百済・任那・新羅 【南半島総合スレ】 [転載禁止]©2ch.net
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人種が違いますんでね。人種が。
日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種
北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人 韓国人 → 北方蒙古人種 今のサハ共和国のエベンキ族 白頭山の大噴火後に民族移動 >>6
これ人種とかよく知らない奴が書いただろ
ベトナム人は国籍さえ持ってたらなれる
日本人種は存在しない(学会で主流になっていないはず) 舎人親王「1300年も経ってから捏造と言われてもねぇ・・・」 訂正
舎人親王「1300年も経ってから歪曲と言われてもねぇ・・・」 日本書紀の記述が捏造だとすると、百済が日本に先進文化を伝えてやったニダってのも捏造なんだよなぁ
まああいつらの場合そもそもネタ元が日本書紀てのも知らんだろうが >>16
ありがたや。
お礼に安東将軍の官位をあげよう ウリジナルはヒデヨシのチョソン侵略で焼かれたニダ!! 東北工程だと、新羅が韓国と北朝鮮の祖、みたいに書かれているが、間違いだろう。
それだと、日本の歴史も怪しくなってくるからな。韓は韓。新羅を韓と言う事は間違えてないが、
北朝鮮のルーツは別だ。北朝鮮のルーツは箕子とか衛氏で、殷とか燕だね。 扶余ってのは扶余だな 【魏志夫餘伝】を参照
朝鮮人とは衛満だね。マンコ。 わかったのは、高句麗人は扶余で、北方系。
朝鮮人とは衛満の中国人で、韓国人とは中国の韓の末裔
朝鮮語と韓国語が全くの無用であることがわかった。 鶏林はシラキとは読めない。これは義訓。
鶏林ってのはケイリンに近い発音の原語があってそれの音写なのか?
それとも「にわとりのはやし」って意味の言葉を意訳したのか? >>26
>「にわとりのはやし」って意味の言葉を意訳したのか?
新羅側はそう言っている しかも高麗も自国を「鶏林」と呼んでいる
李氏朝鮮は知らない >>27
そりゃ知ってるけど後付けでしょ。本当のところどうなのかね 岩波版日本書紀の注釈だと
鶏林は[tark-spur]/[tak-por]の当て字だって説
意味は高句麗語の「軍隊」に新羅語の「城邑」(都市)
日本語読みだと「タクホツ」か?
たぶん関晃が書いてんのかなこれ。少し古い説のような気がするが >>29
そのまま鶏の林だよ、開祖が森林で鶏飼って暮らす部族だったんだろ 漢字の字だけみて後からこじつけただけだろ。マジメにやれ >>30
金閼智の出現神話にでてくる鶏に関しては太陽に関係してそうだね
ただし鶏林は三氏を包括した新羅だからまた別かも
>>31みたいな話もあるし >>35
でもあそこには今はもう「八種の神宝」無いんでしょ 百済・新羅・任那を三韓といわずして、
任那を除き高麗を入れて三韓とよぶのはなぜなのか?
もともと馬韓・弁韓・辰韓を三韓といってたんだからちょっと考えると
高麗を除いて任那をいれたほうがいいように思われるのだが。
百済・新羅・高麗で三韓とするのは一説には日本より中国が先だともいうが。
任那が消滅した562年以降のことなのかな? >>36
くわしくはわからないけどあったらもうちょいメジャーな気がする。
個人的には人が全然いなくてよっかたよ。 昔は山陰北陸ってのは交通の要衝だったから栄えたろうけど
今は逆に辺境だからね >>21
箕子・衛氏・殷・燕なんていきなり飛んだら間がないじゃないかw
北朝鮮人ってのは新羅→高麗→李朝にかけて徐々に国境線が北に押し出して
いったのと同時並行して、南部の連中が北に広がっていっただけだぞ
まぁ高麗時代の後期にはかなりの中国人がきた可能性はなくもないけど 箕氏朝鮮、衛氏朝鮮の属民だった濊貊族と連綿と続いた大量の移住漢人の混血が朝鮮国の起源だよ
南韓と無関係 >>40
「裏日本」は放送禁止用語に近い扱いらしい。 >>42
そいつらはもういないよ
高句麗が滅亡して渤海国ができてから今の北朝鮮は
渤海と新羅の国境付近でどっちの国からみても辺境、
今の平壌のあたりは寒村になってしまった。
その後、高麗時代になって国境線が北に移動した。つまり南韓人が北に増え広がった
そこにモンゴルに奪われて大昔の楽浪郡みたいに中国人が大量に移民させられてきた
その後、高麗から李朝になった時に北朝鮮の東北4道が併合されたんだけど
ここは女真族の居住地だったから当然彼らとも混血することになった
つまり、今の北朝鮮の住民の直接の先祖は
高麗時代の南からきた連中と当時モンゴルに連れてこられた中国人と女真族
との混血であって
濊貊族にしろ無関係だし高句麗以前の移住漢人にしろほぼ無関係 意味不明
平壌周辺は唐の領土で蛮族の住んでいた新羅領より遥かに都会だったよ
朝鮮国は濊貊族と漢族と女真族の混血、南韓は韓族と倭人と海胡の混血 >>45
あなたには基礎的な知識が必要。
渤海と新羅が並立・対立してた時代に平壌が唐の領土のわけないでしょ 意味不明
平壌周辺は唐の領土、蛮族の住んでいた新羅領より遥かに都会だったよ
序に言うと渤海わ大唐帝国の一部
朝鮮国は濊貊族と漢族と女真族の混血、南韓は韓族と倭人と海胡の混血 >>47
オウム返しはやめれ。具体的に西暦何年のことだ? それによっちゃ同意するぞ 具体的に総章年間から天復年間迄
平壌周辺は唐の領土で新羅領より遥かに都会だった 新羅の国王の称号が居西干、次次雄、尼師今、麻里干と耳慣れない名前なんですがこれらは一体どういう意味なんでしょうか? 昔氏なんじゃない???
今の朝鮮半島にはない本貫! >>51
>次次雄
ススオだから、スサノオと何らかの関係があるのではないかという人がいるのだが。 >>51の質問には韓国の歴史学者でもまともに答えられそうにないな >>7
白頭山って中朝国境の山だろ?エベンキと全然場所が違うじゃないか
シベリアに北上したのか?それにサハ共和国はヤクートだろ?エベンキはもっと西と違うんか?
>>23
高句麗は貊族 新羅に住む濊族に近い種族 扶余は百済と済州島に移住した民族 >>53
次次雄がどうやったらススオになるんだよ
ジジユウな 麻里干?麻立干(まりつかん)のことか
麻立は切株という意味、干は首長の尊号で語源は鮮卑族等遊牧民が使っていた汗(かん)と一緒 麻立干は「麻袖干」の誤字って説もある。
この場合「立」は「袖」の誤記じゃなくて略字または異体字とも考えられる。
だが多分「麻立干」も「麻袖干」も「麻袖立干」の略表記だろう。
さらに「麻袖」を略して後半だけ書いたのが「楼寒」
切り株だって説は8世紀の金大問の説でどこまで信用できるかわからない
「麻立」じゃなくて「麻袖立」か「麻袖」が正しかった場合、切り株説は成り立たない
新羅は寐錦王と葛文王の二重王制だったんだけど、それを一元化する動きがあって
実権をもってる方を麻袖立干といった。だから三国史記で麻立干とされてる王が
実際には寐錦王だったのか葛文王だったのか三国史記みてるだけだとわからない。
三国史記みてると騙されてしまうが、実際には尼師今の呼び方を麻立干に変更した
というわけでもなく、麻立干の前は尼師今といってたというわけでもない。
三国史記は中国の王朝みたいに一元的な王が代々続いてるって思い込みで
原史料を解釈してるから真に受けてはだめ。 次々雄は覡(男の巫)の意というがこれもどこまで本当が不明。
「慈充」とも書くので日本語のチチ(乳)と関係づけて女王だった
という説もあるがこの説も思いつきの域を出ず、信憑性はないだろう。
男巫説をとる場合、シャーマニズムが支配していた社会だからというが
なぜ第2代の一人だけが男巫なのかそれだけでは説明がつかない。
男巫というより神官のようなものと思ったほうがよさそう、
これは王号えはなく、建国途中の草創期に一時的にでてきた役職で
葛文(政治担当)と次々雄(祭祀担当)で
二重首長制やってたのではないか、この時まだ正式な王はいなかったと思われ。 >>52
尼師今は昔氏の称号だった可能性はないでもない
ちなみに昔氏ってのは朝鮮に残ってないと言われがちだが実は3000人ほどいるらしい
もっとも、一姓あたりの人口がでかすぎる朝鮮の基準からでは
3000人クラスだと「ほとんどいない」に等しいのかも知れない >>51,>>65
三国史記の尼師今は広開土王碑や日本書紀、出土した新羅王碑文では
すべて寐錦になってるから、寐錦が正しいのだろう
安直な解決として尼師今は寐錦が訛ったものと言われ勝ちだが
尼師今と寐錦が同語源だとか同意語だとか詳細に検討した研究はなく
寐錦がはたして尼師今に訛るのかどうかもあやしい
三国史記と三国遺事は一度全部の称号を「王」に書き換えてしまった原資料
(崔致遠の『帝王年代暦』)を後から粗雑に復元してものなので、
寐錦をしらずに尼師今で埋めてしまったものらしい
(そのため三国史記と三国遺事では尼師今と麻立干の境目も2代ずれてる)
実際のところは寐錦と尼師今は別々の称号で、葛文や次々雄や麻立干のように
使い分けられていたのではないかと思われ 葛文って国王の弟の称号とかになっていたよな
真徳女王の父、国飯(真興王の弟)も葛文王と呼ばれていたような 弟じゃなくて父の弟、つまり叔父とかじゃない?
後見人っぽい存在らしいから王より歳上と思う
あと三国史記だとただの称号みたいな扱いにされてわかりにくいけど
二重王制なんだからどの王の時の葛文王かって問題がある
生まれてから死ぬまでずっと葛文王だったのかどうか
死ぬまでってのはわkるとしてもいつ葛文王になったのかは重要
三国史記の記述だとそこらはわからなくなってる >>66
尼師今ってのは直訳すれば「歯」のことで
歯が多い=年齢が高い=「有徳者」って意味だというがどうなのか?
歯ってのは乳歯から永久歯に生え変わる段階でも増えるが13歳で生え揃ってしまうので
高齢や長寿とは関係がない。歯が高齢長寿の象徴なのは、入れ歯のなかった時代、
歯がなくなった老人にまた歯が生えてくることがまれにあり
これを日本では「みづは(瑞歯・稚歯)」といって長寿のしるしとされた。
新羅にも似たような例が知られていたのだろう。
漢字の「齢」も歯の生え方のことでこれで年齢の違いがわかるから年齢の意味になる。
しかし尼師今が本当に歯の意味なのかどうかはわからない。
これは俺の憶測だが
長寿がどうして王の意味になるのか?長寿だと有徳者で、だから王?かなり苦しくないか
(金大問の解釈説は麻立干の切り株説にしろ尼師今の歯説にしろコジツケっぽい苦しい説明が多い)
これは王ではなく、この称号を長寿のにこじつけるための当時の言葉でのダジャレ説明だったのではないかと思う
金大問の時代にはすでになぜ長寿にこつじけなければならなかったのか不明になってしまっていたので
長寿者=有徳、だから王、という二重のコジツケをしたものだろう
…という可能性もないではないが、あくまで俺個人の推測。実のところなんとも判断のしようがない。
それと、奈勿と実聖の2王は、三国史記では尼師今、三国遺事では麻立干とする。
なぜこの違いが生じたのか。尼師今から麻立干へ、王権が強大化した過程ぐらいに軽く流されて
あまり注意が払われないが、そんな単純なものじゃないだろう
尼師今は実は(その時期は)存在せず寐錦だったことと
>>62で書いたとおり麻立干と寐錦は別次元の称号であること等からいって
この2王の称号には、もっと複雑な経緯がある。 17代奈勿は中国に朝貢した時は「楼寒」と称しこれは麻立干のことだとされているから
奈勿が麻立干だったのは疑いなく、確実な史実とみていい。
(広開土王碑文では奈勿を麻立干とも楼寒ともよばず「東夷之寐錦」と呼んでるが)
だから三国遺事は、16代訖解までが尼叱今(三国遺事は尼師今を尼叱今と書く)で奈勿から麻立干と判断したんだろう。
ではなぜ三国史記は2代もずれてるのか。恐らく18代実聖が麻立干だという確証が得られなかったからだろう。
三国史記は麻立干より前は一律に尼師今にしてしまってるのと、無駄に漢文が読めて
漢字の「字義」でこじつけるのが好きなため楼寒と麻立干の「音」の一致に気づかなかったのだろう
それで三国史記は実聖までが尼師今、19代訥祇から麻立干と判断したわけだ
以上の考察からして奈勿は麻立干であって尼師今ではないのだから
三国遺事が正しく三国史記は間違いなのかというと、そう簡単でない。
実聖が麻立干だったら三国史記の異説は生じない。しかし尼師今でもないのだから
実聖の称号はなんだったのか?という問題が生じる。 居西干は高句麗語の「古雛加」だろうというのが有力説。
古雛加は高句麗国内において王に次ぐ最上位の貴族たちの称号。
隋書に高句麗が魏の将軍貫丘倹に撃破された時の残党の一部が南下して新羅を建国したという伝説が記されていることから
初代の赫居世居西干はその時の新羅を建国した高句麗人を、年代を遡らせたものではないかと思われなくもない。
しかし三國史記だと新羅王の系統はそれ以前から続いておりここで王朝交代があったようにみえない。
新羅本紀には245年に高句麗兵が攻めてきたとあり、これが年代的には逃亡した高句麗軍の南下に相当する。
(魏軍が高句麗本国を撃破した年を三國志は246年とするが
貫丘倹碑文が出土しており242年が正しいことが判明している)
248年には高句麗と講和しているから、一部新羅に迎えられて留まった者たちがいたとしても多くは本国に引き上げたんだろう。
(後世の新羅の貴族層にも高句麗系を自称する者がいないし)
246年に辰韓のうち8国を帯方郡の管轄から楽浪郡の管轄に移そうとしたのは
この南下した高句麗兵の捜索と追撃のためで当初はこちらに高句麗王が紛れ込んでる可能性もあった。
ところがそれに馬韓が反発し二郡と戦争になった。二郡は太守が戦死するほど苦戦したが結果的に勝利。
百済本紀にはこの年楽浪郡を攻撃したがすぐ謝罪したとある(246年)。
つまり辰韓馬韓はなぜか高句麗兵を迎え入れて匿おうとしているようには思えるが、
逃亡中の高句麗軍には先住民を征服して新羅を建国するような力はなかったろう。
だから3世紀に古雛加を自称する高句麗人が新羅に寄寓していたとしても、
初代の王号に使われるいわれはないように思う。 だが「古雛加=居西干」という言葉自体は高句麗建国以前からあってもおかしくない。
古雛加は高句麗の王の一族(王の兄弟や王子)が称する号で、他に、高句麗五部のうち
絶奴部と消奴部の首長も特別に古雛加を称することが許されていた。
桂婁部の首長がいわゆる「高句麗王」。
おそらく順奴部と灌奴部の首長は他の2部のような世襲首長ではなく
王の兄弟や王子が補任されたのだろう
結局、王領である桂婁部以外の4部の首長が古雛加だったのではないか。
古雛加はもとは王にも該当する首長の称号だったのだろうが
高句麗侯を中心に5つの県侯が連合して高句麗王ができた時、
古雛加たちの上位に「王」ができたので
それまでの古雛加たちは王に次ぐ最上級貴族ということになったのだろう
従って、新羅初代の赫居世の称号「居西干」(=古雛加)も
その段階ではまだ王号だったのである 古雛加に似たものとして匈奴の左賢王・右賢王が浮かぶ
左が「東部方面」、右が「西部方面」を表し帝国を五部に分けて
東南は左賢王、東北は左谷蠡王、西南は右賢王、西北は右谷蠡王
そして中央は単于(=遊牧民の皇帝)の直轄。で5つの地域。
中央には左骨都侯・右骨都侯がありこれは単于の側近。定員各1で6人。
高句麗の古雛加は常時数人はいたらしいが定員のようなものはわからない
高句麗の五部制と古雛加の定員に関係があったのかどうかも不明
百済(475年以前の前期百済)にも左賢王・右賢王があった
(百済にも五部制はあったが左右賢王とは関係ない)
辰韓には「右渠帥」という地位があったので当然「左渠帥」もあったろう
また衛氏朝鮮の最後の王は「右渠王」といい史記では固有名詞扱いされているが姓も不明であり
これは西方面軍の将軍という意味で、当然「左渠王」もいただろう
衛氏朝鮮の「左渠王・右渠王」も辰韓の「左渠帥・右渠帥」も、
匈奴や百済の「左賢王・右賢王」と同じ趣旨で、左が東部方面、右が西部方面を表す
前2世紀の衛氏朝鮮の「右渠王」がいた場所は平壌で、後1世紀の辰韓の「右渠帥」がいた廉斯とは今の忠清南道の西北部だという。
朝鮮半島全体では南を東、北を西ということがあり、赫居世が前1世紀としてその頃の慶州
(後に新羅の王都)が「左渠王」「左渠帥」の位置として考えられる そうすると新羅の初代、赫居世の称号である「居世干(古雛加)」とは辰韓の「左渠帥」のことだったとわかる
匈奴の左賢王・右賢王の「賢」は匈奴語の「屠耆」だが、百済の左賢王・右賢王は意訳で、匈奴語ではなかろう
匈奴語なら左骨都侯・右骨都侯の「骨都侯」が「古雛加」と音が近く語源的にも関係ありそう
骨都侯は単于の后の実家の者で、トルコ語の「qudu:義父」に漢語の「侯」がついたものという説がある
高句麗でも絶奴部の首長は高句麗王に妃を出す家柄なので「古雛加」を称するという
「古」の上古音は[kag]、「雛」の字は日本語読みではスウ。日本上代語(万葉語)で父を「かそ」という。
高句麗語と日本語は類縁だという説が思い出される
「ちち」が義父・養父・伯父・叔父まで含む広い意味で「かそ」が実父、生みの親だが
語源からいうと「かそ」は子供を数える説(岩波版日本書紀の注)、または彼の処=外の人説(白川静)、稼ぐ人説
「ちち」のチは乳、血、精液など、霊的な力ある液体をみなチといったのが語源
語源からすると本来はカソが義父でチチが実父だったのが後に逆転したものと思われる
「骨都[トルコ語:qudu]」「古雛[上古音:kadzu/中古音:kotsu]」「かそ[kaso]」は同語源で「父(義父)」の意味だろう
百済の左賢王・右賢王の「賢王」も、辰韓の右渠帥の「渠帥」も、漢字で意訳したものだから
原語は「古雛加」や「居世干」に近い発音だったと推定できる。 >>71-74は>>51(居西干)へのレス
>>67(葛文王)
1988年に発見された蔚珍鳳坪碑文からすれば524年の時点では寐錦王と葛文王の二重王制だったことが明らかだが
『三國史記』や『三国遺事』は辛うじて葛文王という称号を断片的に伝えるのみ。それどころか
『日本書紀』によれば第5代婆娑は尼師今でなく「波沙寐錦」であり
広開土王碑文によれば第17代奈勿は尼師今でなく「新羅寐錦」であり
中原高句麗碑文によれば第19代訥祗は麻立干でなく「東夷之寐錦」であり
迎日冷水碑文によれば第22代智証は麻立干でなく「葛文王」であり
蔚珍鳳坪碑文によれば第23代法興王は、王は王でも「寐錦王」だった
しかるに『三國史記』や『三国遺事』は金石文に一切あらわれない尼師今をもちいるばかりか
寐錦王/寐錦という用語をまったく伝えておらず史料としての信憑性が疑われる。
『三國史記』がいう「503年に君号を麻立干の君号を改め新羅国王とした」という記事は、
それまでの葛文・寐錦という称号をそれぞれ葛文王・寐錦王に改めたという意味だと考えるしか選択の余地がない。
従って『三国史記』に表れる葛文王のうち503年以前のは、もともとただの「葛文」であり「葛文王」は後世の追記だろう(続く) 葛文王は、王の父・伯父叔父・妃の父(つまり舅)・王の兄弟・女王の配偶などに与えられる称号だが
『三國史記』や『三国遺事』からはその詳細や正確なところはわかりにくい。
最初の葛文王である日知葛文王は儒理尼師今の兄でもあり同時に舅でもある
次ぎの許婁葛文王は婆娑婆尼師今の舅
三人めの摩帝葛文王葛文王は祇摩婆尼師今の舅
してみればもともとの意味は「王の舅」=「王の義父」だろう。だからまさに「居西干」(古雛加)と同義である。
(続く) 「左渠帥・右渠帥」の渠帥は根本的にいって意訳(既存の漢語)だから音写の可能性を考える必要はないが
渠は上古音[giag](ガ)中古音[gio](ゴ)、帥はスイ[siued→siui]とソツ[siuet]の二音があり
カス・カソ・コス・コソの音写も兼ねているとみることもひょっとしてもしかしたらアリかもナイかも
葛[上古音:kat]は、古雛加の「古雛[katsu]」にあたる。では「文」は何か?
高句麗末期の独裁者、淵蓋蘇文(姓が淵氏、名が蓋蘇文)の高句麗語の読みはイリ・カスミ(伊梨柯須彌)だったことが日本書紀からわかるが
これによって高句麗人は「文」の字をミと読んでいたことがわかる(蓋蘇文=カスミ)
しからば葛文の文もミと読んだ可能性がある
(新羅語はむろん高句麗語ではないが、当初から独自に新羅語という特定言語が存在したわけではなく
高句麗百済語(夫余語)、馬韓語(先住民語)、倭語、漢語(辰韓語)などが混淆してできたものである)
ところで蓋蘇文は西部の大人(消奴部の首長)だったというから、3世紀に遡る伝統によって「古雛加」を称することが許されていたはずである。
それだけで彼が古雛加だったことを推定するに十分ではあるが、
栄留王を殺害して宝臧王を擁立した時に「本来の古雛加として」自分の娘を宝臧王にあてがった可能性もあろう
(ただし蓋蘇文の娘が妃になったことは歴史書にはみえないから俺の個人的な憶測にすぎないが)。
ところで『後漢書』は古雛加を「古鄒大加」としている。雛と鄒はほぼ同じ音を写した字として問題ないが
古鄒大加は「古鄒文加」の誤写ではあるまいか。「大加」という言葉が他にでてくるのでそれに引きずられて誤ったものと思う
つまり古雛加はもともと古鄒文加の略称であり、蓋蘇文は本名ではなく古雛加(古鄒文加)の土着語的な表現だと思われる
(加は遊牧民の「汗」の語源で、大人(首長)の意味)
古鄒文[katsumi]が原語で、葛文[katmi]はすなわちその「新羅訛り」だろう 古鄒文加から逆推すれば503年に葛文王と改号される以前には「葛文干」だった可能性もあろう
また居西干も誤記で「居西文」だった可能性もなくはない
(大・丈・文・干・天などは相互に誤写されることのある文字)
「加」または「干」がつくかつかないかでは多少意味が異なる
「骨都・古鄒・居西・葛・古鄒文・居西文・葛文・かそ・かすみ」は義父(=舅)または父そのものに近いが
「骨都侯・古鄒加・居西干・古鄒文加・葛文干」は「義父をふくめて父にも相当する地位の称号」の意味になろう
とするとやはり初代の赫居世は居西「文」ではなく居西「干」でよさそう
葛文王は「葛文王」に書き直されるの前には「葛文」だったか「葛文干」だったかは
時代によって異なる(ただし503年以降は「葛文王」のままで正しいが)
ちなみに日本で上皇の住居を仙洞御所といいその訓を「かすみのほら」という
「仙人の住む山奥の霞のかかった洞」という意味だが
仙洞を訓読みするなら、まずは「やまびとのほら」となるだろう
カスミとはもしや「父身」(かそみ)という古語の残存ではないだろうか
もっともそれいうなら「かすみの宮」という用例がないのが弱みだが
「かすみの洞」が本来の形ならやはり「霞」でいいような気もするが
まぁそういう連想もあったという程度の話で(続く) 「舅」も平安時代には「しひと」と言っていた(シヒト→シウト→シュウトと訛ってきた)
シヒトとは「しる人」この「しる」は「治める・領する」の意味。これを敬語にしたのが「しらす」
一般の民間でも妻の父が大きな力をもっていた頃の名残りだろう
平安時代といえば天皇とその外祖父である藤原氏摂政関白が思い起こされる
自分の外孫を幼少のうちに即位させ、自分は摂政として政権を握るというのは藤原政権の最終形態だが
天皇が幼少でない場合、舅または外祖父が関白となる
これは葛文王が王の舅であり、婿である寐錦王と共同統治する体制に似ている
天皇と摂関は形式上はまだ君臣上下の関係だが
新羅の場合はお互いに対等の王家である。そこで記紀に書かれた初期の皇室の歴史をみると
遠縁の皇族が皇位継承する場合、先帝の一族の女性を皇后に立てるケースが
顕宗天皇から光仁天皇まで少なくとも6例ある
これらの場合、先帝と新帝は義父と婿の関係になる。新羅の三王家も相互にこの関係を繰り返した
ただし日本の場合、先帝はすでに崩御しているケースがほとんどで
舅(義父)というより配偶女性(皇后)の権力が大きかった
これは後に女帝になっていくわけだがそこも新羅の女王の出現と同じで
新羅もまた女性(王妃)の権力がもともと大きかったろう
また実の父子の場合でも、奈良平安の頃から一貫して上皇のほうが権威があったので
院政時代になって急に逆転したわけではない。
葛文王が父(または義父)の意味なのだから寐錦とは息子(または婿)の意味ではないかと察せられる。
ムコ(聟)の語源は「迎える子」だの「向かう子」だのいわれるが庶民的な語源俗解で取るに足らない
ムスコ(息子)と関係ありそうだが不明。ともかく「コ」は男性をあらわす語尾だから語根は「ム」
寐錦(ムキン)とは「息子・君」の意味ではないだろうか
寐錦の「錦」も尼師今の「今」も[kiem]で語尾の子音は[n]でなく[m](続く) 神話の三機能説(F1,F2,F3)で
第3代儒理と昔脱解はF3、初代朴赫居世はF2、第2代南解と金閼智はF1に関係する伝承がある。
これでみると朴氏だけは初代から第三代までがF2、F1、F3にそれぞれ対応しているが
各氏の初代だけで比べると朴氏がF2,昔氏がF3,金氏がF1に対応している。
この伝承が単に神話として構成された作り話でなく、もしも史実を反映しているとしたら、
初期の新羅は三王家が交代で王になったのではなく、
祭祀権・軍事権・財政権に三分して同時並立していたことになる。
称号でみると次々雄は男巫だからF1に相当している。
とすると可能性としては居西干はF2、尼師今はF3に対応しているかもしれない。
これを再整理すると「朴氏=居西干、昔氏=尼師今、金氏=次々雄」となる
金氏は初代から6代目の仇道まで代々即位してないことになってるからこれといった称号も記録されてないが
実は次々雄という地位を世襲していたのではないか
とすると、尼師今というのは誤りで正しくは寐錦だったとされ勝ちなのであるが
尼師今と寐錦は語源も語義も別々の称号だとすると、
尼師今が含む長寿の意味はF3に含まれる機能の一部だから昔氏の8人の王だけは寐錦でなく尼師今だったというのは史実の可能性が高い。
(偶然か必然か、日本書紀や新羅碑文から寐錦だったことがわかっている王の中に、昔氏の8人の王は含まれていない)
尼師今(歯=歯が多い=年長、長寿=有徳者≒資産家)
居西干(古雛加)は骨都侯や左右賢王など遊牧民の指導者に由来するように
(また「渠帥」という漢訳の文字からしても)軍事的指導者であり王というより将軍に近い
二重王制どころか三重王制(というより三権分立?)の可能性がでてきたわけだが
語源的には「居世干」と「葛文王」は同語なはずで
そうするとこの三重王制と「寐錦×葛文」(息子と父)の二重王制との関係はどうなってるのか(続く) 葛文と寐錦の二重王制を日本と比較した場合、
実の父子と観れば院政、聟と舅と観れば皇室と摂関家の関係が浮かぶのは前述のとおりだが
さらに新羅三王家に似た情況として持明院統と大覚寺統の両統迭立がある
この時は例えば持明院統の天皇が在位している場合、皇太子は大覚寺統から出るという決まりだが
この時代は治天の上皇が実権者で天皇は実権がなく皇太子のようなものといわれたから
形式上の皇太子は実質的には「皇太子の皇太子」であって二代先まで決めていたわけだ
新羅の場合もこれに非常によく似ており、
葛文が上皇で寐錦を天皇とみれば、または葛文が天皇で寐錦が皇太子とみれば
異姓間で王位をたらい回しにするための制度とみることができなくはない。
また古代エジプトでは、先代ファラオの実の息子であろうが赤の他人であろうが、
先代のファラオの皇女の配偶でなければファラオになれなかった。
こちらのほうも新羅の例によく似ている
葛文と寐錦が「舅と聟」ばかりでなく「父子」の例もあるのは、王位の追号とは限らないだろう
これらから考えると二重王制は次ぎの王が誰かをめぐって内乱になることを事前に避けるためのものであろうかと思われ。
この場合、次ぎの王が自分の息子(同姓)であろうが、娘聟(異姓)であろうが、趣旨は同じ。
そうすると「寐錦×葛文」の二重王制は
どうやら「三統鼎立」を安定的に維持するためのものだったと想像はつくが
そしたら今度は「そもそもなぜ新羅には王家が三つもあるのか」という問題にいきつく(続く) 弥生人は稲作を伝えたんだろ。稲作は当初江南など温暖な地域で行われていた
弥生時代に華北は雑穀地帯で稲作など殆どしていないだろう。
そもそも水が不足している。半島に華北経由で稲作が伝わるのは不自然
江南から直接半島南部や日本に移住してきたんだろう
朝鮮半島も気候的に南部のほうが稲作に適しているんだから
日本が一時半島南部を勢力下に置いたのも江南から来た同族だったからじゃないか? 米の化石は日本の方が朝鮮半島より古いものが発見されている
山東半島や満州なんか当時稲作なんかしてない。朝鮮人とは関係がない。 >>82はコピペ厨の仕業。
コピペは荒らしの一種だがコピペにはコピペで対抗
--------------
94 :日本@名無史さん:2015/10/17(土) 08:16:12.45
>>89
陸稲は縄文時代からあったが、水稲耕作が始まったのが弥生時代で
弥生時代は前八世紀もしくはそれより少し前
だがこの段階では渡来系弥生人はまだきておらず在来系弥生人の時代
渡来系の人種(いわゆるオマエラがいう弥生人)が来たのはどんなに早めに見積もっても
吉野ケ里タイプが前五世紀、土井ケ浜タイプが前三世紀、
つまり「渡来系の人種と稲作の開始はなんの関係もない」。
そいつらが華北系だろうが朝鮮系だろうが呉越系だろうが何だろうがな。 なんだお前らもう居西干と次々雄と尼師今と
寐錦と葛文と麻立干の話はききたくないのか 居西干 次次雄 尼師今 麻立干はそれぞれ別系統の支配者であり、その交代は禅譲ではなく中国であったような易姓革命に伴う放伐的な支配者継承があったと思う
「干」という字があるがこれは遊牧民の支配者が好んでつけた「汗」(ハーン)に類するものではないかと思われる >尼師今、ニシキ、錦の御旗のにしき
新羅、辰韓 - Wikipedia
後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝によると、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、
馬韓はその東の地 .... そこでは国を邦「邦人」「中国、朝鮮では華僑の僑と言う」、弓を弧「括弧」、賊を寇「元寇」、
行酒を行觴(酒杯を廻すこと、俺の杯が飲めぬかと)と称し、互いを徒「生徒」と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓 ...
『隋書』は(筑紫国の東、秦王国有り)と・・・
>>88
引用してるwikipediaが「錦の御旗」説となんの関係もない内容なのが笑える
「錦の御旗」は中世以降の言葉で古代と関係ないからムリ
「主君」(ぬしきみ)の訛りとでもいったほうがまだいくらかマシな説だろう
>>86
居西干 次次雄 尼師今 は三権分立で3氏が並行してた
364年に倭兵が侵入したのを撃退したことになってるが
これは金氏が倭兵を引き入れた内乱だろう
内乱で金氏が朴と昔を軍事的に圧倒して完全に臣従させて
三権を集中して握ったものが麻立干
>>87
神話学の理論からするとそれはない。F1とF2で対応してない
居西干F2 次次雄F1 尼師今F3
天照F1 須佐之男F2 月読F3 朴・昔・金の王位が交代する時はだいたいその前に倭軍が新羅を攻めてる。
三国史記では毎回撃退したことになってるが
実際はこの倭兵は任那日本府の懲罰軍だろう
倭国の命令で廃位されたり別の王家が任命されたりしてるんだよ >>87
それ現代語の発音で似てても意味ないでしょ
次々雄の「次」の音は上古音[tsier]中古音[tsii]、雄は上古[hiuen]中古[hiun]
慈充の「慈」は上古[dzien]中古[dziei]、「充」は上古音で[tiun]中古音で[tsin]
ジジユウ、ジジュウは現代語読み。そうじゃなくて
おそらく[dzietsiun](ヂェチュン)に近い発音の言葉だったと思われる。
まぁ日本語のサシスセソの発音は昔はツァ、ツィ、ツ、ツェ、ツォだったって説もあるから
そしたらスサノヲはツツァノヲだったということになるが
似てるかといったらはたしてどうかね?
思うにこれは神官や祭司を意味する漢語「史祝」[sietsieu]の新羅訛りだろう。 >>89
高麗錦(こまにしき) 7,8世紀の万葉集時代には貴人が錦衣を着てましたよ、発音もニシキ。
集歌3465 巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎
訓読 高麗錦(こまにしき)紐解き放(さ)けて寝(ぬ)るが上(へ)に何(あ)ど為(せ)ろとかもあやに愛(かな)しき
>>88
燕経由で入った古い中華の古語が残ってたんだろうね
辺境ほど古い時代の慣習や言葉が残りやすいから >>92
錦って織物としては存在してたぐらい知ってますが
それは「錦の御旗」って熟語の意味(=官軍のしるし)とはちがうでしょ
この時代にまだそんな意味はない。この頃はまだ衣料の素材の意味しかない。
豪勢なものでも所詮は布切れ、それがなんでそれが新羅の君号になるんね?
>>93
なにをトチ狂ってるのか。錦をニシキと読むのは日本語だぞ。古い中華の言葉なら錦[kiem] >>92
しかも高麗錦って高句麗の錦布のことで、新羅とは関係ないですぬ 「尼師今」を「にしきん」と読むのは日本語であちらでは「イサグム」というんだよ
だから尼師今を錦というのはどうかと思う 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
に-しき〔名〕【錦】〔丹繁(にしき)の義にて、赤きを本として、目の繁き意と云ふ。或は云ふ、丹敷の義と〕
(一)五彩の絲にて、種種の模様を織出せる、厚くして、極めて美なる絹布の名。綺(かむはた)は、古代よりありて、直に、にしきと稱せり。
(神功皇后、新羅を征して歸られし時、金銀、綵色、及、綾羅、鄂絹を從へしめられし事、日本紀に見え、萬葉集に綵色(にしき)とあり、
新羅の王を尼師今(にしき)と云ふ)後に、韓國の織工來りて、製せるを韓錦(からにしき)と云ひ、後、又、支那より舶來するもの多く、
これを唐錦(からにしき)と稱し、從來の者を大和錦(やまとにしき)と云ふ。後、織法、衰へて、後世、再び支那法を傳ふ。
倭名抄、十二16錦綺類「錦、邇之岐」天治字鏡、六26「錦、爾志支」允恭紀
>>96
現代語で、でしょう。古代は何と読んだんだ? 熊津(ゆうしん・웅진・ウンジン)は、古代朝鮮の百済の古都であり、万葉仮名では久麻那利(くまなり・こむなり)、
百済語では古莫那羅(コムナル・곰나루)と表記・呼称される。熊川(錦江)のほとりの都市であり、現在の忠清南道公州市にあたる。
熊津、百済仮名で(古莫那羅)、大和の万葉仮名では(久麻那利)
錦ニシキ、百済、辰韓、仮名で(尼師今)、大和の万葉仮名では(邇之岐、爾志支、尓思吉)って言う訳でしょう。
ちなみに大阪で西の津(官営港)「西成」、東の津「東成」が有ります。
>>96 「イサグム」って漢字の現代韓国語(百済をペクチェ)発音で古代発音ではない、
大和(やまと)をダイワ、西成(にしなり)をサイセイ、飛鳥(あすか)をヒチョウと
発音してるに過ぎない >>98,>>96,>>100
イサグムは現代韓国語、新羅語ならたぶん「ニシゴム」だろうな
「ニシキ」にはならんね。日本語ならニシコンかニシコム
今をキンと読むのは漢音。呉音ならコム
>>97
大言海は参考までに新羅王号もニシキっていうよねって付記してるだけで
別に尼師今の意味が錦かどうかの論証してるわけではない。みればわかるだろ
>>99
熊津がクマナリだからってそれがどうして尼師今が錦の意味だって理由になるんだ?
わけわからんね
熊津をクマナリと読み、それが同一地の地名だってのはわかるよ
でも「尼師今」って漢字3文字の並びが錦の意味で使われた用例はない。すべて君号
よって「尼師今」に錦の意味があるかどうか証明されない。
>>101-102
「史祝」な
呪具、神具のような神聖な道具をつかう祭司が「史」
祝詞あげたり呪文となえる祭司が「祝」
「史祝」でいろんな神官を総称する言葉 >>98,>>96,>>100
古事記でも日本書紀でも万葉集でも「尼」の字は
ニでなくネを表わすために使ってる文字
従って日本語ならネシコンかネシコム
「ニシキ」にはならんね >>94
そっちこそ何言ってるんだ中国語何ていまだに地方によって同じ言語とは思えないほとどバラバラなのに 金正日総書記の著作発表55周年記念社会科学部門討論会 2015年10月29日
http://blog.livedoor.jp/tabakusoru/archives/65870594.html
【平壌10月28日発朝鮮中央通信】金正日総書記の著作「三国(高句麗、新羅、百済)統一問題の
再検討について」発表55周年記念社会科学部門討論会が28日に行われた。
討論会では、金正日総書記が同著で明らかにした思想・理論の独創性と正当性を解説、論証
した複数の論文が発表された。
各討論者は、総書記が同著で「新羅による三国統一論」の不当性を科学的に明らかにし、朝鮮
民族史の基本の流れを新しく定立したことについて述べた。
また、高句麗が朝鮮歴史上、初の封建国家に出現して歴代封建社会制度の基本の枠組みを築き、
絶え間なく押し寄せる外敵の侵攻を撃退し、全民族的範囲で国土と同胞を守る城壁としての役割を
果たしたと語った。
そして、総書記の鋭い洞察力と非凡な科学的英知によって長い間「通説」になってきた「新羅による
三国統一論」はとうとうその正体をさらけ出すようになったと述べた。
各討論者は、総書記が、渤海が高句麗遺民によって昔の高句麗の領土に建てられた強力な主権
国家として高句麗の文化を継承、発展させたし、外来侵略勢力の重なる侵入を防ぎ、国と同胞の
安全を保障することに大きく寄与したという科学的な根拠に基づいて渤海の歴史的地位をはっきりと
明らかにしたと強調した。
関係者、科学、教育、出版報道、民族遺産保護部門の研究者、教師、記者、編集員、講師が
討論会に参加した。 日本漢字でアメリカは「米利堅(メリケン)」
同様に中国は「美利堅(メイリ−チェン)」と言うように
民族文字ハングルが無い高麗朝時代に
日本書紀や新羅碑文からの「寐錦」の発音はと調べたすえ尼師今ニシキと
三国史記を編集時に当て字したんじゃない
(寐錦)これ イニシキ・イリヒコの(ヴィ)ニシキじゃないの! 五十瓊敷命、印色入日子命、五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)
この人物、新羅や丹波と関わりの深い人だね
まるで第4代国王の『脱解(タケ)王』は倭の多婆那国。みたい
新羅の頃の7世紀に中国で書かれた正史『随書』には、こう書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B%E6%9B%B8
『新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来』
『新羅、百済は倭を大国とみなしている。珍しい物や優れた品が多いので、使者をたくさん送っている』
倭の五王の上表文
倭王武(雄略天皇)は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。
「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。
昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、
寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。
渡りて海北(三韓)を平らぐること、九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」
(『宋書』倭国伝)
上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。
順帝、武を
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕(馬)韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。
(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)
王(こにきし):『日本書紀』『続日本紀』の注釈
『通典』や『周書』の「百済伝」によれば「王の姓は夫余氏、於羅瑕(オラカ)と号す。
民はこれを鞬吉支(ケンキシ)と呼ぶ。夏言(カゴ=中国の言語)ではともに王と云う。」
王をコニキシと読むのは“鞬吉支”に当たり、“鞬(ケン)”は大、国の意で、
“吉支(キシ)”は首長の意、であると説明しています。
平安時代頃までは史書や貴族の日記などに「王(コニキシ)」というルビがつけられているのを見受けます。 於羅瑕、於羅加は、夫余の官職名「馬加、牛加、豬加、狗加」
の加(ka)と関係が認められるので南下以前の高句麗語であろうと推定しています。
「國有君王、皆以六畜名官、有馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者。
邑落有豪民、名下戸皆為奴僕。諸加別主四出、道大者主數千家、小者數百家。」
以上から、於羅瑕(oraka) <*ora+kaの *oraは、
金代の行政単位「路」*oron、 契丹語ur(位置)、満州語oron(空いているポスト)
『元朝秘史』*oro(位)、書面モンゴル語oran(区域・地方)、
ダフール語or(位置) 達斡尓語簡誌p93ではorw(位置)
参考 日本語 木のウロ ウロ(空間) と同じ意味で
「地方あるいは部署」を表したものであり、加(ka)は、首長で、
「地方の王」あるいは、「部署の首長」と解釈できます。
『三朝北盟會編』巻三 「毛(毛)可」(謀克) momokaは、momo+ka(首長)と
解釈することが可能で、『金史』巻四十四兵志「謀克者百夫長也…」から、
謀克・毛毛可(momo-ka)=百・夫長 < 百(momo 100)+夫長(ka首長) で、
高句麗語あるいは、夫余語の百100が、上代日本語の百あるいは多数の意味のmomo
と、同じであったことが証明できます。
密=三 高句麗語mir 上代日本語mi
于次=五 高句麗語üc 上代日本語itu
難隠=七 高句麗語nanïn 上代日本語nana
徳=十 高句麗語tək 上代日本語təwə
謀・克=毛毛・可=百 (高句麗語*momo *mom 上代日本語momo Fo)
さらに、『慶源女真大字碑』は、金哀宗正大元年(1224)六月十五日の『女真進士題名碑』よりも古い、
金煕宗天眷元年(1138)〜皇統元年(1141)七月二十六日の石刻である。
なになに?
と言うことは百済とはモンゴル、チュルク系の王を受け入れ
庶民はコニキシ、国吉師クニキシと倭人語を話す国てことだな https://www.youtube.com/watch?v=eXnvo9cGesk
22:40-22:48辺りを見てみましょう
@ 日本列島に最初に入って来て北方に抜け沿海州に回った連中が縄文芋作夷人です
A その次に南西諸島九州から朝鮮半島へと抜けて行った連中が縄文稲作倭人です青銅器も実はこれが持ち込んだ可能性が有ります近親で西アフリカに残ったのがダン族ですね途中インドで別れて西方に引き返した連中はユダヤダン族です
B 弥生人は北方の陸路は魏に塞がれていた滅亡呉の難民が鉄器と蚕織業を携えて船で東海に向かってショットガン風に散り散りに諸島や半島に渡ったものでしょう
番外 朝鮮半島の付け根で母親が漢人に犯されて産まれた或る男子で父親に逆方向向き背乗り漢語名を付けられて育てられ精神を兇暴な帝国主義者に改造されて南方の親戚筋に襲い掛かったのが檀君です >>110
>新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來.
これ韓国の検索ででググったけど
一部はまともな人もいるが
多くのブログでは新羅と百済が倭に大国を作ったって解釈して
コメント欄でそうですよね、みたいな書き込みだらけですね
この部分について韓国の公立学校の教科書や大学とかでどう教えてるんだろうか?
学会とか、流石に学者はまともに読むことが出来ると思うし
例の職貢図や広開土王碑、倭王の半島での軍事統帥権とかの記述とか
総合的に考えたら当時の力関係が分かりそうな気がするんだけど なかったものに名前はありません。
と、多分言われる。 >>127
任那は金官とか加羅とか伽耶諸国と呼ばれているそうですが任那日本府の存在は否定されています 任那は中国や日本に記録があるのに、
何故、韓国では否定されるのですか? 朝鮮半島に存在しない地名だったんじゃないか任那は
三国史記にも三国遺事にも出てこない 中国史料では
任那イコール伽羅
とも解釈できるような、生ぬるい書き方をしている。 あの地域に金官伽耶の金首露のような強大な王権があったとしたら任那のような海外根拠地なんて存在出来ないと思うぞ
金官伽耶国=任那じゃないのか? 朝鮮史学者の権珠賢
日本 朝鮮 中国の金石文を含む23種類の史料における任那と加羅の全用例を精査し
●任那は特定の小国の呼称ではない
●百済にも新羅にも属さなかった諸小国の総称
●任那の範囲と加羅の範囲は一致しない
●任那という呼称は倭国と高句麗による他称
---------------------------------------------------------
任那者 去筑紫國二千余里(154km)
北阻海
以在鶏林之西南 『日本書紀』 彌馬が鎮海湾で
任那が鎮海湾岸の國々
書紀では巨済島や統営あたりを強く意識している
後の世には馬山が半島への橋頭堡とされた
昌原の三東洞遺跡は甕棺墓が主な墓制をなしており 甕棺の規模も大形で
伽耶地域では異色的
狗邪韓國の呼称は 狗邪の領域にあった 箕子の末裔とされる韓王がいた
韓姓の國 に由来するものだろうか
狗邪韓國と弁辰狗邪國と文字づらが似ているから同じとするのはいかがなものか
あんがい狗邪國王は日本でも著名な人物でご子息の名前が「こと」だったりしてね ノルマン人がスカンジナビア→ノルマンディ半島→ブリテン島を征服したのと同様、
山東半島の東夷=倭人が山東半島→朝鮮半島南部→日本列島を征服した。
指標となるのは水稲栽培と刺青。 漢族は大抵酷い漢字を異民族に付けるが、一番最悪なのが新羅のあった所に住んでいた穢だよな
ニイハオトイレ、痰吐きまくりの中国人が穢と名付けるって一体どんだけやねん ネトウヨって基本的に高麗時代の元寇以降にしか興味ないっぽいけど、最初の新羅の頃から日本との関係って吹くくらい凄いよな
最初からジャンヌ・ダルクが処刑されたイギリスとフランスくらい濃いというより英仏の因縁の方が後だろ 吹き溜まり朝鮮半島の時系列血統連続性を仮定し議論する必要があるのかよ?
エジプト人にあんたらはピラミッド造った人等とDNAが違うと言うくらい疲れる
話だ。中華ウン万年と半島半万年仲良く羊でも貝でも好きなのを名乗り会えよ。 >>140
南朝鮮は日本固有の領土だからな
新羅は半島系日本人に過ぎないし >>139
三国志には穢は民度高いとい書いてある
穢を不潔な連中だち言い張ってるアホがやたらに湧いてくるけど
そういうやつらは多分、穢と邑樓をごっちゃにしてんのだろう >>143
じゃあ何で民度の高い民族に穢という字を当てたのだろう 悪意はなかったのか?? 当時の中国人にとって、異民族に悪字をあてるのはしきたりであって当然のことだから、明確な悪意はないよ。 >>145-146
「穢」じゃない。「禾歳」じゃなくて「氵歳」。字が違う。
フォントがないからネット上では別の字で代用してるだけ。 BC1Cで【薉】「夫租薉君」印(貞栢洞第1号墳)
AD1Cで【薉】「東夷薉君南閭等」(漢書)
AD3Cで【濊】(三國志)で多出
AD5Cで【濊】(後漢書)
AD7Cで【穢】(晉書) 徐珂王淮骨令南閭峙
淮委氏沃委氏竝列藩 嶺東爲辰守郭 『契丹古伝』(AD10C)
淮骨令
淮委
薉
濊
穢
淮委氏・沃委氏の出自は徐州周辺にいた徐夷・淮夷だと主張している >>135
> 書紀では巨済島や統営あたりを強く意識している
> 後の世には馬山が半島への橋頭堡とされた
なにげに気になるなあ 茶戸里1号墓は中広形銅矛の分布域にある。
箕子の末に絡んだ韓王の墓であったとしても著しい不整合とかは発生しない ◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。
日本国籍を取得した在日中国人の数は、平成12年から平成21年の10年間で4万人以上[4]である。 2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。
日本国籍を取得した在日中国人の数は、平成12年から平成21年の10年間で4万人以上[4]である。 >>150
そんな事実はないから気にするな、>>135は電波 狗邪韓國と弁辰狗邪國と文字づらが似ているから同じとするのはいかがなものか
そもそものが
「狗邪國」は「弁辰狗邪國」として「弁辰亦十二國」のうちのの一國
「狗邪韓國」は「其(倭)北岸狗邪韓國」であって
「今使譯所通三十國」の「倭國」のうちのの一國
文字づらが似ているから同じとするのはまぬけそのもの >>155
「文字づらが似ている」って…
そんな理由で同一視してる学者はおらんわw 魏晋の同時代史の証言に逆らって
考え無しで
狗邪韓國と弁辰狗邪國とを同一視するような学者は
看板下ろしたほうが良い 弁辰十二國亦有王 其人形皆大 衣服巨エ 長髮 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻
だから
弁辰狗邪國 にも 有王
でっ
其十二國屬辰王 辰王常用馬韓人作之 世世相繼 辰王不得自立爲王
辰王はこれらの十二國の王と特定の関係にある
でっ その関係が辰王の称として現れる
安邪踧支濆 ← 弁辰安邪國 案斜+(殷)踧+岐賁 斜=邪(异体字)
拘邪秦支廉 ← 弁辰狗邪國 珂洛+秦+弁+支廉 狗邪+秦+支廉
弁辰狗邪國の王は長髮の華夏系で秦との絡みがあって
辰韓右渠帥の廉斯鑡との絡みもありそう
具体的には
駕洛國元君金首露(121-155-199) のご子息の居登王(170?-199-259)が
弁辰狗邪國の長髮の華夏系の秦との絡みがある王である
金首露がこの地に移動してきたのが155年となると
この地にもとからおった倭人と
長髮の秦系勢力の2つの勢力の棲み分けに思いを致すべき
狗邪 國 辰王と特定の関係にある入植した王の國
狗邪韓國 狗邪の地の韓姓の王の國 と解するとわかり易いか 九州に韓国岳(からくにだけ)というのがあるがこんなところにまで韓国の勢力が来てたのか? >>159
韓国=加羅国=任那 だから半島の倭人が移民してきたって事だろ
今の韓国とは別だよ 韓国の名前の由来が箕子の末の韓姓の王なのは既知
韓姓の王の巣がみまな狗邪韓國だったら
勝手に韓国の名前使うなという
心の狭い人も出てこないとも限らない >>157
別に逆らってないが?
>>158
>金首露(121-155-199) ←根拠なし
>狗邪韓國 狗邪の地の韓姓の王の國 ←狗邪韓って言葉にはそんな意味はない
>>161
最初の2行はぜんぶ妄想でできてるね 婆娑尼師今二十九年(AD155) 八月 比只與多伐・草八作亂 命虹盧加樹討平之 比只太子宝日戰没 次子朱日自召文還 主和 其弟裔(首露)奔于金官(駕洛) 『婆娑尼師今記』
以獻帝立安(建安)四年(AD199) 己卯三月二十三日而(首露)殂落 壽一百五十八歳矣 (79歳)(倍歴換算) 『三國遺事』「駕洛國記」
延優三年(AD199)
是年三月 <駕洛>主<首露>殂 <居登>立 『山上大帝紀』 金首露 (121-155-199) 侯準既僭號稱王 爲燕亡人衞滿所攻奪
將其左右宮人走入海居韓地 自號【韓王】
其後絶滅
今(魏晋代)韓人猶有奉其【祭祀者】
漢時屬樂浪郡 四時朝謁
---【魏略曰 至王莽地皇(20-23)時廉斯鑡爲辰韓右渠帥
表鑡功義 賜冠乍幘田宅
子孫數世
至安帝延光四年(125)時 故受復除】 ---
狗邪韓國の呼称は
狗邪の領域にあった 箕子の末裔とされる韓王がいた
韓姓の國 に由来するものだろうか
(祭祀者でもおk)
なお、別解も用意してあります。。。 「新撰姓氏録」によると神武天皇の兄である稲氷命が新羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
「三国史記」によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣である瓠公は日本人(倭人)
「三国遺事」によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説がある)
「古事記」「日本書紀」によると赫居世居西干の次男アメノヒボコが日本の但馬国に移住
「三国史記」によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師今は日本人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但馬あたりではないかという見方がある)
「三国史記」によると新羅三王家の一つ金氏の始祖である金閼智を発掘したのは瓠公(朴氏昔氏瓠公も全て日本人なので金氏も…) Y-DNAで既に答えは出ている。
韓国全体ではほぼゼロなのに半島南部沿岸部ではD1bが数%いる。
韓国全体では10%程度なのに半島南部沿岸部ではC2eが20%以上いる。
日本全体では6%なのに山口県ではC2eが17%いる。
半島から離れた千葉県でも11%いることから、C2eは倭人と考えられる。 北朝鮮王朝も金姓だから倭人系か?w
なんとなくチョン顔では無いよな >>170
今の金正恩は大阪在住の在日朝鮮人の高英姫の子供だから日本人の血が混じってるかも知れないな >>170
金日成(金成柱)の本貫は全州金氏
全州金氏の始祖は新羅第56代国王敬順王の第4王子金殷説から数えて8世孫にあたる金台瑞とされる
金台瑞が蒙古の侵攻によって全州に移住したのが始まり
よって金首露を祖とする本貫の金海金氏とは系統が異なるので倭とはあまり関係がないと思われる >なんとなくチョン顔では無いよな
もろ朝鮮的な顔だろうに
髭が生えず薄い顔で一見しておばさんにしか見えない半島のオジサンに多い風貌 >>166
日本側の史料と朝鮮側の史料で不思議と整合性が取れているように思える。
しかし新羅を日本の地方政権と見れば、どちらも日本側の史料になるので整合性が取れて当たり前。 http://www.sankei.com/world/news/160224/wor1602240022-n1.html
> 中国の邱国洪駐韓大使は23日、韓国の野党幹部と会談し、米軍の最新鋭地上配備型迎撃システム、THAADの韓国配備について
>「中国の安全保障に大きな影響を及ぼす」と反対した上で、「中韓関係を今のように発展させるのに多大な努力が必要だった。
>こうした努力は1つの問題のために一瞬のうちに破壊されうる。簡単には回復しない」と韓国を強く牽制した。
今の韓国を見ているとまるで三国時代の百済や新羅の様だ >>172
>金日成(金成柱)の本貫は全州金氏
だから何?
それ真に受けようって話したいならおまえは学問系の板でしゃべる資格ないよ
政治板とか国際板で言いたい放題やれ キムジョンウンが新羅金氏の末裔だから
韓国は百済に拘ってるんでしょ
ハクスキノエの戦い第二弾が始まるんやで でも、パックネ大統領も新羅朴氏の末裔って話じゃない? 高句麗 O2a1c(漢皇室と同祖)
新羅 3王家(朴氏:O1b2a1b、昔氏:日本生まれ、金氏:C2e2)交替で王位についた。
百済 O2a1b1a2(O−F444)
高麗 O2a2a(O−M188)
李氏朝鮮 O2a2b1a2b(O−F743)
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
昔氏は日本人ならD1bだろう 朴氏:O1b2a1b
藤原氏:O1b2a1a
同じO1b2系 王室の先祖が何系かって話と
その国の一般庶民の遺伝子の話は
一応わけて言わないと 過去に女性天皇が8人もいたし
新羅にも女王が3人いた
同族から婿を取らないと
男系の遺伝子も変わってしまうのでは? >>184
これは胡散臭いわけじゃなくて
ただの仮説を確定事項のように語ってるのが問題なんだよ 大半が姓を持たない賤民の出身なのに
新羅から代々続く朴氏や金氏なんて見つかるのか疑問 韓国人の大半が自称元両班
新羅から代々続く貴族(両班)などいるのか?
少なくとも高麗の支配者層は元の時代にモンゴル系に取って代わられているだろう >>189
「だろう」じゃなくて。調べりゃわかることなのに 全ての科学体系も仮設を確定事項のように扱って成り立っているけどな 俺たちだって系図からはもれなく橘藤源平にたどり着くわけで、どこだって一緒だ。 >>186
その仮説を否定する証拠が出てきているのに、頑として自分の意見をかえない。
例えば周の支配層はQ1でまず間違いないと言われているけど、奴隷身分の人骨から自分と同じハプロが検出されたから、中国の陰謀だとか言ってる。 >>190
どうやって調べる
半島は島国よりも民族の流入が激しいぞ
新羅から続く家系図などまず無いだろうし
新羅王墓から運よくミトコンドリアDNAを採取できたとしても女系じゃ意味ないし 最近はY−DNAの抽出精度が上がりかなり古い骨からも検出してるみたいだ ほとんどは偽両班だけど、全部ではない
そりゃ本物の両班だって子孫は作ったさ >>195
韓国の学者が調査をする可能性
韓国の学者が精度の高い調査をする可能性
韓国の学者が嘘の無い調査報告をする可能性
これらを掛け合わせると限りなくゼロに近くなる 調査結果を自分たちに都合が良いように解釈するだけで
調査段階から捻じ曲げてるのは少ないよ
そうでなければ縄文土器も弥生土器もそもそも出土しない ◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 http://nihonsinwa.com/page/1483.html
廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。
時人皆云「百濟國、雖屬既亡、聚夏倉下、實頼於天皇、更造其國。」汶洲王、蓋鹵王母弟也。日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。
久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。
朝鮮半島南西部に前方後円墳が作られるようになった経緯が日本書紀にはっきり書かれていたとはな
しかもこの新しい首都久麻那利(熊津)は元々の百済ではなく任那だったのを分け与えてあげたところだときた
漢城が陥落した後文周王、三斤王と相次いで王が殺され、倭に人質になっていた東城王で初めて安定政権となっている
475年以降の百済は文献で見ても考古学的証拠を見ても完全に大和朝廷の傀儡国だってはっきりわかんだね つーか日本書紀を読まずに論じるのは非科学的すぎるからな
日本書紀が韓国や北朝鮮に都合が悪いから封印されてるわけだし 半島のトンデモ学者のアホ説を一蹴して世界に正しい古代朝鮮史をアピールするために
日中朝の正史の内容を時系列順に平行して見比べられるデータベース誰か作らんかな?
もちろん日本書紀の年代は是正して、考古資料も並べて、あと現代日本語訳と朝鮮語訳と中国語訳も付いてれば完璧 日中朝の正史はどれも同じ干支で記されてるから
日本書紀の年代だけ憶測に基づいて変更する必要は無い どっかから120年遅らせないと対応する年代にならないときいたが? >>207
「どっかから」じゃなくて
神功皇后と応神天皇の朝鮮記事は120年遅らせると三国史記百済本紀に合う
逆にいうと三国史記百済本紀を120年早めると日本書紀に合う
しかしどっちが正しいのかは何ともいえない
その間の60年のズレかも知れないし
個別の記事ごとにズレ方が違うかも知れんし
ちなみに雄略天皇からはズレはない。
一説では仁徳天皇は60年ズレてるとも >>208
なるほど
しかし三国史記百済本紀の年代は正しいんじゃないのか?
前方後円墳造営と漢城陥落が綺麗に対応する訳だし 日本書紀 720年編纂
三国史記 1145年編纂
三国史記
新羅・高句麗・百済の三国すべてを「我ら」と記録することで最大限中立的に記述したとされるが、内容面においても新羅の比重が大きく、南北時代(統一新羅時代)と高麗朝を経て新羅人たちが記録した史料に大きく依存したため、新羅への偏重がある。
また、編纂者の金富軾が新羅王室に連なる門閥貴族であったため、また、高麗が新羅から正統を受け継いだことを顕彰するために、新羅寄りの記述が多い。
中国の史書においてより早く登場する高句麗の建国(紀元前37年)を新羅の建国(紀元前57年)よりも後に据えるのは、その現れである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98
その中の百済本紀という位置づけ 三国史記は新羅金氏が新羅王朝の後継として高麗王朝を建てたことを示すために書かれたものだから
高句麗と新羅の建国年が中国史書と食い違う年代になってる Q1. なぜスサノオは新羅に降りたのでしょう?
A1. 高天原から出雲に行く途中に寄り道しただけです。
Q2. なぜ新羅に降りたスサノオは「なんじゃこのクソみたいな土地は」と言ったのでしょう?
A2. 当時、倭と新羅の仲が険悪だったので新羅をディスるように日本書紀を書いただけです。
Q3. なぜ新羅神社でスサノオが祀られてるのでしょう?
A3. もともと新羅は日本の地方政権に過ぎません。 >>213
高天原を畿内とすると、丹波からの海流で新羅に着くからな
丹波出身の日本人が新羅王になったのもこの海流を使ったから 表記を中国が記す倭から、自国の意向で日本に変えたのだから、倭人は日本人でしょ >>215
三国史記には倭国とは別に多婆那国が登場し
当時の日本列島には複数の国が存在したと見るべきなので
日本人(もしくは倭種)と言った方が都合が良い Q1. スサノオは実在したのでしょうか?
A1. 神話上の存在です。
Q2. 本当にスサノオは新羅に行ったのでしょうか?
A2. 新羅をディスるために行ったことにしただけでしょう。
Q3. なぜ新羅をディスるのにスサノオが利用されたのでしょう?
A3. スサノオが新羅で人気だったので適任だったのでしょう。 倭人でも大和に背く勢力は大勢いた
半島に倭人の入植地や政権があったことと大和朝廷の支配下にあったこととは切り離して考えるべき 日本側の記述でも、新羅王の祖は神武天皇の兄と記されてるほどだからな 日本人と共にスサノオを祀る風習が半島へ渡ったということですね 倭国=日本 は構わないんだが
倭人=日本人 にすると半島や大陸の倭人が変なことになる >>214
多婆那国は但馬と丹波に跨る国だと思います
初代王の次男アメノヒボコが但馬に移住してるので
脱解王はその血筋かと >>222
国境が明確に定められてる現在でさえ大陸や半島に日本人はたくさんいるんだから、別に変じゃないかと
正確には、倭国⊆日本、倭人⊆日本人 でも、新羅の土着の日本人って表現はおかしくないか? >>224
記号の向き逆やで
半島には大化の改新後の「日本」に加わらず新羅に降りた倭人もいたことだろう >>227
日本は諸国連合だからこれで合ってる
日本の中の倭国、日本人の中の倭人
新羅に渡った倭人は新羅に渡った日本人というだけの話 >>227
向きは合ってるでしょ
⊆よりも⊂の方が適切 >>228-229
いいや
蝦夷や熊襲は倭に入るが日本という体制には含まれていない
琉球に至っては近代に至るまで日本の外だ
更に日本=大和朝廷という概念を遡って適用すれば筑紫磐井の様な日本列島内の反大和勢力も日本とは言えない
任那に至っては倭王が与えられた(名乗った)称号の中で倭とは異なる領域として区別されていて大和に従属したり反発したりしていて、これまた日本とは呼べない >>230
ここは多元王朝説で考えないと行き詰るでしょ
倭国と多婆那国の関係性を説明できますか? 日本という国をどう定義するかと言うのは国内の問題
大陸人や半島人から見れば九州王朝、出雲王朝、大和王朝、関東王朝、東北王朝も全て日本 賢い中国人「中原にあった国は全て中国」
バカな日本人「大和朝廷に反発してた国は日本ではない」 >>231
簡単だ
三国史記の多婆那国とは魏志倭人伝における投馬国と同様のもので、丹波(丹波+丹後+但馬)のことだ
新羅から日本列島へ向けて海に出ると海流の関係で日本海側のこのあたりにたどり着くことになる
従ってこの地域は新羅との交流が盛んで「親新羅」地域でもあった
この地域は瀬戸内海や淀川水系から離れていたため弥生時代末期までは畿内から独立していたが
前方後円墳体制が拡大することによってじきに大和朝廷の支配域に飲み込まれた
大和朝廷は日本列島西部ばかりでなく朝鮮半島にまで勢力を伸ばしたが仁徳天皇の崩御の後に崩壊し地方政権は事実上の独立状態となったのだ
もちろん万世一系による皇統の正当性を主張する目的のある記紀にはあからさまにそれが書かれている訳ではないが、
神功・応神・仁徳であれほどあった朝鮮半島での軍事行動が履中から安康まではぴたりと止んでいることからもそれは分かる
特に允恭期には新羅から医者を招いたり崩御の際に新羅王がこれを悲しんだなど親新羅な治世だったことが伺えるが、
これは大陸との交易のためのチョークポイントである関門海峡を筑紫の勢力に抑えられてしまっているから必然的に日本海側の港を使わざるをえなくなり新羅との交流が盛んになったのが原因とみられる
その後雄略天皇ことワカタケル大王が再統合を成し遂げ中華王朝からも朝鮮半島南部の制圧権を安堵されるが、これも一代で終わった
雄略崩御後の再分裂期に勝利を収めたのが継体天皇だ
筑紫磐井の乱は再征服戦争の最終局面にあたり、百済との同盟の再構築がここでなされる
多元王朝や九州王朝説はある意味では正しい
ただしそれは履中〜安康と清寧〜武烈の大和王朝弱小期の出来事だ >>233
琉球王国は倭人が祖先であり日本語と同祖の言語を話していたにも関わらず日本とは別の国家だったことをどう思うのかね?
今日本領の土地は全て日本と呼んでよいのならアイヌはどうなるね?渤海人はロシア人かね?
日本という概念を日本という言葉が誕生する以前に適用するこのナンセンスさよ! 土地を表す言葉としてなら問題ないと思うんだ
民族を表す言葉としては時代を考慮すべきだと思う
「ローマ帝国時代のイタリアでは」はOK
「ローマ帝国時代のイタリア人は」はダメ >>235
大和王朝側から見た日本という概念ですね
当時の概念では他の王朝は外国ということになるでしょうが
現在の日本から見れば大和王朝vs○○王朝はただの内戦に過ぎないでしょう
>>236
> 琉球王国は倭人が祖先であり日本語と同祖の言語を話していたにも関わらず日本とは別の国家だったことをどう思うのかね?
琉球王国は倭人の国ではあるが独立国、しかし近年になって日本に編入
その逆に新羅は日本の地方政権であったが大昔に独立
満州族は中国に取り込まれてしまったので
女真族(現満州族)の国であった高句麗は中国の地方政権であると中国人は主張しているよw
> 今日本領の土地は全て日本と呼んでよいのならアイヌはどうなるね?渤海人はロシア人かね?
アイヌ人も大昔に渡来して来た民も全て日本人ですが?
> 日本という概念を日本という言葉が誕生する以前に適用するこのナンセンスさよ!
日本の歴史を語る上で「あの時代あの王朝はまだ日本ではなかった」と屁理屈を言うのかな? >>237
「中国人が日本人に稲作や漢字などの文化を伝えた」と言っても問題ない >>235
投馬国の候補地は幾つもありますが
「投馬国=多婆那国」とする根拠は何でしょう?
水行20日、5万余戸の条件に合致するのでしょうか? >>230
倭を日本と言い換えたんだから含まれるぞ
変な思い込みが激しい奴だな 琉球王国の歴史もアイヌ人の歴史も日本の歴史に編入してOK >>242
古代には中国という国も日本という国も存在しないと言いたいのか?
「(古代の)中国人が(古代の)日本人に稲作や漢字などの文化を伝えた」
と解釈すれば良いだけ 歴史学やらかすつもりがあるのなら曖昧なタームは落第
「列島人」とかの表現だとニュートラル
ご先祖の土人の取り合いしても仕方がないだろ
雑多な土人が棲み分けをしつつここそこに涌いてる状態
どのみちそれらの混血のの結果が現在 >>241
丹波の元々の音価を*/taβma/と仮定したとき投馬 /tauma/が充てられたとする
そうなると多婆那は*/taβma/+那(≒邦)と解釈できる
*/taβma/はおそらく「玉(タマ)」の事で関東の地名の多摩川も丹波(タバ)川の転と言われている
(方言における鼻音化・脱鼻音化の他の例として蛇(ヘビ<ヘミ)や蜘蛛(クモ<クボ)などがある)
丹波という地名の由来は諸説ある様だが、ここでは糸魚川産の翡翠(勾玉)を大和や新羅へ商っていたために「タマ」と呼ばれ「タンバ」に転じたという新説を提唱したい
脱解尼師今が生まれた卵(玉子)もまた宝玉と解釈できないこともない訳だし
(ただし「丹波」「多婆」「投馬」「多摩」の声調は一致する一方で和語の「タマ」とは怪しい)
投馬国は「自女王國以北〜奴國、此女王境界所盡」の中に含まれていない
なぜかというと主要航路たる瀬戸内にないからだ
だが一大勢力ではあるので記述しておきたい訳だな
だから出雲から越国にかけてのどこかにある日本海側(瀬戸内とは異なる文化圏)の勾玉の積み出し港、
それが水行二十日の投馬国じゃないんかな? 魏志倭人伝における投馬国・邪馬台国の方角について問題があるのだが、この事情については行間を読めばわかる
不彌国までの戸数は「有〜」と断定形で書かれているのに対し
投馬国以降は「可〜」という仮定形で書かれている
このことに着目すると、倭へ赴いた魏の使者は福岡周辺から先へは実際に目にして戸数を数えてはいないのが読み取れる
よって邪馬台国や投馬国が南にあるというのは想像の産物なのだと断定される
なぜ北ではなく南なのかというと、倭以前に接触を持っていた黒歯国(おそらく台湾や沖縄のあたり)や会稽(「夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害」)との風習の共通性を見て整合をとるためだ
考古資料を見るとこの時代、畿内と日向の西都原で纒向形前方後円墳が出現しているのだが
これこそが単なる首長社会から領域国家へと大和朝廷が発展する段階にあった証拠と見れる
神武東征のモデルとなった出来事があったのだろう
奴国は関門海峡(大陸へ行くために必ず通らなければならない海洋国家系地政学でいうところのチョークポイント)で海賊行為を働いたり通行料徴収で大陸との交易を独占する九州北部の大国だったのだろう
つまり瀬戸内海沿いの首長が連合してそれを制圧し制海権を確保した訳だ
これが「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之」に繋がる
奴国を従わせた後、はじめて邪馬台国が大陸との通商を申し出る、これが「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻」の件だな
だから邪馬台国は最低でも瀬戸内海を使用する航路の先にある
邪馬台国は大和で間違いはない 血統偽装で話盛ってる観が強いよな意図的に南に誘導してる。
倭呼称も血統臭が漂う貝血統への誘導 中国人「中国は五千年の歴史」
野暮な日本人「中国の建国は1949年だろ」 縄文時代に日本人は存在するが、清朝に中国人などいない 日本の政権は常に一つであるという幻想だな
古代においては大和政権の力は一定して強かった訳ではなく、
一度統一を成し遂げてもそれを行った強大な大王が崩御するとその度に王子たちがその跡目を争って元の地方政権に逆戻り
そこから一人の軍事権力者が現れて再統一(大王の血を引いていなくても血筋を偽り王位継承者を騙る)、このパターンの繰り返し
任那にしても大和が統一政権として機能している時は従属を強めるが
分裂期になると独立を強める、もしくは九州の地方政権の傘下となる
おそらく倭の五王のうち本当に大和の大王だと言えそうなのは賛と武だけであとは筑紫国造だろう
大和王権が万世一系のもとコンスタントに日本列島で勢力を拡大してきたという史観
このマンセー洗脳学説はそろそろ通説の座を降りて、一時的多元王朝説が国民に広く受け入れられるべきだ
でないと却って韓国人の「ウリの祖先は古代チョッパリなんかに支配されてないニダ!」史観に反論するにあたり不利となる 天皇は王じゃなく、諸国の諸王を纏めるために擁立された存在だからな 王朝が乱立していたなら複数の倭王が中国側に使節を送ってそうなものだが
そのような記述は一度もないけど
つうかなんですぐに反旗翻してぽしゃった筑紫国造が本当の大王と言えるんだよ
おらが村史観ってやつか >>258
反旗を翻した?それは一方的なモノの見方だ
なぜ朝敵である筑紫磐井があの立派で巨大な岩戸山古墳に埋葬されねばならない?
筑紫は雄略の没後、大和朝廷の権力が及ばなくなって独立を取り戻したと考えるべきだ
つまり、古代筑紫王国の王位継承者として磐井が立ち、それが大和朝廷の再建者たる継体天皇に征服されたとね
その証拠に記紀には清寧〜武烈の期間に地方へ権力を及ぼした描写がない
それほどまで大和朝廷は弱体化していたのだ
中華王朝へ使節を送ろうにも関門海峡で妨害を受けるだろうし、
そもそも畿内ですら安定化できていない状態で倭全体の王のお墨付きを貰いに行ける余力があるだろうか?
その一方で筑紫は独立を謳歌した
大陸との交易で富を蓄え、正式な倭王として承認を受ける余裕が十分にあったのだ
「漢委奴国王」よもう一度とばかりにな 今日本書紀読んでみたら地方へ権力を及ぼした描写が全くないという訳ではないんだな失敬失敬
清寧以降も惰性で吉備とか信濃あたりまでは従ってるみたいなんだが
でもやっぱり九州に関しては何も書かれていないので筑紫は分離独立したと見てよさそうな気がする
5世紀末〜6世紀初頭で裏付けになる遺物が(北九州地方最大規模を誇る権力の象徴)岩戸山古墳以外にもあればいいんだがどうなんだろうね?
>>260
日本書紀の武烈天皇のところで百済が再登場していて、ちょっと盛り返した感ある
でも相変わらず九州地方についての描写が皆無
だから継体期で筑紫の再征服
実際百済を支援しようと船団を派遣したところで妨害したのだから
当然これは帰順していないということ 継体墓から阿蘇ピンク石というのでぜんぶばれちゃうわけでね 九州の話がでてこないといっても特に事件がなければそりゃ出てこないだろうが
それ自体は九州を支配してなかったことにはならないだろ
九州を安定的に支配できてなかったら半島南部を恒常的に支配もできない >>267
九州のことも半島南部の支配も書かれていない
長寿王率いる高句麗が倭に勝利したのを記念して石碑立てた後も絶好調で拡大続けてるあの戦乱の時代
軍事介入できる余裕があるものなら好きなだけしていることだろうに全く無視だ
都合の悪い出来事はあえて書かない
これは朝鮮の正史でも一緒
都合のいい事は尾びれ背びれをつけて強調される
日本書紀での仁徳天皇のあの異常な持ち上げっぷりのように
平和に支配できているのなら九州ゆかりの氏族が大喜びでもする様子でもかかれるだろうに
それすらない >>264
>>265のアンカ間違えた
それに広開土王碑は雄略の前の話だったわwwwwwww
この時代だと既に漢城が落ちていて、慕韓(のちの百済南部)に前方後円墳を築造してる時代になるんだった >>259
あのさおじさんちゃんと記紀の原文読んだことある?
毛野臣軍が磐井とともに出仕していたときの友情を理由に討伐を断るくだりがあるよね
もし独立していたならそんな記述出てこないだろ >>267
百済の王子斯麻(武寧王)と同様に大和へ人質に出されていたと考えれば何の矛盾もない
地方の豪族が子女を朝廷に出仕させる例は多い まあでも天皇とかそのあたりも弥生時代に南朝鮮から来た人間の子孫だろうし 桓武天皇の母の遠祖が百済王家だったことから立太子を危ぶまれたことも知らんのか >>270
それはかつて朝鮮半島から来たことが分からなくなったからだろうに
ロシアでリューリクがゲルマン人なことも
ロシアの語源がゲルマン語であることも否定されてるのと似ている。 百済も新羅も日本の属国なんだから、その王族が宗主国の日本の皇族に嫁入りするのは普通だろ 純粋な縄文人に近いハヤトや蝦夷やアイヌの方がヤマト民族より偉い? なんで貴重な民族であるアイヌを日本人に同化させてしまったのだろうか そりゃ同化しないと反乱を起こすからね。
相手は騎馬民族だし、弱くはないし。 琉球語禁止って方言札のことか
あれは全国各地で行われたから何も沖縄に限った事でわない >>275
いやどっちも純粋な縄文人とは全然違うから
何を根拠にそんなアホな考えに行き着くんだか >>273
桓武天皇の母は百済王族じゃないし、その時代って百済って国はとうに滅亡してるよ
桓武天皇の母は日本人で和氏の娘 三国史記の新羅本紀に312年倭王が新羅王の娘を求めたが
家臣の娘を偽って嫁にやったってちょっと笑っちゃう記述があるよな >>281
どう考えてもネトウヨだろ。相手にするなよ どう考えても蝦夷やアイヌの方が縄文人に近いだろ
天皇家とかの畿内人よりは アメリカでもヨーロッパと対立したら「われわれはインディアンと混血してるからヨーロッパとは全く別!」
と主張するとか言われてるな アメリカ白人がコア血統見失うかよアフォがw
国家の重要な基礎だティーパーティが先住系なんたらぬかすかよ
中国大陸人中共が偉大なモンゴル草原母なるシベリア大陸なんて
抜かすかよ >>287
で、国内のインディアンを指して
「あれはなりすましの偽インディアンだ」と言う >>225
日系ブラジル人5世みたいなもんではないか? アンデス文明を自分たちのものだと誇らしげに語るスペイン人はいない。
ところが百済文明は自分たちのものだと誇らしげに語る韓国人かいる。どういうことだ。
渤海と元の時代に雲散霧消しているのだ 百済がなくなるとは実にクダラナイ!
高麗も滅亡してコマりましたよ
新羅まじでシラケルわ〜
全くこれだカラ韓国は・・・ >>293
Fランク大学の落語研究会かと思ったよw くだらない、の語源は百済という説は実際にあるぞ
しかもそこそこ有力 中央政権である大和の地から遠い韓国までクダル(下る)からクダラ(百済)なんだよなあ >>296
別に有力じゃないんだけど
そこそこ、がついても無理がある 「韓(から)」の語源は遠く(かの国)へ行くという意味の「離(か)る」だぞ
「唐」や「漢」も「から」と読むのも同じ、遠くの国という意味な
(むしろ逆に「カ」という遠称の方の語源がかの国たちの名前かもしれないけどwww)
「韓 /*ɡaːn/ 」や「漢 /*hnaːns/ 」 という漢語は倭人の言葉で遠くの国って意味の「カラ」に当てたもので
現地人はこの言葉を「海岸」という意味にしたり川の名前として解釈していた
そしてちょうど「岸 /*ŋɡaːns/」というのがその海や河川のほとりを指す普通名詞として漢語に採用された形だな
あと朝鮮語でも「가(カ)」で「端、ほとり、〜辺」を指す 【韓国】また日本の教科書が歴史歪曲・・・「新羅が日本に朝貢」と主張(聯合ニュース)[05/09] [無断転載禁止]©2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1462752027/ 百済語ってやっぱし日本語なんじゃないん?
蓋鹵王の蓋鹵は今の日本語読みだとカイロで朝鮮読みだと개로(ケロ)だけど
上古漢語だと/*kaːb raːʔ/(カーブラー)
「カブラ」は「カムル(被る)」とか「カムリ(冠)」に近い言葉で
おそらくは「上に立つ者、リーダー、長」といった意味合いだろう
朝鮮語に골 kolという言葉があって「脳」や「村」といった意味がある
村の方は고을 koulという言い方もあって、中期語だとᄀᆞ옳 kʌγorh
おそらくこれが成れの果てで、「蓋鹵」に治められる領域とかそういうのが原義だと思われる 蓋鹵王が何と呼ばれていたかなんて当時の百済人にしかわからん 蓋鹵王は諡号だろ
日本書記だと「カスリノキミ」というらしいからこれがカスリあたりが諱だと思われる https://en.wiktionary.org/wiki/%E8%93%8B
じゃあ別の読み方の方をとって/*kaːbs raːʔ/だろ
「カブサリ(被さり)」なら「カスリ」とも大きくは違わない
「対馬」の上古音が /*tuːbs mraːʔ/でこれをtusimaと読むなら当時bsのbは消えている計算になる
これに従うと「蓋鹵」の読みは*kasra
「カブサリ(被さり)」由来じゃなかったとしたら「큰 khɯn(大きな)」あたりだと思う
khɯn < *ksɯ-ɯn < *kasɯr < *kasuri
この様に変化した元が「カスリ *kasuri」
この語自体も日本語の「カサ(嵩) kasa」や「カラム(絡む) karam-」と関係がある様にも見える(あと満州のgolminとも) よく考えたら「蓋鹵 *kasra」にぴったりな日本語あったわ
「カシラ(頭) kasira」
これならリーダーと頭部の両方の意味があって、朝鮮の「골」とも音と意味が合う
村の意味の方の「골 kol」だと中期語が「ᄀᆞ옳 kʌorh」だからより「カシラ」や「カブサリ」にも近くなる もしかしたら頭部を表す日本語の「カシラ」と「カブシ」はどちらも動詞「カブサル(被さる)」から派生したのかもしれない
「蓋 *kaːbs」という漢語は縄文時代の倭人の言語が中原に渡って上古漢語に取り入れられたものとも考えられる >>307
「髪」を「か」と読んだ「髪蔓(かつら)」が語源であろう。
「つら」は植物の「つる(蔓)」の古形で、上代のかつらは花や羽、蔓草などの髪飾りをいったことから、
「髪蔓」の説は妥当と考えられる。
(ググル先生) 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>304
>>305
そういう言葉遊びに何の意味があるの
昔はやったタミル語同系説とかわらない >>310
大野晋は同系語を集めたか?
双方で周辺語彙を集めてその言語の中での派生状況を明らかにしたときにはじめて明らかになることがある >>310
あれはあれで意味はあったよ
タミル人から長江系の遺伝子が多く出たからね そりゃ稲が来てるんだから人も来るだろ
タミル人の来る前はオーストロアジア人がいたんだぞ 三国時代の言葉を今の朝鮮語の読みで解釈しようとしてる時点で全然お話にならない
今の朝鮮語で郷歌とか読めんだろ まあ、誰もあえて言わないようにしてたんだが学術的には
16世紀にハングルが出来るまで、文字史料が皆無に近くて
それ以前の朝鮮半島の言語である
百済語、新羅語、高麗語、高句麗語は全く不明というのが定説
地名などから推測した仮説しかない 文法なんかさっぱり不明
言語が不明だから各国の民族系統も不明だ 江東六州の女真族の併呑、渤海や遼、高麗末期の女真からの数十万単位での亡命とか
史書に現れてるだけでも何度も人種構成が変わるほどの移民があったのに三国時代から言語がかわってないとかまずありえん 日本書紀によると百済の史書では巨勢のことを既洒と表記していたとか
だとすると上古日本語と百済語が同じとかまずありえない >>318
訛った日本語と現地半島土人語との混合だろ
記紀に載ってる百済語を見てもそんな感じだ 渤海の言語が朝鮮語にどれくらい影響与えたかわからないが
社会の中枢に入ったわけじゃないだろう 「巨勢」の上古の発音は*kəsəi
「既洒」は上古漢語では*kɯds sreːlʔ(Zhengzhang 2003)
百済語ではそこからいくらか変形して*kɯsejあたりになっていたと考えられる 中期語あたりまで母音調和があったとされるけどこれはモンゴル語か女真語か渤海語の影響かよくわからない
前期語と中期語の間に大母音推移があったと推定されているからこの時代に起きたどれかの民族移動の影響を受けたのは明確
>>319
「朝鮮燕行使」によると咸鏡道の人々は通訳なしで女真と会話できたとある
つまりこの時代まで朝鮮北部と女真語にさしたる違いはなかったわけだ 巨勢の上古の発音はコセだろ
既洒だとキキになる
>>322
百済語の音韻とかどうやってわかるんだよ
支配層の扶余と非支配層の馬韓系にわかれていたことしかわからん それは普段から現地の朝鮮人が女真語を女真人との意思疎通のために日常的に用いていたからだろ
朝鮮語が女真語に近かった訳ではない >>324
上代特殊仮名遣いを無視するなよ
そもそも既洒はキキなどと読む民族はこの地球上のどこにもいないしいたこともない
ちゃんと勉強しれ >>321
入りまくっているぞ
大光顕とか「王」姓を与えられて高麗王家と同等の待遇を得ているし そもそも李氏朝鮮語と高麗語との関係性が不明
高麗時代の郷歌が李氏朝鮮語で解読困難なことから
別言語であったとされる 渤海語って夫余系だったか
でもその言語はわからないんだよな >>328
高麗の言語と李氏朝鮮の言語が別だなんて説、聞いたことないが
その説って、合理的かつ客観的な出典はほんとに示せるのか?
それが無い限り、眉唾としか言いようが無い 百済滅んで新羅が唐の下僕になったせいでそれまで伝えられてきた古韓音が全部今の唐代音ベースのつまらん読み方になったのが痛い
あの文化断絶のせいで今でも三国時代の人名地名は正しく読まれることがない とりあえず古代の韓語ベースなのは間違いないだろうな 下手しなくても古韓音のが殷代に近い由緒正しい漢語だぞ >>334
待て
韓語と漢語は全く違うぞ
固有語としての韓語に則った訓読みもしてた可能性が強いってことだな
例えば日本書紀で百済の「城」を「さし」と読む慣例もそうだろう
古代の固有語彙だと「城」は「jas(チャッ)」だったと推定されてる
(現代韓国語の通常の語彙だと「城」は漢語由来の「song(ソン)」という) >>336を少し訂正
現代韓国語の「城」の読みのアルファベット転記は
「seong(ソン)」だったな
母音の発音が広く口を開ける「オ」だから
( o は口を小さくすぼめる「オ」の母音)
いずれにしても、古代の百済で「城」を指す通常の語彙が漢語由来ではなかったのは、ほぼ確実 >>336
朝鮮語の起源を南方からの縄文語と西方からの先史漢語との混合ないし中間言語だと考えることでそれはすべて解決する
別々の言語に分裂することは中間形態の言語の消滅によって起こるという理論から考えれば朝鮮語を日本語と中国語の中間言語だとみなしてもおかしくはない
(ただしその分裂は七千年以上も遡るため決して同語族という認定は得られない) 日本語も朝鮮語も日本でいう弥生時代くらいに稲作渡来民が伝えたんではなかろうか 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>339
渡来したのではなく、初めから朝鮮海峡から瀬戸内海にかけての海上で生活していたんだろ
渡来人ではなく海人という純然たる日本系民族
倭人は沖縄産のコヤスガイを交易して殷にもたらしている
縄文時代からすでにあった交易ネットワークの広さからして、
日本列島からいわゆる「貝の文化」がやってきて内陸の「羊の文化」と融合することで中華文明の成立に寄与したと考えても不自然ではない >>338
先史漢語とはどのような言語で一体どのくらい復元可能なんですか
縄文語とはどのような言語で一体どのくらい復元可能なんですか
それらが混交したと推定するに足る根拠は何ですか
きちんとした定義付けと裏付けになる出典の明示を求めます まず朝鮮半島は12000年前から7000年前まで無人であったこと
これは認識しておいてもらいたい
そこに7000年前に縄文人が北上してきて櫛文土器時代が開始される
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/bb/2d210a15e7bbd9c938c3f3a54a67a69b.jpg
そして朝鮮語とアイヌ語の1〜4は類似している
1 han shine
2 tur tu
3 ses re
4 nes ine
それ以外にもいくつか一致する例はあり、アイヌ語と朝鮮語の語彙は日本語と朝鮮語よりも一致が多いという
http://koto8.net/yasumoto/yasumoto_gazo/nihon_tyosen_ainu.png
この縄文語の基層の上に後発で入ってきた倭語と漢語が乗っかってくる
倭系(列島を出なかった縄文人)と韓系(半島南部〜東部に定着したオールドカマー)の中間形態として扶余系(半島西部〜北部に定着したニューカマー)
北西からは遼河文明の言語(実態不明)が農耕文化を伴って波及、さらに黄河文明から殷代の言語の特徴を残した上古漢語話者も入ってきて辰韓地域に定着
燕・趙から来た勢力が箕氏朝鮮を建国、これがつぶれると、六朝時代の江南から馬韓地域へ稲作も到来し、百済では三足式土器も作られる
この様なゴチャゴチャの中で朝鮮語は作られていった訳だ
政治的統一のない状態で地域ごとにてんでバラバラに日中双方から借用していったため、綺麗な対応関係は付けられないし類縁関係も証明できない
だが朝鮮語は地理的な位置と同様日中の中間の起源を持っているといえるはずだ 半島全体が酸性土壌な事を考えると
絶滅した原因は火山の噴火なんだろうね 中国語と朝鮮語の関係を見るためには中国語が著しい変形と声調言語化を遂げた以前の姿を復元して見る必要がある
幸運なことに現在では以前よりも精度の高い上古漢語の復元がある
それによると上古漢語と朝鮮固有語の間に明らかに同根のものがあるのがわかる
例えば「酒 *ʔsluʔ」と「술 sur」、「風 *plum」と「바람 param」、「絲 *slɯ」と「실 sir」など
また朝鮮語には明らかに日本語と音が似ていてそれが意味する範囲が同じ単語がいくつもある
例えば「掛く *kakəi-」と「끼다 kki-da」、「솟다 sos-ta」「돋다 tot-ta」と「そそる *səsər-」、「뒤 tui」と「後 *atə」など多数
さらに
「子 ko < *kua < *kuar < *qar」と「알 al < *ʔar < *qar」
「火 hi < fi < pi < *pɨ < *pui < *puri」と「불 pur」など
関連語も合わせて用例を詳しく見て行って初めて同源を匂わせる分かりにくいものもある >六朝時代の江南から馬韓地域へ稲作も到来し
間違えた、六朝はない、もっと千年くらい前の筈だ >>331
眉唾もなにも高麗語自体が「謎の言語」というのは定説
詳しく言うと高麗語で書かれた信頼できる史料はク歌数首以外
「郷薬救急方」
13世紀半ば、高麗王朝時代に編纂されたという医薬書
本文は漢文体で薬草の高麗語名などが借音漢字で書かれている
「鶏林類事」
12世紀初頭、高麗朝時代に宋が編纂した辞書のようもので
約350語の高麗語が仮借漢字で記録されている
以上以外なにもなし
借音漢字といっても実際にどのように発音したかは謎
文法も謎
これで高麗語と李氏朝鮮語と同系統と考える根拠が逆に知りたい
同じ半島にあったから、なんとなく?
バルカン半島はギリシャが長年支配していたからセルビア語も
アルバニア語もギリシャ語と同じだろ常識で考えて
みたいな? 最悪でもアヴェスター語と古代ペルシア語の間くらいには近いだろ 朝鮮固有語って何?馬韓語?弁韓語?高句麗語?一体どれのことを言ってるんだ 自称固有語
漢語でもなければ外来語でもなかろうとされているものの総称
実態は様々であり、標準とは違う読みをする漢語だったり古い日本語からの借用だったりすることも多い >>348
高麗人も李氏朝鮮人もみな檀君の子孫というウリナラ歴史観的には
眉唾なんだろ ここ最近のレスって、一件「もっともらしそうな」こと書いてても
きちんと学界の検証を受けた客観的な学術論文の出典の明示が全然出てこない辺り
どれも本気にはできない内容ばかりのような さすがに歴史時代にはいってからの言語の置き換えは無いだろう 中期語ですら「曇りガラスのむこうを見るようなもの」(李基文)でろくに復元できてないのに
前期語よりさらに前の原三国語とかもうほとんど妄想の世界ですわ >>354
だよなあ
(もともと言語が違っていたらしい「高句麗」対「百済(の多数派)・新羅」の場合はともかく)
南西部以外の大部分の領域が禅譲された格好の高麗と李氏朝鮮の間で言語が完全に置き換わるようなことになってたら、
中国や日本、或いはモンゴル辺りの史料に何かしらそういう状況変化が記録されるのは確実
記録の多くが散逸した古代ならともかく、中世の記録にまで周辺諸国含めそんなことが全く記録されてないってことは、
そういう事実が無いからわざわざ記録するはずもないってことだな、普通に考えて あー ごめん
>>35の3行目を訂正
訂正前 南西部以外の大部分の領域が禅譲された格好の高麗と李氏朝鮮
訂正後 南西部以外の大部分の領域が穏健に禅譲された格好の新羅と高麗の間や、全域が(形式的には)禅譲された格好の高麗と李氏朝鮮の間で たびたびごめん
>>358の訂正は
「>>35の3行目」じゃなくて「>>356の3行目」だった 李成桂は30近い女真族の猛安を率いていたことが太祖実録に記されているが
彼らの言語が何らかの影響を朝鮮語に与えた可能性はないだろうか ハヤブサのことをソンゴルメというのは満州語のションコロからだな >>360
名詞その他で外来語として採り入れられたものは少しはあるだろうけど
構文はもともとそっくりだし
代名詞の格の表現が明確に助詞と代名詞に分解できるかどうかとか
形容詞に活用があるかないかとか
用言の常語表現と丁寧語表現の区別が明確であるかどうかとかなどの点から見て
一般的な影響、特に文法的な影響はほとんど無かったと見る方が無難だと思う
文法的には、女真・満洲語よりも日本語との近似性のほうがずっと強い >>361
「メ」がもともと韓国語で「鷹」を指す名詞だから
それは後から合成語としてつくられた名称ってことだろうね
「隼」を指す名称としては「ソンゴリ」という言い方も韓国語にあるけど、それは狩人の間での用語ということなので
さほど一般的な名称ではなさげ
似たような事例としては、日本語でもカササギに「カチガラス」という別名があるね
韓国語でカササギは「カチ」だから >>363
狩人が狩猟民族の言葉を使うのはマタギみたい 魏志弁辰伝の優由国を慶尚北道の蔚珍郡に比定するのはどういう根拠があってのことなんだろう?
地理関係順に記載されているとしたら倭に接する弁辰瀆盧の次が慶州を中心とした後の新羅である斯盧国で、その次だから確かに海岸線沿いならそのあたりになりそうなのだが
もしや優由の上古漢語音が/*qu *lɯw/だから高句麗時代の于珍也/*ɢʷa *ʔl'ɯn laːlʔ/郡や統一新羅時代の蔚珍郡の「蔚 ul」との繋がりがありそうなのも判断材料なのか? >>362
扶余系の言葉である高句麗語とかが残っていれば、それとも近かったんだろうな >>365
出典をはっきり書いてくれないと、ほんとかどうか分からない
それってほんとに学会誌とか研究紀要とかで発表されてる内容に則った話?
>>366
ごめん、「近かった」にかかる主語は何? http://ci.nii.ac.jp/naid/110008729374
紀要で発表されている話だ
本文が読めないのでどうしてそういう比定になったのかが分からずにイライラする >>368
その紀要が蔵書として入っている図書館に行ってみるというのが一番手っ取り早いかも? >>365-369
たぶん由の字は正しくは中だったのを由に誤写したという説じゃないか
他に田だったという説もある
優中は蔚珍とも音が近く、太秦(うつまさ)の「うつ」はこれから来たという説。
優由とする説では蔚珍ではなく楡川に比定される(烏也山県の)
優田とする説ではどこだったか忘れた 楡川って江原道江陵市楡川洞のことかな?
めっちゃ遠いしめっちゃ範囲狭いやん
邪馬台国九州説並みに無茶やで >>371
あんたそれぜんぜん違うぞw 慶尚道の楡川だよ 弁辰狗邪国と倭の狗邪韓国の関係がようわからんな
もしかしてのちの倭館みたいなもんで、弁辰狗邪国の中に倭人地の狗邪韓国が作られてたりしたんだろうか? >>373
ネット頼みで古代史騙ってんじゃねぇよw 清道郡な
>>374
同じものだぞ 紙の本は間違いがあっても訂正できないから最終的にはネットで確認しないと真偽をはっきりさせられない >>375
横レスだけど、
清道郡の地名を調べてみたら、清道邑の楡湖里っていう地区は見付かった
だけど、楡川っていう地区はよく分からないな
どのあたりにある? ネットとか活字とは比較にならないほど誤字脱字のオンパレードだろうに >>377の参考文献は書籍の「大韓民国地名便覧 2012年版」 誤植じゃないの?
ああいう文献にはそういうのがたまにある >>379の資料については、ハングル表記とカタカナ転記も書いてあるので
楡湖(ユホ)は楡湖(ユホ)でほぼ間違いなさげ
楡川という地名はその資料の清道郡の箇所には出てない 任那の構成国の一つ、喙国は「トクノクニ」と読むが
喙を「トク」と言うのは音読みではなくどうやら古代韓語の訓読みらしい
(呉音ではケ(クヱ)、漢音ではカイ(クヮイ))
朝鮮語で"顎"を「턱 thək」というのがその末裔っぽい
おそらく朝鮮半島の日本側を頭に見立てて洛東江の河口を口としたのだろう
そこが倭と国境を接する弁辰瀆盧国であり後の喙国にあたると思われる 内湖里・楡湖里地域では高速道建設に伴い若干の遺跡が発見されているらしい
https://www.google.co.jp/search?q=%e5%86%85%e6%b9%96%e9%87%8c%e3%83%bb%e6%a5%a1%e6%b9%96%e9%87%8c
この地域の遺跡で著名なのが10kmほど川を下ったところの密陽校洞遺跡で
丸太木棺墓から所謂前漢鏡が出土している
先方では密陽は彌離彌凍國@弁辰 (卒麻)に比定されているみたいだ 卒麻か
http://flood.firetree.net/?ll=35.3670,128.7503&zoom=11&type=hybrid
あのあたりは昔大きな汽水湖があったらしいな
でも彌離彌凍とは違うと思うぞ
ソチマとだったら走漕馬国のが名前が近い http://i.imgur.com/Cfm2Kt5.jpg
とりあえずここにも貼っておこうか
自作の辰韓地域の国がどうなってたの図
この前やった倭国ヴァージョンと同様、あくまでも言及順に一筆書き可能という仮説に基づいた比定だょ 確証ないのに公式でそういうことにしてしまうのがウリナラらしい >>388
「公式で」と決めつけるのは勇み足だろう
学界がそう決めたという話ではないし go.krというドメインの末尾が見えんのか?
韓国の自治体の公式ホームページじゃぞ? 今馬韓の部分の比定をやっているんだが
韓伝の支侵国と同じ支侵が日本書紀で百済記からの引用として言及されていることに今気づいた
枕彌多礼(済州島)、峴南(不明)、谷那(全羅南道谷城郡)、東韓(不明)と共に阿莘王の治世に百済から離脱してしまった地域なのだそうだが
本来の百済の実力では服従させることができずに倭に征服してもらった与えられたところとなるとどのあたりが妥当なのだろう?
全羅道の領域にキシムみたいな古名の土地あったかな? 解決した
百済の今勿県(居斯勿礼)→唐の支潯州隆化県→新羅の今武県=現・礼山郡鳳山面
ここだ >>390
いや、そのことを言ってんじゃなくてさ
考古学界の関係者が「公式で」決めたわけじゃないでしょってこと
自治体の「公式サイト」には違いないかもしれないけど
そういうことって世界中あちこちであることじゃないか
遺跡や古墳などの由来について、定説ではない、または別の説のほうがずっと有力であっても
地元は「ここが何々の遺跡です」とか「ここが誰々の古墳です」とかで通してて
よその人は話半分で聞いてるけど揶揄したりはしないってことはままあるし
取りあえずこの件はここまでにして、次の議論いこう 日本の自治体公式ページ:そうかもしれませんよ
韓国の自治体公式ページ:そうであるニダ
学者がどうこうじゃなくて現地自治体の見解がそうであるということ
この違いは大きすぎる
日本じゃこういうことはまずない
吉野ヶ里遺跡があるとこがうちは邪馬台国ですとか言い出すのと同じくらいありえない もうそこまでそこまで
議論の本質がそっちのけになる
単に揶揄するだけのレスならどっかよそでやってくれ
ここはそういうスレじゃあない 百済の(一番最後の)都の名は所夫里(泗沘)
新羅の都の名は徐羅伐(曽尸茂梨)
siopuri(siabi)とsiɔrabɔr(sosimori)でよく似ているねえ
思うに「所(泗)」「徐(曽尸)」は日本語の「シロ(白)」と同源の言葉で、
広い平原の広がる明るい(景色が白い)場所というのが転じて都を意味するようになったんではないかな
古代の日本語でも「シロ」は色のことというよりも明るいというニュアンスだったらしい(色を表す言葉がおおざっぱにシロ/クロ/アカ/アオしかなかったらしい)し
新羅の都の漢名が「金城」だというのも金色を明るい=白いととればやはりつながってくる 馬韓の駟盧国は用字の類似からして泗沘(扶余郡扶余面)だと思われる
駟盧を上古音と中古音の中間の/*sis-ra/と読んで「白い(明るい)ナ(土地)」と解釈できる
当時は錦江のエスチュアリーが深く切り込んでこの場所は汽水湖となっていたことだろう
そして土壌流出とともに広い盆地へと変わった(ただしもしかしたら朝鮮半島の浸食の酷さと農耕の伝来時期から考えて、もしかしたら当時でも湖は埋まっていたかもしれないが)
http://flood.firetree.net/?ll=36.2527,126.8287&zoom=12&type=hybrid
これに対応する国名として狗盧国が挙げられる
その場所は名前の類似から古良夫里県→青正県(青陽郡)が有力である
狗盧/*kura/・古良夫里/*kuraŋ-puri/、日本語の「クラ(暗)」「クロ(黒)」に通じていそうだ
統一新羅時代に変えられた「青正県」と言う名からは「暗い=青」が思い起こされる
比定地は山あいの谷間にあり、泗沘とは対照を為す暗い景色だったことがうかがえる
面白いと感じたのは現代の朝鮮語で白を表す言葉は「하얗다」「흰」「해-」など"s > h"の音韻変化を想定すれば日本語の「シロ」と近いものなのに対し
黒は「검-」「까만」とあってどちらかというと日本語では「コモル(籠もる)」「クモ(雲)」が近そうであるということ
(ただし雲を意味する朝鮮語の「구름」だと「クロ(黒)」に近い)
この現代語との差を見ていると馬韓語・百済語はやはり日本語と朝鮮語との中間言語なのではと思えてくる 馬韓語と百済語は同一言語ではないだろ
百済語は恐らく高句麗やワイと同じく扶余系と考えられるがよくわからん 朝鮮=北燕 楊雄「方言」
秦=辰韓 「後漢書」有似秦語、故或名之為秦韓
辰韓=弁辰「南斉書」 衣服居處與辰韓同。言語法俗相似
馬韓≠辰韓 「三国志」其言語不與馬韓同
高句麗=扶余 「後漢書」東夷相傳以為夫餘別種、故言語法則多同
高句麗=穢 「三国志」言語法俗大抵與句麗同
高句麗=沃沮 「三国志」 其言語與句麗大同、時時小異
高句麗=百済「梁書」 今言語服章略與高麗同
漢=新羅≠馬韓 「梁書」其言語名物有似中國人、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、不與馬韓同 >>399
特に熊津遷都以降は、旧馬韓系の在地貴族勢力の力が強くなったみたいだよ
長年南部に住んでいれば、王族をはじめとする扶余系貴族の韓化も進んでいっただろうし
聖明王が泗沘遷都後に国号を「南扶余」に改めたっていう記録が三国史記に出てるけど、
これはむしろ「扶余系だ」ってことを再確認したかったって意図がありそう
これ以外に「南扶余」の国号を名乗る記録はどこにも出てなくて、あまり定着した形跡がない >>399
なーんか朝鮮民族成立以前の朝鮮半島の民族構成って日本列島から時計回りにらせん状に一周半してる感じがあるんよなー
倭-百済-高句麗-濊狛-韓という順序で少しずつ語彙が違っていって言語連続体がかつて存在した様な感じがある
>>402
わざわざ図までつけてるけど
それってどこの誰が唱えてる説?
ちゃんとした論文から複数の出典を示せる? ここをどこだと思っているんだ?
天下の便所の落書き2ちゃんねるだぞ 京城を固有語のソウルにするぐらいだったら
スウォン(水原)も高句麗時代のメホル(買忽)に戻せばいいんだ
日本語でいうとミキ(水城)だからかなり近いぞ 三国史記の地名を見ても朝鮮語の中に時折日本語として解釈すれば意味が通じるパターンがみられる程度で
北の方に行ってもツングースになる気配が一向にないんだよなあ
満州語は赤色のことをサビとは言ったりしないし山もタルではない
高句麗や濊狛がツングースだとかいう説があるがあれは絶対違う
勿吉や挹婁とは言語が違うとあるし
仮に共通してる部分があったとしても伝播の方向は間違いなくこちら側(朝鮮半島)からあちら側(ツングース)だ それはお前の願望だろ
中国の史書で倭と同類の言語とされる民族はおらんしな それもぽまえの願望である
三国志鮮卑伝に登場する烏侯秦水(内蒙古)の東に居住する「汙人」は
三国志集解にて倭人のことだと注釈がなされ
後漢書では「倭人」と改められている
汙と濊は意味と音の双方が通じる
そして濊は高句麗や百済と同じ扶余系の民族であるとされている
これ即ち倭と扶余とが混同されえた程度には類似していたことの証拠だ フィンランドのフィンはフンに、フンは匈奴に通じる
よってフィンランド人=匈奴だ 南北朝鮮の国境をGoogleマップで地形の違いに着目して見てみるといかにもちゃんと国同士が戦争して決めましたって感じの自然な国境になっててクソ笑える
遼東からの延長で騎馬で簡単に征服できる平原が西部に広がる北と、山と川で分断された南
きっと帯方郡と馬韓の境界も38度線に近い形だったに違いない >>408
被征服者→征服者 という伝播もあるぞ
扶余がツングース系遊牧民を支配した結果扶余の言語がツングースの影響を受けたのかもしれない >>413
扶余民族が渤海を建国し、現地民の靺鞨に吸収されて女真が生まれたのか
朝鮮語とツングースの各言語で同源と思われる語彙を見ていって
北へ行けば行くほど減っていく傾向があるならば正しいかもしれない
どこかにツングース語族の語彙を比較したデータ落ちてないかな? 魏志韓伝の国名では現在我々が末子音を-nと読んでいる漢字を実際は-rと読まれていた可能性を想定するべきだね
「韓」は/han/ではなくて/kʰɑ̀r/(上古音/*[ɡ]ˤar/からの変形)と読み、日本語の「カラ」を音写したと考えることができる それにしても朝鮮半島の西側はなんという大地の削れ方の酷さ
主体農法なる無茶をした北朝鮮だけでなく、韓国側も上に木を生やしているだけでかなりの痕跡がある
あんなに侵食されて分水嶺がどこだか分からなくなる程の準平原は日本ではまず見られない
思うに百済の衰退した理由は畑の作りすぎによる土地の栄養枯渇だろう
オリエントやマヤやギリシャと同じ原因の文明崩壊が朝鮮でも起きていたようだ ツングース系の語彙とかろくにわかるわけないだろ
わかるっていうならぜひ女真文字解読してみてくれ >>410
その倭人は論衡や山海経にも出てくる燕の属民だった濊貊の一種だぞ
列島に暮らしていた倭人とは縁もゆかりもない
民族の名称を使いまわすってのは中国ではよくあること >>417
ロシアの言語学者がいくらでも採取して研究してると思うんだが
モスクワ学派とかいってアルタイ語族の実証するために頑張ってたろ
>>418
同じ名前を使うのは区別がつかないから
北東の方に行ったらなんか南方で倭人と呼ばれてる連中と似たような民族がおったで〜
↓
倭に似てるからちょっと変えて汙と呼んだろ♪
↓
汙(きたない)はあんまりにも酷いから濊で許したるわ
だいたいこんな感じ
スー語族の各部族をラコタ、ダコタ、ナコタとちょっとづつ違う形で呼ぶのと似ている ツングース語族は同じアルタイ語派のモンゴルやテュルクの支配を受けていた期間が長く
かつほとんど独自の文字を持たなかったため女真やそれ以前の靺鞨がどのような言語体系を持っていたかはわかっていません >>419
>同じ名前を使うのは区別がつかないから
めちゃくちゃな理論だな
沖縄も台湾も琉球と呼ばれていたけど文化的にも人種的にも全然べつもんだろ
>北東の方に行ったらなんか南方で倭人と呼ばれてる連中と似たような民族がおったで
そんなことどの史書に書いてあるんだ?どこに倭と扶余が似ているなんて記述があるんだ?
あったら>>410みたいな強引なアクロバティック論法使う必要ないよな >>420
北の果てに住むエベンキやラムートがモンゴルの支配を受けていたなどとはほとほと聞かないなあ
まずツングース系民族の居住地域から勉強しなおそうか?
http://www.chrismary.com/languagekeyboard/resource/tungusic/tungusicmap.gif
>>421
>沖縄も台湾も琉球と呼ばれていたけど文化的にも人種的にも全然べつもんだろ
さては先島諸島には縄文文化が来ずに台湾と共通する文化があった事を知っていないな?
ある時点まで中華文明が認識できる範囲の(宮古諸島以北を含まない)琉球諸島は台湾と言語的にも文化的にも区別が付かなかったんだよ
列姑射在海河州中。
射姑國在海中,屬列姑射,西南,山環之。
これは山海経にある文章なのだが、
「列姑射」を「琉球」の前身(=台湾)
「射姑國」を先島諸島だと考えると地理関係が一致する
山海経の書かれたのは紀元前4世紀〜3世紀
先島諸島は無土器文化になっており、本土の弥生文化とは別物、明らかに台湾の方が近い
なお人種に関しては人骨の遺伝子を調べない限りははっきりとはしないがそういう研究はされてないと思う >>422
>北の果てに住むエベンキやラムートがモンゴルの支配を受けていたなどとはほとほと聞かないなあ
エベンキやムラート、オロチョンは長らくモンゴル系のダウール族の支配下にあって
索伦汗国の被支配層をともに構成していたのですが勉強すべきはあなたのほうでは?
>>422
>先島諸島には縄文文化が来ずに台湾と共通する文化があった事を知っていないな
それは先史時代の話でしょ
そんな遠い昔のしても意味ないです
>(宮古諸島以北を含まない)琉球諸島は台湾と言語的にも文化的にも区別が付かなかったんだよ
南琉球方言と台湾諸語とを同一系統とする学説は寡黙にして知らないのですが
あなたの空想ではなく紀要なり研究書なり明確な根拠を示せますか? >>423
>>422は紀元前の話をしてるんだと思うよ >>423
それはかつて私がこの板に貼った中国語サイトの情報だ
エベンキやラムートはシベリアの奥地北極海の近くやオホーツク海北岸にまで分布する民族であり、
ソロン汗国は内蒙古の北東の端のあたりを中心とした部族同盟にすぎず、エベンキなど北ツングース諸民族の言語の確立した時代よりもずっと後にすぎない
>>425
そうだよ
先島諸島の住人が紀元後のある時点まで日本語族話者ではなくオーストロネシア系だった可能性は考古学的に見ても濃厚なんだよ
http://ac.jpn.org/kuroshio/pinzaabu.htm
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/400000/410000/410400/bunkazai/yaeyamakouko/yaeyamakouko003.pdf
https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=24692&item_no=1&page_id=13&block_id=83 エベンキってソロン汗国の前にも遼や元にも支配されてるよね
靺鞨の安車骨部→生女真→エベンキ族だったはず
最僻地のウィルタやニブフや樺太アイヌも元に支配されてるし
モンゴルの支配を免れたツングース民族はいないはず >>427
で?モンゴルがラムートの住んでるマガダンまで行ったという証拠は?
考古学文献学言語学的証拠を示せないなら単なる妄想以外の何物でもない https://goo.gl/maps/SzrxxwykByp
エヴェン人(ラムート)の住んでるエヴェンスクはここだから
モンゴルが支配したというならこんな外興安嶺を超えた先の先まで実際に来た証拠とこんなクソ寒くて人間ほとんど住んでないとこ支配するメリットについての説明よろしく エヴェン人がそこまで到達したのはずっと後だろ
靺鞨文化圏のトロイツコエグループが北端でそこより北は13世紀にサハが移住するまで無人地帯 >>419
>同じ名前を使うのは区別がつかないから
はぁぁぁぁ?
倭人みたいな貫頭衣着て東北三省に冬に行ってみてくれよ
一日ともたずに凍死するから >>425
話かみあってないな
琉球という名称ができるずっと前にほろんだ連中の話持ち出して
>琉球諸島は台湾と言語的にも文化的にも区別が付かなかったんだよ
の根拠になるんだ >>430
ソロン、モンゴルはそれよりも後
時系列を理解できないほど知能が低いということは
もしかしてお前射精エベンキと呼ばれているコピペ荒らしか?
>>431
夏はシベリアでも暑い
以上
>>432
上古音で発音すると近い
故に前身であることは間違いない 射精エベンキ(自称白馬青牛)と分かったのならマジレスは与えてはならない
鑑真しか知らない太平洋を丸木舟で渡れると思っている知的障害者に居場所はないからだ
うんこっこ >>433
ばかじゃね?
夏以外はどうやって過ごすんだよ >>436
一か所しか出てきていないということは一度しか見たことがないということ
その季節は夏だったが故に倭人と区別の付かない格好であった
また檀石槐は鮮卑族であるため日本列島の倭人がどの様な暮らし向きなのかなど知る由もなく
朝鮮半島に進出してきていた倭人にそっくりであったため彼らを汙人と呼んだ
少なくとも扶余系民族は朝鮮語よりも日本語に近い乃至は朝鮮語と日本語の中間の言語を話すことは定説であるし
漁労を得意としている点で汙人と倭人は共通している >>433
時系列を理解できてないのはお前だろ
今のエベンキやエヴェンと元となって集団は昔はずっと南にいて生女真の五國部を形成していた
アムール川以北まで到達したのは遼の支配が終わってずっと後の事
それ以前にもモンゴル系の室韋との間で通婚を繰り返していたからモンゴルの影響はずっと受け続けている >>433
>また檀石槐は鮮卑族であるため日本列島の倭人がどの様な暮らし向きなのかなど知る由もなく
>朝鮮半島に進出してきていた倭人にそっくりであったため彼らを汙人と呼んだ
史書のどこにそんなことが書いてあるんだ
檀石槐がどうやったら朝鮮半島の南端にしかいない倭人が見れるんだよ >>438
通婚は支配ではない
クリミア・タタール人はポロヴェツ人だった時代からルーシと通婚を繰り返しているが独自の言語を失っていない
女真族だった範囲は言語学的に見て明らかに北ツングースを含んでいない
エヴェンキ語の分岐年代は1500年前、女真、女直なる名称の成立するはるか以前である
https://books.google.co.jp/books?id=pCiNqFj3MQsC&pg=PA205&lpg=PA205&dq=%22tungusic+languages%22+yrs-ago+diverge&source=bl&ots=Z4qWu-9zF1&sig=KEuaPnWCcoevASiRVsmIwj5U7cc&hl=ja&sa=X
&ved=0ahUKEwjB2aaIubHNAhXMFpQKHUmQCtEQ6AEIJTAB#v=onepage&q=%22tungusic%20languages%22%20yrs-ago%20diverge&f=false
さらにエヴェン語は他の北ツングースよりも古くに分岐しているので
もっと以前となる
そうだ
興味深い論文があったぞ
北ツングースとエスキモーは古く見積もって2000年前に接触があり、借用語があるそうだ
http://booksandjournals.brillonline.com/content/journals/10.1163/1573384x-20150107 >>439
帯方郡は南端ではない
三国史記にある朝鮮半島西岸の地名は平壌あたりまで行っても明らかに日本語の影響を考えなければ説明が付けられないレベルで朝鮮語からかけ離れて日本語に近接したものが多い 高句麗って別に遊牧民族ではないんだな
それどころか満州の平野部にいた扶余でもバリバリの農耕民だし
3世紀ごろは温暖だったから満州の山奥でも農耕していた
鴨緑江沿いにいたころの高句麗にはむしろクルド人みたいな山岳民族のイメージがある 少数の高句麗人が多数の遊牧民や農耕民を支配してたって事だろ 農業しながら馬も育てておくスタイルにはチベット人に通じるものも感じさせる
寒くて乾燥しているが農業ができない程でもないところに住む山岳民族は皆そうするものなんだろうか http://i.imgur.com/Jz7zklI.jpg
これはさきほど私が完成させた
三国志魏書で言及される順番が地理的関係(一筆書きができる)だと仮定した場合のの三韓と倭の国々全て(+楽浪・帯方郡の県)の予想図だ
何か感想をくれ
なお、この図を作るにあたり以下の先行研究を大いに参考にさせていただいた
先人たちに感謝
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/5420/
http://www.geocities.jp/pikupopodemi/rekisi/index.html 高句麗の支配民で遊牧民はいない
扶余も沃沮も濊貊も靺鞨も新羅も百済も遊牧民の影響を受けて着物が左衿だったり君主号も遊牧民風だったりするけど
全て農耕民 『三国志魏書』高句麗伝:「其馬皆小、便登山」
馬は持ってたが別に馬乳酒を作るとかはないだろうな 「隋書」新羅伝
風俗、刑政、衣服、略與高麗、百濟同。
「新唐書」渤海伝
餘俗與高麗、契丹略等
「隋書」北狄伝
室韋,契丹之類也。其南者為契丹,在北者号室韋
というわけで風習や服装
高句麗=百済=新羅=渤海=契丹=室韋
このうち遊牧民だったのが明白なのは契丹と室韋 >>448
>新羅=渤海
それは絶対にない
渤海は高句麗と靺鞨との混合であるし
その等号は時代の経過による文化の変化を全く考慮していない 気になるのは渤海人は辮髪してたのかなってこと
高句麗はしてたよね >>451
してません
>>449の右から2番目の高麗國が高句麗な >>453
辮髪よりも我が国の月代を思い起こさせる剃り方だな 武士はどうなのか知らないが、金属製の刃物は遼寧式銅剣がルーツということなのであながち大外れとも言い切れない 石包丁で髪の毛を剃るのは厳しいものがあると思うんよね
だから東アジアのスキンヘッド文化は遼河文明発祥ってことでいいんじゃねえ? >>445
この国名ってみんな中国の史書にあるの? http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-benkan.htm
みんなある
全部で80、韓国が遼河文明と古朝鮮と楽浪郡から直輸入の「進んだ文明」を持っていた頃のまださほど大地を疲弊させてない頃の姿だ
この状態から古代文明によくある土壌流出による食糧生産の弱体化が起きて寒冷化とのダブルパンチで百済滅亡という文明崩壊にまで追い込まれることになる 朝鮮の大地は縄文時代から酸性土壌だよ
朝鮮が栄えていたのは遊牧と漁業と貿易と製鉄であって
農業では無いよ ちょいと待った
昔も今も、旧百済の領域周辺の平野部は穀倉地帯だ
だからこそ比較的小さな領域でも経済力があって三国時代も後三国時代も群雄割拠の一角を占めていた
三国時代末(6世紀初中期)にも、百済の国力そのものはむしろ新羅を圧倒し、軍事的にも大幅な優位に立つ時期が多かった
三国時代末の最終的勝敗要因は、直接的な国力の差よりも、外交戦略の巧拙の差の方がずっと大きい おっとごめん、訂正
「三国時代末(6世紀初中期)」じゃなくて、「三国時代末(7世紀初中期)」だな >>462
だが昔はもっと栄えていた
なんといっても百済は日本よりも前から行政記録を木簡に記録していた訳で
韓国人の言う古代の誇らしい文明は「ある程度」は本当のことだった
昔の穀倉地帯は土地がまだ肥沃だったから
今の穀倉地帯は日帝が土地を痩せさせない水田を拓いたから
間の時代、それは韓国の暗黒時代、李氏朝鮮時代のあの哀れな姿
旧百済の特に忠清道から全羅北道にかけての平野部は恐ろしく削れていて大量の土砂が海に流れ込んだことがうかがえる
セマングムの最初の干拓に至っては4世紀初頭だといわれており、これは仁徳天皇の難波での土木事業より何十年も早い
早くから拓けたということは、技術革新の進んでいない初歩的で非効率なローテクを連発してボーナスを使い切るということ
漢江、東山江の流域はまだ山から栄養ある土が運ばれてマシだった様だけれども、
錦江の下流は本当にひどい
外交がどうのこうのの裏にも金品をどれだけ差し出せるか、どれだけ豪華な接待を使者に行えるかという財政の善し悪しがあり、
どれだけ食べ物を作れるかも国富に関わる重要な要素だった
中華に近い進んだ西側がやがて遅れた東側に圧倒され逆転される
これは日本でも朝鮮半島でも同じだ でも、三国時代の百済末で農業生産力が落ちて国が傾いたのだとすると、
新羅末に(後)百済が名乗りを挙げて実際に数十年もったことが説明できないよ
そもそも義慈王代の中期ごろまで、百済は新羅を圧倒していたんだしさ
最後の10年そこそこで、そんな急に一気に経済力が落ちたとは考えられていないはずだけど >>465
わずか36年だ
日本に支援を要請して断られた
百済は倭の支援を大いに受けていたことを忘れてはいけない
新羅が任那に侵攻を初めてから白村江の戦いまで、倭国は決して戻らない傾きゆく天秤に軍事力という重りを乗せ続けて百済の維持を図っていたんだ >>466
後百済の場合、日本よりも(五代十国当時の江南の)呉越あたりとの外交で支援を要請してた節があるよ いずれにしろ36年という一世代の年月は後継者問題に揺れる時期であり
政権の継続年数としてごく自然で納得のいく長さだ
実際、後百済の創始者甄萱は息子たち2人によって別の息子1人を殺され、高麗に投降する羽目になった いくら土地が肥沃だったとしても唐に目をつけられた時点でおしまいだよ
日本列島と韓国がすっぽり入る規模の四川平野を有していた陳ですら隋にはかなわなかったのに
九州程度の大きさしかない百済ごときがどうこうできる相手ではない http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/45894640.html
>東京を含む関東平野。
>面積は1万6000km平方メートル。
>日本最大の平野であり、外国(全羅道)の湖南平野の面積1200km平方メートルの約14倍ある。
>忠清南北道を合わせた土地が平野だと思えばいい。
関東平野の14分の1とかちぃっっっさ >>401
スレが荒れそうなネタなので申し訳ないが、どうしても引っかかるんだよ。
そこでいう、「馬韓系の在地貴族(豪族)」って、一体何者なんだろうな?
「百済南遷前の、今の全羅道域」について、韓国国定史観による政治的事情から、
日本人の考古学研究者も含めて、みんな、奥歯に物が挟まったような記述をするから、
話がクリアに見えてこない。
百済南遷前の時期において、全羅南道および慶尚南道西半分の領域には、
どうも、真正の倭人(おそらく九州人)の、組織的入植があったように思えるんだよ。
記紀の欽明朝の記述は、ホラ吹きとは思えない具体性を持っている。
日本府の存在ガーという話とは別問題として、大和朝廷の進出のスタイルとして、
あれだけの具体的進出をしたのなら、東北地方南部と同じく、農民込みでの入植と考えるのが自然。
東北への入植は、関東系豪族が関東の農民を引き連れていたことが、土器の分析から明らかになっている。
同じように、西南の豪族が九州の農民を引き連れて海峡を渡ったとしか、思えないんだよな。
この仮説の成否を、一次資料にあたって考えてみるんだが、研究者がごにょるので、どうもわからない。 >真正の倭人(おそらく九州人)の、組織的入植
スサノオだな
根の堅洲国は百済
KaTaSuはKuDaRa、子音の調音点が同じだから同源
紀伊半島の呼邑(コオフ/コイフ/コブ?)国から来たスサノオのモデルとなった倭人の権力者が
馬韓地域の熊成峯=熊津に立って古蒲(コボ/カバ/コバ?)国を作った
そして倭人の権力者たちは「投馬→出雲(イヅモ)」や「躬臣→伊丹(イタミ)・和泉(イヅミ)」や「采女(ウネメ)」と同源の言葉で「主(ニリム)」と呼ばれるようになった
それが三韓の中の「臣」「占」「冉」「兒林」「臨」「如来」「如湛」のつく国々
これらの文字は全部「ニリム」または「トモ」の音写・転訛の音写・意訳と考えられる 隋書によると沙氏、燕氏、氏、解氏、貞氏、國氏、木氏があったとされているけど
このうち沙氏、燕氏など熊津を本拠地とした勢力でおそらく馬韓系とされる 百済に倭系官僚がいたのは間違いないが「書紀」で確認できる限りでは
いずれも5品レベルの奈率が多く百済や馬韓系より下位に位置付けられたと考えられる
実際隋書にあげられた大姓八氏のなかに倭系は一つも入ってない >>474
百済って、本来は「京畿道王国」なんだよね。全羅道はおろか、忠清道王国ですらない。
こいつが、高句麗の圧迫を受けて「南遷する」んだよ。
記紀を素直に読むなら、この「転がり込んできた百済」に対して、
倭国(大和政権)が、全羅南道を分け与えて恩に着せるという外交を取る。
これが、恩に着せたのかただの売国なのかで、倭国朝廷は大論争になる。
実際には、「恩に着せた効果」はあったようで、百済は倭国に全面従属するようになる。
代わりに、倭国は百済に対して、庇護の義務を負うようになる。
これが、7世紀の中大兄の、全く訳の分からない、自滅的外交政策の伏線となる。
この問題は、南遷後の百済の重臣リストをみていても、わからないと思う。
日本のGHQ占領下の歴代内閣を見ても、閣僚にアメリカ人は出てこないのと同じ。
なお、記紀を否定するというのなら、この限りではなくなるけどね。 >>475
横からレスするけど、
日本書紀そのものが、内容全体としては、
旧百済系の人達が編纂に大幅に関わったと充分考えられるくらいに百済万歳路線の記述になってるわけでさ。
日本書紀を完全否定するつもりは全く無いし、むしろ極めて重要な文献だと思うけど、
その一方で、それこそ三国史記とか隋書とか旧唐書とか新唐書とかと突き合わせた読み込みをしてみないことには
実態と乖離した解釈に陥りかねないよ。
百済に日系の移住者が或る程度住んでいたとしても、それが即、全て大和朝廷の命によるものかと考えたら、それってどうなんだろうかと。
(そもそも、大和朝廷が送った軍が白村江で壊滅的な惨敗を喫した後になってから、天智天皇はその危機を逆手に取る形で集権化を進めていってるでしょ。)
たとえば九州や中国地方の在地豪族の関係での移住とか、或いはそういった勢力内での争いから逃れて移住したというグループがいたって不思議ではないんだしさ。 >>473
解氏とかについては、漢城時代から三国史記に登場する家門だから扶余系だったと見られてるね。
熊津遷都後に解氏と他の貴族の間での強烈な争いが起こったあたり、
全体的な流れとして、首都の南遷に伴って扶余系から韓系への実権の移行が進んでいった感じだね。 百済と馬韓が二重並列的に存在したのは間違いないと思うが
宋書倭国伝の倭王武の称号でも百済と慕韓が別個の存在として分けて記されているし
>>476
書記で確認できる倭系百済官人は物部、許勢、紀の中央の三氏と信濃の科野氏のみで
やはり大和王権の意向によるものと考えるのが妥当かと 扶余系は百済が慰仇台に率いられた建国当初からいた連中で
韓系はそれ以降に百済に支配された馬韓系勢力のこと 馬韓に居たその他大勢をまとめて韓系と呼んでいるわけですね その他大勢をまとめてっていうわけじゃなくて、
(扶余系ではない)敢て言えば現在の韓国語に比較的近い言語を使っていた集団が韓系かと >>479
>物部、許勢、紀の中央の三氏
この記録って書紀のどこだっけ
「信濃の科野氏」とあるけど、たしかこれは音写の当て字だよね
しかもいつどういう事情で百済に行ったかは全く不明だから、即断はできないような 「紀」に見える百済の官位を帯びた倭人は以下の9人しかいない
紀臣彌麻 奈率
物部連用奇多 奈率
許勢奇麻 奈率
物部歌非 奈率
物部奇非 奈率
科野次酒 徳率
科野新羅 奈率
物部烏等 奈率
物部莫奇武連 達率
物部莫奇武連だけやったら位階が高く東方の方領を任されていたが他は奈率がほとんど
科野次酒は内臣だったというわりに来歴はよくわからん
同じ東国系の佐伯連と行動を共にしていた形跡がある 475です。
熊津自体は忠清道で、(韓国公定史観の干渉を受ける前の)日本側旧通説においても、
古墳期の倭人進出の北限(より更に若干北)にあたるから、
この地域の在地豪族が、倭国と無関係だとしても、それは当たり前だと思うんだ。
「馬韓系云々」というのが、忠清道の土豪首長だというのなら、>>401には特に疑問点はないよ。
全羅道?と読めたから、ひっかかったのであってw
古墳期の倭人の進出の痕跡は、全羅南道と慶尚南道西部に集中していて、北上に手こずった形跡がある。
多分、倭人の農法が気候に合わなかったのだろう。仙台付近で北上がストップした東北地方の事例とよく似ている。
結局、最後の最後まで、百済は全羅道を完全な地盤に出来なかったのだ、とするなら、
それはそれで筋の通った議論ではないかと思う。
ただ、アルシタリ、オコシタリ、ムレなどと(日本側で)訓ずるあの地域が、
いったいどんなエスニック的状況に置かれていたのかは、興味深いところではある。 http://i.imgur.com/MovtBYn.jpg
比定した三韓の国名を倭系(赤)・韓系(青)・倭韓共通(紫)・どちらでもない(黄)に塗り分けた図
なお「臣」は百済語「ニリム」の意訳、「イヅモ」「イヅミ」「イタミ」などの同系で倭系由来だとみて赤に塗った
思った通り倭人は帯方郡までの足掛かりを作るかのように南から西に向かって北上している 【ゲスウヨ】 ハイ、予告通り、欧米から経済崩壊、最後のトドメは、バカウヨの望む中国からの・・・ではなく、日本からの株式大暴落www(笑) 【カスウヨ】
マイト レーヤの出現のタイミング
近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。崩壊によって生じる現実感覚が、マイト レーヤが待っておられる要素の一つです。
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。 来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
日本国民はどう対処すればいいのか。
新しい政権は民意を反映し、適切な食糧、住宅の供給、健康管理、教育が最も重要な責任となるでしょう。そして最後に防衛です。
抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。自由貿易はよくありません。物は需要がある場所で生産されるべきだからです。
民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。(安倍ちゃんサヨナラ笑) http://nihonsinwa.com/page/1681.html
>上部奈率物部烏(シャウホウナソチモノノベノカク)
ほほう
百済語でカラスのことを「カク」というのか
百済語と新羅語じゃ違いがあるから起源とまでは言えんけど
朝鮮語だとカラスは「까마귀 kkamagui」だから
「カク kak」と「까 kka」とで元が一緒なんかも ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 太古の中国に発祥した辰国は、前一千年紀に亘って燕山山脈の南→燕山山脈の北→遼西→遼東→朝鮮半島という経路を辿って移動し、鏡と銅剣に代表される特徴的な青銅器文化を開花させました。
倭とは弥生中期初頭に時の辰王家であった 「安冕辰沄(あめしう)氏」の分派が北部九州に建てた国です。
「韓」〔の語〕は本来、辰国の領地を意味する普通名詞であり、南部朝鮮半島(朝鮮半島南半部)を指す固有名詞ではありません。
かつて南部朝鮮半島に韓族という種族は存在しませんでした。
南部朝鮮半島は多くの日本人の祖先となった人々の故地であり、百済・新羅の東北アジア系騎馬民勢力の南下侵入を許す迄、濊族や孔列文土器人〔の流れを汲む集団〕や「辰族」や倭人などのフィールド(活動領域)でした。
古代朝鮮半島の文化をなんでも今日の朝鮮民族の祖先の文化とするのは誤りです。細形銅剣を代表とする朝鮮半島の東北アジア系青銅器文化は「安冕辰沄氏」の辰国の文化であり、日本人の祖先となった人々の文化です。
また、古代の朝鮮半島から渡来して日本人の祖先となった人々を今日の朝鮮民族と同系とするのも誤りです。
朝鮮民族の形成要素が朝鮮半島に出揃うのは、百済や新羅の後を追って高句麗が南下する紀元4世紀を待たねばならず、その形成が本格化するのは統一新羅の成立(676)を受けての紀元8世紀以降となります。
「白村江の戦い」(663)を境に朝鮮半島の均質化(標準化)が進み、朝鮮半島は次第に朝鮮民族の国となっていきます。中国正史に記述された紀元3世紀以前の古韓の歴史は辰国の歴史であり、日本人の祖先となった人々の歴史であるといえるのではないでしょうか。
そう理解すると、『魏志』や『後漢書』の韓伝に記述された古韓の文化や習俗は、もっと身近に感じられるはずです。
辰国精神文化の神髄ともいえる「鏡:日神体(かかみ)」を「日神(かか)」の御神体とする祭儀は脈々と受け継がれ、我が国においては今日なお、その流れを汲む祭祀が奉斎され、人々の暮らしと心情に深く根ざしています。
日本は辰国の遺風を伝える唯一の国であり、日本人の精神文化において、辰国はその残映を鮮やかに放ち続けているといえましょう。 東京よりホワイトハウスへ打電:
古代、中国の朝鮮半島の乗っ取り方法。
新羅は、朝鮮半島内の中国人地域。送り込んだわけではなく、中国から逃げて来た人達が住んでいた。
中国は新羅と組んで、高句麗・百済を滅ぼす。内と外からの攻撃。
現在、日本国内に中国人が急増しています。中国は長期的視野のある国です。
沖縄について。日本の人口は減っていますが、沖縄の人口は増えています。
どのタイプが入り込んでいるのか、日本政府に確認を求めて下さるよう申し上げます。
日本政府は、バトル・オブ・リバティー(リバティーのスペル、忘れた)に協力すると思います。 【突拍子もない】文在寅大統領の「伽耶史復元」指示、韓国学界からは批判の声[6/11] [無断転載禁止]©2ch.net
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