならば当時の将兵らは命じられれば
喜んでバルカンを死守したはず 東西ローマはユスティニアヌス朝でほぼ同時に滅亡したとも言えそう
クラウディウス・ゴティクスからユスティニアヌス朝にいたる多くの皇帝は
バルカン出身で彼らの出身地がスラブ人に滅ぼされてしまったので
ヘラクレイオス朝以降はギリシャ語が公用語になった
ユスティニアヌス朝に婿入りしたマウリキウスはヘラクレイオスと同じく
カッパドキア出身なので既にバルカンの将兵は枯渇していたのだろう
バルカンを守る為の戦争で反乱を起こした将兵らにマウリキウスは
殺されたけど将兵らは自らの故郷ではないから反乱を起こしたのだろう
まだユスティニアヌス1世の頃ならば当時の将兵らは命じられれば
喜んでバルカンを死守したはず なんで東ローマの公用語は南スラブ語にならなかったの?
12世紀から滅亡まではスラブ人だらけだったんじゃないの? プトレマイオス朝エジプトが支配者の言葉として準ギリシア語を公用語とした様なものだろ、
成り上がりを諦めた下々の者はまた別の言葉を話したろうが じゃあなんでラテン語でなくなったの?
支配者としやってきた。もしくは太祖アイネイアスの生誕地へ本拠地移転なのに。
と、本当にプトレマイオス王朝でギリシャ語が公用語だったの?
王はファラオとして君臨してメンフィスの神官の権威を借りて統治していたわけだら、内政的にはエジプト語が公用語だったんではないい?
支配層はマケドニア系ギリシャ系であることの意識を失わずにいて、東はインドに接するあたりから西は地中海一帯まで外交語として通用
していたから、王侯貴族や職業軍人の必修の教養語としてギリシャ語は理解されていたろうけれど、祭祀から行政・商業から域内の文書や
口頭の通達やらはエジプト語で行われていたんではないかね。 >>172
スラブ人が移住した土地は東ローマから独立していた
東ローマがバルカンのスラブ人を支配下にしたのは
ようやくバシレイオス2世の治世になってからだった >>165
東ローマは西ローマを身代わりにして生き延びたと言えるだろうね
そもそもゴート族がバルカンに移住した時には西ローマは無傷だった
バルカンのゴート族を西へ移住させたので西ローマは滅亡した
ゴート族がバルカンに居続ければやがてゴート族はブルガリアの
ような国になっただろうから東ローマはもっと早くにおそらく
イスラム以前にササン朝時代に滅亡したかもしれない ゴート族がバルカンに居続けたのならば
やがてゴート族はブルガリアのような国になっただろうから
東ローマはアナトリアとシリアとエジプトからなるオリエント
の国になったかもしれない
バルカンを失うと東ローマは軍事力がかなり弱体化したはずで
西の領土を奪回する事は不可能になったはず
東ローマがササン朝を征服するかササン朝が東ローマを征服して
オリエントが統一されたかもしれない 東ローマの歴史は長いが、ユスティニアヌスの征服活動以降ブルガリア帝国撃破くらいしか見せ場がないな。
数々の外敵に攻められまくってるのによく千年も続いたもんだよと感心するわ。 「東ローマ」と言うがオドアケルが西の帝位をゼノンに返上した時点で
もう東ローマではなく唯一のローマに戻ってる
その後「西ローマ」と称する国が出来たことはあるが
(カールの帝国やハプスブルク帝国)僭称でしかない。
ゼノン以後のコンスタンティノポリスの帝国にわざわざ「東」なんて付ける必要は無い >>181
後世から見て紛らわしいから呼び分けているだけですよ君。
東周や東晋と同じことです。 東にしろ神聖にしろローマを領有していない癖にローマ帝国を名乗られてもねぇ…w そもそもローマ帝国は東西に分裂していなかった
西の皇帝は多くが東の皇帝の臣下にすぎなかった
例外的なのは自ら即位したマクセンティウスとコンスタンティヌス1世らで
東に対して西が独立しておりコンスタンティヌス1世が東を滅ぼして再統一した
次にウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟皇帝では兄が西の皇帝なので
東の皇帝が西の皇帝の臣下だった
最後に西の将軍アルボガステスが東のテオドシウス1世に反抗したけど敗北したので
西は東から自立出来なかった
もしアルボガステスが勝利したのならばローマ帝国は本当に東西分裂したはず どっちにしろオドアケルがゼノンに帝位を返上してるから
ゼノン以後はもう分裂状態では無い アルボガステスはフランク族出身の将軍だったから
カール大帝はアルボガステスの後継者と言えなくはない なんでオドは西を返上したんだ?
持ってればよかったのに、、
なんか見返りは? (西)ローマ帝国を滅ぼすつもりは無かったからだよ
ヒャッハー俺が王だーっていう蛮族的行動じゃなかったから
ローマの治安を回復して東ローマに治めてもらいたかったのだろう この時代でビザンチンのカタクラフトは戦術的に傑出してる。
ササン朝の軽装騎兵、ゴートの重騎兵に弱点を突いて的確に対応できる。
リデルハートはペリサリウス絶賛。 ステータスとしての騎士ではなくて、兵科としての騎兵であったことがでかい。 東ローマの美少年はオスマン兵の餌食になったようだ
まさにケツマン帝国 あえて>>1に話を戻せば、
「フン族と同じルートでヨーロッパを直撃した東方遊牧民族が、ついにその後1000年現れなかった」
ことだろうね。ブルガールだのマジャールだの、ちまちま来ているのはいるが、
中部欧州以西を、大勢力で東から突いて西ヨーロッパを震え上がらせるのは
モンゴル帝国を待たなければならない。
これは逆説的な話で、今度は南から一瞬だけ突っ込んできたイスラム勢を除けば
西ヨーロッパは「誰も来ない」ものだから、
終わりなき無知蒙昧な中世封建制を、延々と続けることになり、
かえって世界の僻地になってしまった。
西ヨーロッパがもう少し、他民族に揉まれていたら、
十字軍のような、出鱈目な阿呆妄想による無意味な進軍ではなく、
きちんとした勢力拡大として
第二の共和政ローマになって東方拡大=西からの再統一が出来たかもしれない。 マジャールとノルマンの侵入で終わって安定、細分化された封土でチマチマ農地開拓
→ いつのまにかローマ時代より人口増えて、人口横ばいのオリエントを攻める余裕ができたでござる
→ オリエントから撤退&病気もらったけど、なんか色々と飛躍のきっかけが得られたでござる 東ローマ結構強くね?
ユスティニアヌスによる大征服
ササン朝とのガチバトル
イスラム海軍をギリシャ火で丸焼き
キエフ大公国の侵攻を重装騎兵と艦隊で撃退
ブルガリア帝国を滅ぼす 宋だって思われてる以上に強い のも東ローマと宋の共通点だなw >>197
宋が強いのは専守防衛という条件で
悲しいかな機動力が無いから攻勢に出る能力は無い 西欧 ゲルマン人の侵入で土人化
北欧 ノルマン人の根拠地で元から土人
中欧 アヴァールやマジャールなどの騎馬民族が割拠
南欧 サラセン海賊が略奪・人攫いしまくり
うーん、ビザンツ帝国以外は悲惨過ぎる… 「13世紀の世界大戦」見たら
東ローマがモンゴルの属国みたいになってて時代の流れを感じた 神聖ローマはフランク王国の後継国でカトリックの国
東ローマは古代ローマの片割れ部分でオーソドクスの国 東ローマは西半分を失った本物のローマ
神聖ローマはかつてローマが失った西半分で蛮族が勝手にローマを名乗っただけのなんちゃってローマ >>73
巨大な国家規模・強大な軍事力・正教会への信仰という意味でも
ローマ帝国の後継者に恥じない
現ロシア連邦も(ある意味アメリカ合衆国も)ローマ帝国のオマージュ ササン朝とバトルアンドバトル
終わりなき戦い
ユスティニアヌスが西ローマの旧領を大征服するが
その後がランゴバルド、アヴァール、イスラムに領土を取られまくって
停滞の時代が続き、しばらくするとようやく安定して
バシレイオスの活躍で再び大国になるが、その後は暗君が続き
トルコ人にアナトリアを奪われる
更に十字軍によって一回滅ぼされる
なんとか復活するが、ふるわずオスマン帝国に滅ぼされる
色々あったけどよく1000年も続いたもんだよ 東ローマはボロボロになりながらもイスラムの西欧侵入を
食い止める防壁の役割を果たしていた。
東ローマがもっと早く滅んだパラレルワールドでは、
西欧がイスラム化してしまう確率がかなり高くなりそう。 千年帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、その後、20世紀まで続いた
激戦区の中近東で、これもまた驚異 >>209
タイミングも大きいんじゃない?
西アジア勢はロシアにボコボコにされたし >>207
南国育ちのアラブ人には西欧は寒過ぎて征服は無理だろうな
イタリア育ちのローマ人でさえゲルマニアやカレドニアは諦めた
一方ロシア人は東ローマがなければイスラム教を選択しただろうから
東欧の方がイスラム化しそうだな >>209
オスマン帝国は北方蛮族が文明化して
民族移動してこなかったので生き延びた
東ローマ帝国はバルカンにスラブ人が
アナトリアにトルコ人が移住してきたので
滅んでしまった >>176
してたの?
6世紀くらいから急に多数なだれ込んできて、今のギリシャ領の東マケドニアもテッサリアもエピロスも半島の南端近いペロポンネソスもスラブ人だらけになってたのに? >>213
ビザンツ暗黒時代(7-8世紀)のあと、ニケフォロス1世あたりから徐々に反転攻勢が始まる
アナトリア・南伊からスラブ占拠地域への帰還殖民も含めてね
それから2百年ほどのちの、ピークとなるバシレイオス2世時代にはかなりの達成度になった
少なくとも現代ブルガリア・ギリシャ・マケドニア・アルバニアまでの領域は確実に支配してた >>200
スラブ人の侵入で土人化
ブルガルやオグズ(セルジュク、オスマン)などの騎馬民族が割拠
ギリシャ人の根拠地で元から海賊 >>1
ギリシャ火の火炎放射器があったのはやはり大きいだろうな。
http://all-that-is-interesting.com/greek-fire
海戦や城壁からの防衛戦なら、負ける気がしない。 三重城壁 + ギリシア火
正攻法で落とすのは不可能かも 石にコモ巻いて油をたっぷりしみこませて硫黄の点火剤つけて、火を点けて投石器で撃ち込むのが、ギリシャの火ちげーの? >>181
けどコンスタンティノープル帝国諸皇帝よりハプスブルクのが価値が高いな 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
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6C3 西ローマ帝国の領域で農業生産が衰退していたから、
西の方が早々に滅びたという説明はよく聞くが、
今日の農業大国フランスであるガリアの地で
小麦の作付けを増やすことはできなかったのだろうか。 ガリア帝国やディオクレのテトラルキアによれば
ガリアとイタリアは一体化しておらず
イタリアと北アフリカがセットだったようだ >>221
オドアケルが西の帝位を返上したけどそれだけでは名目的なもんでしかない
ユスティニアヌスが現実に再統一したからこそ名目も実態を備えられた
たとえ一瞬であっても東西再統一されたローマが実在したから
その後ずっとコンスタンティノポリスの帝国がローマであり続けられた 東ローマは西方領土を奪回すると没落を繰り返した
ユスティニアヌス1世がイタリアを奪回するとバルカンはスラブ化した
バシレイオス2世がバルカンを奪回するとテマ制を維持出来なくなった
ミカエル8世がコンスタンティノープルを奪回すると
ニカイア本国を維持し続ける事を出来なくなった >>33
アルカディウスの方を西方正帝に、という進言が有力武将のアルボガストから
テオドシウス帝になされている(392年)。
仮にこれが実現したとして、西ローマ帝国の歴史が変わったかどうかは、
正直微妙なところだが・・・ 似たもの兄弟だろうに、何かアルカディウスの方に見所でもあったのか・・・? アルボガストとその軍勢が健在ならば
西ローマは弱体化しなかった テオドシウス1世がちょっと早く死んでいたら
アルボガストらは西ローマを支配し続けただろう ガリアのフランク族出身のアルボガストらが
健在ならば西ローマを死守しただろうから
西ローマ領に西ゴート族が移住する事が出来なくて
西ゴート族はバルカンに建国する事になったはず
おそらく東ローマは西ゴート族とササン朝に
挟み撃ちにされて西ローマよりも先に滅ぶはず
当時はバルカン出身者が軍の主力だから
バルカンを失うと東ローマ軍は無力化したはず >>230
単に長男が西帝になるのが伝統だっただけ 地中海世界の西半分はもともと後進地域だったんだから、
西ローマが崩壊して元の状態に戻っただけじゃね? >>216
確かに。
しかし、1000年も帝都を防衛することになるこの兵器を発明したカリニコスは、火事を起こして処刑されてしまうという気の毒な人。
カリニコスが火事を起こすこともなく長生きして兵器の開発を続けていたら、1453年5月29日はなく、「ヨーロッパの中世」はもっと長かったかも知れない。 西ローマはブリタニアをアングロ・サクソンに奪われる寸前だったけど
東ローマにゴート族やヴァンダル族を押し付けられなければ
他の領土はそのまま保持出来そうだった ゴート戦争でもそうだけど東ローマって西ローマに恨みでもあるのか
ローマ市破壊、人口激減、元老院消滅等やりたい放題
共和政期のローマ人が見たらブチキレて東ローマをカルタゴみたいに滅ぼしにいくぞ 西ローマ政府も西ゴート族をヴァンダル族にけしかけたりしなければ
ヴァンダル族はそのままスペインに定住しただろうから
北アフリカは奪われずに西ローマ領のままだったはず 塩野七生「ビザンツ帝国などユスティニアヌスの時代に一時的に盛り返した後は暗愚な皇帝ばかりでただ滅亡を待っていたにすぎない」 十字軍に裏切られコンスタンチノープル占領されていったん滅亡したから千年王国でない >>239
ローマ文明世界に2国の帝国が並び立つとでも?
遅かれ早かれ、どちらかが消えてなくなる運命だった。 イタリア半島がローマ帝国終焉の地ならまだ恰好がついたのだが
もしろん中世近代以降も存続できてればなおよし
神聖ローマみたいなパチモンはいらない >>244
>神聖ローマみたいなパチモンはいらない
これは同意。
しかし、西の帝国はラテン語に代わる言語がなかったことが、最後まで統一を妨げた一因になった。
実際東帝国のギリシャ語はラテン語に比較して平易で、バルカン半島のスラブ諸国もアレンジしながらも受け入れた。
ユスティニアノス帝以後は、帝国の公用語もギリシャ語に置き換わっていったことを考えると、市民レベルでは「ギリシャ語による文明圏の統一」は、かなり早い段階から進んでいたことは想像に難くない。
よって、
>イタリア半島がローマ帝国終焉の地
これはない。 >>241
ユスティニアヌス1世はニカの乱で退位寸前だったけど兵士達は彼を守った
ユスティニアヌス1世の失策を尻拭いしようと奮闘したマウリキウスの方は
兵士達の反乱で殺されてしまう
東ローマ人はやらなくてもいい事はやるけどやるべき事はやらないようだ >>238
そりゃヴァンダルやゴート族の考えにもなってみろよ。
コンスタンティノープルは別格だとしても、永年東方との最前線になり、ティサロニカ、ハドリアノープル、アンティオキアなど軍都だらけの東と違って、西は無防備都市だらけだぜ。 ユスティニアヌスは有能な感じはしないな
無謀な拡大路線はいきなりステーキの社長と同じ ローマ破壊してそのままはアウト
ローマ名乗る資格無し >>211
遅レスだが、
>一方ロシア人は東ローマがなければイスラム教を選択しただろうから
これはない。
イスラム教は戒律で酒が飲めないので、ロシアがイスラム教徒になることは死んでもない。
ちなみに、当時のロシア人にカトリックとギリシア正教の教義上の区別はついていなく、
ビザンツ帝国の聖堂や教会を見学して「何となくキラキラしててカコイイ!」で決めたらしい。 おもった以上に東ゴートが抵抗して泥沼になったのがよくなかった
シチリアだけで満足しておくべきだったな 中国の王朝交代では必ず国号を変える
ローマが地中海世界を統一した後は
首都をコンスタンティノープルに移した後も
何度王朝が交代して、どの民族が皇帝になっても国号はローマ
さすがにオスマン帝国はイスラム教なので
これでローマ帝国は滅亡したと見做される訳だ
その前にも何度も滅亡してる感じはあるけど ビザンティン帝国と呼ばれた東ローマ帝国が
自称もビザンティン帝国にしても良かった気がする
ローマの権威と文化はある長い時期の間、
コンスタンティノープルに遥かに劣っていた
精神的にも文化的にもローマとは異質なものに
なりながら、国号をローマにこだわっていた
理由は何だろう
豊かな近東を支配した者にとってローマや
イタリアって必ずしも要らないと思うんだよ
蛮族に蹂躙されて片田舎になったローマ、南欧
よりは中近東の都市の方が遥かに価値がある
中世まではヨーロッパは西アジアのおまけ イタリアって人口密度昔からかなり高いけどね
ギリシャはともかくバルカンやアナトリアはでかさの割にあんま人住んでないからな オドアケルや東ゴート時代はローマ行政が継続しててイタリア社会は崩壊してない
崩壊したのは東ゴート戦争とその後のランゴバルトの侵入のせいだからな
東ローマはバルカンと中近東でも戦ってたからイタリアの内陸まで維持する余裕はなかったし全土征服にも20年かかってる
海軍力は最強だったから、北アフリカの沿岸地域とシチリアとイタリア沿岸地域のいくつかはあっというまに占領して長期維持できたけど
最初からそこらで満足しとくべきだったね
キリスト教世界を弱めただけの結果になった >>252
東ローマの場合、国号ってなかったんじゃないかという気がする
史料を見るとどれも「ローマ人の皇帝」「ローマ人の土地」とか「ロマニア(=地域の名称で国号ではない)」
となってて、SPQRの方がよっぽど国号に近い感じがする
俺が知らないだけかも知れないが史料に国号に相当する使い方を見たことがない
建前上では中世初期のローマ帝国は国境を持たない「全世界を統べる皇帝の国」だったから、
明確に東アジアの国号に相当するものはなかったんでは?と思ったりしてる 蛮族がローマを荒らしても蛮族だからで片付くし諦めもつくが
まがりなりにもローマの正統名乗ってる東ローマがローマ市や元老院破壊しちゃいかんでしょ ラテン語も捨ててるしな
ローマ人の皮を被ったギリシア人による帝国
ローマに愛着が無いのも当然 >>258
だーかーらー!
難解で汎用性に乏しいラテン語を捨て、市民レベルでギリシャ語での文明圏を維持したんだって。
「ローマ」に拘ったのは、むしろマイナスだったが、それも含めての帝国。 ローマ捨てるのなら尚更ローマ名乗るなやという話
矛盾してるのよ、神聖ローマより多少マシという程度
古代ローマ人が見たら間違いなく呆れる 西側を破壊放棄したら西側の後継国に見捨てられる因果 ラテン語を捨て、共和政治の精神も捨て、ローマにも属さず、単にローマを自称したギリシア人の帝国 きっと4世紀のフランク族(その範囲は現在のベルギーとオランダ)の王も、
9世紀以降のフランスに対して「フランス(フランクが変化した語形)」を名乗るなよ、
と墓場の陰から思っているに違いない ゴート人も王国化してからはゴート語を使える奴は稀だったしな
ラテン語一強 >>263
> きっと4世紀のフランク族(その範囲は現在のベルギーとオランダ)の王も、
> 9世紀以降のフランスに対して「フランス(フランクが変化した語形)」を名乗るなよ、
> と墓場の陰から思っているに違いない
そもそも4世紀だとフランク人にフランク人なる自己認識がないから気にしとらんだろ
フランク人の王と呼ばれたのもテウドメールとかマロウバウデスとかのローマ宮廷出身者で、北方のフランク人もローマのフランク王とはほとんど無関係な雑多な混合集団 >>262
無茶振りもいいところだな、オイ。
では「共和政」を表わすのに、この時代ラテン語とギリシャ語以外で何語があった?
言っておくけど、ロマンス諸語はまだ成立してないよ。
中世期、教会の坊主でさえ習得に四苦八苦するようなラテン語で政治行政軍事を執るなんてことは、
さしづめ平将門の時代の言語で現代の自衛隊を指揮するようなもんだ。 東ローマが西側破壊しまくったのが原因だったりしてな
ラテン語問題
やはりギリシア人の帝国…! >>268
>東ローマが西側破壊しまくったのが原因だったりしてな
別に破壊してないだろ。
帝都は別格にしても、ティサロニカ、アンティオキア、ハドリアノポリス、と軍都だらけの東に比べて、西は無防備都市だらけ。
おまいが蛮族ならどっちに行くよ? >>269
だーかーらー!
例えば「法律」「政治」「軍事」「建築」「物理法則」「化学」「哲学」「数学」なんてものの諸概念を理解するのに、難解すぎるラテン語に代わる受け皿として、この時代ギリシャ語以外に何語があったよ?
何より新約聖書の原典はほとんどギリシャ語なんだよ。
ローマ時代に完成したワンセットの「文明」は、むしろギリシャ人以外に引き継ぎ手がいなかった、と考えるべきだ。
ここまで言わないと理解できんのか?
>>271
氏んで。 ひさびさにビザンツスレが活発だと思ってきてみたら、、、、
最近ビザンツ歴史本が出版された話題かと思ってたら違ったのか、、、、
もう少し穏やかな言葉遣いを心がけて欲しいよ、、、、 >>273
すまんのぅ。
やたらと突っかかられるもんでな・・・。 >>274
いや、お前が一方的に突っかかってる
272でなかったらスマン とりあえず「ラテン語は難解だからラテン語を捨ててギリシャ語でいい。だからラテン語を捨てたとは言わせない」は超解釈すぎて論外だわ 1. ラテン語を捨てた
2. 共和政治の精神を捨てた
3. ローマに属さなかった
4. ローマを破壊した
嘘だっていいたいのはどこ? >>267
> さしづめ平将門の時代の言語で現代の自衛隊を指揮するようなもんだ。
自衛隊は平将門とは自称していない なぜイタリアを維持できなかったかというと
西ローマにいたローマ軍団がオドアケル以降消失していたので
東ローマの軍団を派遣してイタリアを守らないといけないが
バルカンやペルシャの守りもあるんでイタリアに割く余裕がなくなったってところなのかね
ちなみに海軍はあるんで海岸沿いは維持できたと、まぁラベンナは沼地にあったから簡単に攻略できなかったってのもある >>280
もちろんそういう要因もある。
しかし、古代ローマが軍を各処に派遣するために整備した街道を、今度は蛮族が逆に爆進してきたのが命取りになったな。
現代でも普通に歩ける街道らしい。 なぜイタリアを維持できなかったかというと
東ローマ軍の主力が消滅したから
ユスティニアヌス1世やベリサリウスの世代が
年老いて死ぬとバルカン出身の将兵が消滅した
スラブ人の侵略から次世代の兵士になる世代を
守らなかったのでバルカン軍団が消滅した >>277
>1. ラテン語を捨てた
共和政ローマの時代からの二言語併存状態から7世紀の公用語ギリシャ語へ
ギリシャ語はそもそもこの地域の土着言語。
これを「ラテン語を捨てた」というなら捨てたんだろう。
>2. 共和政治の精神を捨てた
そもそも395年の時点で、共和政ではないんだが?
>3. ローマに属さなかった
ローマそのものを名乗っていたので、属していませんが何か?
>4. ローマを破壊した
東帝「ゴルァ蛮族ども!西に行くなら通してやる。東帝国に侵入するなら我が軍の槍のサビにしてくれる!!」
重装騎兵「呼んだ?( ̄ー ̄)ニヤリ」
蛮族「サーセン、通して下さいm(_ _)m」
⇒蛮族、ローマを破壊
これをビザンツがローマを破壊した、って言うのか?
結論
ビザンツが嫌いならこのスレに来るな 日本の支配階級も朝鮮語を捨てて日本語を話しているからね ビザンツが嫌いならこのスレに来るな
なんでこいつこんなに偉そうなの?
ビザンツ人の怨霊? >>282
バルカン軍団は消滅したかも知れないが、7世紀にテマ制が敷かれ、さらにギリシャ火の発明もあった。
軍事的に弱くなったとは思わないけど、帝都防衛戦などもあり、積極的に攻めるよりも国防のための軍になったみたいな感じ。 テマ制は防衛には適していたけど
遠征には不向きだった
スラブ人に奪われたバルカンを奪回する為に
バルカンに遠征するとテマ制は崩壊した > ローマそのものを名乗っていたので、属していませんが何か?
そうだね
だからローマにも属さずローマを自称したって指摘されてんだよね >>287
>戦犯はベリサリウスなのかユスティニアヌスなのか
ナルセスもいるぞ
>>285-286
>ビザンツが西側に何故見捨てられたのかがわかるな
思わず納得してしまったw >>290
前半はほぼ同意。
後半はどうかな?
バシレイオス2世時代にブルガリアを滅ぼしてバルカン半島は完全奪還されたが、まだテマ制は存続していたと思うが。 ナルセスはベリサリウスに比べると知名度がイマイチ低いな
漢の武帝時代の衛青と霍去病みたいだ ナルセスはアルメニア人なんだっけ
バルカン出身者からオリエント出身者にバトンタッチ >>295
「衰亡史」のギボンの記述が大きいな。
ヴェルサリオス「取るものもとりあえず、出陣!」
ナルセス「兵士の給料ちゃんと払ってね。遅配分もよろしくね。あと装備品はちゃんと買ってね。工兵隊もつけてよ。補給もよろしく」
近現代の経営陣が、どちらを褒め称えるかは自明の理。
どっちみち2人とも最後はくびになるんだがw
あ、ちなみにこれを書いたギボンもカトリックに改宗してオックスフォードをくびになるんじゃなかったっけ? 兵は弱くてもローマより攻め落とすのが
難しかった感じ 周りは占領されても
首都だけは防衛できた凄い都だな もし東ローマが首都の難攻不落さより貿易を
重視して首都をダマスカスやエルサレム、
アレキサンドリアにしていたらもっと早く滅亡していたな >>299
ダマスカスやエルサレムって貿易に有利なの? なお寄せ集めの十字軍程度に難攻不落なはずの首都を落とされた模様 ローマ奪還したときに死守して要塞化しとけばよかったのに
そうすりゃイスラムやオスマン来たとき西へ逃げることもできた >>298
コンスタンティノープルの防御力が優れ過ぎたので
国土防衛の意欲が低下してしまった
帝都さえあれば大丈夫という傾向が滅亡の原因 ローマ帝政期のイタリア中部とローマ市の人種構成の遺伝的解明だそうだ
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html
帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。
帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。
鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか
分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。
約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。
主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240〜630年)の4人と重なります。
さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30〜50%有するとモデル化できます。
平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に
続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、
帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、
考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語や
ヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に
帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは
一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)
にあります。
一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。
たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。
ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から
穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似
性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定
的だった、と示唆されます。 これ読むとローマ市とイタリア中部は地中海東方人種化していたようだ
帝政期に入りイタリア中部とローマ市は東方人種にのっとられ、東方人種の宗教である
キリスト教化し、更に専制的なキリスト教帝国化したのが必然であるように見える
ラテン的伝統というのは帝政期に入り急速に失われ、2世紀には皇帝がギリシア語で著作したり
してるから、帝国は東方に乗っ取られたという感じになってたんじゃなかろうか
東西ローマが分裂してイタリアのギリシア的要素をビザンツに引き取ってもらった
というのが正しい歴史の見方ではないかという気がする
ラテン的ローマは3世紀くらいで滅んでドミナトゥス時代から専制君主政となってビザンツに続くという
1古いローマ帝国史観が案外正しいんじゃないか と思った 帝国西部はブリタニア、ガリア、イスパニアの
3つでガリア管区としてまとまっていた
イタリアはバルカンとともにドナウ管区に属していた
本来イタリアは防衛をガリアではなくバルカンに依存していた
ローマ帝国は東西分割によりイタリアとガリアをともに
西ローマにしたので防衛し難くくなり滅亡していった >>306
> ラテン的伝統というのは帝政期に入り急速に失われ、2世紀には皇帝がギリシア語で著作したり
> してるから、帝国は東方に乗っ取られたという感じになってたんじゃなかろうか
依然としてラテン語が主流なままなのにギリシア語も使われてたから東方に乗っ取られてたとか極端すぎるわ いくらなんでもラテン的ローマが3世紀に滅んだってのは早すぎるだろう
本家ローマじゃドミナトゥス化も専制君主化も進まんかったしギリシア語とのバイリンガルも帝政末期には減ってたし
少なくとも西ローマが健在なうちはローマ帝国は健在だよ 376年、気候変動激化や、侵攻のフン族などに居住地を追われた、
ゴート族(西ゴート族)は、
西ローマ帝国のヴァレンス帝に、
ドナウ川南岸の、ローマ領トラキア地方への移住を陳情した。
西ローマ帝国ヴァレンス帝は、せいぜい、数万人程度の移住と思い、
その準備をしてローマ領への移住を許可した。
(キリスト教改宗者を大量獲得したかったともいうし、
ローマ人の贅沢化、労働奴隷減少に悩んでいて、
下級兵士と奴隷労働者確保を図ったという)。
武器の不携帯、ローマ軍での下級兵役、農耕の従事が、交換条件であった。
ところが、他の蛮族やオストロゴート族(東ゴート族)も、
これに便乗したため、
結局、30万人を超える難民がドナウ南岸の、
ローマ領に居ついてしまったのである。
ローマ帝国側の、農業生産物の収穫で自給できる迄の,
土地分配、食糧配給の計画も、30万人では全く足りず、
移住民は不満をあらわに、どういうわけか持ち込んだ、
多くの武器を取って武装蜂起、大規模な暴動、大規模な略奪を始めた。
結局、ヴァレンス帝は、ローマ帝国親衛軍 治安出動で、
このゴート族武装勢力を鎮圧しようとして、失敗。
ハドリアノポリスの戦いで、大敗。戦死することになった。
ゴート族は、ローマ帝国を東西に分断する形で、
王国を建国。ローマ帝国、特に西側の衰退を決定付けた。 >>308
その前の記事を読んでくれよ
>帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります
て遺伝子解析の結果 そもそも古代イタリアでラテン人は少数派だった
エトルリア人やギリシャ人の方が広い範囲に分布していた >>314
その記事はイタリア中部とローマ市の人種構成の遺伝子解析だからね
ファリスク・ラテン語地帯が遺伝子的に東地中海化してたという話 >>312
このあと無理に東方を奪還しなけりゃローマ帝国も長持ちしたのかもね ディオクレティアヌス帝以来
東方がローマ帝国本土と看做されていた
例外的にウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟帝で
兄のウァレンティニアヌス1世が西ローマ皇帝となる事を
選んだので一時的に西方が優位になった
ウァレンティニアヌス1世の死後は弟ウァレンスが
西の帝位を継いだウァレンティニアヌス1世の息子達に
対して優位となり再び西方が優位となる事はなかった ディオクレティアヌス期ですらローマ帝国本土はイタリアなんですが……
コンスタンティヌス朝ですらローマ帝国本土はイタリアなんですが……
ウァレンティニアヌス1世の死後のウァレンスに対してもテオドシウスに対しても西のグラティアヌスが上位帝なんですが…… 帝国本土がイタリアでなくなるのユスティニアヌス1世になってからだから、法制度上は東ゴート時代ですらイタリアが本土なんよね イタリア半島捨て東に逃げちょったのに本土がイタリアとか矛盾しとるんじゃありゃせんか
死守しなさいや 首都が東に移った時にエリートもみんな移ったのか?
ローマに住んでいた一般市民はどうだったんだろう。 コンスタンティノープルに遷都される以前に
アウレリアヌス帝がローマ市に城壁を築いたので
城壁外の住民はしだいに去っていき
ローマ市の人口は減少していった そもそもコンスタンティノープルに遷都されたなんて事実がない >帝国本土がイタリアでなくなるのユスティニアヌス1世になってから
そうなの? 5世紀初頭の官職表では東方の方が西方より先に出てくるので
序列的にはオリエンス道長官>イタリア道長官という感じがするが >>322
城壁内でも100万人くらいいたんじゃない? 一体なんで皇帝はミラノとかラヴェンナにいたんだろう?
道長官やマギステル・ミリトゥムがミラノやラベンナにいるのはわかるんだよ
まかせりゃいいじゃん
遷都されてもいないのにローマ見捨てられた感しかない >>327
> 一体なんで皇帝はミラノとかラヴェンナにいたんだろう?
首都ローマを守るために前線で戦うのが皇帝の役割だから 前線で戦うのが皇帝の役目なのに湿地に囲まれた安全地帯に引きこもるって矛盾してるような
軍事のためならイタリア道長官とか文官はローマにいてもいいのに >>330
> 前線で戦うのが皇帝の役目なのに湿地に囲まれた安全地帯に引きこもるって矛盾してるような
当時は既にラベンナも前線だった
ラベンナが防衛拠点に選ばれたのも天然の要衝だったから
> 軍事のためならイタリア道長官とか文官はローマにいてもいいのに
実際に文官はローマに大勢いた >首都ローマを守るために前線で戦うのが皇帝の役割だから
皇帝がトリーアやアンティオキアにいた時代は役割も果たしてたけどなぁ
西はアンテミウス、東はテオドシウス1世が最後の親征か? ホノリウスがラヴェンナに逃亡したのが18歳
グラティアヌスがライン川を渡河してアラマンニ王を討ち取ったのが19歳
なんでこんな違うのか... >>331
道長官や管区代官のオフィキウムがローマにあったってこと?
この頃のローマの文官って南イタリア管区の行政官だけじゃない? >>318
ウィキペに
カラカラ帝がアントニヌス勅令によって全属州民を本国民としたことで、帝国本土としての立場がほとんど失われてしまった
(イタリア本土 (古代ローマ))
と書いてある ウィキペの同じページ(イタリア本土 (古代ローマ))の同じ節(帝政中期)に
テトラルキア制の中で、イタリア本土はイタリア・北アフリカといった南西部を担当する西方皇帝の地方領へ編入されたが、西方皇帝支配下のイタリア本土は「特別区」と「供給区」へと更に分けられていた。
これはイタリアの本土としての地位を維持するため、地方領の中心都市メディオラヌムの支配を受ける地域(供給区)とは別に、それまで通り帝都ローマを中心とする地域(特別区)を設けたものである。
とも書いてある そのイタリア特別区の長官は五世紀の官職表では24位でたいして地位は高くないんだよな >>336
ちなみに英語版を見ると「イタリアの本土としての地位を維持するため」なんてことは書いてなくて、
供給区の方はミラノ政府や軍団への穀物供給のため、特別区の方はローマ市の政府治下の諸州とかいてある イタリア>特別区>ローマなのに順位おかしくね
コンスタンチノープル市長官は何位?
コンスタンチノープルにも特別区ってあったの? 特別区という訳がおかしい
suburbicariaは首都近郊に属する地域という意味。「近郊」に属しているわけであってローマ市に属しているわけではない
近郊区長官の名前がVicarius urbis Romaeとなっていて紛らわしいが
序列だけでいえば近郊区長官は属州アフリカ総督よりも下だから寧ろ特別なのはアフリカ属州の方
ローマ市長官は、ローマ市周辺150km以内が管轄範囲で、それ以外の中南部イタリアが首都近郊区の管轄
序列は西1イタリア道長官2ガリア道長官3ローマ市長官
東は1オリエンス道長官2イリリクム道長官3コンスタンティノープル市長官
イタリア道長官の管轄範囲はアフリカやパンノニア、イリリクムを含むからイタリア道長官の序列が
イタリア本国の地位を意味するわけではない >>334
ローマにいた文官は、共和政時代からあるローマ市の公職者と近郊管区のオフィキウム
後者はローマにあったが、管轄はローマ市以外の南イタリア
イタリア道長官のオフィキウムはミラノ、ガリア道長官のオフィキウムはトーリアにあり、
ローマには帝国政府のオフィキウムと呼べるものは近郊区のものしかなかった ローマ帝国の本質と言うか本体って言うのはいったいどこなんだ?
かつてローマの七つの丘に男たちが集まり、略奪したサビニ人の娘との間で作った子供の血統的子孫がローマの中核なのか?
それともローマ世界に生まれローマ的な考え方に馴染んだあらゆる民族の出身者で、
政治的、経済的に有力になったものがローマの中核なのか?
かつてのローマの心臓部であるイタリアは、ローマを守る兵隊を供給できなくなっていたので
ローマの中核とは言えなくなってるような気もするが。 >>345
それが人によって違うから意見が割れるんじゃない?
弓削達とか南川先生はローマ市民共同体とかいいそう
塩婆は父祖の遺風といいそう
吉村先生はインペリウムといいそう
本村先生はラテン語といいそう
ホノリウスとかスティリコとかシュンマクスとかアンブロシウスとかアウグスティヌスとか
アエティウスとかボエティウスとかみんな違うこといいそう
>>344
サンクス >>346
となるとローマはとっくの昔に滅んでいて、残った東ローマはゾンビでしかないって話もありうるわけね。 >>347
>とっくの昔に滅んでいて、
スティリコよりもとっくの昔ということは、元首政までで滅んだということ?
元首政までをローマ帝国の本質ととらえれば東ローマに限らず西ローマも含めて専制君主政以降はゾンビということになるかもね ササン朝のシャープール1世にウァレリアヌス帝が敗北した事により古代ローマは滅び始めた
ウァレリアヌス帝の息子ガッリエヌス帝はササン朝のように騎兵をローマ軍の主力にした
当時はまだ鐙が普及してなかったので騎兵の多くをバルカンの牧畜民が占めていた
ガッリエヌス帝はバルカン出身の将軍らに帝位を奪われバルカン出身者が帝位を独占するようになった
ガリアのフランク族は歩兵を主に担当していて騎兵を担当するバルカン出身者よりも劣勢だった
ウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟帝もバルカンのパンノニア出身 ローマはパルティア軍に協力してササン朝をたたくべきだった
パルティアもローマも読みが甘かった
パルティア=ローマ同盟とか考えた人いたと思うんだけど史料に残ってないのかな パルティア軍の生き残りがパルミラ軍
パルミラは元パルティア兵を傭兵にしてササン朝軍を撃退した
アウレリアヌス帝がこのパルミラ軍を滅ぼしてしまったので
自分達がササン朝と戦わなければならなくなり
自分達のバルカンを充分に守れなくなった アウレリアヌス帝が暗殺されなきゃササン朝を危険視して叩いてたと思う 歩兵が主力か騎兵が主力かで社会は変わるだろうな。
騎兵は馬や馬具を自弁し、小さいときから訓練できる階級からしか供給できない。
その階級の発言力が大きくなるからな。 まだ鐙が普及していないので乗馬が難しい時代だった
鐙が普及するとフランク族とか西欧人も騎士が多くなった
東方でも鐙が普及するとアラブ人が自ら騎兵になりやすくなり
イラン人の優位が崩れペルシャ帝国を倒す事が出来た
東ローマでもスラブ人に滅ぼされたバルカン牧畜民に代わって
アナトリア農民が騎兵になって東ローマは生き延びる事が出来た 鐙がもっと早くに普及していたら
イタリア人もカタフラクトを出来ただろうから
ローマの中心はイタリアのままだったかも
鐙が普及しなかったらバルカンがスラブ化した時点で
東ローマはササン朝に滅ぼされてしまっただろう
イスラム帝国も存在しなくてペルシャ人の天下 もし鐙がなかったら
東ローマはカルタゴに遷都して生き延びたかな
ヘラクレイオス帝は実際にやろうとしたよね
以後は東ローマ帝国とは呼ばれないよね そうなったら、西晋でも東晋でもない
せいぜい蜀漢扱いになったろうね >>350
パルティアは、前後のペルシャ帝国と比べて文化が衰退した暗黒時代
記録があまり残っていない マルクス・アウレリウス帝時代のパルティア遠征で
カッシウス将軍がセレウキアを殲滅したので
パルティア領内から親ローマ派が消滅した
もしパルティア末期にセレウキアが健在ならば
メソポタミアはローマ領になったかもしれない
クテシフォンはササン朝の都にならなくて
ササン朝はイラン人だけの国になったかもしれない >>357
カルタゴからイタリアを征服して
ローマに首都が戻ったかもしれない というかカッシウス将軍がセレウキアで大虐殺をしなければ
マルクス・アウレリウス帝時代にメソポタミアを征服出来たな
パルティアをイラン高原に押し込める事が出来たはず >>241
ヘラクレイオスとかバシレイオス二世とかしらないのかね セルジューク朝ではトルコ遊牧民が放牧地を求めて
イラン農民の農地を奪い放牧地にしようとしていたので
セルジューク朝のイラン人宰相ニザーム・アル・ムルクは
多くのトルコ遊牧民をアナトリアへ移住させ厄介払いした
トルコ遊牧民はアナトリア農民の農地を奪い放牧地にした
一方アルプ・アルスラーンは本国の兵が減ってしまうので
アナトリアにトルコ遊牧民が移住する事には反対だった
アルプ・アルスラーンはエジプトとアナトリアへの遠征中に
本国中央アジアで反乱が起きたので本国支配に専念する事に
方針転換したけど急死してしまった
これに対してトルコ遊牧民らは放牧地だけでなくスルタンの
専制支配から逃れたいのでアナトリア移住を歓迎した
ニザーム・アル・ムルクがアナトリアにトルコ人を移住させなければ
アナトリアではなくイランが完全にトルコ化したかもしれない
ニザーム・アル・ムルクはイランをトルコ人から救った バシレイオス二世もアルプ・アルスラーンも
理想主義者で当時の支配層の中で孤立していた
彼らが死んだ途端に彼らがやろうとした政策は撤回された ローマ帝国名乗ってるのに地中海世界統一できてない時点でダメ
イタリアも放棄してるし >>1 ビザンツが1000年もった理由?粘り強いからだよ
地中海統一してないからダメだのイタリア放棄してるからダメだの、
そんなこといってるからイタリアは没落したんだよ
過去の栄光にすがって文句ばっかりいってるよかはるかにマシ ビザンツは粘り強く無駄な抵抗したので滅亡した
イタリアは無駄な抵抗をしなかったので生き延びた
ビザンツ=オリエントはササン朝に降伏すべきだった
ササン朝の支配下でもオリエントは繁栄しただろう
バルカン軍人はやはりバルカンを守るべきだった
バルカンではなくオリエント防衛を優先したので
バルカン軍人は死に絶えた >>365
アナトリアではなくイランがトルコ化したのならば
中央アジアは繁栄し続けたかもしれない
モンゴル時代にイラン人商人がモンゴル側の協力者となり
ホラズム・シャー朝は敗北し中央アジアは壊滅してしまった
イラン人とトルコ人の民族対立で中央アジアは没落した 東ローマ帝国ドゥーカス朝
アルメニア人とギリシャ人の民族対立
アルメニア正教徒のアルメニア人とギリシャ正教徒のアルメニア人の宗教対立
ロマノス4世はギリシャ正教徒のアルメニア人
ロマノス4世はドゥーカス家の婿入り皇帝
ドゥーカス家にとって邪魔な余所者
ドゥーカス家はギリシャ人
ホラズム・シャー朝
トルコ人とイラン人の民族対立
カンクリ族とトルクメン族の部族対立
ジャラールッディーンは奴隷の産んだ子なので
テルケン・ハトンはスルタンにしたくなかった ドゥーカス朝もホラズム・シャー朝も
女が最高権力者だった
エウドキア・マクレンボリティサの夫になったので
ロマノス4世は皇帝になれた
母テルケン・ハトンにシャー・ムハンマドは
頭が上がらなかった >>1
西側に都合悪いの全て押し付けたから
結果、西欧諸国に嫌われ見捨てられた テオドシウス家はスペイン出身だけど西側に配慮しなかったので
スペインに残っていたテオドシウス一族はスペインから追放された
マケドニア朝がバルカンに移住したアルメニア人だったように
おそらくテオドシウス家はスペインで移住したバルカン軍人だったのかも ビザンツがイタリアを見捨てた恨み節が目立つが、
イスラム全盛期にシチリアと南イタリアはビザンツが防衛したから
最終的にはシチリアは失ったとはいえ南イタリアはイスラムに征服されずに済んだ 北アフリカもシリアも
元ローマだろ
なんで没落してんの? >>375
イタリアを見捨てたのはバルカン軍人
バルカンからゴート族を追い出さないと自分達が滅ぶ
シチリアと南イタリアを防衛したのはギリシャ人
シチリアと南イタリアはもともとギリシャ圏だった >>377
マグナ・グラエキアはローマ征服後にラテン化してる
https://i.imgur.com/deToyko.png
現在シチリアや南イタリアに残るギリシア語やギリシア典礼や建築などは
中世ビザンツ時代やノルマン王朝時代に移民や再導入によるもの シチリア東部はまだギリシャ語圏だったようだね
580年頃だとバルカン北部がスラブ化し始めていた
鐙がない時代にはバルカン北部とアルメニアの住民が
カタフラクトを担当していた
鐙が普及するとギリシャ人もカタフラクトが
出来るようになった
ちょうどこの頃にアヴァール族の真似をして
鐙を使うようになり始めた アナトリア東部にはイサウリア人やケルト系のガラチア人がいたけど
カラチア人は先住民じゃなくてヘレニズム時代にビチニア王国が
セレウコス朝との緩衝国にする為にバルカンから招き入れた
マンジケルトの戦い後に生き残ったノルマン人傭兵がガラチアで
自立しようとしたけどドゥーカス朝は自ら鎮圧する事に失敗して
セルジューク朝に鎮圧を依頼したのでアナトリア全土を失った
ドゥーカス朝はノルマン人傭兵を緩衝国にする知恵がなかった ロマノス4世はアルメニアをイスラム教徒の支配から解放し
アルメニア正教徒のアルメニア人をギリシャ正教に改宗させるだけでなく
セルジューク朝の本国イランにまで遠征しようとした
ロマノス4世は第二のアレクサンドロス大王になろうとしたようだ
コンスタンティノープルの宮廷に居場所がないロマノス4世は
東方に自分の王国を築きたかったようだ
ドゥーカス朝はマンジケルトでロマノス4世を見捨てなくても
ロマノス4世を厄介払い出来るはずだった
イラン遠征の為に大勢引き連れていた城攻め用の作業員が
足手まといになった事もマンジケルトでの敗因の一つだけど ロマノス4世は馬鹿正直にマンジケルトで会戦したけど
アルプ・アルスラーンは本国で反乱が起きていて
急いで本国に帰国しようとしていたのだから
ロマノス4世はアルプ・アルスラーンと講和して
敵が帰国してからアルメニアに進軍すれば良かったね >>382
ちな、この敗戦の後、「中世のドル」ソリドゥス金貨の純度が一気に低下。
地中海世界にインフレ圧力を生み出し、ジェノヴァ、ヴェネツィアなど商業都市国家台頭の一因となる。 けど別王朝でも同じ国と考えるなら
エジプトの古代王国はアッシリアに征服されるまで2500年ぐらい続いてるよな >>376
シリア、エジプトは単性論派が主流で、正教会ともカトリックとも反りが合わなかった。
もともと、そういう下地があったところへ来て、ササン朝ペルシアとの戦いの最前線になり、疲弊してたところにイスラム教徒が大挙して攻め込んできたので、ひとたまりもなかった。 >>386
面白そうやけど
Kindle版無いから待つわ
講談社の『生き残った帝国 ビザンティン』もKindle版が出次第すぐ買い直すんやけどはよしてくれ コンスタンティノープルを
日本に例えると淡路島だな
なぜ今そこに本拠を移さないのか?
技術革新で橋も立派にできるしね
いざとなったら爆破して守りもできる >>384
プトレマイオス朝もギリシア人だけど
古代エジプト風の恰好してたりしたし、
プトレマイオス朝までは古代ギリシアじゃないの イベリア半島はヨーロッパに復帰し、
アナトリア半島はヨーロッパから脱落した >>390
古代のギリシア人はアナトリアをアシア(アジア)と呼んでいたんだが >>376
イスラム教徒も案外イタリア人やギリシャ人
みたいな性質があるからではないかな
洋服着たら外見まで似てるし ピザンツ帝国は1000年続いたが、文明の発展が停止したまま続いた印象がある。
中世の西ヨーロッパがよく「暗黒時代」「停滞期」とか言われるのと同じ印象。
東欧史に疎いのですまん。 世界史上最長の王朝って日本皇室になってるけど
幕府はある集団の長が政治の権利を朝廷から預かって政治しているという構造だから
鎌倉・室町・江戸幕府が滅んでも、代理人が滅んだだけで
日本の王朝の存続には変わりはないということだよね?
なら、西ローマとか真似できる余地あったのだろうか?
西ローマ皇室から預かって政治しているという
構造なら、どこの勢力が支配しても王朝は存続できたってころになるな
逆に日本はなんでそれがまかり通ったのだろうかは不思議 >>395
オドアケルは東ローマ皇帝ゼノンの代官ということになっていたし、
東ゴート王テオドリックも東ローマ皇帝の臣下というタテマエだった >>394
西ヨーロッパとはちがってゆっくりとした衰退だな >>398
自由が存在しなかったから
ビザンツ人にとっては皇帝専制以外の政治体制は考えられなかった >>395
やはりゲルマン人の最有力者が
西ローマ帝国の皇帝になるようになる可能性のほうが高いんじゃない?
まあ日本の場合もなんで天皇の権威がずっと長持ちしたのか府市ではあるけどな >>400
日本の場合、ローマ教皇に相当する存在がなかったからな
中国の易姓革命思想も根付かなかったし ローマの場合、他国でいう王朝が成立したのが東ローマ後期になってからで、
それまでは王朝といえるものがなかったっぽい >>400
江戸幕府は、秀忠の時代くらいまで「東朝」とも呼ばれ、京の朝廷に対する
新王朝という意識も有ったようなのだが、家光の時代には早くも「天皇の臣下」と
自己規定をし、松平定信は「政権委任論」を自明の理として受け入れており、
これが後々「大政奉還」の発想につながる。天皇制はしぶとい >>404
秀忠軍が関ヶ原に来れなかったのが
徳川家が天皇家にとって代われなかった最大の原因だろうな
とはいえ、中国とからなら史実での徳川家くらいの勢力でも
新王朝になっていたはず >秀忠軍が関ヶ原に来れなかったのが
徳川家が天皇家にとって代われなかった最大の原因
んなわけない ビザンツ帝国がアラブの大征服運動の時代を生きのびることができたのは、
陸上での敗退とは対照的に、ビザンツ海軍が健在だったことによる
ビザンツ海軍は、ドロモーン型大型戦艦と「ギリシアの火」を投入して、
二度にわたるアラブ海軍の首都への猛攻撃をしのぎ、8世紀半ばに
東地中海海域での制海権を奪回できた
一方の西地中海海域での制海権は、シラクサやタオルミナをはじめとする
シチリアの諸軍港を中心に揺らぐことはなかった >8世紀半ば
その時期はイスラム海賊にずいぶんやられたんじゃね? 当時の西地中海はイスラム教徒が制海権を握っていたよ 近年の発掘により、7-9世紀の西地中海ではビザンツ帝国の影響が意外に残っていたことがわかってきている
サルディーニャ島では9世紀までビザンツ軍がいてギリシア語も話されていた
8世紀半ばの碑文では、撃退したのはランゴバルドの侵攻であってイスラム海賊ではなかった
バレアレス諸島も8世紀はまだビザンツ領土だったことが発掘からも裏付けられている
698年にカルタゴが陥落して以降イスラム海賊が活動するようになったのはその通りだが
9世紀になるとノルマンの襲撃も活発化してくる(塩野はイスラム襲撃ばかり強調してノルマン襲撃をスルーしてるが
9世紀後半に入るとビザンツ艦隊の活動が西地中海で見られるようになる
7世紀は確実ビザンツが制海権を持っており、その後9世紀は後ウマイヤ朝とビザンツの艦隊対立の
間を縫ってイスラム海賊ノルマン海賊が跋扈し、9世紀後半再びビザンツが制海権を得た後
10世紀に最終的にファーティマ朝の制海権に移った
8世紀の西地中海でビザンツが制海権を維持していたかはまだ未解明のところがあり、
9世紀初頭に後ウマイヤ艦隊の興隆を許し、イスラムやノルマン海賊も跋扈していたので
弱体化していたのは確かだがこの時期はどの陣営も制海権を持つほどの勢力ではなかった 「ローマ帝国が東西に分裂して、西ローマ帝国が滅亡した」
というのは、後世から見た解釈であって、当時の人々がそう受け止めていた可能性は低い
3世紀だって、群雄割拠の軍人皇帝時代で「ガリア帝国」が事実上の独立国、
ディオクレティアヌス帝による再統一だしなあ イスラーム勢力が勃興した後も、ビザンツ帝国は地中海制海権の鍵ともいうべき
シチリア島、サルデーニャ島、南イタリアを保持し、アドリア海の支配権を
確保していた
9世紀になると地中海の大部分がムスリムの支配下に置かれ、ビザンツ帝国が
支配できた海は、エーゲ海・黒海周辺だけとなる
この交易圏は基本的に自給自足的な性格を持っていたが、ロシアの商人たちが、
北から毎年船団を組んでやってきて、毛皮・ワックス・奴隷を奢侈品や製品と
交換していた >「ローマ帝国が東西に分裂して、西ローマ帝国が滅亡した」
>というのは、後世から見た解釈であって、当時の人々がそう受け止めていた可能性は低い
そもそも西側の王も当時の認識じゃローマの軍司令官でしかないしな
古代ならローマに皇帝がいて東方に皇帝の代官がいたのが皇帝がコンスタンティノープルに移って西方に皇帝の代官がいるようになっただけの話だし ・ゲルマン人の侵入が激しかった
・東ローマみたいな専制君主制がしけなかった 東側のがゲルマン人の侵入は激しいやろ
というかゲルマン人の割合やゲルマン化の度合いも東側のが多いし ・ローマ理念と皇帝理念が常に対立していた
・東ローマみたいにゲルマン人と同化できなかった 結局大砲でも潰せなかった壁
そもそも西側と対立せず貿易でうまくいっていた(ジェノヴァなど)
西と比較して生活水準や知的水準の低下、喪失がなかった >>1
ゲルマン民族の大移動
イスラム勢力の侵入
など西ローマは問題続きだったから >>419
>西と比較して生活水準や知的水準の低下、喪失がなかった
無かったは言い過ぎ
東もユスティニアヌスの再統一瓦解後に大混乱時代になって
歴史記録もほとんど無い暗黒時代がしばらくあった
正確に言うなら
「西に比べると生活水準や知的水準の低下、喪失は小さかった」 そらキリスト教の嘘を覆い隠すために書いては燃やし書いては燃やししてたら疲弊するわ
しかも紙がなく羊皮紙の高級品を書いては燃やししまくってたんだろ
書くのも手作業で何ヶ月も時間かけて一冊作って
異端になったから燃やされました~ なぜ朝鮮王朝は江戸幕府より長持ちしたのか
と
そのこころは同じ 現代の歴史学において西ローマ帝国の「滅亡」なるものは確認されていない。
そもそも単一のローマ帝国などというものは初めから存在しなかった。エルヴェ・アングルベールが強調したように、その権威の下に多様な人々をまとめあげることで成り立っていたローマ帝国には地域ごとに複数のローマ帝国があった。
帝国が拡大するにつれ帝国は次第に「発散」していった。どの部分が真のローマ帝国であったのかといった議論は無意味である。 ダニエルの第4の獣が滅ぼされた時だろう
コンスタンティノープルをイスラムが滅ぼした ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています