なぜ東ローマは西より1000年長持ちしたのか [転載禁止]©2ch.net
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バイキングの北欧は北大西洋海流のおかげで緯度は高いが旭川より暖かい スラブ人に政治的統一性がなかったのが延命の理由かな >>103
西ローマを滅ぼした蛮族連中はもっとバラバラだったろ >>97
首都はコンスタンティノープルだけど
皇帝と将兵の多くがアナトリア出身
バルカンがスラブ化する以前は
皇帝と将兵の多くがバルカン出身 けどコンスタンティノープルはローマじゃないんだよね
ローマを支配してないやつらがローマ帝国といってもね そんなこと言い出すなら今コンスタンティノポリスを支配してるトルコは
トルコ人の本拠地だったトルキスタンを支配してないのにトルコと自称してますが 元老院の存在が、西ローマ防衛の足を引っ張ったという側面はないだろうか。 >>108
東では元老院は足を引っ張らなかったのか? >>107
けど実態はコンスタンティノープル帝国だからな
結局本物のローマにはかなわんな >>107
その中に丁霊や突厥の末裔はどんだけいるんだか・・ まあドイツとかイギリスとか始祖の領地失った国はいくらでもあるしね ローマが地中海を統一していなければギリシャ人やアルメニア人の武将が皇帝を自称しても
国号はマケドニアとか本当にビザンティン帝国、ギリシャ帝国、アルメニア帝国等と称し、
ローマ帝国とはしなかったはず カルタゴが勝っていたら東カルタゴ帝国や神聖カルタゴ帝国が
出来ていたかも知れないし、欧州はバアル教圏になっているかも知れない
その並行世界の欧州でも文字はアブジャドから発展したアルファベットが使用されるだろう ギリシャ文字もアブジャドであるフェニキア文字から発展したアルファベットなのですがそれは フェニキア人にはやはり寒い欧州は無理そうなので
北アフリカとスペインとイタリアの西地中海帝国になりそう
欧州では東のダキアと西のガリアが強国になりそうかな
おそらくカルタゴはキンブリ族に徹底抗戦しないだろうから
イタリアにキンブリ王国が建国する事になりそう
バルカンは引き続きマケドニアが支配していそうだよね
アナトリアとシリアがパルティア領になった時代もあるはず
ポントスがパルティアから独立して東ローマのような帝国に
なったかもしれないね コンスタンティノープル帝国で充分
その後欧米キリスト教文化圏の基礎を築いた世界の首都ローマ様の名前を勝手に名乗るな
ローマのすごさは帝国が崩壊してボロボロになっても今度はキリスト教によって西欧世界を築き上げるからな
その西欧圏が今度は世界制覇するからな
すげー強運
地中海世界なんて今じゃゴミだし、北に目をやったのは完全に正解だったな ロムルスの子らが住んだからローマはローマなのだ
ロムルスの子とは即ちローマ市民であり東ローマもまたローマなのだ コンスタンティノポリス : 第二のローマ
モスクワ : 第三のローマ >>1
コンスタンティヌス朝が滅亡してアルメニア人が皇帝になっても国号をローマにし続けたから
決して歴代皇帝がアルメニア帝国とか後マケドニア帝国とか新マケドニア帝国とかにしなかったから イリュリア人とトラキア人が滅亡してアルメニア人とかが皇帝になっても国号をローマにし続けたから
決して歴代皇帝がアルメニア帝国とか後マケドニア帝国とか新マケドニア帝国とかにしなかったから てことはつまりオドアケルが皇帝名乗ってれば西ローマも存続したわけか オドアケルもテオドリックも皇帝を名乗らなかったので
名目的にイタリアは東ローマ領という事だった
すなわち476年にローマ帝国は滅んでいなかった オドアケルは西ローマの帝冠を返上してるから再統一された形だね というかそもそも西ローマ皇帝らは東から派遣されていた
実はローマは完全に分裂などしていない
ガリアとかで反乱を起こした対立帝は鎮圧されてしまった
ガリアでの反乱が成功していたのならば名実ともにローマは
分裂したと言えるだろうね マグヌス・マクシムスやアルボガステスを倒した
テオドシウス1世が西ローマ没落の張本人
西ローマの分離独立は阻止されてしまった ラテン人支配層のいないローマ帝国=ハンバーグのないハンバーガー=カレーのないカレーライス ラテン人支配層のいないローマ帝国=マウリキウス以降の東ローマ帝国 ローマ時代にアラブ人が皇帝になってるからな
皇帝の出自より元老院の存在が重要なんじゃねーの
元老院が東ゴート時代にまで残ってたとか記憶にあるけど 帝政後期の将兵と皇帝はイリュリア出身が多かった
イリュリア人はローマ時代にラテン語を話していた
イタリアのアドリア海沿岸はイリュリア人の居住地で
アドリア海はイリュリア人の内海だった 東ゴート王国はイタリアだけでなくイリュリアとパンノニアも支配していた
ゴート族だけでなくイリュリア人らも東ゴート軍の兵士となっただろうから
東ローマ軍が東ゴート軍に苦戦したのは当然と言えば当然と言えよう テオドリックがカトリックに改宗してテオドリクス1世として皇帝戴冠すればよかった テオドリックが西ローマ皇帝と称するとテオドリックの治世中に
東ローマがイタリアに攻めて来たかもしれない そこで勝てば完璧にローマ皇帝になれるな
カトリックに改宗すればラテン系も離反率も減らせるし てかアッティラもカトリックに改宗してアッティラヌスとか名乗れば
それでローマ皇帝になる資格はあるよな
ローマ人(≒ヨーロッパ人)になるにはアタナシウス派に改宗すればOK 東ローマが生き残ったというより ローマが腐敗していたから コンスタンチノーブルに
遷都したんだろ ローマ帝国全体を立て直すのは無理だから東と西に分けた
西が先に滅びるのは当然の結果だ >>137
皇女ホノリアとくっついていれば、立派なローマ皇帝だなアッティラヌスw マウリキウスとかロマノス4世とか婿入り皇帝って東ローマに多いよね もともと東の方が豊かだったからな
帝政が進めばローマが首都である理由もない ユスティニアヌス帝亡き後は軍事的には負け続きで軍隊はまさに烏合の衆のようだったとか
政治が安定してれば軍隊が弱くても大国は繁栄し続けるようだ アッティラの軍事力を取り込もうとしたホノリアの先見性 西欧ではなかったことになっていた西ローマ
コンスタンティヌスが教皇に寄進してコンスタンティノポリスに移ってから、
いきなりフランクとか東西ゴートが誕生したことになっていたのだろうか? コンスタンチノーブル
約 9,060 件 (0.28 秒)
コンスタンチノープル
約 114,000 件 (0.25 秒)
サヒーフ・ムスリム(http://hadith.main.jp/)
コンスタンチノーブルの開城について
http://hadith.main.jp/vol3-739.html イタリア・ギリシャは権力闘争繰り返したが、殲滅の徹底感なし
他の欧州諸国より民衆が若干傍観者に見える 他国の方がユダヤ人狩りも積極的
同じ現在ラテン的民族(言語は別)でもフランス・スペインの方がより凄惨な歴史あり >>139
テオドシウス1世がマグヌス・マクシムスやアルボガステスを倒すと
ガリアの軍事力が痛手を被り西ローマは再起不能となった
もともと軍事的には西の方が優勢でコンスタンティヌス1世や
ユリアヌスは西ローマから東ローマを征服した
ウァレンティニアヌス1世の治世には兄が西の皇帝で弟のウァレンスが
東の皇帝で西ローマはまだ充分に強大であった 東の方が豊かで先進的だったというが、
その豊かで先進的だった場所ってエジプトとシリアのこと? 東の方で豊かで先進的だった場所はギリシャ語圏
エジプトとシリアとアナトリアとギリシャ
東の方でもバルカン北部のモエシアとダルダニアは
ラテン語圏で牧畜が盛んな騎兵の供給源
アエティウス将軍やユスティヌス1世の出身地 ギリシャには陶器やらオリーブ油やら高付加価値な産業があるから衰退しても強いのな >>92
でも、その朝鮮半島の政治的立場を争って戦争していたときに、三度が三度、西に移ってきてんじゃん
一回目、仲哀天皇・神功摂政皇后
熊襲の反乱鎮圧、三韓征伐に際して、筑紫香椎宮(現・福岡市東区)
二回目、斉明天皇
白村江合戦に際して、筑紫磐瀬宮(現・福岡市南区もしくは博多区)、筑紫朝倉宮(現・福岡県朝倉市)
三回目、明治天皇
日清戦争に際して、第五師団を大本営とし第七回帝国議会を広島市にて召集
白村江のときには、30キロばかり後退したけれど、水城を主戦場と仮定しての戦術だったし、 Wikipediaに載ってるフン帝国の最大版図の地図を見て吹いたw
ローマ帝国よりも広いじゃん。 ゲルマン王朝がローマ名乗らなかったからだろ
シャルルマーニュじゃ時代空き過ぎだし
やはりテオドリックがカトリックに改宗してローマ皇帝即位で安定政権築く
これだな >>155
ギリシャ人や中東人は古代・中世的なものを良しとし、近代的大量生産的なものには否定的な感じがする
イタリア人はゲルマン系ほどではないが、近代大量生産時代にも最後尾でついていった感
日本はゲルマン圏同様寒い地域なので野良猫は冬に悲痛な声を上げ、過酷な生存競争を生き抜く為に
顔つきも地中海沿岸の野良猫に比べて極めて険しく恐いやくざ的形相を持つ
ギリシャでは野良猫は極めて穏やかに過ごしており、トルコでもホテルに侵入しても従業員はニコニコ笑いながらつまみ出す
人間に慣れ切った猫はクタッとされるがままにつまみ出される 日本みたいに人間を見て逃げだす事はない
エジプトでは猫は神のように崇められた 近代とは寒い所に住むギャング猫がぬくい所に住む猫を経済的に制圧した時代鴨 コンスタンティノープルが真田丸付きの大阪城並みに堅固だった
以上 堀を無力化されてあえなく陥落というところも、似てる マヌケな落城対決
騙されて堀を埋めてしまって陥落した大坂城
門の鍵をかけ忘れて陥落したコンスタンティノポリス
さあどっち >>163
堀は大して重要じゃないのです。カルバリン砲の数が増えてどのみち落城したことでしょう。 ローマ帝国の東西分裂というより西側切り捨ての方が実態に近い気がする >>165
そう解釈するのはヨーロッパ人のプライドが許さない >>166
ローマ帝国からしたら、5世紀の東西分裂と西帝国の滅亡って、寂れて金ばかりかかる西側の直接支配は諦め、豊かな東側に集中したってことだと思うけどね。そうやって紆余曲折しながら1000年続いたと。 テオドシウス1世が西ローマの自立を阻止した
もしアルボガステスが勝利していたのならば
ローマは完全に東西分裂していただろう 東西ローマはユスティニアヌス朝でほぼ同時に滅亡したとも言えそう
クラウディウス・ゴティクスからユスティニアヌス朝にいたる多くの皇帝は
バルカン出身で彼らの出身地がスラブ人に滅ぼされてしまったので
ヘラクレイオス朝以降はギリシャが公用語になった
ユスティニアヌス朝に婿入りしたマウリキウスはヘラクレイオスと同じく
カパッドキア出身で既にバルカンの将兵は枯渇していたのだろう
バルカンを守る為の戦争で反乱を起こした将兵らにマウリキウスは
殺されたけど将兵らは自らの故郷ではないから反乱を起こしたのだろう
まだユスティニアヌス1世の頃ならば当時の将兵らは命じられれば
喜んでバルカンを死守したはず 東西ローマはユスティニアヌス朝でほぼ同時に滅亡したとも言えそう
クラウディウス・ゴティクスからユスティニアヌス朝にいたる多くの皇帝は
バルカン出身で彼らの出身地がスラブ人に滅ぼされてしまったので
ヘラクレイオス朝以降はギリシャ語が公用語になった
ユスティニアヌス朝に婿入りしたマウリキウスはヘラクレイオスと同じく
カッパドキア出身なので既にバルカンの将兵は枯渇していたのだろう
バルカンを守る為の戦争で反乱を起こした将兵らにマウリキウスは
殺されたけど将兵らは自らの故郷ではないから反乱を起こしたのだろう
まだユスティニアヌス1世の頃ならば当時の将兵らは命じられれば
喜んでバルカンを死守したはず なんで東ローマの公用語は南スラブ語にならなかったの?
12世紀から滅亡まではスラブ人だらけだったんじゃないの? プトレマイオス朝エジプトが支配者の言葉として準ギリシア語を公用語とした様なものだろ、
成り上がりを諦めた下々の者はまた別の言葉を話したろうが じゃあなんでラテン語でなくなったの?
支配者としやってきた。もしくは太祖アイネイアスの生誕地へ本拠地移転なのに。
と、本当にプトレマイオス王朝でギリシャ語が公用語だったの?
王はファラオとして君臨してメンフィスの神官の権威を借りて統治していたわけだら、内政的にはエジプト語が公用語だったんではないい?
支配層はマケドニア系ギリシャ系であることの意識を失わずにいて、東はインドに接するあたりから西は地中海一帯まで外交語として通用
していたから、王侯貴族や職業軍人の必修の教養語としてギリシャ語は理解されていたろうけれど、祭祀から行政・商業から域内の文書や
口頭の通達やらはエジプト語で行われていたんではないかね。 >>172
スラブ人が移住した土地は東ローマから独立していた
東ローマがバルカンのスラブ人を支配下にしたのは
ようやくバシレイオス2世の治世になってからだった >>165
東ローマは西ローマを身代わりにして生き延びたと言えるだろうね
そもそもゴート族がバルカンに移住した時には西ローマは無傷だった
バルカンのゴート族を西へ移住させたので西ローマは滅亡した
ゴート族がバルカンに居続ければやがてゴート族はブルガリアの
ような国になっただろうから東ローマはもっと早くにおそらく
イスラム以前にササン朝時代に滅亡したかもしれない ゴート族がバルカンに居続けたのならば
やがてゴート族はブルガリアのような国になっただろうから
東ローマはアナトリアとシリアとエジプトからなるオリエント
の国になったかもしれない
バルカンを失うと東ローマは軍事力がかなり弱体化したはずで
西の領土を奪回する事は不可能になったはず
東ローマがササン朝を征服するかササン朝が東ローマを征服して
オリエントが統一されたかもしれない 東ローマの歴史は長いが、ユスティニアヌスの征服活動以降ブルガリア帝国撃破くらいしか見せ場がないな。
数々の外敵に攻められまくってるのによく千年も続いたもんだよと感心するわ。 「東ローマ」と言うがオドアケルが西の帝位をゼノンに返上した時点で
もう東ローマではなく唯一のローマに戻ってる
その後「西ローマ」と称する国が出来たことはあるが
(カールの帝国やハプスブルク帝国)僭称でしかない。
ゼノン以後のコンスタンティノポリスの帝国にわざわざ「東」なんて付ける必要は無い >>181
後世から見て紛らわしいから呼び分けているだけですよ君。
東周や東晋と同じことです。 東にしろ神聖にしろローマを領有していない癖にローマ帝国を名乗られてもねぇ…w そもそもローマ帝国は東西に分裂していなかった
西の皇帝は多くが東の皇帝の臣下にすぎなかった
例外的なのは自ら即位したマクセンティウスとコンスタンティヌス1世らで
東に対して西が独立しておりコンスタンティヌス1世が東を滅ぼして再統一した
次にウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟皇帝では兄が西の皇帝なので
東の皇帝が西の皇帝の臣下だった
最後に西の将軍アルボガステスが東のテオドシウス1世に反抗したけど敗北したので
西は東から自立出来なかった
もしアルボガステスが勝利したのならばローマ帝国は本当に東西分裂したはず どっちにしろオドアケルがゼノンに帝位を返上してるから
ゼノン以後はもう分裂状態では無い アルボガステスはフランク族出身の将軍だったから
カール大帝はアルボガステスの後継者と言えなくはない なんでオドは西を返上したんだ?
持ってればよかったのに、、
なんか見返りは? (西)ローマ帝国を滅ぼすつもりは無かったからだよ
ヒャッハー俺が王だーっていう蛮族的行動じゃなかったから
ローマの治安を回復して東ローマに治めてもらいたかったのだろう この時代でビザンチンのカタクラフトは戦術的に傑出してる。
ササン朝の軽装騎兵、ゴートの重騎兵に弱点を突いて的確に対応できる。
リデルハートはペリサリウス絶賛。 ステータスとしての騎士ではなくて、兵科としての騎兵であったことがでかい。 東ローマの美少年はオスマン兵の餌食になったようだ
まさにケツマン帝国 あえて>>1に話を戻せば、
「フン族と同じルートでヨーロッパを直撃した東方遊牧民族が、ついにその後1000年現れなかった」
ことだろうね。ブルガールだのマジャールだの、ちまちま来ているのはいるが、
中部欧州以西を、大勢力で東から突いて西ヨーロッパを震え上がらせるのは
モンゴル帝国を待たなければならない。
これは逆説的な話で、今度は南から一瞬だけ突っ込んできたイスラム勢を除けば
西ヨーロッパは「誰も来ない」ものだから、
終わりなき無知蒙昧な中世封建制を、延々と続けることになり、
かえって世界の僻地になってしまった。
西ヨーロッパがもう少し、他民族に揉まれていたら、
十字軍のような、出鱈目な阿呆妄想による無意味な進軍ではなく、
きちんとした勢力拡大として
第二の共和政ローマになって東方拡大=西からの再統一が出来たかもしれない。 マジャールとノルマンの侵入で終わって安定、細分化された封土でチマチマ農地開拓
→ いつのまにかローマ時代より人口増えて、人口横ばいのオリエントを攻める余裕ができたでござる
→ オリエントから撤退&病気もらったけど、なんか色々と飛躍のきっかけが得られたでござる 東ローマ結構強くね?
ユスティニアヌスによる大征服
ササン朝とのガチバトル
イスラム海軍をギリシャ火で丸焼き
キエフ大公国の侵攻を重装騎兵と艦隊で撃退
ブルガリア帝国を滅ぼす 宋だって思われてる以上に強い のも東ローマと宋の共通点だなw >>197
宋が強いのは専守防衛という条件で
悲しいかな機動力が無いから攻勢に出る能力は無い 西欧 ゲルマン人の侵入で土人化
北欧 ノルマン人の根拠地で元から土人
中欧 アヴァールやマジャールなどの騎馬民族が割拠
南欧 サラセン海賊が略奪・人攫いしまくり
うーん、ビザンツ帝国以外は悲惨過ぎる… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています