なぜ東ローマは西より1000年長持ちしたのか [転載禁止]©2ch.net
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>>33
アルカディウスの方を西方正帝に、という進言が有力武将のアルボガストから
テオドシウス帝になされている(392年)。
仮にこれが実現したとして、西ローマ帝国の歴史が変わったかどうかは、
正直微妙なところだが・・・ 似たもの兄弟だろうに、何かアルカディウスの方に見所でもあったのか・・・? アルボガストとその軍勢が健在ならば
西ローマは弱体化しなかった テオドシウス1世がちょっと早く死んでいたら
アルボガストらは西ローマを支配し続けただろう ガリアのフランク族出身のアルボガストらが
健在ならば西ローマを死守しただろうから
西ローマ領に西ゴート族が移住する事が出来なくて
西ゴート族はバルカンに建国する事になったはず
おそらく東ローマは西ゴート族とササン朝に
挟み撃ちにされて西ローマよりも先に滅ぶはず
当時はバルカン出身者が軍の主力だから
バルカンを失うと東ローマ軍は無力化したはず >>230
単に長男が西帝になるのが伝統だっただけ 地中海世界の西半分はもともと後進地域だったんだから、
西ローマが崩壊して元の状態に戻っただけじゃね? >>216
確かに。
しかし、1000年も帝都を防衛することになるこの兵器を発明したカリニコスは、火事を起こして処刑されてしまうという気の毒な人。
カリニコスが火事を起こすこともなく長生きして兵器の開発を続けていたら、1453年5月29日はなく、「ヨーロッパの中世」はもっと長かったかも知れない。 西ローマはブリタニアをアングロ・サクソンに奪われる寸前だったけど
東ローマにゴート族やヴァンダル族を押し付けられなければ
他の領土はそのまま保持出来そうだった ゴート戦争でもそうだけど東ローマって西ローマに恨みでもあるのか
ローマ市破壊、人口激減、元老院消滅等やりたい放題
共和政期のローマ人が見たらブチキレて東ローマをカルタゴみたいに滅ぼしにいくぞ 西ローマ政府も西ゴート族をヴァンダル族にけしかけたりしなければ
ヴァンダル族はそのままスペインに定住しただろうから
北アフリカは奪われずに西ローマ領のままだったはず 塩野七生「ビザンツ帝国などユスティニアヌスの時代に一時的に盛り返した後は暗愚な皇帝ばかりでただ滅亡を待っていたにすぎない」 十字軍に裏切られコンスタンチノープル占領されていったん滅亡したから千年王国でない >>239
ローマ文明世界に2国の帝国が並び立つとでも?
遅かれ早かれ、どちらかが消えてなくなる運命だった。 イタリア半島がローマ帝国終焉の地ならまだ恰好がついたのだが
もしろん中世近代以降も存続できてればなおよし
神聖ローマみたいなパチモンはいらない >>244
>神聖ローマみたいなパチモンはいらない
これは同意。
しかし、西の帝国はラテン語に代わる言語がなかったことが、最後まで統一を妨げた一因になった。
実際東帝国のギリシャ語はラテン語に比較して平易で、バルカン半島のスラブ諸国もアレンジしながらも受け入れた。
ユスティニアノス帝以後は、帝国の公用語もギリシャ語に置き換わっていったことを考えると、市民レベルでは「ギリシャ語による文明圏の統一」は、かなり早い段階から進んでいたことは想像に難くない。
よって、
>イタリア半島がローマ帝国終焉の地
これはない。 >>241
ユスティニアヌス1世はニカの乱で退位寸前だったけど兵士達は彼を守った
ユスティニアヌス1世の失策を尻拭いしようと奮闘したマウリキウスの方は
兵士達の反乱で殺されてしまう
東ローマ人はやらなくてもいい事はやるけどやるべき事はやらないようだ >>238
そりゃヴァンダルやゴート族の考えにもなってみろよ。
コンスタンティノープルは別格だとしても、永年東方との最前線になり、ティサロニカ、ハドリアノープル、アンティオキアなど軍都だらけの東と違って、西は無防備都市だらけだぜ。 ユスティニアヌスは有能な感じはしないな
無謀な拡大路線はいきなりステーキの社長と同じ ローマ破壊してそのままはアウト
ローマ名乗る資格無し >>211
遅レスだが、
>一方ロシア人は東ローマがなければイスラム教を選択しただろうから
これはない。
イスラム教は戒律で酒が飲めないので、ロシアがイスラム教徒になることは死んでもない。
ちなみに、当時のロシア人にカトリックとギリシア正教の教義上の区別はついていなく、
ビザンツ帝国の聖堂や教会を見学して「何となくキラキラしててカコイイ!」で決めたらしい。 おもった以上に東ゴートが抵抗して泥沼になったのがよくなかった
シチリアだけで満足しておくべきだったな 中国の王朝交代では必ず国号を変える
ローマが地中海世界を統一した後は
首都をコンスタンティノープルに移した後も
何度王朝が交代して、どの民族が皇帝になっても国号はローマ
さすがにオスマン帝国はイスラム教なので
これでローマ帝国は滅亡したと見做される訳だ
その前にも何度も滅亡してる感じはあるけど ビザンティン帝国と呼ばれた東ローマ帝国が
自称もビザンティン帝国にしても良かった気がする
ローマの権威と文化はある長い時期の間、
コンスタンティノープルに遥かに劣っていた
精神的にも文化的にもローマとは異質なものに
なりながら、国号をローマにこだわっていた
理由は何だろう
豊かな近東を支配した者にとってローマや
イタリアって必ずしも要らないと思うんだよ
蛮族に蹂躙されて片田舎になったローマ、南欧
よりは中近東の都市の方が遥かに価値がある
中世まではヨーロッパは西アジアのおまけ イタリアって人口密度昔からかなり高いけどね
ギリシャはともかくバルカンやアナトリアはでかさの割にあんま人住んでないからな オドアケルや東ゴート時代はローマ行政が継続しててイタリア社会は崩壊してない
崩壊したのは東ゴート戦争とその後のランゴバルトの侵入のせいだからな
東ローマはバルカンと中近東でも戦ってたからイタリアの内陸まで維持する余裕はなかったし全土征服にも20年かかってる
海軍力は最強だったから、北アフリカの沿岸地域とシチリアとイタリア沿岸地域のいくつかはあっというまに占領して長期維持できたけど
最初からそこらで満足しとくべきだったね
キリスト教世界を弱めただけの結果になった >>252
東ローマの場合、国号ってなかったんじゃないかという気がする
史料を見るとどれも「ローマ人の皇帝」「ローマ人の土地」とか「ロマニア(=地域の名称で国号ではない)」
となってて、SPQRの方がよっぽど国号に近い感じがする
俺が知らないだけかも知れないが史料に国号に相当する使い方を見たことがない
建前上では中世初期のローマ帝国は国境を持たない「全世界を統べる皇帝の国」だったから、
明確に東アジアの国号に相当するものはなかったんでは?と思ったりしてる 蛮族がローマを荒らしても蛮族だからで片付くし諦めもつくが
まがりなりにもローマの正統名乗ってる東ローマがローマ市や元老院破壊しちゃいかんでしょ ラテン語も捨ててるしな
ローマ人の皮を被ったギリシア人による帝国
ローマに愛着が無いのも当然 >>258
だーかーらー!
難解で汎用性に乏しいラテン語を捨て、市民レベルでギリシャ語での文明圏を維持したんだって。
「ローマ」に拘ったのは、むしろマイナスだったが、それも含めての帝国。 ローマ捨てるのなら尚更ローマ名乗るなやという話
矛盾してるのよ、神聖ローマより多少マシという程度
古代ローマ人が見たら間違いなく呆れる 西側を破壊放棄したら西側の後継国に見捨てられる因果 ラテン語を捨て、共和政治の精神も捨て、ローマにも属さず、単にローマを自称したギリシア人の帝国 きっと4世紀のフランク族(その範囲は現在のベルギーとオランダ)の王も、
9世紀以降のフランスに対して「フランス(フランクが変化した語形)」を名乗るなよ、
と墓場の陰から思っているに違いない ゴート人も王国化してからはゴート語を使える奴は稀だったしな
ラテン語一強 >>263
> きっと4世紀のフランク族(その範囲は現在のベルギーとオランダ)の王も、
> 9世紀以降のフランスに対して「フランス(フランクが変化した語形)」を名乗るなよ、
> と墓場の陰から思っているに違いない
そもそも4世紀だとフランク人にフランク人なる自己認識がないから気にしとらんだろ
フランク人の王と呼ばれたのもテウドメールとかマロウバウデスとかのローマ宮廷出身者で、北方のフランク人もローマのフランク王とはほとんど無関係な雑多な混合集団 >>262
無茶振りもいいところだな、オイ。
では「共和政」を表わすのに、この時代ラテン語とギリシャ語以外で何語があった?
言っておくけど、ロマンス諸語はまだ成立してないよ。
中世期、教会の坊主でさえ習得に四苦八苦するようなラテン語で政治行政軍事を執るなんてことは、
さしづめ平将門の時代の言語で現代の自衛隊を指揮するようなもんだ。 東ローマが西側破壊しまくったのが原因だったりしてな
ラテン語問題
やはりギリシア人の帝国…! >>268
>東ローマが西側破壊しまくったのが原因だったりしてな
別に破壊してないだろ。
帝都は別格にしても、ティサロニカ、アンティオキア、ハドリアノポリス、と軍都だらけの東に比べて、西は無防備都市だらけ。
おまいが蛮族ならどっちに行くよ? >>269
だーかーらー!
例えば「法律」「政治」「軍事」「建築」「物理法則」「化学」「哲学」「数学」なんてものの諸概念を理解するのに、難解すぎるラテン語に代わる受け皿として、この時代ギリシャ語以外に何語があったよ?
何より新約聖書の原典はほとんどギリシャ語なんだよ。
ローマ時代に完成したワンセットの「文明」は、むしろギリシャ人以外に引き継ぎ手がいなかった、と考えるべきだ。
ここまで言わないと理解できんのか?
>>271
氏んで。 ひさびさにビザンツスレが活発だと思ってきてみたら、、、、
最近ビザンツ歴史本が出版された話題かと思ってたら違ったのか、、、、
もう少し穏やかな言葉遣いを心がけて欲しいよ、、、、 >>273
すまんのぅ。
やたらと突っかかられるもんでな・・・。 >>274
いや、お前が一方的に突っかかってる
272でなかったらスマン とりあえず「ラテン語は難解だからラテン語を捨ててギリシャ語でいい。だからラテン語を捨てたとは言わせない」は超解釈すぎて論外だわ 1. ラテン語を捨てた
2. 共和政治の精神を捨てた
3. ローマに属さなかった
4. ローマを破壊した
嘘だっていいたいのはどこ? >>267
> さしづめ平将門の時代の言語で現代の自衛隊を指揮するようなもんだ。
自衛隊は平将門とは自称していない なぜイタリアを維持できなかったかというと
西ローマにいたローマ軍団がオドアケル以降消失していたので
東ローマの軍団を派遣してイタリアを守らないといけないが
バルカンやペルシャの守りもあるんでイタリアに割く余裕がなくなったってところなのかね
ちなみに海軍はあるんで海岸沿いは維持できたと、まぁラベンナは沼地にあったから簡単に攻略できなかったってのもある >>280
もちろんそういう要因もある。
しかし、古代ローマが軍を各処に派遣するために整備した街道を、今度は蛮族が逆に爆進してきたのが命取りになったな。
現代でも普通に歩ける街道らしい。 なぜイタリアを維持できなかったかというと
東ローマ軍の主力が消滅したから
ユスティニアヌス1世やベリサリウスの世代が
年老いて死ぬとバルカン出身の将兵が消滅した
スラブ人の侵略から次世代の兵士になる世代を
守らなかったのでバルカン軍団が消滅した >>277
>1. ラテン語を捨てた
共和政ローマの時代からの二言語併存状態から7世紀の公用語ギリシャ語へ
ギリシャ語はそもそもこの地域の土着言語。
これを「ラテン語を捨てた」というなら捨てたんだろう。
>2. 共和政治の精神を捨てた
そもそも395年の時点で、共和政ではないんだが?
>3. ローマに属さなかった
ローマそのものを名乗っていたので、属していませんが何か?
>4. ローマを破壊した
東帝「ゴルァ蛮族ども!西に行くなら通してやる。東帝国に侵入するなら我が軍の槍のサビにしてくれる!!」
重装騎兵「呼んだ?( ̄ー ̄)ニヤリ」
蛮族「サーセン、通して下さいm(_ _)m」
⇒蛮族、ローマを破壊
これをビザンツがローマを破壊した、って言うのか?
結論
ビザンツが嫌いならこのスレに来るな 日本の支配階級も朝鮮語を捨てて日本語を話しているからね ビザンツが嫌いならこのスレに来るな
なんでこいつこんなに偉そうなの?
ビザンツ人の怨霊? >>282
バルカン軍団は消滅したかも知れないが、7世紀にテマ制が敷かれ、さらにギリシャ火の発明もあった。
軍事的に弱くなったとは思わないけど、帝都防衛戦などもあり、積極的に攻めるよりも国防のための軍になったみたいな感じ。 テマ制は防衛には適していたけど
遠征には不向きだった
スラブ人に奪われたバルカンを奪回する為に
バルカンに遠征するとテマ制は崩壊した > ローマそのものを名乗っていたので、属していませんが何か?
そうだね
だからローマにも属さずローマを自称したって指摘されてんだよね >>287
>戦犯はベリサリウスなのかユスティニアヌスなのか
ナルセスもいるぞ
>>285-286
>ビザンツが西側に何故見捨てられたのかがわかるな
思わず納得してしまったw >>290
前半はほぼ同意。
後半はどうかな?
バシレイオス2世時代にブルガリアを滅ぼしてバルカン半島は完全奪還されたが、まだテマ制は存続していたと思うが。 ナルセスはベリサリウスに比べると知名度がイマイチ低いな
漢の武帝時代の衛青と霍去病みたいだ ナルセスはアルメニア人なんだっけ
バルカン出身者からオリエント出身者にバトンタッチ >>295
「衰亡史」のギボンの記述が大きいな。
ヴェルサリオス「取るものもとりあえず、出陣!」
ナルセス「兵士の給料ちゃんと払ってね。遅配分もよろしくね。あと装備品はちゃんと買ってね。工兵隊もつけてよ。補給もよろしく」
近現代の経営陣が、どちらを褒め称えるかは自明の理。
どっちみち2人とも最後はくびになるんだがw
あ、ちなみにこれを書いたギボンもカトリックに改宗してオックスフォードをくびになるんじゃなかったっけ? 兵は弱くてもローマより攻め落とすのが
難しかった感じ 周りは占領されても
首都だけは防衛できた凄い都だな もし東ローマが首都の難攻不落さより貿易を
重視して首都をダマスカスやエルサレム、
アレキサンドリアにしていたらもっと早く滅亡していたな >>299
ダマスカスやエルサレムって貿易に有利なの? なお寄せ集めの十字軍程度に難攻不落なはずの首都を落とされた模様 ローマ奪還したときに死守して要塞化しとけばよかったのに
そうすりゃイスラムやオスマン来たとき西へ逃げることもできた >>298
コンスタンティノープルの防御力が優れ過ぎたので
国土防衛の意欲が低下してしまった
帝都さえあれば大丈夫という傾向が滅亡の原因 ローマ帝政期のイタリア中部とローマ市の人種構成の遺伝的解明だそうだ
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_21.html
帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります。
帝政期の48人に関しては多様な系統が明らかになり、おもに異なる5クラスタに分類されます。
鉄器時代の11人のうち8人が分類されるヨーロッパクラスタには、帝政期の48人のうち2人しか
分類されません。一方、約2/3となる31人は、地中海東部および中部クラスタに分類されます。
約1/4となる13人は、帝政期よりも前には存在しない近東クラスタに分類されます。
主成分分析では、このクラスタ内の一部はレバノンの同時代(紀元後240〜630年)の4人と重なります。
さらに48人のうち2人は、アフリカ北部クラスタに分類され、アフリカ北部系統を30〜50%有するとモデル化できます。
平均的な系統の移行と遺伝的構成における複雑さの増大は、ローマ帝国の地中海全体への領域拡大に
続いています。これにより、ローマは地中海全体とつながりましたが、本論文のデータは、
帝国内でも他地域より地中海東部からの遺伝的影響がかなり大きい、と示します。これは、
考古学的記録とも一致します。ローマの碑文の言語は、ラテン語に次いでギリシア語が多く、アラム語や
ヘブライ語といったローマ帝国東部の言語も使われました。また、碑文に見える出生地も、移民が一般的に
帝国東部出身と示しています。帝国東部となるギリシアやフリギアやシリアやエジプトの宗教施設もローマでは
一般的でしたし、ヨーロッパ最古となる既知のシナゴーグはローマの港町であるオスティア(Ostia)
にあります。
一方、ローマと帝国西部との関係についての証拠も豊富に報告されています。
たとえば、帝国拡大に続いて、新たな征服地からローマへと奴隷が連れて来られました。
ローマはガリアとイベリア半島からワインやオリーブオイル、アフリカ北部西方から
穀物や塩など大量の物資を輸入しました。しかし、地中海西部集団と強い遺伝的類似
性を有する帝政期の個体は48人のうち2人だけで、帝国西部からの移民は比較的限定
的だった、と示唆されます。 これ読むとローマ市とイタリア中部は地中海東方人種化していたようだ
帝政期に入りイタリア中部とローマ市は東方人種にのっとられ、東方人種の宗教である
キリスト教化し、更に専制的なキリスト教帝国化したのが必然であるように見える
ラテン的伝統というのは帝政期に入り急速に失われ、2世紀には皇帝がギリシア語で著作したり
してるから、帝国は東方に乗っ取られたという感じになってたんじゃなかろうか
東西ローマが分裂してイタリアのギリシア的要素をビザンツに引き取ってもらった
というのが正しい歴史の見方ではないかという気がする
ラテン的ローマは3世紀くらいで滅んでドミナトゥス時代から専制君主政となってビザンツに続くという
1古いローマ帝国史観が案外正しいんじゃないか と思った 帝国西部はブリタニア、ガリア、イスパニアの
3つでガリア管区としてまとまっていた
イタリアはバルカンとともにドナウ管区に属していた
本来イタリアは防衛をガリアではなくバルカンに依存していた
ローマ帝国は東西分割によりイタリアとガリアをともに
西ローマにしたので防衛し難くくなり滅亡していった >>306
> ラテン的伝統というのは帝政期に入り急速に失われ、2世紀には皇帝がギリシア語で著作したり
> してるから、帝国は東方に乗っ取られたという感じになってたんじゃなかろうか
依然としてラテン語が主流なままなのにギリシア語も使われてたから東方に乗っ取られてたとか極端すぎるわ いくらなんでもラテン的ローマが3世紀に滅んだってのは早すぎるだろう
本家ローマじゃドミナトゥス化も専制君主化も進まんかったしギリシア語とのバイリンガルも帝政末期には減ってたし
少なくとも西ローマが健在なうちはローマ帝国は健在だよ 376年、気候変動激化や、侵攻のフン族などに居住地を追われた、
ゴート族(西ゴート族)は、
西ローマ帝国のヴァレンス帝に、
ドナウ川南岸の、ローマ領トラキア地方への移住を陳情した。
西ローマ帝国ヴァレンス帝は、せいぜい、数万人程度の移住と思い、
その準備をしてローマ領への移住を許可した。
(キリスト教改宗者を大量獲得したかったともいうし、
ローマ人の贅沢化、労働奴隷減少に悩んでいて、
下級兵士と奴隷労働者確保を図ったという)。
武器の不携帯、ローマ軍での下級兵役、農耕の従事が、交換条件であった。
ところが、他の蛮族やオストロゴート族(東ゴート族)も、
これに便乗したため、
結局、30万人を超える難民がドナウ南岸の、
ローマ領に居ついてしまったのである。
ローマ帝国側の、農業生産物の収穫で自給できる迄の,
土地分配、食糧配給の計画も、30万人では全く足りず、
移住民は不満をあらわに、どういうわけか持ち込んだ、
多くの武器を取って武装蜂起、大規模な暴動、大規模な略奪を始めた。
結局、ヴァレンス帝は、ローマ帝国親衛軍 治安出動で、
このゴート族武装勢力を鎮圧しようとして、失敗。
ハドリアノポリスの戦いで、大敗。戦死することになった。
ゴート族は、ローマ帝国を東西に分断する形で、
王国を建国。ローマ帝国、特に西側の衰退を決定付けた。 >>308
その前の記事を読んでくれよ
>帝政期48人は遺伝的に、ギリシア・マルタ・キプロス・シリアなど現代の地中海および近東集団とほぼ重なります
て遺伝子解析の結果 そもそも古代イタリアでラテン人は少数派だった
エトルリア人やギリシャ人の方が広い範囲に分布していた >>314
その記事はイタリア中部とローマ市の人種構成の遺伝子解析だからね
ファリスク・ラテン語地帯が遺伝子的に東地中海化してたという話 >>312
このあと無理に東方を奪還しなけりゃローマ帝国も長持ちしたのかもね ディオクレティアヌス帝以来
東方がローマ帝国本土と看做されていた
例外的にウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟帝で
兄のウァレンティニアヌス1世が西ローマ皇帝となる事を
選んだので一時的に西方が優位になった
ウァレンティニアヌス1世の死後は弟ウァレンスが
西の帝位を継いだウァレンティニアヌス1世の息子達に
対して優位となり再び西方が優位となる事はなかった ディオクレティアヌス期ですらローマ帝国本土はイタリアなんですが……
コンスタンティヌス朝ですらローマ帝国本土はイタリアなんですが……
ウァレンティニアヌス1世の死後のウァレンスに対してもテオドシウスに対しても西のグラティアヌスが上位帝なんですが…… 帝国本土がイタリアでなくなるのユスティニアヌス1世になってからだから、法制度上は東ゴート時代ですらイタリアが本土なんよね イタリア半島捨て東に逃げちょったのに本土がイタリアとか矛盾しとるんじゃありゃせんか
死守しなさいや 首都が東に移った時にエリートもみんな移ったのか?
ローマに住んでいた一般市民はどうだったんだろう。 コンスタンティノープルに遷都される以前に
アウレリアヌス帝がローマ市に城壁を築いたので
城壁外の住民はしだいに去っていき
ローマ市の人口は減少していった そもそもコンスタンティノープルに遷都されたなんて事実がない >帝国本土がイタリアでなくなるのユスティニアヌス1世になってから
そうなの? 5世紀初頭の官職表では東方の方が西方より先に出てくるので
序列的にはオリエンス道長官>イタリア道長官という感じがするが >>322
城壁内でも100万人くらいいたんじゃない? 一体なんで皇帝はミラノとかラヴェンナにいたんだろう?
道長官やマギステル・ミリトゥムがミラノやラベンナにいるのはわかるんだよ
まかせりゃいいじゃん
遷都されてもいないのにローマ見捨てられた感しかない >>327
> 一体なんで皇帝はミラノとかラヴェンナにいたんだろう?
首都ローマを守るために前線で戦うのが皇帝の役割だから 前線で戦うのが皇帝の役目なのに湿地に囲まれた安全地帯に引きこもるって矛盾してるような
軍事のためならイタリア道長官とか文官はローマにいてもいいのに >>330
> 前線で戦うのが皇帝の役目なのに湿地に囲まれた安全地帯に引きこもるって矛盾してるような
当時は既にラベンナも前線だった
ラベンナが防衛拠点に選ばれたのも天然の要衝だったから
> 軍事のためならイタリア道長官とか文官はローマにいてもいいのに
実際に文官はローマに大勢いた >首都ローマを守るために前線で戦うのが皇帝の役割だから
皇帝がトリーアやアンティオキアにいた時代は役割も果たしてたけどなぁ
西はアンテミウス、東はテオドシウス1世が最後の親征か? ホノリウスがラヴェンナに逃亡したのが18歳
グラティアヌスがライン川を渡河してアラマンニ王を討ち取ったのが19歳
なんでこんな違うのか... >>331
道長官や管区代官のオフィキウムがローマにあったってこと?
この頃のローマの文官って南イタリア管区の行政官だけじゃない? >>318
ウィキペに
カラカラ帝がアントニヌス勅令によって全属州民を本国民としたことで、帝国本土としての立場がほとんど失われてしまった
(イタリア本土 (古代ローマ))
と書いてある ウィキペの同じページ(イタリア本土 (古代ローマ))の同じ節(帝政中期)に
テトラルキア制の中で、イタリア本土はイタリア・北アフリカといった南西部を担当する西方皇帝の地方領へ編入されたが、西方皇帝支配下のイタリア本土は「特別区」と「供給区」へと更に分けられていた。
これはイタリアの本土としての地位を維持するため、地方領の中心都市メディオラヌムの支配を受ける地域(供給区)とは別に、それまで通り帝都ローマを中心とする地域(特別区)を設けたものである。
とも書いてある そのイタリア特別区の長官は五世紀の官職表では24位でたいして地位は高くないんだよな >>336
ちなみに英語版を見ると「イタリアの本土としての地位を維持するため」なんてことは書いてなくて、
供給区の方はミラノ政府や軍団への穀物供給のため、特別区の方はローマ市の政府治下の諸州とかいてある イタリア>特別区>ローマなのに順位おかしくね
コンスタンチノープル市長官は何位?
コンスタンチノープルにも特別区ってあったの? 特別区という訳がおかしい
suburbicariaは首都近郊に属する地域という意味。「近郊」に属しているわけであってローマ市に属しているわけではない
近郊区長官の名前がVicarius urbis Romaeとなっていて紛らわしいが
序列だけでいえば近郊区長官は属州アフリカ総督よりも下だから寧ろ特別なのはアフリカ属州の方
ローマ市長官は、ローマ市周辺150km以内が管轄範囲で、それ以外の中南部イタリアが首都近郊区の管轄
序列は西1イタリア道長官2ガリア道長官3ローマ市長官
東は1オリエンス道長官2イリリクム道長官3コンスタンティノープル市長官
イタリア道長官の管轄範囲はアフリカやパンノニア、イリリクムを含むからイタリア道長官の序列が
イタリア本国の地位を意味するわけではない >>334
ローマにいた文官は、共和政時代からあるローマ市の公職者と近郊管区のオフィキウム
後者はローマにあったが、管轄はローマ市以外の南イタリア
イタリア道長官のオフィキウムはミラノ、ガリア道長官のオフィキウムはトーリアにあり、
ローマには帝国政府のオフィキウムと呼べるものは近郊区のものしかなかった ローマ帝国の本質と言うか本体って言うのはいったいどこなんだ?
かつてローマの七つの丘に男たちが集まり、略奪したサビニ人の娘との間で作った子供の血統的子孫がローマの中核なのか?
それともローマ世界に生まれローマ的な考え方に馴染んだあらゆる民族の出身者で、
政治的、経済的に有力になったものがローマの中核なのか?
かつてのローマの心臓部であるイタリアは、ローマを守る兵隊を供給できなくなっていたので
ローマの中核とは言えなくなってるような気もするが。 >>345
それが人によって違うから意見が割れるんじゃない?
弓削達とか南川先生はローマ市民共同体とかいいそう
塩婆は父祖の遺風といいそう
吉村先生はインペリウムといいそう
本村先生はラテン語といいそう
ホノリウスとかスティリコとかシュンマクスとかアンブロシウスとかアウグスティヌスとか
アエティウスとかボエティウスとかみんな違うこといいそう
>>344
サンクス >>346
となるとローマはとっくの昔に滅んでいて、残った東ローマはゾンビでしかないって話もありうるわけね。 >>347
>とっくの昔に滅んでいて、
スティリコよりもとっくの昔ということは、元首政までで滅んだということ?
元首政までをローマ帝国の本質ととらえれば東ローマに限らず西ローマも含めて専制君主政以降はゾンビということになるかもね ササン朝のシャープール1世にウァレリアヌス帝が敗北した事により古代ローマは滅び始めた
ウァレリアヌス帝の息子ガッリエヌス帝はササン朝のように騎兵をローマ軍の主力にした
当時はまだ鐙が普及してなかったので騎兵の多くをバルカンの牧畜民が占めていた
ガッリエヌス帝はバルカン出身の将軍らに帝位を奪われバルカン出身者が帝位を独占するようになった
ガリアのフランク族は歩兵を主に担当していて騎兵を担当するバルカン出身者よりも劣勢だった
ウァレンティニアヌス1世とウァレンスの兄弟帝もバルカンのパンノニア出身 ローマはパルティア軍に協力してササン朝をたたくべきだった
パルティアもローマも読みが甘かった
パルティア=ローマ同盟とか考えた人いたと思うんだけど史料に残ってないのかな パルティア軍の生き残りがパルミラ軍
パルミラは元パルティア兵を傭兵にしてササン朝軍を撃退した
アウレリアヌス帝がこのパルミラ軍を滅ぼしてしまったので
自分達がササン朝と戦わなければならなくなり
自分達のバルカンを充分に守れなくなった アウレリアヌス帝が暗殺されなきゃササン朝を危険視して叩いてたと思う 歩兵が主力か騎兵が主力かで社会は変わるだろうな。
騎兵は馬や馬具を自弁し、小さいときから訓練できる階級からしか供給できない。
その階級の発言力が大きくなるからな。 まだ鐙が普及していないので乗馬が難しい時代だった
鐙が普及するとフランク族とか西欧人も騎士が多くなった
東方でも鐙が普及するとアラブ人が自ら騎兵になりやすくなり
イラン人の優位が崩れペルシャ帝国を倒す事が出来た
東ローマでもスラブ人に滅ぼされたバルカン牧畜民に代わって
アナトリア農民が騎兵になって東ローマは生き延びる事が出来た 鐙がもっと早くに普及していたら
イタリア人もカタフラクトを出来ただろうから
ローマの中心はイタリアのままだったかも
鐙が普及しなかったらバルカンがスラブ化した時点で
東ローマはササン朝に滅ぼされてしまっただろう
イスラム帝国も存在しなくてペルシャ人の天下 もし鐙がなかったら
東ローマはカルタゴに遷都して生き延びたかな
ヘラクレイオス帝は実際にやろうとしたよね
以後は東ローマ帝国とは呼ばれないよね そうなったら、西晋でも東晋でもない
せいぜい蜀漢扱いになったろうね >>350
パルティアは、前後のペルシャ帝国と比べて文化が衰退した暗黒時代
記録があまり残っていない マルクス・アウレリウス帝時代のパルティア遠征で
カッシウス将軍がセレウキアを殲滅したので
パルティア領内から親ローマ派が消滅した
もしパルティア末期にセレウキアが健在ならば
メソポタミアはローマ領になったかもしれない
クテシフォンはササン朝の都にならなくて
ササン朝はイラン人だけの国になったかもしれない >>357
カルタゴからイタリアを征服して
ローマに首都が戻ったかもしれない というかカッシウス将軍がセレウキアで大虐殺をしなければ
マルクス・アウレリウス帝時代にメソポタミアを征服出来たな
パルティアをイラン高原に押し込める事が出来たはず >>241
ヘラクレイオスとかバシレイオス二世とかしらないのかね セルジューク朝ではトルコ遊牧民が放牧地を求めて
イラン農民の農地を奪い放牧地にしようとしていたので
セルジューク朝のイラン人宰相ニザーム・アル・ムルクは
多くのトルコ遊牧民をアナトリアへ移住させ厄介払いした
トルコ遊牧民はアナトリア農民の農地を奪い放牧地にした
一方アルプ・アルスラーンは本国の兵が減ってしまうので
アナトリアにトルコ遊牧民が移住する事には反対だった
アルプ・アルスラーンはエジプトとアナトリアへの遠征中に
本国中央アジアで反乱が起きたので本国支配に専念する事に
方針転換したけど急死してしまった
これに対してトルコ遊牧民らは放牧地だけでなくスルタンの
専制支配から逃れたいのでアナトリア移住を歓迎した
ニザーム・アル・ムルクがアナトリアにトルコ人を移住させなければ
アナトリアではなくイランが完全にトルコ化したかもしれない
ニザーム・アル・ムルクはイランをトルコ人から救った バシレイオス二世もアルプ・アルスラーンも
理想主義者で当時の支配層の中で孤立していた
彼らが死んだ途端に彼らがやろうとした政策は撤回された ローマ帝国名乗ってるのに地中海世界統一できてない時点でダメ
イタリアも放棄してるし >>1 ビザンツが1000年もった理由?粘り強いからだよ
地中海統一してないからダメだのイタリア放棄してるからダメだの、
そんなこといってるからイタリアは没落したんだよ
過去の栄光にすがって文句ばっかりいってるよかはるかにマシ ビザンツは粘り強く無駄な抵抗したので滅亡した
イタリアは無駄な抵抗をしなかったので生き延びた
ビザンツ=オリエントはササン朝に降伏すべきだった
ササン朝の支配下でもオリエントは繁栄しただろう
バルカン軍人はやはりバルカンを守るべきだった
バルカンではなくオリエント防衛を優先したので
バルカン軍人は死に絶えた >>365
アナトリアではなくイランがトルコ化したのならば
中央アジアは繁栄し続けたかもしれない
モンゴル時代にイラン人商人がモンゴル側の協力者となり
ホラズム・シャー朝は敗北し中央アジアは壊滅してしまった
イラン人とトルコ人の民族対立で中央アジアは没落した 東ローマ帝国ドゥーカス朝
アルメニア人とギリシャ人の民族対立
アルメニア正教徒のアルメニア人とギリシャ正教徒のアルメニア人の宗教対立
ロマノス4世はギリシャ正教徒のアルメニア人
ロマノス4世はドゥーカス家の婿入り皇帝
ドゥーカス家にとって邪魔な余所者
ドゥーカス家はギリシャ人
ホラズム・シャー朝
トルコ人とイラン人の民族対立
カンクリ族とトルクメン族の部族対立
ジャラールッディーンは奴隷の産んだ子なので
テルケン・ハトンはスルタンにしたくなかった ドゥーカス朝もホラズム・シャー朝も
女が最高権力者だった
エウドキア・マクレンボリティサの夫になったので
ロマノス4世は皇帝になれた
母テルケン・ハトンにシャー・ムハンマドは
頭が上がらなかった >>1
西側に都合悪いの全て押し付けたから
結果、西欧諸国に嫌われ見捨てられた テオドシウス家はスペイン出身だけど西側に配慮しなかったので
スペインに残っていたテオドシウス一族はスペインから追放された
マケドニア朝がバルカンに移住したアルメニア人だったように
おそらくテオドシウス家はスペインで移住したバルカン軍人だったのかも ビザンツがイタリアを見捨てた恨み節が目立つが、
イスラム全盛期にシチリアと南イタリアはビザンツが防衛したから
最終的にはシチリアは失ったとはいえ南イタリアはイスラムに征服されずに済んだ 北アフリカもシリアも
元ローマだろ
なんで没落してんの? >>375
イタリアを見捨てたのはバルカン軍人
バルカンからゴート族を追い出さないと自分達が滅ぶ
シチリアと南イタリアを防衛したのはギリシャ人
シチリアと南イタリアはもともとギリシャ圏だった >>377
マグナ・グラエキアはローマ征服後にラテン化してる
https://i.imgur.com/deToyko.png
現在シチリアや南イタリアに残るギリシア語やギリシア典礼や建築などは
中世ビザンツ時代やノルマン王朝時代に移民や再導入によるもの シチリア東部はまだギリシャ語圏だったようだね
580年頃だとバルカン北部がスラブ化し始めていた
鐙がない時代にはバルカン北部とアルメニアの住民が
カタフラクトを担当していた
鐙が普及するとギリシャ人もカタフラクトが
出来るようになった
ちょうどこの頃にアヴァール族の真似をして
鐙を使うようになり始めた アナトリア東部にはイサウリア人やケルト系のガラチア人がいたけど
カラチア人は先住民じゃなくてヘレニズム時代にビチニア王国が
セレウコス朝との緩衝国にする為にバルカンから招き入れた
マンジケルトの戦い後に生き残ったノルマン人傭兵がガラチアで
自立しようとしたけどドゥーカス朝は自ら鎮圧する事に失敗して
セルジューク朝に鎮圧を依頼したのでアナトリア全土を失った
ドゥーカス朝はノルマン人傭兵を緩衝国にする知恵がなかった ロマノス4世はアルメニアをイスラム教徒の支配から解放し
アルメニア正教徒のアルメニア人をギリシャ正教に改宗させるだけでなく
セルジューク朝の本国イランにまで遠征しようとした
ロマノス4世は第二のアレクサンドロス大王になろうとしたようだ
コンスタンティノープルの宮廷に居場所がないロマノス4世は
東方に自分の王国を築きたかったようだ
ドゥーカス朝はマンジケルトでロマノス4世を見捨てなくても
ロマノス4世を厄介払い出来るはずだった
イラン遠征の為に大勢引き連れていた城攻め用の作業員が
足手まといになった事もマンジケルトでの敗因の一つだけど ロマノス4世は馬鹿正直にマンジケルトで会戦したけど
アルプ・アルスラーンは本国で反乱が起きていて
急いで本国に帰国しようとしていたのだから
ロマノス4世はアルプ・アルスラーンと講和して
敵が帰国してからアルメニアに進軍すれば良かったね >>382
ちな、この敗戦の後、「中世のドル」ソリドゥス金貨の純度が一気に低下。
地中海世界にインフレ圧力を生み出し、ジェノヴァ、ヴェネツィアなど商業都市国家台頭の一因となる。 けど別王朝でも同じ国と考えるなら
エジプトの古代王国はアッシリアに征服されるまで2500年ぐらい続いてるよな >>376
シリア、エジプトは単性論派が主流で、正教会ともカトリックとも反りが合わなかった。
もともと、そういう下地があったところへ来て、ササン朝ペルシアとの戦いの最前線になり、疲弊してたところにイスラム教徒が大挙して攻め込んできたので、ひとたまりもなかった。 >>386
面白そうやけど
Kindle版無いから待つわ
講談社の『生き残った帝国 ビザンティン』もKindle版が出次第すぐ買い直すんやけどはよしてくれ コンスタンティノープルを
日本に例えると淡路島だな
なぜ今そこに本拠を移さないのか?
技術革新で橋も立派にできるしね
いざとなったら爆破して守りもできる >>384
プトレマイオス朝もギリシア人だけど
古代エジプト風の恰好してたりしたし、
プトレマイオス朝までは古代ギリシアじゃないの イベリア半島はヨーロッパに復帰し、
アナトリア半島はヨーロッパから脱落した >>390
古代のギリシア人はアナトリアをアシア(アジア)と呼んでいたんだが >>376
イスラム教徒も案外イタリア人やギリシャ人
みたいな性質があるからではないかな
洋服着たら外見まで似てるし ピザンツ帝国は1000年続いたが、文明の発展が停止したまま続いた印象がある。
中世の西ヨーロッパがよく「暗黒時代」「停滞期」とか言われるのと同じ印象。
東欧史に疎いのですまん。 世界史上最長の王朝って日本皇室になってるけど
幕府はある集団の長が政治の権利を朝廷から預かって政治しているという構造だから
鎌倉・室町・江戸幕府が滅んでも、代理人が滅んだだけで
日本の王朝の存続には変わりはないということだよね?
なら、西ローマとか真似できる余地あったのだろうか?
西ローマ皇室から預かって政治しているという
構造なら、どこの勢力が支配しても王朝は存続できたってころになるな
逆に日本はなんでそれがまかり通ったのだろうかは不思議 >>395
オドアケルは東ローマ皇帝ゼノンの代官ということになっていたし、
東ゴート王テオドリックも東ローマ皇帝の臣下というタテマエだった >>394
西ヨーロッパとはちがってゆっくりとした衰退だな >>398
自由が存在しなかったから
ビザンツ人にとっては皇帝専制以外の政治体制は考えられなかった >>395
やはりゲルマン人の最有力者が
西ローマ帝国の皇帝になるようになる可能性のほうが高いんじゃない?
まあ日本の場合もなんで天皇の権威がずっと長持ちしたのか府市ではあるけどな >>400
日本の場合、ローマ教皇に相当する存在がなかったからな
中国の易姓革命思想も根付かなかったし ローマの場合、他国でいう王朝が成立したのが東ローマ後期になってからで、
それまでは王朝といえるものがなかったっぽい >>400
江戸幕府は、秀忠の時代くらいまで「東朝」とも呼ばれ、京の朝廷に対する
新王朝という意識も有ったようなのだが、家光の時代には早くも「天皇の臣下」と
自己規定をし、松平定信は「政権委任論」を自明の理として受け入れており、
これが後々「大政奉還」の発想につながる。天皇制はしぶとい >>404
秀忠軍が関ヶ原に来れなかったのが
徳川家が天皇家にとって代われなかった最大の原因だろうな
とはいえ、中国とからなら史実での徳川家くらいの勢力でも
新王朝になっていたはず >秀忠軍が関ヶ原に来れなかったのが
徳川家が天皇家にとって代われなかった最大の原因
んなわけない ビザンツ帝国がアラブの大征服運動の時代を生きのびることができたのは、
陸上での敗退とは対照的に、ビザンツ海軍が健在だったことによる
ビザンツ海軍は、ドロモーン型大型戦艦と「ギリシアの火」を投入して、
二度にわたるアラブ海軍の首都への猛攻撃をしのぎ、8世紀半ばに
東地中海海域での制海権を奪回できた
一方の西地中海海域での制海権は、シラクサやタオルミナをはじめとする
シチリアの諸軍港を中心に揺らぐことはなかった >8世紀半ば
その時期はイスラム海賊にずいぶんやられたんじゃね? 当時の西地中海はイスラム教徒が制海権を握っていたよ 近年の発掘により、7-9世紀の西地中海ではビザンツ帝国の影響が意外に残っていたことがわかってきている
サルディーニャ島では9世紀までビザンツ軍がいてギリシア語も話されていた
8世紀半ばの碑文では、撃退したのはランゴバルドの侵攻であってイスラム海賊ではなかった
バレアレス諸島も8世紀はまだビザンツ領土だったことが発掘からも裏付けられている
698年にカルタゴが陥落して以降イスラム海賊が活動するようになったのはその通りだが
9世紀になるとノルマンの襲撃も活発化してくる(塩野はイスラム襲撃ばかり強調してノルマン襲撃をスルーしてるが
9世紀後半に入るとビザンツ艦隊の活動が西地中海で見られるようになる
7世紀は確実ビザンツが制海権を持っており、その後9世紀は後ウマイヤ朝とビザンツの艦隊対立の
間を縫ってイスラム海賊ノルマン海賊が跋扈し、9世紀後半再びビザンツが制海権を得た後
10世紀に最終的にファーティマ朝の制海権に移った
8世紀の西地中海でビザンツが制海権を維持していたかはまだ未解明のところがあり、
9世紀初頭に後ウマイヤ艦隊の興隆を許し、イスラムやノルマン海賊も跋扈していたので
弱体化していたのは確かだがこの時期はどの陣営も制海権を持つほどの勢力ではなかった 「ローマ帝国が東西に分裂して、西ローマ帝国が滅亡した」
というのは、後世から見た解釈であって、当時の人々がそう受け止めていた可能性は低い
3世紀だって、群雄割拠の軍人皇帝時代で「ガリア帝国」が事実上の独立国、
ディオクレティアヌス帝による再統一だしなあ イスラーム勢力が勃興した後も、ビザンツ帝国は地中海制海権の鍵ともいうべき
シチリア島、サルデーニャ島、南イタリアを保持し、アドリア海の支配権を
確保していた
9世紀になると地中海の大部分がムスリムの支配下に置かれ、ビザンツ帝国が
支配できた海は、エーゲ海・黒海周辺だけとなる
この交易圏は基本的に自給自足的な性格を持っていたが、ロシアの商人たちが、
北から毎年船団を組んでやってきて、毛皮・ワックス・奴隷を奢侈品や製品と
交換していた >「ローマ帝国が東西に分裂して、西ローマ帝国が滅亡した」
>というのは、後世から見た解釈であって、当時の人々がそう受け止めていた可能性は低い
そもそも西側の王も当時の認識じゃローマの軍司令官でしかないしな
古代ならローマに皇帝がいて東方に皇帝の代官がいたのが皇帝がコンスタンティノープルに移って西方に皇帝の代官がいるようになっただけの話だし ・ゲルマン人の侵入が激しかった
・東ローマみたいな専制君主制がしけなかった 東側のがゲルマン人の侵入は激しいやろ
というかゲルマン人の割合やゲルマン化の度合いも東側のが多いし ・ローマ理念と皇帝理念が常に対立していた
・東ローマみたいにゲルマン人と同化できなかった 結局大砲でも潰せなかった壁
そもそも西側と対立せず貿易でうまくいっていた(ジェノヴァなど)
西と比較して生活水準や知的水準の低下、喪失がなかった >>1
ゲルマン民族の大移動
イスラム勢力の侵入
など西ローマは問題続きだったから >>419
>西と比較して生活水準や知的水準の低下、喪失がなかった
無かったは言い過ぎ
東もユスティニアヌスの再統一瓦解後に大混乱時代になって
歴史記録もほとんど無い暗黒時代がしばらくあった
正確に言うなら
「西に比べると生活水準や知的水準の低下、喪失は小さかった」 そらキリスト教の嘘を覆い隠すために書いては燃やし書いては燃やししてたら疲弊するわ
しかも紙がなく羊皮紙の高級品を書いては燃やししまくってたんだろ
書くのも手作業で何ヶ月も時間かけて一冊作って
異端になったから燃やされました~ なぜ朝鮮王朝は江戸幕府より長持ちしたのか
と
そのこころは同じ 現代の歴史学において西ローマ帝国の「滅亡」なるものは確認されていない。
そもそも単一のローマ帝国などというものは初めから存在しなかった。エルヴェ・アングルベールが強調したように、その権威の下に多様な人々をまとめあげることで成り立っていたローマ帝国には地域ごとに複数のローマ帝国があった。
帝国が拡大するにつれ帝国は次第に「発散」していった。どの部分が真のローマ帝国であったのかといった議論は無意味である。 ダニエルの第4の獣が滅ぼされた時だろう
コンスタンティノープルをイスラムが滅ぼした ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています